日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:石田三成

今からおよそ420年前の9月15日、日本中を巻き込んだ天下分け目の大決戦がありました。
関ケ原の戦いです。
その裏には、武将たちの数々の駆け引き、裏切り、決断がありました。
両軍合わせて10万という大スケールの戦い・・・
3人の人物を通してその実像に迫ります。

岐阜県の関ケ原・・・
東軍を率いる徳川家康、西軍を率いる石田三成・・・全国の大名が東西に分かれ、日本を二分する戦いでした。
勝った家康は、その後260年続く江戸幕府を開いて歴史を変えました。
しかし、その勝利は紙一重でした。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

関ケ原から東へ12キロの大垣市・・・西軍を率いた石田三成は、合戦の前日までここにいました。
水運に恵まれ。古くから栄えていた大垣・・・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を終えた地です。
川に囲まれた地形で、それが三成が大垣に拠点を置いた大きな理由です。

1560年、石田三成は現在の滋賀県長浜市で下級武士の子として生まれました。
三成は次男で家督を継がないため、幼いころから寺に預けられました。
勉強熱心だった三成は、15歳で豊臣秀吉と運命的な出会いをします。
鷹狩の途中で寺により、茶を所望した秀吉・・・
三成は、わざとぬるい茶を出しました。
喉の乾いていた秀吉が、一気に飲めるように考えたのです。
しかし、二杯目、三杯目になると、温度は熱く、量は少なめにしました。
この心遣いに感心した秀吉は、寺から家来として取り立てるのです。

算術も得意だった光秀は、領国経営にも力を発揮します。
秀吉が天下統一を果たすころには、全幅の信頼を得ました。
太閤検地、刀狩りの事業、朝鮮出兵では総奉行を務め、物資の補給に力を発揮しました。
ある大名は、三成のその仕事ぶりを・・・
「三成は豊臣政権の中心人物である」by毛利輝元
しかし、順調だった三成の人生に逆風が吹き荒れます。
1598年、主君・豊臣秀吉が死去
秀吉の意志を継ぎ、豊臣政権を発展させようと思っていた三成・・・しかし、ある武将が天下取りへの野心を露にしました。
徳川家康です。
「天地の格は定まりたることなきものなり」
天下は強い者の持ち回りというのが持論の家康・・・
有力大名と政略結婚を画策し、勢力拡大を図ります。
しかし、これは秀吉が生前禁じていた行為・・・
三成は、秀吉の禁止を破る家康に、強い警戒心を持つようになっていきます。
しかし、1599年3月、三成は思わぬ事件で足を救われます。
朝鮮出兵の温床に不満を持っていた武将たちが、三成を襲撃します。
恩賞を決めたのは秀吉でしたが、伝えたのが三成だったので、不満が三成への反発となったのです。
双方の仲介役となった家康は、この機に乗じて三成を政権中枢から外そうとします。

「秀頼公のため、世情を安定させる」by家康

三成は、混乱を招いた責任をとって、自らの居城である近江の佐和山城へ蟄居します。
佐和山城からほど近くの龍潭寺は、三成ゆかりの寺です。
ここに、三成の人柄を表す貴重なものが残されています。
三成の居城・佐和山城で使われていた板戸です。

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表は桜舞で非常に華やかですが、内側は質素に作られています。
表はお客が通るのでそれなりの絵ですが、自分たちの部屋側は、質素だったのです。

三成は蟄居している間も、大坂城の家康の動向を探っていました。
三成を追い出し、実権を握った家康は、独断で大名に領地を与えるなど、政権を意のままに操ろうとしました。
しかし、蟄居のみでは、三成はどうする事もできません。

ところが、1600年6月・・・三成に千載一遇のチャンスが・・・!!
会津の有力大名・上杉景勝に謀反の疑いありと、会津討伐のため家康は大坂城を離れます。
この時三成は、同志と共に全国の大名に書状「内府ちがひの条々」を送ります。
13か条にわたって、家康の罪を糾弾したのです。
三成はさらに、中国地方の大大名・毛利輝元を総大将にして家康討伐の軍を組織・・・9万を超える兵数を揃え西軍となります。

三成は、関東から引き返してくる家康を迎え撃つために、大坂から岐阜方面に進軍していきます。
一方、三成挙兵の知らせを聞いた家康は、会津討伐を中止し、急遽軍議を開いて諸将に自分につくように約束を取り付けます。
その数9万・・・家康率いる東軍が誕生しました。
三成は、岐阜城と大垣城を結ぶラインを防衛線としました。
そして、関ケ原の戦いの1か月前の8月11日・・・西軍は、大垣城に入城します。

三成はどうして大垣城を拠点としたのでしょうか?
家康が陣を置いたのが大垣城のおよそ4キロ先・・・岡山という小高い丘でした。
三成が西軍の拠点を大垣城としたのは、水の都ならではの守りの堅さがありました。
揖斐川、杭瀬川、水門川に挟まれている地形を利用して、城下町に川から水を引き込んで、何十にも堀を作ることができましいた。
守りに特化した城でした。
大垣城を拠点に、決戦の準備をする石田三成・・・
しかし、9月14日思わぬ知らせが・・・
東軍の陣地・岡山に、徳川家康が着陣したのです。
これは、西軍の予想よりもはるかに速い到着でした。
動揺が走ります。
そこで三成の重臣・島左近が、奇襲作戦を進言します。
「今、東軍をたたけば、味方の動揺を抑え、士気を高めることができる・・・!!」と。
島左近は、隊を囮部隊と伏兵部隊に分ける作戦をとりました。
囮部隊が、両軍の境にある杭瀬川を越えて、東軍陣地に入り敵を挑発・・・わざと敗走します。
追い打ちをかけようと川を渡ってきた東軍を、伏兵部隊が狙い、一網打尽にしました。
この手痛い敗走で、家康は大垣で戦えば不利だということを悟りました。
逆に三成は、この戦いで大きく士気を高めます。
勢いに乗る三成は、ここで一気に東軍をたたく秘策を用意していました。
三成が用意した必勝の策とは・・・??

南宮山・・・南宮山は、西軍・毛利秀元の陣がありました。
ここから大垣方面が一望できます。
毛利のいた南宮山は、三成が大垣城に、徳川が岡山にいれば家康の陣を狙える要の位置となります。
さらに城跡には、大垣城決戦を裏付けるものが・・・!!
南宮山には切岸が作られています。
切岸とは、敵が登れないように人工的に作った急斜面のことで、敵が攻めてこれないようになっていました。
もう一つ・・・竪堀も作られています。
竪堀は、山の斜面を横切れないように造られた堀のことです。
関ケ原方面には何もなく・・・
三成は、どんな戦術を考えていたのでしょうか?

後詰戦法です。
東軍が大垣城を囲んで攻撃しようと展開したタイミングで、毛利が南宮山をおりて背後から攻撃し、挟み撃ちにすること・・・三成の秘策は、南宮山からの後詰戦法だったと考えられます。
こうした山城を作り、1か月にわたって準備してきた西軍・・・しかし、大垣決戦は幻となってしまいます。

9月14日夜・・・
石田三成の元に思わぬ知らせが・・・家康が大垣城を攻めずに、西へ向かい佐和山城を、大坂城を攻めるというものでした。
これを聞いた三成は、急遽陣を移すことに・・・陣を敷くのは関ケ原!!
史実では、西軍は守備隊だけを大垣城に残し、関ケ原に異動。
決戦は関ケ原で行われました。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

西軍は大垣城、東軍は岡山・・・
そして南宮山には後詰の為に毛利勢が控えています。
徳川家康にとっては攻めるのは簡単ではない・・・!!
川と堀がはりめぐらされ、攻略の難しい大垣城・・・家康ならその豊富な水を浸かって、水攻めに・・・!!
大垣は、川の堤防より低い土地・・・
度々水害に見舞われています。
明治29年には、7月と9月に集中豪雨で各河川で堤防が決壊、大洪水に見舞われています。
岐阜市から大垣市まで船で往来できるほど浸水したといいます。
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水害当時も水に浮かぶ大垣城の写真も・・・
豊富な水は、大垣城の強さでもあり、弱点でもありました。
西軍は後詰!!
毛利が一気に南宮山をおりてきます。
大垣城に近づいてきて・・・西軍も大垣城から出てきて・・・!!
東軍に属している人たちは、豊臣恩顧の大名が多く、家康に対して忠誠心はなく・・・寝返るものも出るかも・・・??
しかし、人望がなく・・・西軍の勝利・・・??


②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

関ケ原の戦いで、その名を後世に残した小早川秀秋・・・
武将とは思えないほどの優しげな表情です。
この時、19歳!!
東軍7万4000、西軍8万4000が激突した関ケ原の戦い、ここに参加した小早川秀秋は、最年少の武将でした。
しかし、その手には、巨大な兵力を握っており、勝敗を左右する絶好の位置に陣取っていました。
そのため秀秋は、両陣営の裏工作のターゲットとされたのです。

家康に味方し、地位と領地を得るチャンスを掴むのか??
三成に味方し、豊臣家での出世を狙いのか・・・??
人生最大の決断を19歳で迎えてしまいました。
小早川秀秋に付きまとう裏切り者のイメージ・・・
それは、関ケ原でのどんな行動からだったのでしょうか?

