日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:狩野永徳

図説・戦う城の科学 古代山城から近世城郭まで軍事要塞たる城の構造と攻防のすべて (サイエンス・アイ新書)

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日本最大の湖・琵琶湖・・・
その東に残る430年前の城跡・・・聳えていたのは、戦国時代の覇王・織田信長の安土城でした。
今や幻となった安土城・・・革命的な城でした。

織田信長が初めて城を手に入れたのは、1544年、11歳の時・・・父・信秀から尾張・那古野城をもらいました。
18歳で家督を継ぐと、清須城に居を移し、尾張を統一!!
新たに小牧山城を築くと、織田家の宿願だった美濃攻略を果たしました。
この後、金華山山頂に岐阜城を築き、近江・北陸にまで勢力を拡大していきました。
次々と居城を移していった信長ですが、当時の戦国大名は、一つの城を居城としているのが常でした。

信長が居城を次々と移した理由は・・・
領地が広がれば広がるほど、国境地帯、紛争地帯に駆け付けるのが難しくなります。
領土の広がりに限界が来るのです。
その時その時、一番BESTなところに自分が動いていく・・・合理的、効率的だったのです。
そんな信長が、天下取りの為に新たに築こうとしたのが安土城でした。

建設地としたのが、近江にある標高199mの安土山でした。
選んだ理由は・・・
当時の信長は、尾張・美濃が基盤でした。
京都を抑えることが重要で・・・近江・安土はその中間にあったのです。
しかも、琵琶湖に接しているために、交通の便が良かったのです。

1576年1月中旬より安土城の普請が始まりました。
惣奉行として重臣の丹羽長秀を指名!!
長秀は、ほとんどの戦いに参加し、現場での統率力に長けていました。
朝廷や豪商たちとの折衝・・・政治経済の手腕もあり、信長から全幅の信頼を得ていました。
長秀はまず、仮御座所を建設。
基礎的な工事を行いました。
工事には、畿内・尾張・美濃・伊勢・三河・越前・若狭の武士と領民を動員し、京都・奈良・堺から職人たちを呼びました。
当代一流の技術者たちによる前代未聞の築城工事となりました。
革新的な安土城・・・築城かしいから僅か1か月で信長は居城を移しています。
城づくりの常識を覆した安土城!!
その革新的なものは・・・

石垣
それまでの城の土台は、土塁が一般的でした。
そこから石の城へ!!常識を一変させたのが信長でした。
一番最初に石垣を作ったのは、小牧山城!!
小牧山城以前は、石垣はありませんでした。
自然石を積み上げた野面積みですが、段々に積んで大きな石の城に・・・
これが、信長の城づくりの原型で、のちに安土城に生かされることとなります。

岐阜城では金華山から切り出した石で、より強固な石垣を作っています。
その集大成ともいえる石の城が安土でした。
1573年4月1日四人の石奉行が任命されました。
好んで使われたのが、琵琶湖の沿岸の湖東流紋岩でした。
きめが細やかで固く、石垣に適していました。
安土山から6キロ圏内で切り出したと考えられています。
「昼夜 山も谷も動くばかり」と言われるほどの空前の大工事でした。
大きな石を使うのは力の象徴でした。

しかし、空前の石垣工事には事故も多く・・・
ルイス・フロイスは「日本史」に・・・
「特別大きな石を6.7千人で引き上げていたところ、石がずり落ちて、150人以上が下敷きとなった」と書いています。

膨大な人員と時間と、犠牲を払って作られた石垣は、4年で完成・・・
それは、城郭全体に及ぶ壮大なものでした。
堅固な守りを固めたその石垣は、今も見ることが出来、高いものでは10mをゆうに超えます。
信長の家臣たちは、築城の技術を身に着け、石垣の城を作り上げていきます。
近代城郭の常識となっていきました。

堅固な安土城・・・
本丸の黒金門から信長の居る天守までは、巨石を積んだ石垣が、折れ曲がった厳重なものとなっていました。
しかし、大手道という真っすぐな180mの道があります。
敵に攻めてくれと言わんばかりの大手道・・・。
それは、正親町天皇の行幸を計画していたからだと言われています。
ところが、最後まで真っすぐではない・・・
ではどうして真っすぐな道だったんでしょうか??
大手道の周りには、家臣たちの家が建っていました。
家臣の居住エリアを攻めやすくして、信長との差を見せつけようとしたためと言われています。

