日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:石山本願寺

今から500年前の戦国時代・・・勇猛果敢な侍たちが、日本各地で血で血を洗う戦いを繰り広げました。
天下統一に向け、大きなターニングポイントとなった七つの戦い・・・これまでは、日本国内の出来事として描かれてきました。
ところが、海外で続々と新資料が発見されています。
そこから、ヨーロッパの国々が、戦国日本に深く関係していたことがわかってきました。

当時は、ヨーロッパの国々が富や領土を求め、世界各地に進出した大航海時代・・・。
大海原へと乗り出した彼等は、壮大な野望を秘め、戦国日本へと押し寄せていたのです。
この時、ヨーロッパの大国と対峙したのは、天下統一を目指す三人の英雄たちでした。

戦国の革命児・織田信長・・・その戦いを支援したのは、キリスト教の宣教師でした。
信長の後を継いだ豊臣秀吉の朝鮮出兵・・・その裏では、ヨーロッパの超大国と激しい駆け引きが繰り広げられていました。
戦国の世に終止符を打った徳川家康・・・その最後の戦いとなったのが、大坂の陣でした。
徳川と豊臣の争いの背景には、世界制覇を狙うオランダとスペインの激しい対立がありました。
ヨーロッパの大国が狙うのは、世界屈指の産出量を誇る銀・・・ジャパン・シルバーでした。
戦国日本は、世界のパワーバランスを塗り替えていきます。

世界規模の視点から明らかになる新たな歴史とは・・・??



愛知県新城市にある長篠の戦い古戦場・・・2019年夏、戦国の覇者・織田信長をめぐる大きな発見あがりました。
50人がかりで行われた初めての大規模な調査・・・
見つかったのは、長篠の戦いで信長軍が使った鉄砲玉でした。
ここに、信長と世界との意外なつながりがありました。

1575年長篠の戦い・・・織田信長VS.武田勝頼
武田信玄の後を継いだ勝頼が、騎馬軍団を率いて信長と同盟を結ぶ徳川家康の領地へと攻め入りました。
対する信長は、3万の援軍を送り家康を支援します。
武田軍と織田・徳川連合軍は正面からぶつかります。
甲斐を拠点に戦国最強と恐れられていた武田家・・・天下統一を目指す信長を脅かしていました。
宿敵・武田を打ち破るため、信長は当時最新の兵器だった鉄砲を大量に購入。
騎馬軍団を主力とする武田軍は、なすすべもなく敗れ去ったと言われてきました。
ところが、長篠の戦いの絵図をつぶさに見ると、武田軍の中にも鉄砲を構える兵士たちの姿があります。
実は、長篠の戦いは、鉄砲VS.鉄砲の戦いでもあったのです。
何が両者の勝敗を分けたのでしょうか??

その謎を解く手がかりが、武田家ゆかりの神社に残されていました。
山梨県にある富士御室浅間神社・・・武田家からの鉄砲玉に関する古文書です。
鉄砲玉のもととして徴収していたのは、お賽銭でした。
武田軍は、原料の入手に苦労していたのです。
その不足を補うため、銅で作られたお賽銭を鋳つぶし、鉄砲玉へと作り変えていました。
ところが・・・銅の弾丸は銃身に詰まりやすく暴発が多かったといいます。
一方、発見された信長軍の鉄砲玉の素材は鉛・・・当時の日本では極めて貴重な金属でした。
鉛の成分を解析すると・・・外国産でした。
信長軍の弾丸は、海外で産出された鉛で出来ていたのです。
どこの鉱山??
候補の一つとして浮かび上がってきたのは、日本から4000キロ離れた東南アジアのタイでした。
首都・バンコクから車で4時間・・・カンチャナブリ―鉱山です。
坑道の総距離は50キロ・・・アジア有数の巨大鉱山でした。
鉛の埋蔵量は、300万トン・・・鉄砲玉に換算すると、20億発に相当する巨大な鉛の生産地でした。
分子レベルでの研究によって、この鉱山の鉛と長篠の戦いで使われた弾丸の成分が一致しました。
海外の鉱山まで延びるこのネットワークこそが、信長の勝因の一つだったのです。

一体、信長はこのタイの鉛をどうやって手に入れていたのでしょうか?

それを紐解くカギが・・・2014年アラビア海で見つかりました。
沈んでいたのは、大航海時代の交易船です。
大量の武器、弾薬を運んでいました。
中には、ヨーロッパで作られた鉄砲・・・これらを運んでいたのは、ヨーロッパの国・ポルトガルでした。
信長が鉛を入手できたのも、この国の交易船のおかげだったのです。
イベリア半島の西側に位置するポルトガル・・・16世紀半ば、日本が初めてであったヨーロッパの国でもありました。
優れた航海技術で、大航海時代の先駆者となったポルトガル・・・
この国が、海外進出にあたり、特に力を入れていたものはそれが、キリスト教の布教でした。
カトリックの総本山・バチカン市国・イエズス会ローマ文書館
戦国日本に関する貴重な資料があります。

それは、戦国日本を訪れた宣教師の記録です。

ここに、日本に鉛を売るように命じたポルトガル人の名前が記されていました。
日本へと派遣された宣教師のリーダー・・・フランシスコ・カブラルでした。
当時、日本になかったメガネをかけていたため、”4つ目のカブラル”と呼ばれていました。

1572年、カブラルは初めて信長の屋敷を訪問します。
カブラルは、信長への軍事支援と布教を結びつけていました。

「天下統一をしたければキリスト教を支持せよ」

カブラルは、布教を後押ししてもらうため、戦に欠かせない軍事物資を信長に提供していたのです。
カブラルをはじめ、宣教師が担っていたのは、”全世界をキリスト教の国へ”という壮大な使命でした。
それを達成するため、宣教師が日本で極秘の情報活動をしていたこともわかっています。

1572年の記録・・・密かに進められていた将軍の暗殺計画を掴んだことを記しています。
信長配下の軍勢の動きも正確に把握、宣教師は、各地の日本人キリシタンと協力して、広大な情報網を築き、戦国武将の動向を探っていたのです。
宣教師は、日本人キリシタンから政治情勢について情報を得ていました。
それによって、日本の中枢で何が起きているのかも知ることができたのです。

宣教師は、布教拡大を図るため、各地の戦国武将に接触を試みていました。
その中で、最も有力な候補者と考えたのが、織田信長だったのです。
現在の愛知・尾張の領主だった信長は、急速に兵力を広げていました。

”信長はもともと弱小国の武将だったが、鋭い判断力と慎重さを持っていた”

信長は、宣教師と手を組んだことで、大量の軍事物資を獲得、長篠の戦いに勝利し、天下統一に大きな一歩を踏み出したのです。
しかし、信長の前に、最大の敵が立ちふさがっていました。
信長と10年に及ぶ死闘を繰り広げた大坂の石山本願寺です。



1570年~1580年 石山合戦・・・織田信長VS.石山本願寺勢力
石山本願寺を率いるのは、住職の顕如。
武装した僧侶や信徒を多く率いていました。
最新の鉄砲もいち早く導入し、信長軍を窮地に追い込みます。
さらに、各地の大名と連携し、信長包囲網を形成。
その勢力は、信長軍をはるかに凌いでいました。
苦境に立たされた信長・・・この時、救いの手を差し伸べたのが、あの宣教師でした。

機密文書には、石山合戦の記録も残されていました。 

”日本のの渦たちが、信長に激しい戦いを挑んでいた
 彼等は、キリスト教の代々の敵であり、我々の布教活動の妨げとなっている”

日本の仏教界は、キリスト教のライバルと言える存在です。
キリスト教の布教には、仏教が潜在的に有害な存在でした。
仏教界が弱体化すれば、キリスト教が勢力を伸ばせる・・・!!と、宣教師たちは考えたのです。
キリスト教以外の宗教は、邪教・・・悪魔の教えであると考えていた宣教師・・・信長の敵である仏教勢力が奇しくも宣教師たちの敵でもあったのです。
信長と宣教師は、起死回生の策を講じます。

キリスト教の布教に大きな貢献をした人々を祀るスペインの教会・聖イグナシオ洞窟教会には、カギを握った日本人が描かれていました。
キリスト教の信仰に人生を捧げた人々・・・フランスの国王、スペインの総督、そして・・・キリシタン大名・高山右近です。
この右近こそ、仏教勢力を打ち破る切り札でした。
右近は、石山本願寺に近い摂津国の領主でした。
ここが信長軍の攻撃拠点となれば戦いが有利になります。
1578年、高槻城・・・信長は、右近を説得するため宣教師を派遣します。
味方にならなければ、キリスト教を弾圧すると脅していました。

”この国のキリスト教の行く末が、あなたの決断にかかっているのですぞ・・・!!”

宣教師は、度々右近のもとを訪ねて説得します。

右近を中心に、1万人を超えるキリシタンの援軍を得た信長軍・・・宣教師の力を借りて、ついに、最大の敵をうち破ります。
天下統一を目前にした信長は、日本の新たな中心とすべく、安土城を築城します。
城下町には、宣教師の希望を受け入れ、キリシタンを養成する神学校が建てられました。
安土に神学校を建設すれば、キリスト教の宣教師が主流派になったと日本人が理解すると考えたのです。
キリシタンの勢力拡大を狙っていた宣教師・・・それを示す資料がポルトガルで発見されました。

その南蛮屏風・・・修繕をしようと裏側を外したところ、驚くべき発見がありました。
補強のために使われていた書簡やメモ類が大量に表れたのです。
日本の和紙だからこそ、現代まで残ったものでした。
屏風から、神学校で使われたと思われる教科書が見つかりました。
天使や悪魔も知らなかった当時の日本人・・・悪魔は天狗になぞらえて教えられていました。
神学校に通っていたのは、10歳から18歳までの各地の大名や有力武将の子供たち・・・
彼等を取り込むことで、宣教師たちは日本国内に着々と勢力を伸ばしていました。



信長に取り入ることに成功した宣教師・・・しかし、宣教師は、信長の想像を超える野望を秘めていました。
インド・ゴア・・・ヒンドゥー教徒が多いインドで、人口の3割がキリスト教徒という珍しい街です。
きっかけは、大航海時代に遡ります。
コショウやクローブなどアジアで取れる香辛料を求め、ポルトガルの船が到来・・・
同時にゴアの街にもたらされたのが、キリスト教でした。
街を武力で制圧し、伝統的なヒンドゥー教の施設をことごとく破壊・・・跡地に教会を立て、住民たちに改宗を強いたのです。
従わないものには、容赦ない罰が待ち受けていました。
過激な理論ですが、改宗は精神を征服することでした。
心を支配することで、ヨーロッパ型の思想や社会を広めようとしたのです。

キリスト教の布教に秘められていた征服の意図・・・
ポルトガルによるゴアの支配は、そののち400年以上も続きます。
こうした脅威が、戦国日本にも迫っていたのです。

日本をキリスト教の国に作り替えようとした宣教師カブラル・・・その為の具体的なプランが、資料に記されていました。

”信長をキリスト教に改宗させる・・・そうすれば、日本人を素早くキリスト教に改宗することができる”

カブラルは、早速信長の説得に向かいます。

”デウス様のみが国を支配する力がある
 天下統一を望むのなら、デウス様に仕えるのです”

”わしに、キリシタンになれと申すか・・・!!”

