日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:田原総一朗

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田原総一朗の仰天歴史塾です。
あ~、長いこと眠らせてしまっていました。

1989年1月7日・・・昭和が終わり、新しい元号が・・・平成が始まりました。
戦後政治が大転換をした時代です。

後を追うように、昭和を代表する人たち・・・美空ひばり・手塚治虫・松下幸之助・・・時代の変わり目を感じさせられました。
これまでとは違い、親王本人の意思のもと、皇室に紀子さまが入り・・・美智子さまに続く民間からのプリンセスでした。
皇太子も雅子さま、紀宮さまも民間へ・・・。
即位の礼で新しい天皇が誕生し、新しい時代が始まりました。

平成の幕開けと共に、永田町に激震が走りました。
それは、自民党支配崩壊の序曲でした。
”リクルート事件”です。

右肩上がりの時代、未公開株は確実に値上がりする・・・。
株の譲渡は現金の受け渡しと同じことでした。

リクルート社は、売上高1兆円を超えるまでになっていました。
江副浩正社長は、カリスマと・・・メディアから注目を浴びていたのです。
政官財を巻き込んで、大きなスキャンダルとなっていきます。
江副氏は、大物政治家へたくさんの献金も行っていたので、疑惑に拍車がかかります。

捜査は、歴代の総理大臣から現閣僚まで・・・。
内閣官房長官の逮捕に至りました。

1989年6月2日竹下内閣総辞職。

ここから、自民の一極支配が崩れていくのでした。

”政権が安定していないと経済は発展しないとの思いから政治献金をしたが、逆の結果になった。
 私は大罪を犯してしまった。
 悔やんでも悔やみきれなかった”by江副浩正。

兜町ではハクをつけるためにえらい人に株を買ってもらうというのは、当たり前のことでした。。。
しかし、その時代を引っ張っていく人たち・・・改革をしようとしている人たちに嫌疑がかかっていったのです。
この中には、経済団体の幹部もたくさん入っていて・・・
賄賂をもらっているつもりはありませんでした。

江副浩正さんがのし上がってきたので・・・
評判を落とそうとしたのかも知れません。
ライブドア事件と似ているかもしれません。

当時は大平首相が、直間比率の見直しが行われていました。
つまり、直接税(所得税)を減らし、間接税(消費税など)を導入しようとしている時だったのです。

竹下首相は下りたものの・・・次の首相候補はみんなこの事件との噂があって・・・
宇野さんが首相となったのでした。
清廉潔白が看板の人でした。
大臣を歴任し手堅い首相となるはずでしたが・・・
女性問題で・・・ワシントンポストまで取り上げます。

参議院選挙の結果は・・・この二つと消費税増税が重なって、社会党が勢いづきます。
土井たか子さんが日本初の女性党首を銘打って・・・マドンナブームを巻き起こします。
自民党は始まって以来の過半数割れ・・・

これから自民党政治の漂流がはじまりました。
宮沢内閣時には、党が分裂。
戦後の体制を変えようという新党ブームが始まったのです。
細川非自民連立内閣が発足します。

日本のバブルの源流は、1985年ニューヨーク・プラザホテルでの会談でした。
これがバブルに繋がっていく・・・プラザ合意です。
先進5か国の代表が集まって、赤字の続くアメリカを助けるためにドルを安くする為替会議です。
当時の竹下大蔵大臣は、円高にもかかわらず、アメリカの意向を組んで決断したのです。
急速な円高が始まります。
それは予想を越えて行きます。
中小企業を直撃し、円高不況が始まったのです。
金利を下げ、景気を刺激します。
半導体、自動車は円高にもかかわらず好調で・・・貿易黒字はたまり続けたのでした。

だぶついたお金が、株や土地に向かったのです。
バブルの到来です。
地価は高騰し、地上げ屋が出て来ます。
東京23区の土地の値段でアメリカ全土が買えるとまで言われました。
財テクの時代・・・企業は、土地をはじめ、様々なものに投資していくのでした。

ゴルフ会員権・絵画・デパートに2000万を超える宝石・・・一億総財テク時代の到来です。
投資の為に高級住宅地を買い・・・人のいない住宅地が出来たのでした。
三菱地所はロックフェラー・センターを買収、日本は絶頂に・・・。
1989年12月29日には、史上最高値3万8915円87銭を記録します。

