歌舞伎入門 役者がわかる! 演目がわかる!

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江戸歌舞伎の歴史は、東京・京橋で・・・今から400年前に始まりました。
今に続く歌舞伎・・・その人気の中心には、江戸の大スター・市川團十郎がいました。

歌舞伎の始まりは・・・慶長年間に、出雲大社の巫女と言われる阿国が京都の北野天満宮の境内で行った歌舞伎踊りが発祥と言われています。
ちなみに、歌舞伎は傾奇者(かぶきもの)からきています。

この踊りをまねて登場したのが、「遊女歌舞伎」でした。
京都の遊女屋が客集めのために始めましたが・・・
1629年風紀が乱れるということで、女芸能禁止となりました。
舞台から女性が追われ・・・「若衆歌舞伎」という前髪を残した美少年による歌舞伎が流行るのです。

振袖を着て舞う艶やかな若衆・・・。
しかし、この若衆たちが、大名や旗本たちの男色の対象となっていたので・・・
1652年若衆歌舞伎も禁止となりました。
翌年・・・前髪のある若衆を出さないということを条件に再開された歌舞伎。
「野郎歌舞伎」と呼ばれ、これが主流となっていきます。

初代市川團十郎は、1660年侠客だったという堀越重蔵の子として生まれ・・・幼名を海老蔵といいました。
当時、江戸で人気が出始めていた歌舞伎に興味を持った海老蔵は、11歳で役者としての修業をはじめ、2年後には中村座で初舞台を踏みます。
演目は「四天王幼立」で、金太郎の役でした。
紅と墨で顔を隈取り、大柄で荒々しい立ち回りで好評を得・・・荒事の團十郎の完成です。

その卓越した演技に・・・
”お江戸に於いて、肩を並ぶる者あらじ
 おそらくは、末代の役者の鑑とも成るべき人なり”
と、絶賛されました。

團十郎にも悩みが・・・跡継ぎです。
故郷であり、深く信仰していた成田山新勝寺で子授け祈願をしたところ、1688年男の子を授かります。
久蔵・・・二代目團十郎です。
團十郎は、新勝寺に現代の価格に換算して1000万円と、大鏡を寄進しています。
これが縁となり、市川家は成田山にちなみ、屋号を”成田屋”としたのです。
さらに・・・「成田山分身不動」という演目を書き上げ成田不動尊の出開帳とタイアップし、3か月の公演をは大成功し、團十郎の人気と名声とは不動のものとなるのでした。

どうして初代團十郎が人々の人気を得たのか?
たくさんいた荒事師の中で、團十郎が確固たる地位を築いたのは・・・
それは、宗教的な権威、不動明王の役をやったりという寺とのタイアップが團十郎の地位を高くしたのです。
つまり・・・成田山の篤い信仰と同じように團十郎が神格化され、カリスマ化していったのです。
そして、團十郎はヒーローしか演じませんでした。

1704年2月19日市村座での芝居中・・・
演じていると・・・一人の男が飛び出してきて・・・團十郎を刺殺してしまいました。
襲ったのは、同じ一座の生島半六で、理由は團十郎に自分の息子を虐待されたとか、女性問題とか、借金を巡るトラブルと言われています。

突然の死によって・・・5か月後わずか17歳で、二代目市川團十郎誕生!!
しかし、その評判は今一つ・・・厳しいものでした。
二代目團十郎は、小柄で声も小さかったので、荒事に似合わなかったのです。
苦境に陥った二代目に手を差し伸べたのは・・・歌舞伎役者の生島新五郎です。
生島は、初代團十郎を殺した半六の師匠で、負い目を感じていたのです。
容姿端麗な生島は、和事の名人と言われていました。
和事とは、色男の恋愛を演じるもので・・・二代目團十郎は、この優雅な動きを取得しました。
荒事と和事を融合させていきます。
代表作となったのが、助六でした。
親の七光りではなく・・・実力を証明し、受け継いだ市川團十郎の名跡を守ったのです。

しかし・・・試練が・・・!!