1577年天主の建造が始まりました。
大工の棟梁には尾張時代から信長に仕え、熱田神宮の宮大工でもあった岡部又右エ門が任ぜられました。
8月24日に柱建て、11月3日には屋根葺きが行われたことから、工事は急ピッチで進められたことが判ります。
そして、1579年、安土城天守の外装がようやく出来上がりました。
地上6階地下1階の7階建て、最上階までの高さは30m以上、今の10階建てのマンションに相当したと言われています。
さらに平成元年からの発掘調査によると、金箔の瓦が発見されており、天守は豪華絢爛だったことが判ってきました。
派手好みな信長らしく、最上階の6階は、全体に金箔が張られ、屋根にも金の鯱が、5階は鮮やかな朱色に塗られていました。
5月吉日、この天主に信長は移り住みます。
戦国時代には櫓を作る建築技術はありましたが、御殿の役割はありませんでした。
城が武士の権力の象徴となった瞬間でした。

城の内部もまた、豪華なしつらえが・・・
立て板張りに黒漆の高級な書院造で、動植物や仏教世界、中国の故事などを題材とした障壁画が書かれていました。
中でも虎の障壁画は、当代随一の画家・狩野永徳とその弟子たちです。

1579年5月、安土城に居を移した信長は、主だった家臣たちを城下に呼び寄せます。
しかし、住み慣れた尾張や岐阜からの強制的な引っ越しによって、問題が起きます。
家臣の多くが故郷に妻子を置いて単身赴任していたからです。
彼らは慣れないひとり暮らしに困惑し、火を出してしまうこともありました。
当時の武士は、先祖伝来の土地を離れるという考えが出来なかったので・・・
信長は、故郷の家を焼いたり、壊したりして強制的に来させたりしています。

この時信長は、武家屋敷の建設と共に、安土城城下町を建設しています。
戦国時代、城はあくまでも軍事施設であり、生活の場ではありませんでした。
なので、城下町の発展もありませんでしたが・・・信長は、城下町を作りパイオニアとなっていきます。
信長は、城下町が経済の中心となることを重視した大名で、関所などを撤廃し街道を整備、それまでの街道を付け替えて、安土を経由するように変えています。
旅人は、安土で宿泊する決まりを設け、近江国での馬の売買を安土のみとしました。
安土にやってきた者は、誰でも商売をしていいという楽市楽座を制定。
これらの政策によって、城下町には人が溢れ、瞬く間に経済的な発展を遂げていきました。
信長が作り上げた近世城下町は、後世へと受け継がれていくことになります。

どうして天主5階は8角形でなければならなかったのでしょうか??
5階内部の装飾は・・・柱に金の龍、天井にも龍、壁にも龍があります。
中国の皇帝を連想されるシンボルの龍。
信長が龍のモチーフを利用したのは、日本の天皇を超える存在、中国の皇帝のような存在をイメージしていたようです。
安土城を建てた頃は、官位をすべて返還しており、実力で「天下布武」を進めていました。
本能寺の変直前も、太政大臣、征夷大将軍、関白・・・すべてを断っていました。
なので、すでに天皇を超えた存在だと思っていた可能性があります。
信長にとって安土城は、これから先のビジョンを示すシンボルだったのです。

信長の野望は、御幸の御間からも見受けられます。
天皇が安土城に行幸に来た際に使われるであろうこの場所・・・
信長の座主・天守よりはるかに低いところにありました。
これは、自分が現人神より上だということを周囲に見せつけるためだったと言います。
八角形の場所は、本来神聖な人を迎える場所とされていました。
天守5階の八角形は、信長が神であるということを示すためだったのです。
1581年9月、安土城は、5年以上の歳月をかけて完成!!
それは、信長の城づくりの集大成であり、天下人としての理想の城でした。

