日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:石山本願寺

中世瀬戸内海の仏教史 村上水軍の本拠地芸予諸島を主として

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1576年・・・天正4年7月・・・ 安土城で・・・
織田信長が怒り心頭していました。
その相手は海賊。。。
長篠の戦で武田勝頼に勝利、天下統一を目前の信長でした。
大坂の・・・木津川口の合戦・・・

毛利水軍VS織田水軍です。
毛利の主役は、瀬戸内海の海賊たちでした。
機動力に長けた小舟を使います。
秘密兵器は焙烙玉と呼ばれる手榴弾。。。
この威力に織田水軍は殲滅されてしまったのです。
向かうところ敵なしの信長を震撼させたのは、日本一の海賊大将・・・
村上水軍の村上武吉でした。

古来海賊達は、海の荒くれ者として怖れられていました。
10世紀には・・・紀貫之が土佐日記で。。。
”海賊の恐怖で髪も白くなる・・・”と書いています。

しかし・・・
村上海賊の旗は、瀬戸内海におけるパスポートでした。
海賊こそが、航海の安全・秩序を守る海の管理者だったのです。
日本の実在の海賊は・・・よくある物語のパイレーツとは別物で、しかし、海洋国家の日本にとっては海の勢力を抜きにして日本史は語りきれません。

港を押さえ、お金を取りたて秩序を守る・・・
社会的な役割を果たす、必然であり必要な存在だったのです。

14世紀・・・最果ての地に幻の海の民がいました。
青森県津軽半島、十三湊・・・大津波で一夜にして滅んだと言われていました。
1996年の発掘調査で・・・当時のままの姿が出て来ました。
南北2キロの道路に・・・整然と当時の町が並んでいました。
朝鮮半島の高麗青磁・中国の天目茶碗・タイの陶磁器も発掘されました。
十三湊の交易範囲はアジア全域に渡っていたことが分かります。
西の博多に匹敵するほどの港でした。
そこを一手に担っていたのは安藤氏。
日本海で活躍していた安藤水軍です。
が・・・16世紀以降忽然と消えてしまいました。


瀬戸内海でも海賊が台頭していきます。
そこには塩が関係している???
愛媛県弓削嶋は・・・中世・・・京都の東寺の荘園で、古くから塩づくりが盛んでした。
東寺に塩を献上していたのです。
京都の貴族や寺社勢力は、瀬戸内海に塩を作るための荘園を置きました。
大量の塩を運ぶための武装集団として発達してきたのです。
これが海賊の台頭の契機と言われています。
939年の藤原純友の乱は、最初の海賊の氾濫でした。
数千艘の船団で博多に現れ、大宰府を陥落。

12世紀末・・・1185年の壇ノ浦の戦いで・・・
水軍の平氏に対して馬の源氏と言われていましたが。。。
源氏は四国の海賊を味方につけます。
さらに・・・平氏方だった和歌山の熊野水軍を寝返らせ味方につけるのです。
壇ノ浦の戦いになると、源氏は船舶数でも勝っていたのです。
源平合戦の勝敗を分けたのは海賊だったのです。
海賊は大軍団ではないものの、要所を握っていたのです。

戦国時代に入って・・・
瀬戸内海の海賊が力を拡大していきました。
芸予諸島の3つの島を拠点にしていた三島村上水軍(因島・能島・来島)が最も力を拡大していきます。
当時最短で瀬戸内海を航行するためには、どのルートを使ってもこの拠点は通らなければなりません。
中でも能島村上氏は瀬戸内海最強の海賊集団でした。

棟梁は村上武吉。
ポルトガルの宣教師も日本一の海賊と言っています。
後に信長・秀吉を怖れさせることになります。

彼らを知らしめたのは・・・
1555年の厳島の合戦。。。
中国地方の覇権を争う陶氏と毛利元就・・・
村上水軍は、毛利方に味方をしました。村上水軍は、夜陰に紛れて船300艘で毛利軍を陶氏の背後に送ったのです。
この事が村上水軍の名を天下に轟かすことになりました。
村上水軍の強さの秘密は???
能島の当たりは瀬戸内海の中でも最も潮流の難しい場所・・・
「舟に乗るより潮に乗れ!!」
エンジンもない時代・・・この天然の要塞・能島に近づくことは無理でした。
村上水軍の”子早”は小回りが利き、機動力に長けていました。
そして特殊な武器・・・”熊手”です。
相手の船をひっかけて引き寄せて、相手の船に乗り込み白兵戦に持ち込むのです。
鎖帷子は・・・海に落ちた時を考えて、薄く、軽く作られていました。
戦術書によると・・・布陣図が・・・布陣図を変えながら戦うことを得意としていました。
能島全体に岩礁ピットが作られていて・・・その数400以上。
能島の高台には・・・三の丸・二の丸・本丸があり、平時にも利用できる万能な城だったようです。

