日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:源頼朝

1221年、日本の歴史を大きく変えた争いが起こりました。
承久の乱です。
相対したのは、京の朝廷と、東国武士を束ねる鎌倉幕府でした。
後鳥羽上皇が、幕府執権である北条義時追討の院宣を発したことで、その火ぶたが切って落とされました。
この時、後鳥羽上皇は治天の君・・・日本の頂点に立つ存在でした。
その後鳥羽上皇が、どうして武士に戦いを挑んだのでしょうか??
結果は、鎌倉幕府の圧勝に終わります。
その勝敗を分けたものは一体何だったのでしょうか??

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1203年、源頼朝が築いた鎌倉幕府の新たな将軍として、頼朝と北条政子との間に出来た次男・実朝が就任します。
この時、まだ12歳でした。
その若き3代将軍を支えたのが、政子の弟・北条義時でした。
北条氏は、血で血を洗う争いで幕府内での抗争を繰り返し、政敵を次々と排除。
幕府の政務を担う政所別当に加え、軍事を司る侍所別当にも就き、義時は将軍を補佐する執権として幕府No,2の地位を築きます。
当初、将軍実朝は、義時らに政務を任せていましたが、成長するにつれて自らで政を行おうと、為政者の手本を求めました。
それが、実朝の名づけ親でもある後鳥羽上皇だったのです。
わずか4歳で将軍となった後鳥羽は、19歳で長男の土御門天皇に譲位、上皇による政治・・・院政を敷き、絶大な権勢を誇っていました。

後鳥羽上皇とは・・・??
資質として歴代の天皇で最も有能な傑出した人物でした。
しかし、自信がありすぎました。
そんな後鳥羽上皇から、政を学ぼうと、実朝は上皇に近づき、蹴鞠や和歌を通じて信頼関係を築いていきます。
上皇側にも、実朝に近づきたい思いが・・・
幕府を実朝を通じて遠隔操作しようと考えていました。
後鳥羽上皇は、将軍・実朝を、自分の私的グループに引き入れたかったのです。
後鳥羽上皇は、実朝を取り込むため、自分のいとこを実朝の正室に迎えさせ、姻戚関係を結ぶなどの手を打ちます。
その思惑通り、実朝は上皇に心酔・・・

”山がさけ 海はあせなむ 世なりとも
         君にふた心 わがあらめらも”   by実朝

後鳥羽上皇は、このまま実朝を思いのままに操り、幕府とうまくやっていけるとそう考えていました。

後鳥羽上皇33歳の時・・・

”人もをし 人も恨めし あぢきなく
     世を思ふるゑに もの思う身は”

上皇の抱く不満とは・・・??

朝廷と幕府・・・不協和音
当時、諸国を統治する守護と、朝廷の公領・荘園の管理をする地頭の任命権は、幕府が握っていました。
それは、初代将軍・源頼朝が武士の世を築く根幹として強引に朝廷に認めさせた権利でした。
これが後鳥羽上皇が抱く不満の火種でした。
熊野三山を参詣する熊野詣に熱心だった後鳥羽上皇は、その費用を調達するため沿道の地域への課税を考えます。
その為には、京から熊野三山までの道が通る和泉国と紀伊国の守護が邪魔になると・・・その罷免を幕府に要求しました。
しかし、幕府はこれを拒否。
さらに、「朝廷への実入りが少なくなるから、備後の公領の地頭を罷免せよ」
地頭は、公領や荘園を管理することで、年貢の一部を管理費として得ていました。
その地頭がいなくなれば、朝廷の取り分が増えると上皇は罷免を命じたのです。
この要求に対しても、幕府は受け入れませんでした。
どうして頑なに幕府が拒んだのか・・・??
頼朝が幕府を造った時から、鎌倉殿の幕府は武士たちを守る組織でした。
それが存在意義でした。
それがゆえに、多くの武士が御家人となったのです。
守護や地頭は御家人が任命されます。
幕府は、御家人である地頭を守るために、罷免要求には従えなかったのです。
幕府成立以前には、武士が朝廷の言うことを聞かないということはあり得ませんでした。
命令に逆らい、朝廷の権威を傷つけるようになった幕府に、後鳥羽上皇は強い不満を抱くようになったのです。

「後鳥羽上皇と承久の乱」



後鳥羽上皇の幕府への不満が募る中、事件が起こります。
1219年1月27日、実朝の昇進を祝う儀式が鶴岡八幡宮で執り行われました。
ところが、そのハレの席で・・・鶴岡八幡宮を管理する別当・公暁によって、実朝が暗殺されたのです。
公暁は、実朝の甥にあたりました。
源頼朝亡き後、嫡男・頼家が2代将軍となっていましたが、北条氏が幕府幹部と対立し、将軍職を追われてしまいます。
この時、頼家の嫡男・一幡がすでに亡くなっていたので、頼家の次男・公暁と、頼家の弟・実朝。
結果、将軍となったのは、北条氏に都合のいい実朝でした。
公暁は、将軍になれなかったことを恨み、実朝を殺したと言われていますが・・・黒幕がいたという噂も・・・。
それは義時・・・??幕府の実権を握るため将軍・実朝を排除したともいわれています。
それとも後鳥羽上皇??表面上は昵懇にしていたものの、邪魔な幕府TOPを消そうとしたとも言われています。
しかし、双方とも、実朝が亡くなってのメリットはありません。
そうなると、やはり公暁の単独犯行ではないのか・・・??
幕府と朝廷をつないでいた実朝を失ったことで、両者の関係は急速に冷え込んでいきます。
後鳥羽上皇は、実朝暗殺を嘆き、警護を怠った幕府に不信感を抱くようになります。
そして、執権・北条義時に、こんな要求を突き付けました。

「亀菊に与えた所領、摂津国の荘園の地頭を罷免すべし」

亀菊とは、上皇が寵愛した女性です。
その亀菊が、自分の荘園の地頭を辞めさせてほしいとおねだりし、上皇がそれを受けて幕府に命じたのです。
どうしてこの時に・・・??
それは、踏み絵でした。
義時や政子が自分の言うことを聞くかどうかを試そうとしたのです。
対応に苦慮した義時ら幕府幹部は、協議を重ねます。
そして、義時の弟・時房が一千騎を率いて上洛します。
上皇に、幕府の返答を伝えます。

「頼朝公が、恩賞として任命された地頭を、大した罪もないのに罷免することができませぬ」

意のままにならない幕府に対して、後鳥羽上皇は反幕感情を強めて行きました。
一方、幕府は、1219年、摂家の九条家から、源氏の血をわずかにひく三寅(のちの4代将軍・藤原頼家)を招聘します。
ところが、朝廷の内裏を警護する大内守護を務めていた源頼茂が、源氏の血を引く我こそが将軍になるべきと謀反を起こします。
謀反は鎮圧されたものの、内裏の一部が消失、その修理費用捻出のために増税を行いますが、御家人や寺社などから強い抵抗を受けてしまいます。
その状況を幕府は静観・・・
もともと、将軍の後継をめぐる諍いが原因にもかかわらず、それらの抵抗を押さえない幕府に対して、後鳥羽上皇の不満はついに限界に達しました。
そして、その怒りの矛先は、幕府を束ねる執権・北条義時に向けられたのです。

決戦・・・朝廷VS.幕府
1221年6月5日、鎌倉幕府の大軍が、尾張一宮に到着します。
承久の乱合戦①美濃・尾張の戦い
敵方に後鳥羽上皇がいないことを確認した幕府軍総大将・北条泰時は、躊躇することなく上皇軍に攻めかかりました。
その攻撃に耐え切れず、上皇軍は敗走・・・

承久の乱合戦②砺波山の戦い
6月8日、北陸方面を進む幕府軍4万・・・
越中加賀の境に位置する砺波山で上皇軍と対峙します。
圧倒的な兵力差を前にして、上皇軍は相次ぎ投降・・・
ここでも敗走を余儀なくされたのです。
後がない上皇軍は、京の都に近い宇治川を最後の防衛線として決戦に挑みました。
承久の乱・・・最大の激戦の始まりです。

承久の乱合戦③宇治川の戦い
6月13日、幕府軍総大将・北条泰時は、全軍を宇治川に集中させ、防衛線突破を図ります。
しかし、上皇軍は橋を落とし、必死の抵抗を見せます。
攻めあぐね、立ち往生する幕府軍の兵たちに、上皇軍の屋の雨が降り注ぎました。
苦戦を強いられた幕府軍は、一旦兵を引きます。
6月14日、泰時は、川を渡って攻めることを指示します。
しかし、宇治川は、折からの豪雨で激流と化していました。
重い具足を身につけていた武将たちは、増水した川に次々と沈んでいきました。