9月15日午前6時・・・霧が立ち込める中、大垣から移動した両軍は、布陣を終え、戦いの時を待っていました。
霧のはれた午前8時、井伊直正の鉄砲隊が、突然発砲し、戦いの火ぶたが切られました。
西軍の小早川秀秋は、関ケ原すべての武将の中でも最大の兵力1万1000を持っていました。
そして、東西両軍を見下ろす松尾山に陣取っていました。
西軍の指揮を執る三成は、のろしを上げて、秀秋に攻撃を合図します。
しかし、秀秋は全く反応せず・・・
正午過ぎ・・・秀秋は満を持して動き出します。
攻め込んだ相手は、大谷吉継・・・なんと、西軍の有力武将でした。
小早川秀秋の裏切りです。
この情報は、たちまち戦場を駆け巡り、東軍に寝返るものが続々と現れます。
こうして、勝敗の行方を決定づけてしまいました。

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

三成は、秀頼の出陣に当たって、関ケ原の人々に陣取りの案内、陣地作成の協力を依頼した書状を残っています。
普通は、家を燃やしたり、青田刈りをしたりしますが、事前に手紙を出しているところに、三成の思いやりが出ています。
関ケ原の戦いは、地元の農民にも一大事でした。
大切なコメを作る水田が戦場となるのです。
おまけに米の収穫時期と重なっていました。
三成からのお達しを受けた農民たちは、例年より米を早く収穫。
そして、本体が移動してくると陣地設営に協力します。
戦いが始まってからは、山中に逃げ込んで、戦いを見物していたといいます。
農民たちが見た戦いとは・・・??

三成が陣を敷いた笹尾山からは、関ケ原が一望できます。
味方はもちろん、敵の動きも手に取るようにわかります。
しかし、笹尾山から家康の桃配山は見えません。
家康は、最前線から遠いここで戦況を見守っていたのです。
しかし、戦いが始まって3時間後・・・一進一退の戦いにしびれを切らした家康は、遂に本陣を前線に移していきます。
桃配山から前進してきた家康・・・三成の笹尾山まで800mのところに陣取りました。
家康が見える・・・!!
家康を攻める絶好のチャンスが到来しました。
三成は、松尾山の秀秋に狼煙の合図を送るものの、一向に動きません。
大鵬も用意していた三成・・・優位だったのは西軍でした。
カギを握っているのは、松尾山に陣取っている小早川秀秋・・・!!

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

小早川秀秋は、1582年、近江に生れます。
父親の名は、木下定家、叔母はおねでした。
そのため、幼いころに、子供の頃に子供のいない秀吉夫妻の養子となりました。
秀秋は、秀吉の世継ぎとして育てられ、おねからも、深い愛情をもって育てられます。
恵まれた環境の中、心優しく懸命な子に育った秀秋・・・

「貧しい武士や家がなくて困っている人を救いたい」と思っていました。

しかし、1593年、状況は一変します。
秀吉と淀殿の間に、実子・秀頼が生れたのです。
このため、秀秋が豊臣家の世継ぎとなることはなくなりました。
それどころか、秀頼の対抗馬とならないように、小早川家の養子に出されてしまいました。
その翌年、衝撃的な事件が起こります。
秀秋と同じく秀吉家の養子だった秀次が、謀反の罪をかけられ・・・死に追いやられてしまいました。
明日は我が身か・・・??酒におぼれ、手が付けられないようになります。
1598年に秀吉が亡くなり、秀秋の不安は消えました。
しかし、次は家康と光秀の戦いに巻き込まれてしまうのです。
有力武将でありながら、まだ十代の秀秋は、格好のターゲットでした。

石田三成の誘い
「秀頼殿が、15歳になるまで関白職をお願いしたい」
家康の調略
「我が方につくならば、上方の二国を約束する」
黒田長政からは秀秋の弱みを突く脅し文句が・・・
「西軍で戦えば、義母として愛育してくれた北政所様に累(災い)が及ぶことは必至」
東西両陣営から誘いの言葉をかけられた秀秋・・・
どのような思いでこの戦いに参加していたのでしょうか?

松尾山の陣は関ケ原の陣の中でもかなりの高所です。
そこからは、関ケ原が・・・三成の陣(松尾山)、家康の陣も見渡すことができます。

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郭が東西にのびていて、立派なお城です。
松尾山の巨大な山城に陣取った小早川秀秋・・・両軍が促すも、動かず・・・!!
しびれを切らした家康が、小早川の陣地に向かって発砲!!
東軍として、戦いに参加するように促したともいわれています。
秀秋はどんな思いで戦いを見つめていたのでしょうか・・・??

戦いが始まって4時間・・・それまで傍観を続けていた小早川秀秋がついに動き出しました。
この時、松尾山を駆け下りたルートは、西軍の大谷吉継の後方を突くものでした。
大谷吉継は、病を押して戦う西軍の精神的支柱ともいえる武将!!
兵力600の精鋭部隊でした。
しかし、秀秋率いる1万1000の大軍勢、さらにその攻撃を目の当たりにした付近の4武将たちが、東軍に寝返ります。
さすがの大谷軍も、抑えきれなくなり壊滅・・・!!
大谷吉継はその場で自害しました。
大谷軍の敗北により、戦況は一転、東軍は勢いづき宇喜田秀家を追いこんでいきます。
側面を突かれた西軍は一気に総崩れとなり、三成は山中に逃亡・・・
まさに、小早川秀秋の行動が勝敗を決した決断だったのです。
午後2時・・・わずか半日で天下分け目の関ケ原は決着したのです。
これが史実・・・

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??
西軍は山を背後に有利な状況・・・東軍を囲い込む陣形でした。
東軍が攻めて対峙する西軍・・・三成から狼煙があがった時、小早川秀秋が側面から東軍を突きます。
ここで一気に西軍に・・・
大垣城の後詰にいた西軍・・・南宮山の毛利勢が・・・中山道から、伊勢街道から家康軍を挟み、囲まれ・・・西軍の圧勝でしょう。

関ケ原合戦図屏風・・・
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有名人が117名描かれています。
しかし、その中で姿が絵が賀れていない人物が3人います。
その一人は、この戦いに勝利し江戸幕府を開いた徳川家康、二人目は、最も家康に叛逆した石田三成、そしてあと一人は・・・小早川秀秋です。
小早川秀秋のおかげで東軍は勝てたはずなのに、その秀秋の姿がないのです。
裏切り者として、評価が低すぎたので描かれなかった可能性が高いと思われます。
戦いに敗れ、山中に逃げた石田三成は、やがて捕らえられます。
そして京都市中引き回しの上・・・斬首!!
居城・佐和山城も火を放たれ、焼け落ちました。
この時、佐和山攻めの先陣を切ったのが、小早川秀秋でした。
合戦の二日後、家康に命じられてのことでした。
それから1週間後、秀秋は家康から手紙を受け取ります。

”今回の関ケ原でのご忠節にとても感悦しています
 以前からの約束は、間違いなく実現させます”
   
その言葉通り、秀秋は二国を与えられ、備前岡山城主となりました。
しかし、秀秋は関ケ原の戦いの後、以前にもまして酒浸りとなり・・・家臣を訳もなく切りつけるなど、肉体的にも精神的にも尋常な状況ではなかったといいます。
1602年、小早川秀秋死去・・・享年21歳・・・関ケ原の戦いからわずか2年後のことでした。


③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
天下分け目の戦い関ケ原・・・日本中を巻き込んだこの戦に、黒田官兵衛の姿はありませんでした。
この時官兵衛は、関ケ原から遠く離れた九州にいました。
九州の関ケ原という大合戦に身を投じていたのです。
関ケ原と同時に、九州で戦い始めた官兵衛は、その胸中に野心を秘めていたのでしょうか?

大分県中津市・・・黒田官兵衛は、関ケ原の戦いの13年前からこの土地に来て、城を築き始めていました。
九州の関ケ原では、中津を中心に活動した官兵衛・・・

1546年、黒田官兵衛は播磨国、姫路で生を受けました。
当時の播磨は小大名がひしめき鎬を削る時代でした。
1575年、29歳の官兵衛は、破竹の勢いで領土を拡大する織田信長に目通りしました。
その情報収集力、知略で、官兵衛は信長の部下・秀吉のもとで働き始めました。
この頃、秀吉から官兵衛に送られた手紙には・・・

”我が弟 同然に 信頼している”

と書かれています。
官兵衛は、秀吉から厚く信頼され、軍師として活躍していきます。
1582年、官兵衛に転機が訪れます。
それは、中国地方の難敵・毛利との戦いでした。
明智光秀の謀反により信長が落命・・・
それを聞いて、秀吉は呆然自失、泣き崩れます。
しかし、官兵衛は

”秀吉様、これはあなたが天下を取る好機となります”

官兵衛は、すぐに毛利との和睦をまとめ、秀吉は明智美津冷え討伐のため、200キロの道程を引き返します。
世に言う中国大返しです。
これにより秀吉は、光秀の討伐に成功・・・信長の後継者として全国を平定していきます。
1590年、秀吉は天下統一を成し遂げます。
そのそばには、いつも軍師官兵衛の活躍がありました。
しかし、官兵衛は、優秀されるがあまり秀吉に警戒されます。

ある時、秀吉は、自分の次に天下を取るのは誰かと、家臣たちに聞きました。
家臣たちは口々に徳川家康や前田利家など有力大名の名を口にします。
しかし、秀吉は・・・
”次は官兵衛が天下を取るだろう
 わしがはかりごとを迷っていると、官兵衛は的確な判断を下してくれる
 今の世に恐ろしいのは徳川と官兵衛だ
 しかし、徳川は温和な人である
 官兵衛はどうも心を許しがたい人間だ”
と言ったといいます。

官兵衛は、42歳の時に九州豊前に移り住みます。
秀吉に警戒心を抱かせないために、息子・長政に家督を譲り、自らは隠居しました。
そして秀吉がこの世を去り・・・次期政権は・・・関ケ原の戦いが始まります。
時を同じくして官兵衛も九州で挙兵!!
東軍の武将として西軍の領地を攻めたてます。
この時官兵衛は・・・
”関ケ原が長引けば、中国地方にも攻め入っていた”
と残しています。
官兵衛が居城としたのは、中津城・・・ここで、官兵衛の野心を垣間見えることができるのでしょうか?

