日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:源頼朝

岩手県北上川の中流に位置するのが平泉・・・ここに、平安時代後期、黄金の国ジパングのいわれとなる大都市がありました。
その繁栄を築いたのが、奥州藤原氏です。

1124年上棟の中尊寺金色堂・・・繊細で美しい螺鈿や透かし彫りの金具に蒔絵・・・平安時代後期の技の粋を集めた国宝建造物第一号です。
そんな金色堂を含む中尊寺を建立したのが奥州藤原氏初代・藤原清衡です。
最盛期には、10万人の人が暮らし、京の都に迫る大都市でした。
その礎を築いたのが初代・清衡です。
清衡が国づくりを始めたことで、奥州藤原氏と呼ばれることとなりました。

奥州藤原氏は、いかにして誕生したのでしょうか?

1056年、清衡は、陸奥国に生れました。
家は、藤原鎌足の流れをくむ藤原北家・・・の地方豪族でした。
京では、藤原道長の子で平等院鳳凰堂を造営した頼道が摂関政治を行っており、朝廷は全国を支配する為に全国に国司を派遣、国司は国府と呼ばれる行政機関で政や軍事を執り行っていました。
そんな国司に仕える地方官僚だったのが清衡の父・経清・・・陸奥にあった多賀城に努める国府でしたが・・・
1051年、陸奥国で前九年合戦が起こります。
事の欲店は、今の岩手県奥六郡の安倍頼時が義務だった税を滞納し、さらに勢力拡大を画策したことでした。
危機を感じた朝廷は、武家で河内源氏を束ねていた源頼義を陸奥国司として派遣!!
これでおとなしくなった安倍氏でしたが・・・しばらくすると反旗を翻すのです。
清衡の父・経清は、国府の在庁官人だったので、国府軍につきますが、国府頼義に普請を抱いたことで、突如安倍頼時に寝返ります。
それには、経清の妻が頼時の娘で、清衡の父だったことも大きな理由です。
こうして経清の加わった安倍軍は優勢に・・・。
ところが、国府軍が山北三郡を支配していた清原氏を援軍につけたことで戦況は一変!!
1062年9月、厨川柵の戦いで安倍氏が滅亡。

安倍氏の味方に付いていた経清は、裏切り者への恨みからか、わざと錆びた刀で苦痛を与えられながら斬首・・・。
この時、清衡はまだ7歳でした。
清衡も処刑されることろでしたが、母が敵将の清原武則の嫡男・武貞の後妻に迎えられたことで養子となりその命を救われたのです。
この時、清原家には真衡という長男がいました。
さらにこの後、母が清衡の弟となる家衡を産みます。
清衡は、父の仇でもある清原の性を名乗りながら、血のつながらない兄、父の違う弟という複雑な過程で大きくなるのです。
そんな中、清衡は新しい大きな波にのまれることに・・・。

1083年、清衡28歳の時、再び奥州で戦乱が起こります。
清原家の当主となっていた真衡と、長老・吉彦秀武との間で内部抗争が勃発!!
後三年合戦です。
争いは、清原真衡の急死により、いったんおさまったかに見えましたが、今度は、清衡の義父弟である家衡が、真衡の所領分配に不満を示し、清衡の暗殺を計画!!
屋敷を襲撃し、清衡の妻・子・一族郎党を皆殺しにしてしまうのです。
暗殺何とか免れた清衡は、新たに派遣された陸奥国司源義家に家衡討伐を訴え、共に挙兵!!
1087年金沢柵で家衡を討ち取るのです。
ここに、清衡の育った清原氏が滅亡!!
これにより、欧州で権力をふるった安倍氏、清原氏が滅亡!!安倍氏と清原氏の縁者であった清衡が、支配地を継承したことで、奥州藤原氏となったのです。
国づくりを始めた清衡は、44歳の時に豊田館から30キロ南にある平泉に自らの拠点を移します。
そこで行ったのが、仏教に基づいた仏教立国でした。
どうして仏教だったのでしょうか?

その理由の一つが度重なる戦乱で亡くなった敵味方の区別なく、更には皆平等に浄土に導きたい・・・。
誰もが極楽浄土に行ける国を造りたかったのです。
さらに、もう一つの理由は・・・仏教は当時の最先端の文化でした。
陸奥国司と対立しないための、清衡の戦略でした。
陸奥国司との戦の末に、母方の安倍氏が滅んだ歴史を踏まえ、国司との対立を避けるために、仏教を重んじる平和な国をアピールしようとしました。
そして清衡は、その晩年をその平和都市建設に注いでいきます。
手始めに行ったのが、関山での中尊寺造営でした。
40基もの仏塔をはじめ、最盛期には300を超えたと言われる一大伽藍を20年もの歳月をかけて整備します。
中でも、二階大堂は、巨大な阿弥陀像が9体も納められる当時の日本では類を見ない壮大な建築物でした。
さらに清衡は、中尊寺の傍に阿弥陀堂(のちの金色堂)を作ります。

1128年、清衡はこの金色堂の中で、「百日後に入滅する」と、自らの死を予言したのです。
そして念仏を唱えながら、予言通りに100日後に無くなったのです。
73歳でした。
清衡の遺体は、金色の木棺に納められ、金色堂の須弥壇の真下に安置されました。
奇跡的な往生を遂げた清衡を、平泉の守護神とあがめるようになっていきます。
1950年に清衡のミイラを調査された結果、脳疾患による半身不随だったのでは?と言われています。
指揮を悟っていたのかもしれません。

その後を継いだのが、清衡の子・2代基衡でした。
岩手県平泉にある毛越寺。
その多くの伽藍を造営したのが、二代基衡でした。
本尊は、本堂に安置されている薬師如来像。
現在の高さはおよそ1.4mですが、基衡が当時造らせたものは、2.4mあったと言われています。
しかし、その制作から安置するまでには多くの困難が・・・
朝廷の時の権力者・鳥羽法皇が大反対したのです。

基衡は、薬師如来像の制作を京都の仏師・雲慶に依頼。
しかし、プライドの高い都の仏師に像を作ってもらうのは、容易なことではありませんでした。
野蛮な民とされていた奥州からの依頼・・・
そこで基衡は、贈り物をします。
奥州は砂金の産地でした。
特に、奥州藤原氏の支配地には、多くの採取場所があり、そこからたくさんの砂金が取れたのです。
そして、馬の産地でした。
蝦夷地との交易も盛んで、矢羽根(鷲の尾羽)、馬の鞍(アザラシの皮)などが容易に手に入りました。
北上川の水運を利用して中国とも交易していたため、宋の最新の文物まで手に入りました。
そんな品々を、完成までの3年間に大量に雲慶のもとに・・・。
その甲斐あってか、雲慶が仕上げた薬師如来像は素晴らしいものでした。
たちまち都の評判に・・・噂は鳥羽法皇のもとへ届き、実物をその目で見た法皇は、
「これほどの仏像、決して都から持ち出してはならぬ!!」と、仏像の差し止めをしたのです。
基衡は・・・あまりのショックにお堂に籠り、差し止めの撤回を7日7晩祈り続けました。
その後、関白に法皇へのとりなしを依頼。
王首藤原氏は、初代清衡の時代から摂政・関白(藤原北家)などにも献上品を送っていて、時乃関白とも深いパイプがありました。
その関白のとりなしの結果、やっと都から出すことを許されます。
基衡は、奥州藤原氏の財力を生かした贈り物作戦を行ったのです。

基衡は安堵したのか、その後1157年に急死。
跡を継いだのは、基衡の子・秀衡です。
秀衡は36歳で後を継ぐと、無量光院の造営に力を注ぐなど、清衡・基衡の遺志を継ぎ、平和な国づくりを推し進めていきます。
柳之御所遺跡は政庁で、その名は平泉館といいました。
最大の特徴は、巨大な空堀です。
本来の空堀の目的は、馬の侵入を防ぐものです。
しかし、秀衡は、戦の為ではなく、権力を見せつけるために造ったのだと言われています。
そして車宿・・・牛車の車庫の跡もあります。
当時、牛車に乗ることができたのは貴族の中でも位が上の者や高僧でした。
平泉には、たくさんの貴族や高僧がいたことがわかります。

