日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:清須会議

琵琶湖の北に位置する余呉湖・・・そこは天女が舞い降りた羽衣伝説が残る美しい湖です。
かつてこのおだやかな湖の周辺で、血で血を洗う決戦がありました。
戦いの主役は後の天下人・羽柴秀吉と鬼柴田と呼ばれた猛将・柴田勝家です。
本能寺の変の直後、二人の重臣が天下争奪をかけて激突!!
賤ケ岳の戦いです。
しかし、戦国合戦の多くが、後世に編纂された史料に基づいているのでその実像は明らかではありません。
ところが・・・戦いのさ中に書かれた秀吉の書状に軍事機密が書かれていたのです。
その戦略とは・・・??
そして勝家の山城に隠された知られざる戦いの真相とは・・・??

戦国の覇王・信長のもと、全国で死闘を繰り広げた織田家の武将たち・・・
中でも優れた家臣たちを評した言葉にこうあります。

木綿藤吉
米五郎左
かかれ柴田に
のき佐久間

木綿藤吉とは羽柴秀吉のことで、秀吉は木綿のように貴重な存在だという意味です。
かかれ柴田は柴田勝家を指し、かかれとは、突撃の大音声のこと・・・戦上手な勝家を評した言葉です。
下賤の身ながら知恵と才覚で出世を果たした秀吉、対する勝家は信長の父の代から織田家に仕える筆頭家老。
二人の差は歴然としていました。
ところが・・・1582年6月2日未明、本能寺の変・・・二人の運命を変える大事件が起こりました。
明智光秀の謀反によって織田信長が討たれたのです。
その時織田軍は、それぞれの方面軍に分かれ全国に展開、毛利と対峙していた秀吉、勝家は北陸で上杉と死闘を繰り広げていました。
そこで本能寺の変が勃発、逆臣・明智光秀を討つべく京へ戻ることが武将たちの急務となりました。

この時抜きんでたのが秀吉でした。
毛利との講和に成功した秀吉は、すぐさま上洛の途につき京に・・・
世に言う中国大返しです。

6月13日、山崎の戦い・・・秀吉軍は、京都郊外で光秀軍を撃破。
本能寺の変からわずか11日後のことでした。
弔い合戦に見事勝利した秀吉・・・これまでの序列が崩れます。
秀吉と勝家の対立は、一気に深まっていきます。

6月27日、信長ゆかりの清洲城に織田家の重臣が集まって後継者問題、領地配分を行う清須会議が行われました。
結果、光秀を討ち果たした秀吉は領地を拡大・・・従来の播磨に加え畿内を中心に新しく三か国を手にしました。
一方勝家は、越前加賀の外秀吉の長浜城を獲得、それに配下の武将の領地を入れればようやく秀吉の勢力に拮抗する勢力となります。
琵琶湖の北に位置する勝家の玄蕃尾城・・・ここから秀吉に対抗する勝家の並々ならぬ思いが読み取れます。
玄蕃尾城の本丸は、堀がすごく、これほど巨大な堀をめぐらし、大規模な土塁をめぐらしている城は他にはありません。
その土塁も、物凄い高さで囲っていました。
注目されるのは、柱を支えていた建物の基礎の礎石が残っています。
砦と言うよりは、居城・・・常に置いておくような城・・・念入りな工事をしていたことがよくわかります。
玄蕃尾城は、北陸から近江に向かう玄関口・・・
そこは秀吉に対する勝家の攻めの拠点でもありました。
清須会議以降、秀吉をいかに撃退するか、勝家にとっては非常に大きな課題でした。
この玄蕃尾城を築くことで、北国街道の難所である峠を押さえて、いつでも近江へ進出できるルートを確保しておく・・・これが、秀吉に対して強い圧力をかけることとなるのです。
この後、二人の対立は、全国の大名を巻き込んで拡大していきます。

勝家は信長の妹・お市の方と婚姻関係を結びます。
織田家の一門衆に名を連ねたのです。
それに対し、秀吉が仕掛けます。
10月15日、京・大徳寺で信長の葬儀を挙行します。
参列者は3000人、見物する人は貴賤雲霞の如し!!
織田家の家臣としては、主君の葬儀に参列しないわけにはいかない・・・
これにより秀吉は丹羽長秀、池田恒興ら織田家の有力武将たちを味方につけることに成功します。
勝家を大きく上回る勢力圏を形成します。
秀吉はさらに勢力拡大を図り、周辺の大名たちに書状を送り、信長の次男・信雄を織田家の後継者と為します。
勝家の背後の上杉や、一向一揆の総本山・本願寺を引き込むことに成功します。
本願寺に宛てた秀吉の手紙にこうあります。

”勝家の加賀で一揆を起こし目覚ましい働きをすれば、加賀一国を本願寺に与えるであろう”と。

一方勝家は、信長の三男・信孝をはじめ、織田家重臣・滝川一益や周辺大名に書状を送り、反秀吉勢力の結集を画策します。
勝家は、将軍・足利義昭にも接触を図ります。
もともと義昭は、主君・信長が追放した宿敵でした。
毛利に宛てた義昭の書状には・・・

”勝家と手を結び、秀吉軍を挟み撃ちにすることを急ぐべきである”

そして12月初旬・・・
近江への道は雪に閉ざされ、北ノ庄城にいる勝家は、兵を動かすことができなくなります。
秀吉に好機が到来したのです。
秀吉は、5万の大軍勢で勝家方の城・長浜城を包囲、続いて信長の三男・信孝の岐阜城も包囲、どちらも秀吉の前にあっけなく降伏・・・。
さらに秀吉は、勝家に組する滝川一益の北伊勢に侵攻・・・

いよいよ雪解けの季節が到来しました。
それは勝家軍の襲来を意味していました。
決戦の地は琵琶湖の北の賤ケ岳周辺・・・いよいよ天下分け目の戦いが始まろうとしていました。

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滋賀県長浜市・・・長浜城歴史博物館には秀吉の書状が残されています。
天正11年4月3日付の弟・羽柴秀長に宛てた書状です。
賤ケ岳合戦の前にどのように戦うべきか、柴田軍と対峙すべきかを命令した文書です。
秀吉の指示が事細かく書かれています。
普通は細かいことは紙には書きません。
敵に情報が洩れるとまずいからです。

