男たちを虜にし、江戸の文化と流行の発信地となった幕府公認の遊郭・吉原・・・そこは一日千両という大金の動く不夜城・・・男たちが一度は訪れたいと憧れた場所でした。
しかし、それは浅草日本堤に会った新吉原のこと・・・。
その始まり・・・「元吉原」は江戸時代を通じ商業の中心地であった日本橋人形町にありました。
元吉原が登場したのは今から400年前・・・

1590年7月、豊臣秀吉による小田原討伐が成功し、臣下であった徳川家康に関八州への国替えを命じます。
8月、家康は江戸へ・・・目の前に広がっていたのは、茅葺の粗末な家が100軒あるかないかという寂しい町と葦の湿地帯でした。
その状況に家臣たちは落胆しますが、家康は「思いのままに城下町をつくることができる」と思っていました。
秀吉が亡くなって天下を取った家康は、1603年江戸幕府を開きます。
本格的な江戸城造改築と町の整備拡大に・・・。
天下普請の大号令のもと、全国の大名に工事が振り分けられました。
大工などの職人たちも各地から集まり、江戸は男たちで溢れかえります。

そんな男たちを当て込んでできたのが遊女屋でした。
その遊女となったのは、北関東の貧しい農家の娘たちが殆どでした。
遊女屋の数は瞬く間に増えていきます。慶長年間には、京橋・鎌倉河岸・麹町・・・50軒以上!!
その状況に慌てたのが幕府でした。
慌てた理由は火事・・・!!
遊女屋には風呂があり、火を扱っていたので火事を起こす可能性があり、もしそうなればせっかく作った町が燃えてしまう・・・!!
幕府は遊女屋の場所替えを命じたり、遊女屋に属さない遊女100人余りを箱根の西に追い払います。



1605年、遊女屋を集め遊郭をつくるように幕府に嘆願したのは庄司甚右衛門でした。
一節には甚右衛門は、小田原北条氏に使える武士の子だったと言われています。
小田原城が落城した際に、主君と父を失い浪人に・・・
江戸に出たのち、生きていくために遊女屋の経営を始めたと言われています。
この時は遊郭設置は却下!!

1612年、再び幕府へ遊郭設置を嘆願!!
そこまでして甚右衛門が遊郭を作りたかった理由とは・・・??
ひとつは同業者が多くなり利益が低下したこと。
そこで新規参入ができないように、遊女屋を一カ所に集め、幕府公認にすることで利益が独占できると考えたのです。
もう一つは、江戸の町の治安の悪化でした。
遊女屋が無秩序に乱立し、問題が起きることを恐れたのです。
駿府では問題がたくさん起こっていたので、同じことが江戸で起きると遊女屋がすべて鳥潰しになってしまうのではないか?と考えたのです。
そこで甚右衛門は、3つの提案と共に幕府に願い出ました。

①引負横領の事
客を一晩以上泊めない

②人を勾引かし並に養子娘之事
幕府公認の遊郭をつくれば、人さらい人買いなどの悪質な業者から娘たちを守ることができる

③諸浪人悪党並に欠落者之事
悪人を一つにまとめておける・・・??

利益を独占するためと、治安の悪化を防いで遊女屋が廃止されないようにするためでした。

しかし、幕府が遊郭設置を認めたのは嘆願から5年・・・1617年でした。
どうして5年もかかったのか・・・??
甚右衛門が嘆願書を出したころは、幕府は豊臣方と対立している最中だったこと。
そして倫理的な問題・・・江戸時代を通じて、多くの城下町で遊郭を置くことは禁止されていました。
遊郭へ通うことは、武士の倫理において恥ずべきことだと考えていたのです。
生活の堕落を助長する・・・と!!

ではどうして遊郭を認めたのか??
当時はキリシタン商人による人身売買が横行していました。
多くの日本人女性が奴隷として海外に売られていたのです。
幕府の執拗なキリシタン弾圧は、キリシタン商人による人身売買を止めるためでもあったのです。
1614年全国にキリスト教禁教令を発布
1617年江戸の遊郭設置を許可
幕府が遊郭設置を認めたのは、人身売買から女性たちを守るためだったと考えられます。

江戸の市街地から最も離れた辺鄙な場所・・・人形町周囲に葦がしげる湿地帯に・・・
「自分達で湿地帯を埋めて作れ」と家康は言いました。
甚右衛門たち遊女屋の主人たちは、早速工事を開始!!
周囲を掘ってその土を板と葦を使って浮島のようなものを作ります。
これを轡と言い、それが郭になったと言われています。
1618年遊郭が完成。
周囲に葦が茂っていたことから葦原と名付けられました。
商売繁盛のために”吉”の字が当てられたのは後の事です。
こうして江戸唯一の幕府公認の遊郭・吉原が誕生しました。

その後、整地拡張を重ねていきます。
2町四方・・・47,500㎡・・・東京ドームと同じくらいの大きさで下。
その巨大遊郭の惣名主となったのは甚右衛門でした。
甚右衛門が最初に嘆願してから13年の月日が流れていました。