平泉は壮大な都市計画に基づいて作られていました。
平泉の町の中心に位置する金鶏山。
金鶏山の山頂には、奥州藤原氏によって大規模な経塚が営まれ、信仰の山とされてきました。
秀衡は、この金鶏山を中心に都市計画を立てます。
無量光院を金鶏山を西に望む場所に建立・・・年に2回、彼岸の時期に金鶏山に沈む夕日が中堂の真上に来るようにしました。
西の山に沈む夕日は、浄土から来迎する阿弥陀仏の姿・・・
その夕日を拝めば、仏のお導きで必ず極楽浄土に行けるに違いないと考えていました。
平泉の都市全体で、仏教の浄土思想を具現化しようとしたのです。
こうして平和都市平泉は、三代秀衡によって完成・・・奥州藤原氏は、最盛期を迎えます。

しかし・・・遠く離れた京の都で、時代は大きく変わろうとしていました。
この世の極楽浄土とも言うべき平和都市・平泉を作った奥州藤原氏・・・最盛期を迎えた三代秀衡の時代・・・
京の都では、武家の覇権争いで源氏に勝利した平清盛を中心とする平家政権が全盛を極め、その勢力は西日本を中心に拡大の一途をたどっていました。
そこで秀衡は奥州を守るために、平清盛に中国・宋との貿易で必要な金を献納します。
すぐさま、平家との良好な関係を築きます。
その甲斐あってか、1170年、三代秀衡は、朝廷から陸奥国司の次に当たる鎮守府将軍に任ぜられます。
鎮守府将軍は、通常都から派遣された貴族や武士が努めました。
現地の地方豪族が務めたのは、過去に一例でした。
奥州藤原氏の存在が、都の人々に大きなものとして認識されたのです。

しかし、1180年、時代が大きく動きます。
清盛によって伊豆に流されていた源頼朝が平家打倒と挙兵!!
その討伐に、戦力として清盛が期待したのが、関東を支配した頼朝に対抗できる勢力を有していた秀衡だったのです。
頻繁に平泉に使者を送っては、平家が都を動かし源氏追討を要請します。
これに対し秀衡は、慎重でした。
返事はしても、実際には動かなかったのです。
動けなかった・・・??
朝廷からの命令でも、頼朝と戦う見通しがつきませんでした。
うかつには動けなかったのです。
秀衡の助けを得られないまま、清盛は病死・・・
一族の大黒柱を失った平家は、急速に力を失い1185年3月・・・兄・源頼朝、弟・義経の活躍によって滅亡するのです。

ところが、共に手を取り合っていた頼朝と義経の間に亀裂が・・・
義経が無断で朝廷から官位を受けたことで、兄・頼朝が激怒!!
時の後白河法皇に、義経追討令を出すように申し入れたのです。

頼朝から秀衡に直々の書状が・・・
「秀衡殿は奥六郡の主で、私は東海道を統括する惣官。
 お互い水と魚の用事、親密な関係を築くべきでしょう。
 よってぜひとも今年からは、朝廷に献上する馬や金を、私に取り仕切らせていただきたい。」

なんと・・・頼朝は、これまで奥州藤原氏が直接朝廷に献上していた貢物を代わって送り届けると言ってきたのです。
秀衡よりも、頼朝の方が立場が上だということをアピールするためです。
平家亡き後、強大な勢力は奥州藤原氏・・・頼朝にとっては目障りな存在でした。
奥州藤原氏の持つ経済力は、頼朝にとって脅威的なものでした。
1184年に東大寺大仏の再建工事の際、頼朝は黄金千両を寄進しましたが、秀衡は五千両も寄進しています。
その資金力を以て朝廷を取り込まれてしまったら・・・??
秀衡は頼朝の手紙に対し・・・悩んだ挙句に要求を受け入れます。
秀衡の選択は、名を捨てて実を取る・・・頼朝の要求を受け入れることで、頼朝の奥州への侵入を防ごうとしたのです。

1187年2月・・・奥州藤原氏三代秀衡のもとに、源頼朝に追われ朝敵となっていた頼朝の弟・義経が現れます。
義経は、若い頃平家から逃れるために、常盤御前のつてを頼って平泉で生活していたことがありました。
そして、再び奥州藤原氏に助けを求めてきたのです。
しかし、義経はお尋ね者・・・匿えば、秀衡にも罪が・・・
それでも秀衡は義経を受け入れました。
しかし、10月・・・秀衡は病に倒れてしまいました。
指揮を悟った秀衡は、息子の泰衡に・・・
「わしが死んだ後は、義経公を大将軍にして政務をまかせよ」
当時の奥州では、奥州藤原氏の力をもってしても、一つにまとめるのは大変でした。
一枚岩にして対抗するためにも、都の貴族の血をひく義経を金看板にすることが必要だったのです。
義経を中心に、泰衡ら奥州の武士が一致団結しなければ、頼朝から欧州を守ることはできないと秀衡は考えていたのです。
秀衡は、自らの役目を終えたかのように1187年、永遠の眠りにつくのでした。

奥州藤原氏は、四代泰衡に託されました。
泰衡は、頼朝との決戦に備え、義経を中心とする平泉幕府を作ります。
国見峠付近には、3.2キロにも及ぶ長大な防塁を構築し、守りを固めました。
そんな中、泰衡のもとに宣旨が・・・
”義経の身柄を差し出すならば、恩賞を与えよう”
泰衡は、あいまいな返事を送り、時間を稼ごうとしますが・・・
これを知った頼朝が、義経と共に奥州藤原氏の追悼令を出すように朝廷に圧力をかけてきます。
泰衡は、父の遺言に背き、義経の首を差し出すことに・・・!!

「義経を討つ!!」

1189年4月30日、泰衡は義経の館を数百騎で奇襲!!
周囲を囲まれた義経は、館の中にあった持仏堂に入り自刃!!

「これで我が家も安泰じゃ・・・!!」

そう安堵したのもつかの間・・・泰衡の目論見は大きく外れます。
この時すでに頼朝は、奥州攻略の順見を整えていました。義経の首が差し出されても、差し出されなくても、攻め入る構えでした。
4か月後、頼朝率いる1万数千騎の軍勢が、奥州に現れます。
対する奥州藤原氏は、阿津賀志山に防塁を築き迎え討とうとするも、頼朝軍に堀を埋められ、あっけなく突破されてしまいます。
その報告を受けた泰衡は、平泉の舘に火を放ち逃げ出します。
一説にはこれによって、平泉の町が火の海に包まれたといいます。
吾妻鏡には、この時の泰衡の様子を書いています。

”阿津賀志山で大敗したと聞き、あわてふためき、我を忘れ、一時の命を惜しんで、隠れること鼠のごとく”

平泉を捨て鼠のように逃げただけではなく、秀衡の遺言に背いて義経を裏切ったことから、奥州藤原氏の滅亡を招いた無能な武将と言われてきました。
本当に泰衡は無能だったのでしょうか?

