日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:白村江の戦い

飛鳥時代・・・日本がまだ倭国と呼ばれていた645年。
クーデター乙巳の変によって、時の最高権力者・蘇我入鹿が暗殺され、強大な権勢をふるっていた蘇我氏が滅亡。
古代日本を大きく変える政治改革・大化の改新が始まります。
そんな中、天皇を中心とした新たな国づくりを目指す倭国に、国家存亡の危機が訪れました。
白村江の戦です。

白村江の戦い

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クーデター乙巳の変ののち、大和政権は新たな政治をアピールするため、日本初の元号・大化を定め、
都を飛鳥から難波に移します。
蘇我氏に代わり、政治の実権を握ったのは、中大兄皇子、この時まだ20歳!!
大王と呼ばれた天皇を両親に持つ有力者でした。
中大兄皇子は、天皇を中心とする中央集権体制を目指し、改革を進めていきます。

その一つが、公地公民制です。
それまで有力な皇族や豪族が私有していた人民と土地を天皇のものにすると定めました。
これによって、国家による税や兵の徴収がスムーズに、強大な軍事力を作り上げるために必要な改革でした。

しかし、既得権益を失う豪族が反発。
改革は思うようには進みませんでした。
そんな中、国を揺るがす大問題がもたらされます。

・戦乱、海の向こうより来る
海の向こうは不安定な情勢にありました。
628年、中国大陸に成立した巨大な統一王朝・唐が、東アジア諸国を支配下に治めようと目論んでいました。
狙われた朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済が並び立つ、三国時代・・・
当時、高句麗と百済は新羅への侵攻を繰り返していました。
侵略の脅威にさらされた新羅は、唐に助けを求めます。
ゆくゆくは、最大の領土を有する高句麗を倒し、朝鮮半島を手に入れたいと目論んでいた唐は、新羅の救援要請を幸いにと、660年、百済討伐を決定!!
唐・新羅の連合軍は、百済に18万の兵で侵攻。
百済の王都を陥落させ、滅亡に追い込みました。
その数か月後、倭国に百済の使者がやってきました。

「百済に援軍を送っていただきたい!!」

使者を送ったのは、百済の将軍・鬼室福信でした。
福信ら、生き残った百済の遺臣たちは、百済再興を目指し、半島各地で抵抗を続けていました。
その軍事支援をしてほしいというのです。
さらに、倭国にいた百済の皇王子・余豊璋の召喚も求めます。
余豊璋は、百済王「義慈」の息子の一人でした。

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643年に倭国に人質として送られていました。
人質として送られてくるほどなので、百済王朝の中での地位は上位ではありませんでした。
しかし、百済が唐に攻め込まれて滅んでしまった・・・
百済にいた王族たちは、根こそぎ唐に連行されていました。
百済の遺臣たちが国を再興しようとしても、王に立てる人物がいない・・・!!
そこで、倭国に人質として送られた王子を擁立せざるを得なかったのです。

百済を助けるか、見捨てるか??
中大兄皇子は、大きな決断を迫られました。
強大な唐を敵に回し、もし負ければ国が滅びるかもしれない・・・
倭国の政権内では、百済を見捨てるべしと言う意見が強かったといいます。
ところが、倭国は百済の要請を受け入れて、出兵を決めます。

百済の要請を受け入れた理由①百済との関係
倭国と百済の外交は、4世紀まで遡ります。
当時、高句麗の支配下にあった百済は、独立するために軍事力が必要で、倭国が必要で同盟を結んだのです。
朝鮮半島の国から倭国は、軍事大国として認識されていました。
倭は百済を援護して軍事介入していました。
そして、その見返りとして百済は中国の進んだ文化を提供していました。
そうして、倭国と百済は、友好関係を保っていました。
百済より仏教・易学・医学など、様々なものが倭国にもたらされ、倭国発展の礎となりました。

時のの大王で中大兄皇子の母である第37代斉明天皇は、
「滅亡に瀕したものを助け、継承させるべきことは、恒典に記されている
 百済国が困窮して、我が国に頼ってきた 
 その気持ちを見捨てることはできない」

中大兄皇子もまた、同じ気持ちで、交流を深めてきた百済の窮地を見捨てることはできないと出兵を決意しました。

百済の要請を受け入れた理由②唐の状況
百済の使者のこんな言葉も決断に至りました。

「新羅の軍を破り、百済はその兵を奪った
 唐もあえて介入はしてきません
 各地で挙兵した百済の兵たちは団結し、新羅軍を圧倒!
 唐の軍勢も近づくことが出来ないほど戦局は有利にあります」

唐の介入がなく、百済復興軍は優勢だというのです。

唐の元々のターゲットは、高句麗でした。
唐の目的は、高句麗侵攻にあって、百済は遠征の生涯にならないように先に滅ぼされていました。
唐が百済駐留軍に割ける戦力は多くはなかったのです。
これならば戦えると判断しました。