3月9日、勝家、北ノ庄城を出陣。
急ぎ南下し、近江に進出します。
総勢2万と言われています。
勝家は頑張尾城に本陣を構え、別所山などに部隊を展開。
前線の拠点となる行市山には勝家の甥・佐久間盛政が陣を構え秀吉に対峙します。
一方秀吉が前線に到着したのが、勝家から遅れること5日後の3月17日・・・木之本に到着。
秀吉軍、およそ5万と言われています。
北の勝家軍に対し、南の秀吉軍の布陣は、東の山・堂木山を先頭に周辺の山々に砦を築きました。秀吉は木之本に本陣をおきました。
勝家の配下・前田利家が布陣した別所山砦・・・勝家側の戦略が顕著に読み解ける砦跡です。
秀吉の軍勢のいる南の方角には堀をめぐらしていません。
土塁の高まりも非常に低いのです。
別所山砦は、四角形に築かれた曲輪に、周囲に堀を築いただけのシンプルな構造です。
一体どうして・・・??
別所山砦は、実際にここで戦うという者ではなく、非常に簡素な造りでした。
ここで戦うよりは、一時の陣・・・相手に見せかければいいというものでした。

一方秀吉軍は、勝家軍とは全く異なる戦略の砦を作っていました。
東野山城は・・・至る所で城壁を屈曲させています。
敵が攻めてきても絶対にやっつける気満々です。
横矢掛けもあります。
勝家軍の砦とは違い、秀吉軍の築いた砦軍は、いくつもの曲輪に守られた堅固な軍事要塞でした。
この違いは何を意味しているのでしょうか?
秀吉軍は、強固に作り、最先端の築城技術を惜しみなく注いで造っています。
非常に守りの強い砦群でした。
秀吉の戦略は、専守防衛・・・いかにして敵の進撃を食い止めるか?防衛に徹した戦い方をしていました。
勝家は、周囲を秀吉に組した大名たちに囲まれています。
勝家が近江に進出するためには、琵琶湖の東側を南下せざるを得ません。
一方秀吉軍は、その南下を食い止めるのがこの合戦における両軍の基本戦略と考えられます。
さらに、秀吉の書状には、勝敗を左右する重要な言葉が記されていました。
”惣構え”の文字です。

”惣構えの堀から外へ鉄砲を放つことは言うに及ばず、草刈りの者に至るまで、一人も惣構えの外へ出してはならない”

この”惣構え”とは、何を意味しているのでしょうか?
高さ1mほどの土塁は、昭和30年代までこの地に残されていました。
東山砦から堂木山まで尾根伝いにずっと続いていたのです。
秀吉が築いた惣構えとは、東の山から堂木山を縦断し、街道を遮断した東西500mに及ぶ大規模な土塁の長城であったと考えられます。
惣構えを設けてシャットアウトし、柴田軍を南下させないことが目的でした。
惣構えも、賤ケ岳合戦の中で重要な意味を持っていたのです。
惣構えで、鉄壁の防御ラインを築いた秀吉軍・・・勝家軍は、その突破を試みるも果たせず・・・およそ1か月にわたるにらみ合いが続きました。
ところが、思わぬ方向から敵が出現しました。
北伊勢の滝川一益が、秀吉軍の背後・美濃に進出!!
すでに、降伏したはずの信孝もこれに呼応します。
このままでは、秀吉軍は、連合軍に挟撃されてしまう・・・!!
秀吉に危機が迫っていました。

①防御に徹する・・・??
秀吉の書状にもこう書いています。
”惣構えから先へ、一人の足軽も出さず、守りに徹しさえすれば、敵は動きが取れなくなるであろう”
秀吉軍にとって、防御に徹することが最善の策ではないか?
下手に動くと両軍の均衡は崩れ、惣構えを突破される可能性もあります。

”もし敵が、5日、10日と攻めかけてきたとしても、相手の様子を伺いながら、ゆうゆうと合戦に及ぶべきである”

防御に徹していれば、勝家軍も攻めあぐね、長期の対陣となり兵糧も枯渇・・・
いずれ勝家軍は、北陸に撤退せざるを得なくなる・・・!!

②軍を二手に分け、敵を各個撃破する!!
秀吉の書状には・・・
”秀吉自ら兵を率いて播州へ向かう 
 その間、前線の秀長より注進が来れば、姫路から引き返そうと思うが、日数がかかるであろう
 だが、秀吉が姫路に滞在する間は、決して出撃してはならぬ”

4月3日の段階で、姫路の方に出るといっているのは、毛利が攻めてくるのでは??
毛利軍の県政のために、中国地方に出陣するという意図があったのです。
秀吉は、勝家だけでなく、周囲を敵(毛利・長宗我部・雑賀衆・徳川)に囲まれていました。
敵の動向に気を配り、それに対応しなければならなかったのです。
あくまでも防御に徹するべきか、それとも軍を二手に分けてそれぞれの軍を討伐すべきなのか・・・??
秀吉に選択の時が近づいていました。

4月の中頃・・・秀吉は軍を二手に分けます。
信孝・一馬氏連合軍を討つために岐阜へ向かいました。
秀吉不在の前線は、弟・秀長が担いました。
ところが・・・大雨によって揖斐川が氾濫、岐阜城への道は閉ざされていたのです。
秀吉は、岐阜城からおよそ20キロ離れた大垣城にとどまり、敵の出方を伺いました。
その4日後の4月20日・・・秀吉の不在を知った勝家軍が、突如動き始めました。
勝家方の猛将・佐久間盛政が、惣構えを避け、密かに尾根伝いを伝い、秀吉軍の中ほどにある大岩山砦に突如攻撃を開始、中入りという戦術でした。
思わぬ敵の奇襲攻撃に、奮戦する秀吉軍・・・しかし、この時、秀吉方の有力大名・中川清秀が討ち死に・・・記録には、清秀の外に六百余人が戦死とあります。
秀吉軍にとって大打撃でした。
勢いに乗った盛政軍は、岩崎山砦も陥落させます。
勝家本隊は前進、惣構えに一気に猛攻をかけます。
惣構えを突破しようと攻めたてる勝家、秀吉軍が崩れるのは、もはや時間の問題でした。
しかし、秀吉は、この不測の事態に備えていました。
前線の秀長より注進が来れば、すぐに引き返す・・・秀吉が戻るまでは、勝手に出撃してはならない・・・
揖斐川の氾濫により、岐阜城の敵もまた秀吉軍を追撃することは不可能です。
秀長から注進を受けた秀吉は、作戦通り、すぐさま兵をまとめ前線の木之本を目指します。
大垣からおよそ52キロ・・・その道のりをわずか5時間で駆け抜けたといいます。
木之本へたどり着いた秀吉・・・勝家軍は、未だ惣構えを突破できずにいました。
秀吉は、敵襲で孤立した盛政軍を追撃、その時・・・勝家方の武将・前田利家が、突然陣地を放棄したのです。
秀吉に諜落されていた武将たちが、勝家に見切りをつけた瞬間でした。
これによって、勝家全軍は崩壊・・・戦いは、秀吉の大勝利となりました。

