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タグ:王政復古

王政復古 天皇と将軍の明治維新 (講談社現代新書)

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幕末動乱の京都・・・1867年12月9日、事件が起きました。
薩摩藩や土佐藩の兵士が、京都御所を制圧!!
天皇を中心とした新政府の樹立を宣言しました。
王政復古のクーデターです。
それから25日後の1868年1月3日、鳥羽伏見の戦いで新政府軍は、旧幕府軍に勝利し、明治維新への扉を開きました。
その中心にいたのが、薩摩藩の倒幕派、西郷隆盛と大久保利通でした。
彼等のシナリオ通りに倒幕は実現したかに見えがちですが、果たして真相は・・・??

手掛かりとなる絵が去年発見されました。
bosin小波魚青画「戊辰之役之図」です。

京都御所の鳥羽伏見の戦いの戦端が開かれた日の夕方の光景です。
舞台は、格式高い公家門です。

洋式の軍服に身を包み、門を警固する数えきれないほどの兵士たち・・・竹に雀の紋は宇和島藩です。
当時、宇和島藩は、徳川慶喜を支持していました。
戦いがが始まった時は、慶喜側の勢力が御所の要を押さえ、政局の主導権を握っていたのです。
西郷と大久保はどのようにして倒幕を成し遂げたのでしょうか?

黒船来航で幕を開けた幕末動乱の時代・・・政治の中心は京都でした。
二条城は、将軍上洛の時の宿所として徳川家康が築きました。
大広間にある四方を囲むように書かれた常緑の松は、徳川家の不滅の権力を表しています。
上段の間は最高の格式を表す”折上げ格天井”・・・太平の江戸時代を含めて、この部屋が歴史の表舞台に登場することはありませんでした。
しかし、長い時を経て、徳川慶喜がこの場所に現れたとき、時代は大きく動きました。

1867年10月14日・・・慶喜は、徳川幕府始まって以来の決断をしました。
”大政奉還”です。260年間、徳川が担ってきた政権を朝廷に返上したのです。
ところが・・・これを忸怩たる思いで見ていたのが、慶喜と対立していた薩摩と長州でした。
この時、薩摩の西郷隆盛と大久保利通はすでに、長州と共に武力討伐に動いていました。
大政奉還当日、朝廷から薩長両藩に下された「討幕の密勅」・・・
”逆臣・慶喜を”殄戮(殺し尽す)”せよ”と!!
しかし、慶喜は自ら政権を返上することで、密勅を無効にしました。
そこには、新しい政権でも主導権を維持しようという思惑が隠されていました。
西郷と大久保にとっては、どうしても食い止めなければならない事態でした。

一番大事なのは、徳川家の体制に打撃を与えること!!
残しておけば、今までと変わらない・・・
天皇の下、徳川慶喜が新たな政権の首班になる・・・。
そこには大きな大名も招集し、公議を尽くし新しい政権を運営する。
重要なことは会議で決めなければならない・・・。
そうなると、大久保や西郷が考えている大改革は発現しにくくなるのです。
二人は、志を同じくする公家・岩倉具視とともに、挽回の策を練ります。
たどり着いた結論が、大制復古のクーデターでした。

徳川慶喜の官位一等を降し、領地返上させる。

慶喜が持つ内大臣という官位を降格させることで、今後の政治活動を制限する。
全国400万石ともいわれる幕府直轄領をすべて新政府に返上、新政府のものとする。
徳川家への懲罰を天下に示すのが、大久保と岩倉の狙いでした。
具体的なクーデターの方法とは・・・??

当時の京都における幕府の警備体制は・・・
慶喜のいる二条城・・・周囲には、京都所司代を務める桑名藩の下、約400の兵が駐屯していました。
今の京都駅付近には新選組の屯所、兵士は約200人。
さらに御所の東にある金戒光明寺には幕府側最大の京都守護職・会津藩本陣が1000人!!
幕府の兵力は侮れませんでした。
そんな中でのクーデター・・・御所の迅速な制圧が重要でした。
御所の門は、外郭、内郭併せて15!!
諸藩の兵士がそれぞれの門につき、数十人単位で警護いていました。
難関は幕府側の桑名の公家門、会津の蛤門!!
しかし、不意を突いて門を押さえてしまえば、相手が御所に向けて発砲しない限りは奪い返されることはない・・・。
勝算は十分にありました。
クーデター側は、薩摩を中心に尾張、芸州、越前、土佐・・・山内容堂、松平春嶽などの慶喜と気脈を通じている
大名も参加していました。
彼等は、岩倉から次の政権にも慶喜を参加させるという条件のもとに、クーデターに同意していたのです。