百済の要請を受け入れた理由③倭国の思惑
さらに、中大兄皇子は野望がありました。
「百済王柵封を軍事力によって達成する!!」
柵封は、中国の皇帝がやったことで、力のある王が周辺諸国の王を自分の臣下に位置付けることです。
日本も中国の皇帝に倣って、百済王として擁立した余豊璋を、倭国王の臣下に位置づけようとしました。

斉明天皇は、みずから筑紫国に赴き、百済救援軍の陣頭に立ちました。
男性であっても陣頭に立った例はありません。
そこまでしたのは・・・斉明天皇は、東アジアの動乱の中で、倭国を軍事拡張路線へ導こうとしていたのです。
百済救援戦争を通じて倭国の領土御拡大させ、次の天皇として中大兄皇子に与えようとしたのです。

斉明天皇は、難波宮で様々な兵器を準備し、駿河国には船を作るよう命じました。

日本国の誕生?白村江の戦、壬申の乱、そして冊封の歴史と共に消えた倭国

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661年1月、斉明天皇・中大兄皇子・大海人皇子・中臣鎌足らが兵を率いてなにわを出航。
本拠となる筑紫国へと向かいました。

斉明天皇と中大兄皇子らは、各地で兵を動員しながら瀬戸内海を西へと進んでいきました。
その即席が残されているのが、岡山県真備町・・・上二万・下二万という地名が残っています。
中野終えの皇子が立ち寄り、2万の兵を集めたという伝説が残っています。
3月25日、一行は現在の福岡県博多港にあたる那大津に到着しました。
5月9日に筑紫国の朝倉橘広庭宮で出兵の準備に入ります。

ところが・・・思いもかけない事態が起こります。
7月24日、斉明天皇倒れて崩御
すると、後を継ぐべき中大兄皇子は即位をせずに大王としての権力を振るうことができる称制と呼ばれる政治形態をとります。
斉明天皇が始めた戦争を完遂しなければ、周囲から斉明の後継者として認められないという状況でした。
偉大な母の後継者となるには、この戦いに勝ち、自らの実力を知らしめ、周囲を納得させなければなりません。
こうして、中大兄皇子は唐という大国と戦うことになったのです。

661年7月、中大兄皇子は長津宮に移って軍勢を指揮、出兵の準備をします。
そして倭国は、百済救済のため、3回の遠征を行い、のべ4万2000の兵を朝鮮半島に送ります。

662年1月、5千の兵による第1陣が出航。
そこには、百済復興の希望・余豊璋の姿がありました。
倭国軍に護衛され、およそ20年ぶりに百済の地を踏んだ豊璋。
百済復興軍を率いる鬼室福信と合流し、百済王として擁立されます。
この時、百済が本拠地としたのがクムガンの河口、白村江に近い天然の要害・周留城でした。
倭国・百済連合軍は、戦いを優位に進めていきます。
白村江周辺の地形、潮の流れを熟知していた鬼室福信の指揮も的確でした。
百済復興軍は、ゲリラ戦を繰り広げ、唐・新羅連合軍を翻弄・・・新羅の城を落とすなど、戦果をあげていきます。
唐の皇帝・高宗が、倭国・百済連合軍の抵抗に、百済からの撤退を指示したほどの勢いでした。

ところが・・・倭国・百済連合軍内に大事件が勃発します。
百済王となった豊璋が、将軍・福信を処刑してしまったのです。
日本書紀によると・・・
”豊璋が福信を捕らえ、その罪を明らかにした後惨殺した”とあります。
福信が、何らかの罪を犯したというのです。
それは、処刑の半年前・・・険しい地にあった周留城では、兵士たちの食糧確保が困難となったため、百済軍の豊璋と福信は、本拠地を避城に移しました。
倭国の将軍たちの反対を押し切ってのことでした。
しかし・・・平坦な地にあった避城は、敵の激しい攻撃にさらされてしまいます。
わずか2か月で周留城に戻ることになってしまうのです。
無駄な死出費と労力を使った本拠地の移動は、倭国・百済連合軍に痛手を与える大きな失敗でした。
百済王・豊璋は、軍事指揮官・福信ひとりに責任をとらせ罰したと言われています。
こうして豊璋が福信を殺したのにはそうしなければならない理由がありました。
二人の不仲です。
豊璋は、王子としての位が低かったので、福信が内心自分をさげすんでいるのでは??と思っていました。
福信は、自分こそが百済の復興を引っ張ってきたというプライドがありました。
福信は、百済王家と姻戚関係を結んでいました。
百済王にはなれないけれど、それに次ぐ家格だったのです。

避城への移住を最初に主張したのは豊璋でした。
福信は、移動することに異議を唱えませんでした。
福信は、避城への移動の失敗を豊璋のせいにするのでは??

