1961年、アメリカが州国第35代大統領ジョン・F・ケネディは、日本人記者から「尊敬する日本の政治家はいますか」と聞かれてこう答えたといいます。
「YOUZAN UESUGI」
江戸時代中期の大名で、東北米沢藩中興の祖と称えられる、名君・9代藩主・上杉鷹山のことです。

「なせば成る
   なさねば成らぬ
  何事も
 成らぬは人の
     なさぬなりけり」

この有名な言葉を残したのが、上杉鷹山です。

山形県の南東部に位置する米沢市・・・
戦国の雄・上杉謙信を藩祖とする米沢藩の城下町として、古くから栄えてきました。
しかし、上杉鷹山が藩主となった頃には、莫大な借金を抱えた超貧乏藩となっていました。
一体、どうして??

原因①名家のプライド
藩祖である謙信の跡を継いだのは、謙信の養子の景勝・・・会津120万石の大大名でした。
ところが、関ケ原の戦いで西軍につき、徳川家康を敵に回したことで、米沢30万石に減封されてしまいました。
さらに、三代藩主・綱勝が26歳で急死・・・生前に後継者を決めていませんでした。
それが幕府のおとがめとなり、領地の半分を没収されてしまいました。
それでも米沢藩は、一切リストラを行わず、120万石の頃の家臣(約5000人)を維持し続けていました。
実際、5000人の家臣の人件費は、13万3000石と、全国高の9割近くに及び、藩の財政を圧迫していました。
それでも家臣を減らさなかったのは・・・?
歴史と伝統のある藩で、歴代藩主は従四位上・少将という格式の高い家柄でした。
その名門としてのプライドが、家臣を削減することを許さなかったのです。
また、「義」を重んじた上杉謙信の精神を受け継いでいるため、家臣を簡単に切り捨てることが出来なかったのです。

対面や格式へのこだわり・・・
費用のかさむ儀式や、他藩との付き合いを一切やめようとせず、当然財政悪化の原因となりました。

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原因②藩主の悪政
後継者を決めずに綱勝が急死・・・上杉家の家督を継いだのは、忠臣蔵でお馴染み吉良上野介の息子・上杉綱憲でした。
母親が綱勝の妹だったことから、綱憲は4代藩主となりました。
しかし、吉良上野介は綱憲の後見人でした。
米沢藩士たちから軽く見られないように金の出し惜しみはするなと指示!!
その為、綱憲は、能に興じるなど派手にお金を使い、藩施設の新築、寺院への寄付の増額、役人の増員など、バラマキ政策を実施、さらには吉良家の借金6千両を上杉家が肩代わりしました。

こうした浪費によって、米沢藩の蓄えは、底をつき、ついに財政赤字に転落!!
江戸や大坂の豪商から借金をするも、一時しのぎ・・・
返す当てもないため、財政は悪化の一途をたどります。
8代藩主・重定の時代には、借金総額16万両!!160億円にまで達してしまいました。
こうして米沢藩は、名門としての高いプライドと、藩主の悪政によって、多額の借金を抱えてしまったのです。

そして、そのツケを払わされたのが農民たちでした。
重税に耐え切れず、多くの農民が逃亡・・・
藩士たちも、給料の半分を藩に貸すという半知借上を行ったことで、武器や武具を売り払わなければならなくなるという生活苦に陥りました。
それでも、財政は一向に回復せずに破たん寸前・・・

すると重定は・・・「領地をお上に返上する」と言い出しました。
義理の父・尾張藩主徳川宗勝の説得で、領地返上は思いとどまります。
しかし、隠居・・・
その後を継いで、ひっ迫する米沢藩の9代藩主となったのが、上杉鷹山でした。
しかし、鷹山は、上杉家の生まれではありません。
鷹山は、1751年7月20日、日向国高鍋藩6代藩主・秋月種美の次男として江戸藩邸で生まれました。
米沢藩8代藩主・重定の養子となったのは、10歳の時でした。
祖母が、上杉家の出身で、まだ跡取りがいなかった重定に・・・

「松三郎(鷹山)は、利発な孝行者で、遊び方も普通の子供とは違います
 周囲の人々もその才能には驚いています」

と、推挙したのが決め手でした。
こうして上杉家に入った松三郎は、直丸と改め、2歳年下の重定の娘・幸姫と婚約。
儒学者の細井平洲に師事するようになると、勤勉な直丸は寝食を忘れて学問に没頭することも多かったといいます。

「為政者は民の父母たれ」by細井平洲

主君としての心得を鷹山にときます。
それに対して、鷹山は、涙を流して感銘を受け、平洲を生涯の師として慕いました。
領民を慈しむ父母のような藩主となれという死の言葉を胸に、名を治憲と改めて1767年9代藩主となります。
江戸藩邸で家督を継いだのは、17歳の時でした。

