日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

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その美しさから会津富士と呼ばれる明峰・磐梯山
今から150年前、この山の麓で、戊辰戦争最大の激戦が行われました。
藩の誇りをかけた会津藩が、攻め込んできた新政府軍に徹底抗戦!!
そんな会津藩に悲劇が・・・
白虎隊の少年兵たちが非業の死を遂げたのです。
城が陥落したと絶望して・・・。
今も語り継がれる白虎隊と会津藩・・・その壮絶な最期とは・・・??

会津藩は、伊達家の仙台藩、上杉家の米沢藩が幕府に反旗を翻した場合に、防衛の拠点となる重要な藩でした。
藩の礎を築いたのは、2代将軍秀忠の息子・保科正之です。
保科は、会津藩家訓15か条を作り、第1条に・・・
”徳川家に絶対的な忠誠を誓うことが、会津藩の務めである”と。
その使命を果たすべく、代々藩主は人材育成に努めていきます。
その一環として藩士の子供たちは、”什の掟”という心構えを教え込まれます。
10歳になると、藩校・日進館に・・・。
論語、大学など中国の古典を声に出して読み教養を深め、医学、天文学まで幅広く学びました。
砲術、弓術、水練・・・徳川家の有事に備え、有能な藩士を育てようとしました。
こうして幕府から絶大な信頼を得ていく会津は、幕末、朝廷からも信頼を寄せられます。

9代藩主・松平容保は、京の治安維持を担う京都守護職に・・・。
時の孝明天皇から高く評価されます。
しかし・・・15代将軍徳川慶喜が政権を交代した大政奉還を境に会津藩の立場は激変!!
幕府、朝廷・・・両方から敵視されることに・・・

慶喜の裏切り・・・
1868年1月、容保ら旧幕府軍は、慶喜を大将に新政府軍に戦いを挑みます。
鳥羽伏見の戦いです。
しかし、あえなく敗戦!!
容保は慶喜に付き従い江戸に逃げ帰ります。
対して新政府軍は朝敵となった慶喜に対し素早く追討令をだし、江戸へと迫ってきました。
すると・・・慶喜は朝敵に対し恭順の意を示したばかりか、信頼していた容保を江戸から追放したのです。
そこには慶喜の思惑がありました。
まだ新政府軍と戦う気だった会津藩の存在が邪魔だったのです。
「江戸から遠ざけたい・・・!!」
”会津藩 松平容保は、天皇に対し恭順の意を表していない”と印象付けようとしたのです。

徳川家に尽くして来た会津藩に対する裏切りとも取れる慶喜の行為・・・
大きなショックを受けた容保は、失意のまま会津に戻ります。
そして14歳だった養子の喜徳に家督を譲り隠居、自らも朝廷に対し恭順の意を表すのですが・・・
その申し出は受け入れられませんでした。
新政府軍は、容保の斬首を要求!!

どうして新政府軍は会津に厳しかったのでしょうか?
長州藩との因縁・・・
それは、まだ幕府が政権を返上する前、京都守護職の容保は、新選組を配下に置き、尊王攘夷派の長州藩士などを厳しく取り締まっていました。
攘夷派だった孝明天皇も、容保に信頼を寄せるようになります。
1863年、8月18日の政変!!
孝明天皇に近づき利用しようと画策していた長州藩士と尊王攘夷派の公家らを京都から追放!!
この時、長州藩士たちを追放したのが容保ら会津藩でした。
長州藩は尊王攘夷激派で、容保はまだ公武合体派だったのです。
孝明天皇も、まだ”長州藩士らの追放”を望んでいました。

1864年禁門の変・・・復権を目論んだ長州藩が再び上洛し、蛤御門で幕府軍と対決!!
しかし、御所を守っていた会津藩(松平容保)、桑名藩(容保の弟・定敬)、薩摩藩によって撃退されます。
長州藩は多数の死者を出したうえ、責任を取って3人の家老が切腹を命じられました。
これによって長州藩は会津藩と薩摩藩を「薩賊会奸」と恨むようになりますが・・・
この後、長州は薩摩と同盟(薩長同盟)を組み・・・憎悪の念は、会津藩一藩に集中するのでした。
つまり、容保の厳しい処分は、長州藩の強い意向によるものでした。
新政府軍は、自らの威信を世に知らしめるために、朝敵となっていた松平容保の斬首を決めたのです。
会津藩の存亡をかけた戦い・・・会津戦争が始まりました。