「もはや・・・これまでか・・・!!」

泰時は、自ら川の中へ進もうとします。
しかし、周囲にいた武将たちに止められ、冷静さを取り戻すと・・・
近隣の家を壊して筏を作り、川を渡ることに成功します。
こうなれば、数に劣る上皇軍は敵ではありません。
その日のうちに、京になだれ込み、上皇軍を制圧します。
後鳥羽上皇は、泰時に使いを送り、執権北条義時追討の宣旨を撤回し、降伏しました。
幕府は承久の乱に勝利したのです。
後鳥羽上皇が宣旨を下してから、わずか1月での決着でした。

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どうして上皇軍は完敗を喫したのでしょうか?
敗因は、後鳥羽上皇の誤算でした。
誤算①己の権力への過信
自分が出した宣旨に逆らえるものなどいない・・・
朝廷が敵に回るとなれば、北条義時は孤立し滅びるだろうと、たかをくくっていました。
しかし、東国武士のほとんどは、北条氏につき、京周辺にも幕府に味方する者がいました。
御家人たちは、朝廷の意向よりも、幕府への恩義を選んだのです。

誤算②三浦市の篭絡の失敗
上皇は、北条氏の幕府内最大のライバル・三浦氏を味方に引き入れ、強力な援軍にしようと考えていました。
そこで、京にいた三浦一族の三浦胤義を味方につけますが・・・鎌倉にいた当主・三浦義村をどう取り込むのか??
義村の弟である胤義は、上皇にこう進言します。

「兄は恩賞を与えれば、必ずやこちらにつくでしょう」by胤義

「であれば”恩賞は思いのままに”と書いた密書を送ることにしよう」by後鳥羽上皇

しかし、幕府側が有利と見ていた義村は、その誘いに乗りませんでした。
それどころか、執権・義時に上皇からの密書を渡しました。
鎌倉で、三浦義村が蜂起してくれると信じていた上皇にとって、痛すぎる誤算でした。

後鳥羽上皇の独断専行が過ぎたこと、恩義のために幕府方につくという御家人たちの心情が読み切れなかったことで、上皇軍は完敗を喫したのです。

乱の後・・・公武逆転
後鳥羽上皇は、上皇軍敗北の報せを受けると、幕府軍の陣営に使いを送ります。
「此度の合戦は、謀臣等が申し行ふところなり」
と、責任を臣下に押しつけます。
しかし、執権・北条義時の裁断は苛烈なものでした。
上皇方に加わった公家、御家人はすべて処刑。
さらに、「西面の武士」は廃止、「北面の武士」は縮小・・・朝廷から武力を剥奪しました。
軍事力を失わせて幕府に逆らわせない・・・
7月6日、後鳥羽上皇は鳥羽離宮に移されます。
7月8日には出家・・・
そして、死罪の次に重い配流の沙汰が下されます。
後鳥羽上皇の息子たち・・・土御門上皇は土佐へ配流、順徳上皇は佐渡へ配流となりました。
さらに、幕府は上皇の孫・仲恭天皇を廃位させ、新たに御堀河天皇を擁立。
以後、幕府は皇位継承に関与し、朝廷は幕府の意向なしに天皇を決めることができなくなりました。
京からおよそ300キロ・・・日本海に浮かぶ絶海の孤島・隠岐・・・罪人用の輿に乗せられた後鳥羽上皇は、二週間ほどかけてこの島に流されてきました。
これまでとは違う粗末な屋敷で、謹慎生活を送りました。
楽しみは和歌を詠むことぐらいでした。

”我こそは 新島守よ 隠岐の海の
         荒き波風 心して吹け”

隠岐に来て19年後・・・1239年後鳥羽上皇崩御。

一方、幕府の支配は全国へと広がっていきます。
公家政権は没落し、武士による新しい世が始まったのです。
朝廷はこの後、600年以上、形式的な存在となり、長き武家政権が続くことになります。
承久の乱は、まさに日本の歴史の大きな転換点だったのです。

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「北条義時・チーム鎌倉の逆襲」



1274年10月、モンゴル軍を中心としたおよそ3万の兵が、700艘余りの軍船と共に九州に来襲しました。
世にいう元寇です。
日本を窮地に陥れた未曽有の国難・・・
それを予言し、鎌倉幕府に対して警告を発していた一人の僧がいました。
日蓮宗の開祖・日蓮です。
地震や洪水が頻発し、疫病がはびこる鎌倉に現れた日蓮は、幕府から度重なる弾圧を受けました。
鎌倉幕府は、日蓮の何を恐れたのでしょうか??

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神奈川県鎌倉市・・・源頼朝が武家政権初の幕府を開いたこの地に、今から780年ほど前に、道行く人々に辻説法をする一人の僧が現れました。
日蓮・・・この時、34歳です。
人々は、日蓮の辻説法に耳を傾けるどころか罵声を浴びせます。
それでも日蓮は諦めませんでした。

日蓮が生まれたのは、1222年。
安房国の東条郷・・・今の千葉県鴨川市あたりに生れました。
その出自は、その地域の有力な漁民の子と伝えられますが、定かではなく、一説には後鳥羽上皇の御落胤とも・・・??
幼いころを漁師の子として過ごした日蓮は、12歳の時、近くにあった天台宗の寺・清澄寺に入門・仏教を学び始めました。

当時、寺院に入るのは理由が二つありました。
①初等教育
②出家
日蓮は、当初、初等教育を受けるために入ったと思われます。
その中でいろんな学問を身につけて行くうちに出家したようです。

幼くして日蓮は決意します。

「日本第一の智者と成さしめ給え」by日蓮

日本一の知恵を持った僧侶になってみせる!!
その為に日蓮は、仏教を極めようと清澄寺を出て比叡山や高野山に足を運びます。
仏教の様々な教えを徹底的に学んでいきます。
そもそも、日本の仏教は、奈良時代に日本に伝わった東大寺を本山とする奈良仏教(華厳宗・律宗・三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗)などの他、平安仏教(天台宗・真言宗)などが盛んでした。
そして、鎌倉時代になると、新興宗教が・・・
鎌倉仏教(浄土宗・浄土真宗・大念仏宗・臨済宗・曹洞宗)・・・特に、念仏を綱得る浄土教系の周波や、座禅を重んじる禅宗系などが流行していました。

日夜仏教を研究し続ける日蓮・・・しかし、学べば学ぶほど疑問が・・・!!
どうして仏教にはこれほど多くの宗派があるのか??
論争を続けているのか??
仏の教えは一つであるはずなのに・・・??
これでは国に何人もの王がいるだけではないか??

この疑問に答えるべく、多くの書物を読んだ日蓮は、やがて一つの結論に・・・

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1253年4月の早朝、安房国清澄寺に戻った日蓮は、朝日に向かってこう唱えます。

「南無妙法蓮華経」

南無妙法蓮華経とは、広く法華経に命を捧げる・・・法華経の教えの通りに生きるというものです。
法華経とは、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されていた大乗仏教の代表的な経典のひとつです。
誰もが平等に仏の心を持つことができ、極楽浄土はこの現世にあるという仏教思想が説かれたものです。
日蓮は、この法華経こそが、仏の最上の教えとしました。
他のお経は仏に導くための方便・・・仮の教えというふうに考えていました。
釈迦が法華経を悟るまでに行った修行も、悟りによって得た徳も、全て妙法蓮華経の5字に収まっているので、唱えることが大事だとしました。
そこで日蓮は、法華経を広める布教活動に乗り出します。
日蓮宗の始まりでした。
その拠点となったのが鎌倉でした。
当時の鎌倉は、臨済宗の寺院をはじめ、天台宗、真言宗、浄土宗の寺院などが立ち並ぶ、日本有数の仏教都市でした。
そんな鎌倉で、一回の僧侶に過ぎなかった日蓮が仏の唯一無二の教えは法華経だ・・・他はすべて方便に過ぎない、念仏を唱えても救われることはないと、他宗派を批判しました。
それが日蓮が罵声を浴びせられた原因でした。

日蓮が他宗派を批判したのには法華経が唯一無二の教えだと考えた以外にもう一つ理由がありました。
それは、次々と鎌倉を襲った災害にありました。
1254年、鎌倉で大火災が発生!!
1257年、暴風雨、洪水が発生!!
1258年、M7クラスの大地震が発生しました。
多数の死者、疫病・・・

これほど多くの寺院があり、仏の力によって守られているはずの鎌倉で厄災が・・・??
そこで日蓮が導き出したこたrは・・・??