福信は、自分罪を着せる豊璋の殺害を画策したと言われています。
本拠地移動の失敗で、豊璋と福信の仲は決裂!!
身の危険を感じた豊璋が、先んじて福信を殺害したのです。

卓越した軍事指揮官だった福信を失った百済軍は一気に弱体化し、戦況は不利となります。
唐は、新羅救援のために7000もの兵を送り込みます。
唐・新羅連合軍は、豊璋が立ても凝る周留城を水陸から包囲、戦況は一気に唐・新羅連合軍有利へと傾いていきます。

663年3月、九州・長津宮で指揮を執っていた中大兄皇子は、倭国・百済連合軍劣勢の報せを受け、第2陣の派兵を決めます。
その数2万7000!!
さらに8月、第3陣として1万の兵を送ります。
百済軍の本拠地である周留城が、唐・新羅陸上部隊に包囲されてしまったからです。
さらに唐から水軍およそ170艘が、白村江に布陣!!
周留城周辺に駆けつけるであろう倭国軍を向かえ撃つためでした。
唐の予想通り、倭国軍第3陣の1万の兵は、400艘の船で周留城に向かっていました。
そして、8月27日・・・倭国軍は、待ち構えていた唐の船団と激突!!
白村江の戦い勃発です。
唐の軍船は170艘・兵は7000あまり
倭国軍は400艘・1万人と、数の上では優勢でした。
ところが、倭国軍は、大敗を喫するのです。
日本書紀には・・・
”ときのまに官軍敗れぬ”
あっという間に勝敗が決したといいます。
どうして倭国軍が、惨敗したのでしょうか??
有能な指揮官・鬼室福信を失ったこと以外にも、様々な要因がありました。

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敗因①無謀な敵中突破
倭国軍第3陣の目的は、周留城救援のための兵の輸送で、海上戦は想定外でした。
白村江での戦いは、2日間にわたって行われました。
1日目(8月27日)・・・倭国軍は、全ての船が戦場に到着していなかったのに、戦いを挑みあえなく敗走。
2日目(8月28日)・・・再び戦闘。倭国軍は、前日の敗戦にもかかわらず、待ち構える敵に策もなく突入!!
指揮系統も一本化されておらず、それぞれの豪族たちが手柄をあげようと、無謀な突入を繰り返したのです。
倭国は、まだ徴兵制が施行されていませんでした。
豪族の私兵の寄せ集めによる混合軍でした。
数の上では倭国軍が勝っていましたが、しかし、寄せ集めという弱点は覆せませんでした。
一方、唐軍は、見事な連携と巧みな操船により、左右から倭国軍の船を挟み撃ち!!
倭国軍の兵は、次々と唐軍の餌食となりました。
唐は、律令制が確立しており、戸籍による徴兵が行われていました。
府兵制という常備軍もすでに完備していました。
倭国の寄せ集めとは比べ物にならない質のいい兵が備わっていました。

敗因②軍船の性能
数で劣るとはいえ、楼船と呼ばれる唐の船は三層の櫓を持つ巨大な軍船でした。
鉄の甲板は、馬が走り回れるほどの広さで、乗船できる兵は数百に及びました。
対して倭国軍の船は、輸送用の小舟にすぎず、乗れる兵もわずかでした。
果敢に挑むも、火矢を浴びせかけられ海の藻屑となりました。

”戦いは四度び及び、全て唐軍の勝利
 倭国水軍の船 四百艘を焼き払い
 その煙は天を覆い海は真っ赤になった”by旧唐書

寄せ集めの倭国の兵と、常備軍の唐の兵との質の差と、強力な唐の楼船に太刀打ちできずに倭国軍は惨敗を喫したのです。

663年、倭国は白村江の戦いで大敗。
中大兄皇子は、唐と新羅の倭国侵攻に備え、北九州を中心とした軍事施設の建設に邁進していきます。
福岡県筑紫野市にある前畑遺跡・・・
ここで発見された土塁は、発掘されている部分だけでも長さ500m。
砂や粘土などを固めた「版築」という技術で、堅固に作られています。
この遺跡の土塁は、巨大な防衛網の一部ではないかと推測されています。
護ろうとしたのは、大和政権最大の出先機関・大宰府でした。
中大兄皇子は、筑紫国に大野城などの山城を築きます。
さらに、水城・・・全長1キロに及ぶ堤防で、堀に水をためた防衛施設を作りました。
コレラの防衛施設に、山や川など自然の地形を利用して、大宰府を守る全長50キロ以上もの防衛網を作ったと考えられています。
そして、九州北部沿岸の対馬・壱岐などには警備に当たる防人らを配置。
中大兄皇子は他にも、進行ルートとなりうる瀬戸内海沿岸に山城を築きました。
そこには、別の狙いもありました。
西日本の各地に朝鮮式山城という要塞を作っていきました。
専守防衛のためと考えられますが、主要な山城の近くには、太宰・惣領と呼ばれる軍事組織が置かれていました。
筑紫・周防・伊予・吉備に軍事施設を設け、徴兵を強化しました。

667年には、都を海に近い難波宮から、責められにくい内陸の近江大津宮へ遷都。
しかし、結局、唐・新羅連合軍が倭国に攻めてくることはありませんでした。
どうして、唐と新羅は攻め込んでこなかったのでしょうか?

