日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:盧溝橋事件

真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任 [ 倉山満 ]

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長野県軽井沢町・・・戦前、国民の人気が高いある政治家の別荘が残されています。
政財界の友人を招き、当時最先端だったゴルフに熱中していました。
別荘の主は近衛文麿・・・
昭和の初め、日本が戦争に突き進んだ時代に3度にわたって首相を務めました。
別荘に残されていた掛け軸・・・昭和19年、アメリカの戦いのさ中、認めた言葉です。
「度量数称勝」・・・国力で圧倒的に勝るアメリカに勝てない・・・そう思っていたであろう近衛文麿、どうして戦いを避けることができなかったのでしょうか?

昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争・・・
そに8か月前、殊勝だった近衛は、アメリカとの関係改善を目指し、和平交渉を行っていました。
そこでまとめ上げたのが「日米諒解案」です。
両国の主張を盛り込んだだけの外交文書でしたが、その後の日米交渉の土台となりました。
しかし、この近衛の動きを真っ向から否定したのが外務大臣・松岡洋右でした。

松岡は第二次世界大戦下のヨーロッパで快進撃を続けるナチス・ドイツとの同盟を軸にアメリカに対抗する力の外交を進めました。
松岡を支持する国民の熱狂が、近衛を外交を狂わせ、外交交渉は暗礁に乗り上げてしまいます。
迫り来る開戦・・・近衛はルーズベルト大統領とのトップ会談に託しました。
外交と世論のはざまで揺れた近衛文麿、その選択とは・・・??

京都大徳寺・・・ここに近衛家代々の墓所があります。
近衛家は、藤原鎌足を祖先に持ち、代々歴代天皇に仕えてきた公家の名家です。
宮中の中で、代々文化面を司っていた家で、文麿も最初から政治の道についたわけではなく、華族としての立場で政治に関わっていました。
明治時代に作られた特権階級の華族。
その最高位侯爵だった近衛文麿は、大正5年、25歳で政界デビュー、貴族院議員となります。
当時から大衆の人気は高く、名家でありながら親しみやすい人柄で、政界の貴公子としてもてはやされました。
そんな近衛の言論が注目されるようになったのは、大正7年のことでした。
この年終わりを迎えた第一次世界大戦・・・
イギリス、アメリカを中心とする連合国が勝ち、英米主導の新しい国際秩序が築かれることとなりました。
この時、27歳の近衛の論文が議論を呼びます。

「英米本位の平和主義を排す」
英米は戦後の国際秩序を都合よく再編するつもりだ
豊富な天然資源を独占するなど、他国の発展を抑圧している
日本は正当なる生存権を主張し、それを貫徹すべきである

国際協調を掲げながら自国の利益を優先する英米を強く批判したのです。
そして大正から昭和へ・・・近衛が政治の舞台へと・・・!!
昭和恐慌・・・失業者が続出し、政治への国民の不満が高まります。
昭和6年9月満州事変勃発、満州国が誕生しました。
軍部の勢いは誰にも止められないものとなりました。
日本の行き詰まりは支配層の腐敗が原因だと考えた若者によって暗殺やテロが相次ぎます。
総理大臣が次々と変わる不安定な政局の中、新しいリーダーとして期待されたのは、当時貴族院議長だった近衛文麿でした。
昭和12年6月・・・近衛は45歳という若さで内閣総理大臣に就任します。
メディアはこぞって期待します。
”低迷する暗雲の中から一つの光が忽然として輝きだす”
しかし、組閣からわずか1か月で難局に直面します。
7月7日、盧溝橋事件・・・日中両軍が衝突します。
これをきっかけに日中戦争がはじまりました。
近衛は国民が一丸となって戦うように大演説を行い、ラジオや新聞を使って戦意高揚に・・・!!
日中戦争は拡大の一途をたどり、南京まで陥落!!
熱狂した人々は手旗や提灯をもって行進し、日本中が歓喜の渦に包まれました。
この世論の高揚が、近衛内閣に影響を及ぼすこととなります。
その頃、日本はドイツの仲介で、中国側と交渉していました。
相手は国民政府を率いる蒋介石でした。
しかし、戦勝に湧く世論に押され、交渉条件を釣り上げてしまいます。
それは、満州国の承認、賠償金の要求・・・中国側が容認しがたいものでした。
当時の外交の問題点は、ほぼ呑めないであろうモノを求めてしまった・・・その国際感覚のなさ、国内向けの政治を重視した外交でした。
国民の戦争熱を煽った場合、自分でも止められなくなって・・・外交的に妥協すべきところで妥協できなくなってしまったのです。
昭和13年1月、近衛は中国に対し、事後、国民政府を相手とせずと、自ら和平交渉を打ち切りました。

日中戦争がはじまって3か月後の昭和12年10月・・・
アメリカのルーズベルト大統領が演説を行いました。
「アメリカは戦争を憎む
 アメリカは平和を望む
 だからこそ、平和のために関与することを辞さない」
名指しこそしなかったものの、日本を強く批判したものでした。
当時、中国との貿易拡大を目論んでいたアメリカ・・・海軍の軍備増強に着手し、中国国民政府に援助物資をするなど、日本との対決姿勢を明確にしました。
日本では泥沼化する日中戦争に国民は厳しい統制下に置かれていました。
昭和14年1月、第一次近衛内閣総辞職。
外交方針を巡って閣内で対立したことが原因でした。