9代藩主となった鷹山は、使いの者を通じ、春日神社に誓いの言葉を奉納しています。

「文武に励み
 民の父母の気持ちを第一とし 
 質素倹約を忘れず
 言動を一致させ 
 賞罰を正しくし
 不順や無礼がないようにします」

また、白子神社には、内密に奉納されたため、明治時代まで発見されなかったもう一つの誓いの言葉が・・・
そこには、17歳の若き鷹山の強い決意が記されていました。

「年々国家が衰えて
 民が苦しんでいるので
 大倹約を行って
 再興したいと願っています
 もし怠るようなことがあれば
 すぐに神罰を与えてください」

鷹山がリストラをしなかった理由とは・・・??

リストラをすると、解雇された家臣達が行き場を失います。
浪人となることで、藩の治安が乱れたり、藩の悪評が幕府に伝わることを避けたのです。

財政破たん寸前の米沢藩の藩主となった鷹山は、参勤交代でいた江戸で改革に取り掛かります。
まず行ったのが倹約です。

藩政改革①倹約奨励
1767年藩主となったその年に、江戸詰めの家臣達に大倹約令の発令をします。
藩の支出を抑えるために、食事は一汁一菜を基本とし、着物は木綿の着物を。
もちろん鷹山もそうでした。
藩主である鷹山自身の江戸での生活費を、1500両から209両にまで減らしました。

「してみせて  
   言って聞かせて
        させてみる」

鷹山は、常にこう言い、まずは自分からしてみせることで家臣たちに倹約を促していきました。
そしてこの大倹約令を書面にまとめ、米沢にも発布して、藩財政の見直しを命じました。

それから2年・・・1769年冬、参勤交代を終えた鷹山は、初めて米沢に入ることとなります。
藩主の初のお国入りは、一世一代の晴れ舞台ですが・・・倹約を進める鷹山の行列は短く、装いもみな木綿の着物でした。
その道中でのこと・・・米沢領内の板谷宿で・・・思いもよらない光景に愕然とします。
その日の食べ物にも困った民衆が、フラフラになりながら家財を売り歩いていたのです。
宿も泊まれる状態ではなく、その日は野宿・・・大名が野宿とは、通常ではありえませんが、鷹山たちは、焚火と酒でなんとか寒さを耐え忍んだといいます。

「国元の改革はどうなっているのだ・・・!!」

そして翌日、米沢城に入った鷹山は、2年前に発令した大倹約令が全く実行されていなかったことを悟ります。
出迎えた重臣たちの高価な絹の着物・・・!!
家臣達には、「何も知らない若造に勝手にされてたまるか!!」という反発がありました。
上杉家の家臣のプライドが、倹約を受け入れていなかったのです。
鷹山は、すぐさま国元米沢での改革に取り掛かりました。

藩政改革②農業再生
米沢では、長年にわたる過酷な重税で、農民たちが疲弊し、作物の収穫量も激減していました。
そこで、鷹山は農民たちが意欲的に働けるよう、孟孫の環境整備を始めました。
郷村教導出役という役職を新設し、領内12カ所の農村に住まわせ、農民たちの生活保護や、農業指導を行わせました。
鷹山は、郷村教導出役から常に農村の状況を聞き、現状を把握するように努めます。
また、自らの生活費から養育費を捻出して出産を奨励。
15歳以下の子供が5人以上いる家庭に養育費を支給します。

1772年「籍田の礼」を実施
鷹山自らが鍬をもって田を耕しました。
すると、これに触発されて、藩士たちも次第に農作業を行うようになり、2年間で18万坪(東京ドーム13個分)が新たに開墾されました。
藩の財政悪化の要因となっていた藩士たちで開墾する・・・余剰の労働力を、農業に振り分けたのです。
意識の変わった藩士たちは、橋の架け替えなど公共事業にも精を出すようになりました。
鷹山は、気配りの人で、身分を問わず誰にでも丁寧な態度を崩さなかったといいます。

さらに鷹山は、90歳以上の長寿者を殿中に招いて表彰したり、身内に病人がいる者に介護休暇を与えたり、と、福祉にも力を注ぎました。
まさに、名君だった鷹山・・・しかし、慣例にとらわれない鷹山の改革にいまだ強く反発する者もいました。
伝統と格式を重んじる保守派の重臣たちです。
1773年6月、その不満がついに爆発します。
江戸家老の須田満主・芋川延親・千坂高敦・色部照長・長尾景明・清野祐秀・平林正在・・・米沢城にいる鷹山に詰め寄り訴状を叩きつけたのです。
世にいう七家騒動です。
訴状には、鷹山の改革を批判する言葉が45ヶ条に渡って記されていて、特に武士に農業を勧めたことについては
「鹿を馬とするような馬鹿げた行いだ!!」
と激しく口論!!
そして鷹山の側近が政治をし放題なので、即刻辞めさせろと迫りました。
鷹山は、後程返答すると言って部屋から出ようとしましたが、袴の裾を掴まれて、なんと4時間近くも軟禁されてしまいました。
鷹山は、近習の助けによって部屋を抜け出して、前藩主の重定に助けを求めました。
重定は、「何たる無礼!!」と、重臣たちを叱責し、ようやく終わりました。
そして、その後、鷹山が訴状の内容をチェックすると、中身はデタラメでした。
訴状には、武士に農業をさせたため、農作物の値が高騰したと記されていましたが、実際は長雨のためだったなど、デタラメなことが多かったのです。