無能説
①泰衡が平泉を焼き払って逃亡した
この時、平泉の町全体が炎上したと言われていますが、泰衡が焼いたのは平泉館だけでした。
負けた武将は自ら焼くという作法でした。
②泰衡が父の遺言に背いて義経を裏切った
泰衡は臆病者、無能としているのは、あくまで鎌倉幕府の一方的な評価です。
当時としては、朝廷の命令を実行しただけ・・・当時は朝廷の命令は絶対です。
義経を裏切ったのは、奥州を守るための常識的な判断でした。

決して無能ではなかったのです。
平泉を離れた泰衡は、北に向かい、腹心の家臣だった河田次郎を頼ります。
しかし、頼朝軍に寝返っていた河田次郎によって・・・
1189年・・・奥州藤原氏滅亡。
泰衡の首は、鎌倉へと届けられました。

頼朝が平泉に入ったのは、泰衡が火を放って逃げた翌日でした。
すっかり焼け落ちた邸宅の後に残ったのは倉庫だけ・・・
その中に積み上げられていた莫大な財宝に、頼朝はひどく驚いたといいます。
その後、藤原氏が建立し、整備した平泉の寺を巡礼した頼朝は、その仏教文化のすばらしさに感銘を受け、家臣の御家人・葛西清重に平泉の安全を保つように命じました。
こうして、初代清衡が立てた中尊寺金色堂は破壊を免れ、今もその姿をとどめています。

2011年、平泉の理想世界は、他に類を見ない浄土を表す建築・庭園・および考古学的遺跡群として世界文化遺産に登録されたのです。
奥州藤原氏が守り通した平和への願いと共に・・・!!


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2019年平成という一つの時代が終わり新たな時代が始まる・・・
天皇陛下は退位され上皇となる・・・
上皇が復活するのは実に201年ぶりのこと。。。
日本の歴史の中で、かつて上皇は権力の中心にありました。
中でも一人の上皇の選択が、この国のかたちに今も影響を与えています。
後鳥羽上皇です。

上皇の名は、新古今和歌集の選者としてあまりにも有名であり、自らも優れた和歌を数多く残しました。
その才能は、和歌の世界に留まらず・・・文武両道において君臨せんとしていました。
後鳥羽上皇の名は、ある歴史的事件の主人公としても記憶されています。

承久3年、上皇は東国の鎌倉幕府に戦いを挑みました。
承久の乱です。
きっかけは、鎌倉で起こった鎌倉幕府三代将軍実朝の暗殺です。
以来、幕府執権・北条義時と後鳥羽上皇の間で、虚々実々の駆け引きが繰り広げられました。

上皇は何を目指し、承久の乱を起こしたのか・・・??

優美で高い品格を備えた細身の太刀・・・「菊御作」・・・。
刀身には12弁の菊の花びらが刻まれています。
後鳥羽上皇が鍛えさせたと言われています。
御番鍛冶・・・備前国から7人、備中から3人、山城国から2人の名人を集めて、1月から12月まで月番製で刀を作らせたという伝説があります。
「菊御作」は、たおやかな13世紀初頭の京刀の特徴が良く表れています。
後鳥羽上皇はどうして刀を必要としたのでしょうか?

後鳥羽天皇即位の2年後に勃発した壇ノ浦の戦い(1185年)・・・
圧倒的な源氏の攻勢の前に、平家は滅びました。
この時・・・ある重要なものが失われています。
草薙剣・・・平家が安徳天皇と共に持ち去っていた三種の神器の一つです。
天皇の権威の象徴を失った事・・・これが後鳥羽上皇の菊御作伝説の背景にあると言われています。
威信財は、儀式や祭祀に使われ、支配者の権威や権力を表すものです。
地位のある人がもっているからこそ意味があるもの・・・王朝や王統の正当性が揺らいだ時に、物と人との主客が転倒し、格式のある物、歴史のあるものを持っているからこそ権威があると入れ替わってしまう・・・後鳥羽上皇の時代はそんな時代でした。
天皇自ら刀を作らざるを得ない・・・それほど追い込まれていたのです。
天皇家の正当性を回復させるためには、あらゆる分野で卓越した才能を示すことが必要でした。
1198年後鳥羽天皇は19歳で譲位・・・上皇となります。
管弦、蹴鞠、笠懸・・・諸芸の習得に力を注ぎます。
中でも重視したのが和歌で・・・上皇はそこに芸能に留まらない意味を見出していました。
後鳥羽上皇自ら編纂に当たった新古今和歌集・・・
序文にはこう書かれています。
”和歌は世を治め、民をやはらぐる道である”
古今和歌集は、醍醐天皇が政治を行った延喜聖代という理想的だった時代に作られたもので、それを新しくした新古今という自分の時代にあったものを・・・。
王の権威、権力を再び輝かせるという考えがあったのです。
上皇の念頭にあったのは、東国の政治情勢でした。
源頼朝が鎌倉幕府を創設・・・従来、荘園の下級役人に過ぎなかった武士が、守護や地頭として勢力を拡大し、荘園経営に口出しし始めたことは、院や公家にとって大きな経済的打撃となっていました。
いかにして武士の力を押さえるべきか・・・??
好機は向こうから訪れました。
1204年、幕府で重要な決定がなされました。
執権・北条義時が鎌倉幕府将軍実朝の正室を、京の公家から迎えたいと願い出たのです。

後鳥羽上皇はこの申し出を最大限に利用しました。
吾妻鏡には・・・”坊門信清卿の息女が将軍家の御台所として下向した”と書かれています。
この娘は上皇にとっていとこにあたります。
自分と血縁県警にある女性を送ることで実朝を取り込もうとしたのです。
効果は絶大!!
婚姻の4か月後・・・実朝が十二種の和歌を詠んだことが記されています。
上皇の思惑通り、京文化に傾倒していく実朝の姿が浮かびます。
1213年実朝自ら編纂した「金槐和歌集」を京へ送ります。
そこには注目すべき一首が・・・

山は裂け 海は浅せなむ 世なりとも
  君にふた心 わがあらめやも

いかなる事態が起きようとも、上皇に背くことはないと誓約しています。

背景にはこの年、鎌倉で起きた北条義時と有力御家人和田氏との抗争・・・和田合戦がありました。
敗れた和田氏の残党が、京に乱入しかねないとの噂が流布される中、実朝は上皇への絶対の服従を表明したのです。

和歌を通じ、実朝と濃密な関係を築いた上皇・・・政治工作は最終段階に入ります。
実朝の官位昇進・・・1219年3月左大将、10月内大臣、12月右大臣・・・と、武家初の右大臣へとしています。
異例の昇進の裏側には、二人の計画があったとされます。
「愚管抄」には・・・
親王を将軍とする・・・とあります。
親王とは、上皇の実子・頼仁親王を指します。
この親王を下向させ、将軍とし、右大臣として実朝が補佐をする・・・これこそ、上皇の計画だったのです。
公家政権とは別の武家政権の幕府をも、自分の子を通じて、実朝を通じて統治下に置こうとしたのです。
天皇の権威の元、この国を再びまとめ上げるという上皇の思いは、実現するところまで来ていました。

1219年1月27日、予期せぬ事件が・・・鎌倉・鶴岡八幡宮・・・右大臣昇進の祝賀のために参拝をしていた実朝が、二代将軍頼家の子・公暁によって暗殺されたのです。
自ら将軍になろうとしての犯行だったと言われています。
不測の事態に鎌倉幕府執権・北条義時は動きます。
京へ使者を派遣・・・かねての計画通り、親王を鎌倉へ下向するように要請したのです。
義時に約束の履行を求められた上皇は、選択を迫られます。

親王将軍の下向か・・・??幕府の要請を拒絶するか・・・??

実朝の死に衝撃を受ける上皇・・・!!
実朝の身の安全を祈祷していた陰陽師が上皇のお沙汰で全て罷免・・・

義時の本心の調べるために、上皇は鎌倉に使者を送って厳しい要求をします。
摂津国、長江、倉橋の荘の地頭を罷免すべし・・・
この荘園の地頭は、ほかならぬ義時でした。
上皇は義時がどこまで従う気があるのかを試したのです。
ところが、1219年3月、義時は一千騎を京へ派遣、要求を拒絶しました。
武力を背景に上皇の要求を突っぱねたのです。
義時との間で、親王将軍計画を進めるか否か・・・??
どうする??後鳥羽上皇・・・??