この年、ヨーロッパ情勢は激動を迎えていました。
昭和14年9月第二次世界大戦勃発。
ヒトラー率いるドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスはドイツに宣戦し、戦いが始まりました。
ドイツはデンマーク、オランダ、フランスなど周辺諸国を次々と制圧し、ドイツの優勢をみたイタリアもドイツ側として参戦!!
東京荻窪にあった近衛の邸宅「荻外荘」
昭和15年7月、再び首相に推された近衛は、組閣に先立ち陸海軍大臣、外務大臣予定者を呼び、ドイツ・イタリアとの関係強化を決定します。
この時、外務大臣に任じられていたのが松岡洋右でした。
昭和8年日本は国際連盟脱退を通告。
松岡の演説は、世界を相手に物怖じしない姿に、国民は喝采を送りました。
オレゴン大学を卒業し、アメリカ痛を自負していた松岡、弁が立つと、軍部を押さえられる人材と近衛が抜擢したのです。
第2次近衛内閣発足2か月後、松岡が主導した外交が世界に衝撃を与えます。
昭和15年9月日独伊三国同盟締結。
松岡の狙いは三国の結束を誇示することでアメリカに対抗するというものでした。
この同盟には、近衛にも明確な狙いがありました。
アメリカとの衝突を避けること・・・!!

昭和9年・・・首相になる3年前に近衛がアメリカに50日間滞在した時の記録・・・「米国巡遊日記」には・・・
ルーズベルト大統領からホワイトハウスに招かれたり、各地で政財界の要人と交流を深めていたことが書かれています。
「ニューヨークに現代日本を正しく伝える施設を作るべきだ」とも。
両国の文化交流を進めることで、対立を避けられると考えていました。
アメリカ国民に対して友情の大切さを語る画像も残っています。
「私は多くの旧友たちと再会し、新しい友人たちと出会いたいと思っています。
 そして、太平洋の反対側にいる私たちが80年育んできた日米間の友情を、どれほど大切に思っているか、私から直接お伝えしたいのです。」
大国アメリカを目の当たりにした近衛にとって、日米開戦は絶対にあってはならないものでした。

昭和15年11月、アメリカから二人の神父が施設として来日・・・
「日米の友好関係の回復を望む」アメリカからのシグナルでした。
当時ドイツと戦うイギリスを支援していたアメリカは、同時にアジアで日本と対立するのは避けたいと考えていました。
しかし、中国問題をめぐり、日米関係が悪化していたために、民間レベルで交渉を始めたのです。
アメリカとの対決に危機感を抱いていた近衛は、期待していました。
昭和16年2月、日本の使節がアメリカに向かいました。
対話の機運が高まったため、僅か2か月で駐米大使・野村吉三郎と国見長官コーデル・ハルの交渉に格上げされました。

日米諒解案・・・
外交方針から経済協定まで、あくまでお互いの主張を記したものに過ぎなかったものの、冷え切った日米関係の解決の糸口となるものでした。
アメリカの狙いは、日本が三国同盟における軍一事情の義務を免れること・・・
アメリカとドイツが戦争になっても、日本は参戦しないという意図が含まれていました。
日本の狙いは、日中戦争の解決でした。
アメリカが満州国を承認すること・・・ルーズベルト大統領による中国の和平勧告日本の有利な条件が盛り込まれました。
さらに、近衛にとって大きかったのは、日米首脳会談でした。
国内の調整をへずにTOPで外交方針を決められる強力なものでした。
しかし・・・ハルは諒解案に基づく交渉を始める前に、前提条件を示していました。
ハル四原則
①領土保全と主権尊重
②内政不干渉
③機会均等
④太平洋の現状維持
それは、中国をはじめとする他国の領土や主権を守り、内政干渉や武力行使を全面的に禁止するというものでした。
交渉が途絶えるのを恐れた野村は、東京に諒解案を伝える前に、この四原則には触れませんでした。
4月18日、諒解案を受け取った近衛は、大本営政府連絡懇親会で検討。
軍部も賛同し、これをたたき台にアメリカとの交渉を始めようとしていました。
ところが・・・この動きに強硬に反対したのが、外務大臣・松岡洋右でした。
松岡は日米交渉の模索が始まっていた3月から1月あまりヨーロッパを外遊していました。
ドイツではヒトラーと会談し、熱狂的な歓迎を受けました。
帰路、ソ連で直接スターリンと直接交渉し、昭和16年4月、日ソ中立条約締結に成功。
松岡は三国同盟に莫大な戦闘機や陸上兵力を加えたソ連との”四国協商”を構想・・・連合国に匹敵する軍事力でアメリカを圧倒しようとしていました。
4月22日、松岡は帰国。
政治家、軍人、メディアが迎える華々しい凱旋となりました。
松岡の外遊は、外交史上画期的な出来事と報じられ、近衛自ら飛行場に足を運び、松岡を出迎えました。
しかし、自分のいないところで近衛が進めた日米交渉に、松岡は警戒心を隠しませんでした。

”本提案は米国の悪意七分善意三分と解する”

日米諒解案をもとに交渉を続けるべきか、四国協商を進めるべきか・・・近衛は国の命運をかける選択に迫られました。

松岡が帰国した1941年4月22日、大本営政府連絡懇談会が開かれました。
近衛が進め、軍部も賛同していた日米諒解案に対し松岡が反発、一人退出し、その後自宅に引きこもってしまいました。
陸海軍首脳からは、松岡に対する反感が高まり、更迭してまでも諒解案を進めるべきという案も・・・
しかし、結局近衛は、松岡にアメリカとの外交を委ねることを選びました。
早いところで罷免することは難しい・・・松岡には日ソ中立条約という手土産がある・・・
5月12日、松岡は自ら手を加えた修正案をアメリカに伝えます。

”三国同盟の軍事義務に基づき、ドイツとアメリカが戦争になれば、日本は参戦する”

あくまで三国同盟の結束を誇示し、アメリカの要求を拒絶する内容でした。
6月21日、国務長官ハルは、日本を非難するオーラル・ステートメント発表。

”日本の指導者は、ナチス・ドイツへの援護に固執している”

