日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:源頼朝

鎌倉で長い歴史を誇る鶴岡八幡宮・・・
この境内に、雄々しく凛とした社があります。
白旗神社・・・祀られているのは、鎌倉で日本初の武家政権・鎌倉幕府を開いた源頼朝です。
武家の頂点を極めた頼朝・・・その人生はまさに波乱万丈でした。
どうして流人から将軍になれたのでしょうか・・・??

流人から武士の頂点となった源頼朝・・・どうやってそこに至ったのでしょうか??

①1159年 平治の乱

1143年、頼朝は源氏を束ねる武家の棟梁源義朝の子として京の都で生まれたと言われています。
三男でしたが、嫡男として育てられます。
それは、母親の家が名門貴族の藤原家の血をひき、熱田神宮の宮司をしていたことで、二人の兄の母より家柄や地位が高かったからです。
血筋に恵まれたこと、父・義朝が後白河上皇の近臣・藤原信頼の信頼を得ていたこともあって、頼朝はわずか12歳で後白河上皇の姉・上西門院統子に仕えることになります。
その翌年の1159年、蔵人に就任・・・宮中の全ての事務、行事に関する職で、出世の登竜門でした。
そして、同じ年、頼朝は13歳で初陣を果たします。
それが平治の乱!!
父・義朝が、朝廷の実権を握ろうとした藤原信頼と共に起こした内乱です。
武家のライバル平清盛が熊野詣で京の都を留守にしていたすきに、後白河法皇の屋敷を襲撃・・・
上皇とその息子である二条天皇を幽閉したのです。
このクーデターにより、父・義朝は受領の最高峰の播磨守に・・・
初陣を飾った頼朝は、右兵衛権之佐になりました。
これは、源氏にとって大きな意味を持っていました。

右兵衛権佐は、朝廷の有力者の子弟が任命される地位で、官位が四位以上の者が命じられることが多かったのです。
当時まだ従五位下であった頼朝が命じられたことは、源氏の家柄が非常に上昇していたことを表しています。
父・義朝たちの目論見は、うまくいったはずでした。
ところが・・・クーデターを知った清盛が、急遽京の都に戻ってきました。
清盛の挙兵によって、後白河法皇と二条天皇が脱出・・・
これによって、義朝たちは一変・・・賊軍となってしまいました。
そして、清盛の武力の前に惨敗・・・父・義朝は敗走中に謀殺されます。
父とはぐれた頼朝は・・・??
平家方に捕らえられてしまいました。
元服していれば処刑される・・・頼朝も、その例にもれず処刑されるはずでした。

清盛の母である池禅尼が亡くした子供に似ているからと命乞いをしたと言われていますが、元服して戦に臨んだ敗軍の武士が処刑されることを武士の妻である池禅尼が理解できないはずはありません。
亡くした子供に似ているから・・・ではなく、頼朝の助命嘆願は圧力をかけられていたからです。
その圧力とは・・・上西門院統子と後白河法皇でした。
頼朝の母の一族に助命を懇願されたので、池禅尼に圧力をかけたのだと思われます。

1160年3月11日、頼朝は京の都を追われ、伊豆の伊東に流されます。
その身は、平家方の有力豪族・伊東祐親の監視下におかれるも、ある程度の自由は認められていました。
損なる人生活が十数年続いた頃・・・
頼朝は伊東祐親が上洛している間に、祐親の娘・八重姫と恋仲になり、男の子・千鶴丸を設けてしまったのです。
これを知った祐親は激怒!!
娘と頼朝を引き離したばかりか、なんと千鶴丸を殺害してしまったのです。
さらにその後、頼朝の暗殺まで計画・・・頼朝に再び命の危険が迫ります。

この危機にすくいの手を差し伸べたのが、祐親の次男で暗殺計画に反対していた伊東祐清です。
その祐清の手引きによって、頼朝は辛くも伊東から脱出。
蛭ヶ小島にうつるとその在庁官人だった北条時政の保護を受けることに・・・
その後、31歳になった頼朝は、時政の娘・政子と結婚。
1178年娘・大姫が生れました。
流人でありながら、おだやかな生活を手に入れたのです。
そんな中でも胸の奥には武士としての滾るものがありました。

「いつか・・・父の仇・清盛を討つ!!」by頼朝

しかし、”平家にあらずんば人にあらず”と言われるほど、清盛を中心とした勢いは増すばかり・・・
頼朝は、伊豆に流されてから20年を過ごすことになります。
流人である頼朝には、武力も何もなく、周囲も清盛が平家を攻撃するとは思っていませんでした。
本人も、平家との立場の違いに、仇討ちを諦めていたのです。

「もはや・・・平家を討つことはかなわぬのか・・・??」by頼朝

流された伊豆の地で、父の仇である平家を討つと誓いながらも、20年・・・勢力を増す平家に挙兵できていませんでした。
そんな中・・・
1180年4月、平家の権勢を良しとしない後白河法皇の皇子・以仁王が挙兵に動きます。
全国の武士に、平家を討つために立ち上がって欲しいと願ったのです。
その知らせは、伊豆にいる頼朝のもとにも届けられました。
遂に、平家に一矢報いることができる・・・!!はずでした。
ところが、以仁王の乱は、平家の知る処となって鎮圧・・・
平家の今後の出方と反平家の武士たちの動向を見極め、頼朝はどう動くのか??慎重に考えました。
頼朝は伊豆周辺の状況を見ながら、虎視眈々と味方集めをしていきます。
以仁王の乱の後、それまで源氏の一族が治めていた伊豆の国の知行国主の座に平時忠がつきます。
平家による支配が色濃くなったことで、北条氏を含む伊豆の武士たちは反発!!
頼朝はそんな彼らを味方に取り込んでいきました。
さらに・・・相模・上総は後白河法皇の知行国でした。
それが平家が知行するようになり、後白河法皇の知行国の武士たちは圧力を受けるようになったのです。
頼朝はそうした平家の圧力に不満を抱く、相模や上総の武士たちにも目をつけます。
すぐに相模に腹心を派遣し、味方に引き入れることに成功します。

「ついに・・・機は熟した!!」

②1180年 源頼朝挙兵

8月17日、頼朝は平家打倒の狼煙を上げます。
しかし・・・相模国の石橋山で、平家方の大庭景親軍と激突するも、圧倒的な兵力差で惨敗を喫してしまいます。

「まだ、兵が足りぬか・・・!!」

そこで頼朝は、更なる味方集めに奔走します。

「平家によって幽閉されている院(後白河法皇)を共に救おう!!」と。

後白河法皇のためという大義名分が功を奏したのか、上総、下総の有力武将が頼朝の味方に・・・
更には、平家に不満を持っていた関東各地の有力武将たちもが次々と合流・・・平家方の武将を倒していきました。
すると、その形勢に平家方の武将の中にも頼朝に下る者たちが現れます。
こうして頼朝は、流人ながらも強大な軍団を作り上げることに成功します。
10月6日、源氏ゆかりの地鎌倉に入り、本拠地とします。
石橋山での敗戦から、わずか1月後のことでした。
頼朝は、行きつく暇もなく、京から送り込まれている大軍を迎え撃つべく出陣!!
黄瀬川沿いに布陣し、富士川の近くに陣を構えた平家軍と対峙します。
富士川の合戦です。
両軍に走る緊張・・・ところが・・・
10月20日未明・・・一斉に飛び立った水鳥の羽音を、源氏軍の紀州と勘違いした平家軍が、慌てふためいて逃げて行ったのです。
戦わずして勝利した頼朝は、実質的に関東を支配することとなりました。
頼朝は、平家という共通の敵を作り、勝ったら平家の所領を与えることにしました。
そうやって武士たちを繋ぎとめていたのです。
この新恩給与を朝廷にも認めさせ、後の地頭という制度につなげていきます。
頼朝に従っていた武将たちは、やがて御家人となり、頼朝と御家人との間には、「御恩と奉公」という関係が生れ、これが鎌倉幕府を支える基本となっていきます。
20年間流人として生きてきた頼朝には、東国の武士たちが何を望んでいるのか・・・それを知っていたからできたことです。

