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かつて忍びの国と言われた伊賀の国は、現在の三重県伊賀市と名張市にわたってありました。
このあたりには、そのその忍びの者が暮らした屋敷が今も残っています。
伊賀の国には、合戦の際に籠る山城や砦もいたるところにありました。
その数、600カ所以上!!
伊賀忍者はどのようにして生まれたのでしょうか?
伊賀国には、平安時代から東大寺や興福寺などの強力な寺社兵力が支配する荘園がたくさんありました。
そうした荘園の管理を地元の豪族に任せていましたが・・・
その豪族が力を持ち始めると、地元豪族と寺社勢力との争いが起こり出します。
南北朝時代は・・・支配に刃向かうものが現れ、家々が焼き払われた。
余所者が勝手に村に入り、年貢や物を奪うなど、乱暴狼藉が絶えない・・・とあります。
支配者たちの影響力が弱くなると、伊賀に国は乱れ、それぞれが対立する緊張状態に・・・
農民とて自営の手段を持たなければ・・・!!
と、農作業の間に武術を学び、住まいには敵の襲来に向けて様々な仕掛けを・・・!!
刀隠し、どんでん返し、隠し戸・・・争いの絶えない土地柄が、伊賀忍者を生み出したのです。
修験道とは、日本古来の山岳信仰と密教が合わさったもので、伊賀の国には、開祖の役小角が創建したといわれる延寿院があり、山中では山伏が厳しい修行を行っていました。
そんな修験者と接することで、彼らの会得した武術や呪術を会得することができたのです。
さらに、修験者と同じように修行を行うことで、強靭な身体能力を得ていきます。
争いが絶えなかった場所&修験道の修行地・・・この条件で、伊賀の国は忍びの国となったのです。
1478年・・・ついに忍びの存在が世に知られることに・・・
室町幕府9代将軍・足利義尚が近江の守護大名・六角高頼を討伐する為に、鈎(まがり)に布陣します。
戦いが始まると、観音寺城にいた六角氏は城を捨て、伊賀・甲賀のの忍者とともに山中でゲリラ戦を展開!!
その時使った戦法が、亀六の法です。
亀六の法とは・・・
亀が甲羅の中に手足を入れることに例えて、山中に身を隠し、敵が油断したところで奇襲をかける戦法です。
将軍の本陣に夜襲をかけたり・・・幕府軍の武将たちも震え上がったといいます。
これをきっかけに、忍者は各地で傭兵として雇われるようになっていきます。
忍者はいつもあの黒装束ではなく・・・
忍者には、決まった装束があるわけではなく、時と場所によって使い分けていました。
草むらへは藍色の羽織を・・・他国に出かける際には、商人や大道芸人に・・・不自然ではない職業に変身します。
忍者使用の武器も、後世の創作が多く・・・
忍び刀は明治時代になってから作られたもの・・・??
忍者の武器はごくありふれたものが多く、よく使われていたのは、農作業に持っていても不自然ではない鎌!!
縫い針・・・一つの物をいくつもにも使える物・・・それが道具に対する考え方でした。
超人的と思われる忍者の身体能力とは・・・??
一説には6尺(1.8m)の障壁を越え、一日40里(約160㎞)走ったと言われていますが・・・
もっとも必要とされたのは、運動能力ではなく、忍耐力・・・強靭な精神力でした。
いかに過酷な状況でも任務を遂行する為に・・・!!
印を使った祈りは九字護進法で、臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前・・・と結びながら神仏に身の安全を祈りました。
鍛錬された肉体と、不屈の精神力が忍者の生活を支えていました。
分身の術、火遁の術・・・忍術は本当にあったのでしょうか??
