項羽と劉邦(上中下) 合本版【電子書籍】[ 司馬遼太郎 ]

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中国の広大な大地に生きた英雄たち・・・
天下統一の夢、渦巻く謀略・・・その伝説とは・・・??

広大な中国を統一した秦の始皇帝・・・紀元前210年に世を去ります。
再び戦乱の世が訪れました。
天下を手中に治めようと、二人の英雄が熾烈な戦いを繰り広げます。

”項羽と劉邦”です。

項羽はこの時、20代の前半・・・
その後、70以上の戦いに勝利した中国史上屈指の戦の天才でした。
一方、劉邦は50歳間近・・・連戦連敗で、いつも負け続けていました。
戦いに敗れて逃げる時、我が子を見捨てて逃走するという逸話も残っています。
しかし、最後に勝利を掴んだのは劉邦でした。
劉邦は天下を統一し、漢王朝の皇帝に即位します。
その後、2000年にわたり、中国の国家体制の基盤となった漢の開祖となったのです。
どうして劉邦は、勝利したのでしょうか??
戦の天才、項羽はどうして敗れたのでしょうか??
その秘密は、始皇帝の兵馬俑に隠されていました。

長江の下流にある宿遷は、英雄・項羽の生誕の地です。

項羽は真っ直ぐな生き方をした人で、その潔さに共感を覚えます。
劉邦はつかみどころのない、凡庸でつかみどころのない人物に見えますが、その劉邦にどうして項羽が蒔けたのでしょうか??

後に、楚の国の覇王となった項羽・・・
項羽の一族は、代々楚の国の将軍を務める名門でした。
項燕・・・項羽の祖父は、楚の大将で、軍の最高責任者でした。
楚は、かつて長江流域に強大な勢力を誇った大国でした。
しかし、項燕の時代に秦に滅ぼされます。
始皇帝の死後・・・各地で反乱が勃発!!
その反乱をまとめ、打倒秦の中心勢力となったのです。
復興を目指した楚の国・・・その反乱軍の先頭に立ったのが、項羽でした。
項羽は・・・
「楚の人間は、三戸と雖も 秦を滅ぼすは必ず楚なり。」といったと言います。
三人になっても、秦を滅ぼすまで戦う・・・と。

一方劉邦は・・・同じ楚の生まれ・・・金劉村に生まれています。
曽祖父の名は”劉清”・・・戦乱の世、この村に逃げ込んで、農業を始めたと言われています。
劉邦は、その家の4人兄弟の末っ子として生まれました。
そして、劉邦は下級役人を務めていました。

司馬遷の「史記」・・・
そこには、村役人だったころの劉邦について・・・
酒と色を好み、いつも酔いつぶれていたとあります。
ところが、40代後半の頃・・・運命を変える事件が起こります。
村にほど近い芒碭山・・・劉邦は、この山の麓で農民たちを連行していました。
始皇帝墓の建設に向かわせるためでした。
しかし、その道中に農民たちが逃亡・・・劉邦はその責任を問われることを恐れ、山に立て籠ります。
この窮地を救おうと、劉邦を慕う村の農民たちが集まりました。
この事件をきっかけに、心ならずも反乱軍に身を投じることとなってしまった劉邦。
紀元前208年、秦に対する反乱が各地で勃発していました。
斉・魏・趙など、秦に滅ぼされた国々が次々に立ち上がります。
そして、秦軍は、その鎮圧に手を焼いていました。
反乱軍の中で最大勢力となった項羽の軍は、楚を出て秦の都・咸陽を目指します。
黄河の支流・漳河が流れる河北省・鉅鹿・・・項羽はここで反乱鎮圧のために来ていた秦の主力軍と遭遇します。

