日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:版籍奉還

大政事家大久保利通 近代日本の設計者 (角川文庫 角川ソフィア文庫) [ 勝田政治 ]

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明治4年(1871年)7月14日、日本史上屈指の大改革が断行されました。
およそ、270年にわたり地方の領主だった藩が姿を消し、中央政府が治める県が置かれました。
廃藩置県です。
これにより、日本の政府権力は中央政府に一極集中することになりました。
この廃藩置県は、藩主への事前通達はなく、僅か6日の間に実行された電撃作戦でした。
実行の最後の決断をしたのが、維新三傑のひとり・大久保利通でした。
しかし、大久保は廃藩置県をするかどうか、最後まで悩み続けていました。
出来たばかりの明治政府は、経済力、軍事力ともに決定的に不足し、成功させる実力がなかったのです。
無理矢理断行すれば、諸藩は反発・・・日本は再び血みどろの内戦状態になるかもしれない・・・
躊躇すれば・・・海外からの脅威に立ち向かえないかも・・・??
どちらをとってもいばらの道でした。

薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争・・・。
およそ1年半の激戦の末、新政府軍が勝利を治めました。
幕府に代わって新しい国づくりを担うこととなった新政府軍の中心となったのが薩摩藩だった大久保利通でした。
その真っ先の課題は・・・中央政権でした。
アジアでの西洋列強の植民地化から日本を守るために、天皇のもと、国を一つにまとめる必要があったのです。
しかし、大久保の前には大きな壁が。。。全国に270あまりある藩でした。
それぞれの藩は、財力や兵力をそれぞれ保有し、それらはすべて藩主のものでした。
中央集権を推し進めるためには、財力や兵力を新政府に集めなければなりませんでした。
長州藩出身の木戸孝允と共に出した案は・・・
版籍奉還(版・・・土地、籍・・・人民)・・・まずは、土地と人民を天皇に返上させようと考えました。
しかし、版籍奉還は、藩主にとっては、既得権を喪失すること・・・諸藩が素直に応じる保証はない・・・。
大久保出身の薩摩藩の反応次第では、血みどろの戦いになるかもしれない・・・。

薩摩藩は、集成館事業を行っていました。
当時の日本の最先端の軍事工場で、大量の木炭を燃料に、大砲づくりを行っていました。
西洋式の産業技術を研究し、大砲や火薬の製造、軍艦の整備なども行っていました。
その結果、薩摩は明治に入っても、強大な軍事力を持っていたのです。
もし明治政府の強引な政策に薩摩が反発すれば・・・またもや戦乱に??
たくさん残る氏族の不平が反乱の元になる事を新政府は恐れていたのです。
薩摩をはじめとする諸藩を刺激せずに穏便に改革を進めるためにはどうすれば・・・??
土地と人民を返上させ、再交付をにおわせることにします。
さらに土地と人民の返上を迫られる藩主には、魅力的な役職を・・・知藩事です。
天皇が任命する地方長官のことで、地方を支配する権限はこれまでと変わらない上に、天皇のお墨付きが就くので、大きな名誉なことでした。
大久保たちの狙いは見事に当たり、版籍奉還に魅力を感じた藩主たちはこれに応じるのでした。
その結果、大きな反発もなく、土地と人民は天皇が所有するものに。。。
大久保たちは、少しずつ江戸時代からの地方のあり方を変更し、中央集権の第一歩に成功したのでした。

政府の発言力を強め、影響を全国に及ぼすためには、強力な後ろ盾が必要・・・!!
大久保は、薩摩藩の力に目をつけます。
カリスマ的な西郷隆盛、藩に絶大な影響力を持つ島津久光。。。
二人を新政府に参画させようと試みました。

1870年1月、大久保は、自ら説得のために鹿児島へ・・・
逆風は覚悟していたものの、新政府への風当たりは予想以上のものだったのです。
久光の説得は難航・・・政府の中央集権に協力すれば、県独自の力が失われてしまう・・・。
久光は、大久保の意見に全く耳を貸しませんでした。
親友・西郷隆盛に至っては、大久保たち新政府を痛烈に批判!!
西郷は、政府の腐敗ぶりに不信感を抱いていたのです。
高額な月収を取り、かつての大名屋敷に我が物顔で住んでいるが、何の成果も揚げていない・・・これでは、泥棒と同じである・・・と。。。

地方のやり方を重視する側からみると、政府のやり方は間違っているのではないのか・・・??
天候不順の上に、政府は財源確保のために、容赦のない取り立てを行っていました。
ふるさと薩摩の痛烈な拒絶・・・
そこで、強制的に藩制を制定。。。
財政のうち・・・10%=知藩事の給料
         18%=軍事費(うち9%は政府に上納)
         72%=藩の運営経費
政府の統制を強化しようとしたのです。

ところが・・・激しく拒絶したのは薩摩藩でした。
薩摩の代表は、鹿児島へ帰ってしまいます。
更に大事件が・・・薩摩藩士の横山安武が、政府の批判を書状に認めて自害!!
これが世間を騒がせ、さらに政府への風当たりがきつくなります。
そして、国外にも衝撃を与えます。

大久保は、再度薩摩藩を説得しようと試みます。
1870年12月、再び鹿児島を訪れます。
さらに関係は悪化していました。
ところが・・・薩摩藩は意外な・・・政府への協力を約束したのです。
西郷隆盛の新政府への参画、3000人の薩摩藩士族たちが御親兵として供出されることが決まりました。
どうして薩摩藩は態度を変えたのでしょうか??
御親兵・・・御親兵の生活費は、政府が保証することで、薩摩藩の財政負担が軽くなったのです。
戊辰戦争から帰ってきた士族たちは、やることもなくくすぶっていました。
彼らに新しい役割を与えると・・・沈静化もされる・・・一石二鳥のことでした。
大久保は、政府と薩摩藩双方に、メリットのある方法を見つけ出したのです。
薩摩藩の協力を得た新政府は、中央集権化に向けて大きな力を得ることに成功したのです。

強力な後ろ盾を得たにもかかわらず、なかなか先に進めません。
中央集権に向けての改革と関係のないところで、大久保と木戸が激しく対立。
大久保は、政府の組織改革を提案・・・しかし、木戸は大久保の案を激しく批判していたのです。
その上、政府の人事案においても二人は対立!!
度重なる対立に、大久保は爆発寸前・・・!!