この合戦後、運命的な出会いをすることとなります。
腹違いの弟・義経との初体面です。
平時の乱の混乱のさ中に生れた義経は、幼いころに京の鞍馬寺に預けられるも、打倒平家を胸に京の都を脱出、奥州・平泉へ・・・!!
藤原秀衡の庇護を受け、武士として立派な成長を遂げていました。
そして・・・義経は、兄の挙兵を聞きやってきたのです。
二人は涙しながら語り合ったと言います。
こうして頼朝と義経は、力を合わせて打倒平家に邁進することとなるのです。

③1181年 平清盛死去

関東の武士たちを味方につけ、富士川の合戦で平家軍に勝利した頼朝は、鎌倉を拠点に実質的に関東を支配することになりました。
しかし、頼朝は平治の乱で平家に敗れて以来、いまだ朝廷に弓を引いた謀反人のままでした。
そこで、上洛して後白河法皇に近づき、どうにかして謀反人の立場をといてもらおうと考えていました。
その策は・・・平家の打倒と後白河法皇の救援と建前として上洛することです。
ところがそんな頼朝のもとに衝撃的な報せが・・・!!
平家を率い、強大な権力を有していた平清盛が熱病で急死したのです。

「なんと!!あの清盛が死んだ・・・??」

清盛の死で、頼朝の策は破綻します。
大黒柱を失った平家が政権を返上したことで、後白河法皇の院政が復活!!
頼朝が上洛する理由が無くなってしまったのです。



そこで頼朝は驚くべき策を・・・!!
源氏と平家の和平です。
頼朝は後白河法皇に書状を送り、こう申し入れます。

❶院(後白河法皇)への敵意はない
❷これまでの行動は、院の救済が目的
❸院が平家の滅亡を望まない場合は、朝廷の支配のもとで源氏が東国、平家が西国の治安維持を担当する

後白河法皇は、この頼朝の案に興味を示しますが、平家は猛反発します。
亡き清盛の遺言があったからです。

「かならずや我が墓前に頼朝の首を供えよ・・・!!」

結局、和平は結ばれませんでした。
しかし、これはすべて頼朝の思惑通りでした。
頼朝も、平家と和睦できるとは思っていませんでした。
この案を出すことで、後白河法皇の信頼を得ようとしたのです。
後白河法皇や朝廷の信頼を得るために、実現しないであろう和平工作を上奏したのです。
実際法皇は、突っぱねた平家に不信感を抱き、頼朝に近づいていきます。
こうして上洛への道筋を作った頼朝・・・その最終目的は、謀反人の汚名を雪ぎ、朝廷を守る唯一の官軍になること・・・しかし、横やりが・・・!!

④1183年 木曽義仲 上洛

それは、同じ源氏・いとこの木曽義仲が先に上洛。
平家を都落ちさせてしまったのです。
おまけに義仲は後白河法皇に面会、平家追討の宣旨を受けました。
一説にはこの時義仲は、頼朝を謀反人のまま据え置くように働きかけたと言います。
こうして後白河方法の信任を得た義仲が、頼朝より官軍として平家追討軍を率いることに・・・!!
頼朝は、上洛の機会を逸してしまいました。
ところが、義仲軍の兵士たちが、京の都で乱暴狼藉を働いたことで、後白河法皇が激怒!!
これを知った頼朝は、すぐさま後白河方法に使者を送り、如何に自分が法皇のために力を注いでいるのかをアピール・・・その苦労が実ったのか・・・

1183年10月9日・・・
頼朝は朝廷から謀反人の立場をとかれ、従五位下に任じられます。
14歳で伊豆に流されてから23年・・・37歳でようやく少年時代の官位に返り咲きました。
そして、この5日後・・・朝廷に認めさせたのが・・・

❶東国にある荘園の年貢や税は、頼朝が徴収して、朝廷や荘園領主におさめる
❷これに違反する者がいれば、朝廷は頼朝に追討を命じることができる

これにより頼朝は、名実ともに関東の支配権を得ます。
京の都では、後白河法皇や朝廷の信頼を失った木曽義仲を追討のため、頼朝の上洛を期待する声が・・・!!
その声に応え、頼朝が今日に派遣したのが弟の源義経でした。

1184年1月・・・
義経は宇治川の合戦で義仲軍と激突!!
見事、義仲を討ち取りました。
これで、ライバルがいなくなり、頼朝が平家追討の旗頭となったのです。

⑤1185年 平家滅亡

頼朝は平家追討のために、弟の義経を西国に派遣。
兄の期待に応えるように、義経は一の谷の合戦や屋島の合戦で奮戦し、平家を追いつめていきます。
そして、1185年3月・・・壇ノ浦の合戦で平家軍に勝利!!
頼朝の挙兵から4年半・・・ついに源氏が平家を滅ぼしたのです。

平家を滅亡させた功労者となった義経・・・
父も兄もなくしていた頼朝にとって、義経の存在は心許す唯一の存在でした。
そんな義経を、頼朝は自分の子として迎え入れ、後継者にしようとしたほどでした。
ところが・・・頼朝は、次第に義経と対立を深めていきます。
1184年8月6日、義経は法皇から左衛門少尉を与えられ、検非違使の職を宣旨られます。
義経は、源氏の権威が上がったと、兄頼朝も喜んでくれると思いました。
しかし・・・平家追討に対する恩賞を誰に与えるのかは、自分が申請すると朝廷に申し出ていた頼朝は、自身の許可を得ず官職をもらった義経に激怒!!
これが、頼朝と義経の対立の原因だと吾妻鏡には書かれています。
しかし・・・頼朝は、義経が検非違使になった後も、後白河法皇との取次などを任せています。
むしろ、頼朝は義経を検非違使に推挙していた可能性もあるのです。

⑥1189年 源義経 追討

血を分けた兄弟である頼朝と義経・・・
二人はともに平家打倒の宿願を果たしましたが、その後激しく対立!!
頼朝は実の弟である義経を死に追い込んでいくこととなります。
どうして頼朝は弟の義経を追討したのでしょうか?

通説では、頼朝は自分の許可も得ずに検非違使の職をもらったことに激怒し、二人の対立の原因とされてきました。
義経の検非違使就任は頼朝も了承していた可能性があります。
問題だったのは、義経が検非違使の職にとどまり続けたことだったのでは・・・??

対立の理由
❶検非違使留任問題
頼朝は平家追討の勲功として義経に伊予守の官職を与えるように推挙していました。
京の都の治安を守る検非違使は、京に留まる必要があります。
しかし、伊予守などの受領は、必ずしも現地に行く必要がありません。
頼朝は義経を伊予守に就任させ鎌倉に呼び戻し、自分の近くに置いておこうと考えていました。
ところが、義経は、伊予守の職をもらった後も、辞任しなければならない検非違使に留任し、京の都に居続けたのです。
これに頼朝は腹を立て、二人の仲に決定的な亀裂が生じたのです。
頼朝は、自分の軍が朝廷を守る唯一の官軍になることを目指していました。
しかし、義経は検非違使として京に留まることで後白河法皇の直属軍になる可能性がありました。
義経の検非違使留任が、頼朝軍を唯一官軍にする大きな妨げとなったのです。

❷後継者問題
弟義経との初体面から2年・・・
1182年8月に頼朝の嫡男・頼家が誕生。
我が子を跡継ぎにしたい頼朝は、弟・義経の存在を疎ましく思うようになっていきます。
義経が源氏の後継者となり、よりいrが退けられることを頼朝は恐れていました。
下手をすれば、源氏が二つに分裂し、頼朝が築いた権力が消滅する危険性があったのです。
頼家を後継者にする弊害となり、源氏内の派閥闘争の火種となる義経を排除したかったのです。

1187年、義経が藤原秀衡を頼って平泉に到着。
一方、頼朝は義経追討の宣旨を受けます。
しかし、秀衡の強大な軍事力を前に、頼朝は手を出せずにいました。
ところが・・・10月29日、秀衡は病死。
頼朝は義経追討に動きます。秀衡の後継者である泰衡に圧力をかけ、義経と奥州藤原氏の分裂を画策。
泰衡は家を守るために義経を攻撃することに・・・!!
追いつめられた義経は・・・
1189年4月30日、義経自害!!
その後、頼朝は平泉に兵を送り込んで、強大な力を有していた奥州藤原氏を滅ぼすのです。
これで敵対する武家勢力は消滅・・・頼朝は遂に武家政権の頂点に立ったのです。