会津藩・松平容保の斬首を執拗に要求した新政府軍・・・
これに猛反対した東北諸藩は、朝廷に容保の助命嘆願をしましたが、朝廷はこれを却下。
そこで、仙台藩を中心に、長岡藩、米沢藩、庄内藩を中心に奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍に対抗することになりました。
容保も、幼い藩主に代わって、密かに戦いの準備を進めていました。
まずは、部隊を年齢別に4つに分けます。
東西南北の守護神から・・・
主力は朱雀隊・・・18歳~35歳の屈強な青年部隊
続く青龍隊・・・36歳~49歳で構成
年配者は玄武隊・・・50歳以上の予備隊
白虎隊・・・16~17歳の少年で、予備隊した。
この白虎隊は、上流藩士の子弟で構成される士中隊、中級藩士の子弟で構成される寄合組隊、下級藩士の子弟の足軽隊と、身分によって分かれていました。
容保は、武器の洋式化も進めていました。
プロイセンの武器商、ヘンリー・スネルを軍事顧問として招聘していた容保は、会津藩・平松武兵衛を与え重用。
新潟にいたスネルの弟を通じて、武器を購入していました。
この時、会津藩・庄内藩からプロイセンに対し、領地売却の打診があったようです。
当時、新政府軍は、イギリスから最新鋭の武器や弾薬を入手していました。
そこで、会津藩と庄内藩は、蝦夷の領地をプロイセンに売却することで、武器を用立てようとしました。
しかし、ビスマルクは、この提案を拒否!!
このことが、会津藩の戦いに大きな影響を与えることとなります。

1868年4月下旬・・・
会津藩が、白河口の戦いで白河小峰城を占拠!!
新政府軍を迎え討ちます。
指揮を執ったのは、会津藩家老・西郷頼母でした。
仙台藩や、二本松藩らの援軍も駆けつけ、新選組の生き残りたちも会津藩に参戦し、会津藩・東北諸藩・旧幕府軍2500あまり・・・対する新政府軍は僅か700!!
いざ戦いが始まってみると・・・会津藩は、700人以上の死者を出して敗北するのです。
どうして・・・??そこには武器の装備の差がありました。
新政府軍は、最新式の元込め銃・・・手元で弾薬の装填をするので、短時間で弾を込めることができました。
会津藩は、旧式の先込め銃を使っており、先端から弾薬を装填するため、時間がかかりました。
おまけに命中精度は非常に悪かったのです。
武器の輸入が上手くいかなかったことは、用地売却が上手くいかなかったことが原因かもしれません。
白虎隊の少年たちに与えられたのも、先込め式の銃でした。
しかも、体の小さい彼等には小さいものを用意したといいます。
この時、白虎隊に鉄砲を指導した一人が山本八重(新島八重)でした。
来る戦いに備えて・・・!!
白河小峰城を落とした新政府軍は、会津へと迫っていました。
長岡藩、二本松藩が次々と破れ、新発田藩は寝返り。。。奥羽越列藩同盟は崩壊しました。
会津藩は追いつめられていきます。
新潟港を抑えられ、スネルの弟からの武器の補給路が絶たれてしまいました。

8月21日・・・新政府軍が会津にやってきました。
母成峠で激戦!!
新政府軍3000に対し、会津藩は僅か800でした。
この戦いに敗退・・・遂に領内に攻め込まれてしまいました。
そして・・・翌日、白虎隊に出陣命令が出されたのです。
苦渋の選択・・・もはや、避けることのできないところまで追いつめられていました。

主力部隊を藩境に・・・!!
しかし、東側の母成峠の戦いに勝利した新政府軍は、城下と山を隔てた猪苗代湖へと一気に攻めてきました。
容保の決断・・・主力部隊を藩境に送り出した後、城に残っていたのは50歳を超えた老兵と、まだ年端も行かぬ少年部隊でした。
そして、容保が選んだのは、白虎隊士中二番隊に出陣命令を出すのです。

