津軽10万石の城下町だった青森県弘前市・・・2016年ある発見が話題を呼びました。
町中にある一軒の古民家が、忍者屋敷であることがわかったのです。
弘前藩の忍者集団”早道之者”が諜報活動のために使ったとされています。
忍者屋敷がそのまま残されているのは、全国でも極めて珍しい。
藩主、家老から命令を受けて、作戦会議をする場所だったと思われています。

忍者・・・影のヒーロー??そのほとんどは、創作の産物です。
しかし、実在の忍者が一度だけ歴史の表舞台で活躍した戦いがありました。
敵は、織田信長!!天正伊賀の乱です。

戦国時代最強を誇った織田軍が、忍びの郷・伊賀に向けて出兵しました。
ところが・・・攻め込んだ先で、兵士たちは次々とうち取られていきます。
織田軍大敗北!!ついには撤退!!
果たして伊賀の忍び達はどんな手段で織田軍を撃退したのでしょうか?

群雄割拠の戦国時代、歴戦の武将の影には不思議な呼び名を持つ者たちがいました。
上杉謙信に伏齅・北条氏康に乱波・武田信玄に透波・・・彼らは戦国時代に活躍した忍び達です。
ある時は敵地に潜入し諜報活動、ある時は敵の不意を突き夜襲攻撃、凡人には出来ない危険な任務を行う特殊部隊でした。
そんな忍びを数多く輩出したのが伊賀・・・忍びの里と呼ばれたこの地には、どんな秘密があったのでしょうか?

伊賀には屋敷を取り囲む不自然なほど高い土塁がたくさんあります。
防御を備えた館城があり、土塁だけではなく堀もあったようです。
確認された城跡はおよそ650以上・・・全国有数の密度です。
どうしてこれほどまでに多く築かれたのでしょうか?
伊賀は中世以来、限られた土地をめぐり争いの絶えない地域でした。
各地で自ら館城を築いた地侍たちは、大名の直接支配を受けることなく自治独立の国だったのです。
戦国時代の伊賀衆について・・・
毎日夜明け前から昼頃までは士農工商それぞれの仕事に励み、それから日暮れまでは武芸を磨く・・・
そして密謀の通力を伝える風習があった・・・と記述されています。
密謀の通力がいわゆる忍びの術なのです。

常に危険と背中合わせだった伊賀では、武芸だけでなく敵を陥れる技も鍛える必要があったのです。
そんな伊賀を疎ましく思っていた男がいました。
織田信長です。
当時、信長は近畿一帯に勢力を伸ばしていましたが、伊賀には手を出せずにいました。
そして隣国にはもう一つの忍者の里・甲賀があり、同じく自治独立を守っていました。
伊賀と甲賀が連携して信長の進出を阻んでいたのです。
険しい山々に囲まれ、進入路さえ分かりにくい土地・・・信長は現地の情報を集めながら、じっくり攻め入る予定でした。
しかし・・・その意図を汲まずに伊賀を狙っていたのが信長の次男・信雄でした。
1579年伊勢にいた信雄は、信長に無断で伊賀へ出兵。
1万を超える大軍勢でした。
山を越え、伊賀領内に侵入しようとしたその時・・・突然山道に地侍たちが現れ、一斉に襲い掛かってきました。
山の中で待ち伏せしていた伊賀衆でした。
その奮闘ぶりは・・・
地の利はよく心得ている
ところどころに砦を築いて弓矢や鉄砲を放ち、槍を併せ、息つく間もなく攻撃し、山の崖へ追いつめていきました。
総崩れとなった織田軍の戦死者は、数千人に及んだといいます。
そして、織田方重臣・柘植三郎右衛門が討死!!
信雄は、命からがら伊勢に逃げていきました。
伊賀の完全勝利でした。

織田軍敗北の報せは、すぐさま信長に知らされました。
言語道断!!
息子・信勝が安易に出兵したことに激怒したといいます。
見事な結束で独立を守った伊賀衆・・・
しかし、彼らにとって本当の試練はこれからでした。

1581年、織田信長は伊賀討伐を命じます。
その軍勢なんと、4万以上・・・汚名返上に燃える信雄を総大将に、織田の名だたる武将・・・筒井順慶、蒲生氏郷、丹羽長秀が先陣に加わります。
しかも、今回は多方面からの一斉攻撃!!
迎え討つ伊賀は、それぞれ敵の情報を正確につかんで連携する必要がありました。
そのために使ったとされるのが、狼煙による情報伝達です。
伊賀ではのろし台の跡がいくつか確認されています。
いずれも集落から見えやすい位置にあり、南北15キロ以上に警報を伝えることができたと言われています。
さらに・・・忍びの狼煙には、特殊能力がありました。

江戸時代の忍術書「万川集海」・・・そこに狼煙の材料が記されていました。
最初に掲げられているのがオオカミの糞・・・手に入りにくいものの代表的な材料でした。
すぐに煙が立ち上がり、煙から強烈なにおいが発せられます。
狼煙が嗅覚にうったえていた可能性があるのです。
その悪臭は、1~2キロ位は伝わる可能性がありました。
悪天候で煙が目視できないときでも使えた可能性があるのです。



織田軍に対してあらゆる防御を備えていた伊賀衆・・・
しかし、4万という大軍勢を前に、彼らの心は揺れていました。
信長に内通するもの(福地伊与)まで現れます。
福地は険しい進入路の道案内を行い、織田軍を伊賀領内に導いたといいます。
どうして仲間を裏切ったのか??
伊賀北東部にある福地城・・・ここは、織田軍が最大の軍をおいた地域でした。
福地の集落は、真っ先に攻撃を受ける場所だったのです。
福地は福地で、集落を守ろうとしたのです。