人々はバブルに酔っていました。
しかし、あっという間にはじけてしまったのです。
株と地価が下落。。。

バブルは世界中で起こってきました。
代表的なものがこちら。

1637年 オランダでチューリップバブル
チューリップの球根への投資で、突如価格が大暴落。

1720年 イギリスで南海泡沫事件(サウス・シー・バブル)
南海会社株への投機崩壊
バブル経済の語源となりました。

1929年 アメリカで暗黒の木曜日
車・ラジオ・電気などの株に投機
ウォール街で大暴落⇒世界恐慌へ。。。

1989年 日本でバブル崩壊
高度成長末期に、株・地価のバブル崩壊
失われた20年の始まりです。

2008年 リーマンショック
サブプライムローン危機
リーマン・ブラザーズ史上最大の倒産。

2010年 ヨーロッパでギリシャ危機
ギリシャの財政赤字から発生
ユーロ圏の国債バブルが崩壊

そうして、喜ぶ人たちを誰も泊めることは出来なかったのです。

日米貿易摩擦・・・

80年代、アメリカの対日貿易赤字は膨らむばかり・・・
半導体・車などが問題だとバッシングをし出しました。
そんな時、冷戦が終結し・・・アメリカの敵は、ソ連の軍事力ではなく、いつの間にか日本の経済力になっていました。
アメリカは、本気で日本を叩きだします。スーパー301条を成立させます。
ブッシュ政権は、日本の経済構造を変えるようにと日米構造協議をし、日本は妥協しました。
しかし、クリントンはこれを失敗とし、日米包括経済協議を!!!
日米は、スーパー301条をめぐる戦いになっていきます。
この攻防は、日本の経済が低迷するまで続くのでした。
1989年が今を作っています。
私たちは失われた20年に陥ってしまったのでした。


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田原総一朗の仰天歴史塾です

1989年・・・世界が動き・・・ここから全ては始まりました。
冷戦が終わり・・・平和がくると思われていましたがそうではありませんでした。

湾岸戦争・フセイン・同時多発テロ・・・終わりなきテロとの戦いが始まったのです。
天安門事件も・・・
1989年はどんな時代だったのでしょうか???

1947年アメリカのトルーマン大統領が、ソ連封じ込めを宣言しました。
スターリン率いるソ連が、東ヨーロッパで次々と共産政権を樹立していって地固めをしてきたからです。
アメリカ側は1949年NATOを、ソ連側は1955年ワルシャワ条約機構を作り、冷戦が始まったのです。

1961年にはベルリンの壁が出来ました。
米ソは覇権を争い、際限ない軍拡競争に突き進んでいきます。
核軍拡の時代です。

しかし・・・核を使うと滅亡することが解っているので、代理戦争へと突き進んでいきます。
絶対に米ソが戦わない戦い・・・それが冷戦でした。

1985年、ソ連に現れた指導者はミハエル・ゴルバチョフ。
その頃ソ連では、慢性的な品不足に悩まされ・・・経済が行き詰っていました。
1979年に始めたアフガニスタン侵攻は、イスラム勢力によって長期戦に陥って・・・これが、国家財政を逼迫させていたのです。
ゴルバチョフの改革・・・ペレストロイカ・・・ソ連を豊かな国に作りかえるために!!
経済の立て直しを図るために、軍事の方向転換を余儀なくされます。
その頃のアメリカは、スターウォーズ計画によってソ連の核ミサイルを人工衛星で撃ち落とすというものでした。
完成すれば、ソ連の核は無力化されます。
ゴルバチョフは・・・これ以上、アメリカと軍事力で争うことは出来ない・・・と、決断します。

ゴルバチョフは、冷戦を終わらせる戦いを始めました。
1988年アメリカを訪れます。
民主化ドミノの始まりでした。

1989年2月ソ連がアフガニスタンから撤退
・オーストリア・ハンガリー国境でピクニック事件
・バルト三国で100万人の”人間の鎖”

東ドイツは・・・西ドイツへの旅行を認めます・・・。
それには許可が必要でした。
それを・・・西ドイツが、東ドイツが国境を解放したと放送してしまいました。
東ドイツ市民は、西ドイツのテレビを見ていました。
騒ぎが始まりました。
真に受けた東ドイツ市民は国境付近へ・・・!!
続々と・・・!!警備兵も止めようがありません。。。
11月10日ベルリンの壁が崩壊してしまいました。
もはや、誰も泊めることは出来ません。。。
ドイツは統一していくのでした。

ひと月後・・・地中海のマルタ島で・・・
ブッシュ大統領とゴルバチョフが会談し、ここに冷戦は終結したのでした。

どうしてソ連が負けたのか???
グラスノスチ・・・情報公開、表現の自由です。
東側の人たちも、西側のテレビを見て・・・西がどれだけ豊かであるかを知っていました。
テレビの力が大きかったのです。
西の経済は、量から質の経済に移っていたのです。
社会主義はサービスがないので、量だけで良かったのです。
つまり・・・西側が勝ったのではなく、東側の不戦敗だったのです。

冷戦の終結で・・・世界が大きく変わっていきます。

翌年・・・中東で新たな戦いが始まりました。
主導したのは・・・中東の独裁者、サダム・フセイン。
フセインは、イラクの独裁者で、アラブ世界の統一を目指しすバース党に入り、暗殺とクーデターに明け暮れ・・・台頭していきます。
独裁者として君臨していくのです。
アラブ世界を統一し、イラクを最大の国にするために・・・!!