4月23日、秀吉軍、北ノ庄城を包囲。
4月24日、勝家は、お市の方と共に自刃!!
勝敗は決したのです。

戦い直後に書かれた毛利宛の書状で、秀吉はこう豪語しています。

「東は北条、北は上杉まですでに秀吉に従っている
 毛利が秀吉に従うことになれば、日本は源頼朝公以来、一つにまとまる事であろう」

猛将・柴田勝家を下したことで、天下人の後継者となった秀吉・・・賤ケ岳の戦いこそ、まさに秀吉にとっての天下分け目の決戦でした。

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尾張国・清須城・・・1582年6月27日、ここで本能寺の変で命を落とした信長亡き後の織田家の跡継ぎを決める重要な会議がありました。
清須会議です。
顔をそろえたのは、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・・・そして、羽柴秀吉・・・4人の織田家家臣と言われています。
そんな清須会議・・・詳しいことはわかっていません。

1582年6月2日・・・天下統一目前の織田信長が、京都・本能寺で家臣の明智光秀の謀反に遭い自害しました。
その後、同じく信長の長男・織田信忠も明智軍に攻められ命を絶ちます。
強大な影響力を持っていた信長と、家督を譲られ織田家当主となっていた信忠の死・・・。
織田家存亡の危機に一早く駆けつけたのが、備中高松からおよそ200キロの道程を2万もの軍勢を率い、わずか8日間で駆け戻った中国大返しを果たした羽柴秀吉・・・。

6月13日、山城国山崎で光秀と対峙。
見事主君・信長の仇を討ったのです。
それから14日後・・・
1582年6月27日、清須会議が行われます。

その議題は二つ・・・
①織田家の家督相続者を決めること
②織田家の所領の配分を決めること
旧明智領を含む560万石の所領の分配です。

清須城には誰が参加していたのでしょうか?
「川角太閤記」によると・・・参加したのは、
・織田家の古参で家臣の筆頭である柴田勝家
・同じく宿老の丹羽長秀
・信長の仇を討った功労者・羽柴秀吉
・秀吉と同じく山崎の戦いに参加していた池田恒興
この4人が通説となっています。

しかし・・・参加者はもっといた・・・??
「多門院日記」によると・・・4人に堀秀政が加わり5人だったとされています。
秀政は、織田軍の中国方面軍に参陣し、秀吉の配下として活躍した武将です。
本能寺の変の後、秀吉軍と共に中国大返しで信長・信忠の弔い合戦に駆け付け貢献しています。
秀政が会議に参加した可能性は・・・??
清須会議の時点では、秀政は織田軍団でのランクは他の4人よりもかなり下でした。
そのため、織田軍団の重役会議に同席しているとは考えにくいと思われます。
また、「多門院日記」は、尾張の出来事を、奈良の僧が伝え聞いて書いています。
若干史実とは受け止め難いと思われます。

また、7人いたという資料も・・・山鹿素行の「武家事紀」です。
そこには、通説の4人の他に、滝川一益、信長の次男・信雄、三男・信孝が書かれています。
滝川一益は、勝家、長秀、明智光秀と共に織田四天王と呼ばれていました。
織田家の行く末を決める会議に参加していてもおかしくないのですが・・・。
織田軍団の重要メンバーでしたが、滝川一益は会議に参加していません。
どうして・・・??
一益は、会議への参加を自ら辞退したと言われています。
織田軍団の関東方面軍司令官と思われるポジションでしたが、本能寺の変の直後、上野国で起こった神流川の戦いで、北条の大軍に乾杯しています。
そのみじめな敗戦を恥じて、清須会議への参加を辞退したのです。
また、単に北条氏との戦が長引いて、会議に間に合わなかったともいわれています。

信雄と信孝は会議に参加していたのでしょうか?
清須城にいたとは言われていますが、家督継承の当事者であり、会議に参加していないと思われます。
出席を止められていた可能性もあります。

こうしたことから、「川角太閤記」に書かれた柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人が参加者と考えられます。

その中で、清須城での会議開催を呼び掛けたのが柴田勝家でした。
しかし、どうして清須城だったのでしょうか?
勝家が指定した清須城には、信忠の忘れ形見の三法師がいました。
そのために、清須城ですることを決めたのです。

6月27日・・・顔を合わせた4人・・・張り詰めた空気の中、話し合いの口火を切ったのは柴田勝家でした。

「上様親子を突然に失ったのはまことに口惜しいことだが、新しい天下人を定め、上様と仰ぎ奉るがよかろう」

こうして、織田家の後継者選びから話し合うことになりました。
ところが・・・誰一人口を開きません。
相手を伺っているようでした。
そこにはそれぞれの思惑がありました。

この時後継者候補となり得たのは、信長の次男・織田信雄、信長の三男・織田信孝、信長の孫(信忠の嫡男)・三法師でした。

①織田信雄
この時、25歳!!
信長の長男の信忠と同じ母から生まれた嫡流の子でした。
しかし、信長の伊勢攻略に利用されます。
伊勢国・北畠具教を取り込むために.、養子に・・・。
それ以後、信雄は北畠を名乗りながらも信長・信忠と共に戦に参加。
戦歴だけは重ねるものの・・・今一つ。
信長の死後、安土城に入ります。
安土城は五層七重の天主閣を持つ当時最大の城です。
信長が天下取りの夢を馳せた居城でした。
ところがこの城が、信雄が入った直後に炎上し、灰になってしまいました。
ルイス・フロイスの報告やイエズス会日本年報に書かれている「信雄が放火した」という説が現在では有力視されています。
そんなこともあってか、信雄は家臣団からの評判も悪く、清須会議の前には後継者争いから外されていました。
織田家の後継候補は、信長の三男・信孝と、孫・三法師の二人に絞られていました。

②織田信孝
信孝は、信雄とは異母兄弟でこの時25歳。
母親の身分が低く、信長から冷遇されていたせいか、記録は殆どありません。
歴史上、その存在が顕著になるのは信長が伊勢攻略の際、抵抗の大きかった有力豪族・神戸具盛のもとに養子に・・・。
その後、武功をあげるも信長の扱いは変わらず、信孝は不満を募らせていきました。
それを知ってか、信長は信孝を四国派遣軍の総大将に抜擢!!
大坂に入った信孝は、そのチャンスをものにしようと準備に精を出していました。
そこに本能寺の変の報せが・・・。
信孝はすぐに備中高松から戻った秀吉と合流し、山﨑の戦いで明智光秀を破り、見事、父と兄の仇を討つのです。
当時の人々も、父と兄の仇を討った信孝が後継者に相応しいと考えていました。
来日していた宣教師たちも、キリスト教に理解のある信孝を後継者に望んでいました。

③三法師
信長の長男で織田家当主となっていた信忠の嫡男です。
血筋的には最も有力でしたが、この時まだ3歳でした。

信孝か三法師か・・・??