紀元前207年・・・鉅鹿の戦いです。

項羽の軍と秦の軍の命運をかけた一大決戦・・・項羽の軍は、勢力的に圧倒的に劣勢でした。
秦軍は、軍備を整えた正規軍・・・兵力は20倍でした。
しかし、劣勢だった項羽の軍が勝利を治めます。
「史記」によると・・・項羽は船を沈め、釜を破った・・・
つまり、川を渡って戦いに挑む項羽軍・・・。
全軍が川を渡り終えると船をすべて沈め、兵士たちの退路を断ったのです。
3日分残っていた食料を捨て、釜を壊したのです。
項羽は兵士たちに、生きては帰らないという覚悟を求めたのです。
数にものをいわせて、波状攻撃を繰り返す秦軍をことごとくはねのける項羽の軍・・・。
秦軍は降伏しました。
史記には、楚の兵士たちが10倍の働きをしたと書いています。
項羽は指揮官としても、一人の戦士としても、極めて高い能力を持っていました。
その強さにけん引されて、兵士たちも十二分の力を発揮したのです。
その強さが魅力的なのです。
中国全土に、項羽の強さがひびき渡ります。
同調し、増えた軍は、40万の大軍にもなりました。
山に立て籠っていた劉邦は、農民や流民たちを引き連れて、項羽の配下の軍に入ります。
戦闘経験の乏しい劉邦の軍は、秦軍との正面衝突を避けながら、西へと進んでいました。
そして、ある戦い・・・南陽の戦いをきっかけに、急速に力を伸ばします。
南陽を包囲していた劉邦の軍に、項羽が鉅鹿で勝利を治めたとの知らせが・・・!!
母国の滅亡が近いと悟った秦軍は、戦意を失います。
降伏を願い出た兵士たちを劉邦は許し、戦わずして城を手に入れたのでした。
投降した秦の兵士たちを使い、劉邦は他の秦の城へ投降を呼びかけます。

「史記」によると・・・
西に進む劉邦軍・・・それを前に、降伏しない者はなかった。。。
敵をも許す劉邦の戦略・・・噂は広がり、次々と投降・・・およそ3か月で、劉邦軍は10万の大軍勢に・・・!!

項羽もまた、勝利を重ねるたびに破った秦の兵たちを軍に加えていました。
しかし、項羽の投降兵に対する姿勢は、劉邦のそれとは違っていました。
河南省・義馬二十里村には、項羽の伝説が残っています。
村はずれに、項羽がほらせた穴・・・楚坑があります。
今から10年前・・・大量の人骨が出てきました。
「史記」によると・・・
秦の兵士20万人、生き埋めにしたとあります。
項羽の軍に投降した秦に兵士たちは、危険な任務を強いられていました。
不満を持つ兵士たちの間に不穏な空気が・・・反乱を恐れた項羽は、秦の兵士たちの処刑を命じました。
20万の兵士たちを生き埋めにしたのです。
秦を倒すために、軍の統率を一番に考えた項羽・・・
その目的のために見せた厳しさでした。

紀元前207年・・・秦の兵にはもはや抵抗する力は残っていませんでした。
劉邦が戦わずして秦の都・咸陽に入ります。
項羽も入城しました。
西安・・・かつて秦の都・咸陽があった場所で・・・兵馬俑が発見されました。
兵馬俑は、秦の始皇帝が、自らの墓を守るために作らせたものです。
それぞれは等身大で作られ、始皇帝の軍団を忠実に再現しています。
項羽と劉邦がこの都に入ったのは、兵馬俑が完成してすぐのことでした。

兵馬俑には謎があります。
黒い跡・・・天井を支えていた木材が燃え、崩れた跡だと考えられます。
さらに、一部の兵馬俑に、不自然な赤い色が・・・
兵馬俑が赤く変色している原因は・・・??

何者かが火をつけた・・・??
「史記」には・・・項羽は、秦の王宮に火を放った!!とあります。
その火は、3か月消えることなく燃え続けました。
中国全土を支配した帝国の都が、廃墟と化したのです。
この時、兵馬俑も燃えたと考えられます。
さらに・・・兵馬俑には何かを握りしめているかのような手・・・
手首から先が不自然に失われているものも・・・断面は、鋭い刃物で断ち切られたかのようです。
右手には戟・・・本物を持っていたようです。
8,000体の殆どが武器を持っていたと考えられますが、発見されたのは170しか出土されていません。
武器は、押し入った者たちによって持ち去られた可能性があり・・・項羽が命じたと考えられます。