668年、唐と新羅は高句麗を攻め、滅ぼしました。
すると、領土の配分を巡って、両国の間で諍いが起きます。
唐は、領土のほとんどを自分のものにしようとしましたが、新羅が反対し、武力衝突へ!!
朝鮮半島の戦いにおいて、倭国の軍事力はキャスティングボートを握っていました。
朝鮮半島を直接支配しようとする唐・・・新羅と戦っている唐に、倭国を攻める余裕はありません。
うまく関係改善できれば、軍事支援が期待できる・・・!!
新羅は、倭国に背後から攻められる恐れがあり、関係改善の必要がありました。
唐と新羅、それぞれの事情から、倭国と関係を改善する必要に迫られ、両国ともに攻めてくることはありませんでした。

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唐より、白村江の戦いで捕らえられた捕虜の返還が行われました。
両国は、和解への道を進んでいきます。
一歩間違えれば、国が滅んでいたかもしれない倭国・・・
古代日本が襲われた国家存亡の危機はこうして回避されたのです。

668年、中大兄皇子は即位し、第38代天智天皇となります。
そして、画期的な改革に着手します。
670年、日本初の戸籍「庚午年籍」の作成に着手。
庚午年籍は、身分、氏姓を確定するための台帳として利用され、租税収入の予測を容易にしました。
しかし、最大の目的は・・・
「白村江の戦い」での敗戦によって、徴兵軍の強さを思い知らされました。
庚午年籍は、全国規模の戸籍です。
戸籍があることで、民衆から一定の割合で兵を集めることが可能となりました。
庚午年籍は、徴兵制確立のために、なくてはならないものだったのです。

天皇になる前、中大兄皇子は自らの力を見せようと、唐・新羅連合軍との戦いに挑みましたが、白村江の戦いで大敗・・・
しかし、その敗戦が、天智天皇の目指す国づくりを進める結果となったのです。
手痛い負け戦・・・外敵からの脅威は、豪族たちに危機感を生み、国をまとめる結果となりました。
この時、倭国には、多くの百済貴族・官僚らが逃れてきていました。
最先端の知識を持った百済人・・・そのたくさんの知識を吸収したことで、倭国の文化は発展しました。
改革は一気に進んでいったのです。

「今度こそ、強い国がつくれる」

白村江の戦いによって、天皇を中心とする中央集権国家へと変わる加速度が増しました。
しかし、道半ば・・・671年、天智天皇崩御・・・46歳でした。
その志は、弟・天武天皇が引き継ぎ、新たな国の形・律令国家を目指していったのです。

白村江の戦いで大敗によって、倭国は軍事拡張路線を土台とした律令国家へと変わっていきます。
天皇を中心とした中央集権体制を、日本という国を形作っていくのです。
律令国家・日本の誕生・・・その契機となったものの一つが、白村江の戦いでした。


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古代の日本が直面した国家存亡の危機・・・それを物語る遺跡が福岡県筑紫野市(前畑遺跡)で発見されました。
丘の上に築かれた巨大な土塁・・・砂や粘土を敷き詰めて固めた版築と呼ばれる堅固なものでした。

長さは発掘されている部分で500m・・・この発見で、古代日本では作られたことがないとされてきた施設の存在が浮かび上がってきました。
羅城です。
羅城とは、外敵の侵略に備え、都市全体を取り囲んだ城壁や土塁などの防御施設のことです。
発見された土塁は、九州の大宰府を防御する為に作られていた可能性が・・・
羅城を築くきっかけを作ったのが、古代日本最大の戦争・・・白村江の戦です。

663年、倭国は滅亡した朝鮮半島の王朝・百済の復興を助けるために、大軍を朝鮮に派遣。
大陸の王朝・唐の大艦隊と朝鮮半島の沿岸部で激突!!
そして、圧倒的な戦力差を前に敗北を喫するのです。
この戦いを決断したのは、当時倭国の実権を握っていた中大兄皇子。
開戦後、倭国侵攻に備えて全国に防御システムを築きました。
白村江の戦いは、人々の危機感を一気に高めていきます。
どうして強大な唐に戦いを挑んだのでしょうか・・・??

645年に発生した乙巳の変・・・
この政変で蘇我氏に代わって実権を握ったのが皇太子・中大兄皇子でした。
クーデター当時僅か20歳・・・天皇を両親に持つ有力者でした。
大阪市・・・乙巳の変の後王宮となった難波宮・・・蘇我氏打倒の直後、新しい政治をアピールするため、日本初の元号・大化を定め、長らく親しんだ飛鳥から遷都しました。
南北600mを越える強大な王宮で、南側には朝堂院が・・・広大な空間は、皇族たちが列席する中、重要な儀式が行われました。
646年1月1日、元日朝賀のあと、孝徳天皇による新政権の改革方針が発表されました。
改新の詔です。
それは、大王を中心とする中央集権体制でした。

この時代、土地と民は豪族たちが私有していました。
大王が、税や兵を徴集する場合、豪族を通す必要があり、思うように徴収できないこともありました。
改革は、全国の土地と民を大王のものとし、豪族たちを国家から給与をもらう官僚とすることでした。
これによって国家による税や兵の徴収が速やかに可能となります。
倭国が強大な軍事力を手に入れるためには必要な改革でした。
どうして中大兄は軍事力を必要としていたのでしょうか??
それは、海外情勢の危機感です。