日米諒解案に基づく交渉は頓挫しました。
さらに翌日・・・日本に想定外のことが起きます。
6月22日、ドイツが日本と中立のソ連に侵攻。
松岡が構想していた四国協商はもろくも崩れました。
それでもアメリカへの強硬姿勢を変えない松岡・・・
近衛内閣は日米交渉を続けるために松岡を排除することで一致。
7月18日、外務大臣を変えて、第三次近衛内閣発足。
しかし、近衛内閣はアメリカとの対立を決定づけてしまいます。

日本軍は、石油や語句などの資源を求めて、南部仏印に進駐します。
東南アジアは、アメリカが支援する連合軍にとって戦略拠点でした。
そこににらみを利かす進駐は、連合軍に対する挑発とも取れる行動でした。
アメリカは在米日本資産を凍結、さらに日本への石油輸出禁止を発表します。
危機感を募らせた軍部は、早期開戦を主張!!
国民やメディアの間で反米が強まり、開戦は抑えられない事態に・・・。

日米開戦・・・
”ついに、自ら大統領と会見しようという一大決心をした”
8月、近衛は野村を介して日米首脳会談を打診します。
在日アメリカ大使グルーは、近衛の心境を本国にこう伝えています。

「今や近衛はこれまでの政策は根本的に間違っていると認識している。
 そして、勇敢にも自らの命を犠牲にしてまでも、日米の和解を実現しようと決心している」

近衛のメッセージを受け取ったルーズベルトは興味を示し、アラスカでの会談を提案。
しかし・・・ハル国務長官は東南アジアに侵攻した日本に不信感を募らせ会談に消極的に・・・。
アメリカとの交渉が停滞する中、9月6日御前会議。
大きな打撃が・・・
決定した国策に軍部の意向が反映され、日米交渉の機嫌が盛り込まれました。
10月上旬までにアメリカとの交渉のめどが立たなければ、アメリカ、イギリス、オランダとの戦争に踏み切る・・・!!
近衛に残された期間は僅か1か月でした。

開戦に傾く軍部を横目に近衛はグルーと極秘に会い、会談を模索します。
この頃の近衛は・・・
コップ酒を煽り、激しく軍部を罵り・・・
陛下が反対だと言われているのに、陸軍は負ける戦争を主張する。
最早アメリカに脱出し、ルーズベルトと会談する以外にない!!
ハルはあくまで四原則の合意と、中国からの撤退を求め、譲歩することはありませんでした。
そしてこの絵が主張した日米交渉は内きりの機嫌が・・・
トップ会談による局面打開の望みは絶たれたのです。
10月16日、近衛内閣は総辞職・・・東条英機内閣が成立します。
その2か月後の12月8日・・・日本は真珠湾を攻撃し、アメリカとの4年にわたる戦争へ突入します。

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今回も、昭和の選択です。

日常を覆う理不尽な暴力・・・宗教対立、ナショナリズムの台頭、経済格差など、様々な悲しみが溢れる現代・・・
第一次世界大戦中から現代社会が孕む矛盾を予見し、世界平和構築に向けて動いたのが、石橋湛山です。
明治時代に生まれ、大正デモクラシーを先導する気鋭のジャーナリストです。
当時は、帝国主義の植民地獲得の時代・・・湛山は、植民地放棄論を唱え、帝国日本に公然と意義を唱えました。
日中戦争開戦と共に熾烈を極める弾圧・・・危機に瀕する言論の自由・・・湛山のとった行動とは・・・??

20世紀初頭、都会ではモダンガールが闊歩し、人々の生活は近代化していきました。
普通選挙運動、議会政治の確立・・・大正デモクラシーです。
一方、ヨーロッパでは1914年第一次世界大戦が勃発。
戦車、機関銃、毒ガス弾という殺戮兵器が導入され、国家総力戦の時代に・・・
アメリカの参戦で、世界規模に拡大した戦争は、帝国主義を敷いていた列強植民地をも戦場に変えました。
すでに、中国・満州に進出していた日本は、この機に乗じて、更なる権益の拡大に乗り出しました。
イギリス、フランスら連合国の一員としてドイツに宣戦布告、ドイツが中国に租借していた青島を占領しました。
そして、大衆はこれを歓喜で迎えました。

その熱狂に冷水を浴びせたのが、29歳の若きジャーナリスト石橋湛山でした。
湛山は、雑誌「東洋経済新報」の記者として、帝国主義政策を厳しく批判しました。
戦争は愚かな行為で、武力で奪った青島は領有すべきではない・・・
領土の拡大は、経済的に見て得策ではないと主張しました。
これは、資料や統計を根拠にした「小日本主義」という植民地放棄論でした。

大正9年の日本と植民地との貿易額は、9億1500万円。
これに対し、アメリカとは14億3000万円、イギリスとは3億3000万円・・・植民地との交易の2倍になります。
しかも、植民地からは、鉄、石炭、石油・・・日本に必要な資源も多くは見込めません。
日本がこのまま膨張政策を続け、欧米との関係が悪化した場合に、かえって大きな損害がでると、湛山は訴えました。
日本の国益にかなうのは、植民地を放棄し、門戸開放により国際協調をし、自由貿易をすること・・・という理論でした。
その後湛山は、切れ味鋭い論説と持ち前のリーダーシップで東洋経済新報社の主幹となりました。

1931年満州事変が勃発。
朝鮮にいた日本軍も越境し、陸軍が満州各地を占領します。
政府は独断先行する陸軍の行動を容認。。。
自由主義者・湛山は、暴力と権力に厳しかった・・・。