・・・??張り詰める空気の中、遂に勝家が・・・

「信孝様こそお年頃といい、その利発さといい、まことに天下人として適任この上ない人物と存ずる」

信孝を、織田家の後継に挙げたのです。
しかし、それは表向きの理由・・・勝家には思惑がありました。
勝家が清須会議の開催を呼びかけたのは、信長の敵討ちで秀吉に後れを取ってしまった汚名を返上するためです。
会議をリードすることで、織田家家臣筆頭という立場を周囲に示そうと考えたのです。
そしてその立場を盤石にするためには信孝を後継者にする必要がありました。
勝家は、信孝の成人の際の烏帽子親で、信孝とのつながりが強かったのです。
勝家は、信孝を織田家の後継者にし、自分が中心となって織田家を支えていこうと考えていました。

事実上天下を掌握するのは誰・・・??

「勝家殿の意見はごもっともだが、ここは筋目から言ってもご嫡男を擁立するのが道理・・・
 信忠さまにれっきとした若君がおられる以上は三法師様をお取り立てるのが当然かと存ずる」

秀吉は、勝家が信孝の後ろ盾として前面に出てくることを避けようと考えていました。
勝家に対抗する候補を擁立しようといました。
何よりも血筋を重んじる時代だったので、信忠の後継者を決める会議となると、信忠の血をひく三法師がいる限り、家督相続者は三法師以外ありえませんでした。

宿老の勝家に対し、強気の秀吉・・・
秀吉には、明智勢討伐の実績があったからです。
光秀討伐の功績に伴う発言力は大きいものでした。
秀吉の思惑は・・・??
成人した信雄、信孝が織田家を継ぐと、その家臣として仕えなければなりません。
幼少の三法師であれば、自身の傀儡にすることができると考えたのです。

自分よりも各下で足軽からの成り上がり者の秀吉の態度に、勝家は顔に出さないもののはらわたが煮えくり返っていました。
武将として優秀な信孝を推す勝家に対し、筋目を理由に三法師を推す秀吉・・・。
真っ向から対立する二人を前に、会議は膠着状態に・・・
勝頼と同じく織田家古参で秀吉を嫌っていた丹羽長秀が・・・
「そうじゃな・・・秀吉の申すことは正論。
 三歳とはいえ三法師様が後を継がれるのが筋目であろうな。」

どうして長秀は秀吉に味方したのでしょうか?

秀吉の器量を認める長秀・・・。
丹羽家を守るためには、勝家と秀吉のどちらに味方した方が良いかを見極め、秀吉を選んだのです。
長秀の援護射撃で、会議は一気に秀吉に傾きます。
ところがとうの秀吉は・・・席を立ってしまいました。
これも秀吉の作戦で、秀吉が立った間に長秀、恒興も勝家を説得・・・。
「弔い合戦に間に合わなかったお前の出る幕はない」という勝家への直言を秀吉がすると角が立つからです。
わざと退席し、長秀に言わせたのです。
こうして三法師が後を継ぐこととなります。
清須会議の前、秀吉は信長の妹で浅井長政に嫁いでいたお市と勝家の再婚話を進めていました。
高嶺の花であるお市との縁談を持ちかけることで、会議前に勝家に恩を売っていたのです。

また違う見方も・・・
それは、そもそも「川角太閤記」は、秀吉の天下人への台頭を前提とした歴史観によって書かれたものだからです。
三法師が後継者に選ばれたのは、秀吉が擁立鹿からではなく、会議の前から決まっていたという説です。
血筋が重要視されていた当時ならば、三法師がすんなりと跡継ぎになっていたはず・・・。
そのために、会議では後継者はすぐに決着。
別のことが議題に・・・・
信雄・信孝は、織田家当主の座を争っていたのではなく、どちらが三法師の名代になるかを争っていたのです。
議論は紛糾・・・
次男の信雄を名代とすれば、血筋は大事にされるものの・・・
信長と信忠の仇討の功績のある信孝は・・・??
信孝のもとで活躍した家臣たちも不満が・・・。
信孝を名代とすれば、血筋が軽んじられる・・・となると、三法師を血筋で選んだことにも異議が生じます。
どちらを選んでも、不都合が生じることに・・・
そこで4人が出した答えは・・・三法師様に家督は継承させるが、信雄様、信孝様のどちらも名代にはしない・・・でした。
その代わりとして、三法師の世話役の傅役を置くことに・・・。
その傅役は、三法師が治める直轄領の代官に就任した堀秀政でした。
そして三法師は、居城である安土城が修理の間、信長の三男・信孝の居城である岐阜城に・・・信孝が後見人となったのです。

謀反人・明智光秀の所領を含む560万石の遺領分配は・・・??
織田家の血縁者たち・・・光景に決まった三法師は、近江の国一郡と安土城を。
次男・信雄は本領の南伊勢に加え尾張国と清須城を。
信雄は、織田家の父祖の地である尾張国と信長ゆかりの清須城を与えられたことで、あっさり受け入れます。
信孝には、本領の伊勢神戸に加えて、美濃国と岐阜城を分配することに・・・。
信孝はこれを不満に思うも、父信長の天下布武の根拠であった岐阜城を譲り受けること、自身が三法師の後見人となったことで、しぶしぶ承知しました。

会議に参加した織田家家臣4人は・・・??
池田恒興は、摂津国池田・有岡に加え、同じ摂津国の尼崎・兵庫・大坂を。
丹羽長秀には、若狭国に加えて近江国二郡と坂本城を。
羽柴秀吉には、播磨国に加えて丹波国・山城国・河内国を。
ただし、本領だった近江国三郡を手放すことになります。
その近江国三郡を本領の越前国に加えて手に入れたのが柴田勝家です。
これによって、秀吉の居城・長浜城も勝家のものとなりました。
どうして秀吉は、長浜城を勝家に譲ったのでしょうか?
勝家が所望したのか?秀吉から譲ったのかははっきりとはしていません。
しかし、家督問題で主導権を秀吉に握られ、信雄擁立に失敗した勝家にとっては、せめて遺領配分の県は自分の言い分を通したと考えます。
秀吉は、これ以上勝家を刺激しないように、自分の本拠地の割譲と、居城の譲渡という大幅な譲歩をし、プライドの高い勝家のメンツを立てたのです。
長浜城を手放すことになった秀吉の居城は、播磨国の姫路城となりました。
秀吉は、山崎の戦いの戦場にもなった天王山に山崎城を築城することにしていました。