1219年7月・・・関東に下向する行列が・・・その中に一人の幼子の姿が・・・摂政九条道家の子・三寅です。
後鳥羽上皇は、親王ではなく、摂政の子を将軍とする第三の道を選んだのです。
幕府の要求は拒否したいが、全てを拒否すれば完全な敵対関係となる・・・
苦渋の選択でした。

ところが、その裏では予期せぬ事態が進行していました。
源頼茂の将軍就任を目論む陰謀が発覚します。畿内に領地を持ち、代理守護を務めていた頼茂は、実朝の後継者には自分の方がふさわしいと将軍を望んだと言います。
おひざ元での陰謀を知った上皇は、頼茂討伐に踏み切ります。
その混乱のさ中、大内裏が焼失してしまったのです。
王権の象徴たる大内裏の消失は、上皇にとって我慢できないことでした。
陣頭に立って再建を勧めましたが、公家、寺社は年貢の増大に反発、幕府の反対で内裏再建が頓挫してしまいました。
幕府の消極的な姿に、上皇は怒り心頭!!
幕府の将軍の地位をめぐる権力闘争が根本原因であるのに・・・しかも、その幕府は北条義時が中心なのに・・・義時に対する不満がふつふつと湧いてきていました。
1221年4月28日、後鳥羽上皇、流鏑馬ぞろいを名目に、京に一千余騎の軍勢を招集。
承久の乱勃発!!
西国の守護である御家人に上皇が挙兵を呼び掛けた命が残されています。

”北条義時は幼い将軍を差し置いて、政権をほしいままにしている
 今後、義時の政治を停止すべし”

義時を幕府から排除することが高らかに掲げられていました。

挙兵を呼び掛けた中には、東国の御家人もh汲まれていました。
その一人が、相模の御家人・三浦義村でした。
京で上皇側についた弟から幕府に背くことは確実と伝えられていました。
計画は・・・手始めに東国に豊穣と拮抗する勢力を持つ三浦が鎌倉でクーデターを起こし・・・
もし仕損じても、西国の御家人が挙兵して北条義時を討つ!!
二段構えの戦略でした。

ところが・・・事態は後鳥羽上皇の思惑を超えて動いていきます。
挙兵からわずか半月・・・義時は上皇の動きを察知していました。
頼みの綱の義村が、上皇の書状を義時に提出したのです。
これまで北条と結ぶことで大きくなってきた義村は、弟の叛逆にはくみせず、幕府に味方すると誓約したのです。
更に決め手は・・・御家人たちに向かって行われた北条政子の演説です。

”みな、心して聞きなさい
 源頼朝殿が朝敵平家一門を滅ぼし、ここ関東に幕府を作って以来、みなの官位は上がり収入も増えた
 その恩は山よりも深く、海よりも深い
 しかし今、朝廷より理不尽な幕府討伐命令がだされた
 名を惜しむ者は朝廷側についた者共を早々に討ち取り 三代にわたる源氏将軍の恩に報いなさい”

義時追討だけが目的だった内容を、朝廷が幕府を倒そうとしていると読み替えて情報操作したのです。
僅か18騎で出陣した幕府軍はたちまち膨張し、1万を超えるまでに膨れ上がりました。
岐阜県各務原市・・・1221年6月5日、この地で木曽川を挟んで対峙した幕府軍と上皇軍が激突!!
10倍以上の幕府軍を前に、兵を分散していた上皇軍は大敗・・・京に撤退します。
勢いに乗った幕府軍は、一気に都になだれ込みます。
事態の急変に上皇は義時追討の院宣を取り消します。
史上初の朝廷と武士の武力衝突は、あっけなく幕を閉じたのでした。

後鳥羽上皇の敗北は、その後の日本を大きく変えることとなります。
上皇方として戦った西国守護はことごとく処分され、その後には東国の御家人が赴任しました。
上皇の思惑通りとは反対の方向で、日本は一つとなったのです。
幕府によってそれまでの天皇は廃され、新しく上皇の兄の子である後堀河天皇が即位します。
皇位継承に幕府が口出しをするという前代未聞の事態でした。
上皇への処分も過酷を極め、島根県隠岐の島に上皇流罪流されます。
島の高台には、上皇が今も暮らした行在所が残っています。

人も通わぬというこの場所で、上皇は僅かな側近と共に仏への信仰と和歌に慰めを見出す暮らしを送ったと言われています。
しかし、後鳥羽上皇は失意の中でも都への想いを忘れてはいませんでした。
島には上皇と接した一族・村上家が今も残っています。
村上家は帰還を願う後鳥羽上皇の便りを京に運び、上皇はその返事を求めて頻繁にこの家を訪れたと言われています。
しかし・・・都に還る・・・その願いが叶うことはありませんでした。

承久の乱から18年経った1239年2月22日、後鳥羽上皇は病に倒れ崩御・・・享年60歳でした。

京、大阪の境に、後鳥羽上皇を祀る水無瀬神宮があります。
上皇の側近水無瀬家の末裔が宮司を務めるこの神社に、一通の文書が伝わっています。
死の13日前、上皇が記した置文「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」です。
自ら赤々と手形を押し、日ごろの奉公に報いるため水無瀬の地を与えるので菩提を弔ってほしいと書かれています。
この置文の下書きには次の文章が書かれていました。

”私がもし百千にひとつでも、この世の妄念に執着して魔縁となるようなことがあったら、この世に祟りをなすこともあるであろう
 千万にひとつでも我が子孫が皇位につくようなことがあれば、全て我が力と思うが良い”

その後、後鳥羽上皇の遺骨の一部は、京の都から20キロ離れた大原の地に葬られました。
死してなお、都の地を踏むことは許されなかったのです。

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平安時代末期の1184年1月20日・・・今から800年以上前・・・
平家討伐の功労者が31歳で命を落とした。
源氏の対象のひとり・・・木曽義仲です。
義仲を討ったのは、あろうことは同じ源氏の源義経でした。
判官贔屓という言葉が生まれるほど人気のあった義経と敵対することで、敵役として語り継がれてきた木曽義仲・・・暴れん坊ともそば繋否か者ともいわれていますが・・・本当にアンチヒーローだったのでしょうか?

木曽義仲・・・本名は源義仲。
木曽の山国で育った猛者のイメージがありますが・・・色白のイケメンだったようです。
後に鎌倉幕府を開く源頼朝やその弟義経とは従兄弟で、やがて対立していくこととなります。

木曽義仲は、1154年武蔵国に生まれます。
父・源義賢は、皇族の流れをくむ武家の名門を束ねる頭領の一族で、関東の上野国や武蔵国の北部を治めていました。
そんな義賢の子として源氏の武将となることを約束された義仲でしたが・・・わずか2歳の時に悲劇が・・・
父・義賢が殺害されてしまいました。
首謀者は義賢の母親違いの兄・義朝でした。
武蔵に地盤を築いていた義朝が、いずれは弟の義賢が対抗勢力になると恐れ、わずか15歳の息子・義平に命じて亡き者にしたのです。
まさに、血で血を洗う骨肉の争い・・・
義賢の子・義仲もまた父親と共に殺されるはずでした。
そんな義仲の命を救ったのは・・・義朝に仕えていた斎藤実盛です。
残された義仲を不憫に思った実盛は、敵にも関わらず追手から逃すために、木曽の豪族・中原兼遠に預けます。
兼遠は、源氏の頭領の血を受け継ぐ義仲を、将来源氏の大将にすべく、育てていきます。
そのために、兼遠が常々言い聞かせていたのは・・・
「平家を討つことこそ、そなたの定めよ」
真の敵は、父を殺した身内ではなく平家であると・・・!!
義仲は、いずれ源氏の大将となって、兼遠の恩に報いたいと思うようになりました。
そんな義仲の思いが通じる時が、刻一刻と迫っていました。