この財力は・・・
帆別銭です。
一定の場所・・・海の関所(秋穂・上関・塩鮑本島)を通過するときに、帆の大きさに合わせて額を変えたお金を徴収していたのです。
そして、支払ったものには、村上水軍の旗を与えていました。
上乗り。。。
船に海賊を乗せると安全が保障され、終着点で警固料を徴収していました。
荒くれ者のイメージが強い海賊ですが、平時は経済活動や交易の舞台となっていたようです。
優れた統率力と、経済力を持ち合わせていたのです。


1573年7月13日・・・大坂湾で・・・
毛利と村上海賊の大船団がやってきました。
待ち受けるは織田水軍・・・
第一次木津川口の合戦です。

海賊だった武吉が信長と闘うことになったかというと・・・
天下統一を目指す織田軍の最大の敵となったのが一向宗・石山本願寺・蓮如でした。
6年もの間抵抗を続け・・・信長は手を焼いていました。

本願寺を兵糧攻めにしようとした信長・・・
困窮した本願寺は、門徒宗の多かった毛利輝元に援助を要請したのです。
毛利家は10万石の兵糧米を申し出ます。
この運搬と、これにみ合う海上戦に強い集団・・・それが村上水軍だったのです。
船団は一路大坂へ・・・!!
村上水軍の大活躍で、織田の船団は焙烙玉で炎上・・・
毛利家は、石山本願寺に兵糧米を入れることに成功!!
射手舟⇒焙烙船⇒武者船⇒道具船を駆使した村上氏の名前は天下に轟くのでした。
信長は、天下統一には水軍力は欠かせない!!と、思う戦いとなったのでした。

1578年11月織田が石山本願寺に!!
第二次木津川口の合戦の始まりです。
村上水軍になすすべもなく敗北していた織田軍は、その轍を踏まない様に・・・
尾張の海賊の棟梁・九鬼嘉隆を使います。
九鬼嘉隆は、伊勢志摩の海賊衆の棟梁で、信長の水軍創設に尽力しました。

信長は、焙烙玉対策をさせます。村上水軍に対峙した織田軍団の船は、鉄板に囲まれた軍船・・・鉄板装甲軍船でした。
この船を6艘建造したと言われています。
村上水軍の焙烙攻撃も歯が立たず・・・
さらに、機動力対策も・・・!!
大砲を使って狙い撃ち・・・村上水軍は敗退を余儀なくされたのでした。

信長は、村上水軍の海軍力を傘下に入れようと画策します。
それを仰せつかったのが秀吉。。。

「私事を捨てて分別を持って東方に忠節を尽くしてほしい」

書状が武吉に届きます。

しかし、武吉は海の民のプライドを持って断固拒否!!
信長と距離を取ります。
天下が秀吉に移って・・・
秀吉は、毛利輝元と和睦を結び、四国・九州を平定したことによって、四方を秀吉勢力に囲まれてしまった武吉。。。
追い詰められ・・・秀吉は止めの一撃として・・・海賊停止令を出します。
そこには海賊の取り締まり・・・さらに船頭や漁師・・・船を操れる者を地頭や代官がリストアップし、秀吉に報告させたのです。
海賊の自立性・自治を全部否定するものでした。

この海賊停止令を機に、通行料の徴収も禁止され、海賊たちは自立して生きる術を失っていくのです。
村上海賊衆は歴史の表舞台から忘れ去られ、姿を消していくことになるのです。
1600年、関ヶ原の戦いで毛利が破れ、山口県の周防に移住させられます。
そこに村上武吉の墓がありました。

”誇りを忘れるな!!”