そして、三法師が織田家当主となったこと、山城国を押さえ京都を手中にしたことで、天下を手中に収めるという構想が出来上がっていました。
長浜城を手放すことぐらい、痛くもかゆくもなかったのです。
この時、山城国を押さえて京都を手中にしたことが、後の天下統一への足がかりとなったのは、歴史が証明しています。

ところが・・・半年後、秀吉が長浜城を攻めます。
勝家の養子柴田勝豊が守っていましたが、あっけなく降伏・・・
もともと秀吉の城・・・攻め方はわかっていたでしょう。
そして季節は冬に・・・越前に帰っていた勝家が、すぐには動けないことをわかっていたのです。
1583年、秀吉と勝家は賤ケ岳の戦いで戦います。
敗北した柴田勝家は、その二日後に自害・・・!!
秀吉は1590年、天下を統一します。

清須会議の後織田家はどうなったのでしょうか?
武将として器量なしと言われていた信雄は、秀吉についたり、家康についたりと日和見で・・・。
しかし、最後は幕府をひらいた徳川家から、大和国宇陀松山藩2万8000石を与えられ、大名となり血を繋ぎます。
対照的な信孝・・・
秀吉と敵対し、勝家と共に賤ケ岳の戦いに臨みます。
しかし、敗れて降伏・・・切腹を命じられます。
信孝辞世の句は・・・

昔より
  主をうつみの
      野間なれば

報いを待てや
      羽柴筑前

信孝は秀吉への凄まじい怨念を抱いたまま切腹!!

織田家当主となった三法師は、元服して秀信となります。
その後、美濃国を与えられますが、秀吉の身内の扱いを受け、天下分け目の関ケ原では秀吉の西軍についたことで敗北・・・
家康によって改易となり、高野山に追放されます。
再び歴史の表舞台に出てくることはありませんでした。
1605年、26歳の時、静かにこの世を去ります。

天下を決めた清須会議の結末でした。

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1595年7月15日、驚くべき大事件が・・・
高野山青巌寺の一室・柳の間で、豊臣秀吉の甥で政権No,2だった関白・豊臣秀次が切腹したのです。
「秀次事件」・・・通説では、秀吉に跡継ぎが生れたので、秀次はお払い箱となって高野山へ追放され、間もなく切腹したということになっています。
しかし・・・新事実が・・・??

1568年、織田信長が上洛を果たし、天下統一への足掛かりを掴んだその塗ぢに・・・尾張国大高村で秀次は生まれました。
幼い頃の名は治兵衛・・・両親は、苗字を持たない農民でしたが、やがて運命は一変・・・。
母親の弟が信長の草履番から異例の出世を遂げ、後に天下人となる豊臣秀吉でした。
一生、秀吉に翻弄される生活となります。

1571年、信長に、浅井長政との戦いの最高責任者を任せられた秀吉は、浅井家の重臣・宮部継潤を寝返らせるため裏工作に奔走!!
この時利用したのが、甥の秀次だったのです。
当時秀次はまだ4歳・・・子供のいなかった秀吉は、この甥を宮部家に養子として差し出したのです。
それは、宮部を裏切らないという証建ての人質でした。
この裏工作は成功し、宮部は織田に寝返り、浅井滅亡の引き金に・・・
秀吉は、秀次を実家に戻し・・・またもや三好に養子に・・・。
秀吉は、四国で勢力を拡大する長宗我部に対抗すべく、阿波の有力大名・三好家に接近。。。
秀次を三好康長の養子に出したのです。

さらに・・・本能寺の変で信長が死んだ後・・・清須会議でも秀次を利用。
「池田の娘をもらえ!!」と、池田恒興の娘と結婚・・・池田を味方につけたのです。
こうして秀吉は、清須会議で主導権を握り、天下統一に向けて大きな一歩を踏み出したのです。

1584年、秀吉は徳川家康と、小牧長久手の戦いで激突!!
この時、秀次は秀吉の恐ろしさを身をもって知ることに・・・
17歳になっていた秀次・・・秀吉の甥であるため、経験不足のまま一軍の大将に担がれ、合戦に臨んでいました。
羽柴秀吉軍10万VS徳川家康軍3万!!
ところが、戦は一進一退の膠着状態に・・・
そこで秀次は、池田恒興らとともに、1万6000の兵を率いて出陣!!
家康の領国・三河に向かいます。
しかし、家康に察知され、挟み撃ちに・・・激戦の末、義父・池田恒興をはじめ名だたる武将が討死・・・死者2500人・・・。
秀次大失態!!
秀吉は激しく怒り、敗北の責任をとる書状を秀次に送りつけます。

「わが甥であることを鼻にかけ、傲慢である!!
 一時は秀次を殺そうと思った
 今後行いを改めないようであれば、首を切る」

再び同じ失態を演じたら、秀吉は自分を見限るに違いない・・・!!
秀次は・・・それ以後、武功を治めるために、獅子奮迅の働きをします。
1585年四国攻めでは副将を勤め、1587年九州攻めでは京を守り、1590年小田原攻めでは豊臣軍の先鋒として出陣し、秀吉の信頼を得ていきます。
そして・・・秀吉の養子のひとりとなったのです。

秀吉の問題は・・・実の子がいなかった事・・・
そんな秀吉に吉報が・・・
1589年側室・茶々が、鶴松を出産。
秀吉、54歳の時でした。
秀吉の喜びようは尋常ではなかったものの・・・
1591年3歳で鶴松が夭折・・・。
だれに豊臣家を継がせる・・・??
秀吉の養子は7人・・・うち、血縁関係のある者は3人・・・
秀勝は、朝鮮出兵の際に病死。
秀俊は、のちに小早川家に養子。
残った血縁関係のある養子は秀次のみ・・・
秀吉は、24歳の秀次に関白の座を譲ります。
豊臣家の後継者は秀次だと、天下の宣言したのです。
とはいっても、関白・秀次は名ばかりで、太閤となった秀吉が、実質的最高権力者でした。
1593年8月3日、茶々が再び男子を出産しました。
後の豊臣秀頼です。
57歳の秀吉は秀頼を溺愛し、この子に豊臣家を継がせたい・・・というのが望みとなりました。
しかし、秀頼を後継者とするためには、秀次に譲ってしまった関白の座を取り戻さなければならない・・・
この子が大きくなって自分がいなくなった時、秀次はそれを許すのだろうか・・・??
この頃秀吉は、秀次に約束します。
「日本を5つに割り、そのうち4つをお主に与える・・・」
秀次は、秀吉が秀頼を後継者にしようと思っていることを悟ってしまいます。
自分は豊臣政権にとって何なのか・・・??
秀頼の誕生によって、秀次の運命は再び大きく変わることに・・・。

