木曽義仲に出会う旅

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平安時代末期の1184年1月20日・・・今から800年以上前・・・
平家討伐の功労者が31歳で命を落とした。
源氏の対象のひとり・・・木曽義仲です。
義仲を討ったのは、あろうことは同じ源氏の源義経でした。
判官贔屓という言葉が生まれるほど人気のあった義経と敵対することで、敵役として語り継がれてきた木曽義仲・・・暴れん坊ともそば繋否か者ともいわれていますが・・・本当にアンチヒーローだったのでしょうか?

木曽義仲・・・本名は源義仲。
木曽の山国で育った猛者のイメージがありますが・・・色白のイケメンだったようです。
後に鎌倉幕府を開く源頼朝やその弟義経とは従兄弟で、やがて対立していくこととなります。

木曽義仲は、1154年武蔵国に生まれます。
父・源義賢は、皇族の流れをくむ武家の名門を束ねる頭領の一族で、関東の上野国や武蔵国の北部を治めていました。
そんな義賢の子として源氏の武将となることを約束された義仲でしたが・・・わずか2歳の時に悲劇が・・・
父・義賢が殺害されてしまいました。
首謀者は義賢の母親違いの兄・義朝でした。
武蔵に地盤を築いていた義朝が、いずれは弟の義賢が対抗勢力になると恐れ、わずか15歳の息子・義平に命じて亡き者にしたのです。
まさに、血で血を洗う骨肉の争い・・・
義賢の子・義仲もまた父親と共に殺されるはずでした。
そんな義仲の命を救ったのは・・・義朝に仕えていた斎藤実盛です。
残された義仲を不憫に思った実盛は、敵にも関わらず追手から逃すために、木曽の豪族・中原兼遠に預けます。
兼遠は、源氏の頭領の血を受け継ぐ義仲を、将来源氏の大将にすべく、育てていきます。
そのために、兼遠が常々言い聞かせていたのは・・・
「平家を討つことこそ、そなたの定めよ」
真の敵は、父を殺した身内ではなく平家であると・・・!!
義仲は、いずれ源氏の大将となって、兼遠の恩に報いたいと思うようになりました。
そんな義仲の思いが通じる時が、刻一刻と迫っていました。

義仲が木曽の山中で伸び伸びと育っていた頃、京の都では源氏が由々しき事態に追い込まれていました。
源氏と敵対する武家の勢力、平家を束ねる平清盛が平治の乱(1159年)で源氏を束ねる源義朝に勝利、。
義朝は、東国に逃れる途中で殺されてしまいます。
勝者となった清盛は、官職のTOPである太政大臣にまで上り詰めました。
そして清盛一門は、全国に多くの領地を得、朝廷の主な官職を独占!!
清盛の娘・徳子は高倉天皇の正室となり、生まれた孫を安徳天皇に・・・!!
まさに、平家に非ずんば人に非ず・・・清盛一門は栄華を極めます。
このことを苦々しく思っていたのは、天皇を退いた後、院政をしていた後白河院でした。

「平家を倒さねば・・・!!」

この思いを受けて、対平家の急先鋒となったのが、後白河院の三男で安徳天皇に代わり天皇の座を狙っていた以仁王でした。
以仁王は、全国の源氏に平家打倒の令旨を出します。
その令旨は、27歳になっていた木曽義仲にも届きました。
打倒平家は義仲が抱いていた悲願でした。

「平家を攻め落とし、日本に二人の将軍ありと言わせて見せよう・・・」

この二人の将軍とは、源頼朝と、自分のことでした。
平治の乱の後、伊豆に流刑となっていた頼朝が、東国の武士たちを結集して兵をあげていました。
まさに、義仲にとって、千載一遇のチャンスでした。