イラクの軍事力は、東西冷戦の賜物でした。
米ソが自らの陣営に引き込もうと・・・さかんに軍事協力していたのです。
フセインは、冷戦終結をチャンスと見・・・
クウェートに目をつけます。
人口200万人の小さな国なのに、石油が豊富でした。
突然・・・1990年クウェートに侵攻!!
イラク軍は、わずか6時間で首都を陥落し支配していきます。
東西どちらもフセインを非難します。

国連が多国籍軍を編成し、アメリカはソ連の脅威に対抗し、ドイツの米軍をサウジアラビアに集結します。
その数・・・53万でした。
アメリカがイラク軍への空爆を開始します。
湾岸戦争の勃発でした。
空爆は1か月も続き・・・地上戦も開始。。。圧倒的軍事力によって、わずか100時間でイラク軍をクウェートから撤退させたのでした。
圧倒的な軍事力を見せつけるアメリカ・・・!!
冷戦後の一極支配・・・アメリカ独り勝ちの時代です。
しかし、国連は、イラク本国への攻撃までは認めていませんでした。
中東に火種が残されたのでした。

日本的には・・・湾岸戦争当時、海部俊樹内閣で、自民党の幹事長は小沢一郎でした。
小沢さんは、湾岸戦争に参加するべきだ!!といいましたが、軍事力を二度と世界に出してはいけない!!徒いう人が、自民党の中にもたくさんいて(海部俊樹・後藤田正晴)・・・

先の大戦の間違いを二度としてはいけない!!
ということで、自衛隊は参加せず、10億ドル+20億ドル+90億ドル・・・端数も含めると、130億ドル出しました。
しかし・・・クウェートが米紙に出した官舎広告に・・・日本の名前はありませんでした。
それは・・・軍隊を出さなかったから・・・でした。
血を流さなくても汗を流そう!!ということで出来たのがPKO法です。


同時多発テロ・・・
これで、アメリカの心臓部が破壊されたのでした。
テロ戦争の時代の始まりです。
ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が!!
もう一つが国防総省に!!
9・11同時多発テロ・・・前代未聞の攻撃です。
仕掛けたのは、オサマ・ビンラディン。
国際テロ組織・アルカイダのリーダーでした。
潜伏先のアフガニスタンから指令を出していたと思われます。

火種は湾岸戦争にありました。
サウジアラビアに駐留していたアメリカ軍をみて・・・ビンラディンは・・・異教徒の軍がイスラムの聖地にいる・・・っこれは許されない!!と。

アメリカとの戦争を決意します。
実行犯は、西洋に対応できる高学歴の者。。。
主犯はモハメド・アタ。
自爆した飛行機を操縦していました。
エジプトで生まれたアタは、頭がよくカイロ大学へ・・・
建築家が夢でした。
ドイツに留学し、欧米社会に溶け込んでいました。
しかし・・・アルカイダが近づき・・・思想が変えられていきます。

「イスラムは被害者だ!! 欧米の陰謀から自衛すべき・・・!!」

高学歴で外国語に堪能な若者たちが集められます。
アメリカで・・・市民に紛れて準備を進めます。
新しい形の戦争へ突き進んでいきます。

タリバン政権を攻撃するアメリカ!!しかし、ビンラディンは行方をくらませます。。。
アメリカの戦いは続いていきます。。。

イラク戦争勃発!!
遂にフセインを倒しますが・・・永遠と・・・ビンラディンとのテロとの戦いが続いていきます。

しかし、2011年パキスタンに潜伏していたビンラディンを急襲、殺害します。
9・11から10年が経っていました。

この9・11は、アメリカが独立戦争以来初めて戦場と化した・・・ショックな出来事でした。
何処の国からの攻撃を受けたことのなかったアメリカ本国が・・・!!
アメリカにとっても国際社会にとっても・・・宣戦布告もなく・・・相手が国ではなく一部のテロリストが民間人&民間機を使っての攻撃は、今までの戦争概念を覆すものだったのです。