「動かすべきを動かさずして、動かすべからざるを御動かし、ムチャクチャの御裁断
 なにぶん今日の姿にては、奮発する気も全く失せ果て申し候」

両者の対立はひと月ほど続き、政府は分裂の危機を迎えていました。
その結果、中央集権に向けた改革は置き去りにされてしまいました。

そのことで、大久保が追いつめられる悪循環が発生します。
軍事運営の現場に近い中級官僚による突き上げが始まったのです。
彼らは、政府内の混迷で中央集権が棚上げされることで、軍事・経済の改革が止まることに危機感を強めていました。
今すぐに廃藩置県を断行しなければ・・・!!
そうすれば、廃藩置県を行えば、中央集権が一気に進む??
もし、廃藩置県が断行されれば、藩は無くなりその兵力と財源は国のものとなる・・・これを天皇の命令の元に一気に・・・!!
木戸孝允、井上馨がこれに共鳴!!
そして、まさかの西郷隆盛までもが廃藩断行に同意したのです。
中央集権が足踏みのまま、現状でいる事には西郷も限界を感じていたのです。

「私情においては忍びがたいが、廃藩は天下の世運であり、この流れは最早、人の力では止めることができない」

木戸と西郷、廃藩断行に同意し、残るは大久保のみ・・・
西郷は意見を求めますが・・・ゆっくりと慎重に進めるべきだと考えて来た大久保にとっては、青天の霹靂でした。
どうする・・・??

中央集権が進まぬ今、無策でいては、国の存続すら危うくなってしまう・・・!!
大久保はついに決断します。
「篤と熟考 
 今日のままにして瓦解せんよりは、寧ろ大英断に出て瓦解いたしたらん」
大久保は廃藩置県断行に同意する決意を固めたのです。
7月9日・・・早速断行に向けた密議が・・・出席者は、大久保をはじめとする薩長出身の一部の官僚たちでした。
この計画は、明治維新に貢献のあった諸藩や岩倉具視にさえ知らされることはありませんでした。
実行に当たっての懸案事項は・・・諸藩からの反発!!
井上馨は・・・
「多少の動揺はあると覚悟せねばならぬ
 その時は、兵を用いる必要が生じるかもしれない
 その覚悟はよろしいか」
西郷は・・・
「兵は、我々が引き受ける」
場合によっては血が流れても仕方がない・・・軍事力の行使もやむ負えない・・・。
大久保も不退転の決意で大改革に臨むことになりました。

1871年7月14日、諸藩の知藩事に対し、廃藩置県の勅令が下ります。
天皇の命令という強制力を伴った通達でした。
その結果、全国に260余りあった藩はすべて廃止・・・。
県が置かれることになりました。
密議からわずか6日・・・疾風迅雷のごとくの電撃作戦でした。
急転直下の改革劇に諸藩は・・・??

大久保たちの心配をよそに・・・反発は起きませんでした。
どうして廃藩置県を素直に受け入れたのでしょうか??
廃藩を積極的に受け入れた藩もあったのです。
七戸藩は・・・東京からはるか遠方にあり、不毛の土地がおおく、年貢もあまり集まらない・・・。
このうえは七戸藩を排し、他藩の管轄下に入れて欲しかった。。。
廃藩置県になると、借金は国が肩代わりしてくれました。
抵抗があったものの・・・名より実をとった藩が多かったのです。
廃藩置県を受け入れると・・・知藩事は収入が保障され、安定した生活が得られます。
華族の称号が与えられる・・・武士から見たら、憧れの公家と同じ称号がもらえる。。。
反対する理由はありませんでした。
渡りに船だった可能性も・・・??
多くの知藩事たちが、廃藩置県を厳粛に受け止めるように藩士たちに説いています。

私情を捨て、日本という国に報いる・・・
明治の人は流血を避け、中央集権を成し遂げる重要性を一人ひとり深く理解していたのです。
大久保は、この時の心境について何も残していません。
この反応をどのように受け止めたのでしょうか??
明治政府は悲願だった中央集権の実現に成功し、これを足掛かりに地租改正、徴兵令と、改革が進み、日本の近代化が一気に幕をあけます。



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「何しに京都へ行ったっんや・・・でも、得てして歴史とは案外そういうモンや・・・」

京都に玄瑞の忘れ形見を探しに行って、すぐにUターンしてきた美和を見て、”花燃ゆ”を優しくみている”うちの旦那さん”が言いました。
優しいな・・・
ということで、意地が悪いんだろうか・・・私・・・な、感想です。

遂に・・・前回高杉晋作が死んじゃいました・・・。
久坂に子がいる・・・と、遺言を残して・・・


ああ・・・大政奉還も、出した筈の坂本龍馬の死も・・・
長州なのに、三条実美ら六卿及び毛利敬親父子の官位を復し入京を許されるっていうことも・・・
すっ飛ばし、1868年の・・・戦いの真っ只中にやってきた美和。
人々が逃げまどっているのに逆走・・・!!
決戦のときをレポートしてくれるのかしら・・・??
と、すぐに長州軍のもとへ、元徳様のお薬を持ってやってきました。
これって、早馬で走った方が早くね??と思いつつ・・・
薬を届けると、すぐに夫の忘れ形見を探しに行ってしまったらしい。。。
なんという俊敏さ・・・忍者か・・・
戦場で・・・ひとり辰路を探す美和。。。

大殿は、美和のことを心配しながらなんと倒れてしまいました。

お家のことを・・・久坂家のことを大事に思わないといけないのに、忘れ形見がいることを”全く喜ばない美和”なんですが・・・やっぱり嫉妬はあったでしょうね。。。

「あの・・・長州藩の御本陣にはどうやって行けば・・・」と、逃げ惑う人々に聞いていますが、さっき薬を届けたのが本陣ではないのか・・・??