7世紀に入り、東アジアは激動の時代を迎えていました。
7世紀前半、唐が中国を統一、すると、高句麗・百済の侵略に晒されていた新羅が唐に助けを求めるようになります。
これによって東アジアは、唐・新羅陣営と、それに対抗する高句麗・百済陣営に二分されました。
中大兄は、唐の脅威と不安定な情勢に備えるために、中央集権化に進む必要がありました。そして、外交面でも・・・
646年、新羅に使者を派遣。
最新の文化や技術をもたらす百済や高句麗の有効はこれまで通りに、新羅にも接近・・・全方位外交をしようとしたのです。
百済一辺倒の外交は、もう時代遅れ・・・。
倭国は、新羅を通して唐に接近、どの陣営にも属さない方針をとったのです。

国内の改革は、遅々として進まず・・・孝徳朝の改革に抵抗する人たちもいたのです。
中央集権化や官僚制度が成り立たない・・・。
豪族の私有地、私有民を大王のものとする改革・・・既得権益を失う豪族たちの多くは反発していました。
改革がままならない中・・・目まぐるしく変わる海外情勢について行かなければなりません・・・。

654年、朝鮮三国と均等に交流するという倭国の外交方針にほころびが・・・
倭国の遣唐使が、唐の皇帝から命令を受けます。
「倭国は新羅、高句麗、百済と接近しているが、もし危急の事態となれば、兵を出して新羅を救うように・・・」
高句麗、百済との関係を断ち、唐・新羅陣営に来るように要求したのです。
660年7月、朝鮮半島で・・・百済が唐・新羅連合軍18万の軍勢に攻撃され、滅亡したのです。
百済の都は陥落し、百済王は唐に連行されたのです。
倭国は最大の友好国を失ってしまいました。
数か月後・・・中大兄のもとへ使者が・・・
使者を送ったのは、百済の将軍・鬼室福信。
生き残った百済の人々は、百済の復興を目指し、半島各地でゲリラ戦を展開していました。
使者は、中大兄らに軍事支援を要請をします。
当時倭国に滞在していた百済の扶余豊璋を新しい王として迎えたいと帰国を促したのです。

百済復興を支援する??
それとも百済を見捨てる・・・??

倭国にとって朝鮮半島に強い影響力を持つことは重要だったと考えられます。
が・・・どうする・・・??

百済滅亡の翌年の661年1月、中大兄は時の大王・斉明天皇と共に難波を出港・・・筑紫国に向かいました。
日本書紀には、出発前の斉明天皇の言葉が書かれています。

「百済の人々は、戈を枕にし、肝を嘗める苦労をして救いを求めてきている。
 その志をどうして見捨てられようか。」

倭国は百済復興の支援を決断します。
661年9月、5000の兵が、朝鮮半島に渡ります。
その中には、百済皇子・扶余豊璋もいました。
出国直前、中大兄は扶余豊璋に、倭国の官位の一つ織冠を与えています。
これは、中大兄の臣下の身分に入ったということです。
しかし中大兄は、遠征軍を送った後、1年半の長きにわたり動きませんでした。
その理由は・・・??
中大兄は、百済支援を決断してから兵を動員するのに時間を費やしていました。
各地方豪族に民衆の徴発を命じて、徐々に軍隊を集めていきながら、中央の豪族から任命された将軍がそれを率いる・・・
なかなか中央集権的に、命令を下して軍隊が集まってくるという構造にはなっていなかったのです。
倭国が兵を集めるのに時間を擁している間に、戦局は次第に百済復興軍にとって不利になっていきます。
663年・・・唐は高句麗征討いったん中止し、百済殲滅を最優先とする方針に変え、主力を百済に投入。
さらに、百済復興軍の中でも足並みが崩れ始めました。
百済王・扶余豊璋と、将軍・鬼室福信が対立!!
これによって鬼室福信は殺害されてしまいました。
豊璋は、長く日本に住んでいたので、再興した百済が実質的に日本の支配下に置かれてもあまり抵抗はなく、しかし、鬼室福信は、極力、日本の干渉を避けたかったのです。百済の自主独立の考えだったのです。
一方、唐・新羅連合軍では軍議が行われ・・・
”周留城は敵の巣穴。周留に勝てば、諸城は自ずと下るだろう”
唐・新羅連合軍は、豊璋の籠る周留城を水陸から攻めます。
総力を持って撃破する作戦です。
それに対し、中大兄の作戦は対照的で・・・
新しい兵・2万7千を、新羅本国への攻撃に、1万の兵を周留城救援に向かわせたのです。
663年8月27日、1万の遠征軍が白村江に到着!!
倭の援軍を待っていたのは、周留城攻略のために集まっていた唐の大軍勢でした。