内通者を得た織田軍は、伊賀領内に侵入!!
その攻撃は苛烈を極めます。
一軒残らず焼き払い、男女問わずに殺害した・・・
伊賀衆は、わずか数週間で、最後の拠点柏原城まで追いつめられます。
籠城したのは1600人・・・城には女子供達も逃げ込んだといいます。
各方面から侵入した織田軍は終結し、およそ4万で柏原城を取り囲みました。
絶体絶命の中、協議に望んだ伊賀衆・・・
徹底抗戦する??それとも降伏・・・??
補給路も援軍もない・・・今更降伏しても命の保証はない・・・どれだけの仲間が殺されたのか??
信長は伊賀を殲滅したいのか??
袋小路に陥った伊賀衆・・・意外な意見も・・・
敵を欺いて、せめて女子供だけでも城から脱出する??
城からの脱出路・・・すでに柏原城を包囲される前に、この作戦を実行した者たちがいました。
西部の比自山城に籠城した伊賀衆です。
織田軍が城に突入すると、そこは一夜にしてもぬけの殻になっていたといいます。
伊賀衆は、城中に松明を炊き、城にいるかのように見せて織田軍を欺き、密かに脱出に成功していたのです。
しかし、すでに小田野全軍が、城の周りに・・・本当に脱出することなどできるのか??
宿敵・信長に対し徹底抗戦か??それとも降伏か??それとも脱出か??

伊賀衆が出した結論は”脱出”でした。
およそ4万で包囲する織田軍から、どのように逃れるのか??
籠城から10日以上たった夜、柏原城から数人の伊賀衆が抜け出しました。
彼等は周辺に隠れていた百姓たちを動員して、織田軍の背後の山に、可能な限り多くの松明を灯させます。
それを見た織田軍は、数千に及ぶ伊賀の援軍あらわる!!そう思い込み、大混乱となりました。
これこそ、伊賀衆の狙いでした。
この隙に、柏原城から女子供を逃がす手はずだったのです。
ところが・・・この計略を見破った男がいました。
織田の名将・丹羽長秀・・・10代のころから信長に仕えた重臣でした。
比自山城での伊賀衆の計略を見ていた長秀は、援軍を偽物と見抜き、混乱を速やかに収束させてしまいました。
脱出作戦・・・失敗!!

もはやこれまで・・・1581年10月28日柏原城開城・・・
伊賀の自治独立は、ここに消滅しました。
信長の容赦ない処分が・・・
各地の城は焼き払われ、神社仏閣は破壊されました。
そして男女の差別なく、多くが処刑されました。
運よく他国に逃げ延びたものの・・・半数の伊賀衆が犠牲になったといいます。
それから数日後、見聞のために織田信長が伊賀に入りました。
山の上から伊賀の国を見下ろしていた・・・その時、事件は起こりました。
数発の銃弾が信長に向けて放たれたのです。
伊賀の忍の残党でした。
しかし、弾はいずれも外れ、忍びは姿を消したといいます。
伊賀の執念は、最後まで信長を脅かしたのです。

その後も伊賀への警戒を緩めなかった信長・・・
その城が、信長が伊賀支配のために築いた滝川氏城・・・。
巨大な本丸跡は、伊賀のそれまでにはないものでした。
その一方、形は伊賀の館城と同じ・・・そこに信長の心境が表れています。
当時の織田のお城の作り方とは全く離れていますが・・・伊賀の城に織田の城が合わせにいっています。
伊賀の人に分かりやすい館城のお化けのような巨大なお城が作られたのです。
自らの力を誇示しつつ、慎重に支配を進めた信長・・・
伊賀を織田の直轄地とし、地侍たちが再び力をつけないように統制を図ります。

しかし・・・1582年6月2日、本能寺の変・・・信長は、突然この世を去ります。
天正伊賀の乱から8か月後のことでした。

信長の死後、天下人は秀吉から家康へと移り、戦国乱世の終焉を迎えます。
他国へ落ち延びていた伊賀衆の中には故郷に帰る者もいました。
しかし、伊賀がかつての自治独立を取り戻すことはありませんでした。
そんな伊賀の忍び達に目をつけたのが、徳川家康でした。
服部半蔵のもとにまとめられた伊賀者たちは、江戸時代、将軍家の隠密や江戸城の警備などを務めます。
伊賀者たちの評判は、全国に知れ渡り、諸藩の大名達にも雇われるようになります。
ある者は諜報活動を行い、ある者は藩主の身辺警護を務めたりしました。

伊勢の関宿にある江戸時代から370年続く老舗の和菓子屋・・・
そこには、忍者の末裔が住んでいました。
服部家には、まだ世に出ていない資料がたくさん眠っています。
関宿は、東海道五十三次の宿場町です。
多くの人が行き交い、各地の情報を得るにはうってつけでした。
店のその目の前には、将軍家の宿泊所である御茶屋御殿がありました。
家康はじめ、将軍が上洛する際に、宿泊した場所だったのです。

服部家の資料は、多くのご先祖が忍びの経歴があったことを伝えています。
もしかしたらこの和菓子屋で、代々徳川家を支えるために、忍者の仕事をしていたのかもしれません。

戦国から江戸時代へ・・・幾多の試練を生き抜いた忍者たち・・・故郷で培った忍びの術は、形を変えてその暮らしを支え続けたのです。

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