不逞浪士に絡まれているところを助けてくれたのは・・・なんと、辰路でした。

hana2














脱藩浪士の事も知らずに京都にやってきた美和を助けてくれた辰路。。。

「せわあない・・・」と言った美和の言葉で長州人だということを知る辰路。
この子が玄瑞の忘れ形見なんですが・・・

玄瑞の子を探しに来たという美和・・・引き取れという方もいます・・・という。。。
渡したくない辰路はスルー・・・。

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なんと、この副題・・・ここで終わってしまいました。
ミッションクリア、なんて早いんだ・・・!!

hana4











危ない京都にやってきたことを素彦に怒られる美和。
忘れ形見・秀次郎がいたことを素彦に文句を言っとりますが・・・素彦から養子にもらった子・久米次郎はどうなんねん・・・
文句言ってる場合じゃないでしょう??
おまけに素彦も・・・「俺も探してみよう・・・」と、約束してくれて・・・萩へと帰って行きました。

???もう終わり???と思っている私に旦那さんが言った・・・。
「何しに京都へ行ったっんや・・・でも、得てして歴史とは案外そういうモンや・・・」と。。。

あ~、錦の御旗もう出ちゃったよ・・・。
鳥羽伏見の戦いが終わって・・・元号は明治となったのです。

薩長を中心として明治政府が・・・楫取素彦は、参与となって政治の中心へ・・・!!
となっていますが、木戸孝允や伊藤博文よりも目立っているのは笑止千万、片腹痛い・・・。
本当の素彦は、当たり前ですがこれだけ薩長から中央へ人が出ていったので、手薄となった毛利に・・・殿に仕えて・・・なんですけどね。。。
そうした方が、ビッグネームに対抗できると思うよ・・・。

鳥羽伏見の戦いや、旧幕府軍との戦い、明治政府の基礎よりも、辰路の子の方が重大案件の様で、素彦と木戸が話してますよ・・・。
ま・・・やってくれてもいいんですが、今、世間で何が起こっているのか??
やってくれないとなあ・・・。

遂に、本格的に大殿が倒れてしまいました。
なので・・・大殿のたっての希望で、長州を支えるために帰ることになる素彦。。。

中央には楫取素彦が必要だ・・・!!と、木戸に言われながら・・・惜しまれつつの帰郷・・・
人々は「楫取が帰ってくる・・・!!」と、大喜び。

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あまりの喜びに、こんなの思いだしちゃいました・・・。


「元気が帰ってくる・・・!!」




で・・・帰ってきて病床にある大殿に版籍奉還を勧める素彦。。。

版籍奉還にみんなびっくり!!
木戸もやってきて二人で大殿に進言します。
良かった・・・素彦じゃなくって、木戸孝允がやったことになったわ。。。

これを機に隠居することとした大殿。
「そうせい・・・」の一言で、そうなったのでした。

ちなみに・・・
松下村塾生だった山縣狂介(有朋)、野村靖之助でさえも封建制維持論者で、御堀も木戸に反抗的な態度を示していました。
山縣にいたっては封建制維持の上申書まで提出。。。
木戸は日記で「友人といへども尚、解せざるものあり。心甚苦歎~」と嘆いたといいます。
そんな生みの苦しみ・・・苦悩も描いて欲しかったなあ・・・。

が、まあ・・・長州だけのちまちました支流な作品となってしまいましたね。。。
大河なんですから・・・薩長・・・というからには、大久保や西郷がもっと出てきてもいいと思うんですよね。。。
木戸孝允は、病気や軋轢でフェイドアウトしちゃいますから。。。
そう、それこそが大河・・・。

と思っていたら・・・またもや二人でこれからの明治の世を案じています。

hana3

















新しい日本国を創ることを誓う二人なのでした。

玄瑞の子さえも、育てようと思わない美和・・・
どうやったら、日本を背負う子を育てられるっていうんだ。

玄瑞の遺してくれたものを2人で考えながら・・・天命を探す美和。


「これからは・・・私が傍におる・・・
 お前を支えてやれる・・・」by素彦。

嬉しそうな美和です。。。
これはもう、寿に対する不実でないの・・・??二人とも・・・。
大河の主人公で不倫は駄目でしょう。

「奥も変われば城も変わる、女が変われば男が変わります。」by美和
「女幹事が戻ってきたな・・・」by素彦

ああ・・・何を成したというのだ・・・この2人。
成し遂げたことがあるならば、それを描いて欲しいんですよね。。。


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1877年、東京・上野公園で・・・日本の近代化を象徴する大イベントは行われました。
「第一回内国勧業博覧会」です。
1万4千点が出品され、入場者数は45万人・・・明治日本の殖産興業を内外に示しました。
この博覧会を成功に導いたのは、維新の三傑・大久保利通でした。

1868年1月鳥羽伏見の戦いで幕府軍を倒した薩長・・・その薩摩藩士だったのが大久保でした。
大久保が抱いていたのは、万国対峙。。。迫りくる西欧列強に対し、日本を新たな国にしなければ・・・!!
そして、明治新政府を樹立しましたが、国造りは混乱します。

そして・・・盟友・木戸孝允との確執、各地で起こった農民一揆、薩摩との内乱・・・
そんな大久保の一大転機は・・・欧米視察でした。
日本の進むべき道は、殖産興業による富国策を考えます。
明治維新の大義とは一体なんだったのでしょうか?