唐はどれほどの海軍力だったのでしょうか??
軍船の一つは楼舡・・・山荘の櫓を持ち、甲板の上を馬が走り回れるほどの船でした。
防火のために、皮で覆われた外壁で、投石機で敵を攻撃します。
小型船・蒙衝は、敵戦に素早く近づき、窓から槍や強力な矢を持つ弩で攻撃します。
倭の兵士たちは果敢に大艦隊に挑む者の、圧倒的な戦力差に次々と破れていきます。
これが白村江の戦いです。
倭国軍は、400もの船を焼かれ、その煙は天を覆ったといいます。
海は、倭国の兵の血で赤く濁ったといいます。

縦割り的なバラバラな仕組みの日本・・・
唐の軍隊は、軍団制度に基づいて、常に軍事訓練をしていました。
集団先鋒で、整然と相手を追いつめたのです。
1万の遠征軍は、僅か2日で壊滅!!
百済復興軍の立て籠もる周留城も落城。
百済王・豊璋は高句麗へと逃げ、行方不明となりました。
ここに中大兄の支援策は失敗し、百済復興がなされることはありませんでした。

中大兄は、百済復興のために3回・4万2千の兵を派兵しています。
1回目・・・661年9月第一次遠征軍・・・・・・5000
2回目・・・663年3月第二次遠征軍・・・2万7000
3回目・・・663年8月第三次遠征軍・・・1万・・・白村江で大敗

その後・・・
中大兄は唐・新羅の倭国侵攻に備え、軍事施設の建設に邁進します。
福岡県筑紫野市の前畑遺跡・・・巨大な土塁は、中大兄が侵略の危機感から築かせたものだとされています。
羅城とは、中国では一般的な、都市全体を囲んだ城壁のことです。
古代日本には存在していないといわれてきました。
九州における大和政権最大の出先機関・・・大宰府。
これまで外敵の侵略経路の博多湾から大宰府までを中心に複数の防御施設が発見されています。
数少ない大宰府南東の遺構である前畑遺跡・・・前畑遺跡の登場で、中大兄が羅城を建設しようとしていた可能性が出てきました。
50キロ以上の防衛ラインを・・・東アジア最大の羅城となります。
国難に備えた国家プロジェクトとして行われた大事業だったのです。

さらに・・・中大兄は羅城に留まらず、防衛のために瀬戸内海に古代山城を築きます。
これらの防御施設は、亡命してきた百済の技術者の指導で行われました。
しかし・・・朝鮮半島では新羅が唐と対立し、唐が倭国を侵略することはありませんでした。

668年中大兄は近江大津宮で大王に即位・・・天智天皇となります。
2年後・・・日本初となる庚午年籍を作成。
大敗戦の経験は、豪族たちの危機意識を生み、天智天皇の改革に協力する機運を高めていたのです。
中央集権化が進んでいきます。
東アジアの中で生き残るために・・・!!

改革・・・しかし、残された時間は少なく・・・天智天皇は志半ばで病に倒れます。
671年天智天皇崩御・・・46歳でした。
天智天皇の死後、倭国では皇位継承をめぐり壬申の乱が起きます。
この内乱に勝利した天武天皇は、天智天皇の志を受け継ぎ、国内改革を推し進めます。
そして、中国の制度・律令を導入し、天皇を中心とした中央集権体制を完成させるのです。
古代日本の転換点となった白村江の戦い・・・数多の犠牲を経て、日本は国家としての形を整えていくのです。


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今から1300年以上前、日本という国の在り方を定めた戦いがありました。
672年”壬申の乱”です。
天智天皇の後継争いとして天皇の長子・大友皇子と、天皇の弟・大海人皇子が国を二分して戦った古代最大の内乱です。
勝利した大海人皇子は天武天皇として即位、国の基本を作り上げていきます。
律令制や官僚制度、国史編纂、新都造営・・・天皇の称号を始めて用い、皇室ゆかりの儀式が整備されました。
天皇・国家を定めた・・・日本の国を作った戦いなのです。

しかし、乱の経緯については解らないことばかり・・・
戦いの発端は・・・??
皇位継承を辞退した大海人皇子はどうして蜂起したのか?
わずか30人余りで吉野を脱出した大海人皇子が、4日間で3万の軍勢に膨れ上がり圧勝できたのか??
そしてその時、天智天皇の娘であり大海人皇子の妻・鵜野姫皇女(持統天皇)は???

古代日本最大の内乱はどうして起こり、日本はどのように変わっていったのか?
日本の在り方とは???