事件の3日後、鷹山は須田満主・芋川延親に切腹を言い渡し、残りの5名は、隠居・閉門という厳しい処罰をしました。
しかし、騒動の2年後、鷹山は5人の重臣の閉門をといています。
きびしい処罰を下したのは改革を断行するという強い意志を家臣たちにみせるためでしたが、鬼になり切れなかったのです。
それに、5人は藩の重職だったため、人材を失いたくないと思ったのです。

強い意志をもって改革を進める鷹山には、ある信念がありました。
それは、「人づくりは国づくり」だということ。

藩政改革③人材育成
1776年、人材育成の学問所・興譲館を設立
そして、その講師として終生の師と仰ぐ細井平洲を招致しました。
その報酬は、100両分・・・今のお金で1000万円です!!
当然、批判の声が上がりました。
平洲を切り捨てると息巻く藩士が現れましたが、それでも鷹山は、平洲を呼び寄せます。

平洲の招へいというのは、鷹山にとって先行投資でした。
知識を得るだけの学問ではなく、実際に社会の役に立つ実学を重んじる・・・藩士たちに深い感銘を与え、人民のために、藩のためにという優秀な官僚たちの育成に大いに役立ちました。
鷹山は、財政難にあっても未来を担う人材の育成には資金を投入すべきと考え、学費を払えない下級武士には奨学金を与えていました。
その結果、興譲館からは優れた人材が数多く輩出され、鷹山の改革に大きな力となっていったのです。

参勤交代で、江戸にいなくてはならないこともありました。
そこで、鷹山が国元での改革を託したのが、2人の側近・・・莅戸善政・竹俣当綱でした。
なかでも竹俣は、新田開発や工場間の設立に尽力した改革の最大の功労者でした。
鷹山も全幅の信頼を寄せていましたが・・・
1782年、鷹山のもとに告発状が届きます。

「8月12日、領内の見回りを終えた竹俣は、豪農の家で接待を受け、翌朝まで酒宴に興じていた」

財政改革の中心人物が翌朝まで酒宴に興じていただけでも問題ですが、朝を迎えた13日は、藩祖・上杉謙信の月命日で、酒宴自体が禁じられていたのです。
さらに、告発状には公費の私的流用が記されていました。
鷹山のショックは非常に大きいものでした。

竹俣を失えば、改革は失速する・・・!!

しかし、鷹山は心を鬼にして、隠居・自宅での禁固という重い処罰をします。
大きな戦力を失った鷹山を更なる試練が襲います。
浅間山の大噴火に伴う大飢饉が起こるのです。
天明の大飢饉でした。
放出された火山灰が、太陽の光を遮ったことで、農作物の収穫量が激減し、各地で餓死する者が続出・・・
米沢藩は、領民に籾を備蓄させていたため、餓死者こそほとんど出なかったものの、農作物の被害額は11万石相当・・・
田畑は荒れ果て、鷹山が改革を行う以前の最悪の状態に逆戻りしてしまいました。
そんな中、もう一人の側近莅戸善政が突如隠居を願い出ます。
鷹山が慰留するも、莅戸の決意は固く、止む無く承認・・・
その2年後の1785年、鷹山は前藩主・重定の実子で養子としていた治広に家督を譲り、35歳で隠居してしまいました。
藩が危機的状況にある中でどうして隠居・・・??
落胆したのは確かですが・・・隠居すれば、参勤交代をせずに国元で改革に取り組めると考えたのです。

鷹山は、藩主の座を治広に譲る際、三ヶ条からなる心得・・・「伝国の辞」を授けています。

一、藩は先祖伝来のもので私有すべきものではない
一、領民は藩に属するものであって私有すべきものではない
一、主君は藩と領民のためにある

江戸の藩士は、小さい頃から帝王学を学ぶので、絶対権力者と思いがちですが、鷹山は主君は民衆のために存在するという考え方を持っていました。
現在の民主主義に近い考え方を持っていたのです。

