日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:石田三成

佐賀県唐津市・・・今から400年以上前、ここに戦国時代屈指の巨大な城がありました。
豊臣秀吉が築いた肥前名護屋城です。
高層の店主がそびえたち、周囲には全国の大名たちが陣を構えました。
城郭都市の人口は、30万人に及んだといわれています。
城の巨大さは、秀吉の大陸侵攻への野心の大きさでした。

秀吉が起こした文禄・慶長の役・・・
中国の王朝・明の征服を目論み、朝鮮半島を戦火に巻き込んだ対外戦争は、7年も続きました。
この無謀な戦争を止めるべく、講和交渉を担ったのが小西行長でした。
行長は、日本と朝鮮・明との講和を早急に実現しようと奔走します。
しかし、積年のライバル加藤清正が立ちはだかりました。

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玄界灘を望む交通の要衝に築城された肥前名護屋城・・・
面積17万平方メートルに及ぶ、当時日本最大級の城でした。
秀吉は、ここを拠点に大陸侵攻への野望を実現しようとしました。
秀吉の野心が記録に現れるのは・・・
織田信長の死後、その後継者となった秀吉が周囲の大名を次々と従え、天下に号令をかけようとしていたその時です。

「日本のことは申すに及ばず 唐国まで仰せつけられ候 こころに候」

関東の雄・北条氏を滅亡させ、遂に天下統一を成し遂げた秀吉・・・ここから大陸侵攻の意思をあからさまにしていきます。
建国以来、200年となる朝鮮王朝を経由し、中国・明に攻め入ろうとする壮大な計画・・・当時は唐入りと呼ばれました。
肥前名護屋城は、その前線基地でした。
城跡からは、秀吉の対外戦争にかける意気込みが浮かび上がってきます。
大手口から城の本丸へと向かうと・・・本丸には、壮麗な建物が並び立ち、高僧の天守がそびえていました。
玄界灘、そして大陸に睨みを利かすかのような巨大なシンボル・・・さらに、この城には、当時最先端の防御の工夫がなされていました。
秀吉の居館があった山里口・・・複雑に門が組み合わさっています。
外枡形をより発達させた門で、敵の侵入を防ぐために、屈曲が連なっています。
この連続外枡形は、後の熊本城や姫路城に採用され、近正の城郭に大きな影響を与えたと思われます。

城の周囲には、商人たちが城下町を形成していました。
人口は、爆発的に急増し、その数2,30万に達したといわれています。
今日や大阪、堺の商人でにぎわっていました。

”肥前名護屋は、日本一の港町である”

それだけではありません。
城を中心とする半径3キロ圏内には、各地の大名が集結・・・
現在確認されているだけでも、150もの陣が築かれていました。
東北から九州まで、日本中の大名が集められたのです。

大名の陣には、能舞台だけでなく茶室まで整備されていました。
大名たちは秀吉の命令に従い、城の周囲に堅固な陣を築き、長期的な対陣を覚悟していました。
この肥前名護屋城を拠点に、総勢30万もの大軍勢が動員され、7年に及んだ大戦争・・・
文禄・慶長の役が始まるのです。

熊本県宇土市・・・かつてここに、小西行長の居城・宇土城がありました。
現在、城跡に残る石垣は、行長の後にこの地を治めた肥後熊本藩主・加藤清正時代のものです。
行長が作った石垣は、この石垣の中にパックされています。
行長の痕跡は、積年のライバル・清正によって、跡形もなく消え失せています。
宇土城の本丸に建立された小西行長像・・・キリシタン大名として知られていましたが、関ケ原の戦いで西軍に属し、時代の敗者となりました。

行長は、初め備前の戦国大名・宇喜多氏に仕えていたと考えられています。
その後、宇喜多氏が織田信長と手を結んだことで、当時、信長配下で中国方面の攻略を担っていた秀吉に仕えることになったといわれています。

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信長の書状に、当時の行長の活躍が記されています。

”毛利方の警護船200艘ばかり海上を上がってきたところ、行長が船で乗り出し敵を追い払った
 実に素晴らしい働きである”

当時、来日した宣教師・フロイスも、こう記録しています。

”行長は海の司令官である”

こうした海での活躍が、信長・秀吉に重んじられた理由だと思われます。
瀬戸内海の、毛利の海ではない海(大阪に近い方)に従わせること・・・
各港の海の民・海賊衆、いざとなったら戦に船を提供してくれる人々・・・行長は、司令官としてその方々を説得して、秀吉政権が上手く回るようにしました。

秀吉の信頼を得た行長は、肥後南部を領する大名に抜擢されます。
この頃、秀吉は、行長はじめ、加藤清正、黒田長政など、子飼いの武将などを九州に配置、唐入りの準備を着々と進めていました。
その中でも特に交渉力に優れた行長に、朝鮮との交渉を担わせることにしました。

1592年3月、行長は朝鮮とのかかわりが深い対馬の宗氏と共に事前工作に奔走します。
目的は、仮道入明・・・朝鮮に道を仮、明に攻め入ることでした。
秀吉の計画は、肥前名護屋城から軍船を仕立て、壱岐・対馬を経由し、朝鮮に上陸。
兵を進め、明に侵攻するというものでした。
それには、朝鮮の協力が必要だったのです。

しかし、長きにわたって明を宗主国としてきた朝鮮が、こうした要求を受け入れるはずがありませんでした。
秀吉は、あくまで強硬姿勢を貫きます。
朝鮮が異議を申し立てるようなことがあれば、対峙すべきである!!
武力で朝鮮に攻め入ることになるのか・・・??
行長は、難しい交渉を託されたのです。
そして結果は・・・朝鮮は、日本に対する協力を正式に拒否!!
4月12日、行長はおよそ2万からなる第1陣を率いて朝鮮・釜山に上陸・・・文禄の役です。
翌日、早くも釜山の城を攻め、これを陥落させることに成功します。
戦闘は、僅か半日ほどで終了しました。
この時、勝敗を左右したとされるのが、当時の日本の主力兵器・鉄砲でした。
戦に習熟した秀吉の軍勢は、200年の泰平を維持してきた朝鮮王朝にとって、大きな脅威となりました。
釜山を陥落させた行長は、破竹の勢いで進軍!!
その4日後、加藤清正率いる第2軍が上陸します。
両軍は競い合うように朝鮮王朝の首都・ハンソン(漢城)・・・ソウルを目指しました。
そして、上陸から1月足らずで・・・5月20日、行長率いる第1軍がハンソンに入城しました。
この時、行長は、朝鮮に対し降伏を促す書状を作成・・・無益な争いを避けるため、これを朝鮮軍に届けようとしました。
ところが・・・加藤清正の軍勢に行く手を阻まれ、書状を届けることができなかったのです。
同じ日本軍とはいえ、行長と清正の戦略は違っていました。
清正は、秀吉に命じられた通り朝鮮の武力制圧、明への侵攻を目指しました。
そんな清正にとって、朝鮮との交渉を目指す行長の行動は、許しがたいものでした。
2人が手紙で相談したやり取りは、1通も残っていません。

清正との対立によって、朝鮮との交渉は暗礁に乗り上げてしまいました。
そこで行長は、さらに北上を続け、明との国境に近い平壌まで進出!!
今度は、明との直接交渉に臨もうとしました。
しかし、そんな行長の思いとは裏腹に、明は朝鮮の援軍のために大軍勢を平壌に向かわせていました。

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文禄の役・・・
行長率いる第一軍に続き、総勢16万の日本の軍勢が海を渡り朝鮮全土に侵攻しました。
行長はじめ、加藤清正、黒田長政、小早川隆景など、武将たちは朝鮮各地に・・・それぞれの地域を制圧しようとしました。ところが、文禄の役は僅か2か月でほころびを見せ始めます。
陸では、郷土防衛のため、朝鮮の有力者が地元の人々を義兵として組織、各地でゲリラ戦を展開し、日本を苦しめました。
さらに、海では朝鮮水軍を率いるイ・スンシンが、日本の軍船を各地で撃沈!!
これにより、日本からの兵糧や軍事物資の輸送がままならなくなっていました。

1592年8月・・・明との直接交渉を模索していた行長は、朝鮮在陣の武将たちと軍議を開きます。
このまま民へ侵攻するのは難しい・・・そこで決議したのが、年内への明への侵攻の延期でした。
1593年1月、明・朝鮮の連合軍5万の大軍勢が、行長のいる平壌を襲ってきました。
その攻防戦を描いた屏風では・・・鉄砲を駆使し、大軍を退けようとする行長の軍勢が書かれています。
しかし、およそ7000という少ない行長軍は、連合軍の総攻撃を前に、ピョンヤン撤退を余儀なくされてしまいます。
勢いに乗じた明・朝鮮連合軍は、首都・ハンソンを目指し南下・・・そこを、小早川隆景らが迎撃・・・ピョクチェグァンの戦い。
今度は明軍を撤退させます。
戦線は膠着・・・ここに、講和の期は熟したとみた行長は、明との接触を試みます。
戦争は、始めたら終わらせなければならない・・・その時、相手の国との交渉を行い、戦争開始よりも利益を得ることが大切です。
行長としては、この戦争で何も日本側に利益がきていないことから、相手との落としどころを探りたいと思っていました。

3月、行長は、明の使節との会談が実現します。
その結果、明との一時的な停戦協定が結ばれ、明の勅使の日本への派遣が決定されました。
行長は、その後家臣を明に派遣し、自らは日本と朝鮮を行き来するなど三年にわたって明の勅使を迎える環境を整えることに力を尽くしました。
そして、最終的に秀吉が明の勅使を受け入れるための条件を3つにまとめます。

①朝鮮の王子を来日させ秀吉の臣とする
②日本と明の間で勘合貿易を行う
③朝鮮八道のうち四道は日本領とする

当時、朝鮮は八道と呼ばれる行政区に分けられていました。
秀吉が求めたのは、南四道・・・明との交渉にあたり、これが一番の問題でした。
この時、明は日本に対して、朝鮮からの全軍撤退を求めていました。
互いに折り合わない条件の中、明との講和をどう実現すべきか・・・苦悩する行長・・・!!