1604年村上武吉死去、享年72歳でした。
ここに・・・海賊たちの時代は終わりを告げたのでした。

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「敵は本能寺にあり!!」

しかし、この数年前まで、光秀は信長にとって最も信頼できる家臣でした。
明智光秀は、信長の家臣の中で一番最初に城持ち大名となりました。
その働きは凄まじく、軍事から朝廷まで、あらゆることに働き・・・
信長は三成のことを「粉骨の度々の功名比類なし」と言ったほどです。

家臣の筆頭格としてありました。

織田軍団にあって、スーパーエリートだった明智光秀、何故本能寺の変を起こしたのでしょうか?
そこには信長と光秀の・・・長きにわたる因縁の関係がありました。

それは・・・天下人・信長を生み出した明智光秀・・・光秀は足利義昭の家臣でもあったのです。

本能寺の変の時・・・信長49歳・秀吉45歳・光秀は54~55歳だったと言われています。
もっと年上だったかもしれません。
もともとは朝倉家や将軍家・・・いろいろと浪人時代も長い苦労人です。

明智光秀は、武将として優秀なのはもちろん、将軍家との交渉や朝廷との交渉・・・外交能力にも長けていました。
そして、領地を治める才能も・・・すべてを持っている武将でした。

光秀は、美濃の守護・土岐氏の一族の出身と言われています。
斉藤義龍によって国を滅ぼされ、諸国を放浪しながらさまざまな知識を習得しました。6年にも及ぶ流浪の末、朝倉家に仕えたものの、義景は凡人で、光秀の才能に気付くことなく官職にあえいでいました。
40歳頃だった光秀、人生はこんなもんかと思っていた時、思わぬチャンスが・・・
足利13代将軍・義輝が、松永久秀と三好一族に殺されるという事件がおきました。
弟・嘉昭は京を逃れ・・・朝倉家に助けを求めてやってきました。

放浪中に、足利家の側近と親しくなっていた光秀は、動き出します。

足利義昭は、朝倉義景に京に上洛し、自分を将軍につけてくれるようにと頼みます。
が・・・実力も野心もなかった義景・・・

イラつく義昭側近の細川藤孝に近づいた光秀は、進言します。
「朝倉に頼んでも・・・
 今の朝倉には、武力も知略もかけております・・・

 尾張・織田信長!!
 義昭様が後ろ盾として頼るべきは、この者をおいて他にはございませぬ!!」

当時、終わりを平定し、勢いに乗る信長・・・なぜ信長だったのか???
光秀は、信長の正室・濃といとこの関係にありました。
自分が交渉役に・・・という計算があったのかもしれません。

そして、信長は実力主義者・・・
それまでは、家とは同族会社のようなもので、縁故なものしか入ることが出来ませんでした。しかし、信長は、実力のあるものを採用します。
傭兵のような形になったのは、信長からなのです。

足利幕府再興の為に・・・

足利義昭は、自らの使者として光秀を信長のもとへ・・・
天下を狙う信長にとっては、渡りに船のことでした。
同時に信長は、光秀の才能を見抜き、自らの家臣となるように勧めたのです。
1568年明智光秀を介して信長は、足利義昭に会うことになります。
そして、その2か月後には上洛、3か月後には義昭を15代将軍に押し上げました。

わずかの間に現実となった天下統一・・・信長の全国デビューの仕掛け人は、明智光秀だったのです。

そして、足利義昭の側近と共に信長の家臣という、異例の処遇を受けます。
信長からは、京都奉行を任され、朝廷や公家たちの接待を任されます。
新参の家臣としては、異例の抜擢です。

学識があり、和歌も読める。京都で通用するのは光秀。。。

しかし、やがて2君に仕えたことが、光秀の苦悩となっていきます。

義昭と信長・・・その橋渡しをすることで立場を守ってきた光秀・・・
しかし、2人の間に対立が出来てきます。

将軍になったからには自らがTOPとなれると思っていた義昭。
そんな義昭を、天下取りの道具としか思っていなかった信長。

光秀は二人のはざまで・・・

義昭は将軍として、各地の武将たちに書状を出し始めます。
これを苦々しく思った信長は・・・
「諸国へ御内書を以て
 仰せ出さるる子細あらば
 信長に仰せ聞せられ
 書状を添え申すべき事」
と、厳しく制限します。

この五箇条の条書には、光秀も承認役として・・・義昭を説得します。
義昭の為に信長を推薦した光秀が、義昭を説得する・・・
その心中は複雑だったでしょう・・・

それに反発した義昭は、武田・朝倉・浅井・比叡山・石山本願寺などに信長討伐を!!と、考え始めました。

将軍の統制のもとに世を治めるのがわが理想・・・
しかし、今の将軍家には、名こそあれ力はない・・・
力を持っているのは信長様・・・
私の出世は・・・
名を取るか、実を取るか・・・
結局光秀は、信長の家臣であることを選びました。

比叡山攻めを高く評価してもらった光秀は、信長から滋賀県大津にある坂本城を与えられます。光秀は、信長の家臣の中で、一番最初に一国一城の主となったのです。
信長の最も近いところに守っている光秀は、信長の近衛軍団でもありました。
最も信頼しているからなればこそでしょう。

坂本は、比叡山の門前町として栄えていました。
信長は、町中にも火を放ち・・・山へと追いやったのですが・・・
今でも光秀の評判はいいようです。
西教寺を再興し、ここを菩提寺にしました。
自ら滅ぼした寺を、自らの手で復活させたのです。
この地の人は、今、光秀の名誉復活の活動をしています。

光秀は西教寺以外にも、町を復興しています。
比叡山攻めは、彼の本心だったのでしょうか???