生島新五郎と大奥御年寄・江島とのスキャンダル!!
関係者が処罰された江島生島事件!!
この時、生島と同じ舞台に出ていた二代目團十郎も窮地に・・・!!

江島は團十郎の気を引くために、杏葉牡丹柄の小袖を送ったことがあったからです。
二代目團十郎はこれを拒否したために、江島とは無関係であるとして、連座は免れたのです。
この時、二代目團十郎が捕まっていれば・・・歌舞伎の歴史は変わっていたかもしれません。
二代目團十郎は、助六を精進させて・・・市川家のお家芸となっていきます。
千両役者は二代目團十郎に始まったと言われています。

そこに目を付けたのは、大店の商人たちでした。
商品を売るために歌舞伎を利用します。
初めて宣伝に利用されたのは、1715年の中村屋。
二代目團十郎演じる虚無僧が、寿の入った網笠を被って登場!!
さりげなく「寿の字越後屋」の宣伝をしたのです。

芝居のセリフにも・・・
1718年二代目團十郎が「外郎売」を初演。
外郎とは、小田原で売られている胃痛・腹痛・嘔吐に効く常備薬のことです。
台詞にその製造元、名前の由来、効能などが入っています。
それは、歌舞伎と商売の相乗効果でした。

その集大成が・・・「助六由縁江戸桜」。

この中で、遊郭の暖簾、白酒、朝顔煎餅、うどん屋・・・馴染みの店を随所に登場させ・・・
観客たちも引き込まれて・・・その商品も売れていきました。
役者絵、かつらつけ、着物の柄・・・
市松模様は、1741年初代佐野川市松がこの衣装を着て、女性に大人気となりました。
化粧や髪形によって役も違い、その分りやすさも、人気に拍車をかけました。

真夏にその客席の蒸し暑さから、客が激減し・・・
そこから知恵を絞って思案したのは、初代尾上松緑と狂言作者の鶴屋南北でした。
考えついたのは。。。「天竺徳兵衛韓噺」
化け物や水を使った奇想天外な演出で、客に暑さを忘れさせます。
四谷怪談では提灯抜け・・・そのほかにもたくさんの演出で客を飽きさせません。
二枚目、三枚目、十八番・・・みんな歌舞伎から出てきたことです。

しかし・・・危機が・・・1841年水野忠邦が天保の改革を断行します。
奢侈禁止令によって、衣食住全てにおいて、贅沢が取り締まられていきます。
江戸三座は、猿若町に強制移転されます。
1842年4月6日・・・七代目海老蔵は手鎖の上、家主預かり。。。江戸十里四方追放となってしまいました。

江戸を追放された海老蔵は、”成田屋七左衛門”と改名し、成田山新勝寺の延命院で過ごし、厳しい生活を余儀なくされました。
窮屈な生活に耐えられず・・・地方を旅しました。特赦となった後も。。。

江戸は・・・天保の改革で客足が減り危機的状況を迎える中・・・
八代目團十郎は・・・面長な美男子で、粋で上品で色気があると絶大な人気を得ます。
新しい役どころも開拓し、人気は不動のものになっていきます。

1854年8月6日・・・大坂で・・・八代目市川團十郎が32歳の時、まさに舞台初日の朝・・・自殺してしまいました。
それは・・・父・七代目が大坂の興行主から多額の借金をしたことで、その興行主が肩代わりとして大坂で芝居をするように迫りました。
親思いの八代目は大坂に来たのですが・・・贔屓にしてくれていた江戸の人に挨拶もなしに出てきたことを苦にして自らの命を絶ったと言われています。
真面目さ、律義さが仇となったのですが・・・それは人々にとって衝撃でした。
八代目團十郎の人気は死してなおとどまることを知らず・・・絵だけで300種類もだされたと言います。

江戸三座は・・・猿若町に集められたことで、活性化されていきます。
人々は贔屓の常連となり・・・追っかけとなっていったのでした。

スターの活躍・演出の面白さ・役者と観客の一体感・・・それが、歌舞伎人気の秘密なのです。


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