「内閣が軍部の方針に屈し、その引き回すままに従った。
 イアン条的に、支那全国民を敵に回し、なお我国はこの取引に利益があろうか」

しかし、湛山の主張もむなしく、事実上の傀儡国家・満州国が建国されます。
その2か月後、軍部の横暴は国内政治にも牙をむきます。
満州国の承認をためらった犬養首相が軍人によって殺害!!
軍国主義の色彩を強めていく日本・・・

1937年盧溝橋事件をきっかけに、ついに中国との戦争が始まりました。
日中戦争の始まりと共に、言論統制は激しさを増します。
国策として、紙やインクの割り当てが大幅に減らされ、反軍的な論説には、容赦なく削除や発禁処分が下されました。
湛山も例外ではありません。

警視庁検閲課から禁止差し止めが出たのは1937年9月28日から。
日中戦争については、外務省発表以外は一切の記事禁止。
発表以外は書いてはならないのです。
厳しい制限の元でも、自由主義者・湛山は筆を振るいます。
陸軍とその横暴を許す政府を、痛烈に非難します。
しかし、この論説は、発行直後に削除処分を受け、営業部員が書店を回ってページを切り取ったといいます。
湛山にとって、この年二度目の削除命令でした。

言論の自由が封じられ、窮地に立たされた湛山は・・・??
このまま軍部の暴走が続けば、欧米が黙っていない。
アメリカやイギリスと協調関係を築き、世界規模の経済観を構築しなければいけないとき、議会や政府が軍部に引きずられて機能していない・・・。
しかし、このまま批判を続ければ、私の命もあぶないし、わが社の存続まで脅かされかねない。
すでに、一般紙では戦争の記述が問題となり、小説までが削除命令を受けていました。
このまま権力に屈するわけにはいかない・・・
今まで唱えてきた自由主義、小日本主義を唱え、正面から主張を貫くことこそ、ジャーナリストの務めではないのか・・・??
政府や軍部に警鐘を鳴らさなければ・・・!!

大陸で戦争状態に入ってしまった今、小日本主義は現実的ではなくなってしまった・・・。
この国難を乗り切る政策を練り、人々に伝えられないだろうか??
現実に合わせた言論活動をする・・・??

満州事変の直前、湛山は経済倶楽部という経済人や財界人の研究議論の場を設けていました。
それは、東洋経済新報社の支局開設に伴って各地に広がり、活発になっていました。
講演会には、経済人ばかりではなく、軍人も度々登壇し、意見や情報交換できる貴重な場でした。
彼らならわかってくれる??
やはり筆を折る・・・??

過酷な言論統制の時代に、どう身を置けばいいのか・・・??

1939年夏・・・ますます検閲が厳しくなる中、迫られた湛山は、社員たちに訓示します。

「言論弾圧には屈しない。」

湛山は、検閲に対抗する為に工夫をします。
敢えて回りくどい表現方法を取り、読者に行間を読み取ってもらうことに努めます。
現実に合わせた言論活動を始めたのです。
そうでなければ、沈黙するほかありませんでした。
湛山の日本への提言は、その表現を変えていきます。 

「台湾、朝鮮、樺太は、今は植民地というよりは、少なくも貿易については我が本土の一部」
「もはや、容易に元には戻りえん自給経済圏」
表面上は、植民地を認めたかのような論説・・・
しかし、軍を暗に批判し続けます。

「政治家が、しっかりと国政を遂行して、隙間を与えなければ、どうして軍人が政治に干与する余地があろう
 一家の主人が、その位置にふさわしき器量の持ち主である場合、番頭に誤魔化されたり、細君の尻に敷かれるはずのないのと同様だ」

湛山の葛藤をよそに、日本は太平洋戦争に突入・・・。
東京も空襲に晒されるように・・・出版が続けられなくなる・・・??

秋田県横田市・・・東京から遠く離れたこの地に、湛山の出版に対する執念があります。
横手で最初に泊まったとされる宿・・・横手を訪れる要人の多くがこのホテルに泊まっていました。
明治6年創業のそのホテルには、宿泊名簿が残っていました。
昭和20年、東京での出版活動が危うくなった時は・・・??
経済倶楽部の縁を頼りに、湛山は本社機能を横手に移し、僅か8ページとなったものの、全国の読者に発行し続けます。

東京を離れてもなお、必死の言論活動・・・しかし、湛山の思いは実らず。
この苦衷が、敗戦後の湛山に大きな影響を与えることになります。
湛山は敗戦後、最初の選挙に打って出ます。
「ただ、筆や口で論じているだけでは間に合わない。
 自ら政界に出て、自分の主張を取り入れてもらう要がある。
敗戦の翌年、湛山は第一次吉田茂内閣の大蔵大臣を皮切りに、政治家として日本の復興に動き出しました。

1956年12月、首相に就任。
改憲で打ち出したのは、国民生活の向上と、共産圏との関係改善という自主外交路線でした。

「献身的に身命を惜しまずに政治を推し進めたい」

決意の裏にあったのは、米ソを軸にした冷戦下で原子力が再び兵器として使われるのではないか??という危機感でした。

「自衛軍備しか持たない国々の間に、二度の世界大戦が起こった。
 今後、原子力兵器の戦争は人類滅亡を意味する。」

首相就任直後から精力的に活動します。
各地に足を運び、国民の声に耳を傾けます。
しかし、72歳の体には過密なスケジュール・・・過労が元で体調悪化・・・。
国会の長期欠席を余儀なくされ、「政治的良心に従います。と、潔く辞任します。
首相在任、僅か2か月でした。

湛山は1年余りの闘病を経て、政界に復帰。
右半身が不自由だったものの、志は消えていません。
湛山には胸に秘めた構想がありました。
日米の安全保障に留まらず、中国、ソ連を巻き込んだ「世界平和体制の確立」です。
そのために、断絶状態にあった中国を自ら訪れ、民間レベルでの交流を働きかけようとします。
湛山の後を継いだ岸信介がアメリカとの関係を慮って態度を硬化させます。
右翼からも脅迫まがいの批判が浴びせられます。

