岩手県北上川の中流に位置するのが平泉・・・ここに、平安時代後期、黄金の国ジパングのいわれとなる大都市がありました。
その繁栄を築いたのが、奥州藤原氏です。

1124年上棟の中尊寺金色堂・・・繊細で美しい螺鈿や透かし彫りの金具に蒔絵・・・平安時代後期の技の粋を集めた国宝建造物第一号です。
そんな金色堂を含む中尊寺を建立したのが奥州藤原氏初代・藤原清衡です。
最盛期には、10万人の人が暮らし、京の都に迫る大都市でした。
その礎を築いたのが初代・清衡です。
清衡が国づくりを始めたことで、奥州藤原氏と呼ばれることとなりました。

奥州藤原氏は、いかにして誕生したのでしょうか?

1056年、清衡は、陸奥国に生れました。
家は、藤原鎌足の流れをくむ藤原北家・・・の地方豪族でした。
京では、藤原道長の子で平等院鳳凰堂を造営した頼道が摂関政治を行っており、朝廷は全国を支配する為に全国に国司を派遣、国司は国府と呼ばれる行政機関で政や軍事を執り行っていました。
そんな国司に仕える地方官僚だったのが清衡の父・経清・・・陸奥にあった多賀城に努める国府でしたが・・・
1051年、陸奥国で前九年合戦が起こります。
事の欲店は、今の岩手県奥六郡の安倍頼時が義務だった税を滞納し、さらに勢力拡大を画策したことでした。
危機を感じた朝廷は、武家で河内源氏を束ねていた源頼義を陸奥国司として派遣!!
これでおとなしくなった安倍氏でしたが・・・しばらくすると反旗を翻すのです。
清衡の父・経清は、国府の在庁官人だったので、国府軍につきますが、国府頼義に普請を抱いたことで、突如安倍頼時に寝返ります。
それには、経清の妻が頼時の娘で、清衡の父だったことも大きな理由です。
こうして経清の加わった安倍軍は優勢に・・・。
ところが、国府軍が山北三郡を支配していた清原氏を援軍につけたことで戦況は一変!!
1062年9月、厨川柵の戦いで安倍氏が滅亡。

安倍氏の味方に付いていた経清は、裏切り者への恨みからか、わざと錆びた刀で苦痛を与えられながら斬首・・・。
この時、清衡はまだ7歳でした。
清衡も処刑されることろでしたが、母が敵将の清原武則の嫡男・武貞の後妻に迎えられたことで養子となりその命を救われたのです。
この時、清原家には真衡という長男がいました。
さらにこの後、母が清衡の弟となる家衡を産みます。
清衡は、父の仇でもある清原の性を名乗りながら、血のつながらない兄、父の違う弟という複雑な過程で大きくなるのです。
そんな中、清衡は新しい大きな波にのまれることに・・・。

1083年、清衡28歳の時、再び奥州で戦乱が起こります。
清原家の当主となっていた真衡と、長老・吉彦秀武との間で内部抗争が勃発!!
後三年合戦です。
争いは、清原真衡の急死により、いったんおさまったかに見えましたが、今度は、清衡の義父弟である家衡が、真衡の所領分配に不満を示し、清衡の暗殺を計画!!
屋敷を襲撃し、清衡の妻・子・一族郎党を皆殺しにしてしまうのです。
暗殺何とか免れた清衡は、新たに派遣された陸奥国司源義家に家衡討伐を訴え、共に挙兵!!
1087年金沢柵で家衡を討ち取るのです。
ここに、清衡の育った清原氏が滅亡!!
これにより、欧州で権力をふるった安倍氏、清原氏が滅亡!!安倍氏と清原氏の縁者であった清衡が、支配地を継承したことで、奥州藤原氏となったのです。
国づくりを始めた清衡は、44歳の時に豊田館から30キロ南にある平泉に自らの拠点を移します。
そこで行ったのが、仏教に基づいた仏教立国でした。
どうして仏教だったのでしょうか?

