今からおよそ1400年前から1100年前にかけて、木造の船で風を頼りに男たちが命がけで大陸を目指して海を渡りました。
世に言う遣隋使と遣唐使です。
当時、東アジアで強大な勢力を誇っていた隋と唐に派遣された使節団です。
飛鳥時代から平安前期にかけて300年もの間続けられた一代国家プロジェクトでした。

遣隋使を初めて派遣したのは、日本初の女性天皇・推古天皇を頂点とするヤマト王権でした。
長らく交流がなかった古代中国に強大な統一王朝隋が登場!!
この隋と国交を結ぶための使節派遣でした。
そして、この国家プロジェクトを任されたのが、推古天皇の甥で摂政だったと言われる厩戸皇子(聖徳太子)です。
こうして、西暦600年、第1回遣隋使派遣となります。
その船は、現在の大阪の難波津から出航しました。
北九州を経由して、朝鮮半島にわたり、黄海を横断し、山東半島に上陸したと推測されています。
その船には誰が乗っていたのか?いつ帰ってきたのか?日本には記録がありません。
600年から・・・
①600・・・不明
②607・・・小野妹子
③608・・・小野妹子
④614・・・犬上御田鍬
と、4回行われていますが・・・②~④は、日本書紀に記されています。
どうして「日本書紀」に1回目の遣隋使派遣の記述がないのでしょうか?

第1回遣隋使について唯一描かれているのが中国の歴史書「隋書」倭国伝です。
そこに書かれているには・・・倭国から来た使者に隋の初代皇帝・文帝はこう聞きました。
「倭国はどのような国か?」
「倭王は天が兄で太陽が弟です
 夜明け前に政務をはじめて、日が昇るとあとは弟に任せます」
一説には、これは倭王を明けの明星にたとえ、隋の皇帝を天とするならば、倭王はその下で輝く金星だと言いたかったのだと言われています。
ところが、通訳が拙かったのか意味が伝わらず、文字通りに受け取った文帝の怒りを買ったともいわれています。
中国では天は唯一の物で、天の命によって皇帝が決まるという考えで、皇帝は天ではありません。
文帝は「はなはだ義理なし」とし、中国的なやり方に改めるように指導したともいわれています。
文帝は倭国を未熟で野蛮な国だと門前払いをし、日本は大恥をかいたのです。
こうして何の成果もなく屈辱的な派遣だったので、第1回遣隋使は日本書紀には記されなかったのです。
これをきっかけに厩戸皇子は隋と対等の関係を結べるような国づくりに邁進していきます。
遣隋使によって、隋との違いを知り、国内体制の整備、改革の必要を痛感したのです。

厩戸皇子の国造り
当時、ヤマト王権には外交施設がありませんでした。
そこで、古代中国の建築物に倣い小墾田宮を建造します。
さらに、遣隋使の使節が位を表す冠をしていなかったことも野蛮とされた理由の一つだったとされ、冠位十二階を制定。
そして、孔子の教えである儒教など・・・日本に入ってきたばかりの外来思想を積極的に取り入れ、憲法十七条を定めます。
こうして、国内の制度を整えた厩戸皇子は、2回目の遣隋使派遣を決めます。
その7年間で、隋の皇帝は文帝から息子の煬帝へと変わっていました。

607年第2回遣隋使派遣
第2回遣隋使の最大の目的は、隋と国交樹立すること・・・さらに、この時から仏教が復興した隋で、仏法を学ばせたいと、日本の僧侶たちを連れていくようになりました。

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そんな2回目の遣隋使の代表・・・大使となったのが、小野妹子でした。
妹子は、現在の滋賀県大津市に当たる小野村の豪族の出身で、当時の官位は大礼で、決して官位は高くなかったのですが、古くから近江の豪族はヤマト王権の中枢で活躍していたので、妹子が抜擢されたのです。
妹子はこの時、こんな書き出しの国書を持って行きました。

”日出ずる処の天子
 書を日を没する処の天子に致す
 恙なきや云々”