「様々な厄災は、法華経以外の仏教が間違っているからに他ならない
 むしろ、間違った教えが厄災を招いているのだ!!」

その為日蓮は、他宗派を激しく批判しました。

当時、鎌倉は仏教を保護していました。
仏教を通じて中国と交流することで、経済的に潤い、様々な文物を輸入出来てそれによって鎌倉では水墨画や建築など武家文化が栄えていたのです。
幕府と仏教は、持ちつ持たれつの関係にありました。
しかし・・・日蓮が目の当たりにしたのは、大地震や洪水、疫病などが人々を苦しめる現実・・・!!

「唯一無二の法華経の教えを蔑ろにする幕府にこそ、厄災の原因がある!!
 このままでは国は亡びる!!」

そう考えた日蓮は、行動を起こします。

1260年「立正安国論」を前執権・北条時頼に上呈
立正安国論は、幕府批判そのものでした。
日蓮を主人、時頼を客に見立て、客が近年天変地異が起こるのはなぜかなどと問うと、主人が堪えるという問答形式でした。
そこには、政治に対する日蓮の考えが記されていました。
念仏信仰を止めさせなければ殺戮が横行する世が到来し、決して国家は安泰にはならないと主張します。
浄土宗の念仏禁止を求め、法華経に基づいた政治を行うことを進言しました。
さらに驚くべきは、立正安国論に記された予言・・・!!
もし、時頼が法華経に帰依しなければ、いずれ日本は異国からの侵略が起こる他国侵逼難と、内乱が起こる自壊叛逆難に見舞われると予言したのです。
日蓮がそうした国難を予言したのには、根拠がありました。
それが末法思想・・・
末法とは、仏の教えが廃れてしまった時代のこと・・・
当時の日本では、1052年に末法に入ったと考えられていました。
日蓮は、末法の世が続けば、国難が次々と起こると考えたのです。
しかし・・・時頼ら幕府は、そうした日蓮の予言に耳を傾けず、取り上げませんでした。
侵略されるという現実感がなかったことと、時頼自身が禅宗だったことが受け入れられなかった理由です。

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1260年8月・・・
当時、日蓮が暮していた松葉谷の草庵の周囲を無数の男たちが取り囲みます。
浄土宗の信徒たちでした。
彼等にとって、自分たちの信仰を完全否定し、幕府に念仏の禁止を進言した日蓮は、絶対に許すことのできない敵でした。
この時は、かろうじて難を逃れることができた日蓮・・・
しかし、その後も鎌倉での辻説法を止めようとはせず、他宗派の僧に論争を挑んでいきます。
そうした中、松葉谷襲撃事件から1年もたたない1261年5月・・・
次に日蓮を襲ったのは、幕府の役人でした。
幕府は日蓮を突如捕らえ、伊豆へ流罪に・・・!!
1262年、北条時頼が叡尊(真言律宗)を鎌倉に招きました。
流罪となって2年後、ようやく方面となった日蓮ですが、迫害は続きます。
時には命の危険にも晒されます。
そんな日蓮の運命が、一通の書状によって大きく変わり始めます。

1268年、当時、ユーラシア大陸の大半を征服していたモンゴル(元)の使者が、九州の太宰府に・・・!!
皇帝フビライ・ハンからの国書が、幕府に届けられました。
その国書には、日本と友好を結びたいとしながら、もし服従しなければ武力行使も辞さないという恐喝的なものが含まれ、実質、モンゴルが日本を支配下に置くぞという通告でした。
日蓮の「立正安国論」に書かれた異国からの侵略が現実のものになろうとしていました。
モンゴルに服従すべきか、否か・・・?
決断を迫られたのは、執権になったばかりの18歳・・・北条時宗でした。
時宗は、朝廷に国書を黙殺するように促し、強硬姿勢をとります。
しかし、世間では立正安国論の予言が現実味を帯びたことで、不安になった武士や民衆が法華経に救いを求め、日蓮宗の信者となっていきます。

さらに・・・1271年夏・・・
鎌倉は雨が降らず、干ばつが続いていました。
そこで幕府は真言律宗の忍性に、雨乞いの祈祷を命じます。
密教の真言律宗は、国家を厄災から守るために祈祷を行うことが大きな役目でした。
ところが・・・忍性が祈雨を行っても、雨が降ることはありませんでした。
日蓮はここぞとばかりに批判します。
すると、雨乞いの祈祷の批判をされた忍性や反日連のグループが、信者を増やし続けている日蓮の門下を武装した凶徒が徒党を組んでいると幕府に告発しました。

1271年9月、日蓮の草庵に、大挙して役人がやってきました。
忍性らの告発を受けて、日蓮やその門徒を捕縛したのは、侍所所司・平頼綱でした。
頼綱は、宝鏡家の一族で、幕府の実力者でした。
頼綱に捕縛された日蓮は、こう言い放ったといいます。

「我を失うのは国の柱を倒すようなものだ
 日本は必ず滅ぶであろう」

そんな日蓮の言葉に頼綱は耳を貸さず、佐渡へ流罪!!
それは、当時死罪に次ぐ重い罪でした。
頼綱は、まず見せしめのために日蓮を市中引き回し・・・日蓮を信ずるものはみなこうなるぞ!!という幕府からの警告でした。
その引き回しの途中、鶴岡八幡宮に差し掛かった時、日蓮は叫びました。

「八幡大菩薩に申すべきことがある
 八幡大菩薩は真の神か??
 私は日本国第一の法華経の行者で、一部の過失もない!!
 なぜ傍観されるのか??」

日蓮は、幕府を開いた源氏の氏神である八幡大菩薩を面と向かって批判しました。
実はこの時、日蓮は命の危険を感じていました。

「頼綱は私を殺そうとしている・・・」

事実、市中引き回しののち、日蓮が連行されたのは佐渡ではありませんでした。

江ノ島にほど近い龍口寺・・・
佐渡に流罪になるはずだった日蓮は、鎌倉幕府の命でここに連行されました。
寺には今も、龍口刑場跡が残されています。
当時、ここは鎌倉幕府の処刑場でした。
幕府は日蓮を流罪ではなく、息の根を止めてしまおうと考えていました。
もはやこれまで・・・!!
幕府の役人が、日蓮を切り殺そうとしたその時・・・!!

”江の島の方より月のように光るもの現れ 太刀取りは目が眩んでひれ伏し、兵は恐怖して逃げ去った”

間一髪、日蓮はこの不思議な光の奇跡によって命拾いしました。

落雷説、隕石説、オーロラ説・・・不吉とされた彗星ではないかと言われていますが・・・
当時、北条時宗の妻が懐妊していました。
そんな時に、僧侶である日蓮を殺すのは縁起が悪かったからだと言われています。

危うく斬首を逃れた日蓮でしたが、罪は許されず佐渡に流されることになりました。

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1271年冬・・・日蓮は佐渡に到着します。
住まいとしてあてがわれたのは、山の中の墓地に隣接した小さなお堂でした。
最低限の食料が支給されたのは、最初の1年だけで、その後、日蓮は生きていくのも困難な状況に追いやられたのです。
さらに厳しかったのは寒さ・・・
温暖な地で育った日蓮にとって、佐渡の気候は耐えがたいものでした。
一方で、鎌倉では門弟たちも捕らえられ、日蓮の信者は激減してしまいます。
これまで数々の弾圧を乗り越えてきた日蓮でしたが、佐渡への流罪は最大の危機ともいえるものでした。
日蓮は、自らに問いかけます。

「なぜ、自分にはこのような非情な運命が与えられるのであろうか」

法難に遭うことは、法華経の行者であるあかしだと考えました。
自らを、「法華経を広めるためにこの世に遣わされた選ばれし行者である」と確信したのです。

新たな境地を得た日蓮に対し、佐渡にいた他宗派の僧たちが問答を挑みますが、日蓮は巧みな演説で負かしていきます。
その結果、日蓮に心服し、弟子になるものまで現れました。
日蓮は、流罪という最悪の逆境さえも、自分の力に変えていったのです。
日蓮が佐渡に流されてから半年ほどたった1272年2月・・・
幕府の実権を握る北条家に内紛が勃発します。
幕府執権北条時宗の異母兄で京都の朝廷を監視する六波羅探題南方・北条時輔が謀反を起こしました。
時宗は、すかさずこれを討ち、反対勢力を一掃しましたが・・・
幕府を揺るがした内紛は、日蓮が立正安国論で予言したものだったのです。

1273年、幕府が最も恐れていたことが現実となります。
モンゴルの使者が大宰府に到着。
幕府に対してモンゴルの属国になるのか、それとも攻め滅ぼされるのか??
返答を迫りました。

