吉備真備 天平の光と影 / 高見茂 【本】

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左遷・・・官位を低くして遠地に赴任させること・・・。
もう帰って来られない・・・
そんなイメージのある言葉ですが・・・
今から1300年前、九州、中国と相次ぐ左遷の目に遭いながら、カムバックした男がいました。
吉備真備です。
囲碁、軍事、カタカナまで・・・奈良時代、2度唐にわたり、日本にもたらしたとされるものは数知れず・・・学者でありながら70歳まで朝廷に仕え右大臣にまで大出世した男です。
岡山県倉敷市真備町・・・ここに吉備真備の原点がありました。

中国の西安・・・古代より現代にいたるまで世界有数の大都市です。
その中心部にある石碑・・・”遣唐留学生 吉備真備記念碑”です。
奈良時代に籐にわたり、功績を残した吉備真備を今の中国に伝えています。
古代中国は世界最先端の国で・・・日本は中国に倣った国を造るべく、有終の留学生・・・遣唐使を送り込みました。
吉備真備が行った遣唐使には玄昉や阿倍仲麻呂など多くのエリートがいました。
なかでも、留学生として選ばれた真備は、唐で多くを学び、その秀才ぶりは目を見張るものでした。
記録にも・・・
”真備は経書と史学を研究し、また多くの学芸に広く及んだ
 我が本朝の学生で、当国で名を上げた者は真備大臣と朝衡(阿倍仲麻呂)の二人だけである”
とあります。

ある日、真備は唐の囲碁名人と対決することに・・・
真備は囲碁の経験が少なく、勝てるはずもありませんでしたが・・・
なんと、真備は密かに相手の碁石を飲み込んで、勝利しました。
しかし、名人は疑います。

私がこんな初心者に負けるはずはない・・・
こいつはずるをしたに違いない・・・!!
どんなことをしてもこいつの悪事を暴いてやろう!!

真備は服をすべて脱がされ、下剤まで飲まされ碁石を隠していないか調べられたものの、結局碁石は出て来ませんでした。
真備は超能力を使って碁石を隠したのか・・・??
常識をを超越している・・・??

真備の唐滞在は20年に及び、735年に帰国し、朝廷に仕えます。
経書、暦、楽器、音楽書などを献上しました。
中でも興味深いのは、最先端の弓や矢などの武器で、この後の日本での戦い方を変えたものでした。
弓は強力な殺傷能力のあるものを持ち帰っています。
中国の弓は「複合弓」でmいろんなものを重ね合わせたものです。
弾力性を持たせた強力な弓で、200mぐらいの飛距離がありました。
唐から帰国後およそ40年、日本の国づくりに大きく貢献していくこととなります。

そんな吉備真備とは・・・??
そのルーツは岡山県倉敷市真備町です。
町の中心部に位置する箭田大塚古墳・・・真備の祖先下道氏の一族が葬られたとされる古墳です。
入り口から一番奥までが19.1m、玄室の長さは8.4mと全国最大級です。
古墳は豪族の力を示すために造る・・・通る人に力を見せつけるためのものです。
これを造ったのは、吉備真備が出た一族で、強大な力を持っていたことがわかります。
真備のもとの名は、下道真備。
その祖先は真備町一帯の下道郡の豪族であり、交通の要所であるここに古墳を築いて人々に見せつけたのです。
さらに真備町の隣の矢掛町では真備に深くつながる資料が発見されました。
寺の地下から見つかったのは・・・吉備真備の祖母とされる人の人骨です。
骨の断片が黒くなって・・・火葬されているということがわかります。
火葬されたとみられる祖母の骨・・・火葬が中国から伝わって10年ほどのことでした。
仮想文化が入ってすぐにこの地域に受け入れられたことを示しています。
唐や都と結びつきが強く、文化の伝播が早かったのです。
真備は生まれながらにして外国との強い結びつきを背景に持っていたのです。

唐から帰国した真備は時の天皇・聖武天皇のブレーンに。。。
さらに後の孝謙天皇となる阿部内親王の教育係に・・・重用されます。
東宮学士吉備真備は、左大臣・橘諸兄、僧正・玄昉らと共に、積極的に政治に参加していきます。
当時の朝廷にとって待望の人材でした。
8世紀の日本は、中国風の国を造ろうとしていました。
生の唐の文化を知っている人は、重宝され大事な存在でした。

唐での経験をもとに、国に尽くす使命感に燃えていた真備・・・しかし、事は順風満帆には進みませんでした。
藤原不比等の孫・広嗣が真備に牙を剝きます。
慰霊の出世をした真備に嫉妬してこんな言葉を吐きます。
「下道真備などという度量の小さい田舎者は、国を転覆しかねない
 早く朝廷から取り除くべきだ」
そして遂に広嗣は朝廷に反旗を翻して挙兵!!
740年藤原広嗣の乱です。
僅か2か月で鎮圧され処刑されます。
これが真備が最初に接した乱でした。
田舎者とまで評された真備・・・後にある決意をします。
下道真備から吉備真備へ・・・!!
吉備という氏は、瀬戸内海周囲の巨大勢力であったこの地域の名を元にしたものです。
あくまでも自分が地方の豪族出身であるということを主張しました。

氏を変えた真備は、朝廷に尽くす覚悟をします。
そこに立ちはだかったのが、藤原仲麻呂・・・後に真備をおおいに苦しめる相手でした。
真備の試練の始まりでした。

律令制は中央豪族のための国家で、地方豪族は権力から排除されていました。
おまけに律令制は、藤原氏に酔折でほとんどの豪族は没落するのが普通でした。
真備はあくまでも学生、学者、権力から離れていると思っていました。
しかし、真備の持っていた学問は、中国の最新の統治技術。
奈良時代は権力が移動するものの、どの権力から見ても真備は必要な人物・・・スーパー・テクノクラートだったのです。