日出ずる処とは東の日本のこと・・・日没する処とは西にある隋のこと・・・
ところが、これを聞いた隋の煬帝は、日本が隋を同格とみていることに激怒!!
使節たちは、またも帰されてしまうのでは??と思ってビクビクしていましたが・・・
この時、隋は隣の高句麗との戦争を控えていたので、日本を敵に回して高句麗と組まれては困ると考え、無事国交樹立となりました。
1年の滞在の後、608年小野妹子帰国。
この時、隋の煬帝から国書の返書を受け取ったのですが、途中で紛失してしまいました。
朝廷に戻った妹子はこう告げます。

「帰国の際に立ち寄った百済で、返書を奪われました。」

しかし、この返書紛失事件には裏がありました。
百済が隋の文書を奪うことは大きな国際問題となるので、疑問です。

奪われたわけではない・・・??
この文書は、倭国の国書に対して、無礼だとけん責し、改めさせる内容だったと考えられます。
そんな文章を持ち帰ったら・・・返書を持ち帰れないと考えた妹子は、百済で奪われたことにしたのです。

妹子を処罰すべき・・・??
推古天皇は、隋の使者に騒動が露見することを防ぐために、妹子を罪に問いませんでした。

処罰を免れた妹子は、608年、官位が最高位の大徳に昇進。
9月には、再び遣隋使の大使として海を渡ります。

京都にある紫雲山頂法寺・・・通称六角堂は、587年に厩戸皇子こと聖徳太子によって、創建されました。
隋から帰国した妹子は、出家するとこの寺に入ったといいます。
六角堂の北側にある聖徳太子が身を清めたと言われる池・・・この池のほとりに僧侶の住坊があったことから、六角堂の住職は池坊と呼ばれるようになりました。
池坊とは、華道の家元で知られるあの池坊です。
妹子と華道には深い関係があります。

当時はお花を神仏に備えるということはなく、常盤木(マツなどの常緑広葉樹)を縁起のいいものとして供えていました。
妹子が隋に行き、持ち帰ったのが供花・・・色花も含めた仏に備える花です。
そうして、ここが生け花発祥の地とされ、小野妹子は華道の祖と言われています。

614年、第4回遣隋使として犬上御田鍬・・・滅亡寸前の隋を目の当たりにします。
隋が、新興勢力だった唐に滅ぼされたのは、御田鍬が帰国した3年後・・・618年。
唐が、国として安定した630年、舒明天皇が唐との外交を密にするために、第1回遣唐派遣開始します。
そうして、894年まで、260年の間に、遣唐使は18回計画され、15回実行されたのでは?と言われています。

それではどんな人物が唐に渡ったのでしょうか?
最初の頃は、2隻の船で、使用団120人。
その大半は、船をこぐ水手でした。
船員たちは、朝鮮半島の往来に慣れていた北部九州から動員されたようで、遣唐使事業に従事したものは、3年免税されました。
船員の他には、遣唐使の使節たち・・・家柄、学識、教養、風采・・・総合的な選考が行われました。
特殊な技能を持っていた人も乗り込んでいました。
通訳、医師、主神(船内に祀られていた住吉の神に仕える者)、陰陽師(易による占いや天文、気象現象の観測を行う者)、絵師(絵や書で記録にとどめる)、船大工・・・
船大工は、外洋航海のために損傷が激しく、帰ってくるときに修理をしなければなりませんでした。
留学する者もいました。
留学生・・・長期滞在者・・・15~20年間滞在し、次回の遣唐使と帰国
     ・・・短期滞在者・・・1~2年間滞在し、同じ回の遣唐使と帰国

いずれも唐の文化を習得、密教の理解を深めることに努めました。

船旅は命がけ・・・第2回遣唐使は120名×2隻でしたが、1隻が竹島付近で遭難し、生存者はわずか5人でした。
無事生還したのは6割でした。

どうして遣唐使船は海難事故が多かったのでしょうか?
考えられるのが、船の性能、航海技術です。

①船
全長30m、全幅9.6m、船首に舵があります。
主な労力が風邪で、網代帆でした。
布帆も用いていた可能性もあり、無風、逆風の時は帆を下ろし、櫓を使っていました。
それなりの航海技術はありました。