「史記」には・・・項羽は秦王の墓を暴き、密かに財物を盗んだ・・・と。

かつて、祖国の楚を滅ぼした秦・・・その秦の栄光を徹底的に破壊したのです。

楚の国・・・秦とは違う独自の文化を築いていました。
楚に赴任した秦の行政官の文章が残っています。
”自分の習俗に固執して勝手な振る舞いをする者が後を絶たない・・・”と。
ここには従わないものが多い・・・。

根底にあるのは、秦に対する恨み、つらみ・・・楚の復活のために、秦と徹底的に戦う!!倒す!!という気持ちでした。

一方、咸陽に入城した劉邦は・・・項羽の意向を無視し、独自の方法で咸陽を支配しようとします。
「史記」によると・・・劉邦は王宮から秦の文書を持ち出し、項羽の目につかないように独り占めしました。
劉邦は、支配する規範である人々の実態を正確に掌握しようとしました。
更に劉邦は、どうすれば咸陽の人々の支持が得られるのか・・・計算していました。
部下の略奪行為を厳しく取り締まることで安心感を与え、心を掴もうとしたのです。
あいついで咸陽に入った劉邦と項羽・・・二人は全く違っていたのです。

紀元前207年咸陽陥落で秦は滅亡・・・
項羽は西楚覇王を名乗ります。
楚の復活を天下に告げたのです。
項羽は中国全土を18に分け、秦討伐に活躍した将軍などに分け与えます。
中でも最も功績をあげた劉邦・・・しかし、彼に与えられたのは・・・陝西省の厳しい山間の褒斜道・・・劉邦はこの道を通って与えられた領地に向かいました。
中央から離れた地に遠ざけられた劉邦のエピソードから「左遷」という言葉ができました。

劉邦がたどり着いたのは漢中・・・ここから、劉邦は自らの国を漢と名付けました。
漢は山が多く、農地の少ない貧しい土地でした。
漢の国で、再び進出する機会を狙っていた劉邦・・・

項羽が・・・自らの権力を盤石にするために、楚の王族を長江で殺害したのです。
この事件を巧みに利用する劉邦・・・各地に伝令を走らせます。

「項羽は大逆無道である・・・!!」劉邦は、項羽に戦いを挑むのです。

紀元前205年彭城の戦い・・・二人の初めての対決です。
圧倒的な項羽・・・強さを発揮!!
これに挑んだ劉邦の軍は打ち砕かれます。
十数万の兵を失い敗走する劉邦・・・
「史記」には・・・逃げる馬車から劉邦は実の子供をけり落した。けり落すこと3度に及んだ。。。
劉邦の惨敗でした。

河南省滎陽・・・黄土高原丘陵地帯が続きます。
戦いの4か月後、この地に逃げ込んだ劉邦・・・起伏にとんだ地の利を生かし、項羽の追撃をかわそうとしました。
その後、戦いは膠着状態となり3年・・・
北に黄河を望む渓谷・鴻溝・・・ここを挟んで項羽と劉邦二つの勢力が睨み合っていました。
漢王城村・・・ここに劉邦が陣を構えたといいます。
今は500mほどしか残っていない城壁は、当時は20kmありました。
黄河の激流で山すそが流され、城壁も埋もれてしまったのです。
3年間・・・劉邦の軍は、項羽の軍に圧倒されていました。
項羽がいないすきを狙って攻撃したり、項羽の配下を買収したり・・・
策を練るも歯が立ちません。
「史記」には、劉邦は逃げてばかりだったとあります。
項羽の陣地は、谷を挟んだ山の上にあり、覇王城と呼ばれていました。
この頃の項羽は連戦連勝でした。
しかし・・・項羽の敗戦の目はこの頃にあった・・・??

