今日富上京区にある観世稲荷社・・・室町時代、この辺りにあったのは、観世家の屋敷です。
観世とは、今に続く能の流派の一つ観世流を受け継ぐ家・・・
その始まりは、700年ほど前まで遡ります。
観世座という芸能一座を率いた観阿弥です。
そして観阿弥の意志を継いで大成させたのが、息子の世阿弥です。
2人は能に、様々な革新を起こしました。

世界最古の舞台芸術としてユネスコの無形文化遺産に登録されている能・・・
謡とお囃子を伴奏に、舞踊的な所作で物語を展開させていく幽玄な歌舞劇です。
その始まりは、中国伝来の散楽と呼ばれる曲芸に、歌舞などの日本古来の芸能が融合された猿楽・・・
当初は、滑稽で人を楽しませる芸術でした。
そんな猿楽の一座を率いていたのが観阿弥でした。
鎌倉幕府が滅亡した1333年に、大和国の猿楽師であった父のもとに生れました。
やがて自ら観世座という猿楽一座を率いる観世太夫となります。

当時の猿楽師の在り方は、乞食の所行と呼ばれていました。
地位は低いものでしたが、観阿弥はスター役者でした。
猿楽の地位を上げようと奮闘し、革新をもたらしていきます。
観阿弥は、猿楽に当時の流行歌謡である曲舞を取り入れ、メロディー中心だった猿楽に、曲舞の拍子の面白さを加え、新しい謡を編み出しました。
現代で言えば、ラップに近い面白さがありました。
猿楽に別ジャンルの要素を取り入れ、革新を遂げた観阿弥の一座は、頭角を現し、京で勧進能を催すまでになります。
そんな中、観阿弥に待望の跡継ぎが誕生!!
1368年世阿弥が生れます。

時は二つの調停が並び立つ南北朝時代!!
北朝方の室町幕府の力は盤石ではなく、各地で反乱がおこる中、1367年、室町幕府2代将軍足利義詮が病死。
家督を継いだのは、僅か11歳の義満でした。
1368年、3代将軍に就任!!
ここから観阿弥・世阿弥親子の運命が大きく動くのです。

義満の時代~「蜜月」

1375年、観阿弥43歳の時、猿楽の地位を向上させる最大のチャンスが訪れます。
京都新熊野神社での観世座猿楽興業に、将軍・義満が見学に来るというのです。
”将軍という最高のパトロンを得られるかどうか?”観阿弥にとっては勝負の時でした。
そこで、観阿弥は一計を案じます。
興業の冒頭で、必ず演じられていた翁猿楽の翁役を自ら演じることにするのです。
通常は一座の長老が行うのが習わし・・・異例のことでした。

「翁」は、役者が最初は面をつけずに素顔で演じる演目です。
翁を演じる役者が年寄りだと、義満が興ざめする恐れがありました。
観世座の中心役者である自分が、最初に出てくることで義満の興味を引けると考えたのです。

観阿弥の狙いは敵中~~!!
見事、義満の目を引きます。
さらに、義満が目を奪われたものは・・・美少年と言われた世阿弥の姿です。
一説には、世阿弥はこの時13歳、義満は18歳だったといいます。
美少年好きの義満は、世阿弥を常に自分の傍に置き、可愛がりました。
祇園祭見学の際には、同じ席に世阿弥を上げ、杯を交わすほどだったといいます。
しかし・・・義満が世阿弥を寵愛したのは、義満が美少年だったから・・・だけではありませんでした。

当時の幕府は、武力によって地方を押さえ、政治を行っていました。
しかし、すべてを承認する権限は、朝廷にあったため、自由に物事を進めることが出来なかったのです。
そこで、義満は公家社会に入り込むことで、朝廷を思い通りに動かそうと考えます。
しかし、朝廷では、多くの儀式が古いしきたりのもとで行われており、武士である義満が、容易に入っていける世界ではありませんでした。
そこで、まずは摂関家・二条良基に朝廷の儀礼や作法を学びます。
これが認められ、義満は1378年、武家にとって最も名誉な右近衛大将に任じられ、その3年後の1381年には武家として異例の内大臣に昇進、朝廷内での発言力を強めていきます。
しかし、義満は・・・京の高い公家文化にコンプレックスを持っていたと考えられます。
その為、義満は京の高い文化に対抗できるものが自分にもほしいと考えました。
観阿弥率いる観世座は、新しい猿楽の在り方を実現させていました。
義満が、新しい文化を掴んでいることを内外に示す意味があったのです。
そして、観世座の猿楽が、義満の政治・文化ラインに沿うようなものになっていったのです。
義満は、観世座の猿楽を、広告塔として使うようになりました。
観阿弥は、世阿弥に将軍や幕府の中枢にいる武士や公家と対等に付き合えるように、和歌や蹴鞠なども習わせていました。
全ては、猿楽を都で認めさせるためでした。