信長自身は改宗しなかったものの、一族や家臣が改宗することは認めます。
信長は、宣教師の計画を察知しながらも、軍事物資を手に入れるため手を組み続けたと考えられています。
信長にとって、それは天下統一の為でした。
しかし、キリスト教勢力が、力を増すことは秩序を乱すリスクでもありました。
信長は、敵に対抗するための駒とみて、リスクに目をつぶっていました。
ところが、石山合戦が集結した1580年、宣教師の計画を加速させる事態がヨーロッパで起きました。
征服王と呼ばれたスペインのフェリペ2世がポルトガルを併合したのです。
これは、世界情勢を大きく塗り替える事態でした。
当時、無敵艦隊を抱え、世界有数の海軍力を誇ったスペイン・・・そのスペインが、ポルトガルの広大な植民地をも飲み込んで、世界の覇権を手中に収めたのです。
日の沈まない大国・・・スペイン帝国の誕生でした。
フェリペ2世は、世界帝国を築くことで、キリスト教を中心とした生き方を強制しようとしました。
布教によって”救済”と”進歩”が社会にもたらされる・・・征服は”正当な戦争”だと考えていました。

「アジアの征服に尽力せよ」byフェリペ2世

この指令は、日本にいる宣教師たちにも直ちに伝えられました。
戦国日本に迫る、大国スペインの脅威・・・対する信長は・・・??

宣教師の情報網がつかんだ信長と家臣・豊臣秀吉の会話は・・・
「宣教師は密かに征服計画を進めている」by秀吉
宣教師を脅威ととらえ、進言します。
しかし、信長の考えは異なっていました。
スペインが、はるかヨーロッパから大軍を送り込むのは難しい・・・日本が直ちに征服されることはない・・・と、信長は踏んでいたのかもしれません。
さらに、信長の判断に影響を与えたと言われているのが、戦国に日本で行われていた軍事革命です。
鉄砲の信管・・・海外産より日本産の方が不純物が分散されて作られていました。
つまり、国産の銃身の方が強度が安定しているのです。
日本の鉄は、和鉄といって、砂鉄精錬によって作られています。
非情にきめ細やかに鍛錬されているのです。
そのカギとなるのは、日本の玉鋼をはじめとする和鉄を鍛錬する高度な技術でした。
秘密は、鍛造と呼ばれる技法にあります。
この技は、日本刀の製作で磨かれたものです。
鉄を鍛え上げることで、強度を飛躍的に高めたのです。
日本の鉄砲は独自のイノベーションを遂げていました。

この進化した鉄砲の大量生産を推し進めたのが、信長でした。
信長が直轄地として治めた堺の町・・・
地元の商人が、鉄砲伝来の地・種子島からいち早く製造方法を持ち帰り、一大産地へと発展しました。
見つかったのは、鉄砲の製造について記された2万点の古文書・・・戦国時代には、堺に鉄砲鍛冶が住んでいた・・・
その職人たちのリスト・・・銃身から台座、火蓋まで、戦国時代には分業制がとられ、鉄砲の大量生産が行われていたのです。
戦国日本にあった鉄砲の数は、30万丁と呼ばれ、世界一の銃大国だったのです。
世界でも突出した軍事力を手中に収めていた信長・・・

その様子をつぶさに見ていた宣教師は、計画の変更を迫られます。

”日本は絶え間なく軍事力を高めている
 ここで日本と戦争をすることは、得策ではなかろう
 だが、この軍事力は将来必ずスペインの利益となるであろう”アレッサンドロ・バリニャーノ

日本の軍事力をどう利用するのか??
その記述が、スペイン帝国に宛てた宣教師の秘密文書に記されていました。
浮かびあがってきたのは、アジア征服に向けた壮大な計画でした。

”我々の最大の目標は中国の征服である
 それは、スペイン国王の権力の発展につながる”

当時、明と呼ばれた中国は、アジア最大の国土と人口を抱えていました。
さらに、高価な陶磁器や絹織物を生産する世界一豊かな国でもありました。
キリスト教がアジアを席巻するためには、この国の征服が不可欠だと考えられていました。

”スペイン国王が行う中国征服事業の為、日本は非常に有益な存在となるあろう”

当時日本は、中国に比べて非常に好戦的な国だと考えられていました。
宣教師は、日本の軍事力を利用すれば、中国の征服も可能だと分析していました。



アジア征服の為、日本の軍事力を利用しようとする宣教師・・・
宣教師がもたらす軍事物資を使って、天下統一を目指す信長!!
お互いの利益のために結び付いてきた両者・・・しかし、その関係に終わりが近づきます。
信長の言葉です。

「我、神にならん!!」by信長

天下統一を目前に自信を深めた信長・・・キリスト教の神ではなく、自分こそこの世の支配者だと宣言したのです。
それは宣教師にとって、許せない発言でした。

”信長は、悪魔に取りつかれた”

信長は、意のままにはならない・・・
戦略の立て直しを図ることとなった宣教師・・・新たな計画に乗り出します。
実行の部隊は、信長の拠点から遠く、中国大陸にも近い九州・・・
宣教師が作った計画書には・・・??

”長崎を強大にするため、住民全員に武器を持たせよ”

宣教師は、1580年、貿易港として栄える長崎一帯をキリシタン大名から譲り受け、直接支配下に置きます。
岬の発端にあった教会を難攻不落の要塞へと作り変えました。
さらに・・・当時、世界最先端の兵器だった大砲・・・鉄砲に比べ、破壊力も格段に増していました。
宣教師が大砲を送った大名の名が砲身に残されていました。
”フランシスコ”・・・現在の大分・豊後国の戦国大名・大友宗麟の洗礼名です。
宣教師から最新の兵器を贈られた九州の大名たちが、次々にキリスト教に改宗していました。

九州は、宣教師たちにとって、征服計画を始めるためのプラットフォームでした。
宣教師が蓄えた強大な軍事力は、信長にとって大きな脅威になっていきます。

1580年代、キリスト教の勢力範囲は九州を中心に10万人に増加。
巨大な勢力へと成長していました。
宣教師を天下統一への駒と考えていた信長・・・しかし、宣教師は、信長の想像を超えたアジア征服計画を実現しようとしていたのです。

緊張をはらんだ両者の関係は、突然の事件によって断ち切られます。

1582年、本能寺の変!!
京都にいた信長が、家臣・明智光秀の軍勢に襲われたのです。
この時のことを、宣教師はつぶさに記録していました。

”信長は、襲撃を察知できていなかった
 なぎなたで戦った後、銃弾を受けた”

信長は、自身を戦国の覇者へと導いた鉄砲に撃ち抜かれました。
天下統一を目指す信長の野望は、ここに砕け散りました。

その後、信長の遺志を継ぎ、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。
キリシタンは脅威だと信長に進言していました。
ところが・・・スペインで発見された資料によると・・・

”信長の死はキリシタンの増加につながった”

秀吉の時代、国内のキリシタンは順調に増え続けていたのです。
そのきっかけは、秀吉と光秀が繰り広げた信長の跡目争いにありました。
1582年、山崎の戦い
本能寺の変の11日後に起きた山崎の戦い・・・
豊臣秀吉が、謀反人・明智光秀を討ち果たした戦いです。
毛利攻めの最中だった秀吉は、主君の訃報を聞くや破竹の勢いで京へと駆け戻り、光秀を打ち倒します。
この戦いにも宣教師の影が・・・!!
スペイン・エスコリアル修道院にその実態を紐解く資料が残されていました。

”右近の活躍によって敵を撃破した”

とあります。

右近・・・高山右近です。
石山合戦で活躍したキリシタン大名でした。
秀吉が勝利するとした宣教師が、高山右近らキリシタン大名に対し、秀吉側につくよう働きかけていたのです。

”光秀は暴君、神父たちに危険が及ぶので、決して味方してはならない”

右近たちが勝利すれば、キリスト教の勢力拡大に有利に働きます。
宣教師は、情勢の変化に期待していたのです。

秀吉軍の先鋒を務めた右近・・・
見事な活躍を見せ、秀吉の家臣に取り立てられます。
キリシタンの力を利用することで、天下統一を目指した秀吉・・・政権中枢には、多くのキリシタン大名が名を連ねました。

この時代、キリスト教の教えが、急速に広まっていたことも明らかになっています。
京・大坂の中心に位置する高槻城・・・山崎の戦いで活躍した高山右近の居城です。
2019年、二の丸の発掘調査が行われ、巨大な堀の跡が見つかりました。
当時、最新の設備だった石垣・・・堀の底に土手を築き、敵の侵入を難しくさせる障子堀・・・堅固な城の実態が明らかになりました。

三の丸の跡から見つかったのは、27基に及ぶキリシタンの墓でした。
遺骨のそばには、数珠のような玉が散らばっていました。
ロザリオでした。
埋葬されていたのは、子供から老人まで、様々な年齢の男女でした。
武士や特権階級だけが葬られるのではなく、年齢の差も、性別も、隔たりのない、一般の方も眠っている墓地でした。
博愛、身分差のない信仰の教えを形にしています。
秀吉の時代、日本のキリシタンは30万人を突破。
こうして、信長の死後もキリスト教の信者は着々と増えていたのです。

1587年、天下統一を目前にした秀吉のもとで、思わぬ追い風が吹き始めます。

”秀吉殿は日本を平定したあとは、どのように・・・??”

「明国への出兵・・・!!」by秀吉

秀吉が、次なる目標と語ったのは、奇しくも宣教師の狙いと同じ、明への遠征でした。
宣教師は、この機会を見逃しませんでした。

”我らの軍船をお貸ししましょう
 キリシタンも意のままに動きましょう”

1592年~1598年 朝鮮出兵

1592年、キリシタン大名を先陣とする大部隊が、海を渡りました。
中国征服の足掛かりにしようと始まった朝鮮出兵です。
日本軍の猛攻撃を受けた朝鮮軍は、劣勢を強いられます。
これに対し、中国の明が朝鮮に大規模な援軍を派遣。
闘いは激化し、推定で74万人が動員される大戦争となりました。
この時、最前線で戦うキリシタン大名の犠牲が急増・・・
しかし、それは秀吉にとって戦略の一環だったと考えられています。



朝鮮出兵を通じて、中国の征服を目指した秀吉は、実はもう一つの思惑を秘めていました。
キリシタン大名を最前線で戦わせることで、消耗させ、軍事力を弱体化させようとしていたのです。

拡大を続けるキリシタン勢力を脅威ととらえ、その力を削減しようとしていた秀吉・・・
これに先立ち、日本では伴天連追放令が出され、キリスト教の布教も禁じられていました。
キリシタンが所有する神社仏閣の破壊や改宗を強制、キリスト教の布教活動が目に余るようになっていたのです。
秀吉に忠誠をつくして来たキリシタン大名の高山右近も、領地を没収され、国外追放を命じられます。
宣教師の思惑とはかけ離れた形で進んでいくアジア征服計画・・・!!
さらに、宣教師たちにとって想定外の事態が起きます。
スペインの植民地・フィリピン・・・宣教師は、現地からの情報で、秀吉の野心がフィリピンにも向かったことを知ります。

”日本の密偵が放たれている
 秀吉の狙いは、フィリピンからスペイン王に送る大量の金である”