官兵衛の石垣は、野面積みでも少し変わっています。
当時の石は自然石を使っていますが・・・官兵衛の石垣は、四角い石です。
川の上流5キロほどのところに7世紀の山城の跡があります。
そこの山城の石を川で運んで再利用したものです。

どうして官兵衛は、中津に城を築いたのでしょうか?
官兵衛が豊前に来た当初は、支配の中心となる城は西に在りました。
しかし、そこでは統治がしにくい・・・と、川と川の交わる交通の要衝・中津を拠点に置いたのです。
船が寄り付きやすいこと、そして海を使って情報を素早く得ていました。
当時は上方が中心なので、瀬戸内海に二カ所拠点を置いて、早舟でリレー形式で情報を掴んでいました。
その速さは、3日だったといいます。
九州での関ケ原に備えたのだといわれています。

中津には、京町、博多町と、現在でも官兵衛が作った町の名前が残っています。
中には官兵衛の故郷・・・姫路町もあります。
この姫路町は、中津城を作るときに姫路から連れてきた大工や石工を住まわせた場所でした。
様々な工夫を凝らして町を発展させ、莫大な富を築き、戦いの軍資金とします。
九州の関ケ原の際にも、その備蓄した金銀を出して、兵を集める・・・その資金で暴れるのです。

関ケ原の戦いが近づくと、息子・長政に大半の軍勢をつけて、家康の東軍に送ります。
自らは城の金庫を開け払い、身分の卑賤を問わず兵を集め、挙兵!!
9月13日、九州の関ケ原の火ぶたが切られました。
官兵衛は、かつて秀吉を天下人に押し上げた策略を駆使し、果敢に戦を展開し、西軍を破っていきます。
そんな中、家康にこんなことを願い出ています。

”清正と自分で切り取った九州の領土を拝領したい”

制圧した九州の領土を自分のものにしたいというのです。
隠居と言っても官兵衛はまだまだ野心に燃えていました。
官兵衛の野心は九州にはとどまらず・・・
山口県岩国市の吉川資料館には官兵衛の手紙が残っています。
10月4日に官兵衛が吉川広家に送ったその手紙の中には・・・
関ケ原の戦いが長引いていれば、中国地方に進軍して一花咲かせようと思っていたけれど、家康が早く戦いを終えてしまったので、戦いに姿を見せられなかったのが残念だと書かれています。

しかし、肝心の関ケ原の戦いは、官兵衛の予想に反してわずか半日で終わってしまいました。
それでも、官兵衛は戦をやめることなく、九州を制圧し続けます。
11月12日、九州の最大勢力・島津を攻める目前の官兵衛に、家康から停戦命令が出されます。
関ケ原合戦から2か月・・・官兵衛の戦いはついに終わりを告げるのでした。

③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
関ケ原の戦い当時、ほとんどの武将が戦いに参加していて留守でした。
九州の諸国は手薄・・・!!
関ケ原が長引いていれば、九州の武将たちは領国が危なくなると戻ってきます。
もともと加藤清正は東軍なので、戦うのは小早川秀秋、鍋島直茂、立花宗茂、小西行長・・・。
島津義弘は1500の兵しか連れて行っておらず、ほとんどの軍勢は島津義久のもと本国に温存されていました。
島津と戦うことは避けたい・・・??
周りを東軍に引き込んで、島津をけん制・・・戦わずして勝てるか・・・??
そして、吉川広家への手紙通りに中国地方に攻め入ります。
吉川を調略し、毛利へ・・・
西軍の総大将だった毛利輝元が東軍に寝返る・・・??
官兵衛は進軍を続け、大坂城に入って戦は終了
黒田官兵衛は、天下人ではなく、秀頼を擁立しナンバー2となったのでは・・・??
結果、家康の行動を止めることができたのでは・・・??

人生最後の戦いを終えた官兵衛・・・その後、息子・長政と共に福岡に移り余生を送ります。
ここでも官兵衛は、福岡城の築城に携わり、現在にも続く100万都市福岡の礎を築いていきました。

官兵衛は、晩年をどのようにして過ごしていたのでしょうか?
太宰府天満宮には官兵衛が奉納した歌が残っています。
「夢想之連歌」は、連歌の最初の句を官兵衛が夢の中で授かり詠んだものです。
そこには、
”松梅や 末長かれと 緑たつ
               山より続く 里は福岡”
と書かれています。
福岡が栄えるようにとの歌です。

この連歌には、黒田家の面々が出てきます。
家族で連歌を詠んでいるのは珍しく、」官兵衛は晩年は家族水入らずで送ったといいます。
戦乱の世の最後に、黒田家の安泰を想い、野心も満たされ、最期を迎えたのです。
福岡で穏やかな余生を過ごした官兵衛は、1604年、59歳でこの世を去りました。
官兵衛の跡を継いだ黒田長政は、こんな言葉を残しています。

「官兵衛が大坂方と通じれば、清正は喜んで味方になるはずだ
 九州の大名が結束して、官兵衛と清正が上れば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が、家康一人と戦うことは、卵に大きな石を投げ入れるようなものだ」

長政も同じように、関ケ原の戦いのシミュレーションを考えていたのです。

少しの違いで日本は変わったのかもしれない・・・

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壬申の乱と関ケ原の戦い なぜ同じ場所で戦われたのか

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京都市東山区にある高台寺・・・死者の霊魂を祀ると言われる霊屋には、二体の座像が安置されています。
右が豊臣秀吉、そしてその隣にあるのが、秀吉の正室・・・北政所・おねです。
秀吉の正室・おねがいなければ、秀吉は天下をとれなかった・・・??

おねが生れたのは、一節には1548年といわれています。
父・杉原定利は、母・朝日のところ(木下)に婿養子となっていたために、おねも木下の人間として育てられました。
秀吉と結婚したのは14歳の時、でも、それまでが大変でした。
おねの親族・肥後国日出藩木下家家老が編纂した資料には・・・野合とあります。
野合とは、正式な手続きを経ずに男女が密かに関係を結ぶことです。
当時は、政略結婚など、親が相手を決めるのが常でしたが、その中で、おねと秀吉は恋愛で結ばれた仲でした。
更に問題だったのが、秀吉の身分・・・
おねの家は名字を持つれっきとした家系でしたが、藤吉郎と名乗っていた秀吉は、名字もない農民あがりだったのです。
尾張の織田信長のもと、戦の戦闘で戦う歩兵で足軽衆をしていました。
そんな身分の低い秀吉との結婚に、母・朝日は猛烈に反対します。
それでもあきらめきれないおねに救いの手をさしのべたのは・・・母・朝日の妹・七曲でした。
夫である浅野長勝におねを養女にしてもらい藤吉郎と結婚させました。
二人の結婚式は清州城下にある足軽長屋で行われました。
とても質素なものだったと言われています。
この時、秀吉25歳、おね14歳、親の反対を押し切ってまでの結婚・・・とても仲が良かったといいます。
おねと結婚したので、木下と名乗ることができるようになった秀吉・・・。
名字を持てる身分になった事は、秀吉にとって大きな出来事でした。
それを機に・・・足軽から天下人へと上り詰めます。

内助の功①長浜城を取り仕切る
1573年、浅井長政との小谷城の戦いで勝利に貢献した秀吉は、浅井の領地だった北近江三郡13万石を与えられ、国持ち大名となります。
そし1574年に築いたのが長浜城です。
その翌年・・・結婚して14年、おねも長浜城に入りますが、夫婦の時間などありませんでした。

この頃、木下から羽柴に名前を変えた秀吉は、主君信長から中国方面軍司令官に抜擢され、中国地方を支配する毛利氏の討伐に任命されます。
播磨の姫路城を足掛かりに西に向かうことに・・・!!
不在の間、長浜城をおねに任せた秀吉・・・
「長浜城下に町人を招くため、町人の年貢諸役を免除したところ、近隣の在所から長浜に、続々と人が流入したため、年貢を申し付けた
 しかし、「それ様」が、断りを入れてきたため、今まで通り年貢を免除することにする
 「それ様」が願ってこのようになった事を、よくよく言い聞かせてほしい」

「それ様」=おねです。
尾根の意見を聞き入れて、願いを取り下げたと文書に書かれているのです。
秀吉とおねは共同経営者だったのです。

内助の功②信長との付き合い
秀吉の主君信長がおねにあてた手紙です。
そこには、安土城を建築中だった信長の元に、おねが見事な土産をもっていった事へのお礼が書かれていました。
主君へのこうした気配りも忘れませんでした。
一方で、おねは次々と側室を迎える秀吉のことを、信長に相談していたようで・・・
「はげねずみのような秀吉が、あなた以上の妻を迎えるのは難しいのだから、朗らかな気持ちで堂々としなさい」
そして、この手紙を秀吉に立ちに見せるように言うのでした。
おねが主君信長から厚い信頼を得ていた証拠でした。

1581年、信長が京都御馬揃えを行った年・・・
家臣たちは次々と金銀や唐物をもって信長の元へ挨拶に行きました。
しかし、秀吉は小袖200枚を送ったのです。
動きやすい小袖は、当時、侍女たちの普段着でした。
特に、信長は家臣に褒美として与えるほど愛用していました。
そのため、秀吉からの気の利いた贈り物に大変喜んだといいます。
その小袖・・・おねと長浜の女性たちが力を合わせて縫い上げたものでした。
おねの内助の功もあって、主君信長との深い絆ができた秀吉・・・

1582年6月2日、信長は家臣・明智光秀の謀反に遭い、京都本能寺で自害しました。
秀吉不在の長浜城を守っていたおねにも危険が迫っていました。
長浜城に光秀方が攻め入ってきたのです。
おねはすぐに側室や女中たちを引き連れて城を脱出!!
標高750mほどの高地にある大吉寺に逃げ込み、事なきを得ました。
おねは、夫秀吉の留守をしっかりと守り通したのです。
そして本能寺の変からわずか11日後・・・羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち、主君信長の仇を討った秀吉は、天下人へと邁進・・・おねの仕事も増えていきました。

内助の功③妻外交
1583年、秀吉が天下人となることを決定づけた織田家家臣・柴田勝家との賤ケ岳の戦い。
秀吉よりも決め手になったのは前田利家が戦線離脱したことでした。
おねと前田利家の正室・まつが親しく、そこには、妻のホットラインがあった・・・??
おねは、柴田郡の状況を聞いたり、利家の戦線離脱を説得したりしていたようです。
夫たちが表向きには出来ない交渉を、妻外交で担っていました。