湛山の強靭な精神は、妨害や反対に怯まず・・・1959年9月7日、社会党の指示を受け、訪中を敢行!!
3000人の支援者に見送られて羽田を飛び立ちます。
湛山は、周恩来との会談で、「日中米ソ平和同盟」を打診します。
周恩来首相は、深い理解を示し、湛山の思いは大きく前進!!
時を同じくして、訪米中のフルシチョフが軍備廃止、冷戦終結の意志を表明。
東西両陣営の雪解けか??と思われました。

1960年1月19日、岸首相は、日米の関係強化を目指した新しい安全保障条約に調印。
新安保条約への反対運動は、国民的拡大を見せ、女子学生の死亡事故に発展!!
湛山は、岸首相の手法は、非民主的であり、混乱を招いたとして自民党員でありながら、強行採決を欠席するも、1960年6月19日日米新安保条約成立。
両国の関係は一層強固なものとなっていきます。

1972年・・・田中角栄は、日中国交正常化のための訪中前に湛山を訪ね
「石橋先生、中国に行ってきます。」
湛山が繋いだ細い糸が、9月に結ばれます。

翌年、見届けたかのようにこの世を去った湛山。。。
しかし、40年以上の時を経てなお、湛山が夢見た世界平和は実現していません。




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幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで (講談社学術文庫)

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2020年に東京オリンピックが開催されます。
今から70年前・・・1940年に・・・開催が予定されながら中止となった東京オリンピックがありました。

orinnpikku4そして二人の男が・・・
ひとりは強い情熱で開催を阻む生涯を乗り越えようとした嘉納治五郎。
「自分は徒手空拳ではあるが、必ず開催できるという信念のもと、正々堂々押し切るつもりである。」

もうひとりは、最終的に単独開催中止を決定した副島道正。
「日本で最も評判の悪い男になる。 その危険をおかして中止を働きかけた。
 私は自分のとった行動を航海していない。」

2年の間に何があったのでしょうか?

公式エンブレムはこちら。

orinnpikku5
日本にとっては、神武天皇からの建国2600年祭を意味する大会です。

白人でない国がオリンピックをやる・・・一等国の仲間入りをするためには・・・
維新を乗り越えて国家の威信を世界に示すお祭りでした。

1936年7月31日、ドイツ・ベルリンで・・・
国際オリンピック委員会(IOC)総会で、東京市が1940年の開催都市に決定しました。

実現すれば、アジア初のオリンピック!!
人々は喜びに沸きました。
関東大震災から復興した帝都・東京を世界に見せる絶好のチャンス!!

この時、ベルリンの総会に代表として出席していたのは・・・IOC委員・嘉納治五郎と副島道正です。

jigoro


嘉納治五郎は、講道館柔道の創始者であり、柔道の父と呼ばれ、日本のオリンピックの道を切り開きました。


スポーツを国民の体力向上と人間教育に充てる・・・。
オリンピック開催は、日本にスポーツを浸透させる起爆剤と考えていました。


soejima
副島は、明治維新の功労者・副島種臣の三男で、イギリス留学で培った豊富な人脈と国際感覚を期待されていました。
副島は期待に応え、最大のライバルだったイタリアのローマ・ムッソリーニに直談判して今回の招致に成功していたのです。

二人は・・・喜びもつかの間、翌日始まったベルリンオリンピックに衝撃を受けました。
ヒトラーがナチス・ドイツの力を世界に誇示するために、国家を挙げて取り組んだ空前の規模の大会でした。

大会運営費は、1億マルク以上、10万人収容のスタジアムが建てられ、最大の49の国と地域、4000人が参加しました。

さらに、世界で初めてギリシャ・オリンピアからの聖火リレーを実現します。
ナチスの宣伝として使われたことに批判はあったものの、壮大かつ華麗な大会に人々は驚嘆しました。

ベルリン大会の成功を受けて・・・日本の課題が見えて来ました。
準備期間はわずか4年・・・。

嘉納と副島の意見が対立します。
副島は政府が主導したベルリン式の大会を批判!!
あくまでスポーツ団体などの現場の人間を中心とした大会にするべきと主張しました。
嘉納は・・・限られた時間でオリンピックを開催するためには、挙国一致でないと!!と考えていました。

ドイツから帰国した嘉納は、副島を待たずして政府と協議・・・
協力を取り付けることに成功します。
副島の大日本体育協会を中心とした組織委員会を作ってやることは、インフラ整備も含めてなかなか上手くいかないと考えていたのです。
しかし、嘉納はドイツ式のオリンピックにならないようにも心がけていました。

オリンピック東京大会組織委員会が発足します。
そのメンバーは、東京市や大日本体育協会、外務省を初めとして軍の次官も参加することになります。
しかし・・・スタジアムの建設費でもめだしました。
建設候補地となっていたのは、明治神宮外苑など東京の12カ所。
団体の利害が絡んで選考には難航します。

翌年には・・・明治神宮外苑にあった競技場を10万人以上収容できるスタジアムへと改造する案に絞られました。
しかし・・・内務省は、景観を壊すと反対し、計画は頓挫・・・!!
組織委員会は、全く統制力がとれておらず、実行力も備わっていなく、機能していませんでした。
各省から次官が名を連ねているものの欠席・代理人だったのです。
国・政府の自覚が殆どありませんでした。

遅々として進まない・・・忸怩たる思いの副島。
官民一致しなければ・・・!!