そしてこの伝国の辞は、その後も上杉家の家訓として引き継がれていきました。

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天明の大飢饉によって改革が振り出しにもどってしまった米沢藩・・・
隠居後の上杉鷹山は、家督を譲った治広を立てて、時々助言する程度にとどめていました。
そして治広は、役所の統廃合、人員の削減、興譲館の縮小など、徹底した緊縮財政によって藩の立て直しを図ったのですが・・・状況はますます悪くなるばかり・・・
鷹山の隠居から5年後の1790年の年間赤字は2万5000両・・・累積借金額は30万両・・・今の300億円と、鷹山が藩主になった頃の倍近くになっていました。

治広の倹約ばかりでは、藩士たちがやる気を失ってしまったのです。
ストレスをため込んだ役人たちは、賄賂や公金の横領に手を染めます。
政治までみだれていきました。

「このままでは、米沢藩は終わりだ・・・!!」

と、鷹山は再び立ち上がり、改革のかじ取りを始めたのです。

まず行ったのは、借金まみれの藩の財政状況を全藩士に公開します。
危機感を共有させて、改革への意識を向上させます。
そして、側近だった莅戸を再登用、「財政16か年の組立」を立案。
それは、収入の半分を藩の運営に、残り半分を借金返済に充てて16年で300億円相当の借金を完済する計画でした。
さらに、1791年には、上書箱を設置。
武士だけでなく、農民や町人でも意見を投書できる様にし、優れたものは積極的に対応していきました。

例えば・・・藩の役人・黒井忠寄は、財政の立て直しには米の増収が不可欠とし、大規模な灌漑事業を提案し、採用されています。
度々干ばつに見舞われてきた米沢北部に、全長およそ32キロの水路を造成、延べ10万人以上を動員して、完成させました。
これによって、32の村に農業用水がいきわたり、米の大幅な増収につながりました。
鷹山は、工事に携わった者たちに酒とスルメを振る舞って、労をねぎらったといいます。
その水路は、提案者の名をとって、「黒井堰」と命名され、現在も農業水路として利用され続けています。

鷹山は、飢饉対策にも心を砕きました。
凶作時の食料確保法を家臣たちに研究させます。
1802年「かてもの」を刊行。
農作物の代用食となる草木や果実を約80種紹介し、その調理法も記しました。
保存食づくりの参考にもるこの本を、領内に1500部配布しました。
この「かてもの」はおおいに役に立ち、1833年~1839年に起こった天保の大飢饉では米沢藩では一人の餓死者も出さなかったと言われています。

多額の借金を抱え、破たん寸前だった江戸時代中期の米沢藩・・・
その立て直しに粉骨砕身した9代藩主・鷹山は産業の新興にも取り組みました。

藩政改革④産業振興

鷹山は、ろうそく、陶器人形のほか、温泉水を使って塩まで作らせています。
なかでも最も力を注いだのが、養蚕です。
蚕の飼育方法を記した解説書を希望者に無料で配布し、技術指導を行うなど、領民に広く養蚕を奨励・・・鷹山は、ただでさえ切り詰めている生活費から、毎年50両を捻出し、養蚕の奨励金に充てました。
そして鷹山は、その繭から糸を作り、機を織らせます。
京都から職人を呼び、最新の機織り技術を下級藩士の妻や娘たちに学ばせました。
こうして出来上がったのが、米沢織です。
中でも高い技術を擁する透綾は、その名の通りすけるほど薄く、江戸や大坂でたちまち評判となりました。
米沢織の大ヒットによって、藩の財政もようやく上向きとなり、藩士や領民の生活も少しづつ楽になっていきました。
それでもなお、鷹山は晩年に至っても木綿の着物に一汁一菜の食事という質素な生活を続けていました。
家臣から生活費の増額を打診された際も、こう答えたといいます。

「年を取り、叱ってくれる者がいなくなった今、自由になる金がありすぎると、ワガママになるかもしれぬ
 このままで十分・・・」

そして、1822年3月12日、病の床に臥せっていた鷹山が眠るように亡くなったといいます。
72歳、藩と民のために捧げた生涯でした。

その訃報に、領内は深い悲しみに包まれ、葬儀の際には多くの人が沿道に集まり、声をあげて泣いていたといいます。
藩の財政を立て直すために、様々な改革を行った鷹山でしたが・・・お鷹ポッポもその一つです。
農民の農閑期の副業として、制作を奨励したもので、大ヒット商品となり、今も米沢の名物として作られています。
ポッポとはアイヌの言葉で玩具、お鷹は禄高を意味し、収入がぽっぽと増えていくようにとの願いが込められています。
そして、その願いどおり、鷹山の死後1年後、米沢藩は借金を完済し、さらに、5000両を蓄えるまでになるのです。
藩のため、領民のために身を尽くした鷹山は、なせば成るを体現した名君、真のリーダーでした。

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