滋賀県近江八幡市を本拠としたのは、秀次18歳の時でした。
近江の5郡を任され、43万石の領主となった秀次は、琵琶湖の東岸に城を築きます。
八幡山城です。
原野だった土地を、安土や近隣から人を集め、一から城下町を作りました。
秀次の建設プランは画期的。
今もその道幅は変わらず、碁盤の目になっています。
城下町は、敵が容易に攻め込めないよう、道を複雑に作るのが常識でしたが、近江八幡は住民が生活しやすいように碁盤の目に作られたのです。
縦12筋、横4筋の整然とした街並みで、商人、職人たちは無償で住居を貸与され、楽市楽座の特権も与えられました。
軍事より経済を優先した秀次・・・。
その結果、近江商人が生まれ、町が発展していきます。
秀次は城を守るための堀にも別の機能を持たせます。
八幡堀は東西は琵琶湖に通じており、水路・運河としての役割をし、近江商人たちの物資の運搬に非情に役立ち、近江商人たちが発展していきます。
”琵琶湖を通る船は、八幡堀を通らなければならない”と定めたことで、町はさらに賑わいます。
秀次は、ひたすら領民のためのインフラ整備に努めます。
背割という下水溝も作らせ、生活排水を八幡堀に流れるようにします。
飲料水などの上水は、良質な水が湧く遠くの水源から地中に埋めた竹の管で引き入れました。
当時としては前進なシステムです。
”開町の祖”秀次なのです。
戦が終わったら国がどうあるべきか・・・その理想郷を作ろうとしていたのかもしれません。

その矢先に秀頼が生まれました。
頑張れば頑張るほど、秀吉にとって疎まれる秀次・・・。
1595年7月3日、秀次の住まいだった聚楽第に、突然石田三成ら3人の奉行がやってきます。
秀次に謀反の疑いがあり、取り調べに来たというのです。

秀次の噂・・・
鹿狩りに名を借りて山に入り、反秀吉一派と謀反のための話し合いを持った。
戦に備え、大将用の武具を用意していた。
身に覚えのない秀次は、誓詞を認めます。
”神仏に誓って自分は無実である
 謀反の疑いは、根も葉もないこと。”
取り調べから2日後・・・
伏見城にいた秀吉は、直接話がしたいと、秀次に登城を命じます。
秀次は、無実を訴えようと伏見城に登城・・・!!
そこで思わぬ事態が・・・!!
伏見城についても中に入ることさえ叶わず・・・。
秀吉は、秀次を呼んでおきながら、弁解を聞いてしまうと許してしまう・・・??と、面会しなかったのか・・・??
ここで二人が話し合っていれば、歴史は変わっていたのかもしれません。

秀吉は弁明の機会を与えないばかりか、追い打ちをかけます。
秀吉に拒絶され、高野山へと言われてしまいました。
7月8日、言いつけに従って、紀州の高野山へ・・・!!
7月10日、従者らと共に高野山へ到着。
ところが急転直下、7月15日、福島正則らが秀次の元を訪れ、三成ら五奉行の連書による秀吉の命を届けに来たのです。
「秀次に切腹を命じる!!」
切腹に追い込まれた秀次は、高野山・青巌寺・柳の間で、28年の短い生涯を閉じたのでした。

しかし、近年新しい説が・・・??
秀吉に対する復讐説です。
謀反の疑いをかけられた秀次は伏見城を訪れますが、秀吉に面会を拒まれ高野山行きを命じられますが・・・
自らの意志での可能性もあります。
どの資料にも、「追放」という言葉がありません。
あくまで秀次の意志による出奔・・・??
当時の高野山は、入ってしまえば俗世間からの死・・・政治の世界からは引退すると意思表示だったのでは・・・??
謀反の気持ちはない!!とのアピールだったのでは・・・??
運命の7月15日、高野山の秀次のもとに、福島正則がやってきますが・・・
その手紙の一人の名前が間違っており、もう一人は伏見にいなかったので署名できない者も・・・。
手紙の信憑性に欠けるのです。
事件当時の資料によると、秀次が切腹する3日前に書かれた文書には・・・
”秀次を高野山に住まわす”=禁固刑と、書かれています。
勝手に高野山に行ってしまった秀次を、秀吉は禁固刑にしたのでは・・・??
秀吉の命令は切腹ではなかった・・・??

また、切腹の場所は・・・青巌寺は、秀吉が生母・大政所のために創建した菩提寺。。。
秀吉にとって特別な場所でした。
ここで秀次が切腹・・・秀吉が母の菩提寺を血で汚す命令をしたのか・・・??
ではどうして秀次は切腹したのでしょうか??
秀次は早く許してほしいが、いつまで・・・??
自分の無実を証明するためには切腹しかない・・・??
秀次は無実を訴えるために切腹した??

真言宗の高僧・木喰応其の書によると・・・
「関白殿、十五日の四つ時に切腹
 無実だからこのようなことになった」
と書かれています。

さらに秀次の切腹にはもっと深い意味が・・・??
積年の秀吉に対する感情の爆発・・・??
幼いころから秀吉の重圧、ストレスの中で生きてきていました。
それが最終的に命を懸けた切腹を選ばせた理由なのでは・・・??

幼い秀頼の後見になれる自分が死ねば、秀頼は困るのでは・・・??
そんな反抗・・・復讐があったのかもしれません。

豊臣政権の不信感につながりかねないこの事件・・・
そこで秀吉はその懸念を拭い去るために・・・秀次は大悪人だったとすることにします。
高野山に葬られていた秀次を掘り起こし、謀反人として京の三条河原でさらし首に・・・!!
””院の御所 手向けのための かりなれば 
            これをせっしゃう かんぱくといふ”
という落首が・・・!!
正親町上皇の喪中にもかかわらず、関白は狩りをして殺生を行った・・・
その関白はもちろん秀次のこと。
秀吉の思惑通り、さらし首になった秀次は悪人のイメージが・・・!!
「摂政関白」となったのです。
そして切腹から半年後の8月2日、前代未聞の事態が・・・
聚楽第で生活していた秀次の妻子たちが市中引き回しの上、三条河原に集められました。
その数三十数人・・・
正室・一の台をはじめ・・・年齢も様々・・・少女から乳飲み子まで・・・
秀次の首を拝ませると、次々と殺していきました。

あまりの無慈悲な光景に、見物人は皆涙し、役人たちも目頭を押さえたとか・・・
遺体は無造作に穴にほうり込まれました。
穴を埋めるとそこには塚が築かれ、秀次の首を納めた石櫃が置かれました。
都の人は、やがてそこを「摂政塚」と呼ぶようになるのです。

