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今から800年以上前・・・武蔵坊弁慶が命がけで守ったのが源義経です。

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どうして平家を滅亡させたことができたのか??
兄弟はなぜ対立しなければならなかったのか??
奥州死亡説の謎・・・その真相に迫ります。

義経は1159年に、源氏の棟梁・源義朝と常盤御前の間に生まれました。
義朝の九男に当たるので、幼名を九郎牛若といいました。

生まれた年には平治の乱が起こり、父・義朝は清盛軍に完敗し・・・殺害されてしまいました。
義朝の子は、謀反人の子として清盛に迫害され・・・生き残った三男の頼朝は伊豆へ流罪・・・義経は9歳で鞍馬寺へ・・・
僧正ヶ谷で武芸の修業をした義経・・・天狗のような落人から修業を受けたとも言われています。
平家打倒の日を待ち続ける日々だったのです。
京都・五条大橋で出会ったといわれる弁慶と義経。。。弁慶に出会うのも、鞍馬の頃のようです。

16歳の時、義経は鞍馬を抜け出しました。
京にある首途八幡宮で道中の無事を祈願して・・・平泉へと下るのでした。
当時の平泉は人口10万人・・・京に次ぐ町として栄華を誇っていました。
支配していたのは・・・奥州藤原氏。。。
奥州で採掘される金や馬を朝廷に献上することで、独自の繁栄を築いていました。

そんな平泉に義経が逃げたのは・・・
母・常盤御前の知人がいたから・・・もう一つは、源氏の長老・源頼政の仲介によるものとも言われています。
頼政は、秀衡と交流があったとされ、義経の平泉行きに手を尽くしたと言われています。

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そしてそこには秀衡のもくろみもありました。
義経という、血統書付きのブランドが欲しかったのです。
源氏の貴公子をトップに据えて、後ろでコントロールし、自立政権を立てようとしていましたが・・・
義経の器量に惚れこんで、一人前の武士にしようと考えはじめました。


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その頃・・・京の都は・・・平清盛が栄華を誇っていました。
”平家にあらずんば人にあらず”です。

しかし・・・平家の台頭に不満を抱いていた後白河法皇・・・1180年以仁王は、源頼政と共に平家追討の命令を発します。
しかし・・・この情報は平家に漏れていて・・・以仁王と頼政・・・ふたりは命を落としてしまいました。
そこで立ち上がったのが、源頼朝でした。
平家追討の命を受け、伊豆で蜂起します。
頼朝は令旨を旗の先に掲げて進軍したと言われています。自分こそが以仁王より平家追悼を依頼されたと宣言したのです。

yoritomo頼政が亡くなったことによって・・・頼朝は頼政が築き上げていた”東国ネットワーク”を手に入れることができ、東国のリーダーと成り得たのです。
20万の軍勢と共に・・・富士川で平家軍と対立!!
七日目の夜・・・源氏軍の一部が平家軍の後ろにまわろうと川を渡り始めた時、水鳥が一斉に飛び立ち、大きな羽音が静寂を破りました。
平家軍はこれを敵の襲来と勘違いし、逃げ出しました。
頼朝は戦わずして勝利したのです。

頼朝の挙兵に、心が逸る義経・・・22歳・・・
奥州から、兄・頼朝のもとへ駆けつけます。
兄弟初めての対面でした。

1183年平家追討の旗を立て木曽義仲入京。
義仲を恐れた平家は、西へ落ち延びていきます。
平家を追討した義仲でしたが・・・家臣の狼藉によって自らも追われる身となってしまいました。
頼朝は義仲追討を命じられ・・・その大役を仰せつかったのが義経でした。
1184年鎌倉軍を率いた義経は、義仲追討に成功!!
頼朝は労をねぎらって・・・縁談を薦め。。。
義経は頼朝の乳母・比企尼の孫を娶ります。

仲が良さそうに見えるふたり・・・
しかし、鶴岡八幡宮では・・・頼朝は義経に、大工に与える馬を引くように命じています。
これは本来身分の低い者が行うことでした。
戸惑う義経・・・どうしてこんな仕打ちを。。。

頼朝は、武家の秩序を示したかったのです。
平家を倒し、武家政権を樹立しようとしていた頼朝・・・たとえ義経が弟であったとしても、家臣であるという位置づけにしていました。
自分に従う弟を見せることで、周囲にも厳しい主従関係を求めたのです。

平家打倒を実現しなければ・・・!!
京に戻ってきていた平家を討伐しに向かいます。

1184年2月、一の谷の戦い・・・源氏は海側・山側からの挟み撃ちを計画!!
馬で崖を下る義経の奇襲によって源氏は大勝利!!