吉原は遊郭設置に際し、5つの条件を幕府から出されていました。
①吉原以外での商売の禁止
②長逗留(連泊)の禁止
③不審者の届け出
④服装を質素にする
 幕府はこの時贅沢を禁じたのです。
⑤建物を質素にする
 派手にして客を呼びたいところを庶民と同じ板葺きでした。
目も眩むような後の吉原とはかけ離れた地味な吉原・・・しかし、開業当時から遊女たちのランク付けはされていました。
「太夫←格子←端」です。
最上級の遊女は太夫です。
彼女たちはヘッドハンティングされてきた京都・島原などの太夫が殆どで、和解遊女たちの指導者的役割でもありました。
そんな太夫の1日の指名料は1両!!約10万円でした。
太夫の下は、格子、端と続き、格子が銀30匁(約6万円)、端は銀10~20匁(2~4万円)でした。
当時の大工の日給が銀1~3匁(2000~6000円)だったことを考えると、庶民たちが遊べるはずもなく、お客は上級武士でした。
そのため、遊女たちには相手ができるように和歌やお茶、お琴とたしなみが必要でした。
これは新吉原となっても受け継がれていきますが、遊郭の外に出ることができなかった新吉原とは違って・・・元吉原では遊郭の外へ遊山も許可されていました。
吉原の店には、幕府からある役目が・・・幕府の最高裁判所である評定所に奉行らが出席する式日には、吉原から太夫ら供給遊女を差し出すように命じられていたというのです。
他にも、三代将軍家光の姫君の尾張藩への輿入れを吉原の遊女たちがお供に・・・手伝ったと言われています。

幕府の名もしっかりこなし、順風満帆に見えたものの、強力なライバル・・・銭湯が現れます。

急速な発展を遂げた新興都市・江戸・・・日本橋人形町にある吉原・・・。
かなり繁盛していましたが、そんな吉原の人気に影を落とす強力なライバルは銭湯!!
当時の銭湯には湯女という女性がいて、入浴客の垢すりや髪すきなどの世話をしていました。
江戸の町に大工や職人が増えていくと、そんな男性を当て込んだサービスが始まったのです。
夕方4時ごろにいったん閉店すると、洗い場は一変し金屏風が立ちお座敷に早変わり・・・湯女たちは三味線で歌を歌い、春を売るようになったのです。
一説には湯女の料金は500~1,000文(1万2000円~2万円)でした。

吉原は、町から遠く、料金が高く、格式があって行きづらい・・・
湯女は、違法だが、町から近く、料金も安く、行きやすい・・・

そのため銭湯は下級武士や町民で大繁盛・・・
すると、遊女を銭湯に派遣して稼がせるという吉原の楼主が現れたのです。
しかし、これは吉原以外での営業禁止に反します。
幕府は楼主などを磔の刑に!!
さらに夜間営業や遊女の外出を禁止してしまいます。
店にとっては夜間営業の禁止は痛手でした。
営業時間が短くなったために売り上げが落ちてしまいます。

そんな吉原に追い打ちをかけたのが、アイドル並みの人気を誇った湯女・勝山です。
勝山がいた戦闘は、堀丹後守直寄の屋敷の前だったので、丹前風呂と呼ばれていました。
丹前風呂は、勝山を指名する客で大賑わい、順番待ちする間にのぼせる客が・・・!!
人気の秘密は美貌もさることながら、どんな客でも分け隔てなく接する気立てのよさでした。
装いも・・・外出するときは木刀を二本差すという男勝りの奇抜なスタイルで、束ねた髪を曲げて輪にし白い元結をした勝山曲げは、女性がこぞって真似をしました。
カリスマ的人気を誇った湯女・勝山・・・吉原に通っていた男たちも勝山目当てに丹前風呂に殺到!!
天下の吉原に閑古鳥が鳴き始めました。
遂に経営の危機に・・・!!

窮地に陥った吉原は、奥の手に出ます。丹前風呂の取り潰しを幕府に願い出ます。

吉原は、幕府に営業を認めてもらう代わりに運上金を納めていました。
吉原の経営が悪化すれば税金も減る・・・そうなれば、幕府も困るから嘆願も通ると思ったのです。
その思惑通り、幕府は丹前風呂をおとり潰しに、さらに湯女は一軒に三人までと厳格化しました。
その後、初山はヘッドハンティングされて吉原にやってきて、遊女のトップに上り詰めます。
遊女が花魁道中の独特の歩き方”外八文字”は、勝山が考案したと言われています。
吉原の人気は復活!!その遊び方も派手になっていきます。