本当に分身の術ができるわけではなく、瞬間催眠で相手に幻覚を起こさせたり、薬を飲ませて幻覚症状を起こさせたりすることはありました。
伊賀や甲賀の山中は、沢山野草が生えていて、知恵も持っていました。
火遁の術は・・・火薬の知識に長けていたものが火薬でビックリさせてその間に逃げることもありました。
それが、後の読本や歌舞伎へと繋がっていきます。
忍者には、陽忍と陰忍があります。
陽忍は、姿を現して堂々と活動します。
諜報活動で多用され、最もよく使われ陽忍は、敵の中で不満を持つ者に好条件を持ちかけて協力者にするというものでした。
情報を得ていたのです。
陰忍は、人に見つからないように忍び込む方法です。
様々な策を労じて、敵に侵入し、情報収集や破壊行動を行いました。
この二つを臨機応変に使いこなす・・・どちらにしても重要なのは、生きて情報を持ち帰ることでした。
もし、囚われて拷問にあった時は、決して白状せず、しかし、自害もしてはいけないのです。
見知らぬ土地での情報収集は・・・
何回かその土地を訪ねて協力者を見つけます。
そして、その人物の家の前で、仮病を使って白湯を・・・そして、後日謝礼を送ることで、ターゲットの家に取り入ります。
さらに・・・潜入がばれたときは・・・恋文を渡し・・・恋するあまり忍び込んだとその場を取り繕いました。
自治を守るために発展していった伊賀忍者の前に立ちはだかるのは・・・戦国の覇者・織田信長です。
1568年、尾張国から上洛した織田信長は、近畿地方の制圧を始めます。
この時、信長の軍門に下っていなかった勢力が、伊賀でした。
名ばかりの領主しかいなかった伊賀では、惣国一揆と呼ばれる自治組織を作り、外敵の侵入に備えていました。
その掟書きには・・・
他国の勢力が侵入した場合、一味同心して戦わなければならない
国境に敵が現れた際には、17歳から50歳までの男は所定の陣地に着くこと
など、合戦の決まりごとが細かく決められていました。
惣国一揆は、忍者集団を中心とした伊賀十二人衆が統率していたので、容易に攻略することはできませんでした。
1578年、信長の次男で隣国の伊勢を治めていた信雄が、伊賀を支配下に置こうと行動を起こしました。
信雄は、侵攻の拠点にするために、丸山城の修築に着手。
当初、伊賀衆は、向かいの天童山無量寿福寺から様子をうかがっていましたが・・・
城の改修は、事の他大規模で、放っておけば織田軍の侵攻を許しかねないと判断・・・
先手を打って攻撃を仕掛けることに・・・!!
第一次天正伊賀の乱です。
10月25日、忍者を中心とする伊賀衆が、丸山城を攻撃!!
不意を突かれた織田軍は大混乱に・・・敗走してしまいました。
しかし、巻き返しを図る信雄は、翌年、父・信長に無断で再び8000の兵を率いて、伊賀侵攻を企てます。
これを察知した伊賀衆は、万全の態勢で織田軍を迎え討ち、奇襲攻撃で撃退!!
織田軍は、僅か2日で3000の兵を失い、伊賀衆が勝利したのでした。
敗戦の知らせを受けた信長は大激怒!!
自らの軍勢で伊賀に攻め入る決断をします。
1581年、織田軍は、大軍で伊賀に侵攻!!
これが第二次天正伊賀の乱です。
織田軍は四方から取り囲むように攻め、伊賀衆を分断する作戦に出ます。
追いつめられた伊賀衆は・・・ただでさえ少ない兵を分散させざるを得なくなり、各地の山城へ籠城。
ゲリラ戦を封じられた今、勝ち目はありません。
落ち延びた伊賀衆の最後の砦が柏原城です。
女子供も含め、1,600人が逃げ込みました。
2週間に及ぶ抵抗もむなしく、遂に伊賀衆は、屈服したのでした。
信長はそれでも手をゆるめません。
伊賀の人々を片っ端からとらえて殺していきます。
当時の記録には・・・
毎日300~500人の首が刎ねられ、言葉では言い表せないほど悲惨な状況だ。
柏原城に近い名張川の河原にはおびただしい遺体が討ち捨てられました。
そして、寺社を焼き払い、道端の地蔵までも破壊!!