⑦1192年 頼朝 将軍就任

弟である義経や、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、1190年11月7日、上洛。
一千騎の兵を従えて堂々たる行列で京の都に戻ってきました。
14歳で都を追われてから30年の月日が経っていました。
この時頼朝は武官の最高位・右近衛大将に任じられ、名実ともに武士の最高位に上り詰めるのですが・・・
わずか9日後に辞任して鎌倉に帰ってしまいました。

右近衛大将は、朝廷の政務、儀式への参加が主な仕事・・・京の都に絶えずいなければなりませんでした。
頼朝は拠点とする鎌倉で体制を盤石にすることを優先しました。
頼朝は、鎌倉にいても務まる権威ある官職を朝廷に求めます。
そうして2年後、朝廷から賜ったのが・・・
1192年、征夷大将軍・・・46歳でついに流人から将軍となりました。
その3年後、頼朝は再び上洛。
妻・政子、嫡男・頼家、娘・大姫らを引き連れてのことでした。
頼朝は、娘の大姫を、時の後鳥羽天皇の妃にしようと考えていました。
朝廷の有力者に大姫を紹介し、後鳥羽天皇との縁談を取り持ってもらおうと・・・
大姫を入内させ、男子が生れればそれは天皇・・・源氏は天皇の外戚となり、強大な権力を得ることができます。
大姫を嫁がせることで、源氏と北条氏の権威が上がると頼朝は考えていました。
源氏と北条氏が天皇の縁戚となり、高い権威を持つことで、幕府の安定を図ろうとしたのです。

ところが・・・入内を待たずに娘の大姫は入内を待たずに病死・・・。
20歳だったと言われています。
かなしみいえぬままに大姫の代わりとしてその妹の入内計画を始めますが・・・
最後の願いはかなわず・・・
1199年正月13日、源頼朝、53歳で病死。
志半ば・・・波乱に満ちた生涯でした。

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日本列島が今のような形となった縄文時代から繋がってきている日本の歴史・・・
日本の教科書で学びましたが・・・現在、教科書は4年に1度改訂されています。
学んだ教科書の中身も変わってきています。

縄文時代の始まりは、1万2千年~1万3千年前と習いましたが・・・
1998年、青森県大平山本遺跡から出土した縄文土器を測定したところ、1万6500年前と結果が出ました。
なので、今の教科書では、1万6500年前とされています。

教科書の内容も変わってきているのです。

いい国つくろう鎌倉幕府・・・1192年・・・と習いました。
1192年鎌倉幕府成立!!と。
その根拠は、源氏の頭領・源頼朝が征夷大将軍に任命された年だからです。
しかし、鎌倉幕府の成立年には、今は6つの説が唱えられています。

①1180年説
当時、平清盛を中心とした平家が政治の実権を握っていることに大きな不満を抱いていたのが後白河法皇でした。
その意を汲んで、王子である以仁王が1180年に平家討伐の狼煙をあげると、これを受け、平家によって伊豆に流されていた源頼朝も挙兵。
鎌倉に入り、侍所を設置、関東などの実質的支配に乗り出します。
この頼朝が鎌倉に入った年こそが鎌倉幕府成立の年です。

②1183年説
頼とも同様、挙兵した木曽義仲は、平家討伐に貢献するも、家臣たちの粗暴さから朝廷から京都の人々から反感を買います。
すると、後白河法皇は、その身内である源頼朝に討伐を命じます。
頼朝はその見返りとして1183年10月に宣旨を受けます。
その時、朝廷が頼朝に対し、関東の荘園の支配権を与え、鎌倉での政権を公式に認めるというものでした。
つまり、朝廷に政権を認められた年が1183年です。

③1184年説
頼朝は、鎌倉に公文所(政務と財務を扱う)と問注所(裁判事務を行う)を置きます。
こうした幕府の初期官僚組織を形成した年が1184年です。

④1185年説
頼朝を中心とした源氏が、壇ノ浦で遂に平家を滅ぼします。
そしてこの年、頼朝は守護・地頭の任命権を得て、全国におきました。
頼朝が全国掌握に乗り出した年が1185年です。

⑤1190年説
頼朝は朝廷の武官の最高位・右近衛大将に任じられます。

⑥1192年説

このように6つの説がある中で、現在多くの教科書で採用されているのが、1185年説です。
その理由は・・・??
新しく守護・地頭を置く・・・頼朝が全国を支配する権利を得たということです。

どうして6つもの説があるのでしょうか?
それは、”幕府”の言葉の成り立ちです。
頼朝の時代、幕府という言葉は武家政権を表す言葉ではありませんでした。
幕府は、もともと中国で将軍の陣営を指す言葉でした。
日本では宮中の警護を司る近衛府及びその大将の通称なのです。
大将となった頼朝の館自体が幕府と呼ばれるようになったのです。
武家政権そのものを幕府と呼ぶようになったのは、江戸末期のことです。
それまでの武家政権は公儀、将軍は公方と呼ばれていました。
公的なもの・・・という呼び方をしていたのです。
しかし、武家政権を確立したのは頼朝です。
そのシステムは段階的に構築されてきたので、いつというのはどれを重視するかで説が分かれるのです。

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岩手県北上川の中流に位置するのが平泉・・・ここに、平安時代後期、黄金の国ジパングのいわれとなる大都市がありました。
その繁栄を築いたのが、奥州藤原氏です。

1124年上棟の中尊寺金色堂・・・繊細で美しい螺鈿や透かし彫りの金具に蒔絵・・・平安時代後期の技の粋を集めた国宝建造物第一号です。
そんな金色堂を含む中尊寺を建立したのが奥州藤原氏初代・藤原清衡です。
最盛期には、10万人の人が暮らし、京の都に迫る大都市でした。
その礎を築いたのが初代・清衡です。
清衡が国づくりを始めたことで、奥州藤原氏と呼ばれることとなりました。

奥州藤原氏は、いかにして誕生したのでしょうか?

1056年、清衡は、陸奥国に生れました。
家は、藤原鎌足の流れをくむ藤原北家・・・の地方豪族でした。
京では、藤原道長の子で平等院鳳凰堂を造営した頼道が摂関政治を行っており、朝廷は全国を支配する為に全国に国司を派遣、国司は国府と呼ばれる行政機関で政や軍事を執り行っていました。
そんな国司に仕える地方官僚だったのが清衡の父・経清・・・陸奥にあった多賀城に努める国府でしたが・・・
1051年、陸奥国で前九年合戦が起こります。
事の欲店は、今の岩手県奥六郡の安倍頼時が義務だった税を滞納し、さらに勢力拡大を画策したことでした。
危機を感じた朝廷は、武家で河内源氏を束ねていた源頼義を陸奥国司として派遣!!
これでおとなしくなった安倍氏でしたが・・・しばらくすると反旗を翻すのです。
清衡の父・経清は、国府の在庁官人だったので、国府軍につきますが、国府頼義に普請を抱いたことで、突如安倍頼時に寝返ります。
それには、経清の妻が頼時の娘で、清衡の父だったことも大きな理由です。
こうして経清の加わった安倍軍は優勢に・・・。
ところが、国府軍が山北三郡を支配していた清原氏を援軍につけたことで戦況は一変!!
1062年9月、厨川柵の戦いで安倍氏が滅亡。

安倍氏の味方に付いていた経清は、裏切り者への恨みからか、わざと錆びた刀で苦痛を与えられながら斬首・・・。
この時、清衡はまだ7歳でした。
清衡も処刑されることろでしたが、母が敵将の清原武則の嫡男・武貞の後妻に迎えられたことで養子となりその命を救われたのです。
この時、清原家には真衡という長男がいました。
さらにこの後、母が清衡の弟となる家衡を産みます。
清衡は、父の仇でもある清原の性を名乗りながら、血のつながらない兄、父の違う弟という複雑な過程で大きくなるのです。
そんな中、清衡は新しい大きな波にのまれることに・・・。

1083年、清衡28歳の時、再び奥州で戦乱が起こります。
清原家の当主となっていた真衡と、長老・吉彦秀武との間で内部抗争が勃発!!
後三年合戦です。
争いは、清原真衡の急死により、いったんおさまったかに見えましたが、今度は、清衡の義父弟である家衡が、真衡の所領分配に不満を示し、清衡の暗殺を計画!!
屋敷を襲撃し、清衡の妻・子・一族郎党を皆殺しにしてしまうのです。
暗殺何とか免れた清衡は、新たに派遣された陸奥国司源義家に家衡討伐を訴え、共に挙兵!!
1087年金沢柵で家衡を討ち取るのです。
ここに、清衡の育った清原氏が滅亡!!
これにより、欧州で権力をふるった安倍氏、清原氏が滅亡!!安倍氏と清原氏の縁者であった清衡が、支配地を継承したことで、奥州藤原氏となったのです。
国づくりを始めた清衡は、44歳の時に豊田館から30キロ南にある平泉に自らの拠点を移します。
そこで行ったのが、仏教に基づいた仏教立国でした。
どうして仏教だったのでしょうか?