そして決行の日・・・12月9日午前10時・・・。
武装した兵士たちが、御所への侵入を開始しました。
難関の一つ公家門の桑名兵は数十人・・・不穏な形勢に薩摩藩の到着前に退去。
蛤門を守っていたのは数十人の会津兵・・・。
不意を突かれた彼らは、土佐藩兵に門を明け渡し退去。
クーデター側は、完全に御所を制圧!!
王政復古の大号令が発布されました。

朝廷の最高官職である摂政、関白、そして将軍職を廃止する!!
天皇に直属する中央政府を創設し、総裁・議定・参与を政権を担う。
皇族や公家、クーデターに参加した大名だけでなく、大久保や西郷たち藩士も参与として登用されました。
大久保は、この日のことを興奮をもって日記に書いています。

我が兵を以て 禁闕警衛の様 未曽有の壮観 見る者肝を失う

クーデターは成功しました。
しかし、大久保は、この日が25日間に及ぶ熾烈な権力闘争の始まりだとは知る由もありませんでした。
どうして、大久保、西郷は執拗なまでに、慶喜を排除しようとしたのでしょうか?
①慶喜の能力、行動力への恐怖感
②下級藩士の大久保、西郷は新政府での主導権を握りたいという野心

武力衝突をしないで、大政奉還という安全策をとった慶喜・・・
大政奉還は、損を確定させる安全策でした。
しかし、それは経済的には合理的な方法で、この期に及んでこの方法をとれる慶喜が、恐怖の対象だったのです。

西郷、大久保は、自分が日本のすべてだと、自分で代表できません。
天皇というフィルターを通すことが必要でした。
大政奉還によって、慶喜もその方法をとってしまったので、より分かりやすく排除する必要がありました。

どうして簡単にできたのでしょうか?
それは、この王政復古の大号令が、事前公開クーデターだったからです。
松平春嶽達には、「慶喜は議定という役職で参加させる」と、うそを伝えます。
これが慶喜の耳にも入り、恭順の道をとるのですが・・・強硬派である会津・桑名藩にはこの情報は漏らしませんでした。
考えたのは、岩倉、大久保たちだったのです。

クーデター当日の午後4時・・・
武装した兵士たちが取り囲む中、紫宸殿の北東にある小御所で、慶喜の処遇をめぐる会議が開かれました。
小御所会議です。
三部屋続きの広間で、公家や大名たちが議論します。
ここには岩倉は入っていますが、大久保たちは下の部屋・・・。
身分の差から、基本的に発言は許されていませんでした。

会議は紛糾します。
慶喜の失政を責め、新政府入りを阻もうとする岩倉達倒幕派。
話が違うと、土佐・山内容堂が真っ向から反論します。
「大政奉還という大英断を行った慶喜公を、この場に参加させなくては公議の意味が失われる!!」
越前の松平春嶽も続きます。
「徳川氏が数百年にわたって朝廷を助け、政治を行った功績は、今日の罪を覆う」と。
徳川擁護の理路整然とした主張が会議を支配しようとしていました。
その時・・・大久保が!!
「幕府の失政は重税に値す!!
 慶喜の官位を貶し、所領を収め、それに不平を言わず応じることがなければ、新政府入りは認められぬ」