時間をかけて講和条件を詰めていく??
それとも、秀吉と明勅使との対面を優先して講和の既成事実を作る・・・??

1596年9月1日、秀吉と明の勅使の対面が実現します。
行長の努力が実ったのです。
行長は、講和条件についてはいったん棚上げし、対面を優先したのです。
勅使から秀吉に対し、明の皇帝の言葉が伝えられました。

”ここに特になんじを封じて日本国王と為す”

柵封といわれる措置です。
皇帝から国王として承認を受けることで、中国と朝貢貿易を行うことができました。
近年の研究では、莫大な貿易の利益を生む条件に、秀吉は満足したと考えられています。
こうして両者の対面はうまくいき、秀吉も上機嫌でした。
行長は、事前に明の勅使に対し、領土問題を口に出さぬようにくぎを刺していました。
ところが・・・面会を終えた明の勅使が宿所に戻った時、事件が起きます。
勅使歓待のために派遣された日本の高僧が秀吉のこんな言葉を伝えたのです。

「おのれに対して要求するものはなんでも正直に言うがよかろう」

この言葉を聞いた明の勅使は、思わず朝鮮に駐留する日本の軍勢の撤退を口にしてしまったのです。
後でそれを伝え聞いた秀吉は激怒!!

「彼が激怒したのは、講和を結ぶためには朝鮮国の半分だけでも入手する己の考えを忘れてはいなかったからである」byフロイス

ここに、行長の講和交渉は頓挫してしまいました。
1597年2月、秀吉は再び朝鮮出兵を命じます。

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14万余りの大軍勢が渡海し、およそ2年に及んだ慶長の役が始まりました。
今度の戦は、明に攻め入るためではなく、秀吉がこだわった南四道への侵略が目的となりました。
秀吉は容赦なく、「老若男女、僧俗に限らず、あまねくなで斬りにせよ!!」と言明しました。
これにたいし、明や朝鮮は事前に戦闘態勢を整え、日本軍を迎え撃ちます。
行長も、1万5000の兵を率いて出陣!!
戦闘の傍ら講和を模索し続けます。
しかし、郷土防衛に徹する朝鮮に、日本との講和など考える余地もありませんでした。

朝鮮側の資料に、行長の言葉が残されています。

「朝鮮は文禄の役のとがを私の責任にしているが、それは事実ではない
 私は秀吉の命に従っているだけである」

自ら望んでいない戦いを強いられた行長の本音が垣間見えます。
戦闘は激しさを増し、凄惨を極めます。
京都にある耳塚・・・日本軍が戦果として持ち帰った耳や鼻を埋めて供養した塚です。
日本軍は、朝鮮の兵士のみならず、民衆に至るまで武力で蹂躙・・・各地に深い傷跡を残していました。
泥沼化の一途をたどった慶長の役・・・1598年8月・・・秀吉の死去と共にようやく幕を閉じました。

大陸侵攻の前線基地として築かれた肥前名護屋城・・・!!
秀吉の野望のシンボルは、僅か7年でその役割を終え、人口30万を誇った城郭都市と共にやがて消え失せていきました。

文禄・慶長の役に動員された全国の大名は、新たに獲得した土地もなく、莫大な戦費ばかりを負担することとなりました。
その不満の矛先は、講和交渉に失敗し、戦を長引かせた小西行長や石田三成に向けられました。
一方、朝鮮に出兵することなく国内で実力を蓄えた徳川家康の権勢は増しました。

1600年9月15日、三成や行長は、反家康の軍勢を集め挙兵!!
東軍と西軍を二分した関ケ原の戦いです。
わずか半日で決した戦いは、行長が属した西軍の敗北となりました。

行長は、三成と同じく西軍の首謀者として捕らえられ、10月1日処刑・・・43年の短い生涯だったと伝えられています。
江戸時代以降、行長は家康に歯向かった大悪人として伝えられ、その実像は覆い隠されました。
1980年、没後380年を記念して、行長の銅像が建てられました。
しかし、落成後、すぐにトタンでおおわれいます。
当時、まだ大悪人のイメージがついていて、反行長派の破壊行為から銅像を守るために2年間もおおわれていました。
宇土の地域で神社仏閣を焼き払ったという誤った伝承があり、市民感情が非常に悪かったのです。
小西行長は、歴史に何を残したのか・・・??
その評価は、今でも問われています。

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「小西行長 講和への模索・・とめられなかった文禄・慶長の役・・」




1600年9月15日に起きた天下分け目の関ケ原の戦い・・・
西軍を率いる石田三成と、東軍率いる徳川家康が激突しました。
時を同じくして、遠く離れた北の地でもう一つの関ケ原が繰り広げられていました。
慶長出羽合戦です。

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慶長3年8月18日、天下人豊臣秀吉が亡くなると、一時期平穏だった世の中に暗雲が漂い始めます。
豊臣政権を支えていた五大老筆頭の徳川家康が、暴走始めたのです。
家康は、自分以外の大老を帰国させるとで全権を掌握していきます。
さらに、反家康の急先鋒であった石田三成を追放するなど、邪魔者を次々と排除していきました。
同格だった大老・前田利家亡き後、虎視眈々と天下を狙う家康にとって、もっとも目障りだったのが上杉景勝でした。
先代・上杉謙信の跡を継ぎ当主となっていた景勝は、会津120万石の大大名で、豊臣政権を支える東日本の要となっていました。
家康は、そんな景勝を潰しにかかりますが・・・
真っ向から立ち向かったのが、上杉家の名参謀・直江兼続でした。
兼続は、1560年、越後国に生れました。
父が上杉家に仕えていましたが、地位は低く、恵まれた環境ではありませんでした。
兼続の運命が大きく変わったのが、5歳の時。。。
上杉景勝の世話が狩り・・・近習として取り立てられます。
幼いころから聡明だったといわれる兼続は、どんな人物だったのでしょうか??

景勝が、上杉謙信の養子となって迎えられ春日山城内に入った時、共に春日山上に入り、上杉謙信という名将の義の心を学んでいます。
名を上げるきっかけとなったのが、上杉家の家督相続争いでした。
謙信亡き後、養子であった鐘勝人景虎との間で跡目争い・・・1578年御館の乱勃発!!
直江兼続の行動は迅速でした。
春日山城内の御金蔵を押さえます。
その判断がなければ景勝が負けていた可能性がありました。
この戦に勝利した兼続は、その後も数々の武功をあげ、上杉家のNo,2となっていきます。

直江兼続の兜の前立ての愛には、どんな意味があるのでしょうか??
それは人間愛だけではありません。
兜の愛の下には雲がかかっています。
当時、武将たちは軍神を信仰していました。
愛宕勝軍地蔵・愛染明王・・・雲の上に乗っている神様の意味でした。
軍神を表す愛の文字・・・軍略に長け、主君のため忠義を尽くし、戦い続けた兼続らしい兜です。

1600年4月13日、上杉家のNo,2となり、政治・軍事を取り仕切っていた兼続のもとに、上杉家を揺るがす1通の手紙が届きます。
上杉討伐を狙っていた家康の命によって送られた弾劾状です。

”越後の堀秀治が、景勝のことについて家康さまに訴えているので、景勝の陳謝が必要である”

とありました。
当時、上杉家は、越後から東北の重要拠点である会津へと国替えになったばかりでした。
その後、越後に入ってきたのが堀秀治でした。
問題は年貢・・・越後国の年貢の半年分を、上杉は徴収しました。
そこで、堀秀治が直訴したのです。
さらに、弾劾状には家康が上杉に対して不信感を抱いている旨が書かれていました。

ひとつは景勝が家康に挨拶に来るための上洛が遅れているということ、もうひとつは、上杉家が道や橋を整備し、武具を集めているということです。
これらの動きを謀反のための戦の準備をしているのでは??と、いうものでした。
書状を受け取った兼続は、すぐに返事を認めました。
それが、関ケ原の戦いの発端となったといわれる直江状です。
謀反の疑いをかけられた上杉家の危機に、兼続が出した返答とは・・・??

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家康が、上杉に謀反の疑いをかけ送りつけた弾劾状に対し、直江兼続が返した直江状とはどんなものなのでしょうか??
それは、長さ4m、16ヶ条にも及ぶ長い書状で、見た家康は激怒したといいます。
内容は、家康の弾劾状に対しての反論だったからです。
驚くほど丁寧に反論しています。
そして、主君・上杉景勝の上洛に対しては、家康に真っ向から反論します。
それは言いがかりであると・・・!!

主君・上杉景勝が上洛を引き延ばしているという批判に対しては・・・

”国替えがあって程なく上洛し、昨年、ようやく国に戻ったのにもかかわらず、また上洛せよとは・・・
 それではいつ、領国の政務を執ったらよいのでしょうか
 ことに、こちらは雪国なので、十月から三月まではどうすることもできません”

冬の会津の悪条件を述べ、再三にわたる上洛命令を非常識としながら、家康に対し謀反の意がないことを示しています。
また、上杉を訴えた堀秀治への陳謝の上洛に対しては、堀を讒人・・・人を陥れる悪人と言い放ち、

”讒人が言っていることを厳しく糾明してこそ、御懇切の証拠であるのに、理由もなく逆心と言い上洛を命じるのは乳呑み子のような扱いです
 讒人の糾明がないうちは、上洛はできません”

兼続は、きっぱりと上洛を拒否し、さらにこう続けます。

”主君・景勝が間違っているのか、内府様・家康公に表裏があるのか”
”上杉家累代の律儀の名と、弓箭の覚えまでも失ってしまうことになる”

それがたとえ家康の命令であっても、上杉家の家名にかけて間違ったことはできないというのです。

直江状を受け取った家康・・・
書状に激怒する一方で、伏見城の広間でほくそ笑んでいた・・・??
1600年5月、直江状に激怒した家康は、上洛拒否を明言した上杉家の討伐を決断し、直ちに諸大名に出陣命令を下します。
側近たちは諫めたものの・・・家康は聞き入れません。

もう一つの関ケ原・・・慶長出羽合戦まで79日!!