秀吉が狙ったのは、スペインの富・・・征服王・フェリペ二世の植民地を奪うことで、朝鮮出兵の戦費を賄おうとしていました。

「スペインの富を手に入れよ!!
 そして、明国を討ち滅ぼすのじゃ!!」by秀吉

”秀吉は、傲慢と野心の塊で、世界を簡単に支配できると考えている”

フィリピンの状況を知ったヨーロッパの超大国スペイン・・・一触即発に備え、警戒します。

有史以来、人類が体験したことのない未曽有の事態でした。
アジアを発火点に、「最初の世界戦争」が起きようとしていたのです。
戦国時代、ヨーロッパから伝わった兵器を進化させ、世界屈指の軍事国家へとなった日本。。。
秀吉の底知れぬ野心によって、ヨーロッパとアジアが激突する世界戦争の危機を招いていたのです。

しかし・・・1598年、緊迫した恐恐が一変します。
スペインのフェリペ2世が急死・・・その5日後、日本で秀吉が死去。
日本軍が朝鮮半島から撤退を決定します。
宣教師と秀吉が思い描いた中国征服計画は、ここに幕を閉じたのです。

1600年 関ケ原の戦い

秀吉の死から2年後、天下をにぎわす大決戦が行われました。
天下分け目決戦・・・関ケ原の戦いです。
東軍を率いるのは信長・秀吉のもとで力を蓄えていた徳川家康でした。
対する西軍は、石田三成を筆頭とする豊臣恩顧の武将たちが参戦していました。

総勢20万ともいわれる大軍が激突した史上空前の合戦・・・!!
しかし、家康の策によって、西軍から寝返る武将が相次ぎ、半日足らずで勝敗が決します。
この家康の勝利には、当時新たにヨーロッパで力を持ち始めた国が深く関係していました。

大航海時代・・・新興の商業国家として世界各地に進出していたオランダです。
オランダと戦国日本との運命の出会いは、関ケ原の戦いの半年前に遡ります。
オランダの貿易船が、嵐に見舞われ難破・・・命からがら日本にたどり着きました。
船には、最新式の銃500丁、弾5000発、火薬300kg・・・大量に積まれていました。
このオランダ船に目をつけたのが、徳川家康でした。
家康は、自ら生き残った船員たち(ウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステン)を尋問しました。
この時の詳細なやり取りが、記録に残されています。

”家康は、スペインとの戦争について詳しく知りたいといった
 私は、家康が満足するまで、ヨーロッパの覇権争いについて説明した”

当時、大国スペインの支配下にあったオランダ・・・
圧政を逃れるべく、独立を宣言し、激しい戦争をはじめていました。
しかし、スペインの力は強大でした。
世界中の植民地から、莫大な富を獲得。
この財力で無敵艦隊という最強の海軍を支えていました。
独立間もないオランダは劣勢に・・・
この時、オランダが考えたのが、外国との貿易によって軍資金を得ることでした。
その計画の鍵を握るのが、戦国日本でした。

2016年、日本とオランダの知られざる関係を示す資料が見つかりました。
日本に滞在したオランダ商館にあった日誌や手紙などの膨大な記録です。
これは、謎だったオランダ貿易の実態を明らかにするものでした。
どういう商品が貿易されて、どんな商売の仕方をしていたのか・・・??
日本の資料にない記述や出来事もたくさん記録されていました。

史料には、戦国武将の懐に入り、利益を上げようと奔走するオランダ商人の姿が書かれていました。

”徳川家と豊臣家との間に戦争がおこるという確かな情報を入手した
 戦場で着る陣羽織の需要が高まるに違いない
 生地を売り込むチャンスだ 
 ありったけを送れ”

オランダには、これまで日本にやってきた船と大きく違う点がありました。
ポルトガルやスペインが重視していたのが、キリスト教の名のもとに信者を増やし、自国の領土を広げることです。
それに対し、商人たちが作った国・オランダは、布教にこだわらず、純粋に利益を上げることだけを目的としていたのです。

「日本に来た狙いは?」by家康

”貿易です
 我々の武器を買えば、あなたはより強くなるはずです”

天下取りを目指す家康・・・軍事力を強化するために、オランダの提案は渡りに船でした。
家康は、船員たちを家臣として召し抱えることを決めます。
船に積まれていた大量の武器弾薬は、家康の手に収まることになりました。
この半年後に起きたのが、関ケ原の戦いだったのです。

当時の宣教師の記録に、その様子が記されています。

”徳川軍が撃つ嵐のような弾丸
 瞬く間に三成たちの軍は総崩れとなった”

両軍の火力差は歴然でした。
オランダの武器を手にした家康が勝利を得たのです。
しかし、家康が天下を取るには最大の障壁が残されていました。
父・秀吉の跡を継いだ豊臣秀頼です。



2019年、大坂城そばの発掘調査で、秀頼に関する新たな発見がありました。
巨大な建物跡・・・秀頼に従う大名屋敷がありました。
こうした大名屋敷が、大坂城を中心に幾つも立ち並んでいたのです。
これが、秀頼の絶大な力を示しています。

当時、大坂を訪れた外国人の記録には、こう記されています。

”大坂は、日本で最も素晴らしい商業都市、堅固な城を持っている
 秀頼さまは皇帝になるかもしれない”

父・秀吉から莫大な遺産を受け継いでいた秀頼・・・その元には、豊臣家に忠誠を誓う武将たちが集結していたのです。
激しさを増す徳川家と豊臣家の争い・・・
同じ頃、ヨーロッパでもオランダとスペインの戦いが新たな局面を迎えていました。

1602年、世界初の株式会社・オランダ東インド会社の誕生です。
グローバル経済の先駆者となるオランダ・東インド会社・・・本来、国の持つさまざまな特権が一つの会社に託されていました。
外国の領主と独自に条約を結ぶ権利、兵士を雇い要塞を築く権利、さらに、貨幣を作り権利まで・・・最前線に立つ商人に、強力な権限を与えることで、迅速な海外進出を目指し、宿敵スペインに打ち勝とうとしたのです。

オランダ東インド会社は、貿易に関するあらゆる権限を持った非常に洗練された組織でした。
その目的の一つは、スペインの海外での収益を奪うことです。
つまり、経済戦争に勝利することでした。

この世界初の株式会社は、戦国日本に正式な使節を送り込みます。
オランダ商館長のジャック・スペックスです。
オランダ東インド会社が狙っていたのは??
近年、ヨーロッパの沖合・ジブラルタル海峡でそれを紐解く発見がありました。
水深1100mに沈んだ貿易船の調査・・・莫大な数の財宝が引き上げられました。
59万枚・・・17トンに及ぶ銀貨・・・その銀こそが、世界の覇権を握る原動力でした。
16世紀、アメリカ大陸で大規模な銀山が見つかると、銀貨が大量に作られます。
ヨーロッパの商人たちは、この銀貨を使い、東南アジアの香辛料や中国の陶器など、世界各地の商品を購入できるようになりました。
銀は、ヨーロッパとアジア、アメリカをつなぐ、世界初の国際通貨だったのです。
当時、この銀を独占していたのが、世界最大の帝国スペインでした。
スペインは、新大陸の植民地で、巨大な銀山を次々と開発、世界の生産量の8割を握っていたのです。

一方、新興の商業国家オランダ・・・
スペインに対抗するために、銀の独自の入手先が必要でした。
当時、オランダは、スペインに対して独立戦争をしています。
世界貿易に乗り出すのであれば、銃南米、スペイン領以外のどこかで銀を入手できる地域を確保する必要がありました。
そして、アジアで最も銀を多く生産しているのが日本だったのです。
16世紀にヨーロッパで出版されたドラード「日本図」・・・そこには、銀山王国と記されていました。
戦国時代に、日本は銀の産出国として知られていたのです。

”この国の銀山から我々がB必要とする銀すべてを採掘できる可能性がある
 秘密裏に佐渡の銀を調査せよ”

新潟県佐渡島・・・戦国時代、ここに日本最大級の銀山がありました。
この銀山の開発を進めたのが、徳川家康でした。
家康は、豊臣家と対抗する資金源として銀を重視・・・関ケ原の戦いのあと、一早くを押さえていました。
家康の号令で始まった佐渡のシルバーラッシュ・・・
家康は5万人の労働者を送り込み、昼夜交代で休みなく採掘を進めました。
佐渡全体での埋蔵量は、2300tを超え、世界トップレベルの銀山でした。
家康が、幕府を開いたときに、一番日本で勢いのある鉱山であることは間違いありません。
ここから出る金銀を当てにしていたのは、間違いありませんでした。
家康は、佐渡をはじめ、全国各地で次々と鉱山開発を進めました。
日本の銀の生産量は、急速に拡大し、年間100トンを超えます。
世界の生産量のおよそ1/3を占めました。
日本の銀を狙うオランダのスペックス・・・
調査の結果、佐渡の銀は、スペインの銀以上に純度が高いことがわかりました。
しかし、当時、良質の銀を国外に持ち出すことは、禁じられていました。
スペックスは家康との交渉に乗り出します。

スペックスは、家康が好む商品を入念に調査・・・献上品として用意していました。

”家康さまの贈り物として、美しい毛織物、色とりどりのガラス、最高級の鏡が喜ばれるだろう”

スペックスは、非常に柔軟で、日本に適応して、習慣や文化も理解しました。
オランダの動きに焦ったのが、スペインでした。
家康のもとに使者を送りこみます。
ロドリゴ・デ・ビベロです。
ビベロは、家康との交渉に有効なカードを持っていました。
鉱山技師です。
最先端の技術を持つ技師がいれば、日本の銀の生産量を伸ばすことができる・・・!!
ところが、
”鉱山技師を派遣するには、条件がございます
 新たに採掘した銀の半分はスペインのものとすること
 オランダ人を国外追放すること”
オランダ人を排除し、銀を独り占めを狙うスペイン・・・中でも最重要の条件がありました。

”キリスト教の教会を建て、宣教師を置くこと”

スペインは、必ずしも商人ではなく聖職者もついてきます。
彼等にとって、キリスト教布教と貿易は、表裏一体であったのです。
必ずキリスト教布教も許しなさいの一点張りでした。
全世界をキリスト教の国にしようとしたスペイン・・・キリスト教の布教が、家康の欲する鉱山技師派遣の条件とされたのです。

そこには、隠された狙いがありました。
ビベロが国王に送っていた文書には・・・

”日本には数多くの銀の鉱脈があります
 この地に侵入するのは極めて有益です
 しかし、軍事力に秀でた日本を征服するのは容易ではありません
 キリスト教の布教を進めるべきです
 キリシタンが増えれば、家康の死後、陛下を新たな王仰ぐぐことでしょう”

キリスト教の布教の先にあるアジア征服計画が、再び始まっていたのです。
スペインの野心を察知したオランダは、家康に訴えます。

”スペインは、キリスト教を広め、キリシタンの反乱によって国を崩し、征服しようとしています。
 フィリピンやメキシコも、この方法で支配下に置き、植民地にしてきたのです。”