結婚から24年がたった1585年7月・・・遂に秀吉は関白に上り詰めます。
史上初の武家関白の誕生です。
その裏にも、おねの妻外交があった・・・??
関白になれるのは、公家の五摂家だけでした。
そこで、秀吉は近衛家の猶氏(家督相続を前提としない養子)となったのですが、そこには、おねが天皇家や公家衆などにお酒やタイなどの献上品を折につけ贈り、立ち働いていました。
この頃から、秀吉は豊臣と名を改め、おねも北政所となりました。

関白となった秀吉は天下統一に向け躍進!!
各地で次々と人質を取っていきます。
家族を人質に取って、動きを制限したり、反発を防ごうと考えていました。
それを大々的にやった最初が、秀吉でした。
長く秀吉と対抗していた伊達政宗もその一人・・・。
配下となるにあたって、その臣従の証として政宗に正室を人質に出すよう命じます。
そんな政宗の元に、尾根の手紙が届きます。

”人質として上洛する政宗殿の奥方の安全を保証する”

おねは、大勢の人質の監督も任されていました。
人質を蔑ろにすれば、恨みを買い、有事の際にはそれが豊臣家に災いをもたらす火種になるかもしれない・・・
そう考えたおねは、人質を丁重に扱い、世話を焼いていました。

秀吉とおねには子供ができなかったと言われています。
しかし、江戸に書かれた「爛柯堂棋話」によると・・・

秀吉とおねは、結婚してすぐに子供を授かった
しかし、秀吉は足軽衆・・・
二人の暮らしは貧しく、子供ができるとさらに苦しくなる・・・
子おろしの灸を据えた
そうしたことが3回もあった・・・

この話の信憑性はわかりませんが・・・。
そこでおねは、忙しい秀吉に代わって、何人もの養子、養女を迎えはじめます。
秀吉はおねにその子供たちのことを任せ、豊臣家の未来を担う人材を育てさせます。
しかし、状況が一変!!
1588年、秀吉の側室・茶々が懐妊。
秀吉は、出産場所として淀城を建設。
そこに住むようになった茶々は淀の方と呼ばれるようになります。
翌年・・・秀吉の待望の嫡男・鶴松が生れます。
跡継ぎとなる男の子を産んだ側室・淀の方と、正室だが子供のいないおね・・・
そんな二人の間には確執があったとされていますが・・・??
二人の間には確執はありませんでした。
淀の方は、鶴松を生んだ時点で二人目の正室となりました。
当時、関白になると正室は一人ではありませんでした。
淀の方は、男児を出産したことで、正室に格上げされたのです。
正室の役割には、子供を産むことと、家を守ることがあります。
おねは家を守ることに長けており、確執なく、正室の役割分担をして二人で秀吉を支えていました。

1590年、関東の北条氏に勝利した秀吉は、遂に天下統一を成し遂げます。
しかし、年が明けると次々と秀吉に不幸が襲います。

1591年1月、実弟秀長が死去
     8月、嫡男鶴松が死去

この時55歳、もう子には恵まれないであろうと思った秀吉とおねは、家督を継ぐ者を選ぶことに・・・。
候補は二人・・・秀吉の姉の子・秀次、おねの兄の子・秀秋でした。
秀吉の数少ない身内の秀次は、四国攻めの副大将として活躍し、重要地である近江八幡43万石の大名に。
秀秋は3歳で秀吉の養子となり、6歳で丹波亀山10万石の大名になるなど、溺愛されて育ちました。
どちらを跡継ぎにする・・・??
秀吉が選んだのは、自分の血縁である秀次でした。

養子に迎えると、自分は太閤に・・・秀次を関白の座につけました。
ところがその2年後・・・淀殿が秀頼を生むのです。
1593年、淀の方が男の子を出産・・・拾・・・後の秀頼です。
子供は無理と思っていた秀吉は大喜び!!
秀頼を正統な後継者として育てたいと考えるようになります。
そこで運命が大きく変わったのが秀次と秀秋・・・
1594年、秀秋を小早川家へ養子に出します。
1595年、秀次は・・・謀反の疑いをかけられ切腹に追い込まれます。
さらに、秀次の正室、側室、子供達・・・総勢39人を殺害!!
この時のおねの心情や行動について書かれた資料は残されていません。

こうして秀頼が名実共に秀吉の後継者となりました。
しかし、秀吉が病に倒れます。
おねは、必死で病気平癒の祈祷を行います。
しかし・・・その願い届かず・・・1598年8月18日、この世を去ります。

秀吉の遺言で、五大老のツートップ、徳川家康と前田利家が豊臣家を任されます。
家康は伏見城で執務を、利家は大坂城で秀頼の補佐をする・・・。
妻たちにも遺言しています。
大坂城のおねは伏見城に・・・伏見城にいた淀の方は江戸城に移るように言い残しました。
遺言通り、淀の方と秀頼は、秀吉が亡くなった翌年、大坂城の本丸に移ります。
ここでは、前田利家が補佐を任されていましたが・・・1599年前田利家死去。
利家が亡くなったことで、家康が天下取りに動き出します。
するとおねが驚きの行動に・・・
自分のいる大坂城西ノ丸に家康を招き入れ、さらに、夫・秀吉の遺言に従わず、伏見城ではなく京都の屋敷に・・・。その理由は・・・??
強大な権力をふるい始めた家康に対抗してきていたのが、秀吉の側近で五奉行のひとり石田三成でした。
ところが三成は、反三成派の武将たちから襲撃を受け、責任を取らされて近江・佐和山城で蟄居させられていました。
すると家康は、三成の兄・石田正澄の屋敷に入り、政務をはじめました。
家康は、前田利家がいなくなった後、秀頼の補佐もしなければならないので、大坂に本拠地を置く必要性があり、石田正澄邸に入りました。
しかしおねは、政務を執る場所は大坂城内だと考えて、豊臣政権の政治は大坂城で行うべきと、家康を大坂城に入れました。
おねが家康を大坂城に入れたのは、豊臣家のことを思っての事・・・。
秀吉の遺言に反して京都の屋敷に移り住んだのにも理由がありました。
秀吉の亡骸が、京都の豊国神社に埋葬されていたからです。
京都の屋敷に移り住んだおねは、秀吉の月命日には欠かさず参っていたと言われています。

亡き夫の弔い・・・後継者の育成・教育・・・後家役割と、当時は言っていました。
菩提を弔うのはおね、秀頼の教育は淀の方だったのでしょう。
しかし、おねが家康を大坂城に入れたことで、家康はますます立場を強くしていき、勢力を拡大させていきます。

1600年9月15日、関ケ原の戦いが始まります。
徳川家康率いる7万の東軍と、石田三成率いる8万の西軍が激突します。
秀吉恩顧の者たちが、東西に分かれて闘いました。
天下分け目の戦いで、東軍の勝利を決定づけさせたのは、秀吉とおねが養子にして可愛がっていた小早川秀秋の裏切りでした。
秀頼の誕生後、小早川家に養子に入った秀秋は、家督を継ぎ、筑前名島を治める大名になっていました。
豊臣家から追われたとはいえ、一族だった秀秋は西軍として参戦!!
戦の途中、東軍に寝返り西軍を攻撃!!
これによって東軍が勢いづいて勝利したのです。
この裏切りは、家康の調略によるものですが・・・
秀秋に裏切りをせかす手紙が残っています。

東軍の浅野幸長・黒田長政から小早川秀秋に宛てたものです。
そこには、
”政所様の世話になってきた二人(浅野・黒田)はおねを手助けする為に東軍についた”と書かれていました。
足軽出身だった秀吉には、代々仕えてきた武将がいませんでした。
そこでおねは、秀吉を支える武将にすべく、加藤清正・福島正則など若い家臣たちの面倒をよく見ていました。
黒田官兵衛の息子・長政も、世話になっていました。
秀吉・おね夫妻に我が子のように育てられました。
おねの親族の浅野も、おねに恩がありました
秀次事件の際に、秀次の弁護をしたことで秀吉の怒りを買ったのをおねが助けていたのです。
そんな二人は、同じくおねに恩のある秀秋に対し、東軍に着くと返事をしてほしいとせっついたというのですが・・・

おねは、本当に東軍に味方していたのでしょうか?
この手紙は、黒田・浅野が小早川秀秋を説得する為に、おねをダシに使ったのでは・・・??と思われます。
おねは、家康方についていたわけではなく、名前を利用されただけでした。
関ケ原の戦いのとき・・・おねはどのような状況だったのでしょうか?
おねは、これといった政治的な動きはしていません。
おねの兄・木下家定は中立、
その長男・勝俊は東軍として参加するも任務放棄
次男利房は西軍、三男延俊は東軍、四男俊定は西軍。
五男秀秋は・・・??西軍から東軍に寝返りました。
おねの親族は、てんでばらばらの動きをしていました。
もし、家康に加担していたならば、東軍につくように諭したはず・・・
おねが家康方に立っていたわけではなかったのです。
動きようがなかったのです。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍に任じられます。
おねには高台院の院号が下賜され・・・2年後、家康の援助を受け秀吉の菩提寺となる高台寺を建立。
家康の遺品を底に収め、菩提を弔うことに・・・
静かに暮らそうと思っていました。