どうして罪のない妻子まで・・・??
秀次の切腹は、豊臣政権にとって想定外の出来事でした。
これをそのままにしておくと、無実の訴えを豊臣政権が認めたことになってしまう・・・。
秀次の無実を信じる者たちが生き残っていると、復讐の大義名分ができてしまう・・・。
秀吉の死後、秀頼が対象になってしまう・・・。
また、聚楽第を破壊、堀を埋め、高く積み上げられた石垣を壊し・・・徹底的に壊したので、現在聚楽第の遺構は残っていません。

秀次に近い人々や物が消え去った・・・やっと秀次事件が終わったのです。
その3年後、秀吉は62歳でその生涯を閉じました。
秀頼は僅か6歳でした。
その後、徳川家康が台頭し、政権トップの不在が関ケ原の戦いを招きました。
もし、秀次が生きていれば・・・家康は天下をとれたのでしょうか?
豊臣家滅亡のカウントダウンは、秀次の自害から始まっていたのかもしれません。




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関白秀次の切腹

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滋賀県長浜市にある賤ヶ岳・・・
今から430年前の1583年、賤ヶ岳の戦いが繰り広げられました。
戦ったのは・・・織田信長亡き後天下をとろうとした羽柴秀吉と、織田家存続のための忠義を誓った柴田勝家でした。

1582年6月2日・・・本能寺の変・・・天下統一目前にして織田信長が明智光秀の謀反によって無念の死を遂げます。
その後、群雄割拠で天下取りの野望を強く抱いていたのは、織田家家臣・足軽から成り上がった羽柴秀吉でした。秀吉は天下取りに邁進します。
賤ヶ岳の戦いの発端は・・・清須会議でした。
信長の後継者を決める会議・・・主な出席者は、秀吉のほかに・・・羽柴秀吉、家老・丹羽長秀、家老・池田恒興、筆頭家老・柴田勝家・・・・
勝家は、織田家存続のために、信長の三男・織田信孝を後継者に・・・しかし、事前の裏工作で、丹羽長秀と池田恒興を取り込んだ秀吉は、まだ3歳だった信長の孫・三法師を後継者としたのです。

織田家での立場を有利にした家康に対し、筆頭家老としてのメンツをつぶされた勝家・・・
二人はやがての戦の準備を始めていきます。
秀吉は、巧みな交渉術で、織田信雄、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀長、中川清秀、蒲生氏郷、細川忠興を取り込んでいき、着実に勢力を広げていく秀吉。

勝家は、一旦北陸に戻り、陣営拡大を図るものの交渉がままなりません。
味方は織田信孝、滝川一益、前田利家、佐久間盛政・・・。

12月7日、秀吉は琵琶湖北部にある長浜に先制攻撃をかけます。
長浜城は、勝家の養子・柴田勝豊が守っていましたが、戦となった際には勝家軍の最前線基地となる重要な城でした。
どうしても落としておきたい秀吉は、勝家親子の仲の悪さを利用し、勝豊を調略してしまいました。
12月20日、雪深くなる越前の間に、勝家の包囲網を調略しにかかります。
まずは織田信孝、しかし、このまま戦えば、主君である織田家に謀反を起こすことに・・・??

信孝が、安土城に入ることになっていた三法師を抱え込んで岐阜においていて、手放さなかった・・・
ことを理由にして攻めた!!と、大義名分を作りました。
そして、信孝と不仲だった信雄を利用し、自らの正当性を主張します。
追いつめられた信孝は、父・信長の家臣たちを頼りますが、そのほとんどは、すでに秀吉に懐柔されていました。
信孝はやむなく降伏し、三法師を渡し、岐阜城に蟄居します。
一方三法師を手にした秀吉は、利用し始めました。
三法師が入る予定だった安土城・・・戦で焼失していた安土城再建に向けての仮の館の建設を提案します。
「安土城を築くための木を切らせてほしい。」
これに対し勝家は、
「三法師様の為ならば、喜んで受けよう。」と、快諾します。
が・・・木の伐採の本当の理由は・・・??
近江、越前にかけて木を切らせ・・・切った材木を放置!!切株を勝家の方に向けて・・・道をふさぐ障害物としました。

1583年2月16日、秀吉は勝家が築いた包囲網を崩そうと、滝川一益に兵を向けます。
しかし、一益は””引くも滝川、進むも滝川””の名将!!
攻守ともに得意としていました。
準備万端にした秀吉は、数万の兵をもって三方から敵陣に攻め込みますが・・・
伊勢亀山城の守りは固く、苦戦を強いられます。
そんな中、一人立ち向かう男が・・・25歳の男・米田是政です!!
是政が三の丸に火を放ち、敵兵を城に閉じ込めると、戦況は一転!!
秀吉軍は鶴嘴で石垣を崩し、本丸へ・・・!!
その是政の奮闘ぶりに城は陥落寸前!!


この状況に危機感を覚えた勝家は、ついに出陣します。
3月9日、越前を発った勝家軍は・・・未だ溶けぬ雪をかき分けて南へ・・・!!
3月12日、柳ケ瀬に到着します。
ここに陣取って、秀吉との決戦に備えます!!

一方勝家出陣の知らせを受けた秀吉は、陥落寸前の亀山城に少しの兵を残し、勝家との戦に向かいます。
3月17日、柳ケ瀬から12キロ離れた木之本に陣取ります。
秀吉軍4万VS勝家軍2万の激突!!1か月以上に及ぶ戦いが始まりました。


標高421mの賤ヶ岳に本陣を置いた羽柴秀吉と柴田勝家は、戦を有利にするために、お互いに得意の布陣をします。
柴田勝家軍は、秀吉軍の半分の兵力しかなく、圧倒的に不利でした。
なので、得意の山岳戦に持ち込もうと、深い場所に陣を構え、長期戦を狙いました。
尾根に沿って横並びに配備し、敵が谷間に入ってきたら攻撃する!!
そして、少しずつ敵を倒していく方法です。

これに対して秀吉は、得意の平地戦に持ち込もうと、本陣、賤ヶ岳、余呉湖湖畔に横3段の部隊を配置しました。山から下りてきた勝家軍を平地で迎え撃ち、突破されてもその次の部隊で撃破するというものでした。
兵力で圧倒的な秀吉は、短期戦を狙っていたのです。

