今から200年前・・・1冊の小説が世に出ました。
科学に魅せられた若者が、理想の人間を作り出そうとして恐ろしい化け物を生み出してしまう・・・
小説の名は「フランケンシュタイン」・・・
科学は人類に夢を見せる一方で、時に残酷な結果を突き付ける・・・
科学は、誘惑する・・・!!

2019年、日本の吉野彰がノーベル化学賞を受賞しました。
化学の世界で最高の栄誉であるノーベル賞・・・
創設したのは、スウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルでした。
ダイナマイトの発明で得た莫大な財産は、賞の基金となりました。
鉱山や土木工事に革命をもたらし、人類の発展に大きく貢献しました。
しかし、その破壊力は、戦争にも使用されました。
ノーベルは、ダイナマイトが戦争に使われることを承知で、世界中に売りさばき、巨万の富を築きました。
ノーベルは、死の間際、財産の使い道を遺言します。
人類に最大の貢献をしたものに与えられるノーベル賞・・・それは爆薬王・ノーベルの最後の償いだったのか・・・??

スウェーデンの首都・ストックホルム・・・
1833年、アルフレッド・ノーベルは、発明家の父の三男としてストックホルムの小さなアパートに生れました。
生まれつき喘息で病弱だったノーベル・・・隙間風が入る部屋の中で、震えながら暮らしました。
ノーベルの家は、とても貧しく、息子たちは町でマッチ売りをするほどでした。
ノーベルが1歳の時、発明家だった父が、事業の失敗と火事で破産しました。
子供の時の飢餓体験は強烈で、後に裕福になった時もいつ破産するかわからないという恐怖にとらわれていました。

ノーベル家の窮状を救ったのは戦争でした。
当時のヨーロッパは、帝国主義の時代・・・フランス・イギリス・オーストリアなどの列強各国は軍備を拡大し、より強力な武器や弾薬を求めていました。
中でもロシアは、黒海沿岸の覇権をめぐり、オスマン帝国と対立!!
ロシア皇帝・ニコライ1世は、武器の発明家を国の内外を問わず起用しました。
そんな時、ノーベルの父イマニュエル・ノーベルの発明した機雷がロシア軍に採用されます。
敵艦隊の侵入を防ぐなど、軍の信用を得たため、武器の注文が相次ぎます。
一家は、ノーベルが9歳の時にロシア・サンクトペテルブルクに移住。

食べる物にも困った生活から、馬車を持つほど裕福になりました。
ノーベルは、4人の家庭教師から、母国語であるスウェーデン語をはじめ、ロシア語・英語・フランス語・ドイツ語・・・物理・科学などの英才教育を受けます。
中でも、興味を持ったのは、化学でした。
当時は物質の構造や特性を化学的に解き明かそうとしていた時代・・・
ノーベルも、物質を組み合わせることで、まるで違うものに変化する化学反応に夢中になりました。
兵器を作るための工作機械や、火薬が並ぶ父親の工場は最高の実験室でした。
ノーベルは後年、こう証言しています。

「父が機雷の製造を手掛けていたので、私が爆発物に興味を持ったのは、当然だったわけです」

一方、病弱で友達のいないノーベルの心は、文学にも引き付けられました。
詩を書くのが大好きで、一時は本格的に文学者を目指すほどでした。
1853年、ロシアとオスマン帝国の衝突をきっかけに、クリミア戦争が勃発・・・
イギリスやフランスも参戦する大規模な戦いに発展しました。
父の工場は、戦争特需となって生産を拡大・・・たちまち従業員1000人以上の大工場となりました。
20歳になったノーベルは、文学者の道をあきらめて父の道を手伝うことになります。
この時期の経験が、ノーベルに大きな影響を与えました。
兵器を作ることで、大儲けできることを目の当たりにしたのです。
クリミア戦争が始まって2年後の1855年・・・
ノーベルの人生を変える出来事が起こります。
知り合いの化学者ニコライ・ジーニンから興味深いものを見せられます。
それは少しとろみのある不思議な液体・・・教授がガーゼにその液体を数滴たらし、ハンマーでたたくとパーン!!・・・これがニトログリセリンでした。
これが、7年前に発明されたばかりの物質で、その破壊力は従来の黒色火薬の5倍以上!!