家康が選んだのは、オランダでした。
家康は、軍事物資と交換にオランダに銀を渡すことを約束します。
世界屈指の生産量を誇った日本の銀・・・オランダは、巧みな交渉術でその扉を開くことに成功したのです。
オランダは、スペインがキリスト教を広めた後、国を征服するとはっきり家康に進言しています。
尚且つ、自分たちは宗教を広めず、貿易にしか関心がないと始めから明言しました。
江戸幕府は、色々な情報を判断して、オランダならば自分たちの望むような貿易をしてくれると期待したのです。



一方、スペインに対して家康は不信感を募らせていました。

”キリシタンの徒党、日本の占領を企てている
 後世必ず国家の患いとなろう”

1612年、禁教令を出します。
各地で厳しい弾圧の嵐が吹き荒れました。
この時、キリシタンに手を差し伸べたのが、家康と敵対する大坂城の主・豊臣秀頼でした。

”秀頼様は、自由な布教と教会の建設を約束してくださった”

家康との直接対決が近づいていたこの時期、禁教令によって行き場を失っていたキリシタンの兵力は、豊臣方にとって喉から手が出るほど欲しい存在でした。
秀頼は、宣教師を通じて全国各地のキリシタンに働きかけます。
キリシタンは軍事勢力として考えたとき、全国からやってきたらかなりの数にのぼりました。
南蛮国から援軍がやってくるということを、城内に籠っている人たちは信じていました。
そのような期待は、江戸幕府と戦うにあたって大阪城でもありました。

豊臣軍は、総勢10万の大軍に膨れ上がっていました。

1614年~1615年、大坂の陣
戦国最大にして最後の合戦となった大坂の陣・・・
キリスト教を禁止した家康、キリシタンの援軍を得た秀頼・・・
大坂の陣は、キリスト教布教の行く末を左右する戦いでもあったのです。
大軍で四方から攻め寄せる徳川軍・・・
しかし、豊臣軍から一斉射撃を浴びせられ、大坂城に近づくことも困難でした。
窮地に陥った家康・・・
豊臣軍善戦の裏には、宣教師とつながるキリシタン勢力の存在がありました。
決戦の舞台となった大坂城の発掘調査で・・・
地下から現れたのは、豊臣軍の軍事基地の跡でした。
そこから、作りかけの鉄砲玉が発見されました。
大坂城下では、戦のさ中、銃弾の製造がおこなわれていました。
それを可能にしたのが、スペインとつながるキリシタン商人だったのです。
キリシタン商人は、玉の原料となる鉛をかき集め、大坂城に運び込んでいました。

追い詰められた家康・・・起死回生の策とは??
大砲による大坂城への直接攻撃です。
しかし、徳川軍の陣地から本丸までは、最短でも500m・・・従来の大砲の有効射程を超えていました。
この時、家康が頼みの綱としたのがオランダでした。

”家康さまが、大砲と砲弾をすべて購入することを報告する”byスペックス

家康の待ち望んだオランダの大砲・・・
17世紀にオランダが開発したブロンズ製の大砲です。
当時、最新式のカノン砲です。
オランダ東インド会社は、海外の戦場で売れる商品として大砲に着目・・・
多額の開発資金を投じ、イノベーションを加速していました。
オランダは、ヨーロッパの軍事産業の中心地で、常に新兵器の開発が行われていました。
最新式の大砲を積んだオランダの船は、武器市場を世界に広げました。
特に成果を上げたのが、戦国時代の日本だったのです。

オランダの大砲の技術は・・・??
有効射程は500m以上、世界各国で開発された大砲の中でも、群を抜く性能でした。
絶大な衝撃力で、その恐怖は尋常ではありませんでした。
最新式のオランダの大砲12門が、戦いのさ中家康のもとに届けられました。
さらにオランダは、熟練の砲手を送り込んで、徳川軍を支援します。

砲弾は、天守と御殿を直撃・・・多数の死傷者を出します。
キリシタンを率いる秀頼は、戦意を喪失。
家康は、オランダの力をかり、150年にわたる戦国の世に終止符を打ったのです。

戦いの背後で暗躍していたスペックス・・・
大坂の陣を機にオランダ東インド会社は待望の銀を手にします。

”家康さまに、大砲と砲弾を納品した
 代金は、銀貨1万2000枚にのぼる”

家康の信頼を勝ち得たオランダ・・・年々取引高を伸ばし、最盛期には年間94tもの銀が日本から運び出されます。
銀だけではなく・・・さらに、日本から輸出されたある物が、世界の覇権を左右していきます。
オランダの積み荷リスト・・・火縄銃や槍、日本刀・・・戦乱の中で性能を高めた日本製の武器は、恰好の商品でした。
さらに、武器と共に数多く記されているのが、日本人の名前です。
ひとりひとりに細かく給料が定められています。
彼等の正体は、金で雇われ、海外の戦場で戦う日本人傭兵でした。
日本の侍たちが、商品として輸出していたのです。
背景にあったのは、日本の戦国時代が幕を閉じたことでした。
天下泰平の江戸時代が訪れると、それまで戦を生業としていた多くの侍が失業・・・新たな戦いの場を求めていたのです。
日本人傭兵の総数は、おそらく数千人を超えていました。
彼等は、アジア各地に散らばり、ヨーロッパ勢の植民地争いで大変重用されました。
とても豊富な戦争経験を持っていたからです。
東南アジアで繰り広げられていたオランダとスペインの植民地争奪戦・・・この戦いの鍵を握っていたのが日本人傭兵でした。



知られざる戦国・・・日本人傭兵の戦い
日本人傭兵を雇い入れるために家康との交渉役となったのが、あのスペックスでした。
スペックスのもとに、東南アジアの植民地総督から救援要請が届きます。

”スペインとの戦争に投入するため、果敢な日本人を可能な限り送ってくれ”

スペックスは、日本の侍を、一気に数百人規模で雇いあげようと画策します。
その実現のため、家康との直接交渉に乗り出しました。
オランダから武器を入手し、利益を得ていた家康・・・スペックスの申し出を特別に許可します。

”家康さまに日本人傭兵の出国許可を願い出た
 とても見事な兵士を届けることができるだろう”

日本人傭兵を手にしたオランダ・・・スペインがしはいするモルッカ諸島に定めます。
モルッカ諸島は、スペインの最重要拠点の一つでした。
特産品の香辛料は、一粒が同じ重さの銀に匹敵すると言われ、莫大な利益を生む商品でした。
スペインは、モルッカ諸島の各所に強固な要塞を築き、防備を固めます。
オランダは長年その攻略を試みるも果たせずにいたのです。
この時、突破口を切り開くために投入されたのが、日本人傭兵だったのです。

モルッカ攻略作戦

夜の闇に紛れて軍艦を近づけ、砲撃を加える
敵がくぎ付けになっている隙に、歩兵隊が上陸
夜が明けるとともに、敵の死角から一気に攻め入りました
先陣を切ったのは侍たち・・・槍や日本刀による接近戦で、敵を切り崩しました。
侍たちの決死の攻撃で、要塞は陥落・・・オランダは勝利を手にしました。

”日本の傭兵は、オランダ人以上に勇敢だった
 彼らの旗が、城壁に最初に掲げられた“
 
勢いに乗ったオランダは、スペイン・ポルトガルの植民地を次々に奪取。
東南アジアにおける優位を確立します。
インドネシアのジャカルタに築かれたオランダ東インド会社の総督府・・・家康が送り出した日本人傭兵が、世界のネットワークを大きく似り変えたのです。

こののち、世界の海を行くヨーロッパの船の3/4にオランダの旗が翻ることになります。
世界屈指の産出量を誇ったジャパン・シルバー。
長きにわたる戦乱の世が最強の兵士・侍を・・・オランダは、戦国日本と結びつくことで、世界の覇権を握ることとなったのです。

大航海時代の世界は、ヨーロッパの視点で語られることがほとんどです。
しかし、それは、物語の一部にすぎません。
戦国時代の日本は、まさに世界史の最前線だったのです。
戦国日本と深く結びついていた激動の世界・・・今、アジア各地で様々な調査が行われています。
ベトナム・ラム川の河口・・・音波探査機の調査では、朱印船が沈んでいるのでは??
朱印船とは、家康の正式な許可を得て送り出された貿易船です。
日本の銀と引き換えに、国内では手に入りにくい生糸や絹織物を輸入していました。
日本版・大航海時代を夢見た家康・・・この計画を支えていたのがオランダでした。
世界の海で培った技術や造船方法を家康に惜しげもなく提供。
多い時には年間30隻近くの船が、ベトナムやタイなど東南アジア各国との間を往復していました。

この朱印船に乗って、多くの商人たちが海を渡っていました。
その痕跡を探る調査も行われています。
海を渡った日本人商人たちは、東南アジア各地で活躍、日本人町を形成していました。
ヨーロッパの人々が続々とアジアに押し寄せた大航海時代・・・
それはまた、日本人が未知の大海原へと漕ぎ出した時代だったのです。

世界と初めて対峙した戦国日本・・・
小国の領主に過ぎなかった信長は、宣教師とつながることで戦国の覇者へと上り詰めました。
天下統一を成し遂げた秀吉は、超大国スペインを出し抜き、海の向こうまでその野望を広げました。
そして、新興国オランダと結び、250年もの天下安泰をもたらした家康・・・
3人の天下人は、ヨーロッパの大国と熾烈な駆け引きを繰り広げながら、この国の進路を決定づけていきました。
戦国・・・それは、日本が激動の世界と向き合った最初の時だったのです。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村


織田信長が、豊臣秀吉が、徳川家康が・・・天下統一を目指して熾烈な戦いを繰り広げた戦国時代・・・彼らの戦場は陸だけではありませんでした。
その一つは・・・海!!
軍船対軍船の戦い・・・その数多ある水軍の戦を勝ち抜き、遂には天下人に恐れられた海の侍たち・・・それが村上海賊です。
当時日本にいたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、村上海賊のことを日本最大の海賊と評しました。
天下取り目前の信長を、海の戦で完膚なきまでに打ちのめすほどの力を持っていたからです。

近畿、中国、四国、九州に囲まれた瀬戸内海・・・この海は、古くから西国と大坂・京都を結び、年貢や交易のための物資が行き交う大動脈でした。
戦国時代はその沿岸に、周防・長門の大内氏、伊予の河野氏、安芸の毛利氏、それぞれが領土の拡大を目指す戦いの場でもありました。
そんな瀬戸内海を拠点としていた村上水軍・・・その名を一躍とどろかせたのが、海の桶狭間でした。

広島県廿日市市にある厳島神社・・・
海に立つ鳥居で知られ、国保であり、世界遺産です。
この宮島と呼ばれる静かな島が、かつて戦の舞台となりました。
1555年厳島の戦いです。

領国の拡大を狙う毛利元就と、大内氏の重臣で、実質的に権力者だった陶晴賢が厳島で激突したのです。
晴賢は前年に元就によって奪われたこの島を取り戻すために、毛利軍の拠点宮ノ尾城に襲い掛かります。
大軍の敵に囲まれ窮地に追いやられた毛利軍・・・もはやこれまでか!!と思われたその時、数百艘の水軍が現れ陶の水軍を急襲したのです。
これこそが、村上海賊・・・!!
つながりの深かった毛利の援軍として参加したのです。
村上海賊は、瞬く間に陶の海軍を撃退!!
形勢は逆転し、毛利軍の逆転勝利となりました。
奇襲によって形勢が逆転したことによって勝利したことで、織田信長が今川義元に奇襲作戦で勝ったことになぞらえて、後に海の桶狭間ともよばれるようになりました。
陶の水軍を一気に破った村上水軍・・・
その強さの秘密とは・・・??