その理由の一つが度重なる戦乱で亡くなった敵味方の区別なく、更には皆平等に浄土に導きたい・・・。
誰もが極楽浄土に行ける国を造りたかったのです。
さらに、もう一つの理由は・・・仏教は当時の最先端の文化でした。
陸奥国司と対立しないための、清衡の戦略でした。
陸奥国司との戦の末に、母方の安倍氏が滅んだ歴史を踏まえ、国司との対立を避けるために、仏教を重んじる平和な国をアピールしようとしました。
そして清衡は、その晩年をその平和都市建設に注いでいきます。
手始めに行ったのが、関山での中尊寺造営でした。
40基もの仏塔をはじめ、最盛期には300を超えたと言われる一大伽藍を20年もの歳月をかけて整備します。
中でも、二階大堂は、巨大な阿弥陀像が9体も納められる当時の日本では類を見ない壮大な建築物でした。
さらに清衡は、中尊寺の傍に阿弥陀堂(のちの金色堂)を作ります。

1128年、清衡はこの金色堂の中で、「百日後に入滅する」と、自らの死を予言したのです。
そして念仏を唱えながら、予言通りに100日後に無くなったのです。
73歳でした。
清衡の遺体は、金色の木棺に納められ、金色堂の須弥壇の真下に安置されました。
奇跡的な往生を遂げた清衡を、平泉の守護神とあがめるようになっていきます。
1950年に清衡のミイラを調査された結果、脳疾患による半身不随だったのでは?と言われています。
指揮を悟っていたのかもしれません。

その後を継いだのが、清衡の子・2代基衡でした。
岩手県平泉にある毛越寺。
その多くの伽藍を造営したのが、二代基衡でした。
本尊は、本堂に安置されている薬師如来像。
現在の高さはおよそ1.4mですが、基衡が当時造らせたものは、2.4mあったと言われています。
しかし、その制作から安置するまでには多くの困難が・・・
朝廷の時の権力者・鳥羽法皇が大反対したのです。

基衡は、薬師如来像の制作を京都の仏師・雲慶に依頼。
しかし、プライドの高い都の仏師に像を作ってもらうのは、容易なことではありませんでした。
野蛮な民とされていた奥州からの依頼・・・
そこで基衡は、贈り物をします。
奥州は砂金の産地でした。
特に、奥州藤原氏の支配地には、多くの採取場所があり、そこからたくさんの砂金が取れたのです。
そして、馬の産地でした。
蝦夷地との交易も盛んで、矢羽根(鷲の尾羽)、馬の鞍(アザラシの皮)などが容易に手に入りました。
北上川の水運を利用して中国とも交易していたため、宋の最新の文物まで手に入りました。
そんな品々を、完成までの3年間に大量に雲慶のもとに・・・。
その甲斐あってか、雲慶が仕上げた薬師如来像は素晴らしいものでした。
たちまち都の評判に・・・噂は鳥羽法皇のもとへ届き、実物をその目で見た法皇は、
「これほどの仏像、決して都から持ち出してはならぬ!!」と、仏像の差し止めをしたのです。
基衡は・・・あまりのショックにお堂に籠り、差し止めの撤回を7日7晩祈り続けました。
その後、関白に法皇へのとりなしを依頼。
王首藤原氏は、初代清衡の時代から摂政・関白(藤原北家)などにも献上品を送っていて、時乃関白とも深いパイプがありました。
その関白のとりなしの結果、やっと都から出すことを許されます。
基衡は、奥州藤原氏の財力を生かした贈り物作戦を行ったのです。

基衡は安堵したのか、その後1157年に急死。
跡を継いだのは、基衡の子・秀衡です。
秀衡は36歳で後を継ぐと、無量光院の造営に力を注ぐなど、清衡・基衡の遺志を継ぎ、平和な国づくりを推し進めていきます。
柳之御所遺跡は政庁で、その名は平泉館といいました。
最大の特徴は、巨大な空堀です。
本来の空堀の目的は、馬の侵入を防ぐものです。
しかし、秀衡は、戦の為ではなく、権力を見せつけるために造ったのだと言われています。
そして車宿・・・牛車の車庫の跡もあります。
当時、牛車に乗ることができたのは貴族の中でも位が上の者や高僧でした。
平泉には、たくさんの貴族や高僧がいたことがわかります。

