新品価格 |
京都・大徳寺総見院には織田信長の木像があります。
秀吉が直々に作らせたものです。
この像には、秀吉の天下への野望が秘められていました。
1582年6月2日未明・・・本能寺の変!!
天下統一目前の織田信長が、明智光秀の謀反によって自刃!
紅蓮の炎に包まれた信長でした。が、その後、信長の遺体は見つかりません。
葬儀を行うことが出来ない・・・!!
これを逆手に取った秀吉は、天下への道を進みだしました。
信長亡き後跡取りを決めるための清須会議で、秀吉は柴田勝家を退け、会議の主導権を握ったと言われてきました。
しかし、きわめて不利な状況に追い込まれていたと思われます。
家督を継ぐことになったのは、秀吉が推したわずか3歳の三法師。
ところが会議の後、三帽子の身柄をおさえたのは柴田勝家でした。
織田家の正当性は勝家に握られてしまいました。
秀吉が起死回生の一手として行ったのが、信長の葬儀だったのです。
しかし、葬儀を挙行するためには喪主は誰にすればいいのか??
大問題です。
喪主の候補者は二人・・・信長の次男・信雄か、四男・秀勝か??
秀吉の決断とは・・・??
その度肝を抜く前代未聞の葬儀・・・。
もう一つの天下争奪戦に迫ります。
天下をとるためには、信長の葬儀をしなければならない・・・!!
本能寺の変で織田信長がこの世を去りました。
その頃、織田家家臣たちは、各地で天下統一に向けてまい進していました。
信長討たれる・・・それは、中国を攻めている秀吉にとっては天下を狙う絶好の機会となりました。
秀吉は毛利と和睦を結ぶと、わずか2日で本拠地・姫路に帰還!!
中国大返しです。
本能寺の変から12日後、山崎の戦いで、逆臣・明智光秀を破り、弔い合戦に見事勝利をし、後継者レースに名乗りを上げました。
山崎の戦いから2週間後、織田家ゆかりの清須城で、清須会議が行われました。
出席者は羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興といわれています。
その中で最大のライバルとなるのが、織田家筆頭家老・柴田勝家でした。
織田家の家督は誰にするのか?
信長の領地をどう配分するのか?
長男・信忠は討ち死に・・・あとの三人の息子たちが候補でしたが・・・。
勝家は三男・信孝を推挙、勝家は信孝の烏帽子親で後見人でした。
信孝が継げば・・・勝家に天下が転がり込むかも・・・??
秀吉が推挙したのは、以外にも亡くなった長男の息子・三帽師でした。
生前信忠は、すでに信長から家督を譲られていました。
三歳とはいえ・・・三法師が筋目が正しい!!
三法師なら意のままにできる!!
清須会議は秀吉主導で行われたとされていますが。。。
秀吉の筋書き通り、あとを継いだ三法師。
叔父の信孝は、三法師を貢献すると、岐阜城に留め置きになります。
勝家側に身柄を抑えられてしまったのです。
さらに秀吉を不利にしたのは・・・勝家が信長の妹・お市を娶ったことです。
お市の方と三法師、そして信孝・・・織田家の正当性は、勝家の手の中にありました。
料理問題も予断を許しません。
秀吉は畿内を中心にしているものの、勝家にまわりを押さえられていました。
勝家は、四国の長宗我部、紀州の雑賀・根来を糾合し、反秀吉を掲げていました。
そして、長浜・・・秀吉が築いた町でしたが、清須会議で勝家の領地となっていました。
長浜は、勝家にとっては死活問題にもなる場所・・・
長浜が決戦の地となることは解っていたのです。
1582年9月11日勝家は京都・妙心寺で信長の百箇日法要を行います。
施主はお市の方。
信長につけたられた戒名は・・・天徳院殿。。。
その翌日、秀吉は京都大徳寺で百箇日法要を行います。
施主は、秀吉の養子となっていた信長の四男・秀勝です。
秀吉側は、別の戒名・・・総見院殿をつけ、対抗心をあらわにしました。
終始後手に回っていた秀吉・・・劣勢が続けば、味方も勝家側についてしまう・・・!!
起死回生の一手を講じます。
秀吉が目をつけたのが、信長の葬儀でした。
それまで葬儀が行われなかったのは、本能寺から信長の遺体が発見されなかったからです。
信長の死にはいくつもの話が残っており、墓も各地・・・十七か所にあります。
信長の京都にある菩提寺・阿弥陀寺には、信長・信忠の墓があります。
こちらは遺体を供養するのは当然です。
勝家は葬儀をするつもりはなかったのでしょうか??
百箇日はした。遺体もないし、常識的に葬式は出来ないと考えていたのでは・・・??
正当性を生み出すために、秀吉が行った信長の葬儀・・・
百箇日法要の6日後、織田家重臣・丹羽長秀と会談。
葬儀への協力を要請したようです。
劣勢は挽回できるのでしょうか・・・??
しかし、そこには難題が・・・!!
誰を喪主にたてるのか??