「源氏の将軍として名乗りを上げようぞ・・・!!」

さらに、義仲が兵をあげたもう一つの思いは・・・
義仲の兄は、以仁王に仕えていました。
以仁王は令旨をばらまき、それがバレて殺されてしまいます。
その時、兄も討たれていました。
平家は兄の仇だったのです。
そして、亡くなった兄の代わりに以仁王の命令を成し遂げる・・・!!
父が殺されたことで離ればなれになってしまった兄・・・その無念を晴らしたい・・・!!
義仲は、兄の思いも背負って挙兵したのです。
平清盛は・・・「山猿の義仲など、案ずるに及ばずじゃ・・・」と、気にもかけませんでした。
しかし、義仲は挙兵の1か月後には上野国に進出!!
父・義賢の領地を取り戻します。

頼朝は、1180年富士川の戦いに勝利していました。
二人の大将が、平家を圧倒し始めます。
そんな中・・・1181年2月・・・絶対的権力者の平清盛が亡くなります。
屋台骨を失った平家・・・これによって天下の形勢は一気に源氏に・・・!!

1181年越後の平家軍と戦うこととなった木曽義仲・・・
平家軍はこの時6万の大軍勢・・・対して義仲軍は、圧倒的に不利な2千でした。
この2つの軍勢が激突!!横田河原の戦いです。
その結果は、義仲軍の勝利!!
その強さの秘密とは・・・??

①義仲が対象として作戦能力に長けていた
この時、義仲がとった戦略が・・・平家軍と思わせるために赤旗を掲げ、背後から接近するというものでした。
子の奇襲に平家軍は慌てふためき、その混乱に乗じて勝つことができたのです。

②木曽四天王など、結束力の強い優秀な家臣たちがいた
非常に忠誠心の強い家臣がそろっていました。
木曽四天王・・・今井兼平、楯親忠、根井行親、樋口兼光・・・絶対的な家臣がいたのです。

こうした結束力をもたらしたのは、義仲が何よりも義と情けを重んじ、家臣たちを大切にしていたからでした。
その中に・・・伝説の女武者・巴御前の姿も・・・!!
平家物語には義仲と濃い中だったと書かれており、その人物像は・・・
”巴は色白く、髪長く、容顔真に優れたり
 一人当千の兵なり”

美人なだけでなく、一人で千人に値する兵だった・・・
その活躍は、横田河原の戦いで、7人の武将を討ち取って功名を得たと記されてもいます。
家臣たちの活躍もあって平家軍に勝利した義仲でしたが・・・
1183年、義仲を震撼させる一報が・・・!!
鎌倉の源頼朝が義仲に大軍を差し向けたというものでした。
頼朝は、味方であるはずの義仲に兵を向けたのでしょうか?

当時、頼朝は坂東(関東)周辺の源氏一族を討伐していました。
その中のひとりとして義仲を・・・!!
そんな頼朝に対し、和議を申し入れようと使者を遣わす義仲。
すると、頼朝から出された講和の条件は・・・
義仲の長男・義高を人質として差し出させ、頼朝の娘と結婚させるというものでした。
当時、義高は11歳・・・周囲は猛反対しましたが、
義仲は「不要な戦はせぬ・・・信濃を戦場にはさせぬ」と、我が子を犠牲にしても信濃での無益な戦いを避け、家臣や民を守ろうとしたのです。

この後義仲は、1180年倶利伽羅峠の戦いでまたもや奇策を用いて大勝利を収めます。
それが火牛の計・・・牛の角に松明を括り付け、一気に平家軍に向けて放ったのです。
牛たちの突進から逃れようとして大混乱に陥った平家軍は、谷底に落ちていきました。
連戦連勝・・・破竹の勢いの義仲軍には、信濃や北陸から武士が集まってきました。
一方、清盛亡き後の平家軍は敗走をかさね、西国へと逃れて行ったのです。
義仲は、奢れる平氏に引導を渡し、源氏の世へと導いた時代の寵児となりました。