1868年3月・・・討幕を果たし、新政府を誕生させた大久保たちは、新しい国造りの理念を宣言します。
「五箇条の誓文」です。
天皇を頂点とし・・・
”広く会議を興し、万機公論に決すべし!
議論を重視した国家を目指しています。

しかし、高い理想を掲げたものの・・・実際に新政府を支えていたのは藩や藩主、旧勢力が残っていました。
総裁は有栖川宮熾仁親王、議定は・・・藩主・島津忠義(薩摩)、山内豊信(土佐)、浅野長勲(安芸)、松平慶永(越前)、徳川慶勝(尾張)・・・と、参与として藩士・大久保利通、西郷隆盛、後藤象二郎・・・だったのです。


財源と軍事力をどうする??
財源は・・・全国の総石高は3000万石で、そのうち新政府の財源は徳川家の直轄地だった800万石でした。
軍事力は・・・薩摩、長州などの雄藩からの軍隊のみ。
統一した軍事行動などできませんでした。
どうやって西欧列強に立ち向かう・・・??

木戸孝允が抜本的な改革案を打ち出します。大名から土地と人民を天皇に帰し中央集権化をはかる”版籍奉還”です。

1869年6月版籍奉還を布告。
ところが・・・藩主は知藩事として藩の統治を認められ、版籍奉還は骨抜きに・・・
そこには・・・大久保の逡巡がありました。

「領土領民は”奉還”することが”至当”
 しかし、”時勢”がまだ熟していないので、”一部返上”にとどめるべき」by利通

いきなり既得権益を奪ったら、反乱になるかも知れなかったからです。
薩摩のことを危惧していたのかもしれません。

政府を維持していくためには、藩主たちの協力が必要だったのです。
改革は少しずつ進めなければ・・・
しかし、財政はひっ迫・・・1869年7月直轄地で農民一揆が起こります。
版籍奉還が骨抜きになったので、直轄地に重税をかけたせいでした。

さらに大凶作・・・一揆は全国各地に拡大します。その数11件!!

「民衆の多くが、新政府に不審を抱き、うらみの声をあげている」by利通

状況を打開しなければ・・・!!
助けを求めたのは、島津久光でした。
説得するために、1870年大久保利通鹿児島に帰郷。
ところが・・・結果は燦々たるものでした。
藩の解体に関わることをしていると大久保を痛烈に批判します。

説得にも耳を貸さず・・・皇居の護衛をしていた薩摩兵1000名を撤退させると対決姿勢を鮮明にします。
一触即発でした。
薩摩藩のクーデター・・・??内乱の危機・・・??
1871年7月・・・秘密裏に解決策が・・・??
山県有朋と野村靖が作成した方策は・・・藩そのものを解体するほか道はないのでは・・・??
大久保も同意せざるを得なく・・・廃藩クーデターを画策します。

西郷と山県は、新兵の協力を取り付け、藩への抑止力とします。
そして・・・この命令を出来る唯一の人は・・・明治天皇でした。

「篤と熟考 今日のままにして瓦解せんよりは寧ろ、大英断に出て瓦解いたしたらん」by利通

1871年7月14日天皇が廃藩置県を命じます。
各藩からの抵抗は思ったほどではなく・・・戊辰戦争の戦費拠出、藩財政が破たんしていたのです。
大久保たちが藩主に出した提案は・・・借金について、政府がそれを保証するというものでした。
士族に家禄(給料)を給付することにしたのです。
こうして、旧藩主・知藩事たちは、東京に集められます。
全国に261藩ありましたが、3府72藩と再編され、各地へ府知事・県令が派遣されたのです。
新政府の支配は地方にまでおよび、中央集権化が成されます。
地租改正・国民皆兵制とつながります。

1871年11月岩倉使節団として派遣されます。
不平等条約の改正と近代化の調査を目的としたものでした。

産業革命で経済発展をし、超大国となって繁栄していたイギリス。。。
4か月で10都市を訪問し、産業の仕組みを視察します。
徹底的な機械化に・・・鉄鋼・紡績に・・・鉄道網に・・・世界の工場として発展していたイギリス。。。
西欧列強に勝つためには、殖産興業で国力を高めなければ・・・!!と思うようになります。

国家主導で産業を保護育成しようとします。
1873年5月26日帰国・・・しかし、新政府が内部分裂・・・。
事の発端は、西郷隆盛ら留守政府が進めていた征韓論でした。
大久保たちが不在の間、朝鮮との国交樹立を要求していたのです。
受け入れられなければ戦争も辞さない・・・!!

そんな西郷に、大久保は異を唱えます。
経済発展をすすめる・・・内地優先だ!!と、
閣議決定されたのは、西郷の挑戦派遣が閣議決定??
しかし、岩倉具視と画策し、水面下で説得します。
1873年10月24日、明治天皇の裁断によって西郷の朝鮮派遣が延期となります。
破れた西郷は辞職し・・・下野しました。
板垣退助、江藤新平も新政府を去っていきました。

1873年11月大久保は巨大組織・内務省を作ります。
大久保利通は、初代内務卿に就任し、権力を手にしました。
大蔵卿には大隈重信、工部卿には伊藤博文。。。
大久保に賛同する面々・・・大久保専制体制を樹立させます。
それは、強烈は批判の的となっていきます。
1874年1月17日板垣退助らが意見書を提出しました。
厳しい批判にさらされる大久保。。。

絶対的な内務省の力で殖産興業する??
国民の意識も変えなければ・・・!!

”産業力とは、人民の工業を政治が育成し、怠惰な者は一人も生まず、
 国家の富強に邁進させることである。 
 列強と肩を並べることは可能なのだ”


板垣や江藤は、議会創設を求めます。
「今、政府の実態は”天皇”にも”人民”にもない
 ただ”有司”すなわち官僚の手中にあるのみだ
 言論は抑圧され、国家はまさに崩壊必至のただ中にある
 これを救うには、民撰議員”議会”を創設し、天下の公議を広く起こし、官僚の手から政治を奪い返すほかない」

木戸孝允も、明治維新の理念「万機公論」を唱え、議論と議会による国政を!!と、大久保に対抗してきました。
その声に応えるべきなのだろうか・・・??