義仲が木曽の山中で伸び伸びと育っていた頃、京の都では源氏が由々しき事態に追い込まれていました。
源氏と敵対する武家の勢力、平家を束ねる平清盛が平治の乱(1159年)で源氏を束ねる源義朝に勝利、。
義朝は、東国に逃れる途中で殺されてしまいます。
勝者となった清盛は、官職のTOPである太政大臣にまで上り詰めました。
そして清盛一門は、全国に多くの領地を得、朝廷の主な官職を独占!!
清盛の娘・徳子は高倉天皇の正室となり、生まれた孫を安徳天皇に・・・!!
まさに、平家に非ずんば人に非ず・・・清盛一門は栄華を極めます。
このことを苦々しく思っていたのは、天皇を退いた後、院政をしていた後白河院でした。

「平家を倒さねば・・・!!」

この思いを受けて、対平家の急先鋒となったのが、後白河院の三男で安徳天皇に代わり天皇の座を狙っていた以仁王でした。
以仁王は、全国の源氏に平家打倒の令旨を出します。
その令旨は、27歳になっていた木曽義仲にも届きました。
打倒平家は義仲が抱いていた悲願でした。

「平家を攻め落とし、日本に二人の将軍ありと言わせて見せよう・・・」

この二人の将軍とは、源頼朝と、自分のことでした。
平治の乱の後、伊豆に流刑となっていた頼朝が、東国の武士たちを結集して兵をあげていました。
まさに、義仲にとって、千載一遇のチャンスでした。

「源氏の将軍として名乗りを上げようぞ・・・!!」

さらに、義仲が兵をあげたもう一つの思いは・・・
義仲の兄は、以仁王に仕えていました。
以仁王は令旨をばらまき、それがバレて殺されてしまいます。
その時、兄も討たれていました。
平家は兄の仇だったのです。
そして、亡くなった兄の代わりに以仁王の命令を成し遂げる・・・!!
父が殺されたことで離ればなれになってしまった兄・・・その無念を晴らしたい・・・!!
義仲は、兄の思いも背負って挙兵したのです。
平清盛は・・・「山猿の義仲など、案ずるに及ばずじゃ・・・」と、気にもかけませんでした。
しかし、義仲は挙兵の1か月後には上野国に進出!!
父・義賢の領地を取り戻します。

頼朝は、1180年富士川の戦いに勝利していました。
二人の大将が、平家を圧倒し始めます。
そんな中・・・1181年2月・・・絶対的権力者の平清盛が亡くなります。
屋台骨を失った平家・・・これによって天下の形勢は一気に源氏に・・・!!

1181年越後の平家軍と戦うこととなった木曽義仲・・・
平家軍はこの時6万の大軍勢・・・対して義仲軍は、圧倒的に不利な2千でした。
この2つの軍勢が激突!!横田河原の戦いです。
その結果は、義仲軍の勝利!!
その強さの秘密とは・・・??

①義仲が対象として作戦能力に長けていた
この時、義仲がとった戦略が・・・平家軍と思わせるために赤旗を掲げ、背後から接近するというものでした。
子の奇襲に平家軍は慌てふためき、その混乱に乗じて勝つことができたのです。

②木曽四天王など、結束力の強い優秀な家臣たちがいた
非常に忠誠心の強い家臣がそろっていました。
木曽四天王・・・今井兼平、楯親忠、根井行親、樋口兼光・・・絶対的な家臣がいたのです。

こうした結束力をもたらしたのは、義仲が何よりも義と情けを重んじ、家臣たちを大切にしていたからでした。
その中に・・・伝説の女武者・巴御前の姿も・・・!!
平家物語には義仲と濃い中だったと書かれており、その人物像は・・・
”巴は色白く、髪長く、容顔真に優れたり
 一人当千の兵なり”

美人なだけでなく、一人で千人に値する兵だった・・・
その活躍は、横田河原の戦いで、7人の武将を討ち取って功名を得たと記されてもいます。
家臣たちの活躍もあって平家軍に勝利した義仲でしたが・・・
1183年、義仲を震撼させる一報が・・・!!
鎌倉の源頼朝が義仲に大軍を差し向けたというものでした。
頼朝は、味方であるはずの義仲に兵を向けたのでしょうか?

当時、頼朝は坂東(関東)周辺の源氏一族を討伐していました。
その中のひとりとして義仲を・・・!!
そんな頼朝に対し、和議を申し入れようと使者を遣わす義仲。
すると、頼朝から出された講和の条件は・・・
義仲の長男・義高を人質として差し出させ、頼朝の娘と結婚させるというものでした。
当時、義高は11歳・・・周囲は猛反対しましたが、
義仲は「不要な戦はせぬ・・・信濃を戦場にはさせぬ」と、我が子を犠牲にしても信濃での無益な戦いを避け、家臣や民を守ろうとしたのです。

この後義仲は、1180年倶利伽羅峠の戦いでまたもや奇策を用いて大勝利を収めます。
それが火牛の計・・・牛の角に松明を括り付け、一気に平家軍に向けて放ったのです。
牛たちの突進から逃れようとして大混乱に陥った平家軍は、谷底に落ちていきました。
連戦連勝・・・破竹の勢いの義仲軍には、信濃や北陸から武士が集まってきました。
一方、清盛亡き後の平家軍は敗走をかさね、西国へと逃れて行ったのです。
義仲は、奢れる平氏に引導を渡し、源氏の世へと導いた時代の寵児となりました。

石川県小松市の多太神社には、木曽義仲が義と情けの武将であった証が残っています。
義仲が奉納した兜とすね当て・・・この兜をかぶっていたのは、義仲の父親が殺されたとき、降りかかる危険を省みず義仲を木曽へと逃がしてくれた忘れ難き命の恩人斎藤実盛のものです。
義仲を救った実盛は、主君が亡くなってから平家に従う身となっていました。
そして30年後・・・二人は加賀国篠原で敵味方として相まみえることに・・・義仲は、命の恩人を討ち取らせたのです。
実盛の首を前にした義仲は、その名を呼び、天を仰いだといいます。
戦の後、亡くなった実盛の兜を神社に奉納し、その死を弔います。
恩人の情けに報いるために・・・!!

1183年、木曽義仲はやっと京都に入ることに・・・。
朝廷の権力者・後白河院との謁見を果たします。
朝廷にとって大きな功労者であったはずの義仲・・・
しかし、人々は、山里育ちの武骨ものと嘲笑・・・??
しかも義仲は、都の人々の期待を裏切ってしまいます。
民衆が義仲に願ったのは、荒れ果てた都の治安の回復でした。
義仲は他の源氏と共に京都の警護をする京中守護に任じられたのですが、義仲に付き従った源氏の兵士の中から乱暴狼藉を働くものが続出し、治安がさらに悪化してしまいました。

失敗はさらに続きます。
安徳天皇が都を離れたことで、後継を誰にするのか問題が出て来ました。
後白河院は、高倉天皇の皇子で、安徳天皇の異母弟である四ノ宮を考えていました。
安徳天皇に血筋が最も近かったからです。
そこに待ったをかけたのが義仲でした。
平家との戦で死んだ以仁王の子・北陸宮を推薦したのです。
北陸宮は後白河院の孫ではあるものの、天皇の子でもなく、四ノ宮と比べると後継者の順位は低いものでした。
それでも義仲はこう言います。
「源氏が京を目指したのは、以仁王がいたからです。
 その子である北陸宮を次の帝にすることこそ、以仁王の死に報いることではありますまいか・・・!!」
この義仲の主張に後白河院は怒ります。

「武士の分際で、皇位継承に口を挟むとは何事か!!」

義仲が北陸宮を推したのは、以仁王に報いるため・・・そして、もう一つ理由がありました。
父を殺されたという北陸宮の状況に自分を重ねていたのです。
義と情けに厚いことがアダに・・・後白河院に疎まれることになります。

義仲が邪魔となった後白河院は、ある男の力を借りようと接触します。
源頼朝です。
頼朝もまた源氏に二人も対象は要らぬ!!と、打倒義仲を虎視眈々と狙っていました。
義仲が平家と戦っている間、頼朝は後白河院に密書を送り、朝廷への恭順の意を示すとともに自分には義仲を討つ覚悟があると伝えていたのです。
頼朝と通じていた後白河院・・・しかし、ある日義仲に自ら剣を与えこう言います。
「天下の乱れを鎮めよ・・・必ずや平家を倒せ・・・!!」
義仲に西国に逃れた平家追討を命じます。
義仲は後白河院から大役を命じられたと意気揚々と西国に・・・!!
後白河院が追討を命じたのは・・・??
義仲を京都から西日本に行かせて、頼朝を上洛させその頼朝に義仲を討たせようとしたのです。

そんな謀略だと知らずに平家追討に向かった義仲は、西国で力を盛り返していた平家に思わぬ苦戦を強いられます。
備中・水島の戦いでは、数千の兵を失うという大敗・・・。
苦境に立たされた義仲に追い打ちをかけるように都から報せが・・・

「鎌倉から大軍が押し寄せております!!」
「誰の命で動いておるのだ??」
「後白河院が命じたと・・・」
「まさか・・・」

この時初めて義仲は後白河院の謀略に気付きました。
本当の敵は、頼朝と手を組んだ後白河院だったと・・・!!