その理由の一つが度重なる戦乱で亡くなった敵味方の区別なく、更には皆平等に浄土に導きたい・・・。
誰もが極楽浄土に行ける国を造りたかったのです。
さらに、もう一つの理由は・・・仏教は当時の最先端の文化でした。
陸奥国司と対立しないための、清衡の戦略でした。
陸奥国司との戦の末に、母方の安倍氏が滅んだ歴史を踏まえ、国司との対立を避けるために、仏教を重んじる平和な国をアピールしようとしました。
そして清衡は、その晩年をその平和都市建設に注いでいきます。
手始めに行ったのが、関山での中尊寺造営でした。
40基もの仏塔をはじめ、最盛期には300を超えたと言われる一大伽藍を20年もの歳月をかけて整備します。
中でも、二階大堂は、巨大な阿弥陀像が9体も納められる当時の日本では類を見ない壮大な建築物でした。
さらに清衡は、中尊寺の傍に阿弥陀堂(のちの金色堂)を作ります。

1128年、清衡はこの金色堂の中で、「百日後に入滅する」と、自らの死を予言したのです。
そして念仏を唱えながら、予言通りに100日後に無くなったのです。
73歳でした。
清衡の遺体は、金色の木棺に納められ、金色堂の須弥壇の真下に安置されました。
奇跡的な往生を遂げた清衡を、平泉の守護神とあがめるようになっていきます。
1950年に清衡のミイラを調査された結果、脳疾患による半身不随だったのでは?と言われています。
指揮を悟っていたのかもしれません。

その後を継いだのが、清衡の子・2代基衡でした。
岩手県平泉にある毛越寺。
その多くの伽藍を造営したのが、二代基衡でした。
本尊は、本堂に安置されている薬師如来像。
現在の高さはおよそ1.4mですが、基衡が当時造らせたものは、2.4mあったと言われています。
しかし、その制作から安置するまでには多くの困難が・・・
朝廷の時の権力者・鳥羽法皇が大反対したのです。

基衡は、薬師如来像の制作を京都の仏師・雲慶に依頼。
しかし、プライドの高い都の仏師に像を作ってもらうのは、容易なことではありませんでした。
野蛮な民とされていた奥州からの依頼・・・
そこで基衡は、贈り物をします。
奥州は砂金の産地でした。
特に、奥州藤原氏の支配地には、多くの採取場所があり、そこからたくさんの砂金が取れたのです。
そして、馬の産地でした。
蝦夷地との交易も盛んで、矢羽根(鷲の尾羽)、馬の鞍(アザラシの皮)などが容易に手に入りました。
北上川の水運を利用して中国とも交易していたため、宋の最新の文物まで手に入りました。
そんな品々を、完成までの3年間に大量に雲慶のもとに・・・。
その甲斐あってか、雲慶が仕上げた薬師如来像は素晴らしいものでした。
たちまち都の評判に・・・噂は鳥羽法皇のもとへ届き、実物をその目で見た法皇は、
「これほどの仏像、決して都から持ち出してはならぬ!!」と、仏像の差し止めをしたのです。
基衡は・・・あまりのショックにお堂に籠り、差し止めの撤回を7日7晩祈り続けました。
その後、関白に法皇へのとりなしを依頼。
王首藤原氏は、初代清衡の時代から摂政・関白(藤原北家)などにも献上品を送っていて、時乃関白とも深いパイプがありました。
その関白のとりなしの結果、やっと都から出すことを許されます。
基衡は、奥州藤原氏の財力を生かした贈り物作戦を行ったのです。

基衡は安堵したのか、その後1157年に急死。
跡を継いだのは、基衡の子・秀衡です。
秀衡は36歳で後を継ぐと、無量光院の造営に力を注ぐなど、清衡・基衡の遺志を継ぎ、平和な国づくりを推し進めていきます。
柳之御所遺跡は政庁で、その名は平泉館といいました。
最大の特徴は、巨大な空堀です。
本来の空堀の目的は、馬の侵入を防ぐものです。
しかし、秀衡は、戦の為ではなく、権力を見せつけるために造ったのだと言われています。
そして車宿・・・牛車の車庫の跡もあります。
当時、牛車に乗ることができたのは貴族の中でも位が上の者や高僧でした。
平泉には、たくさんの貴族や高僧がいたことがわかります。

平泉は壮大な都市計画に基づいて作られていました。
平泉の町の中心に位置する金鶏山。
金鶏山の山頂には、奥州藤原氏によって大規模な経塚が営まれ、信仰の山とされてきました。
秀衡は、この金鶏山を中心に都市計画を立てます。
無量光院を金鶏山を西に望む場所に建立・・・年に2回、彼岸の時期に金鶏山に沈む夕日が中堂の真上に来るようにしました。
西の山に沈む夕日は、浄土から来迎する阿弥陀仏の姿・・・
その夕日を拝めば、仏のお導きで必ず極楽浄土に行けるに違いないと考えていました。
平泉の都市全体で、仏教の浄土思想を具現化しようとしたのです。
こうして平和都市平泉は、三代秀衡によって完成・・・奥州藤原氏は、最盛期を迎えます。

しかし・・・遠く離れた京の都で、時代は大きく変わろうとしていました。
この世の極楽浄土とも言うべき平和都市・平泉を作った奥州藤原氏・・・最盛期を迎えた三代秀衡の時代・・・
京の都では、武家の覇権争いで源氏に勝利した平清盛を中心とする平家政権が全盛を極め、その勢力は西日本を中心に拡大の一途をたどっていました。
そこで秀衡は奥州を守るために、平清盛に中国・宋との貿易で必要な金を献納します。
すぐさま、平家との良好な関係を築きます。
その甲斐あってか、1170年、三代秀衡は、朝廷から陸奥国司の次に当たる鎮守府将軍に任ぜられます。
鎮守府将軍は、通常都から派遣された貴族や武士が努めました。
現地の地方豪族が務めたのは、過去に一例でした。
奥州藤原氏の存在が、都の人々に大きなものとして認識されたのです。

しかし、1180年、時代が大きく動きます。
清盛によって伊豆に流されていた源頼朝が平家打倒と挙兵!!
その討伐に、戦力として清盛が期待したのが、関東を支配した頼朝に対抗できる勢力を有していた秀衡だったのです。
頻繁に平泉に使者を送っては、平家が都を動かし源氏追討を要請します。
これに対し秀衡は、慎重でした。
返事はしても、実際には動かなかったのです。
動けなかった・・・??
朝廷からの命令でも、頼朝と戦う見通しがつきませんでした。
うかつには動けなかったのです。
秀衡の助けを得られないまま、清盛は病死・・・
一族の大黒柱を失った平家は、急速に力を失い1185年3月・・・兄・源頼朝、弟・義経の活躍によって滅亡するのです。

ところが、共に手を取り合っていた頼朝と義経の間に亀裂が・・・
義経が無断で朝廷から官位を受けたことで、兄・頼朝が激怒!!
時の後白河法皇に、義経追討令を出すように申し入れたのです。

頼朝から秀衡に直々の書状が・・・
「秀衡殿は奥六郡の主で、私は東海道を統括する惣官。
 お互い水と魚の用事、親密な関係を築くべきでしょう。
 よってぜひとも今年からは、朝廷に献上する馬や金を、私に取り仕切らせていただきたい。」