1274年2月・・・佐渡に流されて2年半後・・・
日蓮は突如罪を許されました。
鎌倉に戻った日蓮は、幕府に呼び出されます。
待ち受けていたのは・・・かつて自分を殺そうとした平頼綱でした。
頼綱は、日蓮に問いかけます。

「蒙古はいつ攻めてくるのか」by頼綱
「はっきりとは分からないが、今年中であろう」by日蓮

幕府が日蓮の罪を許したのは、蒙古襲来を予言した日蓮ならば、その具体的な時期もわかるだろうと考えたからです。

「これは天の責めである
 特に、真言宗に蒙古調伏の祈祷をさせてはならない
 もしそうすれば、ますます事態は悪化するであろう
 とにかく法華経だけを信じればよいのだ」by日蓮

しかし、襲来の期日を聞きだした頼綱は、日蓮の忠告を受け入れず、幕府とかかわりのあった宗派に祈祷を依頼したのです。

幕府にとって祈祷は戦闘行為でした。
人が担ぐ神や仏も敵と戦う・・・!!
色々な宗派に頼んで拝んでもらうのです。
日蓮は一つの宗派・・・日蓮は、相変らず他宗派に頼る幕府に失望します。

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1274年5月、日蓮は幕府に見切りをつけるかのように鎌倉を後にしました。
弟子の招きに従い、甲斐国身延山へと向かったのです。
その後、身延山を拠点として日蓮は門弟の教育と布教活動に専念することになります。
それによって、日蓮の教えは全国に広がっていきます。
そして、10月・・・700艘余りの軍船が日本の海に現れました。
モンゴル軍を中心とした3万の軍勢が襲来したのです。
対馬を攻撃!!
てっぽうと呼ばれた当時の手りゅう弾を使い、最新鋭・集団戦で攻めてくるモンゴル軍に対し、日本軍は一騎打ちで対抗・・・なす術がありませんでした。
その後、モンゴル軍は壱岐を制圧し、あっという間に筑前・肥前に上陸!!
各地に大きな被害をもたらします。

日蓮が、立正安国論で予言した他国侵逼難が的中したのです。
その日蓮の予言に寄れば、この襲来で日本は滅びるはずでしたが・・・
蒙古襲来から2週間後の10月20日夜・・・暴風雨が九州を襲い、モンゴル軍の軍船の大半が沈没!!
生き残った兵たちは侵攻を諦め、撤退していきました。
7年後の1281年にも再びモンゴル軍が九州に来襲。
迎え撃った日本軍との熾烈な戦いが始まりますが・・・またしても暴風雨が直撃!!
モンゴル軍の軍船の多くが沈み、死傷者は多数に上りました。
これによりモンゴル軍は再び敗退・・・
この日本軍の勝利は、神仏のおかげだとして、幕府は蒙古調伏の祈祷を行った寺の僧侶たちに莫大な恩賞を与えました。

二度にわたる元寇でも、日本が滅びることはありませんでした。
その後、日蓮は弟子たちに現行のことは一切語らぬよう指示し、自らも固く口を閉ざしています。

蒙古軍が撤退した翌年・・・
1282年10月13日、体調を崩した日蓮は、読経に送られ波乱に満ちた61年の生涯を閉じました。

日蓮が起こした日蓮宗は、その後全国に広がっていきました。
そして、日蓮の死からおよそ300年後、戦国の覇者となった織田信長は、日蓮宗と浄土宗の僧侶たちにどちらが正しい仏教であるか理論対決を行わせました。
その結果、信長が下した裁定は、浄土宗の勝ち!!
それは、本願寺や延暦寺などの宗教勢力に苦しめられてきた信長が、浄土宗を勝たせることで日蓮宗が新たな敵とならないよう勢力拡大に歯止めをかけるためだったと言われています。
法華経を唯一無二とするゆるぎない信念を持つ日蓮の教えは、戦国の覇者をも怖がらせたのです。


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後白河院の側近中の側近がこんな言葉を残しています。
「和漢の間比類少なき暗主」・・・愚かな主とそしりながら「人の制法にこだわらず」と、決心したことは人のルールに縛られず成し遂げたと!!

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世の常として、皇位継承者は帝王学を学びます。
儒学の経典や漢詩、和歌、管弦楽器の演奏などです。
後白河院の兄で後に骨肉の争いを繰り広げる崇徳天皇は、5歳で即位して帝王学を学んでいます。
崇徳天皇の8歳年下の弟が、雅仁・・・後の後白河院です。
雅仁は、母親の待賢門院のそばで育てられます。
しかし、評判になるほど遊芸にふけっていました。
その為父親である鳥羽院からは”即位の器量にあらず”と、見られていたのです。
雅仁が没頭した遊芸とは・・・当時のはやり歌で母親の待賢門院が愛した今様でした。
今様は、遊女の芸能として始まり、七五調を基本とします。
歌の内容は、恋心から仏教思想までと幅広い・・・
雅仁の今様熱は、天皇、上皇になっても冷めることはなく、乙前(元遊女)を師匠にしてその道を極めようとしました。
後白河院が、自らの反省を振り返った梁塵秘抄口伝集・・・
今様への異様なまでの傾倒ぶりが伺えます。

”十余歳の時より 今に至る迄 今様を好みて怠る事なし

 千日の歌も歌ひ通してき 昼は歌はぬ時もありしかど 夜は歌を歌ひ明かさぬ夜はなかりき”

後白河院は、今様の家基のようなものになりたかったのです。
後白河院が生涯を通して愛した今様・・・その音階、節回し・・・どんなものだったのかは明らかになっていません。
しかし、彼の生きざまは、梁塵秘抄の中で最も有名なこの歌と重なります。

”遊びをせんとや 生まれけむ
 戯れせんとや 生まれけん
 遊ぶ子供の声聞けば 
 わが身さへこそ ゆるがるれ”

しかし、後白河院の生涯は、決して平たんなものではありませんでした。

「後鳥羽上皇と承久の乱」



29歳の時、大きな転機が訪れます。
1155年、腹違いの弟である近衛天皇崩御。
次の天皇をめぐり、父の鳥羽院と兄の崇徳院とが対立します。
兄の崇徳院は、自分の息子・重仁の即位を望みました。
それに対して父の鳥羽院は、雅仁の息子・守仁に皇位を継がせたいと考えていました。
しかし、守仁の父である雅仁の存在を無視することはできませんでした。
父親を飛ばして天皇になる前例はない・・・!!
そこで、守仁王が成人するまでの数年間、中継ぎの天皇として雅仁て親王を位につけることになりました。
1155年、後白河天皇即位。
後に、源平合戦の英雄たちと渡り合い、30年君臨することになるとは、当時誰も考える由もありませんでした。
後白河天皇が即位した翌年の1156年7月2日、鳥羽院崩御。
そのわずか9日後、後白河天皇と兄・崇徳上皇との間で戦闘が勃発します。
鳥羽院亡き後の主導権を巡って、双方が武士を集めてぶつかり合うという・・・保元の乱です。
後白河天皇は、平家の棟梁・平清盛とそれに次ぐ有力者・源義朝を味方につけて勝利を治めます。
1158年、後白河法皇が退位、上皇となります。

上皇となった後白河院の運命を大きく開いたのは、ひとりの美女でした。
平清盛の正室・時子の妹・滋子・・・彼女を見初めた後白河院は、滋子を女御として寵愛するようになります。
滋子は後白河院政の政務に携わっていました。
後白河院不在の時には、代行ができる立場にある女性で、その能力のある女性でした。
滋子を通じて後白河院は清盛を大いに取り立て、平家の全盛の時代がもたらされました。

1167年、清盛を太政大臣に任命。
1172年には、清盛の娘の徳子が後白河院と滋子の子である高倉天皇の中宮となります。
藤原氏にとって代わって平家が天皇家と結びつき、新たな時代を築こうとしました。
京都・東山・・・後白河院は、この地に自らの権威の象徴となる院の御所を築き上げました。
南北1キロ、東西500メートルに及ぶ法住寺殿です。
その北側には、平家一門が住む六波羅があります。
その立地からも、後白河院と平家の強い結びつきが伺えます。
ここを舞台に、四季折々の儀礼が行われました。
平家の後押しによって、政務の実権を握る”治天の君”となった後白河院・・・ここを拠点に、院政を行っていくことになります。