義仲は急遽、都へと舞い戻り、後白河院に激しく詰め寄ったと言います。
しかし、時すでに遅し・・・後白河院から追討の命を受けた頼朝が、遠征軍の指揮を義経に任せていました。
その義経の大軍が、すでに鎌倉を出陣していたのです。
こうして各地で義仲軍と義経軍との戦いが始まると、義仲軍は次々と破れていくこととなります。
後白河院はさらにしかけます。
京都にいた義仲以外の源氏を法住寺に集めて、義仲を討つための軍事強化を図ります。
信頼していた後白河院に裏切られた義仲の怒りはすさまじく、法住寺を攻めます。
後白河院を捕らえると幽閉し、義仲自身を征東大将軍に任じさせるという強引に反撃に出ます。
こうして、義仲は頼朝よりも先に将軍となったのですが・・・
これこそが、後白河院が待ち望んだ事でした。
案の定、義仲による後白河院の幽閉があまりに横暴と、公家や武士たちが猛反発!!
こうして孤立した義仲は四面楚歌に・・・。
敗色濃厚な義仲軍からは、見切りをつけた兵たちが次々と去っていきました。

1184年、源氏の大将として常勝を誇り、かつては数万の大軍勢を率いた木曽義仲でしたが、各地で負傷兵や脱走兵が出る中、軍勢は僅か数千に激減・・・。
その勢いは見る影もありませんでした。
しかし、木曽四天王をはじめ、昔から義仲を支えてきた家臣たちは、誰一人去らなかったと言います。
義と情けを重んじる義仲と、難い絆で結ばれていたからです。
義仲は、武士道という言葉がまだなかった時代に現れた、類まれなリーダーでした。そして義仲軍は、今日の宇治川で義経率いる大軍と相まみえることとなったのです。(宇治川の戦い)

義仲の最期を記した平家物語には、仕え続けた巴御前との涙の別れが記されています。
敵が目の前に迫る中、義仲は巴御前に告げます。

「どこへでも逃れて行け。。。
 我は討死する覚悟だ。
 最期に女を連れていたなどと言われとうない・・・」

と、巴御前を生かそうとしますが・・・
しかし、巴御前は、

「殿、何を仰せか!!
 嫌でございます。」

巴御前は、義仲の傍から離れません。
それでも、義仲が生きろと諭すと・・・ようやく巴御前は聞き入れます。
その後、彼女は鎧兜を脱いで、東国へ落ち延びたと言われています。

そして、この宇治川の戦いに敗れた義仲が、最期に行った場所は、琵琶湖のほとりの粟津・・・。
そこでは、四天王のひとりでともに木曽の山で育った今井兼平が苦戦を強いられていました。
義仲は、命を落とすことを承知で家臣のもとへ駆けつけました。
しかし、もはや戦いに疲れ果てていた義仲は・・・

「日頃は何とも思わぬ鎧が・・・今日は重く感じられることよ。。。」

兼平が初めて耳にした主君の弱音でした。
すると兼平は・・・
「気の弱いことを申されるな。」
と励まし、名誉の自害を勧めます。

自害するため、敵に背を向けてその場を立ち去る義仲・・・
兼平は、義仲が自害を遂げられるように時間を稼ぎます。
そんな兼平を最後まで心配したのか・・・義仲が振り返った瞬間・・・
義仲の眉間を、一本の屋が貫いていました。

最期の最期まで家臣を思いながら、木曽義仲は散ったのです。
1184年、木曽義仲、31歳でした。

破った義経は、その後の平家との戦いでヒーローとなりました。
しかし、その義経も、後白河院と源頼朝の権謀術数にはまり、義仲と同じ31歳で生涯を閉じることとなります。
勝者となった頼朝は、1185年鎌倉幕府を開き、武家政権を始めることとなるのです。
源氏の覇権争いで頼朝に敗れた義仲について、芥川龍之介は・・・

”彼の一生は失敗の一生也
  彼の歴史は蹉跌の歴史也
 彼の一代は薄幸の一代也
   然れども彼の生涯は男らしき生涯也”

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貴族社会が揺らぎ、武士が台頭してきた平安末期・・・
その歴史のターニングポイントに、天皇・上皇・法皇として30年間にわたり朝廷に君臨したのが後白河法皇です。
平清盛、源頼朝、源義経・・・名だたる武将を手玉に取り、日本一の大天狗と恐れらた後白河法皇。
しかし、その素顔は??

1127年9月11日、後に後白河法皇となる雅仁親王・・・後の後白河法皇が生れました。
父は鳥羽上皇、一番上の兄は崇徳天皇でした。
上皇→天皇が退いた後の称号
法皇→上皇が出家した後の称号
のことです。
雅仁親王は四男だったので、通常ならば皇位から遠い位置にありましたが、長男の崇徳天皇は9歳で子供がなく、次男、三男は病弱だったので、崇徳天皇に何かあった場合、雅仁天皇が皇位を継ぐかもでした。
1139年13歳になったある日・・・末の弟(九男)となる体仁親王が生れると、鳥羽上皇はその子を皇太子にしてしまったのです。
これには母親が誰であったかが重要でした。
雅仁親王の母は、待賢門院璋子、体仁親王の母は、美福門院得子でした。
美福門院の方が寵愛されていたのです。
皇位に着くことはない・・・そう考えた雅仁天皇は、当時の流行歌である今様に熱中します。
貴族から民衆まで楽しんでいた今様にのめり込んでいく雅仁親王。

1141年、雅仁親王を皇位から遠ざけた鳥羽上皇が、再び動きます。
23歳の崇徳天皇に強引に譲位を迫り、まだ3歳だった体仁親王を近衛天皇としたのです。
崇徳天皇は、鳥羽上皇の本当の子ではないという噂がありました。
崇徳天皇の本当の父は、崇徳上皇の祖父である白河法皇だといわれています。
不貞の子だと考えられていて、鳥羽上皇は一刻も早く自分の子を天皇のしたかったのです。
ところが、新たに即位した近衛天皇は体が弱く、子供を残せぬまま17歳で崩御。
次の天皇を誰にするか??朝廷内がにわかに騒がしくなりました。
鳥羽上皇は、四男である雅仁親王を・・・ではなく、その子・守仁親王を指名します。
それに対し、貴族たちが不満の声が・・・
すると鳥羽上皇は・・・
「ならば、一旦雅仁親王を即位させて、その後すぐに守仁親王へ譲位させよう」
こうして、後白河天皇は、急場しのぎの中継ぎとして即位しました。
この時、29歳でした。

1156年保元の乱!!
保元元年に、一連の皇位継承を快く思わない崇徳上皇が、後白河天皇と衝突!!
指揮を執ったのは近親たちで、実際に戦ったのは武士たち・・・
崇徳上皇・・・・・源為義・平忠正
後白河法皇・・・源義朝・平清盛
でした。