国対国の戦いが・・・テロとなったことで、戦争の手段が変わり・・・安全保障も変わってしまいました。

湾岸戦争・アフガン・イラク・・・冷戦後も紛争は多発し、国際貢献の名のもとに、日本は踏絵を迫られます。
自衛隊が戦場に行く時代が来たのです。
アメリカをサポートした日本。。。小泉純一郎が西側でいち早く参加を表明し、特別措置法を使って、戦争中に自衛隊を復興支援の為に使ったのです。

このイラク戦争を受けて、安倍総理がいちいち特別措置法を使わなくてもいいように・・・
憲法を改正しようとしているのです。
しかし、矛盾していますが・・・日本を一歩出れば、外国にとっては自衛隊は軍隊です。
自衛隊を軍隊にするのか???現代にも続いている問題です。


1989年6月・・・中国の天安門広場では・・・
東ヨーロッパでの風が中国にも波及しようとしていました。
鄧小平は、改革によって中国の近代化を図ろうとしていました。
共産党の一党支配を見直す???
民主化を求める学生たちが、天安門広場に集まってきます。
ハンガーストライキを行いました。
デモは膨れ上がっていく一方でした。

デモを始めた学生たちは、共産党を倒す気など毛頭ありませんでした。
自由や、役人の腐敗を訴えただけだったのです。
趙紫陽は、泣きながら学生たちに訴えます。
「ハンストを早くやめてください。
 政府と話し合うことは出来ます。」
しかし、趙紫陽は、この日を境に姿を消してしまいました。

最高実力者・鄧小平の影がそこにはありました。
民主化デモは、共産党支配を揺るがす!と、弾圧を決めていました。
6月4日中国の未来が大きく変わります。

戦車が天安門に・・・!!
学生たちの作ったテントに突入していきます。
中国は、血の弾圧へと突き進んでいったのです。
民主化運動は、完全に弾圧されてしまいます。この時・・・自由への道は閉ざされてしまったのです。

この後・・・鄧小平は・・・独裁体制のもと、民意無き経済大国へと突き進んでいくのです。
中国型社会主義市場経済を導入しながら中国共産党の一党独裁を安定化させる・・・この難しいやり取りを中国は続けているのです。

経済発展を遂げた中国は、資源と市場を求めて膨張を始めます。
豊かな資源が眠るとされる尖閣諸島にその触手を伸ばし始めます。
2012年・・・反日暴力デモが起こり・・・日本企業が狙い撃ちされてしまいます。
日中は・・・かつてない危険な領域へ!!

1989年・・・日本では昭和が終わり、新しい時代が始まりました。
それは政治の世界にとっても、波乱の幕開けでした。
自民党政権が・・・!!
政治改革・新党ブーム・・・バブル絶頂期・バブルの崩壊へと進んでいくのです。

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昨日の、田原総一朗の仰天歴史塾~経済大国の罠 田中角栄と中曽根康弘~ の続きです。るんるん

ロッキード事件のあと、福田内閣・大平内閣・鈴木内閣が発足しますが・・・

1982年、小さな派閥で、田中角栄派の協力を仰ぎ誕生したのが、内閣総理大臣・中曽根康弘です。
「直角内閣」とか、「角影内閣」とも呼ばれました。

その最大の理由は、官房長官に後藤田正晴を選んだことです。
”田中曽根内閣”です。

そんな彼を、人は”政界風見鶏”と呼びました。
時流を見ての変わり身の早さを、こう揶揄したのです。

しかし、彼は、トップダウン式の大統領式リーダーとして頭角を現します。
経済優先政策から舵を切り、国際国家日本を目指します。


中曽根康弘は、
1918年群馬県高崎市に生まれます。
1941年23歳で東京帝国大学卒業後、内務省に入省、その後、海軍主計中尉に任官。
そうなんだ・・・最強の内務省にいたのね・・・。

1947年29歳、衆議院選挙で群馬3区から立候補し、初当選します。

1959年41歳で岸信介内閣で科学技術庁長官、
1970年には、52歳で佐藤内閣で防衛庁長官、
1972年54歳で、田中角栄内閣で通産大臣に就任。

1982年、64歳で総理大臣に就任します。

大きな節目は、41歳で科学技術庁長官に任命された時でした。
この時に、アイゼンハワーとの会談で、平和利用のために原発を導入します。
つまり、原子力問題は、この時に始まったのです。