①船乗りとして優れていた
島が入り組んで、狭い水路、複雑な潮の流れなど難所の多い瀬戸内海で、船を自在に操る高い航海技術を持っていました。
さらに、彼らの使う軍船の強さ!!
当時、大名らが使用する軍船の主力となったのが、全長20mを超える安宅船と呼ばれる大型船で、兵士が乗り、弓矢や槍などで戦いました。
もちろん、村上水軍も安宅船を使っていましたが、違ったタイプの船を駆使していました。
その一つが小早船です。
安宅船は大型船だったので、小回りが利かず、容易に方向転換ができないという弱点がありました。
村上水軍は、全長5mの小早船を操り、スピードと縦横無尽の動きで敵船を攻めました。
もう一つが中型船の関船です。
その鋭い船首で体当たりし、敵船を破壊、時には敵を沈没させました。
こうして海を知り尽くして多様な船を使いこなしていた村上水軍は、瀬戸内海で無敵の存在となっていきました。

村上氏の始まり
・平安時代の村上天皇が祖
・南北朝時代に北畠氏の一族が村上と名乗った
しかし、その出自は定かではありません。

村上家は三家に分かれていました。
因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏です。
この三家は連携しながら沿岸の諸大名と手を組んで拡大していきます。
中でも、海の戦国大名と呼ばれ、大きな力を持っていたのが能島村上氏当主・村上武吉です。

今に伝わる陣羽織があります。
架空の動物で赤面赤毛で猿に似た猩猩の血の色と言われる真赤な生地に、背に記された丸に上の文字は村上家の家紋・・・
これを身にまとい、瀬戸内海をわがものにしていた人物こそ、村上武吉です。
1533年に生れました。
若くして沼島村上家の当主となり、後に能島殿と呼ばれ畏れられる存在になっていきました。
人々は、武吉の何を畏れたのでしょうか?

それは、拠点とした能島にありました。
能島の周囲は850mほど・・・小さな島で今は無人島となっています。
潮の流れが早く、海は渦を巻き、船を近づけることができません。
能島は敵が攻められない天然の要塞だったのです。
能島と鯛崎島が城となっていて、築城は14世紀半ばと考えられています。
能島城は、小さな島全体を城としていますが、上から本丸、二の丸、三の丸、ハナには曲輪・・・
周りが急斜面で切岸となっています。
基本的なお城の構造を島全体で作っていました。

残っている岩礁部分に空いた穴は、船を停めておく杭を刺した穴で、島にはこのような穴が400ほど残っています。
能島村上海賊が大規模だったことがわかります。

敵から攻められにくい天然要塞である能島を拠点に、多様な船を駆使して瀬戸内海に君臨した村上海賊の棟梁・村上武吉・・・
武吉が周囲から恐れられたもう一つの要員は・・・経済力でした。
武吉が能島村上氏の当主となる前は・・・その名の通り、航行する船を襲っては抵抗すれば殺害してでも積み荷を奪う海賊行為を行っていました。
しかし、武吉が当主となると、配下の海賊たちに言い放ちます。

「これからは船を襲うことは許さん!!」

武吉は、略奪行為を一切やめさせました。
その代わりに航行する船から通行料である帆別線を徴収します。
金を支払えば、村上海賊の勢力圏での安全を保証・・・通行料は船の帆の大きさで決められたといいます。
さらに武吉は、上乗りという警護も担当します。
村上海賊が依頼のあった船に乗船するというもので、上乗りが言えば顔パスで、襲われることも通行料を撮られることもありませんでした。
その見返りとして警護料を支払わせたのです。
それらの収入を合わせると、一説には戦国大名の石高に匹敵するといわれています。
武吉は、無敵の水軍と、戦国大名に匹敵する財力を持っていたのです。
それで、周囲から畏れられたのです。
武吉は、瀬戸内海の船の航行を牛耳ることとなり、瀬戸内海の支配者となりました。

1576年、瀬戸内海を支配する村上海賊の頭領・村上武吉に大大名となっていた毛利輝元が、要請します。
「大坂に行ってもらえぬか・・・??」
「大坂・・・??」
輝元が、どうして大坂行きを武吉に要請したかというと、そこには織田信長の存在がありました。

天下布武を掲げる織田信長にとって、長年の障害となっていたのが浄土真宗の総本山・石山本願寺でした。
宗主の顕如率いる本願寺が、10万人の門徒を従え、畿内を中心に一大勢力を築いていたからです。
何としてでも畿内をわがものにしたい信長は、石山本願寺を攻め、遂に寺を包囲して兵糧攻めにします。
それによって、本願寺は兵糧が無くなり風前の灯火に・・・。
この本願寺の危機を知った輝元は、援軍を送ることに・・・!!
本願寺に送る大量の武器や食料を積んだ輸送船の警護を村上水軍に依頼したのです。
要請を受けた武吉は、嫡男・元吉を大将にして村上海賊を大坂に向かわせました。
その数、毛利水軍と合わせておよそ800艘・・・!!
そして、遂に大阪湾から石山本願寺の脇を流れる木津川の河口にやってきたところで200艘の織田水軍と当たります。
世にいう第一次木津川口の合戦です。
その結果は・・・村上水軍を任された元吉が、毛利輝元に報告しています。

”織田の船をことごとく焼き崩しました
 敵方を数百人は討ち取りましたので、首実検のために揃えてお持ちします”

村上海賊との連合軍が、織田水軍に圧勝したのです。
どうして村上海賊は圧勝することができたのでしょうか?
「信長公記」にはこう書かれています。

”海上はほうろく、火矢などと云う物をこしらえ、お味方の船を取籠め、投げ入れ、投げ入れ、焼き崩し、多勢に敵わず”

ほうろくが、織田水軍に有効だったのです。
村上海賊の特色は、ほうろくという小型爆弾のようなものを用いていました。
それ以外にも、村上水軍は
熊手・・・敵や物をひっかけて自分の方に引き寄せる
袖がらみ・・・棘がついていて、相手の衣服に絡めて相手の動きを封じる
村上海賊の勝因は、多様な武器に加え、様々な船による組織的な攻撃力でした。

その戦法は・・・
①射手船・・・火矢や銃弾で混乱させて相手の反撃能力を奪う
②ほうろく船・・・ほうろく玉を投げ入れて、敵船を炎上させる=船は瞬く間に炎上
③武者船・・・兵たちが敵船に乗り込み、敵兵を海に追い落とす
これで織田水軍を壊滅的に追い込んだのです。
海での戦術に優れ、ほうろく玉などの秘密兵器を駆使して圧勝していたのです。
こうして食料や武器などを石山本願寺に届けた村上海賊と毛利水軍の連合軍は、意気揚々と西に帰っていきました。

木津川口の合戦で、織田水軍に勝利した村上海賊の村上武吉・元吉親子は、毛利氏から令嬢が贈られるなど、信頼が厚くなっていきます。
そんな中、木津川口の合戦から2年後の1578年・・・
石山本願寺攻略に執念を燃やす織田信長が、またもや本願寺の兵糧攻めを開始しました。
そして毛利氏は、本願寺に援軍を送ります。
再び村上海賊の出番となりました。
この時は、当主である武吉自らが600艘を率いて、毛利水軍と共に大坂へ・・・!!

ところが、木津川の河口についた武吉は愕然とします。
武吉が目にしたのは、今までに見たこともない異様な船でした。
第一次木津川口の戦いで村上海賊に完膚なきまでに叩かれた信長は、ほうろく玉の攻撃に耐えうる船の建造を志摩の領主であり海賊の頭領・九鬼嘉隆に命じていました。
そこで完成したのが鉄甲船でした。

「多門院日記」によると・・・
”人数五千程乗る横に七間、縦へ十二、三間もこれあり 鉄の船なり”

それは、横幅13m、全長23m、5000人もが乗船できる鉄の船でした。
これを6艘も作らせていました。
銃弾が通らないように、部分的に鉄で船を装甲していたのです。
こうして第二次木津川口の合戦が始まりました。
村上海賊は、ほうろく玉攻撃を繰り出しますが・・・
厚い鉄板で跳ね返され、織田水軍の鉄甲船に全く歯が立ちませんでした。
さらに、信長にはもう一つの秘密兵器が・・・
近づいてくる村上海賊を引き付けて・・・鉄甲船には大砲が装備されていたのです。
その一斉砲撃を受けると、村上海賊は撤退を余儀なくされました。
海戦では無敵だった村上海賊が、最新鋭の武器の前に敗れ去ったのです。
この敗戦を機に、毛利氏の瀬戸内海での影響力が弱まり、2年後の1580年に石山本願寺は織田信長に明け渡されることになります。

当然村上海賊にも、信長による懲罰が待ち受けているはずでした。
武吉と元吉の元に信長から書状が届きます。

”望む事これ有るにおいては いささかも異議なく候 その意を成すべく候”

なんと信長は、希望があれば何でも聞くという寛大な姿勢を示したのです。
どうしてでしょう・・・??
信長は、軍事力に関して陸上は毛利氏に勝っていると考えていましたが、海上の水軍力については毛利氏に劣っていると認識していました。
そこで、武吉の軍事力は織田に欠かせないと考えていました。
そして毛利攻めを任せていた秀吉に対し、村上武吉への調略を命じます。
それを受け秀吉のにこう伝えます。

”能島殿が信長公に味方するなら、所領は伊予十四郡はもちろんの事、四国全土を与えてもよい”

それは、秀吉の常套手段でした。
過大な条件を出して誘いをかけたのです。
一族のごたごたも利用・・・
当時、武吉と元吉の間に隙間風が吹き始めていました。
元吉を揺さぶります。
秀吉は、村上三家の団結を崩そうとも考えていました。
同じように、因島村上氏・来島村上氏にも仕掛けていました。
すると来島村上氏が織田側に寝返ります。
それでも武吉は、信長、秀吉の誘いに首を縦に振りませんでした。
あくまで毛利氏に追従する道を選んだのです。
その理由とは・・・??
毛利氏の必死の引き留め工作がありました。
武吉は、毛利氏と強い絆で結ばれていたため、裏切れなかったのです。

信長・秀吉の誘いを蹴った能島村上氏の武吉ですが、来島村上氏が織田方に寝返ったため、村上家は結束を欠くことに・・・
これで織田軍の毛利攻めが易くなる・・・!!
そんな矢先、1582年6月、家臣明智光秀の裏切りによる本能寺の変で信長が自害!!