石川県小松市の多太神社には、木曽義仲が義と情けの武将であった証が残っています。
義仲が奉納した兜とすね当て・・・この兜をかぶっていたのは、義仲の父親が殺されたとき、降りかかる危険を省みず義仲を木曽へと逃がしてくれた忘れ難き命の恩人斎藤実盛のものです。
義仲を救った実盛は、主君が亡くなってから平家に従う身となっていました。
そして30年後・・・二人は加賀国篠原で敵味方として相まみえることに・・・義仲は、命の恩人を討ち取らせたのです。
実盛の首を前にした義仲は、その名を呼び、天を仰いだといいます。
戦の後、亡くなった実盛の兜を神社に奉納し、その死を弔います。
恩人の情けに報いるために・・・!!

1183年、木曽義仲はやっと京都に入ることに・・・。
朝廷の権力者・後白河院との謁見を果たします。
朝廷にとって大きな功労者であったはずの義仲・・・
しかし、人々は、山里育ちの武骨ものと嘲笑・・・??
しかも義仲は、都の人々の期待を裏切ってしまいます。
民衆が義仲に願ったのは、荒れ果てた都の治安の回復でした。
義仲は他の源氏と共に京都の警護をする京中守護に任じられたのですが、義仲に付き従った源氏の兵士の中から乱暴狼藉を働くものが続出し、治安がさらに悪化してしまいました。

失敗はさらに続きます。
安徳天皇が都を離れたことで、後継を誰にするのか問題が出て来ました。
後白河院は、高倉天皇の皇子で、安徳天皇の異母弟である四ノ宮を考えていました。
安徳天皇に血筋が最も近かったからです。
そこに待ったをかけたのが義仲でした。
平家との戦で死んだ以仁王の子・北陸宮を推薦したのです。
北陸宮は後白河院の孫ではあるものの、天皇の子でもなく、四ノ宮と比べると後継者の順位は低いものでした。
それでも義仲はこう言います。
「源氏が京を目指したのは、以仁王がいたからです。
 その子である北陸宮を次の帝にすることこそ、以仁王の死に報いることではありますまいか・・・!!」
この義仲の主張に後白河院は怒ります。

「武士の分際で、皇位継承に口を挟むとは何事か!!」

義仲が北陸宮を推したのは、以仁王に報いるため・・・そして、もう一つ理由がありました。
父を殺されたという北陸宮の状況に自分を重ねていたのです。
義と情けに厚いことがアダに・・・後白河院に疎まれることになります。

義仲が邪魔となった後白河院は、ある男の力を借りようと接触します。
源頼朝です。
頼朝もまた源氏に二人も対象は要らぬ!!と、打倒義仲を虎視眈々と狙っていました。
義仲が平家と戦っている間、頼朝は後白河院に密書を送り、朝廷への恭順の意を示すとともに自分には義仲を討つ覚悟があると伝えていたのです。
頼朝と通じていた後白河院・・・しかし、ある日義仲に自ら剣を与えこう言います。
「天下の乱れを鎮めよ・・・必ずや平家を倒せ・・・!!」
義仲に西国に逃れた平家追討を命じます。
義仲は後白河院から大役を命じられたと意気揚々と西国に・・・!!
後白河院が追討を命じたのは・・・??
義仲を京都から西日本に行かせて、頼朝を上洛させその頼朝に義仲を討たせようとしたのです。

そんな謀略だと知らずに平家追討に向かった義仲は、西国で力を盛り返していた平家に思わぬ苦戦を強いられます。
備中・水島の戦いでは、数千の兵を失うという大敗・・・。
苦境に立たされた義仲に追い打ちをかけるように都から報せが・・・

「鎌倉から大軍が押し寄せております!!」
「誰の命で動いておるのだ??」
「後白河院が命じたと・・・」
「まさか・・・」

この時初めて義仲は後白河院の謀略に気付きました。
本当の敵は、頼朝と手を組んだ後白河院だったと・・・!!