滋子の発願で極楽浄土の世界をこの世に映し出した最勝光院・・・
完成のわずか3年後、悲劇が訪れます。
1176年、後白河院と清盛の間を取り持っていた滋子が35歳でこの世を去りました。
死の直後から、後白河院と清盛の関係が悪化していきます。
急速に台頭する平家に貴族たちが反発。
1177年、反清盛を掲げる院の近臣たちが、京の鹿ヶ谷に集結しました。
清盛を暗殺して、後白河院中心の政治体制を築こうと企てます。
世にいう鹿ヶ谷の陰謀です。
この陰謀は、密告によって露呈・・・清盛は陰謀に加わった院の近習たちを斬首・流刑にしました。
後白河院も、陰謀への関与が疑われましたが、咎めはうけませんでした。
しかし、近臣を排除されたことで、政治基盤を失い、孤立していきます。
鹿ケ谷の陰謀の翌年、徳子が皇子(のちの安徳天皇)を出産します。
しかし、孫の誕生は、後白河院を一気に窮地に追い込みます。
安徳天皇が生まれると、即位すれば高倉院政が可能になり、後白河院は排除される危険性が出てきました。
安徳天皇の誕生は、孫の誕生とはいえ、穏やかではありませんでした。

1179年7月、平重盛、逝去。
すると、後白河院が反撃に出ました。
重盛の所領を奪い、近臣に与えました。
しかし、これは後白河院の首を自ら締めることになります。
平家との決定的な破局が訪れます。
11月15日、清盛は兵を挙げて後白河院を幽閉し、院政を停止させました。
治承3年の政変です。
1180年、平家を打倒し、幽閉された後白河院を救うという大義を掲げ、8月に源頼朝が伊豆で挙兵。
さらに、翌月には木曽義仲が信濃で挙兵します。
1181年2月14日、源平合戦のさ中、熱病に冒され平清盛死去。
清盛の葬儀の日、後白河院のいる最勝光院から今様を謡う声が聞こえたといいます。
清盛の死後2日後・・・平家の棟梁となった息子の宗盛から政権を後白河院に返したいとの申し入れがありました。
清盛によって院政を停止させられた後白河院は、よみがえったのです。

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次に後白河院の前に立ちはだかったのは、木曽義仲でした。
1183年5月、倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍に勝利。
義仲軍は、京を目指します。
もはや防ぎきれないと見た平重宗盛は、三種の神器・安徳天皇・そして後白河院をつれて京を離れ西国へと向かう決意を固めます。
治天の君として君臨し続けるために、どのように立ち回るべきか・・・??

平家と共に西国へ移る??
平家を見捨てて京に留まる??

頼朝は、平家から後白河院を救済するという旗印のもと挙兵している・・・
京に留まって源氏を迎えれば、軍勢として飼いならすことができるのでは??

平家の都落ちは、極秘裏に進められようとしていました。
後白河院の逃亡を恐れたためです。
しかし、後白河院は、近臣を通してその計画を知っていました。
すると、後白河院は、密かに法住寺殿を脱出、比叡山へ逃亡しました。
後白河院は、都落ちする平家を見捨てて、京に留まる選択をしました。

平家都落ちの3日後、木曽義仲が入京します。
義仲は、後白河院に難題を突き付けます。
安徳天皇に代わる天皇として、義仲は北陸宮を推挙しました。
一介の武士が、皇位継承に口を挟むなど、前代未聞のことでした。
後白河院はこれに猛反対し、義仲と対立します。

1183年11月19日、木曽義仲が法住寺殿を襲撃、火をかけます。
院の権力の拠点・法住寺殿が炎上しました。
後白河院は、再び幽閉されることとなります。
そこに現れた救いの神が源義経でした。
翌年の正月20日、宇治川の戦いで義仲軍を破り入京、義仲を追い詰め、近江国粟津で討ち果たしました。

1185年、義経は、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼします。
義経の名声は高まりましたが、悲運に・・・
兄・頼朝と激しく対立し、刺客を送られ命を狙われたのです。
身に危険が迫った義経は、後白河院に頼朝追討の宣旨を出すよう迫ります。
ここで後白河院は、義経に応じ、頼朝追討の宣旨を出しました。
これがのちに、後白河院と頼朝の大きなわだかまりを生むことになったのです。
結局、義経のもとに集まる兵はなく、義経は西国へ逃亡しました。
一方、頼朝は、朝敵である義仲や、平家を討伐した自分をなぜ後白河院が裏切るのかと、激怒します。
後白河院こそ”日本第一の大天狗”だと罵倒しました。

これを聞いた後白河院の動揺は激しく・・・
頼朝が何をするかわからない・・・
自分が正当な帝王として世の中を治めたいのに戦乱が続いている・・・!!
今回も、頼朝追討を言い出して世の中を乱した。
自分の失政かもしれない!!

追討の宣旨を出された頼朝が、どんな反撃を見せるのか・・・??
後白河院の周囲は不安に包まれました。
頼朝は交渉を行うため、北条時政を上洛させます。
しかし、後白河院を幽閉することはありませんでした。
その代わり、後白河院の独断を防ぐため、公卿が合議で政治を行う体制を構築します。
その一方で、義経追討の名目で、守護・地頭を設置する権利を獲得します。
頼朝の狙いはどこにあったのでしょうか??

頼朝は、後白河院を助けることが自分の権威の源泉であると考えていました。
一時的に後白河院と対立しても、保護し、朝廷を守る・・・一方で、地頭を各地に設置して武士の所領拡大の願望もかなえようとしていました。
両者のバランスをとったのが、頼朝が創った鎌倉幕府でした。

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1190年、頼朝が京に向かいます。
およそ30年ぶりに後白河院に謁見するためです。
1189年、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしていました。
朝廷を守る唯一の武家の大将としての地位を確立。
後白河院を支える武士は、もはや頼朝以外になかったのです。
上洛中、後白河院と頼朝の会談は8度に及びました。
上洛後、頼朝は法住寺殿を再建修復します。

頼朝が鎌倉に戻った2年後・・・1192年3月13日、後白河院崩御。
享年66。
死の1か月前、病床に伏してもなお、天皇の笛の音のもと今様を謡い続けていたといいます。
源平の戦い、そして新たな武士の世の始まり・・・
権力の座に30年余り座り続けた波乱の生涯でした。

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「承久の乱 “武士の時代”の確立」



















武士の都・鎌倉・・・源頼朝によって、日本初の武家政権がこの地に誕生しました。
ところが、頼朝の直系は、実朝暗殺によって三代で途絶えることになります。
この時、頼朝の妻・政子と二代執権・北条義時兄弟は、次の将軍に皇族の皇子を望みました。
しかし、朝廷はこれを受け入れず、代わりに天皇を補佐する摂政や関白を担う摂関家・九条家の男児が鎌倉に入りました。
後の、九条頼経・・・鎌倉幕府初の摂家将軍です。
幼い頼経を将軍にいただき、政子と義時は北条氏を中心地とした政治を推進・・・
将軍に仕える御家人たちのリーダーの地位を確立していきます。
義時の跡を継いだ3代執権・北条泰時の時代、北条氏の力は皇位継承にまで及びました。
幕府に敵意を持つ皇族を排除し、北条氏と縁戚関係にあった御嵯峨天皇を擁立したのです。
しかし、北条氏を思わぬ不幸が襲います。
泰時の嫡男・時氏・・・さらにその嫡男で4代執権・経時が若くして亡くなったのです。
その結果、次男ながら執権に就任したのがまだ20歳の時頼でした。

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鎌倉幕府5代執権・北条時頼・・・
時頼の執権就任には、かなりの反対がありました。
時頼の正妻の子供は名越・・・本流になるべきは名越氏だという考えがあったのです。
時頼(次男)に流れが行くことに、とくに名越一族は不満を持っていました。
名越氏ら、反時頼勢力は九条頼経をよりどころとしました。
この時、頼経はすでに将軍の座を息子・頼嗣に譲っていました。
しかし、前将軍として、北条氏に代わって幕府の実権を握ろうと野心を燃やしていました。

頼経のもとには、名越氏の他に三浦氏などの有力御家人などが結集。
彼らは時頼政権を転覆するため、謀議を重ねました。
鎌倉幕府の歴史をつづった吾妻鏡・・・
そこには当時の様子が書かれています。

1246年、時頼の執権就任からわずか2か月足らずで、鎌倉を不穏な空気が支配した

甲冑をつけた武士が町に溢れたのだ
5月24日、ついに時頼は敵対勢力を押さえ込む行動に出ました。
”宮騒動”と呼ばれる事件の勃発です。
時頼は、鎌倉中心部の構造を巧みに利用し、迅速な対応を見せました。
将軍御所への経路を封鎖し、頼経を孤立させます。
将軍御所周辺を制圧した時頼は、次の一手を打ちます。
頼朝以来、幕府に仕え、強大な軍事力を持つ三浦氏の当主・泰村を味方につけます。
時頼の周到で機敏な采配によって、クーデターは大きな流血なく収束しました。
首謀者の名越は、所領のほとんどを没収された上、流罪に処されました。
さらに時頼は、前将軍・九条頼経も鎌倉から追放し、京都に送り返しました。
幕府の中枢から敵対勢力を駆逐した時頼は、執権就任直後の危機を乗り越えました。
しかし・・・試練はまだ終わっていませんでした。