これで村上海賊の宿敵が無くなった・・・??新たな敵が現れました。
羽柴から豊臣となった秀吉です。
信長亡き後、天下人を狙う秀吉は、中国、四国、九州を支配下に置き、残すは東北となっていました。
そんな中、ある法令を発布します。
1588年7月8日、秀吉は「海賊停止令」を発布します。
そこには、諸国の海上において速やかに海賊行為をやめよ・・・とありました。
各地の領主に対し、船に関わる全ての人物から誓約書をとって提出するように求めたのです。
船頭や漁師までも・・・!!
もし、海賊行為を行った場合、その海域の領主も罰せられるという「海の刀狩り」とも取れる厳しい令でした。
これによって、武吉は海での警護や通行料の徴収などができなくなってしまいました。
まさに、秀吉の海賊取り締まりは、村上海賊を狙い撃ちしたもの・・・
もはや懐柔ではなく目の敵にし、弾圧したのです。
海賊停止令は、秀吉の天下統一の理念を海にまで及ぼそうとしたものです。
海の世界まで統一する為に、海上交通路も秀吉が支配しなければならないと考えたのでした。
村上海賊は、その障害になると考えたのです。

1588年9月・・・秀吉から毛利方に書状が届きます。

”能島が海賊行為をしているという知らせがあったが言語道断”

禁令を破ったとして武吉を処罰するという者でした。
秀吉は、”赤間関より上国には居ることまかりならざる様に”と、武吉追放を命じます。
赤間関とは今の下関のことで、瀬戸内海から出て行けということ・・・
武吉は、一族配下のものを守るため、従うほかありませんでした。
村上三家のうち、武吉だけが筑前・糸島に移り住むこととなったのです。

1598年、武吉を瀬戸内海から追放した秀吉が亡くなります。
これによって、武吉に再びの活躍の場が・・・!!
再び毛利氏に仕え、所領2万石を得ていた武吉・・・
その際、新たな本拠地としたのが伊予制圧の要衝・竹原鎮海山城でした。
それは、あわよくば天下を狙う毛利輝元の指示によるものでした。

秀吉の死後、実権を握った徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成の対立が激しくなります。
そして遂に三成を中心とした西軍が挙兵したことで、家康の東軍と激突することとなります。
その際、西軍の総大将に担ぎ上げられたのが武吉の仕える毛利輝元でした。

勝てば毛利の天下も・・・!!
この時、武吉68歳、嫡男元吉48歳!!
村上海賊復活のチャンスが。。。!!

1600年7月、西軍の総大将毛利輝元は、秀吉の嫡男・秀頼を守るために大坂城に入ります。
その輝元から武吉が任されたのは、西国にある徳川方の城を攻め落とすことでした。
村上海賊は、阿波・蜂須賀氏を攻略すると、加藤氏の伊予に乗り込むことに・・・!!
9月14日、武吉親子が向かったのは、興居島・・・加藤氏の拠点である松前城に攻め入るためでした。
翌15日、村上海賊は三津浜に上がり布陣します。
まさにその同じ日・・・美濃の関ケ原で天下分け目の戦いが始まりました。
しかし、わずか6時間で東軍が勝利し、毛利輝元は敗軍の将となってしまいました。
16日、敗戦を知らない武吉は、松前城に三千の兵を差し向け、開場を要求・・・
松前城の留守役に開場を受け入れさせます。
あっけない勝利に見えました。
もはや攻め入る必要もない・・・武吉は猶予を与え、一旦引き上げることに・・・。
武吉たちは近くの民家に陣を張り、宴会を開き勝利を祝ったのです。
西軍本体が負けたとも知らずに・・・!!
そしてその日の夜中・・・
兵を整えた加藤氏の軍が、武吉の陣を夜襲・・・間一髪で難を逃れましたが、この戦いで嫡男元吉を失ってしまいました。
村上海賊の完敗でした。
村上氏が持っていた優れた船や熟練した乗組員が力を発揮する余地がなかったのです。
瀬戸内海で百戦錬磨の海の支配者も、陸の上では並の武将に過ぎなかったのです。
その後、関ケ原で西軍が敗戦したことを知ると、武吉は撤退・・・屋代島へと追いやられていきました。
その所領は2万石からわずか1,500石へ・・・付き従っていた者たちも、その財力を失った武吉の元を次々と去っていきました。
そして、1604年8月22日、村上武吉は72歳で波乱の生涯を閉じたのでした。
村上武吉の死と共に、水軍としての村上海賊も終わりを告げました。
しかし、能島の村上一族は、その後船手衆として生き残ります。
江戸時代には、参勤交代の際の藩主の送迎や、朝鮮通信使などの船の護衛を担いました。

南北朝時代から戦国時代にかけて瀬戸内海に君臨し、そして消えて行った村上海賊・・・
その海の侍たちの勇壮な姿とロマンは、これからも語り継がれていくでしょう。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

水軍の活躍がわかる本 村上水軍から九鬼水軍、武田水軍、倭寇…まで KAWADE夢文庫 / 鷹橋忍 【文庫】

価格:682円
(2019/10/31 21:02時点)
感想(0件)

戦国大名の末裔たちが明かす歴史秘話 戦国、幕末・維新から村上水軍まで!子孫&お宝を大発 [ 別冊宝島編集部 ]

価格:770円
(2019/10/31 21:02時点)
感想(0件)

1573年9月・・・戦国最強と謳われた巨大山城が落城しました。
城の名は小谷城・・・城主・浅井長政は、織田信長の妹・お市を妻にして、信長と同盟関係を結んでいました。
小谷城を落としたのは、身内のはずの信長でした。
長政の裏切りをきっかけに、血で血を洗う戦いが始まったのです。
しかし、城の守りは固く、落城までは3年の月日が必要でした。
小谷城を信長はこう評しています。

”高く険しい要害の地、攻め上がること困難なり”

小谷城とはどのような山城だったのでしょうか?
織田信長が、天下統一への第一歩となった小谷城落城・・・この攻防が現代に残す教訓とは・・・??

滋賀県北東部の長浜市・・・琵琶湖を見下ろす山に、巨大な山城・小谷城がありました。
標高495m・・・今は木々に覆われた山は、かつて巨大な山城として近江国にそびえたっていました。
自然の地形を生かしながら、巨大な要塞として構築された小谷城です。

曲輪には兵を配置し、尾根筋を進んでくる敵を鉄砲や弓矢で攻撃する拠点となります。
曲輪の外側には、敵の攻撃を防ぐ工夫があります。
切岸です。
急斜面を作り、下からの敵の侵入を防いでいるのです。

尾根沿いの道は、曲輪に横を過ぎると曲がっています。
これも側面から敵を倒す工夫です。
何の変哲もない山道も、綿密に設計された敵を倒す防御システムだったのです。

尾根沿いの道を避け、斜面から攻めようとすると・・・竪堀があります。
竪堀を掘っておくことで、敵が山の斜面を横移動して城内の中心部に入ることを防ぐ防御施設です。
竪堀の先は、数多くの曲輪があり、敵を皆殺しにするためのワナです。
竪堀に足止めされたところを曲輪から攻撃されます。
斜面からは攻め込めません。

本丸を目指す・・・その先には、今まで以上に強力な曲輪が待ち構えていました。
防御のための土塁を全周回していています。
鉄砲を撃ちかけることもできます。
仮に銃撃をかいくぐることができても、その先に侵入することも難しい・・・
見事な守りの城です。

本丸の出入り口・・・
石段の上には見事な黒鉄門という鉄ばりの城門がありました。
門の中には、小谷城最大の曲輪がありました。
大広間といい、幅35m、奥行き85mあります。
政治の中心地でした。
城主・長政が暮らしたこの空間からは、壺や皿などの日常生活や宴会に使用されたとみられる遺物が3万点以上発見されています。
大広間と本丸の背後には、尾根を断ち切った深さ9mの大堀切が作られています。

大堀切の奥には、城主・浅井長政の大切な人が暮らす曲輪が連なっています。
地元北近江の守護だった京極氏を住まわせる京極丸、長政の父・久正が入る小丸、本丸よりも高いところに置かれています。
しかし、小谷城はまだまだあります。
そこから急な坂道を登る事50分・・・
標高495mの山頂に、巨大な防衛陣地が作られていました。
大嶽城です。

たどり着くことさえ困難な山頂に、三重の土塁が張り巡らされています。
小谷城を背後から攻撃しようとする敵に備えたものだと考えられます。
さらに、大嶽城から南にのびる尾根筋にも、砦がいくつも配置され、西側からの攻撃に備えていました。
小谷城は、あらゆる方向からの敵に備えた難攻不落の要塞でした。
南国屈指の巨大山城・小谷城・・・
木々の下に隠れていたのは、戦国乱世が行きついた究極の城の姿でした。

浅井長政の居城・・・北近江の巨大山城・小谷城・・・。
長政は、小谷城の他にも、領内各地にいくつもの小さな城を配置していました。
こうした城は、どのような役割を持っていたのでしょうか?

横山城には、重要な意味がありました。
横山城は、小谷城の南にある軍事拠点で、街道が三角形に集まってくる真ん中にある城でした。
主要な街道を監視し、南、東の動きを把握することができ、即座に対応することができました。
浅井氏の支城は、色々な役割を担っていました。
小谷城の西の山本山城・・・琵琶湖の脇を日本海側に抜ける街道は、この山本山城と小谷城の間を通っていました。
二つの城で街道を囲んでいる・・・経済のポイントを山本山城が押さえていました。
私情を築くことで、地域を守るだけでなく、街道・・・流通そのものを把握していくことにつながりました。

小谷城の麓を通る街道・・・浅井氏は、この街道を小谷城の城下町まで引き込んでいました。
小谷城自体が、流通を支配する!!
重要な幹線道路を浅井氏が遮断している・・・きちんと管理していました。
小谷城の城下町は、川で琵琶湖ともつながっていました。
川を下ると姉川に合流し、姉川からすぐに琵琶湖で下。
琵琶湖の湖上交通という大きな物流の大動脈につながったのです。

浅井氏は、城下に川湊を作り、琵琶湖の物流と直接つなげていたのです。
北陸の米などを京都に運ぶ琵琶湖の大規模の水運は、物流の幹線ルートとして重要な意味を持っていました。
このルートを掌握する役割を持たせていたのが佐和山城です。
佐和山城は湖の入り江に接していました。
浅井氏は、湖に接する城を通じて、琵琶湖の水運にもにらみを利かせていました。
北陸から朝井領を通る琵琶湖の物流ルートには、隣国の大名も注目していました。
越前の朝倉氏は、早くから朝井氏と同盟を結んでいます。
天下統一に向かう織田信長も、妹・お市を長政に嫁がせ、緊密な関係を築いていました。

1570年4月、信長は、浅井氏と同盟関係にあった朝倉氏を攻撃!!
これを機に、長政は信長から離反します。
長政の裏切りを知った信長は、朝倉攻めを断念し、命からがら京に逃げ帰るのです。

長政の裏切りから2か月後・・・
1579年6月、信長は浅井領に侵攻します。
兵を向けたのは、小谷城ではなくその南の支城・横山城でした。
横山城を包囲した信長に、長政も出陣!!
姉川の戦いです。
戦は信長の勝利に終わり、長政は横山城を失います。
その頃、浅井長政、朝倉義景、武田信玄、石山本願寺、三好三人衆・・・信長包囲網が築かれようとしていました。
信長は大ピンチだったのです。
それでも信長は、浅井への攻撃を続けます。
狙ったのは、南の橋の佐和山城!!
佐和山城は、全体の戦局を左右する要の場所でした。
佐和山城は8か月にわたる籠城戦の末、信長の手に落ちました。
要となる城を奪われた長政・・・厳しい選択を強いられます。

佐和山城、横山城を落とされ、小谷城に来るのは時間の問題・・・和睦を願い出る・・・??
信長が、裏切ったものを許すはずがない・・・鉄壁の小谷城で戦いに打って出る・・・??