当時、核兵器である原爆を平和利用するというのは、画期的なものでした。

思い切ったことをするのは、田中角栄と似ています。

もっとも有名なのが、行政改革。
中曽根首相による国有会社民営化が進みます。

国鉄⇒JR
電電公社⇒NTT
専売公社⇒JT

です。

公社・公団を・・・官僚を民営化したのです。




そんな中、中曽根は、分割民営化を決断します。

そして、経済界のカリスマ・土光敏夫を引き込みます。
質素倹約で知られる、元・経団連会長です。

行革の運命は土光に託されました。

公務員は、絶対に解雇されない、給料も下がらない、待遇も落ちない!!
だからこそ、”やる気が出ない”ので、民営化しようということになったのです。


この時国鉄は累積赤字23兆円、さらに赤字を増やし続けていました。
まだまだ税金が投入される可能性があり、急務な案件でした。

しかし、国鉄は、労組が強く、民営化に大反対!!
ストが続きます。
当時、国鉄では”マル生運動”が、盛んに行われていました。
マル生運動は、国鉄当局による生産性向上のための運動のことです。

電電公社でも嫌がらせのようなことが起こります。

しかし、そろそろ高度成長期が終わろうとしていました。
歳出を抑える必要が出てきたのです。


また、中曽根は日本外交を一変させます。
訪日したレーガン大統領を、自らの別荘でもてなします。
この映像は、全世界に配信され、日本とアメリカの蜜月を知らしめました。

中曽根は、外交・防衛面での現状打開を画策します。
国際国家日本!!
国際国家における日本の立ち位置を強くしようとしました。

日米同盟の強化を図ります。
日米は運命共同体!!

「ロン・ヤス」関係の始まりでした。
テレビをうまく利用して、各国首脳との会話も、いつも真ん中の・・・会話の中心にいるように心がけました。

パフォーマンスだけでなく、
1983年ウィリアムズバーグ・サミットでは・・・
見せ場を作ります。

ソビエトに対して、アメリカのミサイル配備を推進する発言でレーガンを支援します。
会議をリードします。
国際政治で日本のリーダーが、積極的に発言したのは初めてでした。


当時は、防衛費のGNP比は1%以内でしたが、それを中曽根内閣では超えました。

ワシントンポストとの会談後、新聞に、「日本の地位は、不沈空母だ」と書かれてしまったこともあり、国内では、
「中曽根はタカ派だ!!」と、大騒ぎにもなりました。


もう一つ、教育改革をしようとしました。
”教育臨調”中曽根首相直属の諮問機関を置きました。

1975年までは、日本の教育は、”一人でも多くの子供を高校へ・大学へ上げよう”というものでした。
でも、もうほとんどが達成できるようになっていたので、目標を変えようとしたのです。

”個性化の教育をやろう”
”生徒が学校を選べるようにしよう”

教育の自由化をしようとしましたが・・・
それは、失敗します。

それは”リクルート事件”の発覚です。

政界・財界・そして官僚を巻き込んで、80人以上の逮捕者をだす贈収賄事件に発展しました。

リクルート社の江副浩正会長が、関連会社の未公開株を多くの財界人らに譲渡、これが賄賂に当たるとされたのです。

民営化で活躍したNTT真藤会長・教育臨調を進めていた文部官僚にも・・・
中曽根周辺からも逮捕者が出ました。

当時はみんなやっていたことが・・・
事件となったのです。

それは、検察・警察が中曽根を標的としたのでは???
冤罪???
と、田原総一朗さんは言っています。

日本は、新興勢力を排除する傾向があります。
旧体制が許さないというのが、リクルートにもあったのかもしれません。


田中角栄がなくなり、奇しくも同年、自民党は野党に転落、55年体制は崩壊します。
日本は、バブルがはじけて、先の見えない不況へと転落していきます。

しかし、角栄が描いた列島改造は今も続いています。
東日本大震災・原発危機・・・

日本の未来はどうなっていくのでしょうか?


この二人は、明らかに権力者!!と言えるリーダーです。
今りーだーと言える人はいるのでしょうか??
そして、この国は、これからどのように変わっていくのでしょうか???
なんだか、考えさせられます。


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田原総一朗の仰天歴史塾~戦後復興と日米安保・吉田茂と岸信介~
昨日の続きです。。。

ここから暗躍するのが岸信介。。。
講和条約発行の日・・・
公職追放を解除されて政界に復帰して来ました。

政界再編を狙って、鳩山一郎を主とする新党結成。
吉田の追い落としにかかります。

岸は、経済優先の吉田とは正反対の政治を目指しました。

その為に、保守勢力を結集させます。
「戦前は、いざという場合、陛下のご聖断で決まった。
 戦後は数が重要だ」
と、しました。

昭和の妖怪と呼ばれた男・・・

裏方に徹しながら、55年体制を作ります。


当時は財界から金をもらって政治家がお互いに覇権争いをしている時代でした。
資本主義だと腐敗が起きる・・・
岸信介は、東京帝国大学法学部卒業後、農商務省に入り、北一輝らの影響を受け、革新官僚として国家社会主義に目覚めます。