1600年6月18日、家康自ら総大将となって息子・秀忠と共に会津に進軍を開始しました。
さらに、陸奥・伊達政宗、出羽・最上義光にも兵を出させ、15万を超える大軍勢で上杉包囲網を作りました。
強大な徳川軍を迎え撃つこととなった上杉景勝と直江兼続は、徳川軍撃破のため周到な作戦を立てます。

福島県白河市・・・ここに、兼続の作戦を知るある物が残されています。
兼続が、徳川軍をせん滅するためにしかけた罠・・・革籠原防塁です。
高さ4m、幅7mの防塁で、総延長は3キロメートルにも及びました。
上杉軍は、まず先陣である秀忠軍と交戦・・・敗北したと見せかけて、軍勢を革籠原防塁までおびき寄せます。
そこに水を引き込んで、ぬかるみを作り、秀忠軍を足止めさせ、待ち受けていた援軍によって攻撃・・・さらに、救援にやってきた家康の本体を別動隊が襲い、徳川軍を一気に壊滅させるという計画でした。
この防塁を作るにあたって、兼続は6万人を動員し、3か月で作ったとされています。
兼続は、奥州街道を封鎖し、敵が確実に革籠原に来るように新たな道を作り誘導・・・
総勢8万4000の軍勢で迎え討とうとしていました。
兼続の周到な戦略はそれだけではなく、江戸時代に書かれた”史料綜覧”によると・・・

”これより先、石田三成、密かに陸奥・会津の上杉景勝と通じ、徳川家康の東下に乗じ、兵を挙げんことを謀る”

関ケ原の戦いで、西軍の指揮官となる石田三成と、上杉家とが通じていると書かれているのです。
上杉家の領国・会津若松にも、三成との関係を伺える記録が残されていました。
国替えとなった際に、会津の村人たちに出されたお触れの最後には・・・
直江兼続に加えて、石田三成の署名が記されています。
村人に対するお触れに、他の国の武将が署名するのは珍しいことでした。

上杉だけでは困難な会津への国替えを早急に遂行するために、三成が手を貸していたのです。
上杉のNo,2が兼続、豊臣家のNo,2が三成で、2人は同い年でした。
信頼しうるような関係で、反家康という利害でも一致、盟友という関係でした。

直江兼続と関ケ原 [ 福島県文化振興財団 ]
直江兼続と関ケ原 [ 福島県文化振興財団 ]

打倒・徳川家康・・・直江兼続と石田三成が練っていた策とは・・・??
まず、家康を上杉討伐に向かわせることで、上方を手薄にし、その上で三成が挙兵!!
さらに、佐竹氏ら有力大名と結託し、会津と上方から家康を挟み撃ちにするという大戦略です。
兼続は、この一戦に天下をかけていました。
豊臣家のために、家康の暴走を止め、上杉の存在を認めさせたいと・・・!!

1600年7月24日・・・会津の上杉討伐に乗り出した家康は、上杉軍の目と鼻の先・下野小山に到着しました。
そんな時、先陣を切った男がいました。
家康から上杉討伐の命を受けていた伊達政宗です。
政宗は、白石城を攻撃し、上杉軍を追い詰めますが・・・この行動に家康は激怒・・・!!
闘いをはじめろとは言っていなかったのです。
そんな家康に、この日・・・石田三成挙兵の一報がもたらされます。
三成に従う諸大名が、大坂城に集結しているという知らせに、家康はすぐに会議を開きます。
世に言う”小山評定”です。

家康は、上杉攻めを中止し、上方に戻ることを決断!!
大名たちは驚きましたが、家康には目論見がありました。
会津攻めは、三成挙兵の誘い水だったのです。
これ以後は、家康の計算された行動でした。

直江状を受け取った家康は、ひっそりとほくそ笑んでいたのは、これをうまく使えば三成を担ぎ出し、戦いの口実を作ることができると考えたからでした。

もう一つの関ケ原・慶長出羽合戦まで33日・・・
1600年8月5日、家康は上杉討伐を中止し、三成を討つために江戸にもどります。
しかし、そこからはなかなか動けず・・・その理由の一つが、共に戦う豊臣ゆかりの武将たちが、最後まで家康支持を貫くかどうかという不安があったためです。
それを見極めようと、家康は122通にも及ぶ書状を出し、東軍内部の体制固めに1か月を費やしました。
さらに、家康を江戸に足止めしたのには・・・江戸城を離れ出陣した際に、上杉・佐竹軍が背後から攻め上ってくると徳川軍は挟み撃ちの危険があったからです。
しかし、まさに、これこそ直江兼続と石田三成が建てた徳川壊滅作戦の筋書きでした。
徳川軍の崩壊は、上杉軍にとって千載一遇のチャンスでした。

「殿、直ちに追撃いたしましょう
 後退した今、徳川を討てるまさに最良の時・・・三成と挟み撃ちすれば、勝利は我らのもの!!」by兼続

しかし、どんなに説得しても、景勝は首を縦に振りません。

「謙信公は敵の背後を襲うことはなかった」by景勝

追撃を許さなかったのです。
兼続は諦めるしかありませんでした。
しかし、この時上杉軍は、家康を追撃する状況にはありませんでした。
戦術に長けていた兼続ですが、にっくき家康を討ちたいという思いの強さから先走ってしまったようです。
上杉軍は、完全に包囲されていました。
北には最上・伊達が、西には越後の堀がいたのです。
この状況を打破するため、兼続は越後での一揆を画策します。
弟を越後に侵入させ、一揆を続けたことで、堀をくぎ付けにしました。
問題は、家康が上杉軍を押さえるために残していった伊達と最上でした。
追撃されることを恐れた家康が、上杉軍への圧力として残した伊達軍と最上軍・・・
しかし、残された両軍は、家康が引き揚げたことでかなり動揺します。
政宗は、上杉軍に停戦を申し入れます。

伊達な文化の伝承と記憶 伊達政宗公生誕四五〇年記念 [ 古田義弘 ]
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残るは最上軍!!
それが慶長出羽合戦です。
1600年9月9日・・・直江兼続を総大将とした2万4000の上杉軍が、最上領に進軍します。
120万石を有する上杉に対し、最上は20万石でした。
城攻めを得意としていた上杉軍は、最上軍の城を次々と落としていきます。
ここには、軍略に長けた兼続の狙いが・・・
上杉の所領が、最上と分断されていました。
それが手に入れば、背後を取られることはない・・・と、最上領に侵攻したのです。

9月15日、戦を優位に進める兼続は、最上軍最後の砦・長谷堂城へ総攻撃をかけます。
そして、まさにその日・・・美濃の関ケ原では、東西16万の軍勢が対峙していました。
関ケ原の戦いです。
家康率いる東軍7万2000と、三成率いる西軍8万4000!!
兵力では、家康は不利な状況にありました。
午前8時・・・天下分け目の戦いの火蓋が切られ・・・両軍互いに一歩も引かない攻防戦が続きました。
一方、北で繰り広げられていたもう一つの関ケ原の戦いは・・・
上杉軍2万4000に対し最上軍はわずか3000!!
上杉軍が圧倒的有利に立っていました。
しかし・・・何日たっても城を落とせません!!
そこには、直江兼続の誤算がありました。
長谷堂城は、標高230mほどの丘陵に立つ小さな山城です。
しかし、本丸を中心にして無数の防御陣地を備え、山全体が水堀で固められた守りの堅い城でした。
さらに、城の周囲には田園地帯が広がり、これが上杉軍の進軍を阻んだといいます。
ぬかるんだ田んぼに足を取られ、なかなか前に進めませんでした。
なんとか外堀まで侵攻するものの・・・山の上から鉄砲の集中砲火を浴び、多くの兵を失ってしまいます。
思わぬ持久戦となった上杉軍を、さらに追い詰めたのが、最上軍に伊達政宗の援軍が到着したことでした。
敵の士気は一気に上がりました。
そんな中、兼続に思わぬ知らせが届きます。

関ケ原で西軍・石田三成敗れる・・・!!