1571年5月、長政は、奪われた支城の奪還に打って出ました。
あくまで信長と戦う道を選んだのです。
しかし、強力な信長軍を前に敗戦が続きます。
勢いづく信長は、小谷城に近づき・・・小谷城から500mのところに虎御前山城を築きます。
目の前に大規模な陣を構え、長政を物理的にも精神的にも追いつめていきます。
信長は、新しい戦略をとっていきます。
信長は、幅6mの軍用道を5km作ったとされています。
高い塀で目隠しをし、浅井側に見えない徹底ぶりでした。

じわじわと小谷城を締め上げる織田軍・・・
一方の長政は、味方を次々と失っていきます。
比叡山延暦寺は焼き打ち、武田信玄は病死・・・

1573年8月、小谷城のすぐそばの支城・山本山城が信長に降伏・・・。
羽柴秀吉の巧みな調略によるものでした。
山本山城が陥落することによって、小谷城の裏に回れる・・・!!
山本山城降伏からわずか4日後・・・信長は勝負に出ます。
振りしきる雨をものともせずに、自ら手勢を率いて小谷城背後の要・大嶽城に攻め上ります。

8月27日、信長は総攻撃を命じます。
羽柴秀吉率いる軍勢は城下町を突破、谷から急斜面を駆け上がります。
京極丸の辺りに乱入!!
長政の父・久正の籠る小丸を攻めたて自刃に追い込みます。
滅亡を悟った長政は、妻・おとに三人の娘たちを信長の元へ送り出します。
そして自らは、最後まで残った家臣たちと共に本丸で打って出ます。
総攻撃開始から3日後・・・
1573年9月1日、小谷城城主・浅井長政は自決・・・28年の生涯を閉じました。
落城した小谷城は、秀吉に預けられましたが、琵琶湖湖畔にある長浜に新たな城が築かれると廃城が決まります。
この後、再び巨大山城が築かれることはありませんでした。
山城に立て籠れば守り切れるという戦国の常識が崩れた瞬間でした。
中世的な山城から近世の平城に・・・この転換を武将に決断させた大きなきっかけが小谷城の戦いでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

【新品】日本名城紀行 古城の魅力 日本の名城38 DVD8枚組 熊本城 小倉城 中津城 岡山城 松江城 高知城 金沢城 春日山城 駿府城 掛川城 松前城 五稜郭 白杵城 岡城 高松城 丸亀城 上田城 松代城 一乗谷城 小谷城 備中松山城 福知山城 今帰仁城 中城城 伊予松山城 名古屋城

価格:1,980円
(2019/10/28 22:00時点)
感想(0件)

浅井長政と姉川合戦 その繁栄と滅亡への軌跡 (淡海文庫) [ 太田浩司 ]

価格:1,320円
(2019/10/28 22:01時点)
感想(0件)

歴史REAL織田信長 一族と家臣から迫る信長軍団の全貌 (洋泉社MOOK)

価格:1,296円
(2018/5/7 05:21時点)
感想(1件)



戦国の世、天下を手中にすべく、尾張の国から突き進んだ織田信長。
非道ともいわれる行為を尽くし、自らを魔王と名乗った男が恐れた武将がいました。
越後の龍・・・上杉謙信です。
そんな二人が同盟を結びますが、最初にして最後の戦いを迎えることとなります。
そんな二人の関係とは・・・??

織田信長と上杉謙信・・・対照的な武将です。
自らを魔王と名乗り、天下を取るためなら比叡山焼き討ちなど、手段を選ばなかった織田信長。
片や、毘沙門天の化身と名乗り、関東管領として義の戦いを繰り広げた上杉謙信・・・。
二人が激突するのが1577年手取川の戦いです。
信長軍と謙信軍の最初で最後の戦いとなりました。

1534年尾張の国で生まれた織田信長・・・
1560年桶狭間の戦いで海道一の弓取りと言われた今川義元を討ち取ります。
隣国美濃への侵攻を進め、戦国時代の主役に躍り出ようとしていました。
上杉謙信は、信長よりも4歳年上・・・
1530年越後の守護代の家に生まれた謙信は、下剋上で守護の座を勝ち取り、1560年には大軍を率いて関東に侵攻。
翌年には、小田原城を包囲し、関東管領に任じられます。
1561年の第四次川中島の戦いでは、北に領地拡大を目指す武田信玄の軍に強烈な打撃を与えました。
天下統一・・・その偉業に最も近いものが上杉謙信でもありました。

謙信と信長の交流が生まれたのは、1560年のこと。
信長の方から接近しました。
信長は、息子を養子に差し出し申し出をしています。
それを受け入れてくれた謙信に対して・・・
「大変ありがたい事です。
 これからも御指南をいただきたく、ご相談させてください。」と徹頭徹尾へりくだっています。
どうしてへりくだる必要があったのでしょうか?

信長の狙いは、謙信の強さを恐れていました。
当時、関東管領の謙信と良好な関係を築くことは、武田の甲斐・信濃をけん制するという意味でもありました。
信長は、謙信にへりくだりながら、謙信の宿敵・武田信玄にも度々書状を送り高価な贈り物を届けていました。

一体誰がこの戦国の世に終止符を打ち、天下を治めるのか??
武将たちがしのぎを削る中・・・三好家家臣・松永久秀らが、室町幕府第13代将軍足利義輝を殺害しました。
間一髪で脱出した弟・義昭は、各地を転々とし、将軍の座に就こうと上洛を画策します。
この時義昭が頼ったのが、上杉謙信でした。
義昭は、上洛する為に、力を貸すように求めます。
しかし、当時の謙信は、武田、北条と戦いが続いていて、西に兵力を割くことができません。
義昭の要望に応えることができませんでした。
そんな謙信に代わって、義昭を上洛させたのは、誰あろう織田信長でした。

1568年、信長は義昭と共に上洛を成し遂げようと動きます。
この時、信長は謙信に書状を送り、義昭を奉じての上洛を説明しています。

「公方様御入洛の供奉の儀うけかい申す」

自分は義昭の上洛を請け負っただけとし、天下のために謙信殿も奔走されることを希う・・・と、謙信への配慮をしました。
自分の抜け駆けではなく、謙信に代わって室町幕府のために成したと弁明しています。
しかし、謙信が領地争いに忙殺されている間に、自分が一気に京都を抑えてしまおう・・・
謙信は、心の底では、悔しがっていたのではないか??

信長は、足利義昭を15歳将軍に就任させ、天下取りに向けて謙信に一歩先んじることとなります。
しかし、謙信を警戒・・・そこには理由がありました。
生涯の戦歴を比べると・・・
信長・・・214戦154勝48敗12分・・・負けない確率78%
謙信・・・108戦64勝7敗37分・・・・・負けない確率94%
この驚異的な数字は、信長が謙信を恐れた理由でした。
当時、周囲が敵だらけの信長にとって、謙信は絶対的にしてはならない相手だったのです。

どうして謙信は強かったのでしょうか?
負けない戦をする・・・軍略は自身が最前線で戦い統率力があったこと、兵士がお金で雇われたものではなく越後のために同意を得た民兵であったこと・・・が挙げられます。
信長は、戦に強いイメージがありますが、苦戦、敗戦が多く、信長は戦の人ではなく外交の人でした。
そして、戦う目的が違いました。
信長は自分の領土拡大のために戦いましたが、謙信は助力を乞われて・・・”義”のための戦いだったのです。
そんな欲のない戦いをする謙信に恐れを抱いていたのかもしれません。

足利義昭を奉じて上洛した織田信長・・・強引な手法がアダとなったのか、様々な困難に直面します。
その一つが、将軍・足利義昭との亀裂でした。
京を実質的に支配した信長は、義昭の実権を奪う五か条の要求をします。
その内容は・・・

天下の儀は信長に委任されたし
信長の添え状なしに、諸侯に書状を出してはいけない
今までの義昭殿の命令はすべて無効

などといったもので、義昭を名ばかりの将軍にしようとしたのです。
義昭は・・・将軍としての権力を保とうとして反発し、二人は対立することに・・・
義昭は、信長に対抗する為に、各地の大名に檄を飛ばします。
本願寺・筒井・浅井・朝倉で、信長包囲網を作り上げます。
そこには手ごわい敵も・・・大名以上に力を持っていると言われていた比叡山延暦寺も・・・
比叡山は、浅井・朝倉と連携し、苦戦を強いられた信長は、講和を申し入れますが聞き入れられなかったため、最終的には焼き討ちに・・・僧兵だけでなく、信者たちまで殺戮します。

信長は延暦寺に続いて、一向宗・・・石山本願寺との戦いに挑みます。
ところが本願寺との戦いに大苦戦!!
信長は、全国の一向宗門徒を敵に回すことに・・・。
遂に、友好関係にあったはずの武田信玄が将軍義昭の檄によって、二部長包囲網に参加。

1572年、西に向けて進軍開始!!遠江に侵攻・・・ここは徳川家康の領地・・・家康が負ければ、次は信長の領地です。
この瞬間、信玄は川中島で戦っていた謙信だけではなく、信長の敵となりました。
そこで、11月、遂に信長と謙信は、信玄に対抗すべく同盟を結ぶことに・・・!!
しかし、それでもなお信玄は西に進軍を止めようとはしません。
迎え撃った信長・家康連合軍は、三方ヶ原の戦いで大惨敗!!

信長は絶体絶命の窮地に・・・!!
ところが武田軍は、進軍を中止し甲斐に・・・
信玄が戦いのさ中、死去したのです。
天運によって危機を脱した信長・・・しかし、新しい畏れが・・・謙信の上洛です。

信長は謙信の上洛を恐れていました。
それは、自ら実権を握るというのではなく、室町幕府の復権を望んでいたからです。
武田信玄の宿敵の為、上洛できなかった謙信・・・
しかし、信玄の死によって、上洛のチャンスが・・・!!

もし、謙信が上洛するとなれば、信長との戦いは避けられない・・・。
信長包囲網も勢いづいてしまう・・・。

そこで信長は、謙信へ贈り物・・・「上杉本 洛中洛外図屏風」です。

応仁の乱で荒れ果てていた街並みが復興した京の町を一望する視点で描かれています。
京の夏を彩る祇園祭の山鉾・・・朝廷の貴族・・・武士・・・子供達・・・
描いたのは、当時随一の絵師・狩野永徳。
将軍家の御用絵師だった永徳は、足利義輝の死後、信長が新しい後ろ盾となっていました。
絵を送られた謙信は、喜んだといいます。

洛中洛外図は信長が描かせたものではなく、足利義輝が謙信に贈るために書かせたものだと言われています。
将軍が贈ってくれるはずだったものを、代わりに贈ってくれたことが、嬉しかったのです。

謙信は信長包囲網に加わることなく、越後を動くこともありませんでした。
そして・・・この屏風には、謙信の心を打つメッセージが・・・

義輝は、どうして永徳に絵を描かせたのでしょうか?
室町幕府足利将軍邸に年始の挨拶にやってきた行列・・・
輿に乗って将軍に挨拶にやってきているのは、謙信だといわれています。
江が完成した1656年、謙信は、この時すでに2回目の上洛を果たしていました。
将軍義輝に際し、全面支援を約束していました。
そんな謙信に対して・・・もう一度京の都に来てほしい・・・そして、将軍を中心とした秩序を取り戻そうではないか・・・
義輝から謙信へのメッセージが隠されていました。
この屏風に深い思い入れを感じたことでしょう。

しかし、二人の同盟は長くは続きませんでした。
織田信長は天下統一を目指して、しかけます。
信長包囲網の首謀者である足利義昭を京都から追放!!
越前・朝倉、北近江・浅井を攻め、一気に滅亡へと追い込み領地を拡大!!
越前の上杉謙信の近く・・・加賀まで侵攻して来ようとしていました。
そんな時、同盟を結んでいた謙信が思いもよらない行動にでます。
信長との同盟を破棄!!
この時、二人の緩衝地帯は能登・加賀・越中でした。
どうして謙信は同盟を破棄して信長と戦う決断を・・・??