殖産興業か・・・?議会創設か・・・??
大久保利通は、日本の未来の大きな分岐点に立たされていました。
新政府の分裂の危機にどう対峙するのでしょうか??

内務省による殖産興業に舵を切った大久保は、国際競争力のある生糸に・・・
内務省の管轄となった富岡製糸工場を拠点とし、イギリスのような貿易立国を目指します。
貿易のために海運業を発達させます。
国家予算の6%を、岩崎弥太郎の三菱汽船会社に投資、岩崎は外国の汽船会社を一蹴しました。
貿易商・三井物産の開業を支援、生糸の製造、運搬、販売・・・と、ルートを作っていきます。
その結果、1909年には、生糸の輸出量が世界一となります。

しかし・・・大久保の内務省による殖産興業には、問題もありました。
民が育ってきたなら払い下げる・・・つまり、政と民の癒着問題です。
さらに大久保は、銀行の設立!!
しかし、銀行設立には莫大な資本が・・・!!
そこで目を付けたのは、士族や華族の給料・家禄でした。
当時、家禄は政府歳出の26%を占めていました。

そこで、大久保と当時の大蔵卿・大隈重信は、現金での家禄の支払いをやめ、金禄公債による5年据え置き30年償還の債権での支払いとし、その資本が銀行設立の資本となったのです。
明治11年には、銀行は153行を数えるまでになりました。

しかし、この公債での支払いは、華士族の家計を直撃します。
元本がいつ支払われるかはわからない・・・
大部分の士族が困窮していったのです。
たとえ維新の功績のあった士族であったとしても・・・!!

1876年3月廃刀令施行。。。
財産も誇りも失った士族たちの不満はピークに達していました。
1876年10月、神風連の乱を皮切りに、秋月の乱、萩の乱・・・
そして・・・1877年2月・・・大事件・・・西南戦争勃発です。
共に幕末に命を懸けた盟友・西郷隆盛率いる薩摩士族たちの一斉武装蜂起・・・。
戊辰戦争にも匹敵する内乱となってしまいました。

しかし、その最中でも、殖産興業の手は緩めませんでした。
8月第一回内国勧業博覧会開催。
会場となった上野には、6つのパビリオンが・・・
その成果が発表されました。

ここで発表された臥雲辰致が発明した”紡績機・ガラ棒”は、この展示をきっかけに各地に普及することになります。
博覧会には、各地の産業を競わせるという意味もありました。
出品された作品は、1万4000点、入場者数45万人・・・。
大成功を博したのです。

9月24日・・・西郷の自刃によって西南戦争終結。。。
それは、この博覧会の会期中の事でした。

そして・・・突然の悲劇が・・・!!
1878年5月14日紀尾井町の清水谷で大久保利通は不平士族に襲われ暗殺・・・志半ばの死でした。
翌年・・・満20歳以上の男子に選挙権を与える地方会議が・・・。
これは、大久保の死の2か月前に提出された上申書に基づいていました。
殖産興業のためにも、民の自治を考えていた大久保。。。
地域の代表者が政治に参加できるように・・・。

明治維新の理念「万機公論」・・・大久保は、地方から実現させようとしていたのかもしれません。

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慶喜といえば、大政奉還によって幕府から政権を独断で朝廷に返還。。。
そして新政府軍との戦いに敗れたアンチヒーローとして知られていますが・・・
その政治手腕が再評価されてきています。

慶喜失くして明治維新は実現しなかった???
慶喜は、歴代将軍にはなかった指導力で、内政、外交に手腕を発揮し、諸外国に日本の新たな国王として高い評価を得ていました。

今まで幕府の敗北宣言だとされてきた大政奉還・・・
新体制を掌握しようという野心が伺えます。
しかし・・・そんな慶喜を排斥しようと・・・王政復古のクーデターが起こります。
薩摩藩士・大久保利通を中心とする討幕の志士たちによって武力討幕が行われたのです。

慶喜はクーデターを事前に察知していた???
予期せぬ事態に対する慶喜の葛藤とは???

江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜は、英雄というイメージよりも敗者のイメージが強いのですが。。。
幕末史の影のヒーロー・・・只者ではなかったようです。

1866年12月5日 慶喜、江戸幕府第15代将軍に就任
この時、江戸幕府の権威は風前の灯でした。
問題のひとつは・・・開国問題。
孝明天皇は、外国との国交に断固反対していました。
開国路線をとる幕府の外交は暗礁に乗り上げてしまったのです。

長州征討も泥沼化・・・外交も内政も混乱の一途をたどっていたのです。

慶喜は起死回生に・・・
外交は・・・通商条約の勅許をもらおうとします。
一旦開港していた横浜を鎮港し、孝明天皇を懐柔し、勅許をえるのです。
その外交力に脅威を覚えたのが、島津久光。。。
幕府に独占されていた貿易に参加することによって利益を得ようと考えていたのです。

孝明天皇がなくなると、開国に舵を取ります。
兵庫の開港問題には・・・
自らの権限で兵庫を開港すると公約します。
自ら最前線で外交をする慶喜に、諸外国は絶賛の嵐。。。

その結果、外交交渉や通商は、幕府主導で進んでいきます。
久光ら大名たちを抑え、外交主導権を掌握する慶喜。

失墜した幕府の力を回復させていきます。
慶喜に求心力が・・・!!
慣例にとらわれない慶喜は、写真にも興味を示し、自らモデルとなっています。

yosinobu

この肖像写真を外交に使います。
自分の肖像写真を各国君主と交換したのです。
日本の新しい国王であるかの景気の姿・・・
しかし、その力を脅威と感じ、退けようとする勢力が水面下で動き出していました。
薩摩藩士・大久保利通、西郷隆盛、公家・岩倉具視・・・武力討幕派です。