こうして、将軍という強力なパトロンを得た観阿弥でしたが、1384年5月、52歳・・・巡業先の駿河で急死します。
跡を継ぎ一座のTOP・観世太夫となったのは22歳の世阿弥でした。
父の遺志を継ぎ、観世座を守り、盛り立てて行こうと精進していきます。
そんな世阿弥に最初の試練が・・・ライバルの出現です。
大和と並んで猿楽の盛んな近江の猿楽師・犬王です。
天女の舞を躍らせたなら、右に出る者はいないと高い評判を得ていました。
義満も、そんな犬王をいたく気に入ったようで、犬王が将軍お気に入りの役者の筆頭に躍り出ます。
世阿弥は、犬王の存在を強く意識します。
自分にはない優美さがあったことも、大きな理由でした。

足を細かく使ったり、地面を踏んだりする力強い鬼の演技を得意とする世阿弥は、自分にはなかった犬王の幽玄で美しい舞を貪欲に取り込み、鍛錬を積んでいきます。
パトロンである義満の好みに近づくために・・・!!
時代の風を詠み、新たな要素を取り込んで芸を高めていく・・・
それは、一座の蝶として観世座を守るための世阿弥の生き残る術・・・戦略でした。
一座の長としての重責を担い、ジレンマと戦いながらも自らの芸を磨いて行った世阿弥・・・
将軍・義満のご贔屓も取り戻します。

大衆芸能だった猿楽を、名実ともに京文化の中心に引き上げた観阿弥・世阿弥親子・・・
2人の名についている阿弥というのは、芸名です。
世阿弥がこの名を名乗るようになったのは、40歳になるころでした。
それまでは、元清とか、三郎などと名乗っていました。
しかし、将軍周辺で、これからは出家した際につける法名の一つ阿弥号で呼ぼうということになりました。
父親である観阿弥が、観世を名乗っており、世阿弥も当時、そう呼ばれていたようで・・・そこから世という文字が使われ、将軍・義満の一言で”ぜあみ”と呼ぶようになりました。
ちなみに阿弥は、当時の文化人のステイタスシンボルでした。
義満によって、文化人に相応しい名前を得た世阿弥・・・しかし、蜜月はついに終わりを告げます。

1408年、世阿弥のパトロンだった室町幕府3代将軍足利義満死去・・・
幕府の実権は、4代将軍・義持に移りました。
これによって、世阿弥の人生は、またも大きなうねりを見せます。

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義持の時代~「苦難と革新」

将軍・義持には、贔屓にしている役者がいたのです。
農耕行事から生まれた芸能・田楽出身の増阿弥です。
その演技に世阿弥自身も魅了されます。
淡々とした中にも深い味わいを持つ舞の美しさ・・・新たなライバルの出現に、世阿弥は奮い立ちます。
追求したのは花・・・

「花と面白きと珍しきと これ三つは 同じ心なり」by世阿弥

花の意味とは・・・??
花は、観客にとっての新鮮さ、面白さであって、世阿弥は如何に観客を面白がらせ、舞台に感動の花を咲かせるかを追求していました。
新しき花を、珍しき花を、生み出すことを追求していった世阿弥・・・
そんな彼が挑んだのは、新しい能の作品を作ることでした。