大久保や岩倉は、厳しい条件を突き付けて、丸裸に資、一旦は新政府に完全服従すると意思表示させる・・・
耳目を一新する!!
世の中が変わったんだということを、日本中に知らせて、改革を覚悟させようとしたのです。
外で警護を担っていら西郷は・・・
「短刀一本あれば片が付く」と、岩倉達に伝えて鼓舞しました。
そんな岩倉は、慶喜の参内を拒否!!
徳川擁護派も頑強に抵抗!!
春嶽は、国元への書簡にこう書いています。
”死しても我魂は 守護天幕する”・・・と!!
激しい議論の末、慶喜の辞官納地については、春嶽らが交渉したうえで慶喜から返上を申し出るという穏便な形でおさめられました。
大久保や西郷にとってクーデターの結果は、苦い勝利と終わりました。
さらに・・・12月12日、思わぬ事態が・・・
春嶽との交渉も始まらないうちに、慶喜が会津、桑名の大軍と共に大坂へ・・・!!
このままでは辞官納地は棚上げされかねない・・・大久保と西郷の危惧は深まります。
おまけに、大名達が新政権に背いてしまったら、完全に薩摩は孤立してしまう・・・!!
12月24日、西郷と大久保は、更に大きな後退が・・・!!
”先刻の大名は話し合いのうえ、新政府の財政のため領地を提供する”事が決まりました。
徳川以外の大名も領地を提供することになれば、徳川だけ領地を召し上げ懲罰を天下に示すという目論見は吹き飛んでしまう・・・!!
12月28日、慶喜、新政府の決定を受け入れる!!
官位は返上するものの、徳川の権威は維持したまま新政府に入るという道が開けたのです。
風向きの変化に動揺したのか岩倉は・・・
「自分は最初、討幕論だったが、大政奉還で慶喜公を見直した。
 新政府には不可欠な人物である。」と漏らしています。
徳川擁護派にすり寄るかの岩倉の態度・・・
西郷と大久保は次第に窮地に立たされていきます。

薩摩藩上屋敷・・・この地で政局を揺るがす事件が起こります。
1867年12月25日、薩摩藩邸焼き打ち事件!!
旧幕府の治安部隊が、薩摩藩邸を焼き打ちしたのです。
発端は一月前・・・
江戸市中の豪商が、浪士団に襲撃される事態が横行!!
治安部隊は、浪士たちが薩摩藩邸に匿われていることを突き止め、引き渡しを要求!!
しかし、これを薩摩藩が拒んだことで、焼き打ちとなったのです。
従来、この件は、武力討幕のきっかけを作るために、西郷が浪士を使い旧幕府軍を挑発した謀略だとされてきました。
ところが・・・近年異なる説が・・・。
根拠となるのが、このことを聞いた西郷の書簡に・・・
「大いに驚愕している
 残念旋盤の次第」と書いているからです。
西郷は、この件には関与していない・・・??
薩摩にとっては、予想もしなかった事態に・・・!!

大久保の武力倒幕か・・・??
西郷の薩摩に帰って時期を待つのか・・・??

1868年1月2日、旧幕府軍、京へ向けて進発!!

目的は、敵対する薩摩藩士を新政府から排除すること・・・!!
巨大は軍事力を擁した慶喜のデモンストレーション!!
西郷、大久保、どうする・・・??

決断が下されたのは、クーデターから24日目・・・1月2日でした。
大久保の日記には・・・
慶喜は上京して薩摩の罪を問うつもりだろうが、その機先を制して戦に決する!!・・・と!!
旧幕府軍の上洛を阻止せよと朝命を受けた大久保に西郷も同意!!
ここに、武力倒幕が決まりました。
御所から10キロ・・・伏見区小枝橋・・・薩摩・長州両軍は、藩兵を布陣させます。
そして・・・1月3日夕刻・・・進軍してきた旧幕府軍に薩摩の大砲が火を噴き、鳥羽伏見の戦いが始まりました。
周到に陣地構築していた薩摩兵の前に、旧幕府軍は不意をつかれ、次々とうち倒されていきます。
初戦の勝利によって戦局は大きく動きました。
日和見をしていた公家たちは、鳥羽で維新派が勝ったと知り、岩倉や討幕派の公家たちに面会を求めます。
1月4日・・・戦場に錦の御旗が・・・慶喜追討が発せられます。
諸藩は雪崩を打ったように新政府軍に・・・!!

土佐・山内容堂も・・・「この上は、朝廷の御沙汰次第に・・・」と、答える以外にありませんでした。
武力倒幕という危険な賭けにまで出て、西郷、大久保が手に入れたいものとは何だったのか・・・??

全国の藩主が版籍奉還・・・
この精神があったようです。
”一君万民”の体制を作ること・・・天皇の下に、日本の全人民を結集できる体制を作ること。。。
挙国一致体制を作れれば、西欧からの圧迫も跳ね返せるのでは・・・??