しかし、事態は一層悪化していきます。
1937年7月7日盧溝橋事件。。。日中戦争が勃発しました。

陸軍は方針を転換し始めました。
戦争に邁進するために、陸軍将校からは選手を出さないことを決めたのです。
当時、高い人気を誇っていた馬術。。。ロサンゼルス大会で金メダルをとっていた西竹一(バロン西)をはじめとする現役将校が出ないということになったのです。

東京オリンピック中止??
開催まであと3年となっていました。

1938年あと2年となりました。
メインスタジアムは暗礁に乗り上げたままでした。
開催準備の遅れにIOCも危機感を抱いていました。

3月・・・エジプト・カイロで行われたIOCカイロ総会で、準備状況の報告を求められます。
準備の遅れとその原因となっている中国との戦争・・・
非難の声が上がることは予想されていました。

カイロ入りした嘉納は・・・強い意志で臨もうとしていました。
開催地の変更を求められる中・・・オリンピックに政治は持ち込んではいけないと主張します。
20カ国以上の代表と個別に会談し、日本の支持を訴えます。

嘉納の奮闘によって、最悪の開催取り消しはなくなりました。
しかし、IOCは、戦争を早期に解決するように嘉納に勧告。
帰国の途に就いた嘉納・・・77歳の嘉納は、船の中で病に倒れ・・・帰らぬ人となりました。
スポーツ界の行く末を案じながら。。。
1938年5月4日。

嘉納を失ったまま開催に・・・
残された副島ら開催委員会は、決意を新たに!!
総会の翌月は、メインスタジアムが決定!!
駒沢ゴルフ場跡(現在の駒沢オリンピック公園)
ここに、総工費676万円、収容人数11万の最大級のスタジアムを建設することとなりました。

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しかし・・・着工間近に問題が・・・
6月23日、近衛文麿内閣は、鉄などの重要な物資を戦争遂行のために優先して投入する方針を閣議決定しました。
スタジアムを作ろうにも資材がない・・・!!
戦争の終わりをのぞむ以外、方法はなくなってしまったのです。

大陸各地で戦争をしていた日本。
戦争終結の見込みはつきません。

この危機的状況に・・・どうする、副島・・・!!
断固として開催??
大陸での戦争は長期化しそうなので、欧州の多くはボイコットするだろう・・・失敗すれば、我が国の威信が・・・面目が立たない。。。


早期に開催権返上??
するならできるだけ早い方がいい。。。
まさに、今を逃したら、オリンピックの開催自体危うい・・・日本は永久的にオリンピックに参加できないばかりか、今後アジアでの開催は難しくなるだろう。。。

副島は、組織委員会の誰にも相談することなく、近衛らと面会し、政府首脳人に問いただします。
「政府は、東京大会を積極的に援助する意図があるのか?
 もしできないのであれば、国家の威信と国際的責務のため、その事実をすぐに公表することが必要ではないか?」

政府の見解は、時局を見ると、オリンピック開催を支持できないというものでした。
これを聞き、意を決した副島は、組織委員会にオリンピックを中止するように政府に要請します。

7月15日、閣議でこれが決定され、開催権を返上するよう組織委員会に通達されました。
副島の単独行動によるこに命令・・・委員会にとっては、青天の霹靂でした。
しかし、国策には従わざるを得ない・・・IOCに連絡します。
批判される副島。。。

副島は、IOC委員の辞任を申し出ますが・・・ラトゥールは・・・
「辞表はIOCの理事会で満場一致で否決された
 理事会は全員、あなたのオリンピックに対する素晴らしい態度を評価している。」と。

1940年6月・・・神宮外苑で・・・国家をあげた体育大会が行われました。
紀元2600年奉祝 東亜競技大会です。
参加したのは、フィリピン、満州国、汪兆銘政権など・・・。東亜新秩序の名のもとに東アジアの盟主が日本であることを謳うようでした。

1940年のオリンピックは、フィンランドのヘルシンキに開催権が移ったものの、結局第2次大戦の勃発によって開催されることはありませんでした。

平和の祭典が復活するのは、戦争終結後の1948年です。


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時代背景から考える日本の6つのオリンピック〈1〉1940年東京・札幌&1964年東京大会

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1941年12月8日真珠湾攻撃・・・それより8年前の1933年2月24日。
スイス・ジュネーブでの国際連盟臨時総会で・・・日本が戦争への分岐点となる演説がありました。
日本首席全権は松岡洋右。

「極東の平和を保障し、世界平和を維持するために、日本は断じてこの勧告の受け入れを拒否する。」

この演説から一か月後、日本は国際連盟を脱退!!
世界から孤立する道を進んでいきます。

国際連盟は、第一次世界大戦後・・・1920年に作られ・・・設立当時・加盟42か国、常任理事国は、イギリス・フランス・イタリア・日本でした。後にドイツ、ソビエトも加盟しますが、アメリカはいませんでした。
第28代アメリカ大統領W・ウィルソンが提唱したにも関わらず・・・。
アメリカの議会が反対し、参加しないままの出発となったのです。

1914年に第一次世界大戦に参戦した日本・・・イギリスとの同盟を理由にドイツに宣戦布告。
当時ドイツが利権を持っていた山東省に攻め込み、獲得ました。
マリアナ諸島・マーシャル諸島・パラオ諸島・カロリン諸島を委任統治することになりました。

どうして脱退したのでしょうか?