8月22日、容保から出陣命令を受けた白虎隊士中二番隊は、猪苗代湖周辺で戦う味方と合流すべく隊長・日向内記のもと、峠を越えていきました。
到着したのは、日没間近の事でした。
8月22日は、今の暦にすると10月初旬・・・台風が接近していたので、強風雨や寒さに苦しめられました。
予備兵だった白虎隊の出陣は、突如決まったので、十分な食料を所持していませんでした。
一行は、降りしきる雨の中、野営を・・・!!
雨を避ける場所などなく、寒さに震えながらの野営・・・。
すると、隊長の日向が・・・
「他の隊に掛け合って、食料を分けてもらってくるから、諸君らは、ここで待つように。消して動いてはならぬ・・・!!」と、部隊を離れていきました。

激しい雨と不安の中、眠れない夜を過ごした少年兵たち・・・
早朝から新政府軍の激しい攻撃にさらされます。
会津軍は、たちまち陣形を崩し後退・・・。
白虎隊市中二番隊は、必死に逃げ回っているうちに他の隊とはぐれてしまいました。
二番隊も散り散りとなり、37人いたのに20人に・・・!!
指示を仰ぐ隊長もいない少年兵たちは、リーダー格の篠田儀三郎を中心に話し合います。
ひとまず若松城に戻ることに・・・しかいs、周囲は敵ばかり・・・!!
そこで、飯盛山の洞穴を通っていこう!!
そうして命からがら、飯盛山の西側にたどり着いた20人・・・ところが・・・
「城が・・・燃えている・・・!!」
目の前には、黒煙に包まれた若松城が・・・!!

「新政府軍の手に落ちたというのか??」

戻る城を失った白虎隊市中二番隊は、もはやこれまで・・・と、次々と命を絶つのです。
しかし、この時、城下は焼き払われていたものの、まだ城は落ちてはいませんでした。
これが、会津戦争最大の悲劇として語り継がれてきた白虎隊の最期ですが・・・

近年新説が・・・
自害した白虎隊20人の中で、一命をとりとめた者がいました。
飯沼貞吉です。
喉を突きさすも息があり、通りかかった女性に助けられました。
平成20年・・・白虎隊顛末略記という手記が発見されました。
これによると、若松城が落城したと思い込んで自決したわけではありませんでした。

意見がまとまらない中、リーダー格の篠田は、
「いずれの策をとっても、敵の捕虜にならないとは限らない。
 そんな恥辱を受けるより、ここで潔く自刃し、武士の本分を果たそう!!」
と、自決に至ったのです。

1868年4月下旬・・・会津戦争
会津藩は奮戦するも、4か月後、新政府軍に若松城を包囲されてしまいます。
城下では目を覆う惨劇が・・・!!
その様子が、会津藩士・荒川勝茂の日記につづられています。

「老人、婦女子、地にまみれ、地に染み、泣き叫ぶ声哀れなり
 あるいは夫人、風呂敷包みを背負いて出で 逃げるに妨げとなり 途中にて捨てるもあり
 また老人背負いて打たるるもあり
 実に目も当てられぬ有様なり」