壬申の乱は、戦前、教科書から削除されていました。
戦前は万世一系・・・壬申の乱は、都合が悪かったと思われます。

天智天皇の後継者争いから始まった壬申の乱・・・。
天智天皇の時代の政治は???
大化の改新を成功させた中大兄皇子・・・天智天皇は、663年白村江の戦いに直面します。
当時日本は倭国・・・百済復興のために大量の兵の兵を派遣し、新羅・唐と戦います。
大国・唐の圧倒的軍事力の前に大敗を喫した倭国軍。。。
その後、唐・新羅が百済を滅ぼすと、今度は唐と新羅が対立します。
混沌とする世界の中、倭国の危機が続いていました。
白村江の戦いに敗北したあと即位した天智天皇は、外圧に対抗するための軍事国家を建設を目指します。
水城や山城を急ピッチで作ります。
戦時体制をしき、本土決戦を意識し、侵略に備えたのです。
急速な富国強兵をすすめます。
671年・・・病に臥せった天智天皇。。。
有力候補は息子・若干24歳の大友皇子、もう一人は弟・大海人皇子でした。
天智天皇は息子ではなく、弟を指名したと日本書紀には書かれています。
当時の皇位継承は、明確に存在していたのではなく、・・・統ではなく資質。年齢や経験がモノをいったのです。
未知数の大友皇子よりも大海人皇子を選んだのですが。。。
大海人皇子は皇位継承を辞退し、出家してしまいました。
兄の想いを慮って身を引いたのか???
「お言葉にはご用心なさいませ。」
その一言で、兄の謀略を感じ取ったのかも知れません。
自分が皇位を継承すると言ったら・・・??
兄の謀略を察し・・・だからの出家だったのかもしれないのです。
そこには、天智天皇の国づくりに対する諸豪族の不満があったと言われています。

例えば・・・庚午年籍の制定・・・
土地や徴税など、豪族の既得権を国家の管理とするものでした。
公地公民は、確実に税と兵をとる方法でした。
おまけに都を飛鳥から近江大津宮に遷都しようと考えていました。
この遷都に対する不満から火事や不吉なことが起こったと言われています。
全員が集結して国の役人となる。。。
土地・民衆の支配権が国家に管理登録される不満。。。
大海人皇子はその不満を感じていたのでそのまま継ぐのは不利だ・・・と感じ、671年近江を出発し、隠遁生活に入りました。同行したのは妻・鵜野讃良皇女と息子・草壁皇子たち。。。

それから1か月余りで天智天皇が崩御。

こうして大友皇子が近江朝廷の実権を握ったのでした。

天智天皇の改革は・・・近代国家にならなければ国が亡びるかもしれない・・・ということを感じ、安全保障が第一でした。
古代皇位継承は今とは違い、統治能力とある程度の年齢が必要でした。
それが暗黙のルールだったのです。
25歳の大友は若く、おまけに母親(伊賀采女)の身分が低く、豪族とも扱われない可能性がありました。

そして大海人は、天智の不満・恨みを一身に背負わないためにも、出家が必要だったのです。
天智天皇は改善をしたかった・・・しかし大海人皇子は変革を望んでいたのです。

壬申の乱は、そんな大海人皇子の吉野脱出から始まります。
そのきっかけを日本書紀は・・・
672年5月、大海人皇子は家臣から報告を受けます。
「朝廷は天智天皇の陵墓を創るためとし妊婦を集めていますが、武器を持たせています。
 早く逃げないと危ないことになるでしょう。」
つまり、大友は大海人追討に向かうと言うのです。
吉野脱出は緊急避難???
近江朝廷側が仕掛けた?いえいえ、大海人皇子の念入りな作戦が伺えます。
吉野脱出の計画は???
①近江の皇子たちとの合流
高市皇子と大津皇子を呼び出し、伊勢で落ち合えるようにします。
脱出がばれると人質にされかねないので合流しました。

jin





















細い道・・・険しい道を通ります。
大海人皇子は事前に何回もシミュレーションしていたようです。
積殖山口で武市皇子と再会します。そして大津皇子とも合流。。。
これは計画的にしないと出来ないことです。
吉野に隠棲してから考えたようです。

そして・・・鈴鹿の山道を封鎖!!
この頃、大津宮は高市皇子と大津皇子がいなくなったので捜索開始。
一方鈴鹿に到着した大海人皇子は、追っ手を防ぐための軍事行動に出ました。

”500の軍勢で、鈴鹿の山道の守りを固めた”

鈴鹿の山道を抑える・・・これは大事なこと・・・近江朝廷側の追っ手を防ぎ、飛鳥からの追っ手も防げる場所だったのです。

不破の道を防げ!!
不破とは関ヶ原のことです。
交通の最大の要所でした。
近江と東国の関係を断ち、東国を味方につけることが目的でした。
不破を押さえ、尾張からの2万の兵も合流し・・・
4日間・170㎞の行程で・・・30人の一行は3万人にも膨れ上がっていったのでした。

白村江で西国は疲弊していましたが、東国は無傷な兵がたくさんいました。
鈴鹿と不破の関を押さえると・・・東国と畿内は遮断されます。
つまり、この二つの道を塞ぐことが勝利への道だったのです。
地図もないのに、道もないのに・・・何度も練習した成果でした。

壬申の乱は、6万人もの兵士が敵味方に分かれて戦った、古代史上最大の内乱でした。
しかし、大海人皇子軍の一方的勝利に終わるのです。
近江朝廷軍は遂に不破に向かって進軍します。
近江朝廷側に不満を抱く者たちが飛鳥で立ち・・・飛鳥はあっけなく落ちました。
大海人皇子の軍勢は各地で勝利し、大津宮へ・・・最後の決戦の地は、滋賀県にある瀬田橋。。。
兵力を結集し、雌雄を決することになりました。