義経は京に招かれ・・・後白河法皇から従五位下・・・検非違使の位をもらいます。
義経は朝廷から官位をもらうことは源氏にとって大変な名誉であると受けるのですが・・・
頼朝から出陣命令が・・・!!
屋島の戦いです。
平家最大の拠点を叩こうとします。
水軍には太刀打ちできない・・・??
そんな劣勢の中・・・1185年2月17日・・・時化ている海・・・わずか5艘で出陣する義経。
屋島で・・・周囲の民家に火を放ち、背後から大軍で襲ったように見せかけます。
慌てた平家は、逃げまどい・・・陥落・・・。

そして、最後の戦い・・・決戦の地は壇ノ浦。
水軍の多くは、屋島の戦いの後、源氏につき、圧倒的な強さを見せつけます。
その水軍を率いる義経。

清盛の血を引く安徳天皇の入水によって源氏の血は絶たれてしまうのでした。
義経は、兄と共に誓った悲願をここに達成したのです。

その後鎌倉に向かう義経・・・。
しかし、腰越で足止めを食らってしまいます。
それを命令したのは頼朝でした。

義経が兄を怒らせた理由は・・・

①義経の名声
一の谷の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の戦いによって名声を得、朝廷から官位をもらって喜んでいたからです。
朝廷が武士を自分の味方に引きたてる場合、常に「官職」というご褒美を用意します。
そんなことに敏感な頼朝はご褒美を受けようとはしていませんでした。
天真爛漫な義経の感覚・・感触をもらうことの恐ろしさの自覚がないことに対して危ないと思っていたのです。
鎌倉幕府にTOPは二人も要らない・・・!!

②後白河法皇の策略
平家打倒のために共に戦った頼朝と義経・・・ふたりの間に大きな亀裂を入れたのは、後白河法皇でした。
院政を敷いていた後白河法皇は、源氏と平家を巧みに利用していました。
常に”敵の敵”に乗り換えて、引きたてることによって自分の力を維持していました。
後白河法皇の壮大な計画・・・
京都から西を義経、関東八州を頼朝、奥州藤原・・・武家政権を分散させてその上に朝廷を置くというものでした。
しかし、その構想は、新しい武家政権を目指す頼朝とは相反するものでした。
やすやすと術中にはまった義経に腹を立てた頼朝。。。

③奥州藤原氏の存在
平家を滅亡させたのち、藤原氏の家臣・砂糖忠信とともに官位を授けられた義経。。。
秀衡の家臣と共に官位を授かったことに、頼朝が激昂!!
源氏のライバルだった藤原氏だったからです。
義経の背後には、常に秀衡の影が・・・このつながりを警戒したのです。

1185年10月、失意の中・・・京に戻った義経・・・兄・頼朝の差し向けた追っ手に襲われます。
兄が自分の命までも・・・と思った義経は、頼朝追討を朝廷に願い出ます。
が、この時頼朝からの圧力を受けていた朝廷は、義経の官位を剥奪し、反対に追討命令を出したのです。

朝廷の後ろ盾を得て・・・頼朝は義経追討を高らかに宣言します。
追われる身となった義経。。。
朝敵となった義経は、山伏に扮し、わずかな友と共に奥州藤原氏を目指します。
頼朝によって関所が作られていたために、その道のりは苦しく・・・

安宅の関では有名な・・・勧進帳として今に伝わっています。

逃亡1年・・・ようやく奥州にたどり着いた義経・・・
頼朝と敵対するを覚悟して義経を受け入れてくれた秀衡。
しかし、秀衡が病に倒れ・・・子供たちには、義経を大将軍として奥州の政をさせること・・・義経と協力して頼朝を討つことを遺言します。

奥州将軍となった義経・・・
陸奥・出羽・・・東北一円を占領して、リーダーを発揮する義経。
のべ45万人を使って二重掘りの阿津賀志山防塁を築き、頼朝に備えます。
1189年藤原氏泰衡の追討命令を願い出た頼朝。
義経を庇う罪は重い!!
衝撃を受けた泰衡。。。
朝廷に反逆者として見られてしまったら・・・
思い悩んだ泰衡は苦渋の決断をします。

「平泉を守るために義経を討つ!!」

泰衡の差し向けた兵によって、わずか20人の義経・・・お堂に逃げ込み自刃しました。
この時31歳。。。

その4か月後、頼朝は大軍を率いて東北へ・・・!!
1189年8月22日平泉陥落・・・奥州藤原氏は滅亡しました。
義経はどうして頼朝に殺されたのか・・・??
義経は、兄・頼朝の全国制覇の犠牲となったのです。

ここから武士の世が始まりました。
義経の死は・・・武士の世に捧げられた命でした。


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