しかし、時代がそうはさせてくれませんでした。
京都でなく夫・秀吉の菩提を弔っていたおね・・・しかし、徳川家康が動きます。
豊臣秀頼が再建した京都・方広寺大仏殿の釣鐘に物言いがついたのです。
問題となったのは、「国家安康」の四文字です。
家康が分断されて呪っているというのですが・・・
その真の目的は、これを機に豊臣と戦をすること。
秀頼と淀の方はこれに乗せられてしまいます。
全国から浪人と集め、戦の用意を始めたのです。
豊臣と徳川は臨戦態勢に・・・大坂の陣勃発目前!!
そしておねが動きます。
大坂へ向かうことにしたのです。
この時67歳・・・どうしておねは、危険な大坂に向かうことにしたのでしょうか?
淀の方を説得しようとしたのでは・・・??といわれています。
徳川方に屈服するようにと・・・!!
豊臣家の存続を願っていたおねの行動でした。
豊臣家を守りたいという思いがあったのです。
徳川の邪魔が入り、大坂にはたどり着けず・・・京都を出ることさえできませんでした。
1614年11月19日、大坂冬の陣勃発!!
二度にわたる戦いの末、追いつめられた秀頼と淀の方は大坂城で自害。
ここに豊臣家は滅亡しました。
その時おねは・・・守護を命じられていた甥の木下利房と共にいました。
しかし、守護とは名ばかりで、淀の方と連絡を取らないように監視されていたのです。
焼け落ちていく大坂城・・・紅蓮の炎と立ち上る煙は京の町からも見えたといいます。
おねもまた見ていたのかもしれません。
必死に守ってきた豊臣家の最期を。
伊達政宗に送ったおねの手紙には・・・大坂のことは何とも申し上げる言葉もありません。

足軽だった秀吉と築き上げてきた豊臣家、言葉にならないほどつらかったということでしょうか?
最後まで慕われ、暑い信頼を寄せられていたおねは、乱世の中、細やかな気遣いと確かな判断力で夫を支え、深い愛情を家臣たちに注ぎ、育て・・・おねは、戦国一の偉大なる妻であり、母でした。

おね終焉の地とされる圓徳院・・・亡くなるまで19年間をここで過ごしたといいます。
1623年おねは甥木下利房の次男である利次を養子に迎えます。
そしてその翌年、波乱の人生を77歳で閉じるのでした。
亡骸は、圓徳院の近くの高台寺に・・・秀吉と共に祀られています。
死後も秀吉の妻として寄り添うように・・・。

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大阪市中央区にある純白の大聖堂・・・カトリック大阪大司教区・大阪カテドラル聖マリア大聖堂・・・
荘厳な大聖堂の正面には、生母マリアが日本画壇の重鎮・堂本印象によって描かれています。
マリアの前に跪く女性は、戦国時代きっての美女とうたわれた細川ガラシャ。
ガラシャは、織田信長を本能寺で討った明智光秀の娘で、乱世を生き抜いた細川忠興の妻です。
豊臣秀吉、徳川家康の天下取りに翻弄され、悲劇的な死を遂げたガラシャ・・・。

世は大航海時代・・・南蛮渡来の先進文化が日本にも押し寄せ、宣教師たちがもたらしたキリスト教は庶民にまで広がっていました。
そして、キリスト教に入信したガラシャには、過酷な運命が待っていました。

1574年正月、織田信長の居城・安土城のこと・・・天下統一に邁進する信長は、重臣・明智光秀の娘・玉を細川藤孝の息子に嫁がせるように命じました。
信長は、政権基盤確立のために、家臣たちに婚姻でむすびつけ、強大な結束を結ぼうとしていました。
光秀の娘・玉子・・・後のガラシャ12歳は、夫・忠興も同じ年でした。
信長の命令から4年後、16歳になった玉子は細川忠興のもとへ輿入れしました。
玉子が嫁いだのは、京都・・・長岡京市にある勝竜寺城・・・陸の交通と水運の要衝に位置したこの城は、今は公園となっています。
城内には、玉子が嫁いだころからの井戸が残っています。
玉子はどんな女性だったのでしょうか?

結婚から間もなく一男一女をもうけた玉子と忠興夫妻・・・
戦での功績も目覚ましく、細川家は信長から丹後国を与えられます。
はれて12万石の城持ち大名となった細川家・・・玉子の未来も限りはありませんでした。
ところが・・・玉子の人生を一変させる事件が起こります。
1582年6月2日・・・本能寺の変・・・父・明智光秀が突然織田信長を襲います。
光秀は、娘・玉子の嫁ぎ先の細川家に援軍を求めます。
羽柴秀吉らに対抗する為に・・・!!
しかし、細川藤孝・忠興親子はこれを拒絶!!
藤孝は出家し、信長を弔う姿勢を見せます。
忠興は怒りのあまり、光秀の使者を斬り殺さんばかりでした。
援軍を得られないまま秀吉との決戦に敗れた光秀・・・。
その他の明智一族も、玉子を除いてほとんどが命を落としました。
細川家の嫁でありながら、謀反人の娘となってしまった玉子・・・人生最初の選択に迫られます。

明智の娘であるから、謀反人の娘として生き恥をさらすなら自害すべき??
この時、玉子は3人目の子を身籠っていました。
「御身の父光秀は、主君の敵なれば同室叶ふへからす」by忠興
忠興は、玉子を離縁して、三戸野に幽閉しました。
要害の地で切ない日々を過ごす玉子・・・。



細川家は、形勢が逆転し、明智の味方が増えたなら・・・
玉子を生かしておくことで、両天秤にかけたのです。
男たちの思惑によって、子供たちと離れてしまった玉子・・・。

身をかくす 里は吉野の奥ながら 花なき峰に 呼子鳥なく

「謀叛人の娘」というレッテルを貼られたものの、子供に細川家を継がせることで、明智の血を後世まで残すこと・・・
明智家からついてきた侍女や家臣も守らなければいけない・・・
そのためにも、自分が今、命を絶つわけにはいかない・・・
幽閉の翌年、水戸野で男児を出産した玉子・・・数え21歳でした。

幽閉から2年・・・信長のあと天下の実権を握った秀吉は、大坂に大きな城を築きつつありました。
党第一の実力者となった秀吉から、玉子との復縁を許された忠興・・・
父・光秀を討った秀吉の許しで、玉子は大坂城下の細川邸に正室として返り咲きました。
秀吉が美貌で噂の玉子との面会を望んだ時・・・

「秀吉は父の仇・・・殺されても出ていくことはありません。
 それでも強いてということなら、懐剣で刺し殺し、復讐を果たします。」by玉子

気丈に振る舞う玉子でしたが、忠興は厳しく監視します。
それは、嫉妬とも旧織田勢から守るためだったともいわれています。
謀反人の娘というレッテルを貼られた世間の目に苦しんで、精神の変調をきたす玉子。。。
細川家の正室としての態度をしっかりとしながらも、閉じ込められた苦しさ、悩み、ストレス・・・
その葛藤が気鬱となって現れます。

この頃、世界は激動の時代を迎えていました。
航海技術の発達によって、スペインとポルトガルがアジアやアメリカに進出していました。
新たな交易ルートの開拓や、領土獲得を目的とした大航海時代の到来です。
スペインとの覇権争いの中、ポルトガルが日本に・・・
南蛮船との交易で、利を得ようと大名たちは自領の港を開きました。
南蛮船によって、イエズス会の宣教師も来日・・・宣教師たちは有力大名たちに領内での布教を認めさせていきます。
大名の中にも自らキリスト教に入信する者も相次ぎます。

大阪府高槻市・・・かつてここは、キリシタン大名として知られる高山右近の領地でした。
領内からは、キリシタンゆかりの品が見つかり、キリスト教が広く普及していたことを伺わせます。
キリスト教は、広く人々に受け入れられます。
大坂城築城と同時期に、キリスト教に入信する大名が増加します。
その多くが、黒田官兵衛ら大坂に直接地縁のない武将たちでした。
天下統一に向け各地から来た彼等は、キリスト教で団結を図ったとも考えられます。
キリスト教に興味を持った人の中に、気鬱になっていた玉子もいました。

1587年秀吉の命令で、忠興は九州へ出兵!!
忠興の留守中、玉子は屋敷近くの教会へ向かいます。
これをきっかけにキリスト教に傾倒していく玉子・・・。
キリシタンの考え方は、基本的に一夫一婦制。
自分の疑問に・・・心の葛藤を解決してくれるのは一体何なのか??
それは、儒教的考えや仏教的教訓ではないと考えるようになります。
キリシタンの教えを勉強するようになります。

抑えがたい衝動にかられた玉子は、キリスト教への入信を決意し、洗礼名をガラシャに・・・。
それは、ラテン語で恩恵を意味するグラティアを意味していました。
キリシタン細川ガラシャの誕生でした。

西洋の文物は、土豪出身の戦国大名の権力を高める文化になりました。
おまけに実利がある・・・。

1587年6月、九州を平定した秀吉は驚くべき法令・・・伴天連追放令を出します。
それは、キリスト教を邪法をし、バテレンは20日以内に国外退去せよというものでした。
領内でキリスト教に深く帰依している大名たちに危機感を抱いたからです。
見せしめに南蛮寺と言われた教会が、京都をはじめ50カ所以上破壊されました。
宣教師たちの多くは、一旦長崎に逃れ、潜伏を余儀なくされます。
ガラシャは心を痛め、苦悶の日々を送ることとなります。

伴天連追放令から11年後・・・秀吉の死によって新しい展開が・・・
秀吉亡き後、天下取りに動いた徳川家康!!
これに対抗したのが石田三成!!
ガラシャの夫・細川忠興は、家康に味方しました。
家康は会津征伐のために、伏見城から京を出ました。
忠興も軍を率いてこれに従います。
忠興は、出陣に際しこう言い残します。

「ことが起きれば恥を着せられぬよう振る舞え」

これが、ガラシャの人生を大きく変えることに・・・
忠興らの出陣から間もなく、大坂で噂が立ちます。
家康に従い関東に出陣している諸大名の妻を石田方が人質として大坂城に取り入れるというのです。
時を置かず、細川邸に石田方から密かに使者が・・・

「内々に大坂城へご登城されたい」

ガラシャを人質に出し出せとの要請でした。
ガラシャは毅然と言い放ちます。

「夫・忠興のためにはどのようなことがあっても同意できません」

しかし、彼女は大きな問題を抱えていました。
登城を拒否し続けていれば、いずれ力づくで拘束に来る・・・
その時は、夫の言いつけを守り命を絶たなければならない・・・
しかし、キリスト教は自殺を神に対する罪としている!!
忠興の出陣から3週間・・・石田方は正式な使いを差し向けガラシャに登城を迫ります。
家臣たちはガラシャを守るために、細川家の重臣たちは、細川の本拠地丹波に逃がそうと考えていました。
事ここに及んでは人質になるしかないのか・・・??
それとも身をかくすのがいいのか・・・??
それとも自害する・・・??
自害を禁じているキリスト教・・・その時は、神が決めるのだ・・・!!
神はどこまで私に試練を与えるのか・・・??