1247年3月、鎌倉を天変地異が襲います。
由比ヶ浜が、血の赤い色に染まり、その翌日には巨大な流星が音を立てて飛びました。
さらに黄色い蝶の大軍が、市中に充満し、人々は不吉・・・戦乱の予兆と噂しました。
そんな中、時頼の母方の祖父・安達景盛の怒りが爆発しました。
景盛は、宮騒動で時頼についた三浦泰村が幕府内で勢力を誇っていることにわだかまっていたのです。

御家人は、建前としてはみんな平等でした。
しかし、家柄には優劣があり・・・三浦は北条と並ぶ高い家柄でした。
これに対し、安達が不満を持つ理由は・・・
安達は、時頼の母方の実家で外戚として力を振るっていいはずでした。
しかし、家柄としては三浦の方が格上で、それが不満に思う原因でした。
実際に、三浦は幕府の人事に大きな発言権を持ち続けていました。
安達は、三浦の勢力を抑えて、自分達が時頼に近いとアピールしたかったのです。
メンツが関わっていたのです。
時頼は、非常に難しい立場にありました。

「吾妻鏡」によると・・・
時頼は戦を回避したかった・・・しかし、三浦泰村の弟・三浦光村たちは安達氏との合戦に備え、兵や武具を光村邸に集めていました。
各地から集まった三浦、安達双方の軍勢は、まさに一触即発の状況でした。

1247年6月5日未明、時頼は事態解決のため使者に文を持たせ、三浦泰村に改めて本意をときました。

”幕府は三浦氏を討伐するつもりがないことを誓う”

泰村も、これに安堵したといいます。
しかし・・・使者が泰村邸から時頼のもとへ帰りつく前に、安達勢が攻撃を仕掛けました。
世にいう”宝治合戦”の始まりです。
事態を知った時頼は、三浦氏から攻撃を受けると感じ、安達に加勢せざるを得なくなりました。
戦闘は一進一退でしたが、北条勢は泰村邸の風下から火をかけ、一気に優位に立ちました。

三浦勢は屋敷を捨て、頼朝を祀る法華堂を最後の地として選びました。
宝治合戦は、三浦泰村、光村兄弟を含む500人余りの自害という壮絶な幕切れを迎えました。
三浦氏が滅亡した場所は、現在、源頼朝の墓となっています。

”吾妻鏡”は、和平を探った時頼の意に反し、安達氏の攻撃で戦闘が始まったように記しています。
しかし・・・三浦市の背後に九条頼経がいたのでは・・・??
光村など急進派は、時頼との対決を最初から望んでいました。
光村は、前将軍・九条頼経に大変心を寄せていました。
九条家と結びついて、将軍の権力を九条家に取り戻し、それを支える存在として三浦氏がつく・・・
新しい幕府の体制を夢見ていました。
それは、北条時頼の考える幕府の形とは違っていました。
前年の宮騒動に続き、またしても政権の危機を脱した時頼・・・これ以降、時頼は幕府の安定に力を注いでいきます。

「源頼朝 死をめぐるミステリー 日本史上の大転換点」



宝治合戦で対立勢力を一掃した時頼は、幕府の改革に着手します。
御家人たちの保護を推進しました。
その最たるものが裁判制度の改革でした。
従来幕府では、表情と呼ばれた有力御家人を中心とした会議が、全ての訴訟を審議していました。
時頼はその下に、引付という審理の場を新たに設けました。
迅速かつ、公平に裁定を下す制度を整えたのです。

承久の乱などで御家人が西国に行くようになったり、移動があったこともあって、急速に増えた裁判は、評定の中ではさばききれないという状況にありました。
引付であらかじめ審理したものを表情で最終的な決定を下す・・・
それだけ裁判に関わる人物が増えたということは、評定衆という閣僚たち・・・一部の最重要人物の恣意が入る余地がなくなります。
久慈によって担当を決めたりして、公正に裁判が行われていることが、目に見える形で示されました。
御家人たちには、引付の設置は非常にありがたい精度でした。
さらに時頼は、一般庶民の訴えも、幕府が裁決する道を開きました。
これによって、御家人たちだけでなく、広く民の信頼を獲得していきます。

しかし、そんな時頼の足元を揺るがす事件が起こります。
1251年12月・・・
宮騒動で反時頼勢力に加担した残党による謀反計画が発覚しました。
またしても、前将軍・九条頼経の策略でした。
謀反は未然に阻止され、捕らえられた者は死罪や流罪の厳罰に処せられました。

しかし、依然として頼経の息子・九条頼嗣は将軍として鎌倉にいました。
頼嗣が鎌倉にいる限り、また、騒動が起こりかねないことを、時頼は憂慮しました。
この先、どのように幕府を運営していくべきか・・・??

自分が将軍になるべきか??
九条家より上の親王を将軍に迎えるべきか??

鎌倉幕府を盤石にするため、時頼は重大な選択を迫られました。

1252年2月、時頼は、自ら筆をとった書状を使者に持たせ、京都の朝廷に向かわせました。

”将軍・頼嗣を解任し、御嵯峨上皇の皇子を新たな将軍として下向させていただきたい”
 
時頼は、親王を将軍に迎えることを望んだのです。

朝廷は、時頼の申し出を受け入れ、御嵯峨上皇の皇子・宗尊親王の下向を決めました。
親王を将軍にいただくことで、幕府の権威は高まり、執権である北条氏の権力もゆるぎないものとなりました。
時頼は次々と法令を発し、政策の充実を図りました。
なかでも注目されるのは、撫民と呼ばれる政策でした。
民の頭を撫でるように慈しんで社会全体の安定を目指す政策です。
それは、祖父・泰時が制定した御成敗式目に追加される形で発令されました。

例えば窃盗犯について・・・
窃盗犯の親類妻子などを処罰してはならない
これに背くのは、撫民の法を否定する、ものである

農民の田畑を取り上げて追い出したり、財産を奪ったりする者があるという
ひたすら撫民の計らいに務め、農業を推進するよう

武士は、元々職業戦士・・・この時頼の時代の制作によって、はじめて武士は行政官・統治者としての自覚を強めるようになりました。
それによって、これから室町幕府、江戸幕府と続く、武家政権の基本的な立場が、時頼の時に形作られました。
親王将軍を迎え、執権としての指導力を発揮できる体制になったのです。
そこで、改めて撫民の法を宣言して幕府の再出発を考えていたのです。

1253年、日本初の本格的な禅宗寺院・建長寺の落慶法要が執り行われました。
鎌倉五山第1位の名刹・建長寺・・・
この巨大な寺院は、禅宗に深く帰依した時頼の発願で建立されました。
本尊は、全ての命あるものを救済するという地蔵菩薩が祀られています。
建立の2年後に鋳造された重さ2.7tもの重厚な梵鐘・・・
そこには、時頼の名が残され、信仰心の厚さを今に伝えています。

あじさい寺として名高い北鎌倉の明月院・・・
晩年、この地に最明寺を建立した時頼は、ここで静かに息を引き取ったといいます。
37歳の若さでした。
20歳で思いがけず執権となり、北条氏の為、幕府の為、激務に忙殺された短い生涯でした。

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山口県下関市関門海峡・・・かつて長門国赤間関壇ノ浦と呼ばれていた場所で、今から830年以上前の1185年3月24日、武家の二大勢力平家と源氏が激突しました。
源平合戦における最後の戦い・・・壇ノ浦の戦いです。

平氏が語る源平争乱 歴史文化ライブラリー

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一ノ谷の戦い、屋島の戦いと連勝し、平家を追い詰めた源氏軍!!
対して壇ノ浦での戦いを最後の砦とし、なんとか挽回しようと息巻く平家軍!!
戦いの結果は源氏が勝利し、兵士は滅亡していきました。

平氏にあらずんば人にあらず

とまで言わしめた平家の滅亡・・・いったい何があったのでしょうか?