安土城天主台跡には、その柱を支えていた礎石・・・
天主台の大きさは、南北30m、東西25m、です。
また、南北20間(42メートル)、東西17間(35.7m)ともいわれています。
これこそが安土城最大のミステリーです。
もともと天主は、天主台と同じくらいかそれより小さいはず・・・なので、これでは天主がはみ出してしまいます。
懸け造り・・・清水寺のように柱を外側に出して支えていたと思われます。
天主台西側の礎石の列が、懸け造りのためのもののようです。
天主1回には、舞台となる「懸け造り」があり、そこから信長が現れる・・・
圧倒的な権力を見せつけるようになっていたと思われます。

豪華絢爛な天主・・・史上空前の城で・・・
1581年7月15日、城を数千ものちょうちんでライトアップ!!
盂蘭盆会で見せたサプライズ!!
闇夜に浮かぶ、壮麗な城・・・誰もが信長の存在を恐れ、称えたに違いありません。

天主は後に天守となります。
天の主は信長だけ・・・そういったためだと言われています。
天の主・・・誰の下にもつかない唯一無二の信長・・・独創的な信長の安土城は、その後の城郭建築の常識となっていくのです。

信長の夢の城・安土城・・・
地上6階地下1階・・・神となり、新しい時代を作ろうとしていた信長・・・
しかし、1582年6月2日、明智光秀の謀反によって、その夢は潰えるのです。
その13日後・・・主を失った安土城もまた、炎に包まれます。
火をつけたのは、信長の次男・織田信雄とも、光秀の娘婿・明智秀満ともいわれています。

深窓は未だ闇の中・・・安土城は、多くの謎を残したまま、夢幻の城となったのでした。
僅か9か月の事でした。


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京都にある真言宗総本山・智積院には、長谷川等伯の国宝「楓図」があります。

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作者は桃山時代の絵師・長谷川等伯です。
依頼主は、時の権力者・豊臣秀吉。。。
しかし、秀吉による等伯の抜擢は異例中の異例でした。

戦国の世に終止符が打たれようとしていた時代に、名だたる武将は権力を示すために次々と城など建造物を作ります。
内装を彩ったのが・・・襖や屏風などに描かれる障壁画。
その製作を担っていたのが、一大画家集団・狩野派でした。

狩野派は、時の権力者に接近し、その技術力と組織力で確固たる地位を築いていたのです。
権力者の仕事は100%狩野派の仕事で・・・それは・・・等伯を阻む、巨大な壁でした。

しかし、時代は新たに展開します。
秀吉が天下を握り・・・
等伯を後押ししていたのは、当時力をつけて来ていた”新仏教”。
そして、千利休に代表される莫大な資金を持つ商人たちでした。

等伯の出身は、石川県七尾市。
当時支配していたのは、守護大名・畠山氏でした。
その家臣の家に武士の子として生まれました。
しかし、染物屋をしていた長谷川家に養子として出されてしまいました。
長谷川家は、お寺に奉納する仏画を作る絵仏師としても地元では知られていました。
卓越していた技術を持っていた等伯・・・しかし、狩野派と渡り合うこともなく・・・地元で生涯を終える筈でした。

ところが・・・1571年33歳の時に、突然京都に移り住みます。
伝統ある京の画壇を支配していたのは狩野派。
当時一門を率いていたのは狩野永徳。
永徳は信長・秀吉をはじめ全国の武将、朝廷からも厚い信頼をえて・・・大規模な事業は狩野派が握っていました。

京に縁もゆかりもない等伯が頼ったのは自らも信仰していた日蓮宗のネットワークでした。
日蓮宗は、死後の救済よりも現世の幸せに重きを置いた教えで・・・町人を中心に信者を集め、京都では毎月2~3の寺院が作られるという急成長ぶりでした。

日堯上人像
日蓮宗本山・本法寺に身を寄せます。
本法寺に残された作品としては「日堯上人像」があります。

仏教絵画の注文を受けながら、腕を磨いていました。

しかし・・・それから18年・・・消息が分かりません。

「等伯画説」によると・・・

堺の人々と交流していたようです。
その仲をもったのが、当時の本法寺住職・日通上人・・・堺の豪商の出身でした。

商人の町堺・・・
繁栄を極めたその町で・・・飛躍の時を伺っていたのです。
1589年歴史の表舞台に躍り出たのは51歳のときでした。

この時代・・・色々な勢力が出てきていました。
商人の台頭によって・・・京都や堺では豪商と言われる人たちです。
自分たち好みの芸術を求めていたのです。

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増築されることになった大徳寺の山門・天井画や柱絵を描くという大仕事を任されます。
極楽浄土を舞う姿が力強く描かれました。