予想外の、わずか数時間の戦でした。
このままここに残っていては、戻ってきた徳川軍との挟み撃ちにあってしまう・・・
主君・上杉景勝からは、即時撤退の命令が下されました。
直江兼続・・・無念の撤退でした。

10月1日、兼続は撤退を開始しましたが、敵地から追撃を受けながら2万もの大軍を引かせるのは至難の技でした。
兼続は、会津に繋がる狐越街道に敵を集中させようと、一計を案じました。
兼続率いる部隊がおとりとなって狐越街道に後退し、それを伊達・最上に追撃させます。
そのすきに、別の道を使い上杉本体を本国に撤退させるという作戦でした。
この時、直江兼続は自ら殿を務めて闘ったといいます。

兼続の活躍により、上杉軍は3日後には米沢に到着。
こうしてもう一つの関ケ原も、西軍の敗退という結果で終わったのです。

暴走する家康を止めたい・・・上杉家の存在を知らしめたい・・・
強い思いで家康に戦いを挑んだ北の関ケ原・・・
その戦に敗れた兼続は、主君・景勝と共に家康の元を訪れ謝罪・・・
そして、会津120万石から米沢30万石に減封を命じられるのです。

徳川家に従うことになった上杉は、大坂冬の陣で大活躍、家康に勲功を讃えられた兼続は、こう答えました。

「慶長出羽合戦に比べれば、大坂の陣など簡単で、子供の喧嘩のようでした」by兼続

戦に負けてもなお、武士としてのプライドは健在でした。

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天下分け目、関ケ原の合戦・・・わずか半日で決着がついたといわれていますが、戦いが行われていたのは関ケ原だけではありませんでした。
この時、遠く九州を舞台にもう一つの関ケ原の戦いが繰り広げられていました。
その主人公が黒田官兵衛・・・秀吉の天下統一を軍師として支えた人物です。
秀吉の死後、全国の武将が東軍と西軍に分かれ、決戦の時が近づいていました。
この時、九州の領主だった官兵衛は、大胆な行動に打って出ます。
蓄えていた金銀によって、9000もの兵を集め、九州各地への侵攻を開始したのです。
領主も兵も関ケ原に赴き、守りが手薄になっていた城を次々と落としていきます。
その勢いはすさまじく、九州に残る敵は、薩摩の雄・島津氏のみとなりました。

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江戸時代の逸話集に、官兵衛がこういったと書かれています。

「家康を攻め滅ぼし 天下を取らんと思わんには いと易きことなり」

果たして官兵衛には、天下取りの野心はあったのでしょうか?
大分県中津市にある中津城・・・豊臣秀吉の九州平定後、この地の領主となった黒田官兵衛が築いた城です。
中津城は、山城ではなく平地に城を築いています。
側には川が流れており、船を通じて色んな物資をそして情報をダイレクトで把握することができます。
物流の大動脈を、城が直接おさえていました。

川と海に面して築かれた中津城。
官兵衛は、大坂との間に早船のルートを作り、上方の情報をわずか3日ほどで手に入れていました。
秀吉死後の権力争いや、石田三成の挙兵についてもいち早く情報を掴んでいたといわれています。
今も残る官兵衛時代の石垣からは、海のそばに強固な城を作るため、官兵衛が施した工夫がみられます。
官兵衛は、長細い石を横に使うのではなく奥に縦に使う・・・川のそばで地盤としては強力でないということに配慮していました。
400年の時を越えて、石垣が今も立派に残っているのです。

もともと播磨国の小領主に過ぎなかった黒田官兵衛。
しかし、豊臣秀吉に仕えて以降、天下統一の参謀役としてその才能を如何なく発揮します。
中国地方の雄・毛利氏との戦いでは、川を堰き止める大胆な作戦で、備中高松城を水没させます。
さらに、本能寺の変が起こるや驚異的な速度での行軍で、中国を大返しを成功させました。
近年発見された賤ケ岳の戦いで秀吉が送った書状・・・
ここでも、官兵衛が戦に加わっていたことが見て取れます。
その後も、四国平定や、九州平定で功をあげ、1587年、豊前6郡(12万石)を与えられます。
しかし、それは、官兵衛の功績からすると少なすぎるとの見方もあります。
その理由については、黒田家が編纂した「黒田家譜」にはこう記されています。

”官兵衛の大志あるを忌給ひ
 其功は大なるといえども
 終に大国を賜わらず”

官兵衛に野心があると秀吉が考えたため、領地を多く与えなかったというのです。
秀吉の官兵衛に対する警戒・・・
それを示す事実がもう一つあります。
領地を与えられた九州は、治めるのが非常に難しい土地でもありました。
秀吉は、九州平定に当たって、国衆や地侍に領地の安堵を約束。
しかし、実際には、検地を強行して隠していた田畑を明らかにし、領地替えを命じるなど、それまでの権益を奪い、支配を強めていきました。
その為、秀吉が送り込んだ領主への反感が高まり、九州各地で大規模な反乱が勃発!!
肥後を与えられた佐々成政は、度重なる反乱によって領地支配に失敗し、秀吉から切腹を命じられます。
官兵衛が領主となった豊前でも、各地で国衆の反乱が起きていました。

中津城の東・20キロの場所にある高森城・・・官兵衛が、豊前を統治するために築いた城です。
城の本丸は、二重の堀によって守られ、迫りくる敵に矢や鉄砲を撃つ櫓台まで設置されていました。
官兵衛は、この高森城のような軍事要塞を各地に設置、それを拠点に反抗する国衆たちを次々と打ち破っていきました。
官兵衛の居城・中津城にある城井神社・・・これは、官兵衛に滅ぼされた武将を祭ったものです。
祭られている祭神は、宇都宮鎮房という戦国武将です。
宇都宮氏は、鎌倉時代から約400年間豊前の地を拠点にして支配をしていました。
新たにやってきた黒田家・・・黒田官兵衛に対して反抗します。
秀吉は、豊臣政権に反抗する国衆への厳しい処分を命令。
官兵衛の、宇都宮鎮房への対応も凄惨なものとなりました。
鎮房と一旦和睦し、中津城に招き入れて、家臣もろとも暗殺したのです。
さらに家族も捕縛し、磔にしてしまいます。

官兵衛は調略を得意として、だまし討ちを好むタイプの武将ではありませんでした。
自分としてはやりたくはなかった・・・
しかし、秀吉の命令で、ジレンマに陥り、その犠牲になったのが鎮房
でした。
秀吉の命令を実行するときには、それに抵抗する者は討たざるを得ない・・・!!
苦しい立場に置かれていました。
秀吉の命令に納得できない思いを持ちつつも、従わざるを得なかった官兵衛・・・
豊前入国から2年後の1589年、領内の抵抗勢力を一掃します。
しかし、この豊前支配での苦悩は、官兵衛にある思いを抱かせました。
九州は、島津氏をはじめとして、古くからの大名と新たにやってきた大名が入り混じった土地でした。
秀吉が、しっかりしていれば統治体制は揺るがないものになる!!
しかし、秀吉に何かあったら・・・豊臣政権の権威が揺らぐようなことがあれば、九州は一波乱ある!!
そのチャンスは絶対来ると、準備をしていたのが官兵衛でした。
稀代の軍師・黒田官兵衛・・・彼は、この九州・豊前の地で、関ケ原の戦いへと向かう時代を眺めていました。

1598年、天下人・豊臣秀吉が死去。
その後、主導権を握ろうとする徳川家康と、豊臣体制を守ろうとする石田三成の間で激しい権力闘争が起こります。
全国の大名は、家康につくか三成につくか、選択を迫られました。
官兵衛が領地を持つ九州では、薩摩の島津、筑後の立花宗茂、肥後の小西行長といった有力大名が西軍につきました。
東軍に与したのは、肥後の加藤清正など少数でした。
そんな中、官兵衛の動きは奇妙でした。
嫡男・黒田長政が正妻を離縁して家康の養女と結婚。
家康につく立場を鮮明にします。
その一方で、西軍の総大将となった毛利輝元の家老に官兵衛は書状を送っています。

”輝元様が大坂城に移ったことは、めでたく存じます
 豊臣秀頼様に別心(二心)ある者は存在すべきではなく、やがてめでたく鎮まることでしょう”

毛利輝元の大阪城入城を讃え、西軍に心を寄せているような言葉を伝えているのです。
歴史の結果を知っている立場からすると、東軍・家康方が勝って当然と思いますが、この時点で現場に置かれていた武将たちにしてみれば、まだ西軍の勝つ見込みがあったのです。
官兵衛にしても、どちらが勝つか見えていない時点では、西軍にもすり寄る必要があったのです。

東軍か、西軍か、立場をはっきりさせない官兵衛・・・

しかし、関ケ原の戦いに向け、着々と準備を整えていました。
家康の元に送った長政率いる黒田軍本隊とは別に、兵を集めました。
蓄えていた金銀によって、新たに召し抱えた浪人は、およそ3600人!!
さらに、領内の百姓からも希望者を募り、総勢9000もの軍を組織しました。
そこに、九州の情勢を変化させる新たな動きが生じます。
かつて豊後国を治めていたながら秀吉に領地を没収されていた大友義統が、毛利輝元の後押しで西軍として九州に戻ってきたのです。
官兵衛は、即座に東軍として動き始めます。
新たに組織した黒田軍を率いて、大友軍に向けて出陣!!
1600年9月13日、現在の大分県別府市で、大友軍と石垣原の戦いと呼ばれる激闘を繰り広げます。
官兵衛は、寄せ集めの兵を指揮しながら、大友の名だたる武将を討ち取っていきます。
9月15日、大友義統降伏・・・
奇しくも関ケ原の戦いと同じ日でした。
その後、官兵衛は、領主と兵が上方の戦いに赴いて守りが手薄になっていた西軍の城を立て続けに攻略。
毛利氏の香春岳城と小倉城も攻め落とし、豊前と豊後、二か国を占領しました。
西軍の多い九州で、東軍となったからこその離れ業でした。

官兵衛は、戦の直前に家康の右腕だった井伊直政から書状を送られていました。

””家康はどこに出兵しても構わないとのこと
 また手に入れた国は与えると仰せになっています”

あらかじめ、家康から手に入れた領地を自分のものにする約束を得ていたのです。
この時の官兵衛は、戦国の論理そのものでした。
戦いに買って、敵地を奪っていく・・・自分の領地を増やしていく・・・
九州各地を荒らしまわって、自分の土地を増やしていこうというものでした。

次に官兵衛の標的となったのは、筑後・柳川の立花宗茂でした。
西軍についていましたが、関ケ原の戦いののち、領地に逃げ帰っていました。
猛将と名高い宗茂が相手でしたが、この頃には、2人の大名が官兵衛に加担するようになっていました。
関ケ原の戦いの前から官兵衛と連絡を取り合っていた肥後・熊本の加藤清正、西軍につきながら関ケ原のたあ他界に参戦せず東軍に寝返った肥前の鍋島直茂です。
三方から責め立てられた立花宗茂は、降伏せざるを得ませんでした。

立花宗茂 戦国「最強」の武将 (中公新書ラクレ 712) [ 加来 耕三 ]
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関ケ原の戦いからおよそ1か月・・・
九州の大半を傘下に治めた官兵衛・・・残る西軍勢力は、薩摩・大隅を治める島津氏のみとなりました。
関ケ原の戦いに乗じて九州の西軍勢力を次々と撃破していった官兵衛・・・
最後まで残った西軍・島津氏を攻めるため、薩摩へと軍を進めました。
先鋒に選んだのは、降伏させたばかりの名将・立花宗茂でした。
さらに、加藤清正と鍋島直茂、九州の雄の二人の兵も加わり、軍勢は4万を越えました。
しかし、薩摩との国境・水俣まで進軍したところ、家康から思わぬ書状が届きます。

”立花宗茂を召し連れて薩摩へ出陣し、加藤清正・鍋島直茂と相談して戦うとのこと、まず年内は中止することがもっともなことです”

家康は、島津への攻撃中止を求めてきたのです。
島津攻めを前に、大きな選択を迫られた官兵衛・・・どうする??
家康に従う??それとも従わない・・・??