1600年7月17日、石田方に取り囲まれた細川邸から火の手が・・・
ガラシャは屋敷に火を放たせ自害を選びました。

最後を見届けた侍女が後に語っています。
細川家の重臣たちが相談し、いざという時に表門で石田方を防いでいる間に、自害する手はずになっていました。
その日の夜・・・敵が門まで迫ってきたとき・・・守備隊の寝返りもあって「もはやこれまで」と、重臣に長刀で介錯させ、ガラシャは自害しました。
そしてこの様子を侍女に忠興さまに伝えるようにと逃がすのでした・・・。

潜伏していたイエズス会の神父が、焼け跡にガラシャの骨を拾いにやらせ葬儀を行ったと言われています。
イエズス会の記録にガラシャの死はこう書かれています。

”ガラシャはその死を受け入れ、強い勇気をもって主の御旨に従い、その手にあるものとして亡くなった”

キリシタンであったけれども、最期は家に殉じた自害でした。

ガラシャはその生涯を終えるにあたり、辞世の句を書いています。

”ちりぬへき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ”

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細川ガラシャ―散りぬべき時知りてこそ (ミネルヴァ日本評伝選)

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朱なる十字架

水郷の町として知られる福岡県柳川市・・・
江戸時代、柳川藩10万9000石の城下町として栄えました。
城跡には、明治時代に旧藩主が立てた洋館や、江戸時代の壮麗な大名庭園があります。
ここの旅館を経営しているのは・・・柳川藩主・立花家の子孫です。
戦国大名に連なる家が、今も城内の屋敷を守り続けているのは全国でも珍しい・・・。

柳川藩の礎を築いたのは、立花宗茂・・・当今無双の勇士と秀吉に称えられ、西国一の猛将と言われていました。
宗茂の戦歴はすさまじく・・・秀吉の天下統一戦争にことごとく参陣、江戸時代には大坂の陣、島原の乱で活躍し、その武勇を轟かせました。
そんな宗茂の生涯で最大の試練となったのは、関ケ原の戦いでした。
東西両軍の決戦は、わずか半日で終了・・・
宗茂のいる西軍の大敗北に終わりました。
決戦に参加することもできず、宗茂は敗者となりました。
しかし・・・宗茂には秘策が・・・??

福岡県柳川市・・・その中心に水堀に囲まれた広大な敷地に柳川城址があります。
資料館には・・・関ケ原合戦時の立花宗茂愛用の甲冑が残されていました。
その甲冑は、戦いの神・摩利支天を模し、鉄の地金が厚く、実践向きです。
体格は非常に大きく・・・身長175cmから180cmの間ではないかと言われています。
天下無双と呼ばれた武将・・・立花宗茂・・・その武勇は、二人の父親から譲り受けたものでした。
宗茂は、1567年、九州筑前の武将・高橋紹運の長男として生まれました。
宗茂が紹運から譲り受けた刀・・・鎌倉時代の名工長光の剣・・・宗茂が15歳で養子に出されるとき、敵味方に分かれたらこの剣で父を討ち取るようにと言われたという・・・
紹運からは、武将としての覚悟をたたき込まれました。
もう一人の父・養父・立花道雪。
道雪は勇猛果敢で知られているが、彼が与えた刀は、道雪が雷神を一刀両断にしたという名刀・雷切丸。
切っ先が変色しているのは、雷神を切り裂いた証だといいます。
道雪の猛々しさをよく伝えています。
二振りの刀を常に戦場に持ち、武勇に長けた宗茂・・・
道雪から家督を譲り受け立花家を継ぎます。
主は、紹運や道雪が仕えた大友宗麟。
九州北部・6か国を治める大名でした。
海外の文化をいち早く取り入れたキリシタン大名としても知られています。

九州は動乱の時期を迎えていました。
島津が急速に版図を拡大し、大友に迫ってきていました。
同じころ、中央では豊臣秀吉が台頭し、瞬く間に畿内や中国地方を制圧し、四国まで勢力圏を広げていました。
島津の圧迫に・・・1586年4月、大友宗麟、秀吉に救援を求めます。
大友が服属したことで、宗茂も秀吉の配下となりました。
5万の大軍勢を率いて大友領に侵攻した島津軍は、九州の要・筑前に狙いを定めました。
この時、宗茂に任されたのは、北の玄関口・博多湾を押さえる立花山城。
実父・紹運はその先の要衝・岩屋城で南から迫る島津の大軍勢を待ち構えました。
島津軍の猛攻に、紹運はわずか70余りの兵と共に徹底抗戦!!
しかし・・・兵力の差は大きく、7月27日岩屋城は陥落、紹運は自刃し、籠城兵はことごとく討死という非業の死を遂げました。
島津の次の狙いは立花山城・・・大小7つの峰に砦が築かれた山城です。
若干20歳の宗茂は、兵1700と共に籠城しました。
8月、立花山城を囲んだ島津軍は、宗茂に降伏を呼びかけました。
宗茂はこう答えます。
「関白秀吉公のご命令を守るのみ!!
 関白殿を捨ておき、島津に降伏するなど武士のすることではない!!
 実父・紹運はこの義を固く守り、見事に切腹して果てたというのに、自分だけ生き長らえて汚名を天下に伝えるなど、思いもよらぬことである。」と。
宗茂も戦死した父と同じく徹底抗戦を宣言したのです。

大軍勢の島津にどう立ち向かうべきか・・・!!

宗茂には勝算がありました。
籠城から1か月後、総勢20万に及ぶ秀吉の第一陣が九州に迫りました。
秀吉の九州征伐です。
この時を宗茂は待っていたのです。
秀吉軍の到来を聞いた島津軍は、8月25日撤退を開始!!
宗茂はこの機を逃しませんでした。
兵力わずか1500で場外へ出陣!!
撤退するしまずの大軍勢を果敢に追撃!!
宗茂の逆襲は、島津軍には思いもよらないことで、散々に蹴散らされたと言われています。
この時、父の守っていた岩屋城の奪還にも成功しています。
後の秀吉は、宗茂を「真に九州の一物」と、称え、大友の家臣から10万石の大名に取り立てました。
領地は築後の柳川・・・ここに、戦国大名・立花宗茂が誕生したのです。

しかし・・・1588年8月18日、豊臣秀吉死去。
豊臣政権を受け継いだのは、政務を司る五大老と実務を行う五奉行でした。
やがて五大老の筆頭・徳川家康と五奉行の筆頭石田三成の対立があらわに・・・
家康につくのか??三成につくのか・・・??

宗茂に宛てた三成の書状が残っています。
朝鮮出兵での宗茂の功績をたたえたものです。
三成は、宗茂を頼りにしていました。
1600年、家康は謀反の疑いありと五大老のひとり・上杉景勝討伐に動きます。
3万の軍勢を率いて会津に向かいました。
その隙をつき、石田三成は同じ五大老の毛利輝元を総大将に担ぎ出し、反家康の兵を挙げます。
宗茂は迷うことなく三成に味方しました。
「戦いの勝敗如何を問わず。
 ただ、秀吉公の恩義に報いるのみ!!」
宗茂は三成に求められた兵を越える4000の兵を率いて8月に上洛。
8月22日、宗茂達西軍は、美濃大垣に進出。
上杉討伐から取って返してくる東軍の大軍勢を待ち受けるためでした。
ところが西軍の大津城主・京極高次の裏切りが発覚!!
宗茂は三成の要請に従い、大津城攻略に矛先を変えることとなります。
琵琶湖の南に位置し、古くから交通の要所として栄えた大津・・・平地に築かれた大津城は、琵琶湖に突き出た湖上の城・・・。
攻め手の攻撃を阻む三十の堀に囲まれた守りの固い要塞でした。
9月7日、宗茂たちの大津城攻めが始まりました。
これに対し、籠城する京極勢は、夜討ちで対抗しようとしました。
しかし・・・
「立花は西国第一の猛将・・・
 世に知られた武勇の達人
 夜討ちの油断をするわけがない」
京極勢は、宗茂を恐れ、守りに徹したのです。

大津城をいかに攻略するか・・・
宗茂たちが注目したのは城の背後の長等山でした。
日本史上大筒を使用した攻城戦は、大津城の戦いが初めてです。
西軍は、長等山から大津城を攻撃!! 
前代未聞の攻撃に、城内は阿鼻叫喚となりました。
9月15日、大津城は陥落・・・京極高次は降伏し、城を明け渡しました。
宗茂達西軍の完勝でした。
同じ日・・・美濃では東西両軍が関ケ原へ転進。
東軍7万5000、西軍8万が激突!!
天下分け目の合戦・・・関ケ原の戦いの始まりでした。
緒戦は一進一退の攻防が続きます。

しかし・・・西軍に組しながら戦いを傍観していた小早川軍・1万5000が突然西軍に襲い掛かりました。
小早川秀秋の裏切りでした。
結果、西軍は総崩れ・・・戦いはわずか半日で東軍の勝利となりました。
大津城にいた宗茂は、まだこの事実を知りませんでした。

1600年9月15日、関ケ原の戦いに敗れた西軍の武将たちは、戦死する者、敗走する者が後を絶ちませんでした。
宗茂の一代記「立斎旧聞記」には、その後の宗茂の動向が記されています。
翌16日、大津城にいた宗茂に西軍敗北の報せが届きます。
東軍が石田三成の居城・佐和山城を攻めているという情報が入ります。