慶喜が率いる幕府を力でねじ伏せるために・・・討幕の密勅をあみだします。
日本を滅ぼしかねない賊臣・慶喜を殲滅せよ!!
武力蜂起の極秘命令が下されたのでした。


しかし・・・慶喜は1867年大政奉還をし、大久保たちを驚愕させました。
大政奉還によって、大久保たちの大義名分が失われてしまったのです。
将軍自ら、政権を天皇に返すことによって、倒すべき幕府そのものを無くしてしまったのです。
大久保たちの討幕計画は中止されてしまいます。

これまで、慶喜の敗北宣言のように思われてきた大政奉還・・・
しかし、そこには思惑があったようです。
慶喜が朝廷に政権を返した時の建白書によると・・・
慶喜は政権を返すのは、日本を海外列強と同じような国家に生まれ変わらせるため。

「これからも、国家のために尽くせるのなら、これに勝る喜びはありません。
 全国の諸大名にも、将来の国づくりに意見のある者は、この慶喜に申し出るよう命じてあります。」

と、書かれています。

政権を返上しても、国政には携わり、諸大名からの意見も自分が取りまとめていく・・・
実質的に幕藩体制を維持した新体制を、朝廷に訴えていたのでした。

日本の政治そのものを変えていこうという気持ちが感じられます。

しかし、その後・・・時代は未曽有の大政変劇へ・・・!!


大政奉還によって、武力討幕派の機先を制した慶喜は、自らの指導する新体制を着々と実現しつつありました。
大久保たち武力討幕派は、決死の手に出ます。
王政復古のクーデターです。

慶喜を追い落とすには、天皇の力しかない!!
天皇親政を実現し、慶喜を排除するしか方法はなかったのです。

その為には・・・若き明治天皇を手中に収めなければ!!
明治天皇の外祖父・中山忠能を通じ、天皇の懐柔に極秘裏に成功します。

クーデター当日は薩摩の兵で御所を封鎖!!
西郷隆盛の指揮のもと、新体制を作ろうと目論んでいました。
慶喜と大久保とでは、思い描く日本の未来がかけ離れていたのです。

従来の身分制を無くしたい大久保たち下級武士は、将軍家を無くすことで大改革を実現しようとしていたのです。

クーデター直前・・・前越前藩主・松平春が、藩主に宛てた手紙には・・・
大久保たちのクーデター計画が、慶喜に漏れていて・・・対抗策を練るように書かれています。

「薩摩の大久保・西郷・公家の岩倉具視らが密謀を企てている
 ともすれば、京都に戦争が起こるかもしれない
 しかし、英明な慶喜公のこと、必ずや策を講じ、薩摩の計画を失敗に終わらせてくれるに違いない。」

慶喜の排除を目的に行われているクーデター計画・・・
慶喜どうする??


①武力鎮圧策
この時京都には、会津藩、桑名藩併せて5000の兵力があり、大久保たちを圧倒していました。
慶喜側からクーデターを起こし、薩摩を京都から追い出すのです。
しかし、京都が焼けてしまう。。。
国内に内戦がおこるかも知れない・・・
そうなると、欧米列強の内政干渉もあり得るのです。

②静観策
今、優先すべきは、日本に内乱を起こさせないことだ。。。
各藩にもそう書簡を送っています。
大政奉還を行った私に、どうしてことを起こすのだ。。。
武力を使わなくてもいいのでは???


慶喜は、新政府の主導権をかけた戦いにどう対処していくのでしょうか?
事態を静観する・・・でした。


京都に戦乱が起きないことを優先したのです。
12月9日早朝、クーデター計画は実行に移されます。
薩摩藩兵が御所の紋をすべて封鎖!!
そして、明治天皇による大政復古の大号令が出され、天皇を中心とする新たな体制が樹立されたのです。
新政府には、皇族をはじめ、公家、諸大名、各藩の有志が入閣・・・
しかし、そこには慶喜の名前はありませんでした。
おまけに、慶喜に組した摂関家の廃止・・・

慶喜にとって厳しい状況が生まれたのでした。

この時、京都が火の海になることを怖れ、慶喜は、会津・桑名両藩を、大坂に退去させています。
議会を進めていた大久保によって、慶喜の辞官納地がなされ、徳川の天領800万石は没収となったのです。
新政府の財源になるとのことでした。

すると、諸大名にも疑念が起こってきます。
王政復古の目的・・・それは、大名制の廃絶なのでは???
不協和音が・・・慶喜の復活を願う声が出てきたのです。

1867年12月24日、慶喜が新政府議定職に決定。
新政府に迎え入れることが決定したのです。
この事は、大久保に最後の覚悟を決めさせたのです。

「もはや、薩摩一国となっても、一戦交えるまでだ!!」

この時、薩摩藩浪士たちが、江戸市中を放火やテロ行為で攪乱!!
挑発に乗った庄内藩が、薩摩藩邸を焼き打ちしてしまいます。

藩邸を襲われたことで、薩摩藩は武力討伐に!!
戦闘準備に入ったのでした。

慶喜のいる大坂でも、会津藩・桑名藩が爆発!!
慶喜の手に負えなくなってきたのです。

1868年1月3日鳥羽伏見の戦い勃発!!
薩長新政府軍と旧幕府軍との戦いになりました。
そして、慶喜にとっては最悪なことが・・・
薩長軍の掲げた”錦の御旗”です。
慶喜は、朝敵となってしまったのでした。
慶喜側は、総崩れ・・・わずか3日で敗走!!

それでも大坂城の会津・桑名藩は、戦意は喪失しておらず、当時最強と言われた幕府海軍を、江戸から大阪湾へ持って来れば、勝機はまだある!!

驚愕の事態が起きたのはその時!!
大坂城で戦う旧幕臣たちを残し、慶喜は江戸へ向け船で脱出したのです。

一体なぜ??