加藤清正と自分が力をあわせれば、島津を押さえ込める自身は持っていました。
どうしてここで停戦をしなければならないのか・・・??
官兵衛が、薩摩侵攻の先鋒にしたのは、立花宗茂でした。
この立花宗茂は、薩摩とも懇意でした。
官兵衛自身も、島津義弘と親しくしていたことが分かっています。
島津と敢えて戦わず、和睦して傘下におさめることもできる状況でした。
もし、島津を引き入れることができれば、九州一円が官兵衛の配下となり、家康と対等に向き合える可能性もありました。
どうする・・・官兵衛・・・??

家康から薩摩攻め中止命令が出てから10日後、官兵衛は、島津の元へ使者を出します。
薩摩への攻撃中止を正式に伝えたのです。
こうして官兵衛の九州での戦いは終わりを告げました。
黒田家は、関ケ原の戦いでの黒田長政の功績により、筑前52万石に加増。
しかし、戦で切り取った土地は与えるという家康の約束が果たされることはありませんでした。

筑前国を与えられた黒田家が築いた福岡城・・・
黒田官兵衛集大成の城です。
その城づくりからは、徳川の世になってなお、官兵衛が実践を強く意識していたかが伺えます。
さらに、福岡城の守りを堅固なものにしていたのが、今も官兵衛の時代から同じ位置に立つ多門櫓です。
櫓の内部には、16もの部屋が作られ、守りの兵を多数配置できるようになっています。
そして国境には、筑前六端城と呼ばれる6つの城が置かれ、強固なネットワークが築かれました。
福岡城の三の丸に置かれた御鷹屋敷で晩年を過ごした官兵衛・・・
関ケ原の戦いから4年後の1604年、59歳にしてその人生を終えました。

官兵衛は、島津攻め中止という家康の命令に従うことを選びました。
しかし、黒田家の記録の中に、彼の本心が隠されていました。
官兵衛の嫡男・黒田長政の遺言状・・・
そこには、長政が聞いた父・官兵衛の壮大な計画が書かれていました。

”官兵衛が大坂方と通じれば、加藤清正は喜んで味方になるはずだ
 その外の九州大名である島津・鍋島・立花らが大坂方なので、九州の大名が結束して京へ向かえば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が家康一人と戦うことは、卵の中に大きな石を投げ入れるようなものだ”

壮大な野望を胸に秘めていた黒田官兵衛・・・彼がもし、違った選択をしていれば、再び天下分け目の決戦が起こっていたかもしれません。

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黒田官兵衛 知と情の軍師 [ 童門冬二 ]
黒田官兵衛 知と情の軍師 [ 童門冬二 ]

1590年、豊臣秀吉が天下を統一!!
しかし、ようやく終止符が打たれたはずの戦国の世は、2人の武将の反目によって大きく揺らぎだします。
武勇秀でだ強者・加藤清正と、頭脳明晰な切れ者・石田三成です。
そんな2人の亀裂が、あの関ケ原の戦いを招くことになりました。

1574年、近江・長浜城・・・
織田信長の家臣であった羽柴秀吉が、この地で初めて一国一城の主となりました。
有能な二人の少年が、臣下に加わりました。
石田三成と加藤清正です。
三成は、当時15歳、秀吉の身の回りの世話をする近習番として仕え、抜群の計算能力を持つ勉強家でした。
一方、清正は、三成の2歳年下で、剣術の才能に恵まれ、武芸に秀でていました。
2人はともに秀吉にかわいがられ、切磋琢磨しながら成長していきます。

そして・・・最初にその名を轟かせたのは清正でした。
1583年、近江国・賤ケ岳・・・信長亡き後、次なる覇権をめぐって秀吉と柴田勝家が激突!!
主君・秀吉の命運をかけた戦いで、何としても手柄を立てたいと血気に逸る清正でしたが、乗っていた馬が足を痛めて使えなくなります。
すると・・・「馬が駄目なら走って秀吉さまのお供をしよう!!」
なんと、50キロの道のりを走り通したのです。
そればかりか、戦場につくや否や敵将・山路正国を討ち取り、七本槍の一人として功名をあげました。
その後、清正は、戦で活躍する武断派の中心として秀吉の領土拡大に貢献します。
遂には、功績が認められ、肥後国54万石の北半分、25万石の大名となったのです。

一方、三成は、胃腸が弱かったので戦場に出ると緊張するのかよく腹を壊して大きな武功をあげるどころではありませんでした。
その代わりに、豊臣家臣随一の才知を活かし、戦での食料や武器、兵員の調達など、兵站を担当!!
裏方として活躍します。
こうして二人はそれぞれの分野で秀吉に貢献していきます。

逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 [ 井沢 元彦 ]
逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 [ 井沢 元彦 ]

そして1590年、秀吉は最後まで抵抗していた小田原の北条氏を破ると、天下取りが実現します。
それはまさに、三成と清正の夢が叶った瞬間でもありました。
しかし、この天下統一が二人を引き裂いていきます。
平和な世の中になったことで、武功を立てて出世する武断派の活躍の場・・・戦が無くなってしまいました。
そんな武断派と入れ替わるように台頭したのが、豊臣政権の政務を取り仕切る奉行派です。
その中心だった三成は、秀吉の天下を不動のものとするため、天才的政策立案能力を発揮します。
一揆を未然に防ぎ、法治国家としての治安を維持する刀狩りや、租税の大元となる田畑の測量・太閤検地を全国的に実施するなど、豊臣政権になくてはならない存在となっていきます。
そうした奉行派・三成の重用に対し、武断派の清正は反発するようになっていきます。

佐賀県唐津市・・・かつてこの地にそびえていた名護屋城は、秀吉が新たな戦いのために造った城です。
1591年、築城を任されたのは、城づくりの名人と言われた清正をはじめとする九州の大名達でした。
清正はわずか5か月で、巨大な天守を中心とする多数の櫓が立ち並ぶ、大坂城に勝るとも劣らない城を築き上げたといいます。
さらに、周囲3キロ圏内に120もの陣屋が築かれ、その陣容はかつてない大戦の始まりを告げていました。
それこそ、天下統一を果たした秀吉が、朝鮮半島に攻め入る、そこから明の征服を目指すという朝鮮出兵です。
この秀吉の海外侵攻に燃え上がったのが、朝鮮半島に近い九州肥後半国の領主だった清正でした。
秀吉から同じく肥後を納める小西行長と共に、その先陣を任されたのです。
奉行派に主導権を握られていた清正にとって、まさにチャンス!!
清正は、朝鮮半島に渡る前、こう語っています。

「武勲を立て、朝鮮で20か国を拝領したい」by清正

清正にとって、朝鮮出兵は自らの領地を増やす新しい夢の始まりでもあったのです。

一方、三成は朝鮮出兵に大きな疑問を感じていました。
政務を取り仕切る奉行派・三成にとっては、

「今大切なのは、豊臣の世を不動のものとする国づくり。
 新たな戦は、百害あって一利なし・・・」by三成

そこで、秀吉に異を唱えたものの、聞き入れられず、主君に従う他、ありませんでした。

1592年、遂に日本軍15万9000が、海を渡り朝鮮半島に上陸・・・
この大軍のうち、1万人余りを率いる司令官を任された清正は、陣頭指揮に立ち、釜山に上陸し北上・・・瞬く間に朝鮮国の都・漢城(ソウル)を陥落させます(文禄の役)。
そして、朝鮮の二人の王子を捕らえ、明との国境まで進軍するなど破竹の快進撃!!
まさに、武断派の面目躍如でした。
流れ星型兜をかぶり、南無妙法蓮華経と染め抜いた旗を持った清正は、朝鮮の兵士たちから鬼上官・幽霊将軍の異名で畏れられたといいます。
しかし、時間がたつにつれ、戦況が様変わりします。
朝鮮各地で民衆が蜂起し、朝鮮水軍が活躍し出すと、日本軍の補給路が絶たれ、食料などが枯渇・・・
苦境に立たされてしまったのです。
さらに、朝鮮の援軍として明の大軍が参戦・・・
猛烈な反撃を受け、戦況は膠着状態に陥り、戦が長期戦になった事で、大軍を維持するための膨大な食料と武器が必要となりました。
この危機的状況を打開するため、秀吉に代わって朝鮮半島に渡ることになった三成は、こう考えていました。