この時、会津藩士の妻や娘などの多くが、足手まといになること、敵からの辱めを受けることを嫌い、自ら命を絶ったといいます。
その中で、中野竹子が指揮をした娘子隊は果敢にも長刀で戦います。
当時、新政府軍は生け捕りにしようとしましたが、その長刀さばきと勇猛果敢さに、慌てて銃を取り銃弾を浴びせました。
竹子は額に銃弾を受け、命を落とします。
まだ、22歳でした。
新政府軍によって、城下を押さえられた会津藩は、若松城での籠城戦を強いられます。
深い堀と高い石垣に囲まれた若松城は、奥羽一の堅固な城と呼ばれていました。
そのため、新政府軍を大いにてこずらせます。
鉄壁の城に刺客などなく、敵を撃退していきます。
しかし・・・長期戦の様相を呈してくると、様相は一転!!
5000人いた若松城は、食糧不足に陥ります。
会津藩の予想より早く、新政府軍は攻めてきました。
新政府軍の中心・薩摩、長州、土佐藩は、寒さに弱く、冬が来る前に攻撃を急いでいたのです。
5000人分の備蓄ができていなかったのです。
食糧が底をつくと、もち米の粉を湯がいただけのものを食べ、飢えを凌ぎました。
秋の深まりとともに、寒さも増していきます。
着の身着のままで逃げてきた人々は、震えながら夜を過ごします。
城内の人々が疲弊していく中・・・新政府軍は新たな戦法へ・・・!!
若松城の南東2キロにある小田山・・・新政府軍は、ここに最新の大砲・アームストロング砲を据えました。
射程は2キロ以上・・・城まで十分に届きます。
この大砲で、1日1000発以上もの砲弾を若松城に向けて撃ったのです。
城は大きなダメージを受けていきます。
激しい攻撃、劣悪な環境・・・次第に脱走者が続出し、悲観して自決する者も出てきました。
それでも、松平容保は、家臣たちと戦うことを選びます。
藩士たちもそれに応えます。
最後まで新政府軍を城の中に入れることなく戦ったのです。

ところが・・・
奥羽越列藩同盟の東北諸藩が降伏していく中、同盟の中心だった仙台藩がついに新政府軍の軍門に下ります。
その翌日・・・新政府軍より会津藩の元に降伏勧告状が届きます。
戦いの指揮を執ってきた容保は、遂に城を明け渡すことを決断!!
家臣たちは、涙ながらに容保の決断を承諾したのです。
9月22日、若松城に降参の意味を込めた白旗が掲げられます。
それは、負傷者の包帯に使っていた木綿の端切れを縫い合わせて作ったものでした。
そして、礼服に身を包んだ容保は、自ら降伏謝罪状を持って新政府軍の元へ・・・。
戊辰戦争の最初、鳥羽伏見の戦いから数えると、会津藩の死者は3000人近くに上ったといいます。

生き残った藩士たちには、過酷な運命が・・・
本州最北端の斗南藩3万石(実高6000石)へ移住させられます。
会津藩士だけが移住させられ、亡くなる人も沢山でした。
会津藩家老萱野長修が全責任を負って切腹。
松平容保は、斬首を免れ鳥取藩江戸屋敷などで謹慎。
容保は、日光東照宮の宮司となり、明治26年59歳でこの世を去りました。

新政府軍により賊軍となった会津藩は、自らの信念を曲げることなく最後まで戦いました。
故に、多くのものを失うこととなってしまいました。
そんな中、生き残った少年たちに会津の未来が託されました。
白虎隊の二人の少年が会津藩士・秋月悌次郎の尽力で、長州藩士・奥平兼輔の元に預けられ、書生となります。
その一人・山川健次郎は、後に48歳の若さで東京帝国大学総長となります。
その後も、日本の未来を担う、豊かな人材を育てることに尽力したのです。

山川は、常に、子供たちにこう教えていました。

「終生 人格を磨くべし」

何事に対しても、我慢強く、卑怯な真似はしてはならない・・・
会津で学んだ心得・・・会津士魂を伝えたのです。

白虎隊市中二番隊19人は、自決した飯盛山に眠っています。
会津を思い、会津のために死を選んだ19人の少年・・・
その傍らには、彼らを最後まで出陣させたくないと思っていた容保の歌碑があります。

幾人の涙は石にそそぐとも
        その名は世々に朽ちじとぞおもう
                           容保


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ああ・・・ついに、白虎隊まで出陣です。。。
まさに、背水の陣


奥羽越列藩同盟が崩壊寸前となった慶応4年8月。。。

二本松は陥落し、新政府軍は会津領内に陣を進めていました。
そして・・・奥羽には、寒さの足音がひたひたとやって来ていました。
その前に、会津を叩くつもりの新政府軍です。。。

会津では、男も女も戦いの準備をしていました。
頑ななまでに勇敢に・・・!!
しかし、薙刀や刀では薩長は倒せない・・・そのことは、八重には解っていました。。。

「西国の武士たちは、寒さに弱く、冬は使い物になりませぬ・・・」

と言う官兵衛・・・。
でもそれで勝てないことは、八重の方が解っている???