関ケ原のこと・・・事実であるに違いない・・・
ここは覚悟を決めなければならない・・・

17日早朝、宗茂は大津城を引き払い西へと向かいます。
当時、大坂城には秀吉の遺児・豊臣秀頼と西軍総大将・毛利輝元が対陣していました。
西軍が破れた今、どう行動すべきか・・・??
難攻不落の大坂城に籠城して迎え討つ・・・??
大坂城は北と東に川に守られ、南を低湿地が守る天然の要害・・・
秀吉はここに三重の堀を構え、当時最大の城を築きました。

2003年、現在の追手門近くで巨大な堀跡が発見されました。
幅22m、深さ6mの障子堀です。
障子堀は、秀吉を悩ませた関東の雄・北条氏の築城術です。
侵入してきた敵は、細かく仕切られた堀に手間取り、矢や鉄砲の攻撃にさらされます。
堀に落ちた者には逆茂木が待っていました。
大阪城の主要な出入り口3カ所にこのような堀が作られていたとされています。
秀吉が無くなる寸前に作っていました。
秀頼のことが心配で、城をより強固なものにするために掘られたのです。



大坂城を守る??それとも九州へ帰還??
関ケ原の戦いで毛利は動かず、小早川が裏切ったため、西軍は敗北した。
いくら難攻不落の大坂城とはいえ・・・心が一つでなければ籠城戦は出来ない・・・。
九州に帰還しても、宗茂には勝機がありました。
同じ西軍で、武勇の誉れ高い薩摩の島津義弘と手を組むという方法です。
前年、宗茂と義弘は起請文を交わしていました。

「この度の談合について、心の底から残らず互いに語り合ったことは、一切他言しないこと」

島津家は、そもそも立花宗茂にとっては実父・高橋紹運の敵でした。
しかし、秀吉の九州平定後は、親密な間柄になってきていました。

大坂城に籠城する??
それとも、九州に帰還する・・・??

1600年9月17日、宗茂は大坂城に向かいます。
籠城戦に打って出ることを選択したのです。
早速総大将・毛利輝元のもとに使者を派遣。
しかし、輝元は決断できませんでした。

「これから評議を尽くしてご返答申し上げる」

宗茂はあきれ返りました。

「今から評議するなどとは、ことのほか浅き知恵である
 総大将がそうであれば、とても籠城などできまい」

宗茂は軍勢を連れて九州へ帰還することに・・・!!
これにより、大坂城での決戦は幻に終わりました。

10月、急ぎ領国・柳川に戻った宗茂・・・しかし、新たな苦難に直面・・・
東軍の軍勢・4万に、柳川を包囲されたのです。
東軍の武将・加藤清正が降伏を勧めます。

「兵たちの命は、城主が切腹して助けるというのが武将の大法である」

宗茂は自らの命で城兵を守ろうとしたのです。
しかし、清正は宗茂を生かし、全ての兵を助けることを約束。
宗茂はこれに応じ、城を明け渡しました。

1601年3月、立花家改易。

宗茂は一介の牢人となりました。
しかし、宗茂は諦めません。
自ら上洛し、家康との接触を図り、旧領柳川の復活を目指したのです。
何が宗茂を突き動かしたのか・・・??

宗茂は、養子として立花家(戸次家)に入ってきたのでアウェーでした。
なので、家臣に対して心配りができる武将になっていたのです。
家臣の大半は、その後清正に召し抱えられましたが、二十数人は牢人の宗茂に付き従いました。
この家臣たちを路頭に迷わせないためにも、旧領の回復が必要だったのです。
そんな宗茂を乞うっておかなかったのが家康でした。
敵でありながら、宗茂の武勇と人徳を認めていたのです。

1606年、家康の計らいによって陸奥棚倉・3万石を拝領します。
宗茂は大名への復帰を果たしたのです。
その後、大坂の陣で活躍、1617年将軍・秀忠の御咄衆となります。
徳川家の絶大な信頼を勝ち取っていきます。

1620年11月、宗茂、旧領・柳川に復帰。
関ケ原の戦いから20年の歳月が経っていました。
関ケ原で西軍に属して改易された大名は88家。
立花宗茂だけは、旧領に戻れたのです。

敗軍の将から奇跡の復活を遂げた宗茂は、1643年11月25日、76歳の生涯を閉じました。
江戸から明治、そして現代・・・激動の時代を乗り越え、立花家は今も柳川城の中に生き続けています。

立花家に代々受け継がれてきた宗茂の言葉があります。

「領民の幸せこそ 第一の義とせよ」

その思いは、今も受け継がれています。

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日本の近代化の始まりとなった明治維新・・・その大改革の位置役を担ったのが、西郷隆盛などを擁した薩摩藩です。
しかし彼らの活躍は、あの出来事がなければなかったかもしれません。
1600年9月15日、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍併せて8万の大軍が激突した関ケ原の戦いです。
子の天下分け目の合戦で、西軍の敗戦が決しようとしたとき、よう軍の主力部隊に突き進む隊がありました。
薩摩の島津義久率いる島津軍!!これが、後世に名を残す島津の退き口です。

島津義弘は、室町時代後期の1535年に九州の名門・島津家の次男として生まれました。
義弘は、長男・義久に代わって島津軍を率いて多くの戦に出陣。
島津の旧習制覇に向けて、八面六臂の大活躍!!
猛将としてその名を全国に轟かせていました。

秀吉の九州征討によって、薩摩国・大隅国・日向国(一部)の62万石になってしまっていたのですが・・・
当時は兄の義久が、拠点である薩摩国を、弟・義弘が大隅国を治めていました。
秀吉の命で、義久が大隅を、義弘が薩摩を治めることになったのですが・・・
それは、義弘の活躍ぶりを秀吉が気に入り、島津の代表として秀吉が扱ったのだといいます。
弟・義弘が正統の当主となったわけではないのですが・・・この微妙な関係で、義弘に大きな試練が・・・!!

1600年、豊臣秀吉亡き後、虎視眈々と天下を狙う五大老筆頭の徳川家康と、秀吉の跡継ぎの石田三成との争いが激しくなります。
一触即発の中、天下分け目の決戦に向けた激動の日々が始まりました。
先に動いたのが、大坂城にいた家康でした。
家康は五大老のひとりである上杉景勝に謀反の疑いがあるとし、諸大名に出陣を要請!!
自ら会津の上杉討伐に向け、京都の伏見城に入りました。
しかし、会津に遠征することは、政の中心であった髪型を留守にすることになり、家康にとっては危険なことでした。
家康によって佐和山城に隠居させられていた石田三成が、家康が神永を留守にするのに乗じて挙兵するかも知れなかったからです。
そこで、上方の重要拠点である伏見城を奪われないように万全を喫します。
家康の重臣・鳥居元忠を城に残し、城の守りを依頼したのは島津義弘でした。
家康が義弘に依頼したのは、猛将としての腕を見込んでのことでした。
秀吉が行った朝鮮出兵での活躍は、聞きしに勝るものがありました。
当時日本は苦戦していましたが、義弘は、秀吉亡き後の泗川城の戦いで、5000の兵で数万の明と朝鮮の連合軍を打ち破ります。
これによって、日本軍の撤退が容易になったのです。

こうして家康から伏見城の守りを依頼をされた義弘ですが、これを受けると豊臣の世を守ろうとする三成を敵に回すことに・・・。
義弘の返答に島津の運命がかかっていました。

「家康殿の命とあらばお受けいたしたいが、家中の者と相談して正式にお答えしたい。」

と、即答を避けたものの、義弘には家康の頼みを断れない大きな借りがありました。
それは、前年の事件・・・
義弘の子・忠恒が、島津家の重臣で都城8万石の領主となっていた伊集院忠棟を茶席で手打ちにしてしまったのです。
それは、主君である島津をないがしろにした忠棟の行いに業を煮やしてのことでしたが、秀吉のお気に入りを殺してしまったことで三成が激怒!!
島津と伊集院との確執は収まらず、殺された忠棟の子が、都城で反乱を起こすという事態に発展してしまいました。
それによって、島津家は苦境に陥りましたが、その際、和睦を図ってくれたのが家康だったのです。
熟慮の末、家康のために、伏見城を守ることにした義弘。
家康は、1600年6月に会津に出陣!!
家康の出陣を待っていたかのように、石田三成が動きます。
7月半ば、家康のいなくなった大坂城に戻ると大軍を集め、打倒家康を掲げて蹶起しました。
そうして西軍が大坂で挙兵したころ、義弘は200の軍勢と共に京都にいました。
遅かれ早かれ西軍が伏見城に攻め込んでくるのは明白でした。
そこで義弘は、家康との約束を守るために、伏見城に入城を申し入れます。
ところが、鳥居元忠は、あろうことか義弘の入城を拒絶したのです。
鳥居はどうして義弘の入城を拒んだのでしょうか?