垓下古戦場址・・・
長い間膠着状態だった二人が雌雄を決する時が来ました。
紀元前202年天下分け目の決戦・・・垓下の戦いです。
勝利を確信して戦場に発った項羽は驚愕、見たこともない劉邦の大軍勢が現れたのです。
それまで歩兵中心だった劉邦の軍に、精鋭の騎馬部隊が加わっていました。
兵力も、項羽の軍の6倍・・・60万を超えていました。
思わぬ苦戦を強いられる項羽・・・初めて劉邦の軍が優勢に・・・!!
どうして劉邦の軍が急に勢力を増したのでしょうか?
劉邦の軍を伝える兵馬俑があります。
その数3,000以上・・・劉邦と共に垓下で戦い、後に漢王朝の将軍となった周勃の墓から出土しました。
この中に、中国中心部・・・中原の兵士とは違う兵馬俑がありました。
頭の後ろに髪を束ねていて・・・中国の西南部の少数民族・苗族独特の風習です。
劉邦軍には、少数民族の兵士も加わっていました。
苗族は勇猛で名高い戦士でした。
騎馬兵も・・・細面の小柄な体格から、今の甘粛省周辺の遊牧民族と思われます。
彼らは、馬上から弓を射る技術に長けていました。
騎兵の存在は、劉邦の軍の戦力を向上させました。
滅ぼされた秦の兵士たちも・・・
劉邦は様々な人々を一つの軍にまとめ上げていたのです。
大きく姿を変えた劉邦の軍・・・
劉邦は彭城の戦いで敗れて3年・・・負け続けた間に信頼する家臣の韓信を戦場から遠く離れた地方に・・・!!
韓信が遠征した地域を平定し、その兵を劉邦の配下としたのです。
この時大きな力を発揮したのは、軍事ではなく行政の仕組みを駆使する劉邦のしたたかな戦略でした。
1984年に出土した竹簡・・・発見されたのは、当時の劉邦の部下だった者の墓でした。
解読の結果、律という法律を隅々まで行きわたらせ、支配の安定を図っていたのです。
劉邦は、戸籍で出自や年齢を把握し、徴兵を課していたのです。
劉邦にあって項羽になかったもの・・・それは、民の実情を把握することで、全ての民の力を戦力とする周到な戦略でした。

垓下の戦いは幕を閉じようとしていました。
項羽の軍は食料も尽き、60万の劉邦の軍に幾重にも包囲されていました。
夜になって・・・項羽の耳に四方から歌声が聞こえてきました。
祖国・楚の国の歌でした。
項羽の反応を史記は・・・
楚の国は、実際には滅びていなかったものの、項羽はすでに楚の国が落ちたと思い込んだ。
そして、劉邦の軍に楚の国の人が多いことに失望し、戦意を喪失した。
項羽の軍の兵士たちも敗北を確信し、逃亡し始めました。
今まで勝利をし続けてきた項羽の最初の敗北でした。
四面楚歌です。

項羽の敗北・・・その理由は、劉邦の部下が残した兵馬俑にも残っています。
兵馬俑の衣装は・・・膝の上までしかない短い衣・・・これは、楚の服です。
稲わらで作った靴は、長江流域出身であることを示しています。
史記によれば劉邦は、項羽のもとにいた武将たちに、領土と引き換えに寝返るように働きかけていました。
兵馬俑の数からは、楚の兵士たちだけで一つの部隊が作れるほどでした。
自らの力で運命を切り開いてきた項羽でしたが、部下の離反を止めることはできませんでした。

四面楚歌の項羽はついに最期を悟ります。

やがて項羽は長江のほとりで自らの命を絶ちました。

項羽が命を懸けて再興を願った楚の国・・・
2006年項羽の一族が仕えた楚の王とみられる墓が発見されました。
「熊家塚遺跡」です。
その車馬坑は・・・縦133m横12m・・・中国最大の車馬坑です。
43台の馬車や戦車、164頭の馬が発掘されています。
これは、馬車や戦車を連ねて領地を視察する楚の王を表していると言われています。
出土した6頭立ての馬車は、王の物と考えられています。
古代中国では、6頭立ての馬車は、天下に君臨する王朝の支配者しか許されないものでした。
死後の世界でその馬車に乗ることを願った楚の王の夢・・・
それは、項羽が追い求めたものでもありました。
楚の国の名門に生まれ、楚の国の復興を託され、そして、楚の国の夢を一身に背負って生きた項羽。
戦乱の時代に産み落とされ、短くも強力な光を放った英雄でした。

西安・・・かつて漢の都・長安が置かれた場所です。
紀元前202年・・・劉邦は、周囲に押される形で皇帝に即位。
漢王朝を開きました。
国づくりにあたって劉邦は、一族や後進に土地を与えて諸侯とし、一定の権力を許すことで王朝の安定を図りました。
漢王朝は400年にわたって続き、その支配体制はその後の中国王朝の基盤となりました。


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