この頃は、信長の家臣であったものの、義昭からのラブコールもまだありました。
そんな中、1572年武田信玄が上洛に動きます。

信長に最大の危機が!!

この時、足利義昭から光秀に・・・
「将軍家に尽くさば 美濃の守護に任じる」
という書状が届いたと言います。

光秀は・・・
天下の主導権は信長にあると解っていました。
だからこそ義昭に、和睦を薦めます。

結局義昭は・・・
1573年信長に京を追放されてしまいます。
理想を棄てて、実利を取った光秀でしたが・・・

信長の家臣として粉骨砕身頑張る光秀。
1579年4年がかりで丹波の国を平定、その間も、近畿方面の様々な戦いに援軍として参加(越前・伊丹・石山本願寺・雑賀)、京都での朝廷との交渉もしていました。
まさに、“粉骨のたびたびの功名比類なし”です。

が・・・信長はリストラもどんどんしていきます。
古参の佐久間信盛は・・・
「光秀の功名は聞こえど、おぬしの功名は一度も聞いたことがない。
いっそのこと討ち死にするか、剃髪して高野山にでも行け」
と、追放してしまったのです。

古参に対しても容赦のない信長・・・
存分に働けるうちはいいが、働けなくなったら・・・???
自分もいつ切り捨てられるか・・・

事実、丹波平定の後、3年間は戦働きの任を与えられませんでした。
1582年信長は武田氏を滅ぼします。が、光秀に参戦の機会なし。
そうした焦りからか・・・戦勝祝いの席で・・・
「これでわれわれも骨を折ったかいがあった・・・」
これを聞いた信長は・・・
「お前に何の骨折りがあった!!」
と、激怒!!幾度も光秀の頭を欄干に打ち当てたとか・・・!!!

本当でしょうか???
これは後世の作り話だとか・・・???
かなりの屈辱です。
1582年3月・・・本能寺の変の3か月前のことでした。

急速に狂い始めた歯車・・・
1582年5月、信長は、長宗我部元親の討伐を決意します。
実は、光秀は、長宗我部と長年友好関係にありました。
しかも、討伐軍は、光秀ではなく三男の信孝でした。
光秀から息子たちへ・・・世代交代を始めていたのでしょうか?

5月12日誕生日に、信長は、「神格化宣言」を配布します。
同時に、信長の非情さも激しくなっていきます。
殺戮に対しての躊躇が無くなっていきます。

5月15日光秀は、安土城にやってきた徳川家康の饗応接待役を務めます。
しかし、6日後・・・5月21日には秀吉の援軍を命じられるのです。
その際・・・光秀の領地だった丹波を召し上げ、毛利領である出雲・石見を与えると告げたのです。
この国替えは、光秀にとっては左遷人事に思えたでしょう。

運命の6月1日、丹波亀山から1万の兵を従えた光秀は、中国地方に向かわずに京の本能寺へ・・・
どうして光秀が・・・
主君を討つには相当の覚悟がいったことでしょう。
しかし、足利義昭に引き合わせたのは自分・・・
そのことで、尾張の一地方から天下の織田信長としたのは自分だった・・・
そんな後悔の念があったのかもしれません。
その後悔の念が、光秀を本能寺に向かわせたのかもしれません。

討ち取った後、友人への手紙には・・・
「信長親子の悪虐は天下の妨げ討ち果たし候」
と送っています。


信長を討った光秀は、中国から取って返した秀吉によって三日天下で終わります。
しかし・・・京都には、光秀の首塚が残されています。
そして・・・
明智光秀は、理想主義と現実主義を兼ね備えた武将でした。
文武両道で引き出しも多く、やるとなったらあらゆる仕事をパーフェクトにこなす、主君にとっては理想的なNo,2だったと言えるでしょう。

しかし、そんなスーパーエリートこそが、キレやすく壊れやすい・・・
理想と現実をバランスよく保っていられるほど、人は強くないのです。


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