これは、家康と義弘とのあくまでも口約束であって、文章が存在していませんでした。
しかも、外様大名の義弘が裏切ることを恐れたからです。
聞いていなかった鳥居元忠によっては当然のことでした。
そして、この事態が義弘に危機的状況をもたらします。
周囲は伏見城を攻撃しようとする西軍で埋め尽くされていたのです。
戦おうにも兵は僅か200!!
そこで、義弘は生き残るために苦渋の決断をします。
一転して、西軍に組することでこの危機を脱しようとしたのです。
そして義弘は、戦うからには200の兵では島津の名が廃ると、国元に至急兵を送るように申し入れます。
ところが、薩摩からの援軍はなかなか到着しません。
家康を恐れた兄・義久が兵を出すことを拒んだのです。
兄から見放されてしまった義弘・・・そんな時に駆け付けてくれたのが、義久の甥・島津豊久でした。
こうして義弘を慕うものが次々と集まり、軍勢は1500ほどに・・・。
それでも兵は足りません。
天下分け目の関ケ原の戦いは、1か月後に迫っていました。

1600年8月11日、石田三成は東軍の進軍に備えるべく、6000の兵を美濃の大垣まで進めます。
1500の兵の島津義弘も三成に従い布陣しました。
そして、8月22日、三成の命を受けた島津軍は、最前線の墨俣につきます。
すると翌日、状況が一変!!
東海道を登ってきた東軍の先鋒隊が、岐阜城を急襲!!
たった1日で落城させてしまいました。
また、東軍の黒田長政、藤堂高虎の軍勢が長良川西岸に押し寄せ、西軍の先鋒隊を打ち破り進撃!!
大垣から進軍していた三成本体にも危機が迫ります。

そこで三成は、墨俣から少し離れた佐渡で軍議を開きます。
その内容は、義弘にとって思いもよらないものでした。
それは、大垣への撤退・・・しかも、義弘に・・・
「義弘殿が一緒だと心強い、ご同行願おう!!」by三成
逃げたら、最前線の墨俣にいる島津軍は置き去りとなり、東軍が攻撃してきたらひとたまりもありません。
納得のできない義弘は、三成を突っぱねます。
すると三成は、そのまま大垣へと戻ってしまいました。
義弘は、墨俣に布陣する島津軍を救い出すべく出陣!!
無事島津の兵を撤退させたのです。
その後三成は義弘に詫びますが、このことで確執が生じたともいわれています。
それから20日後の9月14日、家康をはじめとする東軍は関ケ原に進軍!!
一方三成は笹尾山に布陣!!
島津軍はその近くに軍を構えます。
両軍が布陣を終えたのは、15日早朝!!
いよいよ決戦の火ぶたが切られようとしていました。

1600年9月15日朝・・・深い霧が立ち込める中、美濃国関ケ原で東軍7万VS西軍8万の大軍が対峙しました。

島津義弘率いる島津軍も、石田三成の陣の近くに布陣します。
そして、午前8時・・・東軍・井伊直政軍が西軍・宇喜多秀家軍に向かって発砲!!
一気に戦闘が始まりました。
しかし、義弘の島津軍は動こうとしません。
まるで東軍と西軍との戦いを傍観しているかのようでした。
その後、松尾山に陣取った小早川軍が東軍に寝返り、大谷吉継軍を背後から急襲します。
この小早川の寝返りで西軍は劣勢となっていきますが、義弘の軍は動きません。
島津軍の出撃をを今か今かと待っていた三成は、義弘の元へ伝令を送ります。
しかし・・・義弘は出撃の命を出しません。
そのうちに小西行長軍、宇喜多秀家軍の敗走が始まりました。
逃げ惑う兵たちが右往左往、大混乱が・・・!!
にもかかわらず、島津軍は動きません。
そのうち、しびれを切らした三成自らやってきて、出撃を促します。
しかし、義弘に代わって甥の豊久は答えます。
「人のことなど構う暇はござらん!!」

どうして義弘は島津軍を出撃させなかったのでしょうか?
島津軍は数が少なく、二番備え・・・先陣の次に攻め入る軍勢だったので、戦機を見極めようとしていた義久・・・。
そして、戦機が訪れなかったというのが本音でしょう。
数の少ない島津軍は、むやみに出撃すれば命を落とすことは確実でした。
そこで、少しでも勝てる機会を待っていたのですが、とうとう来なかったのです。

義弘は後に語っています。

もし、島津軍に5000の兵があればあの戦、勝っていたものを・・・!!

東軍の優勢が明らかになると、出撃しなかった島津軍にも容赦なく攻撃が・・・!!
島津軍の前方には、見渡す限り東軍の兵!!
背後には伊吹山が立ちはだかっていました。
島津軍は絶体絶命の危機に陥ってしまいました。
義弘は家臣たちに告げます。

「老武者のわしには、伊吹山の泰山は越え難し。
 たとえ討たれると言えど、敵に向かって死すべし!!」by義弘

数々の危機を乗り越えてきた義弘も、この時は死を覚悟しました。
そんな義弘を甥の豊久は諫めます。
豊久の想いは、島津軍全員の思いでもありました。
なんとしても義弘を生きて薩摩に・・・!!

石田三成が配送を始めました。
東軍は、ここぞとばかりに西軍に襲い掛かり、島津軍も四方八方を囲まれ絶体絶命の危機に・・・!!
すると義弘は、
「皆の者、退却する・・・!!」
義弘は、関ケ原を抜け出し、国元・薩摩に戻ることを家臣たちに告げます。
しかし、退却すると言っても1500の島津軍が、東軍だらけの関ケ原でどうやって逃げるのか・・・??
伊吹山を背にした島津軍の退却ルートは4つ。
東海道を幾ルートは、薩摩とは反対方向なので却下。
中山道を西に進む?北国街道を北に進む?
伊勢街道を南に向かう??
義弘の退却路は、伊勢路から・・・!!
しかし、伊勢街道は、家康直臣の軍勢がいる最も難しいルートでした。

義弘はどうして伊勢街道を選んだのでしょうか?
中山道は小早川軍1万5000。北国街道は黒田・細川軍など2万。。。伊勢街道ルートは1万にも満たず、敵兵が少なかったと思われます。
合理的で冷静な判断でした。
しかし、精鋭ぞろいの家康の部隊を突破することは容易い事ではありません。
ここから、島津の退き口という歴史に残る壮絶な退却戦が始まるのです。
少数の島津軍はどんな戦法を使ったのでしょうか?

穿ち抜け・・・とは、島津軍が得意とする戦法で、錐で穴をあけるように敵の一点を集中攻撃をして突破する、至近攻撃です。
まず、島津軍に立ちはだかったのは猛将の福島軍!!
これを突破します。
”孫子”には、死に物狂いの兵には近寄るなとあります。
これが当時の常識だったので、福島軍が道をあける形になってしまったようです。
さらに、東軍を突き進んでいく島津軍。
その激闘を東軍の兵のひとりが書状に残しています。

まず少ない島津軍は、東軍に飲み込まれながらこれを突破!!

まさに必死の戦いで敵陣を進んだ島津軍は、進路を南にとります。
伊勢街道を目指します!!
すると、そこに敗走する三成を追う家康本隊と遭遇してしまいました。
しかし家康軍は、島津軍をやり過ごし、先頭は起きませんでした。
一説では、この時義弘は、家臣を家康に差し向けこんな口上を述べさせたといいます。

「島津兵庫入道義弘、こたび はからずも御敵となり、戦い利あらずして ただ今、御陣頭を過ぎて本国薩摩へと帰り申す。
 わが心事については、後日改めて言上つかまつるべし。」と。

本意ではない戦いではあった・・・と。

生き延びて、このまま薩摩に帰ったとしても、西軍として戦った島津家に未来はありません。
ひとまず家康に礼を尽くしておく・・・義弘のしたたかな作戦だったのかもしれません。
関ケ原の戦いで、西軍の敗色が濃厚になる中、薩摩に変えるために敵中突破し伊勢街道を突き進む島津軍!!
東軍も島津軍を逃してなるものか!!
と、徳川四天王・井伊直政、闘将・本多忠勝による追撃が始まりました。
その際、島津軍の繰り出した作戦は・・・??捨て扞でした。
殿の兵が残って、討ち死に覚悟で戦って他の兵を逃がすという決死の戦法です。
島津軍は、兵の命を犠牲にしながら、穿ち抜けを何度もしたと思われます。

「明良洪範」によると・・・東軍にも思わぬ被害が・・・
井伊直政が右肩に被弾し落馬、重傷を負いました。
島津軍も、甥・豊久が命を落とします。まだ31歳の若さでした。
島津軍は、多くの命を失いながら、かろうじて伊勢街道を逃げ延びます。
島津軍が関ケ原から20キロほどの駒野坂に達したのは、午後7時ごろのことでした。
この時、島津軍の兵の数は、100にも持たなかったといいます。
しかし、薩摩はまだはるか先・・・
鈴鹿峠を抜けるとき、東軍の追撃だけでなく落武者狩りにも遭ってしまいます。
さらに、困難を極めたのが、食料の調達でした。
足りなくなった時は、軍馬で飢えをしのいだといいます。
島津軍がなんとか大坂に到着したのは、5日後の9月20日。
兵の数はさらに減り、70人余りだったと言われています。
そして、大坂から薩摩へ・・・!!

東軍の勝利に終わった関ケ原・・・西軍として参戦した島津家の事情を聴くために、島津義弘の兄で実権を握る義久に出頭を命じます。
しかし、義久はこれを拒んで防御を固めます。
対決姿勢を崩さない島津家に家康は、9月30日、九州の諸大名に島津討伐軍の結成を命じます。
ところが、家康はいつまでたっても攻撃の命を出しませんでした。
実際、島津家と戦うことによって混乱し、反徳川が蹶起する可能性があったからです。
結局家康は、島津討伐を断念することに・・・。

驚くことに、島津家の本領安堵が決定!!
62万石のままになります。
同じく西軍として戦った毛利家は、121万石から37万石に、四国の長宗我部家に至っては、領地没収という憂き目に・・・。

家康は、島津家に対して異例にも寛大でした。
この時、重要な役割を担っていたのは、島津の退き口で負傷した井伊直政です。
関ケ原から半年、直政は島津家に書状を送り、和睦を成立させるために自分が働くことを伝えます。

井伊直政は、島津軍の強さを身に染みて知っていました。
なので、戦いたくはなかったのです。
おまけに、南九州まで行くということは、大変で、上杉や毛利とも和睦できていない今、何が起こるかわからなかったので、島津との和睦を進めました。
関ケ原の戦い前と変わらず本領安堵を認められた島津家・・・
さらに、義弘の助命を勝ち取っています。
これ以上ない和睦でした。
これによって、島津家は生き残り、雄藩として江戸時代を生きていく基礎となりました。

無謀と思われた島津の退き口は、結果として薩摩藩を本領安堵へと導きました。
しかし、家康にとって島津家を処分できなかったことは、大きな心残りだったともいわれています。
そして、その家康の心残りが後に災いをもたらします。
それは、関ケ原の戦いから267年後のこと・・・家康が築いた江戸幕府は、その家康が許した島津家の薩摩藩
ら討幕派によって終わりを迎えることになるのです。

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