明治維新へと至る25日間の戦い・・・
勝敗を分けたのは、この国の形を根底から覆そうという西郷と大久保の固い志でした。



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明治維新の正体――徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ

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ちょっとバタバタしてまして遅れちゃっています。。。

1867年秋、西郷たちは岩倉と手を組んで・・・
土佐の山内容堂は、政権を返上せよと慶喜に進言してきました。

そして、慶喜は大政奉還することで・・・
討つ大義名分を排除することで戦いを回避、徳川の生き残りを考えています。
そのことに、京都の会津藩邸でも大混乱

”大政奉還”・・・江戸幕府を開いてから260年・・・
きっと、当時の人は徳川が朝廷から政権を預かっているなんて、知らなかったんじゃないかなあ・・・とも思うので、本当に大混乱だったことでしょう。
”徳川が無くなる”のですから。。。
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1867年10月15日、遂に慶喜が参内し、大政奉還が行われました。




そこで、薩摩と長州は大義名分を失ったかに見えたのですが・・・

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密談している西郷・大久保・岩倉・・・偽勅を使うようです。。。





あ~こんなに西郷さんのことを悪く書いていいのでしょうか???
初めて見たかもしれませんね。。。
悪は、大久保と岩倉具視ってイメージが強いのですが、ホントにこのドラマでは薩摩が、西郷が”悪”になってますね。。。
そして、王政復古を考えている岩倉具視もいますよ。。。

大政奉還された今、会津は・・・
容保公は、もしもの時は出陣の覚悟を決めたようです。

神保内蔵助は西郷頼母とお話しにきたようです。
「都の様子・・・お聞き及びか・・・??」
大政奉還の事のようです。
そして、挙藩出陣の事を・・・
頼母は相変わらず戦わずに済むように、何とかならないか・・・と、思っているようです。
京都守護職を命じたのは幕府、その幕府が無くなった今、京都守護職のお役目も消えるのではないか???ということです。
薩摩と長州が来る前に、会津に帰るべきだ・・・
しかし、都では、その正論が通らぬ・・・と、内蔵助。。。

尚之助は反射炉について書き留めています。。。
会津のお偉いさん方もなんだかきな臭い方へ・・・

京都でも・・・
覚馬の学問所にお手伝いに来ているのは、小田時栄。
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大垣屋が目の見えない覚馬の為に身の回りの世話によこしたのです。
しかし、女子の手は要らんという覚馬。。。
そんな二人を不逞浪士が襲います。
徳川と会津は厄介者だから。。。

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1867年11月18日・・・薩摩と長州が動き出しました。
土佐・・・その他の藩はどうするのでしょうか???

11月23日・・・
薩摩は藩主警護の名目で相国時に兵を進めます。。。

え・・・何を思ってか、風邪と偽って朝議を欠席する慶喜・・・
うかうか参内して薩摩にとらわれることを思案しています。
容保にもそう言い伝えよとのことですが
これに欠席したことで、反体制派が蘇るというか、全て手のひらが返ってしまうのです。。。
岩倉具視によって、王政復古が行われてしまいました。
摂政関白と幕府を廃絶、政は総裁・議定・参与によって行うこととなります。

そして、御所の護衛は薩摩に・・・

御所では、新政府の会議が初めて行われていました。
徳川は一体どうなるのでしょう・・・
そして、会津は・・・???

慶喜は、官位一等を下げられ、領地の半分200万石は召し上げとなりました。。。
徳川の治世は、ここに終わりを告げたのです。。。

巻き返しを図るため、慶喜は容保と共に大坂へ・・・

あ~、遂に大坂へ向かうのですね・・・。
これで会津の士気はダダ下がり・・・
っていうか、慶喜に振り回されて・・・容保はホント、可哀想です。。。
で・・・これからもっと、過酷な運命が待ち構えているのでした。。。


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私にとってはいわくつきのTHEナンバー2岩倉具視です。
前回、あまりにも難しすぎて、レポートに失敗というか、断念してしまいました。

今回はどうなることやら???
そう・・・今思えばご意見番は加治将一さんでしたあせあせ(飛び散る汗)

岩倉具視 (幕末維新の個性)

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時代が江戸から明治へと大きく動いていた京都洛北で・・・
密談する男たちがいました。
薩摩藩士・大久保一蔵(利通)・長州藩士・品川弥二郎・・・そこにいたのは、粗末な着物に粗末な家・・・ふてぶてしい顔を持った男・岩倉具視でした。

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階級制度の厳しい公家の世界にあって、下級公家だった岩倉具視・・・
彼は、自らの裁量で道を切り開き天皇の侍従に・・・、皇女和宮の御成婚まで成し遂げます。
しかし、権力闘争に敗れ、岩倉村で幽閉・蟄居していたのです。
が・・・その間も意見書を書きまくり、倒幕、王政復古の策をめぐらせていました。
彼が夢見た新しい世界とはどんな世界だったのでしょうか???
彼は、明治維新の立役者でしょうか?
それともとてつもない野望を抱いた策謀家なのでしょうか???