領内への敵の進攻を防ぐべく、会津藩は、お城に繋がる道すべてを封鎖する作戦に。。。

その頃、覚馬は牢の中で、流行り病と闘っていました。
そこへ西郷隆盛が・・・。
医者を呼んでくれるそうな。。。

敵は・・・8月21日には母成峠を突破・・・
会津藩800は、新政府軍3000の前に、猪苗代城へと撤退します。

15歳~60歳までの男はみなお城へ!!

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「天下 
  とどろく名をばあげずとも 
   遅れなとりそ もののふの道」

それは・・・山本家もまた・・・
八重の父・権八と夫・川崎尚之助が出陣しようとしていました。。。

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会津としての出陣に、出石藩出身の川崎尚之助はどんな気持ち???

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そして・・・
西郷頼母はどうなる???

新選組も・・・歳さんは北上することを決めたようです。
残る斉藤一・・・。
愚かなほどに真直ぐな、会津という国を放っておけない!!!

大殿・容保も白虎隊を従えて出陣です。
照姫も・・・みな、籠城を決意したようです。

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怒濤の進軍を続ける新政府軍・・・。
手勢も足りず。。。援軍は・・・白虎隊・・・

いよいよ士中二番隊の出番がやって来ました。

その日の夜・・・戸ノ口原で野営をすることになった白虎隊士中二番隊。。。
雨と雷の中、頭・日向外記は食料を探しに出かけます。。。
そうなのだ・・・実ははぐれちゃうのです。。。この隊長と。。。
はぐれなかったら、死なずに済んだのかなあ・・・

食料・・・ちなみに長州藩の秘密兵器は”パン”でした。
固くないし、日持ちもする・・・まさに、おいしい兵糧でした。

そしてお城にあがる日・・・

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三郎の軍服を着た八重が・・・
固い決意を持って、立っていました。。。


あ~悲劇に向かって転がり落ちていっています。。。

八重は竹子に誘われた娘子隊に入ることを拒否するわけです。
薙刀ではなく、鉄砲で戦う!!と。。。
だから・・・ふたりは喧嘩したとか、仲が悪かったとか・・・いろいろ言われております。
ま、娘子隊は、みなさん辱めを受ける前に自刃するので、入らない方が生き延びられた???
でも、どちらも地獄であることは間違いないですよね。。。

でも、自立している・・・鉄砲担いで戦うような新しい女・八重なら自刃はしなかったかもしれませんね。

八重さん、おとなしい女性に書かれていませんか???
この時点で夜討ちなんかしていたような気もします。

尚之助が出陣する際のストーリーが、サラッとしていたのですが、この頃すでに、すれ違いが出ていた???とも言われています。

洋学者であったということもあり、どう転んでも勝てないと解っている尚之助と、弟のかたきを討ちたい八重。。。
”夜討ち”に関しても、八重は”一人でも多くの敵を討たなければ!!”と思っていて、
尚之助は”ひとり、ふたり殺したところで何も変わらない!!”と、思っていたようです。

ただ・・・離婚したって証拠もなく・・・。

戊辰戦争に負けた際に、尚之助は斗南藩へ・・・。
八重は会津に残ることになります。
で・・・兄・覚馬が生きていることが解ると京都へ行ってしまう八重。。。
尚之助は、作物の採れない極寒の地で、お金を稼ぐなら商取引!!と、やっていたものの・・・
武士の商いでは・・・手形をそのまま持ってトンズラされてしまって借金だけが残った尚之助。
しかし、この商売は藩命ではなかったため、藩は知らぬ存ぜぬで。。。
尚之助は裁判に訴えられることになります。

で・・・戸籍を作る時に、借金が残らないように妻のところに名前を書かなかったのでは???
なんてことも言われています。

まあ、鉄砲持ってるお嫁さんで良いなんて人ですから、優しかったのかもしれませんね。

とりあえず、次回はまさに戦いのシーンになりそうですね。

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西郷頼母は、いろいろな俳優さんがやっています。

私の大好きな”白虎隊”では、里美浩太朗さんです。

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井上丘隅翁と一緒に会津の行く末を思案しているのでしょうか???