1856年クリミア戦争が終結すると、軍の注文は激減・・・父の工場は、たちまち破産に追い込まれます。
ストックホルムに戻り、一からやり直しとなったノーベル・・・
起死回生の切り札と考えたのが、あのニトログリセリンでした。
しかし、ニトログリセリンには大きな問題がありました。
極めて危険だったのです。
ニトログリセリンは、わずかな衝撃で爆発する一方、狙った時に爆発しないという気まぐれな性質があります。
だから、世界中の科学者の誰もが爆薬として使うのは不可能だと諦めていました。

どうしたら、ニトログリセリンを確実に爆発させることができるのか・・・??

他の薬品と混ぜたり、圧力や温度を変えたり・・・試行錯誤です。
その結果、急激に圧力をかけて、180度以上の熱・・・確実に爆発することが分かりました。
ノーベルは、あるアイデアを考え出します。
ニトログリセリンの上にカプセルに入れた火薬をおきます。
導火線でこの火薬を爆発させることで、一気に圧力をかけ、ニトログリセリンを爆発させようというのです。
火薬を使ったこの起爆装置は雷管と呼ばれ、その後、世界中で使われることになります。

しかし・・・1864年9月・・・ニトログリセリンの製造中に爆発事故が起き、弟を含む5人の死傷者を出す大惨事となりました。
ノーベルは、確実に爆発させる条件を見つけたが、不安定なニトログリセリンを安全に取り扱うことはまだできなかったのです。
弟が死んだ次の日、更なる研究に取り掛かります。
弟が死んでも決してあきらめませんでした。
彼は化学者として、ニトログリセリンという暴れ馬を手なずける可能性がほんの少しでもあるのならば、何としてもその方法を見つけたいと考えていました。

爆発事故は、ストックホルム市民を恐怖に陥れました。
警察からも、市街地でのニトログリセリン製造はおろか実験も禁止されました。
しかし、その一方で、爆発力の大きさは逆に宣伝となります。
事故から1か月後、電鉄会社からトンネル工事にニトログリセリンを使いたいという注文が舞い込みました。
そこでノーベルは、ドイツに新しい工場を建て、ニトログリセリンを製造しながら、安全に取り扱う研究を続けます。

ニトログリセリンが危険な原因は、振動や衝撃が伝わりやすい液体だからだと考えたノーベル・・・
固形化することを考えます。
黒色火薬にしみこませてみる・・・しかし、失敗・・・爆発力が著しく落ちてしまったのです。
それは、火薬がニトログリセリンを十分に吸収できなかったためです。
ノーベルは、ニトログリセリンをしっかり吸収できる物質をいろいろ試します。
おがくず・・・風が吹いただけで爆発
炭・煉瓦の粉・・・爆発すらしない
試行錯誤を続けていたある日、ノーベルは不思議な光景を目にします。
水辺に浮いた油が、見る見るうちに土にしみ込んでいました。
この土は、珪藻土と呼ばれるものです。
ケイソウが化石化して堆積したもので、細かな穴が無数にあるので吸収性に富んでいました。
ノーベルは、この珪藻土がニトログリセリンと混ぜるのにとても適していると気づきます。
ニトログリセリンを珪藻土に吸収させることで、衝撃や摩擦に対する反応が抑えられます。
そうすることで、安全性が格段に増すのです。
珪藻土を試していると、その吸収度はすさまじく・・・3杯の重量のニトログリセリンを吸い込むことができました。
ノーベルは、珪藻土とニトログリセリンを1:3の割合で固形化。
実験をすると、ニトログリセリンとそん色ない破壊力を見せました。
しかも、衝撃を与えても爆発しませんでした。
追い求めていた安全でかつ強力な爆薬が完成したのです。
ノーベルはこの爆薬をギリシャ語で力を意味するディナミスからダイナマイトと名付けました。

1867年9月19日、特許取得・・・
そこにはダイナマイトと共に、ノーベルの火薬と明記した上で、衝撃や火花で爆発しないこと、安全に運搬や貯蔵ができることを強調しています。
ダイナマイトは、それまで不可能だと思われていた、アルプス山脈を貫く全長15キロのトンネルを可能にしました。
鉱山や油田などの資源開発、鉄道やダムなどのインフラ整備に・・・ダイナマイトがあって初めて実現できたのです。

従来の火薬の5倍の破壊力を持つダイナマイト・・・強力な兵器といても使われていきます。
1870年普仏戦争・・・
軍事大国フランスに、ドイツ連邦の一部に過ぎない新興国プロイセンがどこまで戦えるのかと世界が注目しました。
ところが、開戦からわずか2か月で、プロイセンがフランスを圧倒・・・
この時、プロイセンが初めて戦争で使ったのが、ダイナマイトでした。
要塞や補給路となる橋の爆破、塹壕を作るために威力を発揮します。
プロイセン軍の勝利に貢献しました。
敗れたフランスは、ダイナマイトの威力に注目・・・