義仲は急遽、都へと舞い戻り、後白河院に激しく詰め寄ったと言います。
しかし、時すでに遅し・・・後白河院から追討の命を受けた頼朝が、遠征軍の指揮を義経に任せていました。
その義経の大軍が、すでに鎌倉を出陣していたのです。
こうして各地で義仲軍と義経軍との戦いが始まると、義仲軍は次々と破れていくこととなります。
後白河院はさらにしかけます。
京都にいた義仲以外の源氏を法住寺に集めて、義仲を討つための軍事強化を図ります。
信頼していた後白河院に裏切られた義仲の怒りはすさまじく、法住寺を攻めます。
後白河院を捕らえると幽閉し、義仲自身を征東大将軍に任じさせるという強引に反撃に出ます。
こうして、義仲は頼朝よりも先に将軍となったのですが・・・
これこそが、後白河院が待ち望んだ事でした。
案の定、義仲による後白河院の幽閉があまりに横暴と、公家や武士たちが猛反発!!
こうして孤立した義仲は四面楚歌に・・・。
敗色濃厚な義仲軍からは、見切りをつけた兵たちが次々と去っていきました。

1184年、源氏の大将として常勝を誇り、かつては数万の大軍勢を率いた木曽義仲でしたが、各地で負傷兵や脱走兵が出る中、軍勢は僅か数千に激減・・・。
その勢いは見る影もありませんでした。
しかし、木曽四天王をはじめ、昔から義仲を支えてきた家臣たちは、誰一人去らなかったと言います。
義と情けを重んじる義仲と、難い絆で結ばれていたからです。
義仲は、武士道という言葉がまだなかった時代に現れた、類まれなリーダーでした。そして義仲軍は、今日の宇治川で義経率いる大軍と相まみえることとなったのです。(宇治川の戦い)

義仲の最期を記した平家物語には、仕え続けた巴御前との涙の別れが記されています。
敵が目の前に迫る中、義仲は巴御前に告げます。

「どこへでも逃れて行け。。。
 我は討死する覚悟だ。
 最期に女を連れていたなどと言われとうない・・・」

と、巴御前を生かそうとしますが・・・
しかし、巴御前は、

「殿、何を仰せか!!
 嫌でございます。」

巴御前は、義仲の傍から離れません。
それでも、義仲が生きろと諭すと・・・ようやく巴御前は聞き入れます。
その後、彼女は鎧兜を脱いで、東国へ落ち延びたと言われています。

そして、この宇治川の戦いに敗れた義仲が、最期に行った場所は、琵琶湖のほとりの粟津・・・。
そこでは、四天王のひとりでともに木曽の山で育った今井兼平が苦戦を強いられていました。
義仲は、命を落とすことを承知で家臣のもとへ駆けつけました。
しかし、もはや戦いに疲れ果てていた義仲は・・・

「日頃は何とも思わぬ鎧が・・・今日は重く感じられることよ。。。」

兼平が初めて耳にした主君の弱音でした。
すると兼平は・・・
「気の弱いことを申されるな。」
と励まし、名誉の自害を勧めます。

自害するため、敵に背を向けてその場を立ち去る義仲・・・
兼平は、義仲が自害を遂げられるように時間を稼ぎます。
そんな兼平を最後まで心配したのか・・・義仲が振り返った瞬間・・・
義仲の眉間を、一本の屋が貫いていました。

最期の最期まで家臣を思いながら、木曽義仲は散ったのです。
1184年、木曽義仲、31歳でした。

破った義経は、その後の平家との戦いでヒーローとなりました。
しかし、その義経も、後白河院と源頼朝の権謀術数にはまり、義仲と同じ31歳で生涯を閉じることとなります。
勝者となった頼朝は、1185年鎌倉幕府を開き、武家政権を始めることとなるのです。
源氏の覇権争いで頼朝に敗れた義仲について、芥川龍之介は・・・

”彼の一生は失敗の一生也
  彼の歴史は蹉跌の歴史也
 彼の一代は薄幸の一代也
   然れども彼の生涯は男らしき生涯也”

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