平泉は壮大な都市計画に基づいて作られていました。
平泉の町の中心に位置する金鶏山。
金鶏山の山頂には、奥州藤原氏によって大規模な経塚が営まれ、信仰の山とされてきました。
秀衡は、この金鶏山を中心に都市計画を立てます。
無量光院を金鶏山を西に望む場所に建立・・・年に2回、彼岸の時期に金鶏山に沈む夕日が中堂の真上に来るようにしました。
西の山に沈む夕日は、浄土から来迎する阿弥陀仏の姿・・・
その夕日を拝めば、仏のお導きで必ず極楽浄土に行けるに違いないと考えていました。
平泉の都市全体で、仏教の浄土思想を具現化しようとしたのです。
こうして平和都市平泉は、三代秀衡によって完成・・・奥州藤原氏は、最盛期を迎えます。

しかし・・・遠く離れた京の都で、時代は大きく変わろうとしていました。
この世の極楽浄土とも言うべき平和都市・平泉を作った奥州藤原氏・・・最盛期を迎えた三代秀衡の時代・・・
京の都では、武家の覇権争いで源氏に勝利した平清盛を中心とする平家政権が全盛を極め、その勢力は西日本を中心に拡大の一途をたどっていました。
そこで秀衡は奥州を守るために、平清盛に中国・宋との貿易で必要な金を献納します。
すぐさま、平家との良好な関係を築きます。
その甲斐あってか、1170年、三代秀衡は、朝廷から陸奥国司の次に当たる鎮守府将軍に任ぜられます。
鎮守府将軍は、通常都から派遣された貴族や武士が努めました。
現地の地方豪族が務めたのは、過去に一例でした。
奥州藤原氏の存在が、都の人々に大きなものとして認識されたのです。

しかし、1180年、時代が大きく動きます。
清盛によって伊豆に流されていた源頼朝が平家打倒と挙兵!!
その討伐に、戦力として清盛が期待したのが、関東を支配した頼朝に対抗できる勢力を有していた秀衡だったのです。
頻繁に平泉に使者を送っては、平家が都を動かし源氏追討を要請します。
これに対し秀衡は、慎重でした。
返事はしても、実際には動かなかったのです。
動けなかった・・・??
朝廷からの命令でも、頼朝と戦う見通しがつきませんでした。
うかつには動けなかったのです。
秀衡の助けを得られないまま、清盛は病死・・・
一族の大黒柱を失った平家は、急速に力を失い1185年3月・・・兄・源頼朝、弟・義経の活躍によって滅亡するのです。

ところが、共に手を取り合っていた頼朝と義経の間に亀裂が・・・
義経が無断で朝廷から官位を受けたことで、兄・頼朝が激怒!!
時の後白河法皇に、義経追討令を出すように申し入れたのです。

頼朝から秀衡に直々の書状が・・・
「秀衡殿は奥六郡の主で、私は東海道を統括する惣官。
 お互い水と魚の用事、親密な関係を築くべきでしょう。
 よってぜひとも今年からは、朝廷に献上する馬や金を、私に取り仕切らせていただきたい。」

なんと・・・頼朝は、これまで奥州藤原氏が直接朝廷に献上していた貢物を代わって送り届けると言ってきたのです。
秀衡よりも、頼朝の方が立場が上だということをアピールするためです。
平家亡き後、強大な勢力は奥州藤原氏・・・頼朝にとっては目障りな存在でした。
奥州藤原氏の持つ経済力は、頼朝にとって脅威的なものでした。
1184年に東大寺大仏の再建工事の際、頼朝は黄金千両を寄進しましたが、秀衡は五千両も寄進しています。
その資金力を以て朝廷を取り込まれてしまったら・・・??
秀衡は頼朝の手紙に対し・・・悩んだ挙句に要求を受け入れます。
秀衡の選択は、名を捨てて実を取る・・・頼朝の要求を受け入れることで、頼朝の奥州への侵入を防ごうとしたのです。