「早期終戦に向けた講和しか道はない・・・」by三成

すると、その三成の渡航が清正をはじめとする異国で戦う武将たちの反感を買うこととなったのです。
清正たちは血みどろの戦いをしていました。
そこに食料も来ない・・・食料を送る役が三成たちでした。
その三成たちが乗り込んできた・・・自分たちを監督しに来たという思いで見ているので、清正としては余計に反発したのです。
三成は、戦による消耗を最小限に抑えるため、親しい関係にあった小西行長と共に講和に向けて動き出します。
その講和交渉の切り札が、清正が捕らえた二人の朝鮮国王子の引き渡しでした。
これに猛反発したのが清正です。

「我々は、何のためにこの過酷な戦を戦ってきたのか!!」by清正

最前線で戦ってきた清正にとって、明との講和は承服しがたいものでした。
すると・・・講和交渉に反対する清正に、秀吉からの突然の命が下ります。

「即刻帰国せよ!!」by秀吉

もっとも武功をあげた清正に、まさかの帰国命令・・・そして、そのまま謹慎処分となってしまいました。
清正の謹慎は三成の謀略ではなく、秀吉に戦況を正しく報告した結果でした。
誤解にせよ、三成のせいで謹慎になったと思い込んだ清正は、ますます三成を忌み嫌うようになっていきます。

1583年、豊臣秀吉、関白就任!!
諸大名が直接秀吉に謁見したり、献上品を手渡したりできなくなります。
その為、窓口となったのが、側近の石田三成でした。
秀吉に気に入られるかどうかは、三成の口利き次第・・・
もし三成の機嫌を損ねれば、秀吉に何を言われるかわからない・・・
古参の武将たちも、かつての近習番・三成にひれ伏すしかありませんでした。
そんな絶大な権力を握った三成には、諸大名からの賄賂が殺到!!
ところが、三成は、私腹を肥やすことなく、そのことごとくをはねつけてしまいます。
良く言えば、清廉潔白、悪く言えば融通の利かない男・・・
主君・秀吉のためにと働けば働くほど、逆恨みする者が増え、敵を作ってしまいました。
しかし、三成は、秀吉のせいでどんなに悪者になろうとそばから離れませんでした。

秀吉からある時、九州の大名にとの話がありました。
石高は倍・・・しかし、三成は断っています。
秀吉の周りで豊臣政権を支える人物が無くなってしまうからです。
三成は、今まで自分のしてきたことが、豊臣政権を支えてきたという自負があったのです。
三成なりの国づくり・・・三成のロマンだったのです。

秀吉は「家康政権」を遺言していた 朝鮮出兵から関ヶ原の合戦までの驚愕の真相 [ 高橋 陽介 ]
秀吉は「家康政権」を遺言していた 朝鮮出兵から関ヶ原の合戦までの驚愕の真相 [ 高橋 陽介 ]

秀吉への忠誠心なら、加藤清正も負けていません。
朝鮮出兵で有名な清正の虎退治・・・
実は、この話には清正の秀吉への思いがありました。
一説には、家臣のために虎を退治したと言われていますが・・・
実際は、世継ぎができなかった秀吉のための虎狩りで、精力剤として当時、朝鮮に生息していた虎の肉を秀吉に送るように武将たちに命じ、清正自身も虎狩りを行ったというものでした。
清正の虎退治は、彼の勇敢さを示すと同時に、秀吉への忠誠を表すエピソードだったのです。

1596年、慶長伏見地震・・・近畿地方を襲った大地震でした。
この大地震が発生した時、秀吉のいる伏見城に真っ先に駆けつけたのが甲冑をまとった清正でした。
地震に乗じた反乱を案じ、戦支度を整えて駆けつけたのです。
清正が一番乗り・・・
清正の忠誠心に感激した秀吉は、その場で謹慎をといたといいます。
こうして、秀吉の許しを得た清正に、再びチャンスが巡ってきました。
三成や小西行長が進めてきた講和が破談となり、秀吉は朝鮮への再出兵を命じることになったのです。

朝鮮出兵に、一度は失敗した秀吉でしたが、その野望は捨てきれず、今度は朝鮮南部を占領するため、二度目の出兵を決めます。
秀吉の命を受けた加藤清正は、再び1万の兵を引き連れ朝鮮半島へと渡ります。
慶長の役(1597年)の始まりでした。
しかし、その戦いは・・・前回にもまして、過酷なものでした。
南部に侵攻した清正は、戦に備えていた明と朝鮮の連合軍に猛攻撃されてしまうのです。
食糧などが尽きた日本軍は、各地で苦戦を強いられ、清正の軍も全滅寸前にまで追い詰められてしまいます。
この危機的状況に、石田三成は日本から援軍や食料、武器などを送ろうと試みますが、朝鮮軍に海を抑えられてしまったために、十分な輸送ができませんでした。
そんな三成の事情は、戦の最前線には届かず・・・
清正の三成に対する不満や恨みは、募る一方でした。

1597年12月、日本軍に絶体絶命の危機が訪れます。
明と朝鮮の連合軍は、日本軍の蔚山城を奇襲・・・
劣勢に立たされたこの戦いで、日本軍は500人近くが討死・・・
その後、蔚山城は包囲されてしまったのです。
場内の日本軍は4千500、対する明・朝鮮連合軍は5万7000!!
それは、10倍を超える数でした。
清正はこの時、10キロ離れた西生浦城にいましたが、知らせを聞くや否や周囲の制止を振り切り、救出に向かいます。
なんと、清正は、わずか500の兵で蔚山城を取り囲んでいた敵陣を突破!!
その日のうちに入城を果たしたのです。
兵士たちの歓喜の声に迎えられた清正でしたが、ここからが地獄でした。

大量の死者を出した日本軍は、反撃はおろか、もはや、壊滅寸前。
籠城するにも食糧や水は、わずか2.3日分しかありません。
しかも、追い打ちをかけるように骨まで凍ってしまうような寒さが兵士たちを襲い、凍死者が続出・・・。
それでも、清正は一言も弱音も履きませんでした。
対象だけに配られた一善の飯を、自分は食べずに家臣たちに分け与え、励ましたといいます。
食糧の尽きた城内では、紙をむさぼり、壁土を煮て食べるしかありませんでした。

「もはやこれまでか・・・」

死を覚悟した清正でしたが、全軍全滅という寸前、援軍が到着!!
敵を撃退してくれたのです。
この10日余りの籠城戦は清正の戦歴の中で、最も過酷なものとなりました。
かろうじて九死に一生を得た清正でしたが、その胸のうちに残ったのは、援助を行わなかった三成への激しい恨み・・・
三成と清正の関係は、完全に修復不能となってしまったのです。

朝鮮から博多に帰った清正を、三成は
「年が明けたら大坂で茶会の席を設け、慰労しましょう」by三成
とねぎらいました。
すると清正は・・・
「ならば、我らは稗粥を馳走いたそう」by清正
と、答えたといいます。
三成にしてみれば、清正のことを慮った慰労の挨拶でしたが、清正にとっては飢えと寒さに耐えながら、前線で戦う将兵の苦労が、後方で指揮を取るだけのお前にわかるのか??そう言いたかったのではないでしょうか。
朝鮮出兵で反目する奉行派と武断派。
そして、秀吉の死・・・
この豊臣政権内部の亀裂と異変を巧みに利用した男がいました。
徳川家康です。

天下人・秀吉が亡き後、豊臣政権の跡を継いだのは、秀吉の忘れ形見・・・わずか6歳の秀頼でした。
反目していても、石田三成と加藤清正の思いは同じ・・・
秀吉の恩に報いるべく、幼い秀頼を盛り立て、豊臣政権を守り抜くことでした。
そんな2人の前に立ちはだかったのは、徳川家康です。
豊臣政権の実務を行う三成を中心とした五奉行と共に、家康は政を司る五大老の筆頭として、秀頼を支える立場にありました。
しかし、その裏で・・・朝鮮出兵に参加していなかったことで、兵力を温存し、虎視眈々と天下を狙っていたのです。
1599年3月、事態は急変します。
五大老の一人で家康を抑える存在であった前田利家が世を去りました。
まさに、その亡くなった日、事件が勃発!!
清正や、黒田長政たちの武断派の七将が、三成の首を取るため挙兵!!
世に言う石田三成襲撃事件です。
直前に襲撃の報せを聞いた三成は、間一髪で危機を逃れます。
この時、三成と七将との間を取り持つべく、調停に乗り出したのが家康でした。
家康から事を収めるためには奉行職から退任するしかないと迫られた三成は、すべての役職をとかれ、居城だった佐和山城への蟄居を余儀なくされたのです。

どうして清正は、三成を襲撃したのでしょうか??
家康が、武断派の武将たちを手なずけるという目的で、自分の養女たちを嫁がせています。
その家康の策略に清正は気づいていなかったのです。
「家康は、秀頼を守ってくれる」と思っていたようです。

しかし、三成は五奉行の一員として、五大老の一人である家康を間近で見ていました。
秀吉亡き後は、家康が天下を狙うという危機感があったのです。
武断派と奉行派の意識の違いでした。
将来のことをよくわかっていなかった7人が三成を襲ったのです。

家康としては、ここで三成を殺してしまうと、自分が天下を取る大義名分が無くなってしまうと考えていました。
活かしておいて、次のアクションを起こすことが大事だったのです。
完全に家康の計略にはまったのでした。

1600年6月・・・家康は、三成を戦に誘い出すかのように兵を東へと動かします。
敵対していた五大老の一人・上杉景勝を討つべく、全国の大名を集め、大軍を率いて上杉の領地・会津へと向かいます。
蟄居の身だった三成は、家康が上方を離れたのを知ると・・・

