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シリーズ日本のインパクト~2~です。
6世紀~8世紀に朝鮮半島の百済から仏教が伝わりました。
仏教との出会いは、人々にとって衝撃でした。
それまでの日本の神々は、万物に宿る八百万の神。。。霊的な存在でした。
突然現れた、姿かたちのある黄金に輝く神々は・・・
受け入れるかどうか・・・で、大和朝廷は大分裂!!
蘇我氏VS物部氏との半世紀にわたる戦いとなりました。
”仏教伝来”以前の日本人の宗教心は・・・???
自然の山・森・・・だったのが、その信仰対象が自然から人形のものに。。。
今まで見えなかった神が、見える神となったのです。
では・・・何を持って仏教伝来???
以前から入っていた可能性はありますが、仏教公伝・・・百済から日本に・・・政府間でもらってしまったことから始まりました。
長野県・善光寺には、日本初の仏像が安置されています。
その仏像は、絶対秘仏とされ、誰も見ることができません。
しかし、その雰囲気は、江戸時代に作られた「善光寺縁起絵伝」に描かれています。
朝鮮半島・百済の聖明王から伝えられた仏教・・・
ところが、縁起に描かれている仏像は、川に投げ捨てられたり、焼かれたり・・・木づちで壊されているものもありました。
日本書紀によると・・・仏教を巡る一大抗争が浮かび上がってきます。
仏教を礼拝するかどうか???
当時天皇は、司祭のような存在でした。
そんな天皇が、異国の神を崇拝しても良いものか???
代々王家に従属する豪族・物部尾輿は、
「外国の神を礼拝すれば、日本古来の神の怒りを招くでしょう。」と猛反対。
自制部門を司る豪族・蘇我稲目は、
「ほかの国はみな、礼拝しています。
日本だけが背けますでしょうか?」と、賛成しました。
廃仏派物部氏VS崇仏派蘇我氏・・・
両者は真向から対立し、血で血を洗う崇仏論争が始まりました。
半世紀にわたるその戦いの結果、物部守屋は討ち死にし、崇仏派・蘇我馬子が勝利しました。
というのが、定説でした。
しかし、この抗争の原因は仏教ではない???
崇仏論争は架空のお話???
というのも、物部氏は親百済派でした。
だから、仏教に対して冷淡ではなかったというのです。
その根拠は・・・
①仏教国・百済との緊密な関係。
日本書紀には、物部氏の百済王に仕える日系人の記録が残っています。
物部氏の子孫が、日系百済官人として活躍していたのです。
②実は仏教寺院を建てていた???
大阪府八尾市渋川天神から礎石が発見され・・・巨大な仏教寺院があったようです。
河内の地は物部氏の本拠地・・・仏教と関わりが深かったと考えられます。
むしろ崇仏派のようです。
では、その争いは???
”渡来人の掌握”でした。
当時、たくさんの渡来人がありました。
その遺跡は、奈良・大阪で30カ所以上。。。
中でも有力だったのが、飛鳥・蘇我氏の東漢(やまとのあや)と、渋川・物部氏の西漢(かわちのあや)です。
渡来人縁の東漢の遺跡では・・・
古代の床暖房・オンドルを使いこなし、金はしを使って鉄器生産を行っていました。
それは、当時の最先端技術。。。
その中には、仏師もいました。
西漢は・・・新羅の国の接待など外交官の役目をしていました。
優秀な技術と知識を持つ渡来人たち・・・自らの勢力拡大をするために・・・
必要だったのが、仏教。。。
仏教を保護し、帰依する・・・それが、渡来人との結節点となったのです。
日本最初の本格的仏教寺院・飛鳥寺には、飛鳥大仏があり・・・日本で一番古い大仏です。
飛鳥寺の発案者は、蘇我馬子。。。一大国家プロジェクトでした。
金の装飾品や勾玉などがあり・・・日本の伝統的な古墳文化と外来の仏教文化の融合だと思われていましたが、韓国の王興寺でも同じような金の装飾品・勾玉が発見されています。
つまり・・・百済の強い影響を受けていたのです。
建物の並び方・・・一塔三金堂の造り、瓦も王興寺の影響と言われています。
そして、この王興寺を建てた人物こそ聖明王の長男・昌王・・・百済王だったのです。
飛鳥寺は日本独自のものではなく、百済の技術者派遣によって造られたものだったのです。
6世紀の古代ニッポンに忽然と出現した飛鳥寺。。。
その姿は・・・???
金堂に安置されていたのが飛鳥大仏。
この大仏が日本の技術発展に多大な影響を及ぼしました。
金銅仏は鋳造技法。・・・技術が発達していきます。
建築技術も発達し、高層の木造建築が可能となりました。
赤や緑の鮮やかな色彩・・・。自然の色とは違う趣に圧倒されます。
ここから日本の技術発展が始まる・・・まさに文明開化だったのです。
どうして百済は飛鳥寺建立に力を注いだのでしょうか?
当時百済は、高句麗・新羅と領土問題で対立していて・・・日本に仏教や技術を伝える代わりに、強固な同盟関係を望んでいたのです。
では、日本はそれにどう応えたのでしょうか???
書物には、
「蘇我馬子と2人の息子、及び従者百人あまりはみな髪を分け、百済の服を着た」
とあります。百済との外交を宣言したのです。
この後、ニッポンは東アジア社会へと船出していくことになります。
しかし、初めは外交のツールとして使われていた仏教・・・担い手は、貴族階級でした。
そんな中、仏教が民衆に浸透するきっかけとなったのが、”東大寺大仏の建立”でした。
仏教伝来から200年後のことです。
発案したのは、時の天皇である聖武天皇です。
それは・・・平城京に都を移した苦難の時代でした。
政治は乱れ、飢饉や疫病が蔓延していました。
民に幸福をもたらすために、仏教を使います。
巨大仏像を!!
計画されたのは、高さ15mにも及ぶ世界最大級の大仏です。
聖武天皇は、この巨大な大仏を建てるために・・・建設地を求めて流転します。
そんな天皇を支えたのは行基でした。
行基は、父は百済王の王子・王爾(わに)の子孫、母は百済から渡来した蜂田家の家系でした。
そう、行基は渡来人の末裔で。。。自らが持つ渡来系ネットワークを駆使していました。
多くの民衆の智識を駆使して、貯水池・橋・・・色々なものを作りながら、仏教の教えを広めていきます。
行基の下で働くことは、徳を積むことになる・・・
そこで、聖武天皇は協力を仰いだのです。
幅広い層の人々が大仏づくりに参加して・・・それが仏教の大きな転換点となり。。。
信仰心は一貴意に孝あまり、仏国土・日本が確立されていきました。
752年大仏開眼法要が行われました。
そして、ここから新しい日本が始まるのです。
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