なんと・・・頼朝は、これまで奥州藤原氏が直接朝廷に献上していた貢物を代わって送り届けると言ってきたのです。
秀衡よりも、頼朝の方が立場が上だということをアピールするためです。
平家亡き後、強大な勢力は奥州藤原氏・・・頼朝にとっては目障りな存在でした。
奥州藤原氏の持つ経済力は、頼朝にとって脅威的なものでした。
1184年に東大寺大仏の再建工事の際、頼朝は黄金千両を寄進しましたが、秀衡は五千両も寄進しています。
その資金力を以て朝廷を取り込まれてしまったら・・・??
秀衡は頼朝の手紙に対し・・・悩んだ挙句に要求を受け入れます。
秀衡の選択は、名を捨てて実を取る・・・頼朝の要求を受け入れることで、頼朝の奥州への侵入を防ごうとしたのです。

1187年2月・・・奥州藤原氏三代秀衡のもとに、源頼朝に追われ朝敵となっていた頼朝の弟・義経が現れます。
義経は、若い頃平家から逃れるために、常盤御前のつてを頼って平泉で生活していたことがありました。
そして、再び奥州藤原氏に助けを求めてきたのです。
しかし、義経はお尋ね者・・・匿えば、秀衡にも罪が・・・
それでも秀衡は義経を受け入れました。
しかし、10月・・・秀衡は病に倒れてしまいました。
指揮を悟った秀衡は、息子の泰衡に・・・
「わしが死んだ後は、義経公を大将軍にして政務をまかせよ」
当時の奥州では、奥州藤原氏の力をもってしても、一つにまとめるのは大変でした。
一枚岩にして対抗するためにも、都の貴族の血をひく義経を金看板にすることが必要だったのです。
義経を中心に、泰衡ら奥州の武士が一致団結しなければ、頼朝から欧州を守ることはできないと秀衡は考えていたのです。
秀衡は、自らの役目を終えたかのように1187年、永遠の眠りにつくのでした。

奥州藤原氏は、四代泰衡に託されました。
泰衡は、頼朝との決戦に備え、義経を中心とする平泉幕府を作ります。
国見峠付近には、3.2キロにも及ぶ長大な防塁を構築し、守りを固めました。
そんな中、泰衡のもとに宣旨が・・・
”義経の身柄を差し出すならば、恩賞を与えよう”
泰衡は、あいまいな返事を送り、時間を稼ごうとしますが・・・
これを知った頼朝が、義経と共に奥州藤原氏の追悼令を出すように朝廷に圧力をかけてきます。
泰衡は、父の遺言に背き、義経の首を差し出すことに・・・!!

「義経を討つ!!」

1189年4月30日、泰衡は義経の館を数百騎で奇襲!!
周囲を囲まれた義経は、館の中にあった持仏堂に入り自刃!!

「これで我が家も安泰じゃ・・・!!」

そう安堵したのもつかの間・・・泰衡の目論見は大きく外れます。
この時すでに頼朝は、奥州攻略の順見を整えていました。義経の首が差し出されても、差し出されなくても、攻め入る構えでした。
4か月後、頼朝率いる1万数千騎の軍勢が、奥州に現れます。
対する奥州藤原氏は、阿津賀志山に防塁を築き迎え討とうとするも、頼朝軍に堀を埋められ、あっけなく突破されてしまいます。
その報告を受けた泰衡は、平泉の舘に火を放ち逃げ出します。
一説にはこれによって、平泉の町が火の海に包まれたといいます。
吾妻鏡には、この時の泰衡の様子を書いています。

”阿津賀志山で大敗したと聞き、あわてふためき、我を忘れ、一時の命を惜しんで、隠れること鼠のごとく”

平泉を捨て鼠のように逃げただけではなく、秀衡の遺言に背いて義経を裏切ったことから、奥州藤原氏の滅亡を招いた無能な武将と言われてきました。
本当に泰衡は無能だったのでしょうか?

無能説
①泰衡が平泉を焼き払って逃亡した
この時、平泉の町全体が炎上したと言われていますが、泰衡が焼いたのは平泉館だけでした。
負けた武将は自ら焼くという作法でした。
②泰衡が父の遺言に背いて義経を裏切った
泰衡は臆病者、無能としているのは、あくまで鎌倉幕府の一方的な評価です。
当時としては、朝廷の命令を実行しただけ・・・当時は朝廷の命令は絶対です。
義経を裏切ったのは、奥州を守るための常識的な判断でした。

決して無能ではなかったのです。
平泉を離れた泰衡は、北に向かい、腹心の家臣だった河田次郎を頼ります。
しかし、頼朝軍に寝返っていた河田次郎によって・・・
1189年・・・奥州藤原氏滅亡。
泰衡の首は、鎌倉へと届けられました。

頼朝が平泉に入ったのは、泰衡が火を放って逃げた翌日でした。
すっかり焼け落ちた邸宅の後に残ったのは倉庫だけ・・・
その中に積み上げられていた莫大な財宝に、頼朝はひどく驚いたといいます。
その後、藤原氏が建立し、整備した平泉の寺を巡礼した頼朝は、その仏教文化のすばらしさに感銘を受け、家臣の御家人・葛西清重に平泉の安全を保つように命じました。
こうして、初代清衡が立てた中尊寺金色堂は破壊を免れ、今もその姿をとどめています。

2011年、平泉の理想世界は、他に類を見ない浄土を表す建築・庭園・および考古学的遺跡群として世界文化遺産に登録されたのです。
奥州藤原氏が守り通した平和への願いと共に・・・!!


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2019年平成という一つの時代が終わり新たな時代が始まる・・・
天皇陛下は退位され上皇となる・・・
上皇が復活するのは実に201年ぶりのこと。。。
日本の歴史の中で、かつて上皇は権力の中心にありました。
中でも一人の上皇の選択が、この国のかたちに今も影響を与えています。
後鳥羽上皇です。

上皇の名は、新古今和歌集の選者としてあまりにも有名であり、自らも優れた和歌を数多く残しました。
その才能は、和歌の世界に留まらず・・・文武両道において君臨せんとしていました。
後鳥羽上皇の名は、ある歴史的事件の主人公としても記憶されています。

承久3年、上皇は東国の鎌倉幕府に戦いを挑みました。
承久の乱です。
きっかけは、鎌倉で起こった鎌倉幕府三代将軍実朝の暗殺です。
以来、幕府執権・北条義時と後鳥羽上皇の間で、虚々実々の駆け引きが繰り広げられました。

上皇は何を目指し、承久の乱を起こしたのか・・・??

優美で高い品格を備えた細身の太刀・・・「菊御作」・・・。
刀身には12弁の菊の花びらが刻まれています。
後鳥羽上皇が鍛えさせたと言われています。
御番鍛冶・・・備前国から7人、備中から3人、山城国から2人の名人を集めて、1月から12月まで月番製で刀を作らせたという伝説があります。
「菊御作」は、たおやかな13世紀初頭の京刀の特徴が良く表れています。
後鳥羽上皇はどうして刀を必要としたのでしょうか?

後鳥羽天皇即位の2年後に勃発した壇ノ浦の戦い(1185年)・・・
圧倒的な源氏の攻勢の前に、平家は滅びました。
この時・・・ある重要なものが失われています。
草薙剣・・・平家が安徳天皇と共に持ち去っていた三種の神器の一つです。
天皇の権威の象徴を失った事・・・これが後鳥羽上皇の菊御作伝説の背景にあると言われています。
威信財は、儀式や祭祀に使われ、支配者の権威や権力を表すものです。
地位のある人がもっているからこそ意味があるもの・・・王朝や王統の正当性が揺らいだ時に、物と人との主客が転倒し、格式のある物、歴史のあるものを持っているからこそ権威があると入れ替わってしまう・・・後鳥羽上皇の時代はそんな時代でした。
天皇自ら刀を作らざるを得ない・・・それほど追い込まれていたのです。
天皇家の正当性を回復させるためには、あらゆる分野で卓越した才能を示すことが必要でした。
1198年後鳥羽天皇は19歳で譲位・・・上皇となります。
管弦、蹴鞠、笠懸・・・諸芸の習得に力を注ぎます。
中でも重視したのが和歌で・・・上皇はそこに芸能に留まらない意味を見出していました。
後鳥羽上皇自ら編纂に当たった新古今和歌集・・・
序文にはこう書かれています。
”和歌は世を治め、民をやはらぐる道である”
古今和歌集は、醍醐天皇が政治を行った延喜聖代という理想的だった時代に作られたもので、それを新しくした新古今という自分の時代にあったものを・・・。
王の権威、権力を再び輝かせるという考えがあったのです。
上皇の念頭にあったのは、東国の政治情勢でした。
源頼朝が鎌倉幕府を創設・・・従来、荘園の下級役人に過ぎなかった武士が、守護や地頭として勢力を拡大し、荘園経営に口出しし始めたことは、院や公家にとって大きな経済的打撃となっていました。
いかにして武士の力を押さえるべきか・・・??
好機は向こうから訪れました。
1204年、幕府で重要な決定がなされました。
執権・北条義時が鎌倉幕府将軍実朝の正室を、京の公家から迎えたいと願い出たのです。