大徳寺は、町衆から宮廷の貴族まで、大きな影響力を持つ寺。。。
等伯の画は、京都で一躍評判となりました。

私財を投じ、その山門増築を進めたのは、当代きっての茶人・千利休でした。
堺の出身で美の創造者・千利休は狩野派に批判的だったといいます。



良き理解者を得て、才能を開花させていく等伯。
1590年、名声をさらに高めたのが・・・御所の造営に伴って描かれる障壁画でした。
永徳率いる狩野派は、自分たちの権益を守ろうと、妨害工作に出始めます。
永徳と等伯とではその位には天と地との差がありました。
永徳は力づくで等伯の進出を阻止します。

しかし・・・同年、狩野永徳死去。。。
カリスマの死によって狩野派は、混乱に陥りました。

遂に等伯は・・・天下人豊臣秀吉からの依頼を受けます。
それは・・・楓図を描く・・・秀吉の息子の菩提寺に、95枚の襖絵を描くという一大事業でした。
秀吉は、政権が交代したことを絵によって示そうと考えていたようです。
なので、狩野派と違った絵を使う必要があったのです。

1591年秀吉の長男・鶴松が他界・・・
秀吉はその菩提を弔う寺・・・祥雲寺を建設し、障壁画を等伯に依頼しました。
1200平方メートルの巨大な建物に・・・95枚の障壁画を描かなければなりません。
狩野派が請け負っていい大仕事。。。
当時の長谷川派は少人数・・・なのに、今までにない質と量の仕事だったのです。
この頃・・・千利休は秀吉に切腹を命じられています。

秀吉に気に入られなけれな・・・命がかかっている??
命がけの仕事だったのです。
1593年障壁画を完成させます。
「楓図」の対となるのは「桜図」。。。等伯・久蔵親子の作品です。

新参者の一大プロジェクト・・・これを通じて新しい絵画表現を開拓した等伯。
等伯は楓図で、狩野派にもマネできない表現をしました。
楓図は細かくカラフル・・・狩野派を抜いた色彩で華やかさ、豪華さが表現されていました。

しかし、突如不幸が訪れます。
逸材に成長していた息子久蔵が26歳の若さで死去・・・。
そして・・・5年後には後ろ盾となっていた豊臣秀吉が死去。
跡継ぎとパトロンを失った等伯。。。
長谷川派発展のために???

butunegahannzu等伯が活路を見出したのが新規開拓策でした。
本法寺に収められている「仏涅槃図」。
61歳の等伯は、この巨大な涅槃像で人々の度肝を抜きます。


商品価値を上げるための、ブランディング戦略です。


そしてこの仏涅槃像をそのまま奉納するのではなく、宮中でお披露目し・・・
そのことによって、画に格をつけたのです。

新規顧客層の開拓に乗り出します。

雪舟というブランドを取り入れて、町衆を味方につける・・・

その戦略は成功しましたが・・・


1610年長谷川等伯死去によって、長谷川一派を取り巻く環境が変わってしまいます。
狩野派・・・は、江戸時代に入っても、御用絵師の座は譲らず、永徳の孫・狩野探幽は、永徳以来の天才と呼ばれ、多くの障壁画を残しています。

御用絵師・探幽は、鑑定も行っており、多くの作品が持ち込まれます。
等伯の作品を周文の作品と鑑定したり・・・
等伯を美術史から抹殺しようとしました。
つまり、等伯が亡くなった後も、等伯の存在感が狩野派を脅かしていたのです。

等伯が再評価されるのは、昭和に入ってからです。
「楓図」さえも、狩野永徳の作と言われていましたが、画風や構図の研究で、等伯の作であると証明されました。
歴史から消されていた等伯が再び脚光を浴びます。
明らかになってきたのは、多彩な画風に挑戦した等伯の天才ぶりと後世に与えた影響でした。

多くの苦難を乗り越えた等伯の足跡は、その作品と共に語り継がれていきます。

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