1936年に満州国事業部次長となり、満州の産業経済を一手に運営、「満州は私の作品です。」
当時、満州で活躍した人を・・・「弐キ参スケ」と呼びました。
東條英機・星野直樹・岸信介・松岡洋右・鮎川義介(日産の創始者)のことです。
これが、岸の人脈と金脈となります。

東條英機内閣の時に大臣となり・・・
しかし、岸が戦争終結に向かったので、東条英機内閣は総辞職に追い込まれてしまいます。

A級戦犯として逮捕され、しかし釈放、公職追放の後に政界復帰します。
裏には、アメリカとの取引も?疑われています。

政界では・・・当然保守派の一人となるかと思われました。

憲法改正・自立独立派で、60年安保改正をはじめ、改憲、再軍備を主張しています。

この岸の作った55年体制・・・。日本の政治体制のの基礎となります。

保守の自由民主党が結成されます。
憲法改正と再軍備を主張します。

革新は、日本社会党。
護憲と非武装中立を主張します。

岸は、幹事長に就任し、党内を掌握、次の総裁を狙います。

鳩山一郎の後を、岸・石井光二郎・石橋湛山が次期総裁を狙いますが・・・

1957年第1次岸内閣発足。
用意周到にステップを上がり、首相の座に上り詰めます。
岸流の日本づくりが始まりました。
憲法改正論者の岸・・・経済優先から憲法改正へ舵を取ろうとします。


首相就任2か月後にマッカーサー大使と会談。
あの、GHQのマッカーサー元帥の甥です。

55年体制を基盤に交渉を重ね・・・
1960年1月19日新安保条約調印。
安保条約の改定にこぎつけます。

しかし、国内は、反安保でもが荒れ狂います。
国民に歓迎されると思っていたのに・・・。

5月20日未明、衆議院で新安保条約強行採決。
これで、さらに抗議行動が膨らみます。

6月15日、国会構内に乱入した全学連と警官隊が激突!!
東大生、樺美智子が死亡。
これが決定的な事件となります。

60年安保内容は・・・
①基地をつくる場合、相談する必要がある。
②日本防衛の義務あり。
③起源は10年間。

改善されたはずなのに・・・
日本中が反対!!でした。

それは・・・
国民は、A級戦犯でありながら、政界に復帰していた・・・アメリカと何か密約をしている・・・。
そんな岸が信用できなかったのです。

しかし、アメリカは岸を大変信用していました。
裏工作をして・・・
将来は対等安保にしたいが、憲法を改正するまでは出来ないので、部分改定にしてほしいと申し入れたのです。

しかし、国民は反発します。明らかに改善しているのに・・・
そこには、岸が出した「警職法改正案」がありました。
これは、警察官の職務・権限の拡大を目的に提出されたものですが、これに反対したことが、60年安保へと繋がっていくのです。

警職法改正案・・・
安保改正を前に、警察力を強化しようとしたものです。
大規模な反対運動で、警職法改正案は、廃案となりました。

戦前の、国権主義に逆行するような岸の政策に国民は反発したのです。
滅私奉公に・・・戦前に戻ってしまう。

おまけに、A級戦犯だったこともイメージダウンです。

憲法改正が遠のき、経済が優先されるようになります。。。
安保は、6月18日・・・自然成立しましたが、岸は辞めざるを得なくなりました。

この後は、

吉田路線の経済優先が良いのか?
岸路線の憲法改正が良いのか?

憲法改正は棚上げされたまま、経済成長の道を邁進します。
池田勇人は、所得倍増計画を打ち出し、ひたすら豊かな社会を作ろうとします。
経済大国の道を、猛スピードで走るのです。

その急成長の歪の中から、大政治家が生まれます。
彼は、日本全土を改造しようとします。

まっしぐらに突き進んだ男。。。田中角栄。
日本は、成長から混迷の時代へ向かおうとしていました。


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久々、1か月ぶりの仰天歴史塾です。

楽しいです。

いつも、毎週してくれないかなあ・・・と、思いながら、この品質を保つためには月1回が限界なのかもしれませんね。黒ハート

今回は、~戦後復興と日米安保・吉田茂と岸信介~です。

1960年、国会周辺は、史上最大の騒乱・・・安保闘争で揺れていました。

日米安保の生みの親・・・吉田茂は、戦後復興の為に占領軍と対峙し、独立させました。
その時、安保が生まれたのです。
再軍備を避け、復興をしようとした吉田・・・

そして・・・その安保を改定し、安保を覆そうとしたのが岸信介でした。
憲法改正に臨もうとする岸・・・

2人の政治路線が安保で交わる時・・・
日本の政治が揺れました。

時を超えた路線構想は、今を持ってもまだ終わっていません。
ここに、戦後日本の原点がありまあす。

日本は戦後、占領軍・・・主にアメリカ軍の支配下に置かれました。
そのGHQ最高司令官が、ダグラス・マッカーサーでした。


マッカーサーは、
①日本を民主国家にすること。
②特にアメリカと戦争をしない国にすること。
が目的でした。

群を解体し、天皇を裁判にかける???