後鳥羽上皇はこの申し出を最大限に利用しました。
吾妻鏡には・・・”坊門信清卿の息女が将軍家の御台所として下向した”と書かれています。
この娘は上皇にとっていとこにあたります。
自分と血縁県警にある女性を送ることで実朝を取り込もうとしたのです。
効果は絶大!!
婚姻の4か月後・・・実朝が十二種の和歌を詠んだことが記されています。
上皇の思惑通り、京文化に傾倒していく実朝の姿が浮かびます。
1213年実朝自ら編纂した「金槐和歌集」を京へ送ります。
そこには注目すべき一首が・・・

山は裂け 海は浅せなむ 世なりとも
  君にふた心 わがあらめやも

いかなる事態が起きようとも、上皇に背くことはないと誓約しています。

背景にはこの年、鎌倉で起きた北条義時と有力御家人和田氏との抗争・・・和田合戦がありました。
敗れた和田氏の残党が、京に乱入しかねないとの噂が流布される中、実朝は上皇への絶対の服従を表明したのです。

和歌を通じ、実朝と濃密な関係を築いた上皇・・・政治工作は最終段階に入ります。
実朝の官位昇進・・・1219年3月左大将、10月内大臣、12月右大臣・・・と、武家初の右大臣へとしています。
異例の昇進の裏側には、二人の計画があったとされます。
「愚管抄」には・・・
親王を将軍とする・・・とあります。
親王とは、上皇の実子・頼仁親王を指します。
この親王を下向させ、将軍とし、右大臣として実朝が補佐をする・・・これこそ、上皇の計画だったのです。
公家政権とは別の武家政権の幕府をも、自分の子を通じて、実朝を通じて統治下に置こうとしたのです。
天皇の権威の元、この国を再びまとめ上げるという上皇の思いは、実現するところまで来ていました。

1219年1月27日、予期せぬ事件が・・・鎌倉・鶴岡八幡宮・・・右大臣昇進の祝賀のために参拝をしていた実朝が、二代将軍頼家の子・公暁によって暗殺されたのです。
自ら将軍になろうとしての犯行だったと言われています。
不測の事態に鎌倉幕府執権・北条義時は動きます。
京へ使者を派遣・・・かねての計画通り、親王を鎌倉へ下向するように要請したのです。
義時に約束の履行を求められた上皇は、選択を迫られます。

親王将軍の下向か・・・??幕府の要請を拒絶するか・・・??

実朝の死に衝撃を受ける上皇・・・!!
実朝の身の安全を祈祷していた陰陽師が上皇のお沙汰で全て罷免・・・

義時の本心の調べるために、上皇は鎌倉に使者を送って厳しい要求をします。
摂津国、長江、倉橋の荘の地頭を罷免すべし・・・
この荘園の地頭は、ほかならぬ義時でした。
上皇は義時がどこまで従う気があるのかを試したのです。
ところが、1219年3月、義時は一千騎を京へ派遣、要求を拒絶しました。
武力を背景に上皇の要求を突っぱねたのです。
義時との間で、親王将軍計画を進めるか否か・・・??
どうする??後鳥羽上皇・・・??

1219年7月・・・関東に下向する行列が・・・その中に一人の幼子の姿が・・・摂政九条道家の子・三寅です。
後鳥羽上皇は、親王ではなく、摂政の子を将軍とする第三の道を選んだのです。
幕府の要求は拒否したいが、全てを拒否すれば完全な敵対関係となる・・・
苦渋の選択でした。

ところが、その裏では予期せぬ事態が進行していました。
源頼茂の将軍就任を目論む陰謀が発覚します。畿内に領地を持ち、代理守護を務めていた頼茂は、実朝の後継者には自分の方がふさわしいと将軍を望んだと言います。
おひざ元での陰謀を知った上皇は、頼茂討伐に踏み切ります。
その混乱のさ中、大内裏が焼失してしまったのです。
王権の象徴たる大内裏の消失は、上皇にとって我慢できないことでした。
陣頭に立って再建を勧めましたが、公家、寺社は年貢の増大に反発、幕府の反対で内裏再建が頓挫してしまいました。
幕府の消極的な姿に、上皇は怒り心頭!!
幕府の将軍の地位をめぐる権力闘争が根本原因であるのに・・・しかも、その幕府は北条義時が中心なのに・・・義時に対する不満がふつふつと湧いてきていました。
1221年4月28日、後鳥羽上皇、流鏑馬ぞろいを名目に、京に一千余騎の軍勢を招集。
承久の乱勃発!!
西国の守護である御家人に上皇が挙兵を呼び掛けた命が残されています。

”北条義時は幼い将軍を差し置いて、政権をほしいままにしている
 今後、義時の政治を停止すべし”

義時を幕府から排除することが高らかに掲げられていました。

挙兵を呼び掛けた中には、東国の御家人もh汲まれていました。
その一人が、相模の御家人・三浦義村でした。
京で上皇側についた弟から幕府に背くことは確実と伝えられていました。
計画は・・・手始めに東国に豊穣と拮抗する勢力を持つ三浦が鎌倉でクーデターを起こし・・・
もし仕損じても、西国の御家人が挙兵して北条義時を討つ!!
二段構えの戦略でした。

ところが・・・事態は後鳥羽上皇の思惑を超えて動いていきます。
挙兵からわずか半月・・・義時は上皇の動きを察知していました。
頼みの綱の義村が、上皇の書状を義時に提出したのです。
これまで北条と結ぶことで大きくなってきた義村は、弟の叛逆にはくみせず、幕府に味方すると誓約したのです。
更に決め手は・・・御家人たちに向かって行われた北条政子の演説です。

”みな、心して聞きなさい
 源頼朝殿が朝敵平家一門を滅ぼし、ここ関東に幕府を作って以来、みなの官位は上がり収入も増えた
 その恩は山よりも深く、海よりも深い
 しかし今、朝廷より理不尽な幕府討伐命令がだされた
 名を惜しむ者は朝廷側についた者共を早々に討ち取り 三代にわたる源氏将軍の恩に報いなさい”

義時追討だけが目的だった内容を、朝廷が幕府を倒そうとしていると読み替えて情報操作したのです。
僅か18騎で出陣した幕府軍はたちまち膨張し、1万を超えるまでに膨れ上がりました。
岐阜県各務原市・・・1221年6月5日、この地で木曽川を挟んで対峙した幕府軍と上皇軍が激突!!
10倍以上の幕府軍を前に、兵を分散していた上皇軍は大敗・・・京に撤退します。
勢いに乗った幕府軍は、一気に都になだれ込みます。
事態の急変に上皇は義時追討の院宣を取り消します。
史上初の朝廷と武士の武力衝突は、あっけなく幕を閉じたのでした。

後鳥羽上皇の敗北は、その後の日本を大きく変えることとなります。
上皇方として戦った西国守護はことごとく処分され、その後には東国の御家人が赴任しました。
上皇の思惑通りとは反対の方向で、日本は一つとなったのです。
幕府によってそれまでの天皇は廃され、新しく上皇の兄の子である後堀河天皇が即位します。
皇位継承に幕府が口出しをするという前代未聞の事態でした。
上皇への処分も過酷を極め、島根県隠岐の島に上皇流罪流されます。
島の高台には、上皇が今も暮らした行在所が残っています。

人も通わぬというこの場所で、上皇は僅かな側近と共に仏への信仰と和歌に慰めを見出す暮らしを送ったと言われています。
しかし、後鳥羽上皇は失意の中でも都への想いを忘れてはいませんでした。
島には上皇と接した一族・村上家が今も残っています。
村上家は帰還を願う後鳥羽上皇の便りを京に運び、上皇はその返事を求めて頻繁にこの家を訪れたと言われています。
しかし・・・都に還る・・・その願いが叶うことはありませんでした。