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他にはこんな人も。。。

テレビ東京系列でも、来年の新春ワイド時代劇「白虎隊~敗れざる者たち~」で、この人がやるようです。
tanomo.png

”八重の桜”では、この人が・・・
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やってくれます。

俳優さんの顔ぶれを見ても、ホント、重要なポジションの人だということは、解りますよね。黒ハート

私は、西田敏行さんは大好きです。黒ハート
この人のおかげで、「八代将軍吉宗」のおかげで、和歌山にはたくさんの人が来てくれました。
この観光客の記録は、今も抜かれていないそうで・・・
そう思うと、何年前の話よ!!まだ私が独身の頃じゃないの!!
和歌山も不甲斐ない・・・たらーっ(汗)って、思ってしまうのですが、大好きです。

でも西田さんは、白虎隊で萱野権兵衛をやっていました。
軍事奉行として責任をとって、切腹したんですよね。。。
この記憶を・・・いい意味で西田さんに消してもらいましょう黒ハート

で・・・どうして萱野権兵衛が責任をとったか???
それは、おエライさんがもうこの人しか残っていなかったから。

幕府から京都守護職就任を要請された容保に対して、頼母は「政局に巻き込まれる懸念から辞退するように」進言したために、容保の怒りを買いました。

その後も、藩の請け負った“京都守護の責務”に対して否定的な姿勢を覆さず・・・
禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説いています。

でも・・・これも賛同されずに帰国を強いられました。
しかも、家老職まで解任された上に、蟄居させられていたからです。


1986年の白虎隊では、あんなに反目し合っていた容保と頼母が・・・最後の最後に和解をします。

「あの時、お前の言うことを聞いて、京都守護職を断っていればよかった・・・
 お前は生き延びて・・・会津のことを伝えてほしい・・・
 こんなことを頼めるのは、頼母しかおらぬ・・・」

「殿は、私に行き恥を晒せとお言いになりますか・・・!!!」

うろ覚えですが、・・・みたいな感じだったような気がします。

ま、これはドラマですから、本当のところは解りません。
容保が逃げた頼母に対して刺客を差し向けたとも言われています。

本当のことは解りませんね。
だって、第二次世界大戦のことでもみんな言わない頑固な日本男児たちの国ですから・・・

そう思うと、永倉新八って、すごいなあ・・・黒ハート

あの人がいなければ、こんなに新選組がとり上げられることもなかったでしょうし、そう思うと、飯沼貞吉が生き残らなければ、白虎隊の悲劇も解らなかったことでしょう。


西田敏行さん、そういえば会津の人ですね。
どんなふうに出来上がるのか、楽しみです。黒ハート



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「八重の桜」・・・
山本八重子の尊敬する”兄”、山本覚馬です。

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私の中で、急上昇の西島秀俊さんが、演じてくれます。

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なで肩なので、着物がすっきり、良く似合いますね。

で・・・
私の好きな「白虎隊」では、竜雷太さんです。

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いつみても、どんな時も、私の中では「ゴリさん」です。黒ハート

で・・・
白虎隊でも、気の強い八重子を叱り飛ばしていましたが。。。
西島さんはどんなふうに演じてくれるのでしょうか???

では、山本覚馬さんって、どんな人???

会津藩士で砲術指南役の山本権八の長男として鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれました。
山本・・・山本・・・遠祖は甲州武田の軍学者・山本勘助です。
そうなのです黒ハート
やはり、江戸時代は家業を継ぐのが当たり前の世。。。それは、武士でも変わりませんでした。だから、軍学者です。るんるん

洋式砲術の研究のため、22歳で江戸に出て兵学者・佐久間象山の塾に学んだ後、会津で蘭学所を開設します。

1862 年、京都守護職に就任した藩主・松平容保に従い上洛、洋学所を開設し、会津藩士だけでなく諸藩士や新選組にも洋式砲術を教授しました。

長州と戦った「禁門の変」では砲兵隊を率いて勲功を挙げるが、眼病を患い失明同然の状態となります。
この失明は、白内障とも砲弾の破片のせいとも言われています。

鳥羽・伏見の戦で薩摩軍に捕えられてしまいます。

幽閉中に新国家の青写真を描いた「管見」を新政府に建白、岩倉具視、西郷隆盛たちから高く評価されることになります。

軍学者、砲術指南役ということで、体育会系みたいな感じもしますが・・・
なかなか、教育や信仰にも篤い人です。


榎本武揚が、明治維新にとって必要な人物だったように、この山本覚馬も才能に満ち溢れた人のようです。
どんなふうに演じてくれるのか、楽しみにしています。黒ハート

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今回は、猪苗代湖を望む東北の要所、「会津若松の城下町」です。