当時最大の発行部数を誇った新聞が、トップ記事で紹介しました。

”最も驚異的で最も恐ろしい破壊力を持つ製品”

”殺人の道具として利用できる”

兵器として知れ渡ったダイナマイト・・・ノーベルは、カバンにダイナマイトを詰め込んで、ヨーロッパ中に売り込みました。
名付けて”ダイナマイト旅行”
ノーベルは、発明家であり優秀なビジネスマンでもありました。
ノーベルのキャリアは、ロシア時代、クリミア戦争で大もうけした父の軍需工場からスタートしています。
兵器でお金を稼ぐことに対し、何の抵抗もなかったのです。
ノーベルは、母国スウェーデンをはじめ、ドイツ、アメリカ、イギリス、フランスなど世界13か国に17の工場を建設していきます。
ダイナマイトの生産量・・・特許を取得した1867年11トンでしたが、6年後には2020トン・・・200倍近くの急成長を遂げます。
ノーベルは、名実ともに爆薬王として巨万の富を築いていきます。
1876年、43歳になったノーベルは、パリを拠点に更なる一歩を歩み出します。
新兵器の開発です。
ノーベルが興味を持っていたのは無煙火薬です。
当時、たくさんの科学者がこの無煙火薬を研究していました。
従来の黒色火薬を使った大砲や銃は、発射後大量の煙が出るため、敵に発射位置を悟られやすかったのです。
また、砲身にすすが溜まり、連続して使えないという欠陥もありました。
その為、世界中の科学者と火薬製造会社が無煙火薬の開発にしのぎを削っていました。

ノーベルは、ダイナマイトを開発した自信があったので、自分なら無煙火薬も開発できると考えていました。
彼はパリに住んでいたので、フランス政府に声を掛けましたが、それにとどまらず、イギリスやロシアにも売り込もうとしていました。
ノーベルの提案に飛びついたのは、普仏戦争でダイナマイトの威力に驚いたフランスでした。
ノーベルは、大砲の実験場を自由に使わせてもらうなど、フランス軍の全面協力の元、無煙火薬の研究に取り組みました。
注目したのは一瞬で燃える杯も煙も出ない素材・・・ニトロセルロースです。
1884年、このニトロセルロースにニトログリセリンとショウノウを混合し、無煙火薬バリスタイトを完成させました。
バリスタイトを使った大砲は、わずかに水蒸気が出るもののその差は一目瞭然でした。
煙やススが格段に減ったため、連射が可能となったうえに、威力が強かったのです。
新兵器の完成でした。
これで他の火薬は必要ない・・・
ノーベルが作った無煙火薬バリスタイトは、民間利用には必要のないものです。
しかし、兵器である大砲にはもってこいでした。
戦争で使われるためだけに作られたものなのです。
ノーベルは、明らかに一線を越えたのです。
バリスタイトを開発したその年、フランス最高の栄誉レジオンドヌール勲章を受章します。
ノーベル51歳・・・人生の絶頂を迎えていました。

勲章受章の4年後・・・55歳になったノーベルの人生に翳り見え始めます。
1888年・・・この年、一番仲の良かった兄が死去・・・
しかも、兄の死をノーベル本人と間違えた記事が新聞の死亡欄に載りました。

”人類に貢献したとはいいがたい男が死亡した
 ダイナマイトを発明したムッシュ ノーベルである”

本来、死去した人を称える死亡欄で、ノーベルはその功績を否定されていました。
翌1889年、兄に続き最愛の母が死去・・・さらに、事業でも不運が続きます。
フランス軍がライバル会社の無煙火薬を採用、ノーベルのバリスタイトは生産中止に追い込まれます。
窮地に立ったノーベルは、1890年、イタリアとバリスタイトの売買契約を結びました。
これに対し、フランスの新聞が一斉に攻撃!!

”信じがたいことに外国人化学者が、フランスで研究開発した無煙火薬をイタリアで製造させている”

”あえて名を挙げるなら、アルフレッド・ノーベルだ!!裏切り者!!”