きちっとした天皇陛下に対し、ラフな格好のマッカーサー・・・
「天皇は現人神ではない・・・」
新聞の写真を見た日本人はショックを受けます。

imgtennoh[1].jpg


この時の会談の内容は・・・

天皇「・・・戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身あなたの代表する諸国の裁判に委ねるためおたずねした。」

マッカーサー「・・・明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした。」

と、マッカーサーは懐古しています。

マッカーサーは、当時、命乞いに来たと思っていたのです。
    ↓
世界一のジェントルマンだ!!
と言うことで、裁判を回避しようと考えるのです。

天皇の地位を守ろうとします。
天皇をそのまま象徴として使うことに決めました。
陸海軍の武装解除の時も・・・普通なら反乱がおきるところですが、解体自体を「天皇の命令」としたので、反乱は起きなかったそうです。

その占領下にあって、マッカーサーと対立、対抗したのが吉田茂です。

GHQは、日本の弱体化を狙っていました。
重工業の設備を取り上げ、他の国に分配しようとします。
その為に邪魔な政治家を次々と公職追放します。

占領軍と渡り合える政治家を排除していきます。
その中で排除されなかった人物、どの政党にも属さず、議員でもなかった男・・・「吉田茂」です。
外交官出身で、後にワンマン宰相となる強烈な個性を持つ男。

吉田は、戦後復興の為に立ち上がります。

「日本を豊かな国に作りなおす!!占領軍と戦わなければならない」と思いました。

この吉田茂・・・
明治11年東京神田に生まれます。
明治34年学習院に入学。後に、東京大学卒業。
明治39年28歳で外務省に入省します。

当時の花形は、欧米に行く中、吉田は中国・済南領事となります。以後、天津・奉天総領事を歴任。
昭和21年68歳で第45代内閣総理大臣となります。

その間に・・・日本国憲法発布・サンフランシスコ講和条約調印・日米安全保障条約調印と、、、大きな足跡を残します。

何故・・・吉田が首相になれたのか?
それは、戦争中に憲兵隊に逮捕されていたからです。
「落日燃ゆ」でもそうでしたね。

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何故逮捕されたかというと・・・
まだ戦争中に・・・近衛文麿と一緒に、東條英機を失墜させようとしたからです。
しかし、近衛家や吉田家にいたお手伝いさん・運転手はみんな、東條のスパイだったので、筒抜けでした。
近衛を逮捕するわけにもいかず、吉田を逮捕。。。

この「東條を辞めさせようとしたこと!!」が勲章となって、首相の座まで駆け上がるのです。

ワンマン宰相と言われた吉田茂。
どの政党にも属さない吉田が首相の座につくことになりました。
戦争反対を唱えていた吉田は、GHQに受け入れられ、生き残ったのです。

この逮捕の一件は・・・
戦争末期、誰の目にも敗戦は明らかでした。しかし、軍部の反対もあり、「どのように敗戦を受け入れるのか」「どのタイミングで敗戦を申し入れるのか」が問題となっていました。
そんな中、吉田は宮中を巻き込んで、降伏のための工作をしたのです。

外交官の吉田が首相となる・・・それはひとえに占領軍と交渉できる能力が求められたからなのです。

この時期、GHQは日本の弱体化を図っていました。
しかし日本は、GHQの意図を外し、復興する必要がありました。

吉田は占領軍と渡り合い、日本を独立させるために戦うことになります。

「戦争に負けて、外交に勝つ」

実は、戦後第1回の選挙で勝ったのは、当時の「鳩山一郎」が総裁の自由党でした。
だから、鳩山が首相となると誰もが思っていたのですが、GHQにより、公職追放されてしまいました。
後に戦争反対を唱えていましたが・・・リップサービスが豊富で、軍隊やヒトラーを褒めたことが一因と言われています。

だから、吉田茂が首相となったのです。
政治家でない男が首相となりました。

吉田茂の総理大臣就任条件は・・・
①資金作りは一切やらない
②閣僚の選考に口出しは無用
③辞めたくなったらいつでも辞める
鳩山一郎の回顧録には・・・
④GHQの追放が解けたら首相の座を鳩山一郎に返す・・・とあります???