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幕末、白虎隊の会津です。。。

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なかなか遠くって、行ったことがありません。
行きたいなあ・・・。黒ハート

福島県会津若松市 人口12万4881人、面積383.03㎢、特産は会津漆器、赤べこ、馬刺しです。

古くから東北の要所とされてきた会津若松、この城下町を作り上げたのは、天下取りの器と称されながらも40歳という若さで亡くなった蒲生氏郷です。

氏郷が作り上げた忠義の武士道は、「会津武士道」とよばれ、戦国、幕末、今現在まで受け継がれています。

武士道の心を今も残す、会津若松の城下町とは???

鶴ヶ城です。
鶴ヶ城の歴代城主は・・・
葦名氏⇒伊達氏⇒蒲生氏⇒上杉氏⇒加藤氏⇒保科氏⇒松平氏です。

会津地方は、昔から数々の有力武将が治めていました。
特には、蒲生氏郷の92万石の領地です。

通称・鶴ヶ城、正式名称は若松城・五層七階の天守閣です。

今の城主は「お城ボくん」です。
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このお城と城下町を作ったのは、会津藩主蒲生氏郷です。
織田信長に愛されて、豊臣秀吉に最も怖れられた男です。

小説蒲生氏郷
小説蒲生氏郷


1568年観音寺城の戦い。
この戦いで織田信長に敗れた蒲生賢秀の長男です。
その後人質として織田信長の庇護の元で暮らします。

そこで、たぐいまれな才能を発揮します。
織田信長の配下として、常に先陣を切った氏郷、特徴のある鯰尾形兜、
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燕尾形兜をかぶり、その圧倒的な強さを敵に見せつけました。

また、茶道でも、千利休の筆頭弟子として茶の湯への深い理解を持っていました。

まさに文武両道、信長の信頼を得て、信長の娘・冬姫を正室に迎え入れます。

信長の死後、秀吉に仕えますが・・・
冷遇されます。
秀吉は、冬姫をもらいたかったらしいのです。

あまりにも怖れていたため、秀吉は毒を盛って氏郷を毒殺しようとしたという噂が流れるほどでした。

氏郷をおひざ元に置かず、遠く離れた会津に配置します。
しかし、ここでも才能を発揮。

会津の城下町を発展させ、4年間で42万石から92万石の大大名に成長します。
こうして氏郷が手腕を発揮すればするほど、警戒心を強める秀吉・・・。

そして、2人の関係を決定づける事件が・・・

鶴ヶ城城内にひっそりと建つ庵・・・それは、千利休の息子・千少庵が建てたものです。
どうして、ここに茶室を作ったのでしょうか?

千利休は、秀吉に関わったことでその生涯を断たれることになります。
そう、有名ですよね。京都・大徳寺三門に置いた利休の銅像・・・

そこを通ることになる秀吉・・・

天下人の怒りをかった利休は、切腹となります。
その怒りは、千家一族にも及びました。

そこで、氏郷が、千少庵をかくまったのです。
お茶の千家を守ったのです。

が、これが、2人の間に大きな溝を作ります。

1592年朝鮮出兵。有力大名が、九州に集められます。
東北で絶大な勢力を持っていた氏郷、会津から佐賀県の唐津に向かいます。
そこで開かれた茶会の席で・・・

お茶に毒を入れたと言われます。(蒲生氏郷暗殺説です。)
この茶会を境に体調は急変・・・40歳という若さで亡くなるのです。

義の武将・蒲生氏郷が築いた城下町とは???