基本的には後継者が喪主・・・跡継ぎなのですが。。。
信孝は勝家側、三法師も勝家の手の中に・・・
残るは次男・信雄と四男・秀勝ですが。。。
信長の葬儀を行うことで天下の道をひらこうとする秀吉ですが・・・
①四男・秀勝
秀吉の養子となった秀勝なら葬儀は思うまま・・・。
しかし、そこには問題が・・・清須会議の際、秀吉は・
「筋目が立てば、下々の者に至るまで不足はない」
と・・・筋目が不可欠と主張していました。
自分の・・・羽柴家の跡取りとなっている秀勝を喪主にしては、筋目が立たない・・・。
②次男・信雄
筋目は立つ!!&勝家とは仲が良くない。
自分の味方となって喪主になってくれるはず。
清須会議の後、信雄は尾張の国主となっていました。
本来なら織田家の家督を継いでもおかしくないので、正当性はあります。
しかし、信雄には問題がありました。
武将としての力量が劣り、織田家の重臣からも疎んじられた存在でした。
そして、信雄が、本能寺の変の際に安土城を炎上させたという噂もありました。
御しやすいが・・・筋目が立つのでいずれは天下取りの敵になるかも知れない・・・!!
事実、信雄は「威加海内」の印を使い始めます。
天下に自らの威を示すという意味で、「天下布武」を模したものでした。
将来、信雄と戦うことになれば・・・”主殺し・逆賊のそしり”を受けることは免れません。
明智光秀の二の舞に・・・??
どうるる・・・・秀吉??
本能寺の変から4か月後・・・秀吉は、喪主に秀勝を立て信長の葬儀を挙行することに決めました。
”信長様は、秀勝を猶子(養子)として下された
従って、秀吉は信長さまの縁者に等しい
葬儀をしないわけにはいかない
今葬儀をしなければ、今後どういった状況の変化があるか分からない”
対する勝家は、非難の書状を送ります。
”四方には、織田家の敵があるという
内輪もめをしている時ではない
軍事行動は控え、四方の敵に当たるのが本筋である
一体誰を敵として こういうことをやろうというのか”
勝家に備え、秀吉は葬儀の警護兵を配置・・・その数2万~3万!!
一方、遺体がないという難問はどうするのか・・・??
秀吉は、等身大の信長像を二体造り・・・一つは大徳寺・・・もう一体は香木で作り、遺体の代わりに棺に納めました。
1582年10月15日、信長の葬儀を、京都大徳寺で挙行!!
これは、前代未聞の葬儀となります。
金砂金襴で造られた棺・・・その中に納められたのは、香木で作られた木像・・・
荼毘に伏された時、都中に香木の香りが立ち込めました。
秀吉か、勝家か、どちらに??・・・しかし、家臣たちはこの葬儀に参加せざるを得ません。
棺の後ろには、位牌を持つ秀勝、その後ろには秀吉が・・・行列は三千人、僧侶の数は宗派を超えて数え切れず・・・見物客は、雲霞のごとしでした。
この時の戒名は・・・”総見院殿贈大相国一品泰巌大居士”・・・
大相国とは太政大臣のことで・・・朝廷からも認められたという証でした。
”見せる儀礼”が秀吉の狙いだったようです。
七日に及んだ葬儀・・・一大イベントにすることで、野心を公けにした秀吉・・・
勝家との決戦は時間の問題でした。
おまけに・・・この一大イベントで京都の人々は、臨時収入を得られる人もたくさんいました。
京都に好景気をもたらしていきます。
庶民には秀吉さまならば!!という雰囲気が・・・!!
葬儀から3日後・・・秀吉の敵対する信孝に向けた書状には・・・
”葬儀のことについて信孝たちに申し上げたが、とかくの返事もなく、勝家など老臣たちも葬儀を営む沙汰もないので、天下の外聞いかがと思い 身分に叶わぬ葬儀を秀吉が行った”
それは。。。葬儀に参列しなかった勝家側に対するあからさまな挑発でした。
信長の葬儀に参列することで・・・あいまいだった立場を持った武将たち・・・丹羽長秀、池田恒興ほか・・・は、秀吉に着くことがはっきりと解ります。
10月15日・・・葬儀の時期は、そろそろ勝家の越前は寒い冬の時期になろうとしています。
大規模な軍を動かすことのできなくなる頃を狙ったのかもしれません。
葬儀の2か月後・・・12月7日勝家の予想を上回る速さで兵を挙げます。
勝家側の長浜城を奪取、岐阜城へ信孝を攻撃!!
遂に、秀吉は三法師を手中に収めることができました。
1583年3月9日・・・これまで雪に閉ざされていた越前から勝家が出陣!!
賤ヶ岳付近であいまみえます。
1か月のにらみ合いの中・・・勝家側の滝川一益と信孝が兵を挙げます。
秀吉は、2万の兵を裂いて岐阜へ向かいました。
背後から勝家軍に挟まれれば・・・??
勝家軍は追撃を始めますが。。。
岐阜へ向かった秀吉軍は、中国大返しの如く52㎞の道のりを、5時間で帰還!!
勝家軍を討ち果たしたのです。
賤ヶ岳の戦いは、秀吉軍の圧勝に終わります。
勝家とお市の方は北ノ庄城で自刃!!
信孝もまた切腹して果てるのです。
ライバル勝家を倒し、天下人への道を上り詰めていく秀吉。。。
遂に、その野望を成し遂げるのです。
秀吉の栄光の影で、葬儀の喪主を務めた秀勝は、葬儀の3年後に病死。
三法師は、後に岐阜城主となるものの・・・26歳でこの世を去りました。
秀吉の野望に翻弄された短い生涯となりました。
天下人となった秀吉は、1598年8月18日62年の生涯を閉じるのです。
その夜、秀吉の遺体は密かに運び出されます。
朝鮮出兵など・・・時代は、天下人の死を公表することを許しませんでした。
秀吉の最期は、盛大な信長の葬儀を挙行した天下人には似つかわしくないものでした。
↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。
にほんブログ村
戦国時代 ブログランキングへ
新品価格 |
新品価格 |