平安時代末期・・・1181年、平清盛死去。
知行国30カ国と全国の半分ほどをその市中に治めていた平家の力が、衰えを見せ始めます。
清盛の三男・宗盛が父の後を継ぎますが・・・平家は源氏によって京都から追放されてしまいました。
源氏を束ねる源頼朝が、更なる平家追撃を命じたのが、弟の範頼と義経でした。
中でも義経は、兄の期待に応えるべく破竹の勢いで進撃!!
摂津国・一の谷の戦いで、鵯越の逆落としとして有名な奇襲により、平家に大打撃を与えます。
それにより、平家はさらに西国へ敗走。
しかし、あきらめたわけではありませんでした。
一緒に連れてきた清盛の孫でもある安徳天皇と天皇の象徴である三種の神器を持っていたからです。
それが平家の切り札でした。
当時は、天皇と三種の神器を押さえておけば、新たな天皇を即位させることはでいないことになっていました。
平家は天皇の権威を後ろ盾にして復活を考えていました。
宗盛は、九州で勢力を盛り返し、京都奪還を狙っていました。
逆転を狙う平家でしたが、一の谷の戦いの翌年・・・1185年2月。
逃れていた讃岐国・屋島で源氏軍を迎え撃つも、またもや義経の奇襲によって平家軍は大敗を喫してしまいました。
ただただ逃げるしかなくなった平家軍は、ついに最終決戦の場・壇ノ浦に追い詰められてしまいました。

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1185年2月1日・・・平家滅亡まであと53日。
屋島の戦いに敗れた平家軍は、瀬戸内海を転々とした後、長門国・赤間関壇ノ浦にある彦島に本陣を置きます。
前もって、平知盛が城を築いて傘下の水軍を集め、総司令官として源氏に備えていた場所だったからです。
そこは、平家にとって背水の陣でした。
平家は屋島から彦島に渡り、九州で体勢を立て直すのが理想でしたが、源氏の範頼に先回りされ、先に九州を押さえられてしまったのです。

そんな平家軍の起死回生の策は、多くの水軍を有し、得意だった海上戦!!船戦でした。
源氏の大将・源義経は、その平家軍の作戦を見抜いていたにもかかわらず、不安に駆られていました。
一ノ谷・屋島と目覚ましい戦果をあげてきた義経でしたが、そのどちらも陸上戦!!
騎馬軍団による奇襲作戦でした。
海上戦は一度も経験したことがありませんでした。
義経はすぐさま訓練を開始!!
1カ月をかけ、準備をしました。
この時の問題は、源氏に十分な船が揃っていないことでした。
そこで義経は、平家方についていた西国の海賊衆に交渉を持ち掛けます。

「この度の戦、もし加勢いたすならば、勝利の暁には高禄をもって取り立てよう!!」

すると、屋島の戦いの戦況を伝え聞いていた海賊衆の棟梁たちは、源氏に分があるとその誘いにのり、次々と水軍を率いて合流しました。
しかし、中には平家を裏切ることに躊躇している者も・・・!!
熊野別当・湛増です。
平家は瀬戸内海に勢力があり、熊野水軍とも仲が良かったのです。
鎌倉方は、湛増にとってはよくわからない集団でした。
悩む湛増が頼ったのは、熊野権現でした。
祈ったところ、白旗につけというお告げ・・・つまり、源氏に着けということです。
それでも湛増は、平家の恩を考えて態度を決められずにいました。
そこで今度は、赤い鶏と白い鶏それぞれ7羽を1羽ずつ出し合って神前で勝負をさせました。
結果は・・・赤い鶏は1羽も勝てず白い鶏が勝利しました。
意を決した湛増は、200艘の水軍を率いて源氏に合流しました。
こうして義経率いる源氏軍は、熊野水軍、渡辺水軍、伊予水軍などを味方につけ、およそ800艘の船団を編制。
白旗をなびかせ、彦島を目指して出発すると、周防国で範頼の軍勢と合流するのです。

「義経」愚将論 源平合戦に見る失敗の本質

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1185年3月23日・・・平家滅亡まであと1日。
源氏軍は、壇ノ浦の奥津・・・今の下関市長府沖にある干珠島・満珠島付近まで兵を進めると、兄・範頼軍は壇ノ浦近くの陸地に布陣!!
源氏軍の動きを知った平知盛率いる平家軍は、彦島を出発し関門海峡の東の出口に当たる田ノ浦付近に集結。
赤旗を掲げた500艘ほどの船団で、源氏を迎え討つべく待ち構えます。
相対する距離は、わずか300m!!

義経の戦略は・・・自らは海上から平家の拠点彦島に攻撃をかけ、退いたところを陸地から範頼軍が矢を射かけて攻撃・・・挟み撃ちにするというものでした。
平家物語によると、この後、双方相談の上、矢合わせの時刻を翌朝の午前6時と決めました。

当時の戦争はルールがありました。
そのルールにのっとって戦うのです。
軍師を交換して日時と場所を決め、決められた日に集まり戦争を始めていました。
氏文を読み、正当性を主張し、相手を糾弾・・・そしてやっと矢合わせ!!
しかし、戦が大規模化したことで、ルールを変更せざるを得なくなっていました。

義経、兄との決裂を生んだ壇ノ浦

1185年3月23日、壇ノ浦の戦い前夜・・・
いよいよ明日、平家との決戦という時に、義経の陣営でひと悶着が起きます。
きっかけとなったのは、軍監であった梶原景時の一言でした。

「此度の先陣は、この梶原にお任せください」by景時

「この義経がいなければのう・・・残念なことに、先陣はこのわしじゃ」by義経

「なんと仰せられる、殿は総大将でございます
 総大将が、先陣を務めるなど、効いたことがありません」by景時

「何を申すか、総大将は兄・頼朝・・・
 この義経は、軍の指揮を承ったまでのこと、よって先陣を務めても差しさわりあるまい」by義経

この言葉に、先陣を務めて手柄を立てたかった景時は、

「全く・・・この殿は、主君にはなれない器じゃ!!」by景時

「なに??そなたこそ、日本一の愚か者よ!!」by義経

売り言葉に買い言葉・・・一触即発のケンカになりかけます。
景時は、官僚として優秀でした。
頼朝の言うことをよく聞いて、頼朝のためにと思っていました。
義経と馬が合わない景時は、屋島の戦いの際も言い争いをしていました。
熱くなった二人を周囲が諌めます。

「明日の決戦を前に、同士討ちなどとはもってのほか
 鎌倉殿のお耳にでも入りましたら、ただではすみませぬぞ
 どうか、気を静めてくださいませ」

義経は、それは最もなことと怒りをといたため、どうにか事なきを得ました。

この後、景時は、義経の行動を頼朝に逐一報告をしています。
官僚としては当たり前なのかもしれませんが、結果として頼朝と義経の兄弟仲を裂き、義経失脚の原因を作ったのです。

(18)「壇ノ浦で舞った男」



運命の壇ノ浦開戦!!

1185年3月24日早朝。
源義経率いる船団およそ800艘と、平知盛率いる平家の船団500艘あまりが、長門国赤間が関壇ノ浦の海上でわずか300m距てて対峙します。
午前6時ごろ・・・戦闘開始の合図・矢合わせが行われました。
鏑矢が射られ・・・鬨の声が上がり、壇ノ浦の戦いが始まりました。
まずは矢戦!!
この時、源氏方で陸地から矢を射る役を担ったのが、和田義盛・・・坂東武者の鏡たる豪勇の士であり、弓矢の名手です。
放った矢に怯んだ平家軍に向かって挑発しました。

「その矢を射返してみよ」by義盛

平家軍には、この距離を射る武士はいないであろうとバカにしたのです。
そのケンカをかったのは、仁井親清。
射返すと、その矢は、和田義盛の後方にいた源氏の武士の腕に命中!!
和田に大恥をかかせることに成功しました。

しかし、これで終わりませんでした。
仁井親清は、大将・義経が乗った船にも矢を射かけると、和田を真似てさらに挑発してきたのです。

「その矢を射返してみよ」

源氏の面目をつぶされた義経は、怒りに震え、浅利与一に矢を射返すように命じます。
浅利与一は、那須与一、佐奈田与一と共に、三与一と呼ばれる弓の名手で、源平合戦でも数々の武功をあげていました。
この時も、仁井親清の胸を射抜き、源氏の面目を保ったのです。
この後、距離を詰め、両軍の戦闘は激しくなっていきます。
兵の数では劣る平家軍でしたが、得意の船戦であり、知盛には策がありました。
そもそも知盛が彦島に本拠を置いたのは、平家の強力な水軍を活かすため・・・
そして、関門海峡独特の早い潮の流れと干満の潮の流れの変化を熟知していました。
相手は、水軍を扱うことに不慣れな源氏・・・その潮の流れに乗って、一気に源氏を追い詰めようとしたのです。
その目論見通り、戦は平家軍有利に進んでいきます。

九州の山鹿秀遠や松浦党といった強い味方が付いていた平家軍は、500艘の船団を三手に分け、関門海峡特有の潮の速い流れに乗って攻め込もうとしていました。
そして・・・源氏方が狙うのは、三種の神器と安徳天皇!!
ならば、豪華な御座船目掛け、攻めてくるに違いない!!
そこで知盛は、安徳天皇ら身分の高いモノたちを兵船に乗せ、雑兵たちを豪華な御座船に乗せて囮にしました。
御座船にめがけてやってきた源氏の軍勢を包囲し、三方から矢を射かけて殲滅しようとしました。
戦いを前に知盛は、兵士たちを鼓舞します。

「戦はこの日が最後ぞ!!
 少しも退くな!!
 東国の者どもに弱気を見せるでないぞ!!」

3月24日午前・・・
潮の流れが変わる前に決着をつけたい知盛は、源氏軍側へと流れる潮に乗り攻めます。
まずは、第1陣が義経の船目掛け矢の集中攻撃を仕掛けます。
さすがの義経も、豪雨のように降り注ぐ矢を前に、手も足も出せず、満珠島まで押し戻されてしまいました。
3月24日昼頃・・・
このまま一気に戦を終わらせたい知盛は、味方を激励!!
太鼓をたたき、声を上げ、平家軍は攻め続けました。
と・・・その時!!
劣勢を強いられていた義経の頭上に、どこからともなく、白旗が舞い降りてきました。
白旗は、言うまでもなく源氏の旗!!