源義朝・平清盛らの活躍で、保元の乱は後白河法皇側が圧勝!!
敗れた崇徳上皇は讃岐国に流されてしまいました。
この保元の乱は、武士が台頭する大きなきっかけとなりました。
2年後・・・後白河天皇退位!!して上皇に。
第一皇子である守仁親王が二条天皇となりました。
これで世の中は落ち着く??そう思われましたが、後白河上皇が争乱の火種を作ってしまいます。
当時、朝廷には二人の実力者がいました。
共に後白河上皇の近臣だった僧侶・信西入道と上級貴族の藤原信頼です。
53歳の信西入道は、もともと貴族で諸芸に通ずる才人で、妻が後白河上皇の乳母であったこともあり絶大な権力を有していました。
一方、藤原信頼は27歳。
後白河上皇の元で大出世し、この時すでに権中納言という地位にありました。
しかし、周りの評価は・・・「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし・・・」と、典型的なダメ男でした。
どうして信頼は異例の出世をしたのでしょうか??
二人は男色関係にあり、後白河上皇は信頼にべた惚れでした。
貴族社会の間では、男色は普通のことでした。

信頼が願いを申し出ます。
「私を右近衛大将にしていただけませぬか?」by信頼
右近衛大将とは、宮中での常設武官の最高職でした。
信頼には分不相応でしたが・・・後白河上皇はこの願いをかなえてやりたいと信西に相談。
信西は・・・
「信頼などが、右近衛大将となったら世が滅びます」by信西
これを聞いた信頼は激怒し、信西を恨み、遂には信西の殺害を目論みます。
この時手を結んだのが、保元の乱で活躍した源義朝でした。
義朝も信西に恨みを抱いていました。
保元の乱の後、崇徳上皇側についた父・為義の助命嘆願をしましたが、信西がこれを許さず、義朝自身に父・為義を処刑させていたのです。
また、信西は、平清盛を優遇し、義朝を冷遇していました。

1159年12月9日、藤原信頼と源義朝が挙兵!!
平治の乱が勃発しました。
平清盛が京都を離れていた隙をつき、義朝率いる源氏軍が信西の屋敷を襲撃し、屋敷にいた者をことごとく殺害し、信西を自害に追い込みます。
さらに、暴走した信頼は、二条天皇と寵愛を受けていた後白河上皇を幽閉しました。
朝廷の実権を奪ったのです。
しかし、平清盛が京都に戻ると状況は一変!!
二条天皇を内裏から救い出し、後白河上皇も自力で脱出!!
勢いに乗った清盛は、激戦の末に源氏軍を撃破!!見事に乱を治めたのです。
追いつめられた信頼は、命からがら後白河上皇の元に逃げ込み、助命嘆願します。
すると上皇は、幽閉されたにもかかわらず、信頼の願いを聞き入れようとします。
しかし、二条天皇は信頼を許さず・・・六条河原でその首を刎ねました。
この時信頼についていた義朝は、尾張国まで逃げますが、殺されてしまいました。
供に逃げていた息子・頼朝は伊豆に流され、弟・義経は鞍馬寺に預けられたのです。
後に、平家打倒に・・・!!

この後、後白河上皇は失脚し、貴族たちの顰蹙を買い総スカン!!
後白河上皇の屋敷には、見物席があり庶民と歓談することを楽しみにしていた上皇ですが。。。
平治の乱の後実権を握った二条天皇の近臣が、見物席の目の前に板を打ち立て後白河上皇の楽しみを奪ってしまいました。
腹を立てた後白河法皇は・・・一気に勢力を高めていた平清盛を屋敷に呼びます。
「板を打ち付けた者を懲らしめてほしいのじゃ!!」
と、懇願します。
失脚しても上皇・・・。清盛はこの願いを聞き入れます。
板を打ち付けた者たちをせっかんし、泣き叫ぶ声を上皇に聞かせました。
自らの武功によって失脚した後白河上皇・・・もはや復権はない・・・。
と、誰もが思っていました。
ところが・・・時代は後白河上皇に微笑みます。
1165年二条天皇が23歳という若さで病死。
亡くなる直前に、実子の六条天皇が後を継いでいましたが・・・まだ2歳・・・。
政務を行える状態ではなかったので、祖父である後白河上皇が復権。
院政を行うこととなりました。
すると上皇は、清盛のご機嫌を取り始めます。
六条天皇の皇太子に清盛の甥・憲仁親王を据え、皇太子に関する実務を司る役所である東宮坊の役人に平家の者たちを・・・。
そして、1167年清盛を太政大臣に任命します。
武士が、官僚の最高職である太政大臣となるのは前代未聞のことでした。
清盛に守られることで、院政を強めようとしたのです。
翌年には、憲仁親王が皇位を継ぎ高倉天皇となりました。
そしてその高倉天皇が、清盛の娘・徳子妃としたので、後白河上皇と清盛の関係は強まります。

1169年後白河法皇は43歳で出家して、後白河法皇となります。
これまで以上に人生を謳歌していきます。
蜜月関係の後白河法皇と清盛ですが、思わぬところから亀裂が・・・!!
1177年比叡山延暦寺の僧兵たちが寺で乱闘事件を起こした者の処罰を求め、高倉天皇の内裏へ乗り込んできました。
激怒した後白河法皇でしたが、その理由は・・・
「訴えがあるのならば、なぜ朕のところへ来ないのじゃ!!」
延暦寺が、自分を最高権力者と認めていないことに腹を立て、後白河法皇は清盛に
「直ちに延暦寺を攻め立てよ!!」と命令します。
これが清盛を悩ませます。
延暦寺は、僧兵がたくさんいて手ごわく・・・何より、仏門を敵にしたくはありませんでした。

そんな時、清盛に知らせが・・・
京都・鹿ケ谷の山荘で、後白河法皇の近臣たちが、平家打倒の陰謀を企てていると・・・!!
清盛は、近臣たちを捕らえ、拷問し、斬首しました。
これを目の当たりにした街の人たちは、平家に逆らうと恐ろしいことになると噂します。
朝廷内にも激震が・・・!!
本当にこの陰謀はあったのか・・・??
清盛は、自らの力を見せつけることで、無理難題を押し付ける後白河法皇を黙らせようとしたのではないか?と思われます。
ところが、後白河法皇は黙るどころか「平家一門もろとも葬り去ってやる!!」と、清盛に激怒!!
清盛が管理していた領地を取り上げ、孫・維盛の知行国・越前を没収。
その上で、またしても延暦寺を攻撃せよと命じます。
これによって清盛はついに挙兵を決意!!
そして1179年11月、数千騎を引き連れて後白河法皇の内裏へと向かいます。
この時、後白河法皇は、「清盛の挙兵は延暦寺を攻めるためだ」と考えていました。
自分が徴発しておきながら。。。
自分が襲われるのだと気づいたのは、清盛軍が目前に迫ってからでした。
慌てた法王は、清盛の元に使者を送り、「今後、朕は一切政治に関与せぬ」と宣言。
しかし、時すでに遅し!!
延暦寺の問題で、後白河法皇と清盛の関係は悪化していました。
これを黙殺し、後白河法皇を幽閉して、院政を停止!!
朝廷の人事を刷新し、法皇の近臣たちをことごとく追い払い、その空いたポストに平家一門をつかせたのです。
これによって、平家が支配する所領が全国の半分を越えるまでに拡大しました。
平家の世が訪れたのです。

法皇は、さほど落ち込むこともなく、今様を舞っていました。
親しみやすい後白河法皇は、民衆から支持されていて、幽閉されたことがわかると、涙を流すものまでいたといいます。
呑気に今様に興じていた後白河法皇。
自分に逆らった清盛への怒りは全く収まっていませんでした。
権力をほしいままにする平家に対し、不満の声が高まり立ち上がる者が出てきました。
源氏の嫡流である源頼朝もその一人です。
伊豆国で挙兵した頼朝は、東国武士を次々と味方につけ、鎌倉に平家を倒すための拠点を作ります。
これに、延暦寺など多くの寺社も呼応し、打倒平家の機運は高まります。
暗雲が立ちこみ始めた平家政権・・・。
すると清盛は後白河法皇の幽閉を解き、院政の再開を要請します。
再び法皇と手を組み、反勢力を抑え込もうとしたのです。
1181年、清盛が突然病に倒れます。
激しい頭痛と体が燃えるような高熱で息も絶え絶え・・・もはや助からぬ・・・と、後白河法皇に

「私が没したら、後を託した息子の宗盛と共に政務を執っていただきたい」by清盛

かつては、蜜月関係を築いていた清盛の最後の願い・・・清盛に恨みを抱いていた後白河法皇はこれを無視!!
清盛は平家の行く末を案じたまま、治承元年閏2月4日、死去。

この時後白河法皇は、清盛を弔うこともなく、内裏で今様を謡い続けていたといいます。
1184年、源頼朝に平家追討の命令を下しました。
その翌年の1185年・・・壇ノ浦で平家は滅亡!!