②時期
日本は遣唐使を派遣していく中で、唐に2年に一度貢物をする約束をします。
その時には、必ず諸外国の使者と共に、唐の皇帝の祝賀行事の朝賀に参列。
それは、正月に行われることになっていました。
余裕をもって4,5か月前に出発・・・これは、現在の暦にすると9~10月ごろ・・・。
まさに、台風の起きやすい時期なのです。
おまけに季節風が向かい風に変わるころで、海が荒れ・・・海難事故・・・??
実際には、5~7月(6~8月)に出発した記録が多く、東シナ海が安定し、航海に適した時期でした。
季節風、海流などは認識していました。

どうして海難事故が多かったのか??
③ルート
当初船は、北回りルートでした。
博多→壱岐→対馬→朝鮮半島西岸を経由して山東半島に上陸。
そこから陸路で長安へ・・・船旅だけで、40~50日かかりました。
これは遣隋使の頃からのルートで、危険な海路に依存する割合が少なく、比較的安全だと思われていましたが・・・
7世紀半ば、朝鮮半島の新羅が唐と同盟を結び、百済と高句麗を滅ぼします。
その後、旧百済領を巡って、唐と新羅が争いました。
朝鮮半島西岸を通ることが危険となり、使えなくなっていまいました。
そこで用いられたのが、五島列島から直接唐に入る南回りルートです。
1週間から10日で唐の江南地区長江河口付近に到着するため、航海時間は短くなりましたが、荒れやすい外洋を進むことになったので、難破や遭難が増えたのです。
海難事故が増えたこともあって、少しでも多くの人が唐にたどり着けるように、船の数を2隻から4隻に、人数も250人から600人となりました。
長安までも、運河を船で行きさらに陸路で2ヵ月・・・かかるときは半年かかったようです。
しかも、全員長安に行けたわけではなく、600人のうち50人ほどしか許されませんでした。

命がけで海を渡ってきたのに・・・??
元々長安まで上京するのは使節団のみです。
唐が遣唐使節の滞在費を負担しました。
しかし、奈良時代の後半・・・安史の乱(755年~763年・唐で起きた大規模な反乱)で、治安が悪化し、財政問題から遣唐使に希望する者すべてを長安まで行かせることができなくなっていました。
皇帝の許しが出たものに関しては、持ち帰ったり、見学(暮らし・建築)をしたりすることができました。

飛鳥時代から奈良時代に移り遣唐使後期になると、600人になった使節団は、留学する者が多くなります。
その中には長期滞在(留学生・学問僧)、短期滞在(請益生・還学僧)がいました。
長期滞在者は、次の船が来るまでの15年~20年もの間唐に滞在、それぞれが文化の習得や仏教理解の研鑚に努めました。

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備中国の豪族の生まれの吉備真備(695~775)もその一人です。
留学僧として2度唐にわたっています。
一度目は、717年、第8回遣唐使として唐にわたり、17年間滞在します。
天文学、音楽、兵学を学び、帰国の際には唐から支給された留学の手当てをすべて書物などに変えて日本に持ち帰って朝廷に提出しました。
様々な学問書や仏教・儒教の書籍を日本へ持ち帰ることが遣唐使の大きな使命なのです。

当時の日本は、唐を参考に律令に基づく国家樹立を目指していたので、唐の事情に精通し、頭脳明晰な真備は重用されました。
帰国後は、破格の出世をし、従八位下から正六位下(大学助)に任じられ、学問面で国家の基礎づくりをします。
東宮学士という皇太子の先生となり、聖武天皇、光明皇后に寵愛され、破格の出世をし、766年には右大臣へ。
学芸、政治・・・奈良時代に数々の足跡を残しました。