「八幡台菩薩が力をお与えになったのだ!!」by義経

義経は、これは吉兆だと喜び、手を合わせて拝みました。
一方、勝利を確信していた平家軍にも不思議なことが・・・
2000頭ものイルカの群れが、海底から湧き出たように接近してきました。
これは神のお告げ・・・と、総大将の宗盛は陰陽師に占わせます。
すると・・・
”イルカが折り返して源氏に向かえば平家の勝ち
 イルカがこのまま平家の船の下を通れば源氏の勝ちとなるでしょう”

それを聞いた知盛は、固唾をのんで見守りました。
しかし、願いもむなしくイルカはそのまま平家の船の下を通り抜けていきました。

「我らが負けると・・・??」

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平家、逆転勝利への誤算

「平家物語」の一節に・・・

”壇ノ浦は潮の流れが激しいところで、源氏の船はその潮に押され、平家の船は潮の流れに乗って攻めていた”

それが一転・・・潮の流れが源氏有利の西向きに変わったことで、それまで優勢だった平家が劣勢に!!
そのまま一気に源氏軍が平家軍を追い詰め滅亡させたと言われてきました。

しかし、この時の海は、ナギの状態でした。
以前は、潮の流れが変わったことで勝敗が決したと言われてきましたが、その説は、現在は重視されていません。

3月24日昼過ぎ・・・
このままでは平家に負ける・・・!!
そう考えた義経は、当時の常識では考えられない策に出ます。

「射るのは平家にあらず、水手を狙うのだ!!」by義経

非戦闘員である船の漕ぎ手を射るように命じました。

この頃の合戦は、戦闘員同士の戦いであり、武士同士の戦いでした。
舵取りを殺すという発想がなかったのです。
源平合戦以降、相手の馬を狙うなど、戦闘方法が変わりました。

兄・頼朝と誓った平家打倒のため、策を選ばなかった頼朝!!
しかし、平家にとっては、予想だにしない展開でした。
誤算でした。
漕ぎ手を次々に失っていった平家軍の船は、動くことができなくなり大混乱!!
そんな中、またもや誤算が生じます。
味方である民部重能の裏切りです。
重能は、平家軍の主力であった阿波水軍300艘を率いる武将でした。
形勢が逆転したとみると、源氏に寝返ったのです。
そして、御座船は囮で、安徳天皇は乗っていないと源氏方に伝えてしまいました。

「狙うは御座船にあらず!!」by義経

源氏軍が、一斉に安徳天皇の乗る兵船目掛けて押し寄せてきました。
すると、これに呼応するように四国・九州の兵たちが次々と平家方から離反!!
源氏軍の猛攻に、平家軍は海へと沈んでいきました。
船の漕ぎ手を狙うという掟破りの反撃と、味方の突如の裏切りによって、平家軍は追い込まれ壊滅状態となりました。
民部重能の裏切りは、義経が仕向けたことでした。
息子・教能が、人質として源氏方に捕まっていました。
平知盛は、裏切る可能性がある民部重能の殺害を、総大将の宗盛に進言していましたが、認められませんでした。
「やはりあの時、斬っていれば・・・」
そう思っても後の祭り・・・
敗北を悟った知盛は、船の上を掃き清め、覚悟を決めるように全軍に呼びかけます。
そして、安徳天皇やその母・建礼門院徳子、そして祖母の二位尼・時子の乗る船に移るとこう告げます。

「これから女官たちは、源氏の兵たちに襲われるであろう」

これを聞いた二位尼は、平家の敗北を察し、源氏に捕まるぐらいなら・・・と、死を決意!!
孫のまだ8歳の安徳天皇を抱き寄せ祈りを捧げるように伝えます。
言われるままに東は伊勢大神宮に、西は阿弥陀如来に向けて祈りをささげた安徳天皇は、こう聞きます。

「どこへつれて行くのか?」

「この波の下に、極楽浄土というめでたい都がございます
 お連れいたしましょう」by二位尼

そう言って、海に身を投げました。
幼い天皇は、祖母に抱かれ、海の中へと沈んでいきました。
この時、二位尼は、三種の神器のうち剣を腰にさし、勾玉を抱えていたと言われています。

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3月24日午後3時ごろ・・・
安徳天皇の母・建礼門院徳子も懐に石や硯を入れて錘とし、後を追うように飛び込みます。
しかし、すぐに源氏軍によって引き上げられ、囚われてしまいました。
その様子を見ていた女官たちや平家の武士たちも覚悟を決めます。
女官や武士たちは、錨や鎧をお守りとして次々と海に飛び込みました。
そんな中、ひとり気を吐く男がいました。
平家一の猛将・・・知盛の従兄弟・平教経です。

「お前の相手ができる源氏はおらん
 これ以上罪作りなことはするな」

そう、知盛に言われると、教経は、

「ならばせめて、義経を道連れにしよう!!」

そう言って、教経はなんと片手に大太刀、もう一方には薙刀を手に、源氏の船に乗り移ると、義経との一騎打ちに出ます。
あと少しのところまで追い詰めますが・・・

「かなわじ!!」

そう言って、義経は6mも離れた8艘先の味方の船へ!!
教経の猛攻をかわし逃げるのでした。
世にいう、義経の八艘飛びです。

義経に逃げられ、源氏軍に囲まれた教経は、もはやこれまでと覚悟を決めると、

「さあ、お前たち!!
 わしの死での旅の供をせい!!」

そう言って、源氏の大男2人を両脇に抱えて海に飛び込み、道連れにしました。
平家一の猛将・平教経・・・見事な散り際でした。

しかし、その一方で、生き恥を晒す武将もいました。
平家の棟梁で総大将の平宗盛です。
平家の頂点に立つ身でありながら、覚悟が決まらず、船の上を右往左往・・・逃げ回っていました。
その姿にあきれ果てた家臣たちは、後ろを通るふりをして、宗盛を海に突き落としてしまいます。
しかし、錘も着けておらず、海面でバタバタ・・・なかなか沈みませんでした。
すると宗盛は、あろうことか源氏によって引き上げられてしまいました。
その有様に、知盛は、

「なんと情けないこと!!
 どうして深くお沈みにならなかったのか!!」

敵に捕らえられて恥をさらすより、最期まで戦い潔く果てて平家の名を汚さぬことこそ知将・知盛の美学・・・

「見届けるものはすべて見届けた
 今、自害せん!!」

知将と言えども、武運が尽きれば力及ばず・・・!!
知盛は、自分の亡骸が浮かび上がって源氏から辱めを受けないようにと鎧を2領重ねて身につけ、海に飛び込みました。

3月24日、午後4時ごろ・・・壇ノ浦の戦いは源氏の勝利となり、孟き者・平家滅亡!!

海面には、平家の赤旗が無数に漂い、水際に寄せる波は赤色に染まっていきました。
戦場に最後まで踏みとどまり、栄華を誇った平家の終焉を最期までしかとその目で見届け、劇的に散っていった平知盛・・・見事な最期でした。

こうして源平合戦は終わりをつげ、時代は源氏のものに・・・!! 
しかし、源氏軍を率いた源義経は、壇ノ浦の戦いでヒーローとなったことが、兄頼朝との間に深い溝を作ることとなり、逃げた先の奥州・平泉で無念を抱えたまま自害し、果てるのです。
源平合戦最後の決戦・壇ノ浦の戦い・・・つぶさに見ていくと、家の為、忠義の為、意地の為に命を懸けて闘った武将たちのそれぞれの思いがよくわかります。

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