勝敗はあっけなく・・・
近江方の陣は混乱し、逃げ散るのを止めることは出来ませんでした。
大友皇子たちも、かろうじて脱出しますが。。。
もはや逃げ場はなく・・・山前で・・・大友皇子は自ら首をくくって死に・・・
不破の大海人皇子の元へと届けられたのでした。

こうして壬申の乱は終わりを告げるのでした。

中央の大友がこれだけあっけなく負けた理由は・・・
大海人は戦争を起こそうとしていたこと。
大友は戦が起こるとは思っていなかった。。。
用意周到に準備していることに全く気付いていなかったのが原因だったのです。
そう、知らせてくれる見方がいなかったのです。

やはり、みんなが大海人皇子が継ぐべきだと思っていたのです。

どちらが勝った方が良かったのか???
大友が買った場合、天智天皇のまま・・・唐よりの政策になって、唐に取り込まれていたかもしれません。
国家として残るために、大海人が勝って良かったのだろうと思われます。

大友の首は必要だったの???
王族の首を斬るということは、日本の歴史上ほとんどありません。
戦後処理を考えると、大友は確実に死んだという事実を示さなければならなかったのです。

壬申の乱の翌年、大海人皇子は大津から飛鳥に都をもどし、天武天皇として即位し、大規模な国家改造のために、独裁的人事体制を築きます。

天智天皇の時代には有力豪族がついていた大臣のポストを無くし、天皇皇后を頂点に皇族・皇親に力を集中させ(皇親政治)、しかし、敗れた側の人々にも政治参加をさせました。
トップダウンのできる体制が整いました。

東アジアでは、新羅が唐と戦争を起こし・・・676年には新羅が朝鮮を平定します。
大陸の脅威は徐々に薄れ・・・国内の改革に取り組みだしました。
681年律令の編纂を開始、国史編纂事業にも取り組みます。これがのちの日本書紀です。
大王という名を改め、天皇という言葉を初めて使ったのは天武天皇だと考えられています。
天武天皇は、自らを天皇と名乗り、絶対的な権威を持ちました。
大王(おおきみ)は・・・たくさんいる王の中のTOPですが、天皇は唯一無二の存在です。

飛鳥の都を賛美する歌に・・・

「おおきみは
  神にしませば赤駒の
    腹這ふ田井を都と威しつ」

と、万葉集に収められています。

天皇は神である・・・

天武天皇は、どんな国家を目指したのでしょう?
天武朝の前半と後半とでは全く違い、天武10年までは戦争状態でした。
非常に高圧的に・・・国家の基本は軍事であるという政策をとります。
確実に税がとれて兵が徴収できる国家です。
天武5年に唐と新羅の戦争が終わり・・・天武7年にその知らせがもたらされました。

いつ攻めてくるかわからない時代が終わりました。
不安の無くなった天武政権は、貨幣経済でないと大きな国は動かせない!!と、税を徴収し、徴兵すること・・・近代的な考えになっていくのです。

政治的な立場には天皇と皇后しか置かない・・・
ふたりで決定する政治をし、みんな天皇と皇后の下に平等であることを認識させました。
まさに”一君万民”です。
唯一無二の天皇の為に・・・
神話が必要でした。
世界に対抗するためにも中国とのバランスを考えて作られたと考えられます。
天皇の歳が長すぎたり・・・いろいろ変な部分がありますが、努力してつじつま合わせをした結果ではないか?とも思われるのです。

絶対的な権力と権威・・・
天武天皇の最後の問題は皇位継承でした。
どう継承していくのか???
そこには皇后の想いもありました。
天皇の息子のうち、成人しているのは4人・・・
草壁皇子・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子。。。
そのうち、鵜野讃良皇女の息子・控えめな草壁皇子と大田皇女の息子・優秀な大津皇子に絞られました。

大津皇子支持の声の多い中・・・
679年後継者を指名・・・草壁皇子です。
他の皇子には争わないと誓わせました。
しかし、686年天武天皇が崩御・・・
その1か月後に皇子たちの誓いは破られてしまうのでした。
大津皇子の謀反が発覚!!大津皇子は死に追いやられてしまいました。
ところが3年後には草壁皇子も亡くなってしまいます。
そこで皇后・鵜野讃良皇女が持統天皇として即位します。

夫の計画を引き継いで・・・
草壁皇子の息子・軽皇子を後継者と指名し、697年で文武天皇として即位します。
権力を持たない、若い天皇の誕生でした。
これがその後の日本の在り方を決めることになりました。
中国は易姓革命。天がそれを見放した時に滅びるのですが・・・
日本の場合は天は万世一系としてなり、権威はあるけれども権力はない・・・
という形となり、長続きする理由なのです。

これを強く支持したのは壬申の乱で争った大友皇子の息子・葛野王でした。
あまりにも若い天皇に反対意見のある中・・・
「わが国では今日まで子孫が皇位継承することになっている
 兄弟の順で相続するならば、国は乱れる」
と。。。葛野王は、天武天皇直系の軽皇子の即位を推したのです。

持統天皇は喜び、国を定る・・・現在まで連綿と続くこの国の在り方が、この壬申の乱から始まったのです。


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