しかし、再び危機が・・・1656年10月、吉原の楼主たちが幕府の評定所に呼び出されます。
奉行から命じられたのは・・・??
「吉原の移転」でした。
①江戸の人口が増大し、町が拡大しました。
かつては江戸のはずれだった日本橋人形町も町人の住む所となり、大名の屋敷も立ち並ぶようになっていました。
吉原が江戸の町に飲み込まれていったのです。
吉原が町の中心部に位置するようになったことで、風紀の乱れを警戒したのです。
②浪人対策 
当時幕府は体制を盤石にするために、犯行の恐れのある大名家を次々とおとり潰しにしていました。
三代将軍家光の頃には、69の大名家が取り潰されていました。
主君を失い、浪人となった者たちは、士官先を求めて江戸に流れてきました。
しかし、士官先などそうそうなく、幕府への不満を募らせていました。
そんな中、1651年・・・軍学者の由井正雪が幕府転覆計画を企てます。
世にいう慶安の変です。
由井正雪など浪人たちによる幕府転覆の陰謀事件で、事前に発覚したことで小説は自害し、一味は壊滅しました。
これ以後、幕府への反乱未遂事件は多発!!
幕府は浪人への対策をはじめました。
その一環として、反乱分子になりかねない浪人たちが集まりやすい吉原を、江戸城から遠ざけたかったのです。

江戸の町の治安のために移転させられることとなった吉原・・・
その事業の最高責任者に抜擢されたのが、北町奉行・石谷貞清でした。
石ケは各地の洪水被害調査や土木工事に携わったのち、1651年に江戸着た町奉行に赴任しました。
まず行ったのは、候補地を決めること・・・
石谷はいくつかの候補地を選定します。
絞り込みをある人物に依頼します。
幕府に仕えていた陰陽師・土御門泰重です。
当時は陰陽師の占いを信じていたので、幕府は吉原の移転先を陰陽師に決めさせることで吉原側を納得させようとしました。
そうして占ってみると・・・
「江戸城から見て丑寅の方角が吉ですな・・・!!」
丑寅・・・北東は鬼門と呼ばれ、鬼が出入りする穢れのある方角とされていました。
穢れのつきやすい遊郭は、そこに置いた方が良いというのです。
1656年10月、石谷は候補地を楼主たちに告げました。
「吉原を本所もしくは浅草日本堤のどちらかに移すよう命じる」
楼主たちは困惑します。
どちらも、町のはずれのはずれ、辺境の地だったからです。
幕府からの命令は絶対で、どちらかを選ぶしかない・・・
本所には、隅田川を渡すしかありませんが、当時、近くに橋はかかっていませんでした。
そこで、辺鄙な沼地ながらも地続きの浅草寺が近くにあった浅草日本堤を選びます。

とはいっても、引っ越しは大ごとで・・・楼主たちは重い腰を上げようとはしませんでした。
そこで、石谷は5つの特典をつけました。
①移転先は今までの1.5倍の土地を与える
②夜間営業を許可
③立ち退きの補償料1万500両(10億5000万円)を吉原に支払う
④違法営業中の銭湯200軒を取り潰す
⑤火災時の消火の役割を免除
どれも吉原にとっては至れり尽くせりの内容でした。
何より有難かったのは、夜間営業の再開と、銭湯の取り潰しでした。
1657年3月までに、吉原を浅草日本堤に移転します。

ところが・・・移転の準備をしようとしていた矢先に・・・明暦の大火!!
年が明けた1月18日午後二時ごろ・・・本郷丸山付近から出た火が瞬く間に江戸の町を飲み込んでいきました。
20日になってようやく鎮火したものの、江戸城を天守閣をはじめ町の大半が焼失・・・
10万の人が命を落としました。
吉原も全焼・・・126人の遊女が亡くなったといいます。
街の復興事業のために、資材や人件費が高騰したこともあって、吉原の移転は難しくなってしまいました。

幕府も復興事業で大忙し!!
このまま移転の話も立ち消えに・・・??

6月中には移転せよと日を切られ、言われてしまいました。
浅草日本堤は湿地帯・・・そのまま建物は立てられず整地は必要・・・
100軒以上立てなければならないが、それだけの人も財も残っていませんでした。
江戸が灰と化した後、4か月後に新たな場所に吉原をつくる・・・この無謀ともいえる計画に、石谷は・・・??
大火で大量に出た瓦礫を埋め立てに使おう!!
処理に困っていた瓦礫を活用できるのはもちろん、瓦礫に土を混ぜれば効率が上がると考えたのです。
陰陽師・土御門泰重は、全国にネットワークを持っており、大量の職人を動員することができました。
準備が整うと、工事を進めていきます。
その頃、吉原の遊女屋は・・・火事の被害が少なかった地域の民家を借りて仮宅営業を始めることに・・・。
1657年6月14日、吉原の遊女たちは、仮宅の浅草山谷に移ります。
1000人いたともいえる遊女の大移動は、人々の注目を浴びました。
こうして始まった仮宅営業は普段よりも値段を安くしたことで、男たちが殺到、大繁盛します。
わずか4か月で工事も終了!!8月14日、新しい吉原の営業が始まりました。
次第に、遊女たちの装いもあでやかになり、独自のイベントを立ち上げて行った吉原は、男が一度は行きたいという華やかな不夜城に・・・!!
この移転で、移転前を元吉原、移転先の浅草日本堤を新吉原と呼ぶようになったのです。

大火で焼失した町を復興する為に、全国からさらに大工や職人たちが集まってきました。
そんな男たちは遊女を一目見ようと吉原に殺到し、その華やかさにまたたくまに魅了されました。
そして吉原は、一日1000両という大金が落ちる一大歓楽街と発展し、様々な物語、文化を生み出していったのです。

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