彼が歴史の表舞台に現れたのは・・・
黒船から5年たった1858年・・・
京都御所が物々しい雰囲気になっていました。
幕府の老中・堀田正睦が通商条約締結の勅許をえるために宮中に参内・・・関白の九条尚忠が条約の議案を提出したところ88人もの公家が集まり、撤回を求めたという・・・
いわゆる“廷臣八十八卿列参事件”です。
公家が許可もなく宮中に参内することは前代未聞のことでした。

事件のせいで、関白・九条尚忠の求心力は低下、九条に取り入ろうと・・・通商条約のお墨付きをもらおうとしていた堀田正睦の目論みはご破算となりました。

その・・・首謀者こそ、岩倉具視でした。
下級武士の岩倉がどうして・・・???
実は、これは用意周到に計画されていたものでした。
宮中において関白は、殿下と呼ばれ、公家社会最大の権力者で・・・天皇でさえその意見に反対することは困難でした。

老中・堀田も九条に対し“手入れ”として・・・およそ3万5000両も用意したと言います。
しかし・・・それを快く思わなかったのが、先の関白・・・“鷹司正道”。
自分にあいさつもなく、堀田が九条にすり寄っている・・・
蔑にされたことを恨んでいました。

頭が回り、弁も立つ・・・しかし下級武士の岩倉は・・・
40歳を目前に冷や飯ぐらいでした。
そこで・・・鷹司に・・・“歌道の弟子”となることで近づきます。

そんな岩倉にとって千載一遇のチャンスが!!!
水面下で鷹司の命を受けた岩倉・・・
密かに走り回り・・・88人の公家列参をやり遂げます。
そして、上司・鷹司の敵・九条を引きずり下ろすことに成功しました。
華々しい政界デビューでした。

岩倉が行った“廷臣八十八卿列参事件”によって、堀田正睦が失脚・・・
堀田を立てて息子・慶喜を将軍に・・・と企んでいた徳川斉昭の力が低下・・・
それに乗じて反対派の井伊直弼が大老として躍り出ます。

井伊は、天皇の勅許を待たずにアメリカとの条約に調印・・・
斉昭は天皇の命で井伊を失脚させる“戊午の密勅”で反撃しようとするも・・・井伊に握りつぶされてしまいます。
そして、井伊の勢いは止まらずに・・・安政の大獄へ・・・。
しかし、その井伊も 桜田門外の変で暗殺されてしまいます。

安政の大獄の余波は、宮中にもおよび・・・
鷹司も・・・
しかし・・・この時、岩倉は・・・
すでに岩倉の妹・堀川紀子が孝明天皇の側近となり、寵愛を受けて。。。
紀子が天皇との間に女児を設け・・・その口利きで天皇の近習となっていました。

当時、天皇には大きな悩みがありました。
幕府と朝廷を・・・公武合体しようとする考えのもと・・・和宮との婚姻を進めようとする幕府・・・しかし、これは有史始まって以来の朝廷の危機でした。
心を許せるのは・・・紀子の兄・・・岩倉具視のみ・・・。


天皇「そちはどう思う?」
岩倉「ご心配なさいますな。
   和宮の御降嫁をお進め下さい・・・。」

岩倉は、水面下で幕府側・・・所司代・酒井忠義と接触し、幕府の力の衰えと、朝廷に力をすがろうとしていることを掴んでいました。
こうして、意見書にもまとめられ、和宮の降嫁が決まりました。
そして岩倉は、下級公家であるにもかかわらず、天皇の勅使を受け、幕府側との交渉に臨むことになるのです。
皇女・和宮降嫁でスポットライトを浴びる岩倉具視。。。
和宮を降嫁させるときに内親王にして降嫁させます。
内親王とは、天皇の皇女およびその姉妹ということで・・・将軍よりも位が上となります。
つまり、家康以来、幕府との関係が反転することになったのです。

宮中で幕府に最も顔が利く男となった岩倉・・・
その存在は大きくなっていきました。
そこに目をつけたのが・・・薩摩。
ライバル長州が長井雅樂を使って公武一和を進言・・・
島津久光の命により大久保利通が岩倉に近づきます。