「今こそ、家康を討つ好機!!」と、挙兵を決意します。

豊臣家を守るため、打倒家康を決意した三成は、その心のうちを無二の親友・大谷吉継に打ち明けます。
すると、こう忠告されました。

「諸大名に恨みを買っている三成殿が、決して総大将になってはならない」by吉継

三成には、人望がない・・・人がついてこないというのです。
そこで、三成は家康と並ぶ五大老のひとり、毛利輝元を総大将に担ぐと、西日本を中心に西軍の陣容を整えていきます。
そんな中、戦に長けた加藤清正にも西軍に加わるように働きかけがありました。
しかし、清正は、九州から動こうとはしませんでした。
三成憎しから、反発し、西軍ではなく東軍についたのです。
それが、やがて豊臣家を滅亡へと導くことも知らずに・・・。

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そして迎えた1600年9月15日・・・美濃の関ケ原に布陣したのは、家康率いる東軍7万4000に対し、三成の西軍は8万4000でした。
軍勢では、西軍やや有利も、家康の裏工作によって西軍の要となる武将たちが寝返ります。
結果、東軍が圧勝します。
三成は、敗軍の将となりました。
三成は、密かに自らの陣を脱し、佐和山城を目指しますが・・・
東軍の追っ手につかまり、京で引き回しの上、斬首となりました。
一方、東軍についていた清正は、西軍方の小西行長の弟が守る宇土城に攻め入り、球種で東軍の勝利に貢献するのです。

関ケ原の戦いから11年後の1611年、清正は、徳川家のもと、豊臣家を存続させるため、京の二条城で家康と秀頼の面会を実現させます。
安心したのか、ほどなくして倒れ、6月24日、波乱にとんだ人生に幕を下ろします。
しかし、天下をわがものにした家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼしてしまいました。
清正の死後、4年後のことでした。

関ケ原の戦いの3日前、石田三成が西軍の武将に書き送った書状にはこんな言葉が残されています。

「人の心 計りがたし」

結局、豊臣家を守りたいという二人の思いはかないませんでした。
もし、三成と清正の心が通じていたなら・・・2人が力をあわせていれば・・・豊臣の滅亡も、徳川の世もなかったのかもしれません。

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1598年8月18日、天下人がこの世を去りました。
貧しい農民の出身とされ、そこから異例の出世を遂げた豊臣秀吉です。
2020年、秀吉にまつわる歴史的大発見が立て続けに報じられています。

2020年5月「幻の城」京都新城の遺構が発掘される
     6月「駒井日記」の自筆原本の一部が発見される

こうした新発見により、秀吉の新たな人物像が明らかになるのでは??と、注目されています。
そんな秀吉が天下人となったのは、最後までて期待していた北条氏を攻め落とし、奥羽を平定し終えた1591年、秀吉が55歳の時でした。
天下統一を果たした秀吉は、鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝し、鎌倉幕府を興した源頼朝の像に向かってこう語ったとつたえられています。

「わしと同じく天下を取った頼朝公は、友のようなものである
 しかし、貴殿は帝の末裔であるが、わしは全く何もないところから天下を取った
 それは何事につけ、いつも心を働かせ、素早く動いたからである」

中国大返しも、尋常ならざる素早さでした。
まさに知略とスピードで、天下人となった秀吉・・・。
そんな秀吉の最後とは・・・??

1591年、天下統一を成し遂げたとの年、秀吉に不幸が訪れます。
側室・淀の方との間にようやく授かった男子・鶴松がわずか3歳で亡くなりました。
後継者を失った秀吉は、甥の秀次を養子に迎えると、関白職を譲り、自らは太閤と呼ばれるようになります。
しかし、隠居したわけではなく・・・その目は、海を越え、世界に向いていました。

鶴松を失くした1591年8月・・・
秀吉は、”唐入り”を全国に布告します。
唐(から)とは、当時の明のことで、秀吉は明を征服する為に、まずは朝鮮半島への進軍を計画します。
その狙いは、これまで海外への領土拡張や、途絶えていた明との貿易を再開するためなど、様々な説が唱えられてきました。
しかし、それらとは別の狙いがあったのでは??

秀吉の唐入り計画は、国際的要因が大きかったのでは??
当時、スペインは、世界征服を狙っていました。
その対象には、当然明、日本も入ります。
秀吉は、東アジアの政府苦悩野望を止めるために、機先を制するためだったのでは??
スペインによる日本征服を阻止する為に、その足掛かりになる明を先に支配下に置こうとしたのです。
肥前国・名護屋に拠点の城を築き始めます。
着工からわずか半年で完成した城の総面積は、当時の大坂城の次の規模を誇る約17万㎡。
秀吉の並々ならぬ意気込みが伺えます。

1592年4月、秀吉は唐入りの布告通り、16万の軍勢を朝鮮半島に送ります。
第1次朝鮮出兵・・・文禄の役です。
釜山に上陸した日本軍は、わずか半年で朝鮮の首都を占領し、全羅道を除く朝鮮半島のほぼ全域を制圧します。
この報せを受け、気を良くした秀吉は、5月18日、京都にいた関白・秀次に書状を送ります。
そこには驚くべき構想が書かれていました。

「三国国割構想」です。

・明国を支配した暁には、今の帝(後陽成天皇)に明の都・北京へ移っていただき、秀次が大唐関白となる
・日本での新たな帝は今の帝の皇子(良仁親王)か、帝の弟君(智仁親王)
・朝鮮統治は、秀次の弟である秀勝か宇喜田秀家が行うとする

日本・明・朝鮮を近親者などで統治し、秀吉はアジアの盟主となる壮大な計画でした。
さらに秀吉は、この時フィリピンも視野に入れていたといいます。
フィリピンがスペインに支配されていたことが理由でした。
秀吉は、フィリピンのマニラにいたスペイン人のフィリピン総督に、こんな親書を送っています。

”速やかに日本に使者を寄越して服従せよ!
 もし遅れれば、兵を派遣する!!”

恫喝とも取れる強い態度には理由がありました。
スペインによる日本征服計画を強くけん制し、抑制する効果があったようです。
現に、総督はマニラに戒厳令を敷き、秀吉が攻めてくるのではないか?というスペイン側の記録が残されています。
一説に秀吉は、この時ヨーロッパと香辛料貿易が盛んだったインドまで攻略するつもりだったともいわれています。
しかし、その広大な構想は、行き詰まりを見せます。

朝鮮半島で快進撃を続けていた日本軍でしたが、明の援軍が到着したことによって膠着状態に・・・
1593年3月、明(14代皇帝・万歴帝)との講和交渉が始まりました。
5月23日、秀吉は名護屋城で明の勅使と会見・・・
朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲することなど7つの条件を提示しました。
しかし、結局、秀吉の要求は明に受け入れられず、交渉は決裂してしまったのです。

この年、側室・淀の方との間に拾(秀頼)が授かります。
秀吉は、新築された伏見城に二人を伴って移り住みました。
その時、秀次の側近だった駒井重勝が書いた日記にも、秀頼のことが書かれています。

”御ひろい様
 一段とご息災に御座候”by駒井日記

将来は、お拾様と秀次の娘を結婚させ、舅と婿の関係とすることで、両人に天下を受け継がせるのが秀吉の考えでした。
当初は養子の秀次と、実の子である秀頼を共に盛り立てて行こうと考えていた秀吉でしたが、天下人も人の子・・・我が子がかわいくなります。
秀次に譲った関白に秀頼をつかせて自分の後継者にと望むようになります。

気持ちの変化は行動にも表れたようで・・・秀頼の生まれた4か月後・・・

”秀吉公が定めた「尾州国中御置目・について、一書をもって秀次公に申し上げる”by駒井日記

当時、尾張は秀次の領地でした。
しかし、この日記が書かれる前の月、秀吉が突然尾張を視察・・・
故郷である尾張の荒廃した様子をその目で確かめると、新たな定めを作る順守するように秀次に命じました。

御置目には、田畑が荒れた現状などを憂いたうえで、
・堤防を築き洪水対策を行う
・普請に従事する農民に酒や餅を配る
・陰陽師に土地を祈祷させる

尾張を復興するように書かれていました。

秀次は焦ります。
秀吉から命令されたということは、尾張を統治する者として、そして秀吉の後継者としてダメ出しを食らったようなもの・・・
関白の座を秀頼に譲らせるための秀吉の圧力・・・こうして秀次への圧力は始まっていたのです。

1595年、秀次が突如秀吉から謀反の疑いをかけられたのです。
なかなか関白の座を譲らない秀次に、秀吉が業を煮やし、謀反の疑いをかけたともいわれています。
そして・・・7月15日・・・
秀次は、無実を訴えながら、高野山で切腹・・・
その首は、京都・三条河原に晒され、さらに一族39人を見せしめのために同じ河原で処刑されたのです。
秀吉が亡くなる3年前のことでした。

秀吉は、聚楽第まで潰してしまいます。
そして、伏見城を増改築して豊臣政権の中心に据えようと、聚楽第の周囲にあった諸大名の屋敷も伏見へと移転させます。
ところが、1596年閏7月・・・M7.5の直下型地震・・・慶長伏見地震です。
被害は甚大で、大坂、堺、兵庫では多くの家が倒壊し、京都では伏見城、東寺、天龍寺などが倒壊し、死者は1000人を越えたと伝えられています。
この時、秀吉は伏見城にいたようです。
「当代記」によれば、城内で数百人が亡くなったものの、秀吉はなんとか無事で、台所で一晩過ごしたといいます。
そして翌日からは、伏見城から1キロ離れた木幡山に仮小屋を建て、避難生活を送ったと言われています。
この地震がきっかけで、この年の10月17日、「文禄」から「慶長」に改元されました。