740年、真備が長らく仕えた聖武天皇が平城京を離れます。
聖武天皇は、混乱が続く都では政治を続けられないとし、新天地を求めるたびに出ました。
その結果、740~745年まで、平城京は天皇不在の状況に・・・!!
そこに現れたのが、光明皇后の甥・藤原仲麻呂です。
仲麻呂はこれを機会に実権を握ろうとします。
745年、玄昉が大宰府に左遷、翌年死去。
盟友の死・・・次は自分が標的にされるのでは・・・??と真備は恐れます。
しかし、状況はめまぐるしく変わります。
749年、聖武天皇が退位して太上天皇となります。
変わって真備が教育係をしていた阿部内親王が孝謙天皇に・・・!!
後ろ建てを得た真備は、自らの立場が脅かされることはないと期待しました。
その矢先、750年、真備56歳の時に仲麻呂は真備を筑前守に任命。
都からの突然の左遷でした。
さらに筑前の後、750年、真備56歳の時に肥前守に任命・・・1年間で2回の左遷でした。
しかし真備はめげません。
肥前国で藤原広嗣の怨霊を鎮め、結果、地元の人々の心をつかみます。
しかし、立て続けに任務が・・・
752年、真備58歳で遣唐副使として再び唐へ!!

ここでも真備は成果をあげます。
754年、真備60歳の時、遣唐使船が唐から帰国し、鑑真を来日させます。
仏教の戒律を日本中に広めることとなりました。
仲麻呂の相次ぐ左遷命令にめげず、次々と成果をあげた真備・・・これで都に戻れるはずでした。
しかし、仲麻呂はそんな真備を都に帰すことなく大宰府へ!!
大宰府は日本と関係が悪化していた新羅が近い・・・それは、真備が防衛計画の責任者に就くことを意味していました。
真備の左遷は4年で4度。
この真備の左遷には仲麻呂のどのような思いが・・・??
仲麻呂は中国被れと言われるものの、中国に行ったことがないというのが弱点でした。
真備は実際の中国を見て知っています。
仲麻呂は中国が大好きだけど知らない・・・。
真備が九州に追いやられたことを考えると、煙たがっていたのでは・・・??

任務を果たさず引退・・・??
今こそ唐での経験をすべて生かして任務に応える・・・??
ゆくゆく胸を張って京に帰るために・・・!!

大宰府左遷の命を受けた真備は決断します。
新羅から急襲を守る防人は、武芸を習わせるだけでなく、城を築く仕事に就かせるべきだ!!
真備は大宰府で対新羅の防衛責任者という職を全うする道を選びました。
そして、防御のための城を築くことにしました。
現在の福岡県糸島市・・・真備はここにある標高416メートルの高祖山に山城・怡土城を築城します。
そこには真備独特の工夫がありました。
怡土城の中で一番強化する必要があった場所・・・入り口です。
当時の土塁の基礎工事跡が残っています。
土塁の層が固く・・・分析するとそこにはにがり成分が入っていました。
にがりは、海水などの塩水を煮詰めると出来るものです。
土に混ぜるとセメントのようになり、凝固剤の役割を果たします。
怡土城の周りでは、塩が多く取れました。
真備はその時にできるにがりを利用したと考えられます。
中国では城壁ににがりを使っています。
真備はそのノウハウを知っていたはずです。

真備の怡土城での仕事はそれだけにとどまらず・・・
高祖山の山肌が効果的に活用されています。
山肌の斜面を使い、さらに平野部も取り込む・・・。
それまでに作られた城(朝鮮式山城)とは違う様式(中国式山城)でした。
真備が斜面を利用したのは、新羅に対する独特の作戦がありました。
斜めの山城から威圧感を与える・・・さらに攻めやすい!!
唐で学んだ築城法の多くを結集して、怡土城を造りました。
左遷にめげず、現地でベストを尽くす真備・・・仲麻呂はついに折れて、真備の左遷はついに終わったのでした。
すると状況は逆転・・・仲麻呂が苦境に・・・。
764年、仲麻呂の後ろ盾・光明皇太后が崩御。
仲麻呂は求心力を失って、対新羅の計画も無くなってしまいました。
すると真備にチャンスが・・・!!
764年、真備70歳の時に孝謙太上天皇が「造東大寺長官」に任命し、平城京に戻りました。
真備が復権し、立場を脅かされ始めた仲麻呂・・・。
遂に、764年9月藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で朝廷に反旗を翻します。
真備は孝謙軍の作戦参謀として仲麻呂軍に対峙します。
闘いの最初の山場は、琵琶湖の南・・・勢多橋でした。
真備は先回りし、ここを焼き払います。
東に行こうとした仲麻呂の動きを封じたのです。
この時、孝謙軍が使ったのが、真備が唐から持ち帰った複合弓でした。
全長200mを超える勢多橋対岸から仲麻呂軍を迎え討つにはうってつけでした。
その後、逃げる仲麻呂軍を先回りして追いつめていきます。
そして・・・764年9月18日、琵琶湖の西岸で斬られ藤原仲麻呂死去。
真備と仲麻呂の因縁の対決は幕を下ろしたのでした。

真備の動きには全く無駄がなく、それは、幅広い知識があったために柔軟に応用が利いたのです。
書物で学んだだけではない実践の知識人でした。
その後真備は軍師としてだけではなく、行政官としても活躍し、右大臣にまで昇進し、計5代の天皇に仕えました。
775年10月2日、吉備真備は81歳にて大往生をするのでした。


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