信長と戦ってきた石山本願寺が、謙信に和解を持ちかけてきたのが大きなきっかけでした。
謙信が越後を離れられない大きな要因に、一向一揆がありました。
越後の隣、越中と加賀に立ちはだかっていたのです。
しかし、対立していた石山本願寺と和解したことで、一向宗が謙信の味方となり安全なルートが確保されました。
謙信にとって、朝倉家を滅ぼして、越前までやってきた信長は、脅威となっていたのです。

1577年閏7月、謙信は畠山家の本拠地である能登・七尾城に進軍!!
この時、畠山家は城主の春日丸が幼かったので、実権を握っていたのは重臣の長綱連と遊佐続光でした。
謙信の侵攻に直面した二人の意見は対立!!
信長に援軍を求めるのか?謙信に下るべきか??
意見がまとまらない中、長綱連は安土城の信長に援軍を求めます。

信長は、今こそ能登を手中に治め、謙信をたたく好機として北陸軍の派遣を・・・柴田勝家を総大将に任命します。
1577年8月、5万の大軍が北庄を出陣します。
信長も後を追う準備を・・・!!
絶対に負けられない・・・総大将・柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、羽柴秀吉!!
しかし、信長はまだ安心できなかったのか、出羽・伊達輝宗に使者を送り、越後の反謙信勢力である本庄繁長と連携!!
背後を脅かすよう申し入れます。
万全の体制!!信長軍の負ける要素なし!!

しかし・・・思わぬ事態が・・・
最強の信長軍団が・・・
秀吉が勝家の指揮に異論を唱え・・・無断で陣を解いて引き上げてしまいました。
秀吉と勝家の間に何が・・・??
この時の二人はライバルで・・・勝家が、秀吉軍が活躍できないように後軍に回しました。
秀吉としても、活躍しても、それは勝家の活躍となってしまう可能性があったので・・・。

悪いことは二人の亀裂だけではなく、進軍が困難を極めます。
その頃、七尾城内では異変が起こっていました。
信長派の長一族が謙信派の遊佐一族に皆殺しにされたのです。
9月15日、七尾城開城。
謙信に開けわたされました。
この事実を知る由もない勝家・・・。
手取川を越えて、松任城まで兵を進めたものの、七尾城との連絡は途絶えたまま・・・。
謙信はさらに能登南端の末森城を攻め落とし、加賀を南下。
七尾城を目指して進軍する織田軍の動きを察知した謙信は動じることなく命じます。

「一騎一卒も活て返す事 有べからず」

そして高らかに次の春には、自らが上洛すると宣言するのでした。

織田軍と上杉軍との戦いで戦局のカギを握っていたのは七尾城・・・
しかし、上杉軍に取り囲まれ、謙信の手に落ちていました。
そうとは知らない織田軍の総大将・柴田勝家は、陣を構えた松任城で、大きな決断を迫られていました。
このままやみくもに進んで勝ち目はあるのか??
百戦錬磨の勝家は、撤退をすることに・・・!!
漆黒の闇の中、5万の織田軍が南へと撤退を始めました。

9月23日夜・・・加賀国・手取川・・・退却する織田軍に突然大軍が襲い掛かります!!
謙信率いる上杉軍でした。
上杉軍が奇襲をかけると追い立てられた織田軍は手取川へ・・・!!
川を渡って逃げようとするも・・・川は連日の雨のために増水し、荒れ狂っていました。
万事休す!!
この機を逃してなるものか・・・!!
猛追する謙信!!
討ち取られた織田軍は1000人余り!!
数えきれないほどの兵が激流に流されて溺死してしまいました。
しかし、これは偶然ではなく、謙信が手取川に来るまで待って増水した川を利用した・・・謙信の作戦勝ちでした。

さらに織田軍の敗退にはもう一つ理由がありました。
上杉軍は一向一揆を味方につけていたので、織田軍の動向が手に取るように解っていたのです。
謙信を手助けしたのが、加賀・一向一揆の門徒たちでした。
上杉軍の動きを悟られないように、織田軍に情報封鎖を行い、織田軍の動きを逐次上杉軍に伝えていたのです。

上杉に 逢ふて織田も 名取川(手取川)
       はねる謙信  逃るとぶ長(信長)

上杉軍とぶつかった信長が、まるで飛ぶように逃げ去ってしまった・・・と。

実際には、信長は手取川にはおらず、到着する前に負けてしまったと考えられています。
しかし、上杉軍はそれ以上織田軍を追うことはなく・・・
春日山城に帰っていきました。
季節はまもなく冬・・・本拠地である越後は雪なので、謙信は、地元に帰って春を待たなければならなかったのです。
もしかしたら・・・これが、謙信最大のミス・・・??雪国の宿命だったのかもしれません。
あまりにあっけない勝利に、謙信はこう書き残しています。

「案外に手弱の様体 この分に候わば
 向後天下までの仕合わせ 心やすく候」

織田軍の弱さを皮肉ったうえで、上洛は難しいものではないと豪語したのです。
謙信の上洛が実現することはありませんでした。
手取川の戦いの半年後・・・1578年3月9日、謙信は、居城春日山城で突然病で倒れ、4日後に49歳という生涯を閉じることとなったのです。

もし、二人が直接対決していたら・・・??

外交戦略では信長の方が上、戦いそのものは謙信の方が上、武将としての力量は、謙信の方が上??

信長軍を破った越後の龍・謙信の突然の死・・・
天は信長を見放してはいませんでした。
実の子がいなかった謙信の死によって、上杉家は後継者争いを招き、能登をわずか3年で信長に明け渡すことに・・・
謙信という最大のライバルがいなくなった信長は、勢力を伸ばし、天下取り目前まで突き進んでいきます。
しかし・・・手取川の戦いから5年後・・・1582年、本能寺の変で明智光秀によって無念の死を遂げ、その夢を絶たれたのです。
その時信長49歳・・・奇しくも謙信の亡くなった年齢と同じでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書) [ 天野忠幸 ]

価格:2,700円
(2018/5/7 05:21時点)
感想(0件)

上杉謙信の夢と野望 (ワニ文庫) [ 乃至政彦 ]

価格:779円
(2018/5/7 05:23時点)
感想(0件)

NHK大河ドラマ 軍師官兵衛 一

新品価格
¥1,512から
(2014/5/14 20:11時点)


播磨平定の為、官兵衛たちは三木城攻略に取り掛かっていました。
お~!!軍議を引っ張っております、官兵衛。
三木城の周りの要所要所に付城を40ほど築くそうです。
秀吉の大好きな兵糧攻めです!!

kan1












その奇想天外な調略に満足げな秀吉。

って、奇想天外なんだろうか・・・??
それすらもよくわからないのは私が詳しくないからだろうか・・・。

驚異的な速さで付城を作るあたり・・・
この辺ががやっぱり長けてるんでしょうね。
そういうところをぐんぐんぐんって、強調してほしいんです。
迫ってくるような演出で・・・

袋の鼠となった三木城の別所。

荒木村重は、急遽信長に呼び出されていました。

kan2












にっちもさっちもいかなくなっている石山本願寺・・・
おまけに万見仙千代に神吉藤太夫を見逃したことをチクられてしまいました。
でもそこには、その判断に間違いはなかったと、申し開きをする荒木村重がいました。

怒られると思いきや・・・
なんと慮って信じてくれた信長。

「上様の恩為、この村重身、命を賭して働きまする!!!」
あ~、フラグ立ってる、立ってる・・・!!

でも、荒木村重は、本当によく出来た人だったようです。
ここで殿も言っているように、天下を取るためには村重の力が必要だったのかも知れません。
謀反を起こして、早くに死んじゃうからなあ・・・。

そんな村重が、どうして謀反に及ぶのか・・・??
あ~、なんと不憫な。。。
本願寺へ兵糧を運んでいたのは自分の家中の者・・・??

kan3












おまけに・・・当たり前でしたが、誰が門徒で誰が門徒でないのか・・・??
そんなことはわからないので、余計に始末が悪い・・・

上様には釈明は通じない・・・敵わないのでは・・・???という中川清秀。。。
あ~、ピンチです。
どうする??村重!!

そんなこんなが細川藤孝から殿のお耳に入ってしまいました。
信じない信長・・・。それだけ村重を信じていたんでしょうね。

村重との縁続きである明智光秀に真偽を問います。
が・・・寝耳に水のようです。
村重の縁者??聞き逃しそうにすらっと言いましたが・・・
光秀は、自分の娘を村重の嫡男・村次の妻に入れています。
織田家中の中ではどちらも新参者のふたり・・・
もう一つの共通点は、摂津は石山本願寺&丹波は波多野氏どちらも手ごわく・・・どちらも要所なのです。

kan4












確かめさせるために・・・有岡城へ仙千代・光秀を向かわせる信長。

有岡城が謀反を起こせば今までの苦労が水の泡・・・!!
って、宇喜多情報を知らなかった官兵衛ですが。。。
どうよ!!本当に知らなかったんだろうか???
って思っていたら、半兵衛、たおれちゃいました。

kan5












場面代わって、村重が申し開きをしても・・・仙千代は信じてくれません。。。
あくまでも噂なのに・・・追い込まれていく信長。。。
もう一度安土に申し開きを・・・。

と・・・しかし、信長に二度はない。。。かも知れない・・・
毛利と天下をとる???
疑心暗鬼な村重。。。
生き残るためにはどうすればいいのか・・・!!

謀反を止める高山右近!!
って、これは史実みたいです。

なのに・・・きれちゃいました。
「わしは・・・信長を信じることは出来ぬ!!
 天下布武などまやかしだ!!
 わしは信長が作る世など見とうない!!
 これより我らは織田信長を討つ・・・!!」

う~ん、準備の全くない・・・勝てる見込みのない戦いですが・・・
信長に珍重されていた村重・・・まさに突如の謀反です。

可哀想です、村重。。。
中川清秀に炊きつけられたわけですが・・・
彼はこの後、高山右近と信長に下ることになります。
とっても厭らしいんです。

やっぱり正直にまっすぐなだけでは、天下人にはなれないのね。。。
次回の村重が・・・
そして、官兵衛にとっても踏ん張り時がやってきました。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 軍師官兵衛 (NHKシリーズ)

新品価格
¥1,026から
(2014/5/14 20:12時点)

黒田官兵衛歴史読本―大河ドラマ『軍師官兵衛』の主人公波乱に満ちた生涯と (別冊歴史読本 1)

新品価格
¥1,296から
(2014/5/14 20:13時点)

このページのトップヘ