文禄の役で、明との講和交渉が決裂した豊臣秀吉は、二度目の朝鮮出兵を決めます。
そして、1597年2月・・・配下の武将たちにこう命じます。

「全羅道をことごとく成敗し、忠清道にも侵攻せよ!!」by秀吉

これによって、総勢14万の軍勢が対馬海峡を渡り、第2次朝鮮出兵「慶長の役」が始まりました。
日本軍は、朝鮮水軍を壊滅させると、わずか2か月で慶尚道、全羅道、忠清道を制圧、反撃に出た明・朝鮮連合軍を蔚山の戦いで撃破し、朝鮮半島南岸の拠点を確保するのです。

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この時、秀吉61歳、まだ気力も体力もみなぎっていました。
秀吉に重用された戦国の名医・曲直瀬玄朔が記した「医学天正記」にはこんな記録が残されています。

「秀吉公が感冒を患ったので、桔梗湯を投与した」

感冒とは風邪のことですが、これ以外に秀吉が大きな病にかかったという記録は残っていません。

秀吉は、東寺が好きで近江長浜城や姫路城には入念に湯殿を作らせたといいます。
天下人になってからは、番医というお抱え医師団を形成、24時間体制で常勤させ、自分だけでなく、身内や大名たちの病も診察させたといいます。
ルイス・フロイスによると、秀吉は大坂城だけで300人の側室を有し、国中の美人や若い人妻の中で秀吉から逃れられた者はない・・・といわれています。

そんな秀吉のスタミナ源とは・・・??
秀吉が若い頃から好んだ食材は、ドジョウでした。
カルシウムが多く、アルギニンが豊富に含まれています。
秀吉は、若い頃、ドジョウを売って生計を立てていました。
どんなふうにして食べていたのでしょうか??

ドジョウ汁・・・ささがきしたゴボウとドジョウとネギを味噌で煮込んだものです。

元気の源です。

2020年5月、日本の城郭史を揺るがす大発見がありました。
豊臣秀吉が最晩年に築いたと言われる京都新城の遺構が派遣されたのです。
京都新城は、関白・豊臣秀次の屋敷だった聚楽第を取り壊した2年後の1597年、天皇が暮らす御所の南東に築かれたとされ、当時は太閤御所などと呼ばれていたことはわかっていました。
しかし、資料が少なく、遺構も見つかっていなかったため、正確なな場所や規模は不明のまま・・・幻の城と呼ばれてきました。
しかし、2019年11月から始められた発掘調査で、遂に京都御苑の傍にある京都仙洞御所の一角から南北8mにわたる石垣の一部が出土したのです。
その石垣は、野面積みの石垣で、秀吉の時代によく用いられた工法でした。
さらに、豊臣家が用いた桐紋が入った金箔瓦の破片も出土したため、この遺構は秀吉が築いた京都新城の一部に間違いないとされたのです。

京都新城からわかる秀吉の政治構想とは・・・??

秀吉は、5歳になった嫡男・秀頼のために、新しい城を築こうと考えました。
破却した聚楽第があった場所ではなく、天皇のいる御所のすぐ近くに建てよと指示したのです。
秀頼が、御所(内裏)の近くに住むことは、摂関家としての豊臣家の象徴行為でした。
秀吉は、秀吉が将来、関白になることを想定して、京都新城を御所の側に建てたのです。
関白となった秀頼の存在を天皇や公家たちにアピールするために建てられたのです。
急ピッチで築城された京都新城は、5か月で完成!!
1597年9月、秀吉は秀頼と共に入居しました。
そして、秀頼の元服の儀を行うのです。

しかし、その夢はうたかたの如く消えます。
秀吉の死後、1599年、秀頼は大坂城へ移ります。
その為、京都新城が使われたのは、わずか1年ほどでした。
その後、関ケ原の戦いで京都新城が破却されます。
今回発見された京都新城の遺構は、まさに秀吉の夢の跡でした。

1598年3月15日、京都醍醐寺三宝院の裏の山ろくで、後世に語り継がれる盛大な花見が催されました。
天下人・豊臣秀吉の醍醐の花見です。
700本の桜を植樹し、女房、女中衆1300人を招いたというまさに空前絶後の花見でした。
当日は、絶好の花見日和で、秀吉は、終始上機嫌だったといいます。
女房、女中衆全ての着物を新調し、途中でお色直しまであったと言われています。
贅の限りを尽くしたまさに、天下人・秀吉らしい豪遊でした。
平穏に見えますが・・・目下、朝鮮出兵中でした。
戦のさ中です。
1598年5月3日、秀吉は、朝鮮の状況を聞き、激怒します。
蜂須賀家政・黒田長政がその日の先鋒であったにもかかわらず、戦をしなかったというのです。

「臆病者めが!!」by秀吉

この時、年が明けたら福島正則、石田三成、増田長盛ら3人を大将とする第3次朝鮮出兵を計画していました。
そんな野望を熱く語っていた2日後・・・秀吉は、突如倒れてしまいました。

1598年5月5日、秀吉は、極度の下痢に襲われます。
当初は軽く考えていましたが・・・倦怠感と脱力感を訴え、食欲も減退・・・
尿失禁や手足の痛みの症状が出てきました。
しかし、やがて病状は回復・・・
秀吉は、翌年の再出兵に向けて、朝鮮の築いた城に兵糧や弾薬などを備蓄するように命じたほどでした。

ところが・・・
8月5日、秀吉の病状は再び悪化・・・
死期が近いことを知った秀吉は、徳川家康をはじめとする五大老に宛てた遺言状を書きます。

「くれぐれも秀頼のことが成り立つよう、五人の方々に御頼み申す
 何事もこの他には思い残すことなく候」

そして、この13日後の1598年8月18日、秀吉は62歳でこの世を去りました。
戦国の世を駆け抜けた波乱の生涯でした。

発病から3か月後に亡くなった秀吉・・・その死因は何だったのでしょうか?
秀吉の死因についての記録は少なく、今も謎に包まれています。
数少ない記録であるイエズス会宣教師フランシスコ・パシオの「日本年報」には・・・赤痢を患ったとあります。
高熱と激しい腹痛と下痢が続きます。
しかし、下痢の症状から亡くなるまで3か月あまり・・・秀吉の死が赤痢によるものならば、もっと早く命を落とすのでは・・・??
パシオは、秀吉が「時ならず胃痛を訴えた」とも書き残しています。
このことから、胃がんだったのでは??という説もあります。

尿失禁、手足の痛みがあることから、脚気という説もあります。
脚気は、悪化すると尿失禁、手足の痛み、歩行困難、錯乱などの症状が出る病で、ビタミンB1の不足により発症します。
日本人の主食である米と大きく関係しています。
米の灰が部分には、ビタミンB1が豊富に含まれていますが、精米して白米にすると、ほとんどなくなってしまいます。
その為、白米ばかり食べた結果、ビタミンB1が不足して脚気になるというのです。
そもそも、平安時代ごろから米を精米して食べる習慣はありましたが、当時、白米は貴族たちの食べる高級食でした。
秀吉の時代も同じで、貧しい頃には白米など食べられず、雑穀米でビタミン不足にはならないのですが・・・
出世していくにつれ、白米を好むようになり、ビタミンB1が不足し、脚気になった可能性が高いのです。

脚気で死に至ることはあるのでしょうか?
衝心脚気の可能性が高いと言えるでしょう。

1598年8月18日、天下人・秀吉が波乱の人生に幕を下ろしました。
遺言に従い、秀吉の亡骸は火葬されずに伏見城内に甕に納められて安置されました。
さらに、秀吉の死は公表されず、徹底的に隠されました。
その理由は・・・??
丁度その頃、朝鮮半島には、大名や武士などが出兵している段階でした。
その段階で、日本側の最高権力者の死が敵国に伝わると、日本の兵たちが帰国できない可能性があったのです。

朝鮮半島からの帰国命令が出され、引き揚げが開始されたの、秀吉の死から2か月後の10月・・・
そして、引き揚げの目途がついた翌年・・・1599年1月5日、石田三成ら五奉行によって秀吉の死が公表されました。
4月、伏見城内にあった秀吉の亡骸は、京都阿弥陀峰山頂にうつされ、密かに埋葬されました。
秀吉は、死後、自分を新八幡として神格化するように遺言していました。
秀吉は、対外戦争のさ中に亡くなっていく・・・日本を守りたいという遺志が「新八幡」という神号に込められていました。

ところが、神号を授ける後陽成天皇が秀吉に与えたのは、「新八幡」ではなく、「豊国大明神」でした。
秀吉の後継者である秀頼や、正室のおね、豊臣政権で最も力を持っていた徳川家康の意向を受けてのことだったといいます。
豊国大明神・・・豊芦原中津国を省略したもので、秀吉が日本を代表する存在であることを強調する意味が込められていました。
「新八幡」=武の神ですが、「豊国大明神」=武の神でした。
意味合いとしては同じようなものでした。
当時は、朝鮮半島から撤退するも、明や朝鮮との戦いが終わったわけではなく、秀吉亡き後も国内情勢も不安定な状態・・・内憂外患がある中で、秀吉の遺族や家康たちは、秀吉を豊国大明神という日本の象徴として神格化、国内外にいまだ豊臣政権が盤石であることを知らしめようとしたのです。
こうして秀吉は、死後、神となりました。

しかし、後を継いだ徳川家康によって、豊臣家は滅亡してしまいます。
その家康は、1604年、秀吉の七回忌に「臨時大祭礼」を開催しましたが、京都の人々にとって秀吉は生前、都を大改造するなど京都に活気を与え、好景気を与えた大恩人・・・そんな秀吉を敬い、祭りに熱中する京都の人々の太閤贔屓を目の当たりにして、家康、怯えたのかもしれません。
家康は、秀吉を祀る京都豊国神社を破却するよう命じます。
秀吉は、死してもなお、家康を恐れさせていたのです。

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