「能の本を書くこと この道の命なり」by世阿弥

世阿弥は、能の本を書く・・・新たな作品を作ることで、最大の革新を起こしていきます。
その中で、強く影響を受けたのが禅です。
世阿弥は50歳を過ぎてから座禅修行を行う仏教宗派・禅宗に深く帰依していました。
世阿弥は、禅画や枯山水のような「余白の美」で表現できる美しさを能の中に取り入れようとしたのです。
余白の美を能に取り入れようとした世阿弥は、「動十分心 動七分身」といっています。
思っているよりも、身体の動きを抑えることで、敢えて心情が伝わり趣が生れる・・・と。
心を平穏にして、リラックスして、新しいものを作ろうというニーズが高まっていたのです。
静かで美しい動きの中に表す心の機微・・・感情の奥深さで、見る者たちの心を鎮めようと考えた世阿弥・・・。
こうして生み出された新たな能のスタイルが、夢幻能です。
それまで演じられていたのは、現在能・・・現実の世界で起こる事件や出来事を題材とした能です。
これに対し、夢幻能は、神や幽霊、聖霊など現存しない者たちがシテと呼ばれる主役となり描かれます。
物語が大きく前半と後半に別れているのが特徴・・・
その構成は、物語の脇役である旅の僧侶などが、源氏物語や伊勢物語など当時の貴族が好んだ物語や和歌に詠まれた土地にやってきます。
すると、そこで主人公に出会います。
主人公は、この土地ゆかりの出来事や人物についてまるで見てきたかのように語り出し、最後に私こそがそのゆかりの者だと名乗って消えてしまいます。
そして物語は後半へ・・・
旅の僧侶の夢の中に、主人公の亡霊が当時の姿で現れ昔の出来事を再現・・・
その苦悩を舞って見せます。
やがて夜が明け、僧が夢から覚めるとともに霊は消え、物語は終わるのです。
このような構成のため、夢幻能は、この世に未練を残し死んでいった者たちが主人公となる悲劇が多いのが特徴です。
世阿弥が編み出したこの夢幻能・・・「能」はもともと鎮魂の芸術、レクイエム・・・亡者供養の世界です。
非業の最期を遂げた人間や、地獄に落ちた人間の人生で一番輝いた一瞬を舞台で再現する・・・これが亡者供養に繋がるのです。
また、夢幻能は、日本のあらゆる古典文学や昔話を能の中に取り入れることが出来る画期的な仕組みでした。
世阿弥は、夢幻能という新しい演劇の編集装置を使い、次々と作品を生み出していきました。
伊勢物語を軸とし、平安時代の歌人在原業平を待ち続ける妻の令を主人公にした幻想的な「井筒」。
兄・源頼朝によって死に追いやられた義経の亡霊を主人公にし、屋島の戦いでの活躍を描いた「八島」。
世阿弥は天賦の才で、能を洗練された舞台芸術へと高めていきます。
世阿弥の手による作品は、わかっているだけでも50くらいはあるのでは??と、考えられています。
また、猿楽が能と呼ばれ始めるようになったのも、世阿弥の頃だといわれています。
そしてその能の演目は、ほぼ変わらず上演され続けています。

主に大衆を喜ばせ笑わせていた芸能・猿楽を、能という高度な洗練された舞台芸術へと高めていった世阿弥・・・
様々な革新によって大成された能は、700年近くたった今も、連綿と受け継がれています。

「住する所なきを まづ花と知るべし」by世阿弥

同じ芸や得意な芸ばかりやらず、常にその先にある新しい芸を求め続けよ・・・

「秘すれば花なり」

世阿弥は、能を理論的に綴った日本初の演劇論「風姿花伝」の中のことばです。

世阿弥は風姿花伝をはじめとした高度な能楽論をおよそ20も執筆しています。
「花鏡」もその一つで、中には有名な言葉が・・・

「初心忘るべからず」

単に初々しい時の心を忘れてはいけないという教えだけでなく、如何に己が未熟であるかということを忘れてはいけないという教えが込められています。
多くの教えを書き残すことで、後進の育成に力を注いだ世阿弥・・・
しかし、自身の後継者というと・・・妻・寿椿との間になかなか子を授かりませんでした。
そこで、弟の嫡男・三郎元重を養子とし、跡を継がせることにしましたが・・・
その後、2人の男子(十郎元雅・七郎元能)を授かります。
これで候補者は3人となってしまいました。
当初の予定通り養子にするか、実子のどちらかにするか・・・??
1422年実施である十郎元雅を観世太夫にします。
世阿弥は、「花伝第六花修」に”能の本を書くことこの道の命なり”と書いています。
能本を書く才能を非常に重視していました。
その才能を十郎元雅は持っている・・・実子であったことも大きな理由ですが、十郎元雅が優れた劇作家だったために選んだのです。
しかし、この決断が、世阿弥のこの後の人生を大きく揺るがすこととなります。

