二代将軍・徳川秀忠―忍耐する“凡人”の成功哲学 (幻冬舎新書)

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戦国乱世に終止符を打ち、英雄・徳川家康が創設した江戸幕府・・・

幕府をいかに存続させるのか・・・??

家康からその難題を突き付けられたのが、二代将軍秀忠です。

しかし、秀忠は、凡庸という有り難くないレッテルを張られた人物でした。


きっかけは真田昌幸との戦い・・・第二次上田合戦にあります。

秀忠率いる3万8000に対し、真田軍2500!!

圧倒的な兵力差で勝って当然のところ・・・秀忠は敗北!!

この合戦に手間取ったことで、関ケ原に間に合わないという前代未聞の大失態を犯してしまうのです。

しかし、関ケ原は流動で、家康も何もわかっていませんでした。


1598年8月18日、天下人・豊臣秀吉がこの世を去りました。

この時、秀吉の後継者・秀頼はわずか6歳・・・。

豊臣政権は、有力大名の合議制により支えられることとなります。

しかし、大老・徳川家康と奉行・石田三成との対立が・・・!!

治まりかけていた天下が再び乱れ始めます。


秀吉の死から2年・・・

1600年6月、上杉征伐。。。

有力大名・上杉景勝が城を修築、多数の浪人を集めるなど、豊臣政権への謀反の疑いが生じました。

家康は豊臣の名代として会津へ・・・!!

しかし、家康が会津に向かった隙に、三成が挙兵!!

家康に反旗を翻したのです。

この三成挙兵によって・・・東軍と西軍に分かれての戦いが日本全国に広がりました!!


家康は、「上杉征伐」参陣の武将たちの味方にすることに成功!!

さらに家康は江戸にもどって全国の武将に書状を送ります。

家康は時間をかけて東軍勢力拡大を目論んでいました。


そんな中、家康が危惧していたのが真田昌幸でした。

昌幸は、かつて徳川軍を破ったことのある稀代の戦上手!!

さらに昌幸の領国は、東軍と西軍の勢力の中間にあり、両者が連携を図るうえで重要!!

家康にとっては目の上のたんこぶとなっていました。



真田攻め総大将に抜擢されたのが、家康の三男・徳川秀忠でした。

秀忠22歳・・・これが初陣でした。

当時、家康の息子には三人の成人男子がいました。

後継者と目されていたのは秀忠・・・

「秀忠はあまりに律儀である。」by家康


この時家康は江戸の残っていました。

9月6日・・・総大将・秀忠は高台に布陣!!

徳川軍3万8000が2500の真田に迫る・・・!!

これで落ちない城はない・・・!!

秀忠にとって勝利が約束された戦いが始まろうとしていました。


徳川軍3万8000、対する真田軍僅か2500!!

初陣にして圧倒的に有利な戦いに秀忠は、上田城背後の砥石城を攻略!!

秀忠の戦術は堅実でした。


圧倒的に上田勢を包囲した秀忠軍・・・。

秀忠の勝利は誰の目にも明らかでしたが・・・両軍が場外で応戦!!

敗走する真田軍を追い徳川軍が上田城に殺到・・・

しかし、待っていたのは真田の伏兵!!大混乱の徳川軍・・・に、追い打ちをかける!!砥石城周辺に隠れていた別動隊が秀忠軍本体に襲い掛かります。

結果、秀忠軍は小諸まで撤退・・・軍の立て直しを余儀なくされました。


一方中央は、風雲急を告げる!!

家康が派遣した福島正則率いる東軍の先鋒隊が、美濃に進軍!!

8月23日勢いのままに岐阜城を陥落してしまいました。

東西両軍が濃尾平野に続々と集まってきました。

東軍の総大将不在のまま戦いが始まると、その後の発言力が弱まってしまう・・・!!

8月29日家康は秀忠に使者を・・・早馬を・・・!!

9月1日家康は急遽江戸を出陣!!

東軍の先鋒隊長・福島正則への手紙には、秀忠はおよそ9月10日にはその地に参るであろうと記されていました。

しかし、家康には2つの大きな誤算がありました。

①秀忠が真田との緒戦に敗れていたこと

②悪天候の影響で、死者の到着が遅れたこと


9月9日、ようやく秀忠のもとに使者が到着!!

緒戦に敗れた秀忠が戦略を練り直しをしている最中でした。

使者がもたらした書状には・・・

「急ぎ西上(上洛)せよ。」

作戦の変更命令です。

しかし、真田との戦いは始まったばかり・・・真田を放っておくわけにはいかない・・・どうする・・・??


徳川家にとって、秀忠軍は最も重要な軍勢でした。

秀忠軍は徳川四天王の一人・榊原康政や本多正信・・・徳川軍の精鋭部隊が主力となっていました。

一方家康軍は・・・豊臣恩顧の大名・・・福島正則・黒田長政などのいつ西軍に寝返ってもおかしくない者たちが群を構成していました。

東西決戦が行われる場合、家康の頼みの綱は、秀忠率いる徳川軍!!

すぐに西上し、家康と合流しなければ、決戦に敗れる可能性が・・・!!

初戦で敗れた上に西上する・・・??
それとも戦を継続・・・??
緒戦で敗北を喫したとはいえ徳川の兵力は真田を圧倒している・・・徳川方の勝利は揺るがない・・・??