しかし、返さなかったので、後にケンカのもとになりますが、本当に④はあったのでしょうか???

マッカーサーのしたこと・・。
追放と戦犯処理・・・
次に、憲法。

1946年11月に公布されました。
GHQは、そこでは、集会、結社、言論、宗教の自由、国民主権、男女同権などの基本的価値観を示しました。

第一条 天皇は、日本国民の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく

戦前は、主権は天皇にありましたが、国民主権とし天皇を象徴としました。

第九条  
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する

②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない
 国の交戦権は、これを認めない

第1項では安全保障を放棄しています。

日本の上層部はこれを受けて、「日本人が日本国を守れないなら、アメリカに守ってもらおう」という考えに変わっていきます。

平和のためには安全保障がいるのに、その安全保障を考えないことにし、経済の復興ののみに、心血を注ぎました。

しかし、米ソ冷戦が始まります。
1947年にトルーマン・ドクトリンで、ソ連・共産主義の封じ込めが始まります。
1948年チェコスロバキア政変
1948年ベルリン封鎖
1950年朝鮮戦争
1962年キューバ危機

日本を弱くしようと思っていたのに・・・強くしようという考え方に世界が動き始めます。

WTO(1955) VS NATO(1949) です。

世界を二分し、ソ連とアメリカの覇権争いが30年近く続きます。

1957年ソ連がスプートニク号の打ち上げに成功。
科学の力を見せつけます。。。
宇宙軍拡競争へ・・・

アジアにおいては・・・
1949年中国で毛沢東率いる共産党が勝利。
東南アジアでも共産主義勢力が力をつけます。

そんな中、アメリカの考え方が変わり始めました。

1950年朝鮮戦争勃発
この戦争で、在日アメリカ軍が殆ど朝鮮に出兵してしまいます。
がら空きになった日本。。。
1950年8月、マッカーサーは警察予備隊(今の自衛隊)を作ることを吉田に要請。
半島の混乱で、日本の軍事的価値が上がったのです。

アメリカは、日本の弱体化政策を変えなければならなくなりました。
そこが、吉田の・・・日本の独立の千載一遇のチャンス。

1950年 警察予備隊発足     7万5000人
1952年 保安隊(保安庁設置)  11万人
1954年 自衛隊(防衛庁設置)  陸上 13万人
                海上 1万5000人
                航空   6000人 

この警察予備隊は軍隊なのか???
おまけにGHQは共産党を怖がって、非合法としてしまいました。

アメリカが自由にしてくれたのに・・・
レッドパージが始まります。

1951年9月サンフランシスコ講和条約
アメリカは、日本の独立を遅くしようとしていたけれども、冷戦に対抗するためにはそうも言っていられなくなって。。。

アメリカは最前線の拠点にしようと考えました。
対日平和条約調印。

48か国調印していますが、、、ソ連や中国は入っていません。
そして、48か国の中には日本の独立に反対している人々もありました。

その講和条約を結ばせるために、吉田茂は池田勇人を密使としてワシントンに送り込みます。
池田は、ジョセフ・ドッジと密談。

講和の見返りに、アメリカ軍の駐留を認めることを伝えます。
その工作をして、締結にまでこぎつけるのです。

しかし、吉田にはもう一つの署名が待っていました。
日米安全保障条約の調印式です。
これこそ、吉田がアメリカに提案したみかえりでした。

アメリカ軍の駐留継続をする安保が交換条件だったのです。
駐留する代わりに、群を持たずに守ってもらえる・・・
アメリカ軍の傘下に入れば、軍を持つ必要もない。。。持ちたくない吉田は安保を選んだのです。

しかし、日本人からはたった一人で署名します。
この日米安保条約の内容は、かなり不平等なものでした。
吉田は、安保条約には問題があると思っていたのです。

基地をつくる場合、相談しなくてよい
日本防御の義務なし
期限は無制限

こんな内容でしたが、吉田の中では、いくら不平等であったとしても日本の独立を最優先にしたかったことが伺えます。

国内で吉田に対する批判が始まります。
「憲法を改正すべきではないか???」

その後いろいろな問題が出てきます。

吉田は佐藤栄作の造船疑獄に対し指揮権を発動し逮捕を止めたり、「バカヤロー」解散をしたり・・・
何より、鳩山一郎が帰ってきたのに首相の席を譲らない。。。

ここで活躍しだすのが、岸信介です。

その話は、また後で。。。

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