日本に戻れずに唐でその人生を終える者もいました。
吉備真備と共に唐に渡った阿倍仲麻呂です。

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仲麻呂は、大和国の名家の生まれで、この時まだ19歳でした。
長安についた仲麻呂は、法律、文学、儒教など様々な学問を学び、唐の国家試験である科挙に合格し、唐で役人として出世し、時の皇帝玄宗に仕えました。
唐を代表する詩人・李白や王維とも交流を深めます。
そうして唐に来て16年・・・仲麻呂は遣唐使と共に帰国したいと玄宗に願い出ます。
ところが、帰ることを許してもらえなかったのです。
仲麻呂の願いが聞き入れられたのは、それから20年後のことでした。

その送別会の席で仲麻呂は歌を詠みます。

天の原
  ふりさけみれば
      春日なる
三笠の山に
    いでし月かも

日本を懐かしんだのですが・・・日本に帰る途中で暴風雨に遭い途中で遭難。
船はベトナムへ漂着し、再び唐に戻ることに・・・。
結局、日本に帰ることはかなわず、唐でその生涯を終えたのでした。

中には鑑真・・・鑑真は、日本に戒律の精神と儀礼を伝え、唐招提寺の開祖となりました。
すでに唐で名のある高僧だった鑑真が、日本にわたる決意をしたのは743年55歳の時でした。
鑑真は天台宗の高僧として活躍した慧思が、その死後、東方の国に生まれ変わり仏教を広めたという伝承を信じていました。
そして、その東方の国こそが日本で、戒律が栄えるべきところだと考えたのです。
しかし、時の皇帝・玄宗が出国を禁じます。
それでも鑑真の意志は固く、半ば密航の形で日本に向かいます。
しかし、悪天候、弟子の密告などに阻まれます。
1回目・・・743年・・・弟子の密告
2回目・・・743年・・・悪天候
3回目・・・744年・・・弟子の密告
4回目・・・744年・・・弟子の密告
5回目・・・748年・・・悪天候
5回目の渡航の際には愛弟子が亡くなり、鑑真も視力を失ってしまいます。
それでもあきらめることなく、754年日本に戻る遣唐使船に・・・。
6回目でついに来日を果たしたのです。

時の孝謙天皇は、鑑真に戒律を授ける権限を一任。
日本の仏教会の頂点に立った鑑真は、400人ほどに戒律を授け、戒律制度を整備。
さらに重い税や貧困に苦しむ民衆にも手を差し伸べて救済・・・763年76歳で天寿を全うしました。

894年8月・・・
第18回遣唐使派遣が決まります。
選ばれたのは、学者から出世を継げていた菅原道真でした。
菅原道真は、一旦は引き受けますが、1か月後、遣唐使の派遣中止を時の宇多天皇に訴えます。
道真は、過去にも受諾した案件を翻意にすることがありました。
この時もそうだったようですが・・・
どうして遣唐使の中止を訴えたのでしょうか?
意見書にはこう書かれていました。

「往復の危険は承知の上。
 しかし、今は唐の国力が衰えていて、以前なら安心だった唐の中の移動が危険にさらされている」
そのため、中止が望ましいと訴えたのです。

学者として調べると、9世紀の後半には反乱が起きていて、かなり治安が悪くなっていました。
留学生の待遇も悪化しており、支給されていた遣唐使への食糧が20年分から5年分と削減されていたのです。
唐の国力が衰退し、待遇も悪化していたため、危険を冒して唐にわたる必要がないと考えたのです。
また、当時商人の船による唐との往来が増えていて、国が船を出さなくてもいい状況になってきていました。
実際、遣唐使として唐にわたっていた円仁は、847年に新羅の承認の船で帰国しています。

情勢を冷静に判断した菅原道真の意見は通り、894年遣唐使中止・・・その後廃止となりました。
およそ300年間にわたって実施されてきた国家プロジェクトは、遣隋使4回、遣唐使15回、合計19回に及んだのです。
使節たちによってもたらされた先進国・隋や唐の文化と知識は、国内で熟成し、日本文化の基礎となっていきました。
命をかけ、海を渡った男たちの賜物・・・過酷な旅でした。


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