源義経が近江で平宗盛を処刑すると、後白河法皇はわざわざ宗盛の首を見物しに行ったといいます。
その1年後・・・平家の生き残りとなった清盛の娘・徳子の元を訪れ、一門滅亡の悲痛な思いを聞いて涙したといいます。
自分で滅ぼしておきながら・・・!!

平清盛と蜜月関係を築き、権力を維持してきた後白河法皇は、平家亡き後は源氏と密にしていきます。
そこで目をつけたのが、源義経でした。
平家との戦いを勝ち抜いた戦の天才・源義経!!
武功を高く評価した後白河法皇は、検非違使に任命します。
しかし、これを不快に思ったのが、兄・頼朝でした。
頼朝は、総大将の自分の許可なく官位を得た義経を激しく叱責!!
鎌倉に入ることも許さず、領地も没収!!
非情な兄の仕打ち・・・義経の悲しみは、やがて激しい怒りに!!
そして後白河法皇に兄・頼朝の追討許可を求めました。

「よかろう・・・頼朝を討つがよい!!」by後白河法皇

頼朝は驚きます。
確かに最前線で戦ったのは義経でしたが、総大将として平家を滅亡させたのは自分・・・その自分を討てとは・・・!?
頼朝は、後白河法皇を「日本一の大天狗」と、得体のしれない存在と皮肉を込めて呼びました。
しかし、この時後白河法皇には意図がありました。
この時、都は激化する源平の戦いで混乱していました。
頼朝に対して憤っていた義経が暴発する可能性がありました。
頼朝追放令を出すことで、義経を落ち着かせようとしたのです。
義経を思ってのこと・・・??

頼朝の追討を許された義経でしたが、事は思うようには運ばず・・・
鎌倉に強大な軍事力を持つ頼朝を敵に回そうとする武士は少なく、戦力が整いません。
止む無く、頼朝追討は諦め、若い頃世話になった奥州藤原氏の元へ逃げ込みます。
一方頼朝は、1000騎の軍勢で都を制圧!!
後白河法皇に、義経追討の院宣を求めます。
そると法皇は・・・
「よかろう 義経を討つがよい」と、義経追討をみとめてしまいました。
後白河法皇に見捨てられた義経は、逃げ込んだ奥州で力尽きて自害。
31歳という若さで生涯を追えます。
寵愛していた義経追討を許した後白河法皇。
この時、義経を見捨てた理由は・・・
後白河法皇は、何より都を護りたかったようです。
頼朝が上洛し、都を制圧すると、今度は頼朝の怒りを鎮めるために・・・
義経よりも、都と民衆の安寧を守りたかったのです。

1192年後白河法皇は、66年の生涯を閉じました。
その死に顔は、驚くほど穏やかだったといいます。
今様を愛した後白河法皇、お気に入りの歌は・・・

遊びをせんとや生まれけん
    
   戯れせんとや生まれけん
      
遊ぶ子供の声聞けば

   わが身さえこそ動がるれ

まさに、この歌のように生き、平家と源氏を翻弄し、時代を変えた実に興味深い人でした。


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江戸幕府初代将軍徳川家康。
家康が天下を手に入れることができた一つの要因は長寿でした。
薬や医術を学び病に対処、常に健康に気を遣っていました。
歴史にその名を残す偉人達・・・どうやって病と闘い死と向き合ってきたのでしょうか?

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝

鎌倉幕府を開いた源頼朝は、1147年尾張国に源氏の棟梁・源義朝の嫡男として生まれました。
その後、義朝と共に平治の乱に加わるも、平清盛に敗北を喫し父を殺され、頼朝は伊豆に流されます。
1160年、頼朝14歳の時でした。

それ以来、父の菩提を弔いながら、いつの日か敵を討とうと平家への恨みを募らせていきます。
願いがかなったのは、25年後の1185年、頼朝39歳の時でした。
源氏が壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしたのです。
1192年、頼朝は鎌倉幕府初代将軍となります。
武士が中心となって政治を行う武家政権の安定化を図っていきますが・・・将軍になってから6年後の冬の事。
武蔵国で行われた橋の開通式に参列した帰り道、頼朝は落馬してしまいます。

「武士の棟梁でありながら落馬するとは、何たる失態!!」

酷くショックを受けたものの、大したけがもなくいつもと変わらぬ日々を送っていました。
ところが・・・2週間ほどたった日の早朝・・・ひどい頭痛と吐き気を訴え・・・そのまま亡くなってしまうのです。
53歳でした。

亡くなる前日まで元気だったので、人々はその死を不信がりました。
様々な噂が・・・頼朝の謎の死、その死因とは・・・??

死因①亡霊説
南北朝時代の書かれた「保暦間記」には・・・
「安徳天皇らの亡霊を見て、気を失い病に倒れた」
とあります。
頼朝は壇ノ浦で平家と共に身を海に投げた、安徳天皇らの亡霊を見て病に倒れたというのです。
当時は、亡霊や祟りの存在が強く信じられていたからです。
が、信憑性はありません。

死因②毒殺説
鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」は、なぜか頼朝の死の前後3年間は空白となっています。
これは、頼朝の不信な死を隠したいという隠蔽説ではないか??と!!
そしてその首謀者こそ、当時頼朝の後ろ盾であった北条氏で、頼朝から政権を奪うために、あらかじめヒ素を飲ませ、毒殺し、隠蔽を図ったというのです。
ヒ素の中毒症状は・・・
・胃や腹部の激しい痛み
・嘔吐
・血性の下痢
・重症の場合は、腎障害や、全身痙攣を引き起こす
です。

頼朝もまた、強い吐き気をもよおしていたので、ヒ素とも考えられますが・・・まだ鎌倉幕府が安定していない時期に、北条氏がカリスマ性のある頼朝を毒殺するメリットがない??

死因③糖尿病説
五摂家の一つ近衛家の日記「猪隈関白記」の中に
「頼朝卿、飲水の重病により」という記述があり、頼朝は重い飲水病を患っていたことになります。
飲水病とは・・・??糖尿病のことです。
大量に水を飲みたがることから、飲水病と名付けられたようです。
糖尿病になると・・・血管障害や腎障害、神経障害を起こし、重病の場合、死に至る可能性がります。
頼朝の死は糖尿病??

頼朝の場合、突然体調不良を起こしているので、糖尿病で死に至った可能性は低いと思われます。

頼朝の死の原因は落馬・・・??
慢性硬膜下血腫による死亡が有力です。
これは、頭部打撲の後、2~3週間後に症状が出ます。
頭を討った際に、じわじわと出血し、血種が大きくなり、脳幹を圧迫して死に至る場合がります。
気にならないほどの打撲で・・・。

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝
病歴:糖尿病
死因:慢性硬膜下血腫
没年齢:53歳
でした。


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