1423年、世阿弥が60歳を超えた頃、幕府は後継者問題で揺れます。
4代将軍・足利義持が息子である義量に将軍職を譲るも、その2年後に義量が19歳で亡くなってしまいます。
その為、出家していた義持が将軍代行に就いたのですが・・・
1428年、跡継ぎを決めないまま義持死去・・・。
そこで、次の将軍は”くじ引き”で決めることに!!
結果・・・義持の弟義教が6代将軍に就任しました。
これが、問題でした。

義教の時代~「絶望」

義教の治世は、恐怖政治と恐れられました。
その性格にも難があったといいます。
意に沿わない者は、厳罰に処し、死罪をも辞さないという横暴ぶりです。
人々は震え上がりました。
その矛先は観世座にも・・・!!
後小松上皇の仙洞御所で催されるはずだった世阿弥・・・元雅親子による猿楽の公演が、突如将軍・義教によって中止されたのです。
弾圧とも迫害ともいえる義教の横暴は続き、舞台から遠ざけられていきます。
どうして義教は、強く当たったのでしょうか??

義教は無類の猿楽好きでした。
将軍になる前からお気に入りの能楽者がいました。
それが、世阿弥の養子・三郎元重だったのです。
義教は、異常なほど三郎元重に肩入れをしていました。
観世座を告げなかった元重は、観世座の中で別グループを率いていました。
そんな元重を、義教は将軍になる前から贔屓していて、世阿弥親子が演じるはずだった仙洞御所での猿楽公演にも元重を抜擢したのです。

その後も、興業の機会が奪われるなど、観世座に暗雲が立ち込める中、世阿弥に追い打ちをかける出来事が起こります。
次男の七郎元能が能の道を捨て出家・・・さらに跡を継いだ十郎元雅が巡業先の伊勢で急死。
世阿弥の悲しみは深く・・・

「私は元雅に能の神髄をすべて書いて残してやりました
 しかし、その元雅が若くして逝ってしまった今、すべて無駄になってしまったのです
 ああ・・・すでに埋もれ木となったこの歳になって
 花盛りの元雅のその花の跡を先に見るとは・・・」

まさに、絶望の淵にいました。
そんな中、1433年、将軍義教の庇護のもと養子の三郎元重が観世太夫となります。
そして、京都・糺河原で3日間に及ぶ盛大な襲名披露の猿楽公演を行いました。
将軍義教の支援のもとで・・・!!

1434年、世阿弥が突然佐渡へ配流!!

佐渡には数々の世阿弥の伝説が残されています。
例えば、大干ばつに見舞われた際には、世阿弥の雨乞いの舞で大粒の雨が降り出し、島民をすくったと伝えられています。
そんな佐渡に世阿弥が流されたのは、70歳を過ぎてのことでした。
どうして配流となったのか・・・??
書物には

”世阿弥が娘婿である金春禅竹をあまりに寵愛したため、我が子(養子の三郎元重)と仲違えをし、将軍の機嫌を損ねて佐渡へ島流しにされた”

とあります。

これは江戸時代ごろに作られた創作だと思われます。
世阿弥の島流しには、長男・十郎元雅との立場が関係していたともいわれています。
十郎元雅は、藩幕府勢力とのつながりを持っていたのではないか?といわれています。
長男の十郎元雅が、藩幕府勢力と繋がっていたことで、連帯責任をとらされた可能性があるのです。
しかし、それを裏付ける正式な資料はなく、真相は今も闇の中です。
ただ、世阿弥が佐渡に流されたのは事実・・・
そこでの暮らしを伝える生活を金春禅竹に宛てた手紙が残っています。

「おいてきた妻が心配でなりません
 そんな妻と私への援助に感謝してもしきれません
 佐渡では支障なく暮らしております」

そして、鬼の能について質問してきた禅竹に、こう答えるのです。

「ただ荒々しいだけの芸をしてはならない」

世阿弥は佐渡で、「金島書」を書いています。
最後まで能への情熱は消えていなかったのです。

その後、1441年、観世太夫・・・元重の能を見物中に義教は暗殺されます。
一説にはその義教が亡くなったことで、世阿弥は流罪を許されたとされています。
しかし、京都に戻って来られたのか?そのまま佐渡にいたのか・・・??いつ亡くなったのか・・・??
それは、わかっていません。
そんな不遇な晩年を送った世阿弥・・・しかし、最期まで理想とする花を、能を追い求め、伝えることを諦めませんでした。
その気持ちは、今も世界に誇る伝統芸能・能の中に生き続けています。

「命には終わりあり
 能には果てあるべからず」by世阿弥


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