時代の流れに押し流されたという諦め???
下品、なりふり構わず・・・ということができない人だったのでしょう。

朝敵となった慶喜は、鳥羽伏見の戦いの後、旧幕府軍を置いて江戸に帰還・・・
上野の寛永寺に入り、自ら2か月謹慎したのです。
再起を求める声があったものの・・・戦いを避け。。。

江戸に向かう新政府軍に書簡を送っています。
「今回の事態は、まさにこの慶喜の至らなさが引き金であり、どのような処分も受ける覚悟でいる。
 何の罪もない江戸の庶民に苦しみを与えることだけは止めて欲しい。
 すべての罪が、この慶喜にあり罰するのであれば、この私だけを罰してほしい。」

内乱を避けられるのであれば・・・!!

その後、全国に内乱が広がることはなく戦争は終結。。。
ここに徳川の時代は潰え・・・明治新政府の時代が始まるのです。

大久保たちは、藩籍奉還・廃藩置県・秩禄処分・・・何百年にもわたって行われてきた封建制度を一掃したのです。
不平を抱く旧士族から、徳川再興を求めた時も、慶喜が政治的発言をすることはなく・・・旧幕臣が近づくことも良しとしませんでした。

その後、慶喜は、狩猟・油絵・写真・・・趣味人としての生活を40年送るのでした。
政治とは全く無縁の生活を送ったのです。

慶喜の汚名が晴れたのは、明治維新から30年以上も後・・・
明治31年には明治天皇に拝謁。
涙を流して喜んだと言われています。
明治35年公爵綬爵。
それは、慶喜が維新の功労者であるということを、新政府が認めたことを意味していました。

負けを徹底的に受け入れること・・・
受け入れがたいものを受け入れるのが自分の役割・・・

yosinobu2
大正2年11月22日病によって亡くなります。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた。
 私は、その幕府を葬り去るために将軍となったのだ。」

明治維新の犠牲者は、世界的に見てもとても少ない・・・
それは、慶喜の功績なのです。 

”不作為を持って英雄となり
   科目を持って政治を変えた”
慶喜なのでした。


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今回のTHEナンバー2は、”逃げの小五郎”です。

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1833年6月26日、山口県萩市に生を受けます。
それは、大久保利通、西郷隆盛と並ぶ、明治維新の三傑の一人、桂小五郎(木戸孝允)です。
要衝の頃からずば抜けて聡明だった小五郎は、幕末には稀な、先見の明を持った人物でした。

西郷、大久保、坂本龍馬・・・明治維新に関わったほとんどの人が下級武士です。

一方、小五郎は、上級武士のエリートで、幕藩体制を守る立場にありました。
しかし、廃藩置県・版籍奉還・五箇条の御誓文・・・

武士の世を終わらせる政策を打ち出します。

この改革こそが、短期間で日本を近代化させる原動力となりました。

小五郎は、松陰に宛てた手紙に書いています。
「人の功を取って
  我が拙を捨て
 人の長を取って
  我が短を補う」    By桂小五郎。。。

吉田松陰の一番弟子と言われる小五郎。
吉田松陰が、長州藩の藩校・明倫館の時に、もう教えています。

久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文・・・松下村塾の塾生とは違うのです。

小五郎は、武士ではなく、医者の和田家に生まれます。
8歳の頃、200石の上級武士の桂家に養子に出されました。

武士になったことで、明倫館に通えるようになった小五郎、この明倫館で、自らのNo,1と出会います。
そこで兵学を教えていたのが吉田松陰でした。

剣の修業にも熱心に行った小五郎、20歳になると、藩で1,2を争うようになり江戸に剣術修行に。。。


江戸で小五郎が出会ったのが、神道無念流。
さらに、剣の腕を上げます。
しかし、最も感銘を受けたのが、神道無念流の思想でした。

「武」という漢字には、「戈(ほこ)」を「止」めるという意味が隠されている。本当に強い力は、相手を倒すのではなく、争いを止めることにある。という考え方をするようになります。
この慎重なところが、逃げの小五郎に繋がっていくのです。

江戸にいたことが、小五郎の運命を変えることになります。

1853年ペリー来航。
鎖国にこだわる日本が、時代遅れになっていることに気づきます。

この時代、日本の限界を感じている人が2人いました。一人は坂本龍馬、そしてもう一人は小五郎の師・吉田松陰。吉田松陰は、藩を代表する学者でしたが、ペリーを見に行き・・・

「どうしても欧米を見たい!!」

と、黒船に密航し失敗、投獄の憂き目にあいます。

一方、小五郎は、神道無念流の無謀を戒める教えを守ります。日本にいながら西洋を学ぼうとしました。

吉田松陰は獄中から、小五郎を登用するように長州藩に手紙を書きます。それがきっかけで、外交の重要ポストに就きました。
剣の道から、政治の道へと方向転換です。


吉田松陰は・・・
「俺は死んでもいいから、誰かがやらねばならぬ」
と、失敗を考えない人でした。そんな人間は臆病になる。。。と。

「かくすれば かくなるものと しりながら
                己むに己まれぬ大和魂」   By吉田松陰

この言葉が、松陰の人となりを良く表現しています。

そんな松陰は、長州に対して、小五郎の冷静で沈着な部分を推薦したのです。

藩の外交官となり、藩主・毛利敬親のNo,2を目指すことになります。

討幕を目論む長州藩の外交官・桂小五郎は、幕府にとってはとっても危険な人物です。

まず、「桂を斬る」と言ったのは、新選組でした。

その発端は、8月18日の政変。
長州では、討幕の機運が高まります。

新選組は、京都を取り締まっていました。長州・・・特に、小五郎をターゲットにしていました。

1864年新選組は池田屋を襲撃、世にいう池田屋事件です。

小五郎は、襲撃に気が付くと、仲間を見捨てて命からがら逃げだしました。
池田屋事件に怒った長州は、軍を率いて京都に上ります。
対立する会津・薩摩・幕府軍と戦うも、返り討ちに遭います。これが、禁門の変です。