1187年2月・・・奥州藤原氏三代秀衡のもとに、源頼朝に追われ朝敵となっていた頼朝の弟・義経が現れます。
義経は、若い頃平家から逃れるために、常盤御前のつてを頼って平泉で生活していたことがありました。
そして、再び奥州藤原氏に助けを求めてきたのです。
しかし、義経はお尋ね者・・・匿えば、秀衡にも罪が・・・
それでも秀衡は義経を受け入れました。
しかし、10月・・・秀衡は病に倒れてしまいました。
指揮を悟った秀衡は、息子の泰衡に・・・
「わしが死んだ後は、義経公を大将軍にして政務をまかせよ」
当時の奥州では、奥州藤原氏の力をもってしても、一つにまとめるのは大変でした。
一枚岩にして対抗するためにも、都の貴族の血をひく義経を金看板にすることが必要だったのです。
義経を中心に、泰衡ら奥州の武士が一致団結しなければ、頼朝から欧州を守ることはできないと秀衡は考えていたのです。
秀衡は、自らの役目を終えたかのように1187年、永遠の眠りにつくのでした。

奥州藤原氏は、四代泰衡に託されました。
泰衡は、頼朝との決戦に備え、義経を中心とする平泉幕府を作ります。
国見峠付近には、3.2キロにも及ぶ長大な防塁を構築し、守りを固めました。
そんな中、泰衡のもとに宣旨が・・・
”義経の身柄を差し出すならば、恩賞を与えよう”
泰衡は、あいまいな返事を送り、時間を稼ごうとしますが・・・
これを知った頼朝が、義経と共に奥州藤原氏の追悼令を出すように朝廷に圧力をかけてきます。
泰衡は、父の遺言に背き、義経の首を差し出すことに・・・!!

「義経を討つ!!」

1189年4月30日、泰衡は義経の館を数百騎で奇襲!!
周囲を囲まれた義経は、館の中にあった持仏堂に入り自刃!!

「これで我が家も安泰じゃ・・・!!」

そう安堵したのもつかの間・・・泰衡の目論見は大きく外れます。
この時すでに頼朝は、奥州攻略の順見を整えていました。義経の首が差し出されても、差し出されなくても、攻め入る構えでした。
4か月後、頼朝率いる1万数千騎の軍勢が、奥州に現れます。
対する奥州藤原氏は、阿津賀志山に防塁を築き迎え討とうとするも、頼朝軍に堀を埋められ、あっけなく突破されてしまいます。
その報告を受けた泰衡は、平泉の舘に火を放ち逃げ出します。
一説にはこれによって、平泉の町が火の海に包まれたといいます。
吾妻鏡には、この時の泰衡の様子を書いています。

”阿津賀志山で大敗したと聞き、あわてふためき、我を忘れ、一時の命を惜しんで、隠れること鼠のごとく”

平泉を捨て鼠のように逃げただけではなく、秀衡の遺言に背いて義経を裏切ったことから、奥州藤原氏の滅亡を招いた無能な武将と言われてきました。
本当に泰衡は無能だったのでしょうか?

無能説
①泰衡が平泉を焼き払って逃亡した
この時、平泉の町全体が炎上したと言われていますが、泰衡が焼いたのは平泉館だけでした。
負けた武将は自ら焼くという作法でした。
②泰衡が父の遺言に背いて義経を裏切った
泰衡は臆病者、無能としているのは、あくまで鎌倉幕府の一方的な評価です。
当時としては、朝廷の命令を実行しただけ・・・当時は朝廷の命令は絶対です。
義経を裏切ったのは、奥州を守るための常識的な判断でした。

決して無能ではなかったのです。
平泉を離れた泰衡は、北に向かい、腹心の家臣だった河田次郎を頼ります。
しかし、頼朝軍に寝返っていた河田次郎によって・・・
1189年・・・奥州藤原氏滅亡。
泰衡の首は、鎌倉へと届けられました。

頼朝が平泉に入ったのは、泰衡が火を放って逃げた翌日でした。
すっかり焼け落ちた邸宅の後に残ったのは倉庫だけ・・・
その中に積み上げられていた莫大な財宝に、頼朝はひどく驚いたといいます。
その後、藤原氏が建立し、整備した平泉の寺を巡礼した頼朝は、その仏教文化のすばらしさに感銘を受け、家臣の御家人・葛西清重に平泉の安全を保つように命じました。
こうして、初代清衡が立てた中尊寺金色堂は破壊を免れ、今もその姿をとどめています。

2011年、平泉の理想世界は、他に類を見ない浄土を表す建築・庭園・および考古学的遺跡群として世界文化遺産に登録されたのです。
奥州藤原氏が守り通した平和への願いと共に・・・!!


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