承久の乱から18年経った1239年2月22日、後鳥羽上皇は病に倒れ崩御・・・享年60歳でした。

京、大阪の境に、後鳥羽上皇を祀る水無瀬神宮があります。
上皇の側近水無瀬家の末裔が宮司を務めるこの神社に、一通の文書が伝わっています。
死の13日前、上皇が記した置文「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」です。
自ら赤々と手形を押し、日ごろの奉公に報いるため水無瀬の地を与えるので菩提を弔ってほしいと書かれています。
この置文の下書きには次の文章が書かれていました。

”私がもし百千にひとつでも、この世の妄念に執着して魔縁となるようなことがあったら、この世に祟りをなすこともあるであろう
 千万にひとつでも我が子孫が皇位につくようなことがあれば、全て我が力と思うが良い”

その後、後鳥羽上皇の遺骨の一部は、京の都から20キロ離れた大原の地に葬られました。
死してなお、都の地を踏むことは許されなかったのです。

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平安時代末期の1184年1月20日・・・今から800年以上前・・・
平家討伐の功労者が31歳で命を落とした。
源氏の対象のひとり・・・木曽義仲です。
義仲を討ったのは、あろうことは同じ源氏の源義経でした。
判官贔屓という言葉が生まれるほど人気のあった義経と敵対することで、敵役として語り継がれてきた木曽義仲・・・暴れん坊ともそば繋否か者ともいわれていますが・・・本当にアンチヒーローだったのでしょうか?

木曽義仲・・・本名は源義仲。
木曽の山国で育った猛者のイメージがありますが・・・色白のイケメンだったようです。
後に鎌倉幕府を開く源頼朝やその弟義経とは従兄弟で、やがて対立していくこととなります。

木曽義仲は、1154年武蔵国に生まれます。
父・源義賢は、皇族の流れをくむ武家の名門を束ねる頭領の一族で、関東の上野国や武蔵国の北部を治めていました。
そんな義賢の子として源氏の武将となることを約束された義仲でしたが・・・わずか2歳の時に悲劇が・・・
父・義賢が殺害されてしまいました。
首謀者は義賢の母親違いの兄・義朝でした。
武蔵に地盤を築いていた義朝が、いずれは弟の義賢が対抗勢力になると恐れ、わずか15歳の息子・義平に命じて亡き者にしたのです。
まさに、血で血を洗う骨肉の争い・・・
義賢の子・義仲もまた父親と共に殺されるはずでした。
そんな義仲の命を救ったのは・・・義朝に仕えていた斎藤実盛です。
残された義仲を不憫に思った実盛は、敵にも関わらず追手から逃すために、木曽の豪族・中原兼遠に預けます。
兼遠は、源氏の頭領の血を受け継ぐ義仲を、将来源氏の大将にすべく、育てていきます。
そのために、兼遠が常々言い聞かせていたのは・・・
「平家を討つことこそ、そなたの定めよ」
真の敵は、父を殺した身内ではなく平家であると・・・!!
義仲は、いずれ源氏の大将となって、兼遠の恩に報いたいと思うようになりました。
そんな義仲の思いが通じる時が、刻一刻と迫っていました。

義仲が木曽の山中で伸び伸びと育っていた頃、京の都では源氏が由々しき事態に追い込まれていました。
源氏と敵対する武家の勢力、平家を束ねる平清盛が平治の乱(1159年)で源氏を束ねる源義朝に勝利、。
義朝は、東国に逃れる途中で殺されてしまいます。
勝者となった清盛は、官職のTOPである太政大臣にまで上り詰めました。
そして清盛一門は、全国に多くの領地を得、朝廷の主な官職を独占!!
清盛の娘・徳子は高倉天皇の正室となり、生まれた孫を安徳天皇に・・・!!
まさに、平家に非ずんば人に非ず・・・清盛一門は栄華を極めます。
このことを苦々しく思っていたのは、天皇を退いた後、院政をしていた後白河院でした。

「平家を倒さねば・・・!!」

この思いを受けて、対平家の急先鋒となったのが、後白河院の三男で安徳天皇に代わり天皇の座を狙っていた以仁王でした。
以仁王は、全国の源氏に平家打倒の令旨を出します。
その令旨は、27歳になっていた木曽義仲にも届きました。
打倒平家は義仲が抱いていた悲願でした。

「平家を攻め落とし、日本に二人の将軍ありと言わせて見せよう・・・」

この二人の将軍とは、源頼朝と、自分のことでした。
平治の乱の後、伊豆に流刑となっていた頼朝が、東国の武士たちを結集して兵をあげていました。
まさに、義仲にとって、千載一遇のチャンスでした。

「源氏の将軍として名乗りを上げようぞ・・・!!」

さらに、義仲が兵をあげたもう一つの思いは・・・
義仲の兄は、以仁王に仕えていました。
以仁王は令旨をばらまき、それがバレて殺されてしまいます。
その時、兄も討たれていました。
平家は兄の仇だったのです。
そして、亡くなった兄の代わりに以仁王の命令を成し遂げる・・・!!
父が殺されたことで離ればなれになってしまった兄・・・その無念を晴らしたい・・・!!
義仲は、兄の思いも背負って挙兵したのです。
平清盛は・・・「山猿の義仲など、案ずるに及ばずじゃ・・・」と、気にもかけませんでした。
しかし、義仲は挙兵の1か月後には上野国に進出!!
父・義賢の領地を取り戻します。

頼朝は、1180年富士川の戦いに勝利していました。
二人の大将が、平家を圧倒し始めます。
そんな中・・・1181年2月・・・絶対的権力者の平清盛が亡くなります。
屋台骨を失った平家・・・これによって天下の形勢は一気に源氏に・・・!!

1181年越後の平家軍と戦うこととなった木曽義仲・・・
平家軍はこの時6万の大軍勢・・・対して義仲軍は、圧倒的に不利な2千でした。
この2つの軍勢が激突!!横田河原の戦いです。
その結果は、義仲軍の勝利!!
その強さの秘密とは・・・??

①義仲が対象として作戦能力に長けていた
この時、義仲がとった戦略が・・・平家軍と思わせるために赤旗を掲げ、背後から接近するというものでした。
子の奇襲に平家軍は慌てふためき、その混乱に乗じて勝つことができたのです。

②木曽四天王など、結束力の強い優秀な家臣たちがいた
非常に忠誠心の強い家臣がそろっていました。
木曽四天王・・・今井兼平、楯親忠、根井行親、樋口兼光・・・絶対的な家臣がいたのです。

こうした結束力をもたらしたのは、義仲が何よりも義と情けを重んじ、家臣たちを大切にしていたからでした。
その中に・・・伝説の女武者・巴御前の姿も・・・!!
平家物語には義仲と濃い中だったと書かれており、その人物像は・・・
”巴は色白く、髪長く、容顔真に優れたり
 一人当千の兵なり”

美人なだけでなく、一人で千人に値する兵だった・・・
その活躍は、横田河原の戦いで、7人の武将を討ち取って功名を得たと記されてもいます。
家臣たちの活躍もあって平家軍に勝利した義仲でしたが・・・
1183年、義仲を震撼させる一報が・・・!!
鎌倉の源頼朝が義仲に大軍を差し向けたというものでした。
頼朝は、味方であるはずの義仲に兵を向けたのでしょうか?