1862年4月16日・・・
会合の後、寺田屋騒動がおきます。
さらに九か条の献策を持って江戸へ・・・
維新に向け薩摩の構成を裏で操っていたのは岩倉でした。

しかし・・・奈落の底へ。。。
三条実美・綾小路公知らの33人の連署によって突然蟄居が言い渡されます。
理由は、幕府・酒井忠義に内通し、公家側の秘事を漏らしたから・・・というものでした。
妹・紀子も隠居させられていました。
近衛忠煕が関白に返り咲くと、九条尚忠への意趣返しが始まったのです。
そして目障りとなったのが岩倉だったのです。
此処には孝明天皇が自ら三条に傾く条件もありました。
三条実美らは絶対の攘夷派・岩倉は、幕府に近いのでどちらかというと開国派だったのです。

京のはずれに逃げ込んだ岩倉・・・
しかし、虎視眈々と時期を狙っていました。
その間5年・・・
その間に・・・時代は刻々と変わります。
長州、薩摩・・・そして、三条らの七卿落ち・・・
西郷・大久保・桂・坂本・中岡・・・

寒村に押し込められていた三条は、意見書を書きます。
ここで、薩長連合を説いています。

う~ん・・・ここら辺から頭がこんがらがってきました。
だいたい岩倉具視ひとりでそんなことができるのか???
よく考えるととっても不思議・・・
失恋

岩倉具視・大逆転を狙う乾坤一擲の策は・・・???相手は将軍・慶喜。

そう、相手は慶喜・・・って、どこまで黒幕なんだ・・

1867年12月8日・・・日本が変わる48時間が始まりました。
この日、京都御所では・・・大名や公家たちの官位普及や赦免を行うことになっていました。出席者は有力公家たちと薩摩などの大名・・・
しかし、慶喜は病気を理由に会議の席には着きませんでした。
孝明天皇崩御の恩赦により蟄居の解かれた岩倉は・・・
次の間に控え・・・会議は朝方終了。
はれて宮中入りを認められた岩倉は・・・上奏文を読み上げます。
政治革新についての文書です。
そこには、幕府だけではなく・・・摂関政治をも廃止にするというものでした。
時を移さず会議が・・・
将軍のいないままに話が進んでいきます。

慶喜と、二条摂政がいない欠席の場で、“幕府廃止”と“摂政廃止”が決まってしまいました。
岩倉が練り上げた秘策の秘・・・それは、王政復古だったのです。

260年続いた徳川を倒すのではない・・・平安より続いた朝廷の摂関政治をも終わらせるのだ!!
それは、才覚さえあれば、下級公家の岩倉も、下級武士の大久保も政治の中枢に登ることが出来る!!そうなった瞬間でした。


加治将一さん・・・「天下の西郷」「天下の岩倉」とか言ってましたが・・・後から見たら天下の・・・ですが、この時“天下の・・・”だったんだろうか???

岩倉具視最大の疑惑・・・それは・・・
明治新政府のNo,2となった岩倉が・・・1871年岩倉使節団としてアメリカ・ヨーロッパを訪問、不平等条約改正の予備交渉と、西洋文明の調査を行いました。
そのメンバーは・・・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・・・明治の世を切り開いた人たちでした。
ここに、龍馬がいたならば・・・


出た~!!龍馬暗殺説!!
またまた加治さんならではです



しかし、中岡慎太郎と、岩倉具視の画策・・・幕府を倒すためには・・・幕府を生かそうとする龍馬は邪魔者になっていたのです。
近江屋で暗殺された竜馬・・・
もし、中岡が龍馬暗殺に関わっていたとしたら???

岩倉具視が関与していた???

と、何でもかんでも岩倉具視さんが黒幕で終わってしまいました。失恋

龍馬暗殺説に関しては、京都見廻組が有力です。
どうして高らかに発表しなかったのか??
それは、龍馬と一緒に関係のない中岡慎太郎が殺されたから・・・
という説まであります。
ま・・・中岡慎太郎の何が関係ないの???っても思えますが・・・
そこをあーだこうだというのが面白いのですが黒ハート

そうだ・・・だから、頭がこんがらがるんだ・・・失恋
たくさんの草莽がいて、その時代のうねりに逆らうことは誰もできなかったと・・・
私はそう思うのです。
例えそれがみんなの好きな坂本龍馬でも、私の大好きな土方歳三でも・・・あせあせ(飛び散る汗)

一人の人の頭で仕上がるなんて・・・あんまり考えられないなあ・・・失恋


って、中立にレポートできませんでした。
ごめんなさい・・・たらーっ(汗)


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