地獄絵図さながらでした。
この時壊された地蔵の一部は残っており、伊賀の惨劇を今に伝えています。
ほぼ殲滅されてしまった伊賀衆・・・しかし、中には山中に潜んでいたもの、周辺に逃れたものもいました。
彼らに目をつけたのは・・・織田軍に関わっていた武将たちでした。
忍者の能力の高さに驚かされ・・・徳川家康もその一人でした。
1582年6月2日・・・
京の本能寺に宿泊していた織田信長は、家臣の明智光秀に襲われ自害します。
本能寺の変です。
この時、徳川家康は境見物を終え、信長の招待で京に向かっている最中でした。
飯盛山付近でこのことを聞き、信長の敵討ちを決意しますが・・・
供周りは30人ほど・・・1万を越える明智軍を討つためには、自国・三河に戻って兵をあげる必要がありました。
主要街道は、明智勢に封鎖されている可能性が・・・。
そこで、山深い伊賀を越えることに・・・神君伊賀越えです。
最短にして最も明智勢に見つかりにくいルートです。
飯盛山→宇治田原→三河へ・・・。
しかし、この伊賀越えは、道の険しさに加え、落武者狩りにあう危険性がありました。
そこで活躍したのが・・・地元・甲賀、伊賀の忍者でした。
家康一行は、甲賀・多羅尾氏の治める小川城で1泊し、山中を東へ・・・
この時、同行した中には、先祖が伊賀の出の服部半蔵正成もいました。
半蔵自身は忍者ではなく武将でしたが、江戸時代の資料によると・・・半蔵は御斎峠に先回りし、のろしを上げて伊賀忍者200人を呼び寄せて、一行の警護をさせたと言われています。
彼らの協力のおかげで、本能寺の変のわずか2日後に岡崎城へ到着!!
家康が生涯最大の危機を乗り越えた背景には、忍者たちの活躍があったのです。
家康はこれを機に、伊賀者200人ほどを召し抱え、半蔵の配下に起きました。
そして彼らに重要な任務を与えます。
1590年、秀吉の命により家康は江戸入府。
その際、服部半蔵配下の伊賀忍者たちも移り住みました。
江戸城の西側・・・半蔵門・・・一説には、家康がこの門の警護を服部半蔵正成に任せたことからそういわれたといいます。
この半蔵門には、特別な役目があり・・・江戸城有事の際には、脱出口となる・・・将軍は半蔵門を出て、甲州街道に出、徳川一門の治める甲府に入れるようにと言います。
そこで、半蔵門から四谷にかけての街道沿いには、将軍の警護をする伊賀忍者の屋敷が配置されていたと言います。
家康のもとで、如何なくその力を発揮する伊賀者・・・
1600年、天下を狙う家康は、敵対していた上杉景勝を討つために、諸大名と共に会津征伐に出陣!!
しかし、上杉の前線基地・白河小峰城の守りは固く、内部の情報が全くわかりません。
そこで家康は三人の伊賀忍者を放ちます。
すると彼らは・・・城の構造、兵力、武器弾薬・・・事細かく調べてきました。
やがて家康が江戸幕府を築いて平和な時代となると、伊賀忍者たちは大奥の警護、江戸城の門番などの警備員として雇われるようになります。
伊賀組は、江戸城内にある百人番所に控え、甲賀組などと交代で警備にあたりました。
しかし、それはすべての忍者にとって憂うべき事でした。
江戸時代中期の書物には・・・
”七十歳前後の者は、実際に見聞きした忍術を伝えていくことができるが、若い者はそれができない。
忍びの未来が、心配だ。”
と書かれています。
江戸時代、忍者たちは徳川家だけでなく、伊賀上野、桑名、彦根など、多くの大名に仕えました。
彼らは参勤交代のための警護や情報収集をこなしたといいます。
しかし・・・戦のない平和な時代・・・忍びの活躍の場は無くなっていきます。
歌舞伎や物語の中に登場する伝説となっていくのです。
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