当時、頼朝は坂東(関東)周辺の源氏一族を討伐していました。
その中のひとりとして義仲を・・・!!
そんな頼朝に対し、和議を申し入れようと使者を遣わす義仲。
すると、頼朝から出された講和の条件は・・・
義仲の長男・義高を人質として差し出させ、頼朝の娘と結婚させるというものでした。
当時、義高は11歳・・・周囲は猛反対しましたが、
義仲は「不要な戦はせぬ・・・信濃を戦場にはさせぬ」と、我が子を犠牲にしても信濃での無益な戦いを避け、家臣や民を守ろうとしたのです。

この後義仲は、1180年倶利伽羅峠の戦いでまたもや奇策を用いて大勝利を収めます。
それが火牛の計・・・牛の角に松明を括り付け、一気に平家軍に向けて放ったのです。
牛たちの突進から逃れようとして大混乱に陥った平家軍は、谷底に落ちていきました。
連戦連勝・・・破竹の勢いの義仲軍には、信濃や北陸から武士が集まってきました。
一方、清盛亡き後の平家軍は敗走をかさね、西国へと逃れて行ったのです。
義仲は、奢れる平氏に引導を渡し、源氏の世へと導いた時代の寵児となりました。

石川県小松市の多太神社には、木曽義仲が義と情けの武将であった証が残っています。
義仲が奉納した兜とすね当て・・・この兜をかぶっていたのは、義仲の父親が殺されたとき、降りかかる危険を省みず義仲を木曽へと逃がしてくれた忘れ難き命の恩人斎藤実盛のものです。
義仲を救った実盛は、主君が亡くなってから平家に従う身となっていました。
そして30年後・・・二人は加賀国篠原で敵味方として相まみえることに・・・義仲は、命の恩人を討ち取らせたのです。
実盛の首を前にした義仲は、その名を呼び、天を仰いだといいます。
戦の後、亡くなった実盛の兜を神社に奉納し、その死を弔います。
恩人の情けに報いるために・・・!!

1183年、木曽義仲はやっと京都に入ることに・・・。
朝廷の権力者・後白河院との謁見を果たします。
朝廷にとって大きな功労者であったはずの義仲・・・
しかし、人々は、山里育ちの武骨ものと嘲笑・・・??
しかも義仲は、都の人々の期待を裏切ってしまいます。
民衆が義仲に願ったのは、荒れ果てた都の治安の回復でした。
義仲は他の源氏と共に京都の警護をする京中守護に任じられたのですが、義仲に付き従った源氏の兵士の中から乱暴狼藉を働くものが続出し、治安がさらに悪化してしまいました。

失敗はさらに続きます。
安徳天皇が都を離れたことで、後継を誰にするのか問題が出て来ました。
後白河院は、高倉天皇の皇子で、安徳天皇の異母弟である四ノ宮を考えていました。
安徳天皇に血筋が最も近かったからです。
そこに待ったをかけたのが義仲でした。
平家との戦で死んだ以仁王の子・北陸宮を推薦したのです。
北陸宮は後白河院の孫ではあるものの、天皇の子でもなく、四ノ宮と比べると後継者の順位は低いものでした。
それでも義仲はこう言います。
「源氏が京を目指したのは、以仁王がいたからです。
 その子である北陸宮を次の帝にすることこそ、以仁王の死に報いることではありますまいか・・・!!」
この義仲の主張に後白河院は怒ります。

「武士の分際で、皇位継承に口を挟むとは何事か!!」

義仲が北陸宮を推したのは、以仁王に報いるため・・・そして、もう一つ理由がありました。
父を殺されたという北陸宮の状況に自分を重ねていたのです。
義と情けに厚いことがアダに・・・後白河院に疎まれることになります。

義仲が邪魔となった後白河院は、ある男の力を借りようと接触します。
源頼朝です。
頼朝もまた源氏に二人も対象は要らぬ!!と、打倒義仲を虎視眈々と狙っていました。
義仲が平家と戦っている間、頼朝は後白河院に密書を送り、朝廷への恭順の意を示すとともに自分には義仲を討つ覚悟があると伝えていたのです。
頼朝と通じていた後白河院・・・しかし、ある日義仲に自ら剣を与えこう言います。
「天下の乱れを鎮めよ・・・必ずや平家を倒せ・・・!!」
義仲に西国に逃れた平家追討を命じます。
義仲は後白河院から大役を命じられたと意気揚々と西国に・・・!!
後白河院が追討を命じたのは・・・??
義仲を京都から西日本に行かせて、頼朝を上洛させその頼朝に義仲を討たせようとしたのです。

そんな謀略だと知らずに平家追討に向かった義仲は、西国で力を盛り返していた平家に思わぬ苦戦を強いられます。
備中・水島の戦いでは、数千の兵を失うという大敗・・・。
苦境に立たされた義仲に追い打ちをかけるように都から報せが・・・

「鎌倉から大軍が押し寄せております!!」
「誰の命で動いておるのだ??」
「後白河院が命じたと・・・」
「まさか・・・」

この時初めて義仲は後白河院の謀略に気付きました。
本当の敵は、頼朝と手を組んだ後白河院だったと・・・!!

義仲は急遽、都へと舞い戻り、後白河院に激しく詰め寄ったと言います。
しかし、時すでに遅し・・・後白河院から追討の命を受けた頼朝が、遠征軍の指揮を義経に任せていました。
その義経の大軍が、すでに鎌倉を出陣していたのです。
こうして各地で義仲軍と義経軍との戦いが始まると、義仲軍は次々と破れていくこととなります。
後白河院はさらにしかけます。
京都にいた義仲以外の源氏を法住寺に集めて、義仲を討つための軍事強化を図ります。
信頼していた後白河院に裏切られた義仲の怒りはすさまじく、法住寺を攻めます。
後白河院を捕らえると幽閉し、義仲自身を征東大将軍に任じさせるという強引に反撃に出ます。
こうして、義仲は頼朝よりも先に将軍となったのですが・・・
これこそが、後白河院が待ち望んだ事でした。
案の定、義仲による後白河院の幽閉があまりに横暴と、公家や武士たちが猛反発!!
こうして孤立した義仲は四面楚歌に・・・。
敗色濃厚な義仲軍からは、見切りをつけた兵たちが次々と去っていきました。

1184年、源氏の大将として常勝を誇り、かつては数万の大軍勢を率いた木曽義仲でしたが、各地で負傷兵や脱走兵が出る中、軍勢は僅か数千に激減・・・。
その勢いは見る影もありませんでした。
しかし、木曽四天王をはじめ、昔から義仲を支えてきた家臣たちは、誰一人去らなかったと言います。
義と情けを重んじる義仲と、難い絆で結ばれていたからです。
義仲は、武士道という言葉がまだなかった時代に現れた、類まれなリーダーでした。そして義仲軍は、今日の宇治川で義経率いる大軍と相まみえることとなったのです。(宇治川の戦い)

義仲の最期を記した平家物語には、仕え続けた巴御前との涙の別れが記されています。
敵が目の前に迫る中、義仲は巴御前に告げます。

「どこへでも逃れて行け。。。
 我は討死する覚悟だ。
 最期に女を連れていたなどと言われとうない・・・」

と、巴御前を生かそうとしますが・・・
しかし、巴御前は、

「殿、何を仰せか!!
 嫌でございます。」

巴御前は、義仲の傍から離れません。
それでも、義仲が生きろと諭すと・・・ようやく巴御前は聞き入れます。
その後、彼女は鎧兜を脱いで、東国へ落ち延びたと言われています。

そして、この宇治川の戦いに敗れた義仲が、最期に行った場所は、琵琶湖のほとりの粟津・・・。
そこでは、四天王のひとりでともに木曽の山で育った今井兼平が苦戦を強いられていました。
義仲は、命を落とすことを承知で家臣のもとへ駆けつけました。
しかし、もはや戦いに疲れ果てていた義仲は・・・

「日頃は何とも思わぬ鎧が・・・今日は重く感じられることよ。。。」

兼平が初めて耳にした主君の弱音でした。
すると兼平は・・・
「気の弱いことを申されるな。」
と励まし、名誉の自害を勧めます。

自害するため、敵に背を向けてその場を立ち去る義仲・・・
兼平は、義仲が自害を遂げられるように時間を稼ぎます。
そんな兼平を最後まで心配したのか・・・義仲が振り返った瞬間・・・
義仲の眉間を、一本の屋が貫いていました。

最期の最期まで家臣を思いながら、木曽義仲は散ったのです。
1184年、木曽義仲、31歳でした。

破った義経は、その後の平家との戦いでヒーローとなりました。
しかし、その義経も、後白河院と源頼朝の権謀術数にはまり、義仲と同じ31歳で生涯を閉じることとなります。
勝者となった頼朝は、1185年鎌倉幕府を開き、武家政権を始めることとなるのです。
源氏の覇権争いで頼朝に敗れた義仲について、芥川龍之介は・・・

”彼の一生は失敗の一生也
  彼の歴史は蹉跌の歴史也
 彼の一代は薄幸の一代也
   然れども彼の生涯は男らしき生涯也”

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