会津では、古くから、剣道や茶道など、武士道に通づる文化が重んじられてきました。

当時もっとも大事にされていたのが、鍛冶職人。
蒲生氏郷が取り入れた職人文化が、今も根付いています。
唐人凧、会津のこぎり、赤べこ、会津漆器、絵ろうそく・・・


起き上がり小法子には特に思い入れがあります。
一説には、氏郷が、舅の信長のだるま信仰を受け継ぎ、何度転んでも起き上がる、七転び八起きの精神を庶民にも解りやすく説くために作ったと言われています。

この精神が、今も会津には根付いています。


地方を海に囲まれた会津では、魚は貴重なタンパク源、特に鯉は、お祝いごとに・・・重用されました。

鯉の甘煮が有名です。
コラーゲンたっぷりの美容食です。

会津磐梯山に欠かせなかったのが、「宝の山とキリシタン」

かつて、この周辺からは、豊富に金が採れました。会津藩の発展の陰にはこの金の存在があったと言われています。
氏郷は、キリシタン大名です。洗礼名は「レオ」
そう、キリシタン大名になったのも、この金の為なのです。
キリシタンたちの、金の採掘技術を手に入れるためだったと言われています。

あいづっこ宣言

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こちらに記された言葉の最後・・・
「ならぬことは ならぬものです」
ここに、会津に隠された歴史、そして会津精神の原点があります。

時は幕末、戊辰戦争・・・
激しい戦いが行われたのは、会津でした。

会津藩9代藩主・松平容保。
官軍との戦いに備えて・・・
その時に、白虎隊も作られました。

会津藩の子供たちは、什の掟を守って生きていました。
それは・・・
1つ 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
2つ 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
3つ 虚言を言うことはなりませぬ
4つ 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
5つ 弱いものをいじめてはなりませぬ
6つ 戸外で物を食べてはなりませぬ
7つ 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

道徳心や礼儀作法が学べます。
幼年期から士道の基礎を学んだのです。
これが、あいづっこ宣言となりました。

会津藩校「日新館」では。。。

白虎隊の少年たちも10歳の頃からここで学んでいました。
会津藩では、藩士の子供たちには日新館に入ることを義務付けていました。
そして、武士の養成学校として、厳しい教育が行われていました。

漢文の教科書で学びます。
平均は6年で卒業できましたが、落ちこぼれだからと言って勝手に自主退学は出来ません。
最高で、35歳まで卒業が許されませんでした。
かなりの屈辱です。

天文学も学んでいました。
中国では、東西南北をそれぞれ青龍・白虎・朱雀・玄武と表しました。
白虎隊は、西方の守り、白狐からとりました。

戊辰戦争では・・・

玄武隊・・・・50歳以上の武家の男子
青龍隊・・・・36歳から49歳までの武家の男子
朱雀隊・・・・18歳から35歳までの武家の男子
白虎隊・・・・16歳から17歳日新館の少年

で構成されていました。

新政府軍と最後まで戦い抜きました。
戦争が激化する中・・・

会津娘子(じょうし)軍が構成されます。
籠城戦を繰り広げた会津戦では、女性も戦いました。

そのなかに、白虎隊と深いかかわりを持つ女性がいました。

”山本八重”のちの新島八重子です。
一昔前の時代劇で、田中良子さん、スーちゃんがしていましたよね。
あの年末時代劇「白虎隊」大好きでした。

白虎隊 山本八重子を演じるスー(田中好子)ちゃん



もともと、砲術師範の家で育った八重は、鉄砲の名手で白虎隊に砲術を教えていました。

八重は会津戦争で、アメリカの銃を持ち、男装をして戦ったと言われています。

若くて賢いエリートの少年たちが、会津の為に戦う!!
ならぬことはならぬの精神です。
会津の教えなのです。

すべては会津を守るため・・・
この地に若き命を捧げました。

自身の跡からは、会津が一望できます。
白虎隊19士は、飯盛山から炎に包まれた城を見て自刀を決意します。

この白虎隊19士を偲ぶ碑には、現在でも献花が絶えません。

そうなのよね。。。
この時まだ城は落ちていなかったのに。。。
隊長とはぐれてしまったのが一番いけなかったんでしょうね。。。バッド(下向き矢印)
いつも涙してしまいます。


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