当時日本は、中国にある満州・関東州に派遣された日本陸軍部隊が関東軍。
1931年9月18日に日本が起こしたといわれている柳条湖事件が起きました。
これをきっかけに、満州事変・・・政府の方針を無視して軍事行動を進めていき・・・満州国を作りました。

世界大恐慌のあおりを受けて、深刻な不況だったので、働き口、資源を求めてたくさんの日本の人々が満州に渡っていきました。そしてソビエトの恐怖・・・。

1932年3月・・・作った満州国は、日本の傀儡政権でした。
中国国民党政府は、侵略と・・・国際連盟に提訴します。
これを受けリットン卿を中心とするリットン調査団がやってきます。
「日本による占領は、自己防衛だと正当化されるべきではない。
 日本が作った新政府は、満州が自ら決めたことではない。」
1933年2月24日国際連盟臨時総会が行われ・・・
日本は満州から撤退するべきだ!!ということになります。

”満州国を世界に認めさせるため!”にやってきたのが日本首席全権・松岡洋右でした。

「東洋における問題の根本的原因は、中国の無政府状態である。
 真剣に考えて欲しい。
 日本と中国は友人であり、両国の繁栄のために協力し合うべきなのだ。
 満州撤退の報告書を国際連盟が受け入れれば、日中両国を救うことができない。」

中国政府では、満州を維持することができないと、平和維持のために行っていると46分に渡り演説します。が・・・満州国撤退の対日勧告案は、賛成42に対し反対1・棄権1・・・と、圧倒的に否定されてしまいます。

松岡は・・・「日本は断じてこの勧告の受け入れを拒否する。」

と、会議場を去ります。

この演説は、日本国内の映画ニュースで繰り返し上映され、国民に大歓迎されるのです。
新聞も松岡を英雄視します。
しかし・・・本人は帰国し・・・期待に添えなかったことをお詫びしています。
松岡の使命は、満州国を世界に認めさせたうえでの国際連盟にも残ることだったからです。
どちらもできなかったのです。


1937年盧溝橋事件が起こります。
北京郊外の盧溝橋で、演習中の日本軍に何者かが発砲したとされる事件ですが・・・発端の実情は不明ですが・・・。
これで中国全土に戦争が広まっていきます。
アメリカは、日本に中国からの撤退を強く呼びかけていました。
1940年第二次近衛文麿内閣で外務大臣として就任した松岡洋右。。。
ドイツ・イタリアと三国同盟を結びます。
ヨーロッパに向かうシベリア鉄道・・・モスクワでスターリンに会い、ベルリンでヒトラーに会い、ローマではムッソリーニに会います。
そして・・・日本に帰る前にモスクワに立ち寄り、日ソ中立条約を結びます。
日独伊ソ連が手を組むことを考えていて・・・アメリカとの戦争はしたくない・・・というのが本音でした。

1941年7月にはアメリカと直接交渉できずに外務大臣を退任。。。病気療養に入り・・・日米開戦を病床で知るのでした。

「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だった。」

1941年6月22日ドイツがソビエトに侵攻!!
4か国でアメリカに対抗しようと思っていた松岡の思惑は挫折してしまったのです。
1941年12月8日、ハワイ・真珠湾攻撃!!
開戦当時は、日本が優勢でした。
しかし、戦況は急速に悪化し、日本は後退を余儀なくされます。
そして・・・1943年11月21日明治神宮外苑競技場にて”出陣学徒壮行会”が行われました。
敗戦の色が濃くなる中で、大学生が戦争に送られていきます。
集まったのは2万5000人。。。総理大臣・東条英機が演説します。

「私は、衷心より諸君の門出をお祝い申し上げる次第です。
 敵・米英におきましても諸君と同じく、若い学徒が戦場に立っているのであります。」

東大生の答辞は・・・
「生等もとより生還を期せず、在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂・・・」

その後、13万人の学生たちが戦場へと送られていきました。 
1945年8月日本は無条件降伏しますが、この時までの日本人犠牲者は、310万人にも及びました。
敗戦後松岡洋右は、A級戦犯として逮捕されます。
しかし、裁判では英語で無罪を主張し、1946年66歳の生涯を閉じるのでした。


ドイツでは・・・アドルフ・ヒトラー。
ヒトラーは、当時のドイツ国民に指示されて独裁者に上り詰めました。
「大衆の多くは無知で愚かである
 嘘を大声で、十分に時間を費やして語れば人はそれを信じる」
ヒトラーが行動を起こしたのは、ドイツのミュンヘンでした。
類まれなる演説で、人々を魅了していきます。

ヒトラーが25歳の時、運命の出来事が・・・第一次世界大戦勃発!!
オーストリア出身のヒトラーでしたが、ドイツに志願兵として参加します。
前線で戦うも敗戦し、ドイツは巨額の賠償金を支払わなければならなくなりました。
国内は極度のインフレ、大不況となって失業者であふれます。
国が崩壊していきます・・・ドイツ民族の栄光を取り戻す!!

ホフブライハウス・・・1589年に宮廷の醸造所として設立されたこの場所、ビアホールで、1920年反ユダヤ主義の国家社会主義ドイツ労働者党。。。ナチスが結成されます。

「我々が再び立ち上がるためには天才的な独裁者が必要である!!」
「ユダヤ人は嘘つきで寄生虫だ!!」

結成当初、党員は7人でした。

1923年ナチスが政権奪取を試みるミュンヘン一揆が起こります。
ビアホールのビュルガー・ブロイケラーで、武力蜂起したのです。
政府高官を人質にしたものの、警官隊によって鎮圧。。。逮捕・・・クーデターは失敗に終わりました。

8か月間のランツベルク刑務所で、「我が闘争」を口述筆記、ここで、自分の考え方、政策の基本をまとめます。
我が闘争には、アーリア人至上主義、共産主義の打倒、ユダヤ人排斥などが書かれて・・・後にナチスのバイブルとなり・・・ドイツの家庭には、必ず1冊ありました。
1929年世界大恐慌が起こります。
失業者が600万人となったドイツ・・・これが追い風となります。
新しいドイツが、民衆の心をとらえていきます。