勝家の陣営に発砲して挑発する秀吉!!
長期戦に持ち込みたい勝家は応じません!!
戦が思うように動かないため、敵陣の様子を偵察しようとして高台に上った秀吉は驚きます。
想像以上に勝家軍の体制が巧妙だったのです。
短期戦は困難だ・・・秀吉は長期戦へと変えます。
柔軟な秀吉・・・整備を急がしたのが、陣城と呼ばれる砦です。
城内には武器、武具の保管場所や厩、台所、傷の治療場までありました。
この戦では、勝家も多くの砦を作りましたがそのほとんどが簡単なもので・・・それに対し、秀吉の築いたものは堀も深く、随所で屈折する守りの堅いものでした。

両軍が築いた砦は、戦国史上最多の20ヶ所以上!!
にらみ合いが続くこと1か月近く・・・膠着状態を破ったのは、勝家軍でした。
秀吉が近江に去ったことで息を吹き返した滝川一益が、北伊勢で挙兵します。
これに乗じて岐阜で蟄居していた織田信孝も兵を挙げました。
両軍で秀吉を挟み撃ちにしようとしたのですが・・・
秀吉はこの挑発に乗りました。
4月17日総兵力の2万の兵を率いて信孝のいる岐阜城を攻めたのです。
秀吉が本陣を離れた!!と、勝家に伝わります。
真っ先に動いたのは、勝頼の甥で鬼玄蕃の異名をとる佐久間盛政でした。
攻め込むなら秀吉のいない今しかない!!
と、秀吉に奇襲をかけたい!!と、申し入れました。
奇襲部隊が秀吉軍に気づかれないように奥まで入り込み、すきをついて攻撃を仕掛ける!!

4月20日午前2時!!
盛政は8000の兵を率いて出陣!!
あまり秀吉軍の守りの薄い余呉湖西岸ぞいを進軍していきます。
空が白み始めた頃・・・秀吉軍の大岩山砦を攻撃!!
虚を突かれた秀吉軍は戦うも午前10時・・・遂に陥落!!
およそ1000人の兵は討ち取られてしまいました。

盛政隊の猛攻に恐れをなしたのか隣の岩崎山砦の兵は、一戦も交えることなく敗走!!
これにより盛政は二つ目の砦も陥落させます。
柴田勝家に勝機が見えたその時・・・!!
深追いはいけない・・・それが鉄則!!勝頼は撤退をするように言いますが、盛政は勝家の命令を無視し、敵陣深くに留まり続けます。

岐阜に向かっていたはずの秀吉軍が・・・戻ってきました。
途中で大雨に遭い、吉備川と長良川が氾濫したために、大垣で足止めを食らっていたのです。
そう・・・まるで、天が秀吉に味方しているかのように・・・!!
4月20日正午、盛政の奇襲攻撃を聞いた秀吉は叫びました。
「我、勝てり!!」

秀吉は大垣から本陣のある木之本までのおよそ5kmを、わずか5時間で駆け抜けました。
世にいう”美濃大返し”です。
舗装されてもいない山道を時速10km以上!!
総重量30キロの具足をつけての奇蹟の移動でした。
どうして美濃大返しは可能だったのでしょうか?
槍をもって具足でつけての時速10kmは無理なので、身軽になって走ります。
当時はお貸し具足というのがあり、長浜城にあるそれを使って手ぶらの兵たちにその武具を使わせたようです。
また、この美濃大返しを可能にした立役者が秀吉の側近・23歳だった石田三成です。
兵站部として緻密な計画を立て・・・人員・装備の調達や輸送を管理していました。
沿道の民家に握り飯や替え馬などを用意させていたようです。
全てを手配し、マネージメントしたのが三成だったのです。
美濃大返しで高い評価を得た三成は、秀吉の重臣として天下統一へと向かうこととなります。
4月20日午後4時、秀吉は、機関の準備が整うと、すぐに大垣を出発!!
秀吉隊・1万5千の激走大移動!!
5時間後木之本へ到着した秀吉軍・・・大岩山で野営をしていた佐久間盛政は、赤々と灯る無数のたいまつに秀吉の帰還を知り驚愕します。
そして真夜中・・・盛政は闇夜に紛れるように撤退を開始します。
この時を待っていたかのように、秀吉は総攻撃を命じます。
50キロも走ってきて・・・敵も疲弊しきっているに違いない!!
攻撃は明日だ・・・!!と思っている盛政のスキを突いたのです。

逃げる盛政隊を追いつめる秀吉軍!!
一斉に敵軍に攻め込んでいきます。
最前線で活躍したのが、若武者・・・のちの賤ヶ岳七本槍です。
一番首を上げたのは、23歳の福島正則です。
そのほかにも、肥後の虎・22歳の加藤清正、片桐勝元、糟屋武則、平野長泰、脇坂安治、加藤嘉明・・・。
みな、20代から30代・・・若くて体力があったことで、過酷な移動に耐え活躍できたのです。
この戦で武功を上げた7人は、秀吉の天下取りを支えていくこととなります。

七本槍の猛攻の前に、必死の抵抗もむなしく・・・戦場となった余呉湖湖畔は修羅の場と化し、湖は両軍の血で真っ赤に染まったといいます。
撤退しながらも応戦する盛政、次々と討ち取られていく中でも勝負を捨てません。
前田隊と合流するまでは・・・!!
体制を整えて反撃に出るために・・・!!
しかし、その一縷の望みも、前田隊の突然の戦線離脱によって消え去ります。

柴田勝家からすると裏切りとなりますが、織田家家臣と言う意味では同格です。
大将と運命を共にするのではなく、勝ち馬に乗るのが当然なのですが・・・
利家は、親父殿と呼んでいた勝家についていましたが、秀吉とは幼いころから苦楽を共にしてきた親友でした。
どちらに着くか・・・??その決断に、中立を保つために戦場を退いたとも、秀吉との間に戦を前に土壇場で兵を引くという密約をしていたともいわれています。
利家の戦線離脱に、盛政隊は前後から秀吉軍の猛攻を受け、4月21日正午盛政隊総崩れ・・・。

盛政隊が崩れると、勝家本隊でも脱走者が続出し、残った兵はわずか3000だったといいます。
勝家は残りの兵で、最後の一戦交えようとしますが、家臣たちの説得に止む無く越前への撤退を始めました。
こうして賤ヶ岳の戦いは、秀吉の圧勝に終わりました。
秀吉が美濃から帰ってきて、わずか1日も経っていませんでした。
秀吉軍の中には、勝家の助命嘆願を願うものもいましたが、秀吉は
「池辺に毒蛇を放ち、庭前に虎を飼うようなものだ。」と、受け入れませんでした。

4月24日、越前に戻った柴田勝家は、秀吉軍の追撃を受ける中、お市の方とともに自害!!
城内にあった火薬に火を放ち、天守ごとと吹き飛ばす壮絶な死。。。

賤ヶ岳の戦い・・・秀吉にとっては、天下取りの最大の戦いでした。

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