ノーベルは、逃げるようにイタリアのサンレモに移り住みます。
次々と襲う逆風・・・追い打ちをかけるように、持病の心臓病が悪化します。
そんな時、ある1冊の本に出会います。
「武器を捨てよ!」
反戦をテーマにした小説でした。
作者は、平和活動家のベルダ・フォン・ズットナー。
ノーベルは、ズットナーとは10年来の知り合いでした。
5か国語でビジネスレターを書けるほど語学に堪能だったズットナー・・・
かつて短い期間でしたが、ノーベルの秘書として働いていました。
出会った時、ノーベルはズットナーの美貌と知性に一目惚れ・・・
仕事の合間を縫って、公園やレストランに連れ出しました。
ノーベルは数回のデートの後、彼女に好きな人がいるかどうかを聞こうとしましたが、シャイな彼にはできませんでした。
彼女には、結婚の予定があったのでノーベルのもとで働いたのは1週間ほどでしたが、その後も二人の友人関係は長く続きました。
敬愛するズットナーの書いた「引きを捨てよ」
戦争の悲惨さを訴えるこの小説を読んで、ノーベルは平和について考え始めました。
ノーベルが平和について語ることは、それまでありませんでした。
しかし、彼女の本を読んでから、突然世界平和を夢見るようになったといいます。

1892年、ノーベルは、ズットナーが主催する平和会議に参加しました。
しかし、平和を実現する方法については、ノーベルとズットナーはまるで違っていました。
世界各国が武器を捨てれば平和になるというズットナーに対し、ノーベルは、強力な兵器こそが平和を生むという考え方でした。

「たった1秒で完全に相手を破壊できるような時代が到来すれば、全ての文明国は驚異のあまり戦争を放棄し、軍隊を解散させるだろう」byノーベル

1894年、ノーベルは自らの考えを推し進めるかのようにスウェーデンの兵器工場を買収・・・
爆薬だけでなく、大砲などの生産に乗り出します。
ノーベルは、国家はお互いに強い軍隊と強力な武器を持たなければならないと考えていました。
彼にとって、大事なのはバランスです。
武器は敵を倒すためのものではなく、戦う相手を威嚇し、そしてお互いをけん制するためのものなのです。
ノーベルは、兵器という恐怖が、平和実現のために必要だと考えていました。

1896年12月10日・・・ノーベルは63歳で人生の幕を閉じます。
脳出血でした。
生涯独身で、看取ったのは使用人一人だけでした。
親族も友人もいない最期でした。
死の前年、ノーベルは遺書を書き残しています。
ストックホルムにあるノーベル財団・・・
このビルの一室にその遺書が残されています。
遺書の中でノーベルは、自分の遺産について細かく指示をしています。

”資産は安全確実な有価証券に替え、その年利を賞として、前年に人類に対して最も偉大な貢献をした人物に授与するものとする”

”賞の対象は、地域や国籍を問わない”

ノーベルが、授与する分野として書いていたのは、物理学・化学・生理学及び医学・文学でした。
この4つの賞は、彼が若い時から興味を持っていた分野で、ノーベルという人間を作ってきたものです。
そして、もうひとつ・・・ノーベルが指定した賞があります。
”平和賞”です。

”国家間の友好及び武器兵器の廃棄削減”などに貢献したものに与えられます。
どうしてノーベルが平和賞を作ったのか・・・??
兵器産業で大もうけしたのに、兵器の廃棄や削減をしたものに賞を与えるというのは、矛盾しています。
ノーベルという人間を、一つの枠だけで語ることは不可能です。
平和賞は、謎なのです。

ノーベルが賞のために残したのは、現在の日本円でおよそ250億円・・・それは、総資産の実に94%にものぼるものでした。
ノーベルの遺言の内容が報じられると、スウェーデンのみならず、海外から大きな反響がありました。

”スウェーデン文化史の一大事件”
”ノーベル氏の科学への惜しみない贈り物”
”博愛主義に基づいた記念碑的な慈善行為”

人類初となる試みに対し、最大級の賛辞が贈られました。
この賞は、ノーベル賞と名付けられ、1901年から毎年彼の命日である12月10日に授賞式が開催されることになりました。

第1回・・・レントゲンを発見したレントゲンが物理学賞を
      国際赤十字を創設したアンリ・デュナンが平和賞を
女性初は、第3回の物理学賞のマリー・キューリー
ズットナーは第5回の平和賞を受賞しました。

これまでに900を超える個人と団体が受賞しています。
      
1945年、第2次世界大戦が終結したその年、ノーベル賞の記念晩さん会に招かれたアインシュタインはこう語りました。

「ノーベルは、かつてないほど強力な爆薬を発明し、破壊への扉を開きました
 同様に、史上最悪の兵器製造に参加した現在の科学者も、罪悪感と責任感に悩まされています
 科学者は常にノーベルと同じ苦境に立たされているのです」byアインシュタイン

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