この時も、小五郎は藩の中心人物であったにもかかわらず、最後まで姿を見せませんでした。

剣豪は一転、「逃げの小五郎」となったのです。
逃げれば逃げるほど執拗に幕府軍に追われる小五郎。。。
そんな小五郎の逃亡生活を支えたのが、芸者(のちに夫人)の幾松でした。
当時の旅館には、隠し扉などが残っています。

小五郎は、禁門の変は無謀だと思っていました。
もちろん、先頭に立っていた「久坂玄瑞」も。。。反対していた玄瑞は、負けると解っていても参加した組なのです。

この禁門の変は、非常にまずい事態を巻き起こしました。
御所に向かって発砲してしまったので、朝敵となってしまったのです。。。
川の下でのホームレス生活。。。筵にくるまって逃げまくる小五郎の姿がありました。

逃げに逃げる小五郎の、本当の勝負がここから始まりました。


それは、薩長同盟。この同盟が、265年続いた江戸幕府に終止符を打つ原因となりました。

この同盟には不思議な問題があります。。。
朝敵となってしまった長州が、薩摩と対等に近い同盟を結ぶことが出来たということです。。。
そこには、小五郎の交渉術がありました。

立場的には弱かった長州、大変難しいが、粘り強く交渉します。
その交渉が始まったのは、1866年1月。

上に立ちたい西郷からは、同盟を言い出しません。
小五郎から言い出した場合・・・藩の面目丸つぶれ、という苦しい立場にありました。
作戦は「だまる」こと10日以上。

悠然と余裕綽々と構える西郷に対して、針のむしろ状態の小五郎。。。


そこには逃げない小五郎の姿がありました。
長州の未来を懸けた沈黙。。。その間桂が待っていたのは坂本龍馬でした。

坂本龍馬が親交のあったグラバー。武器商人だったグラバー頼りの新型の武器。。。

龍馬が前に現れた時、小五郎は帰り支度を始めます。

「誇りを捨てて薩摩に媚びるくらいなら、長州は滅びても良いのだ!!」

桂の気迫が、龍馬に西郷を説得させ、薩摩から話を持ちかけさせるようにしたのです。

対等な同盟を求める小五郎に西郷は・・・一言。。。

「ごもっともでごわす」

この薩長同盟が、江戸の終焉を迎えさせ、明治維新へと繋がります。

しかし、難しい交渉でした。
禁門の変で長州の武闘派の殆どが薩摩にやられています。
おまけに指揮をとっていたのは西郷でした。
長州には、殺された者たちの親族がたくさんいました。
だから、頭を下げることは出来ないのです。
下手に出るわけにはいきませんでした。
この薩長同盟、小五郎でなければ結ばれることはなかったでしょう。

幕末維新、松下村塾の塾生が活躍します。

そして、維新後、日本の未来を小五郎が切り開きます。

初めの仕事は、五箇条の御誓文の最終添削。
また、武士の特権を削っていきます。

版籍奉還・廃藩置県

殿さまがいなくなりました。

当時は大義は国ではなく、藩の大名に対して尽くすもの。
それを国民が、日本を考えるようにしました。
国民が国のことを考えないと、近代化は出来ません。
選挙も出来ないのです。
これは、仕えていた藩主を含め、全ての大名の地位が無くなるものです。
心理的にかなりの抵抗があったと思われますが、近代化のためには必要でした。

武士だった小五郎・・・。
どうして既得権益を否定することが出来たのでしょうか?

それは、武士とか、身分制ごとかでなく、新しい価値観で世界を見、人間を見ていたからでしょう。

小五郎の思いが掛け軸にあります。

「我が国の前途は容易なものではない
 三千万人の人民をどのようにしてゆけば良いのだろうか。」

1871年岩倉使節団の一員として各国を回ります。
帰国後文部卿に・・・。

身分に関係なく、学校に通えるようにつくします。
それは、師・吉田松陰の夢の続きだったのかもしれません。。。


何故下級武士でもないのに、そんなことが出来たのでしょうか?
長州はもともと平等な国でした。
おまけに小五郎は医者の息子、医者にとって病人は平等です。

奇兵隊は身分に関係なくの隊ですが、関ヶ原までは武士だったという人が多いのです。
関ヶ原で負けた長州の人々は、武士を捨て、農民になった人も多かったので、身分制度もはっきりしていなかったのでしょう。
現在までの総理大臣に山口県の人が多いのも、松下村塾があった影響が強いと言えます。

武士の世を終わらせた桂小五郎。
武士として死んでいったかつての仲間たちへの思いが・・・

京都にある霊山護国神社。ここには、幕末の志士たちが多く葬られています。
その一番高いところに小五郎の墓があります。

それは、自らが望んだものでした。

池田屋事件・禁門の変で亡くなった人と共に・・・。

吉田松陰の考えを実践した小五郎は、仲間たちと共に眠っています。


桂小五郎さん、幕末維新にかけてのインパクトがあんまりないのですよね。。。
それはやっぱり”逃げの小五郎”だからかしら・・・。失恋
本当に、筵にくるまれて逃げているっていうか、ホームレスしているところか・・・
あとは、幾松にかくまってもらっているぐらいしか覚えていないんですよね。。。


まだまだ勉強不足かしら?

日本で初めての身分を越えた結婚をしたのが桂小五郎・・・
本当に最初の新婚旅行は桂小五郎が幾松と城崎温泉に行ったとか・・・。黒ハート

逃げてないじゃん!!小五郎!

新選組に代表される”滅びの美学”良いですよね。。。
でも、きっとそれじゃあ、国家は築くことは出来ないのは確かでしょう。黒ハート

小五郎さんも、頑張って勉強します。黒ハート

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