1600年9月9日・・・秀忠の本陣で軍議が行われました。
どうする・・・??
秀忠は、真田との戦を継続することを主張したと言います。
しかし、重臣からの助言に考えを改めます。
三成さえ、滅亡させれば・・・!!

9月11日、家康は西軍勢力に対峙する清須城に・・・!!
秀忠軍の到着を待ったものの・・・秀忠が小諸を出発したのは同じ11日でした。
険しい中山道を大軍を引き連れて行軍する秀忠。。。
先を急ぐ秀忠を悩ませたのは天候でした。
雨が多く、川が氾濫・・・難所ばかりで思うように進めません。
秀忠軍が妻籠に到着したのは9月17日の事でした。
妻籠城に入城した秀忠・・・関ケ原まで130㎞!!
順調にいけば2日の距離でした。

しかし・・・秀忠はここで知らせを受け取ります。
東西決戦が2日前に終わっていたことを・・・!!
秀忠はその知らせに大いにいどろ板と言います。

どうして家康は、秀忠軍の到着を待たずに戦を始めてしまったのでしょうか・・・??
秀忠が中山道を西上していた9月15日、戦況が大きく変わりました。
それまで西軍は、大垣城を拠点に立てこもり、東軍と対峙していました。
突然西軍が大垣城を出て、関ケ原へ・・・!!
それを追って、東軍も関ケ原へ・・・!!
東西合わせて15万!!引くに引けない戦いの舞台が整ってしまったのです。
1600年9月15日関ケ原の戦い・・・
一進一退の攻防も、はじめは西軍が有利でしたが・・・小早川秀秋の裏切りに戦況は一変!!
東軍が勝利を収めることとなるのです。
家康の調略が功を奏しました。
誤算の連続だった関ケ原の戦いは、家康の大勝利に幕を下ろしました。

秀忠が到着したのは、5日後の9月20日。
家康は、面会を拒絶したと言われています。
家康は、重臣一同を集め、問いかけます。

「いずれの子に徳川の家督を譲るべきか??」

この時秀忠以外には、次男・秀康、四男・忠吉。
次男・結城秀康は、他家に養子に入っているとはいえ上杉征伐で抑えを任された武勇な武将、四男・忠吉は、関ケ原に参戦、先陣を切る活躍を見せています。
誰を後継者に指名するべきか・・・??議論は紛糾!!
しかし、家康が指名したのは、関ケ原に遅参した秀忠でした。

「乱世ならば武勇を優先させねばならぬが、天下を治めるには文徳が必要である。

 そうでなければ創業の志を守り保つことはできない。
 秀忠こそ、後継者に最適である。」

翌日、秀忠は家康に面会を許されます。
秀忠は家康に謝罪するものの、言い訳は一切しませんでした。
しかし、この大失態によって汚点を残し、凡庸と言われるようになるのです。

1603年、関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開府!!
その2年後、家康は秀忠に征夷大将軍を譲り・・・2代将軍・秀忠が誕生します。

が、家康の影響力が強く、秀忠が権力のすべてを掌握できたわけではありません。
未だ大坂には豊臣家が存続・・・江戸幕府の権力基盤も盤石ではありませんでした。

秀忠が将軍としての地位を確固たるものとしたのは、天下取りの総仕上げ・・・1614年大坂の陣です。
この時の軍議で家康は豊臣家との講和を図ろうとしていました。
ところが秀忠が総攻めをかけ、落城すべしと三度も強硬策を主張したと言われています。

さらに落城間際、秀忠は秀頼の正室である娘・千姫の命乞いを退け、秀頼を自害へと追い込んでいます。
豊臣家を滅ぼした汚れ仕事・・・家康がやりたくなかった部分を秀忠がやって・・・それを家康は評価したのでしょう。

当時、日本に滞在していた外国人の日記にこう記されています。

「秀忠は武人ではなく 大政治家である。」と。

1616年4月17日、徳川家康死去。

父亡きあと、秀忠の政治家としての能力が開花!!
謀反のうわさが絶えない腹違いの弟・松平忠輝を改易、兄・秀康の子・忠直を改易。
危険分子を排除していきます。
また武家諸法度を発布。有力大名の取り潰しを実行・・・その中には、関ケ原の戦いで東軍の先鋒を担った福島正則を筆頭に、蒲生忠郷・田中忠政・最上吉俊・堀尾忠晴・本多正純・・・41家を改易。

取り潰した大名の多くは、家康にとって天下取りを手助けしてくれた恩義のある大名たち・・・
しかし、感情に流されることなく幕藩体制を強化していきます。

禁中並びに公家諸法度も発布・・・朝廷をも幕府の管理下に置いたのです。
朝廷が権威を取り戻すのは、明治維新となります。
1632年1月24日徳川秀忠死去・・・享年54歳。

死の間際・・・神の称号を受けたいか?と問いかけられた秀忠は・・・

「家康公は数百年続いた争乱を打平げ、古今未曽有の大仕事を成し遂げたが、私はただ先代の仕事を守るだけで、何の功績もない。
 神号を受けるなど、思いもよらない事である。」

家康の創業した江戸幕府は、秀忠により礎が築かれ、260年の平和政権へと反映していくのです。


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