ヒトラーは暴力ではなく、選挙で政権を握ろうとします。
そこには革新的な戦略が・・・
大量のビラをまき、街中に自分の顔や鍵十字のポスターを張り、巧みなプロパガンダで民衆を掌握していきます。
大衆の心を掴み・・・1933年1月、ついに首相に任命されます。

ヒトラーの野望・・・それは、ドイツ帝国の復活、反ユダヤ主義、共産主義打倒でした。

しかし、経済政策も魅力的でした。
大規模な公共事業・・・アウトバーンの建設によって、失業者は600万人から50万人に減少、フォルクスワーゲン
(国民車)の設計によって車に乗れる人が増えていきます。
大統領と首相を兼ね総統に就任します。

当時ドイツには、世界一民主的な憲法・・・ワイマール憲法がありました。
そこで権力をとり、1933年全権委任法をヒトラー内閣は制定し、国会が立法権を政府に譲位します。

ヒトラー専属のカメラマンが様々なヒトラーを撮ります。
大袈裟なアクションは、オペラ歌手からの指導・・・街がナチスに染まっていきます。
1934年の第6回ナチス党大会は「意志の大会」とも呼ばれ、100万人が参加したとも言われています。
その映像は「意志の勝利」としてレニ・リーフェンシュタールによって映画化されます。

「レニ・リーフェンシュタール」はこちら
人生にYESと言いなさい~レ二・絶賛と非難の101年~はこちら

カリスマに演出されていくヒトラー、平和のための独裁!!
平和という言葉を何度も使います。

党大会は夜に頻繁に行われましたが・・・
夜の幻想的な演出も、民衆を熱狂させていきます。

最初に作られたナチス・ドイツの強制収容所は「ダッハウ強制収容所」で、親衛隊の残虐行為の訓練所とまで言われました。
たくさんのユダヤ人が・・・多くの人が命を絶たれます。

ナチスに立ち向かった学生たちがいました。
またもやミュンヘンで・・・1943年ハンス、ゾフィー兄妹らがペンで反ナチスを訴えます。
白バラ抵抗運動です。
ビラを配ったり、党大会への不参加を呼びかけます。
しかし逮捕されると・・・わずか4日で斬首刑となりました。

第2次世界大戦が勃発した翌年に、チャップリンは「独裁者」を作ります。
ヒトラーを痛烈に批判したラストシーン・・・

「申し訳ないが  私は皇帝になどなりたくない
 それは私には関わりのないことだ
 だれも支配も征服もしたくない 
 できることなら皆を助けたい・・・
 ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も

 私の声が聞こえる人たちに言う
 絶望してはいけない
 憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪い取られた権力は、人々のもとに返されるだろう
 兵士よ 奴隷を作るために闘うな 自由のために闘え
 君たち人々は、機会を作り上げる力、幸福を作り上げる力があるんだ
 君たち人々は、人生を自由に美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ
 
 だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか
 みんなでひとつになろう
 新しい世界のために」

ヒトラーが首相に就任してかあら12年・・・ドイツの敗北が決定的になります。
1945年になると、連合国による攻撃が激しさをまし・・・ベルリンは廃墟と化します。
その4月・・・総統官邸の地下壕で、愛人のエバ・ブラウンと共に自ら命を絶つのでした。

ヒトラーの影法師と言われた男はこちら
「ヒトラー 独裁者という名の怪物」はこちら
チャップリンの「独裁者」観ました。はこちら
苦しいからこそ笑う~チャップリン天国と地獄を見た喜劇王~はこちら

そして戦後・・・
敗戦国の日本とドイツは、戦争をしていません。
アメリカが沢山の戦いに関わってることは周知の事実です。

史上最年少の43歳でアメリカ大統領となったケネディ大統領・・・
東西冷戦が始まり、アメリカなどの自由主義陣営と、ソビエトなどの社会主義陣営が対立していきます。
ベトナム戦争・・・
第二次世界大戦後、フランスとの戦いに勝利し独立したベトナムは、北(ベトナム民主共和国)と南(ベトナム共和国)に分断されます。
社会主義陣営は北ベトナムを支持し、自由主義陣営は南ベトナムを支持します。
南北の対立が激しくなり・・・アイゼンハワー大統領は、軍事顧問団を南ベトナムに派遣。
ケネディ大統領はそれを増強していきます。代理戦争となっていくベトナム。。。

1961年8月13日には・・・東ドイツによってベルリンの壁が築かれます。
193年11月テキサス州ダラスにて、大勢の目の前でケネディ大統領が凶弾に斃れました。
後を継いだジョンソンの時代、ベトナムの北爆を開始します。
50万人を超える兵士を導入しますが、戦争は泥沼化・・・。

世論によって反戦運動が起こってきます。
1975年サイゴンが陥落し、15年続いたベトナム戦争終結しました。

日本にとっては・・・
1950年朝鮮戦争が勃発したので、アメリカ兵が朝鮮に引っ張られ・・・警察予備隊が作られました。
憲法9条で軍隊を持つことができなかった日本だったので・・・「警察予備隊」なのです。
これが今の自衛隊へとなっていくのです。

もちろん戦争には参加していませんが、後方支援はやっています。
1991年湾岸戦争、ペルシャ湾での機雷の除去、2001年アフガニスタン戦争で・・・インド洋での燃料補給、2008年イラク戦争でイラクで給水などの復興支援・・・。
戦闘に於いては一人も亡くなることはなく戦後70年を過ごしてきました。

世界のどこかで今も戦争は続いています。
日本にもその危機が訪れるかもしれません。
過去から学ぶ・・・そのことが必要なのです。

「ジョン・F・ケネディ “弱さを力に変えたジャック”」はこちら
リンドン・ジョンソン~ケネディの後を継いだ男~はこちら


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