神の子 洪秀全: その太平天国の建設と滅亡

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悠久の大河、果てしない大地・・・中国ではおびただしい数の人が歴史のドラマを紡いできました。
古よりこの国を治める者の戒めとなってきた言葉があります。

「君は船なり 民は水なり
 水よく船を乗せるも またよく船を覆す」荀子

君主という船は、民という水を制御できなければ転覆する・・・
歴代の殆どの王朝は、民衆の反乱から滅亡への道をたどってきました。
これほどの規模で反乱が繰り返された国は世界にも例を見ません。
反乱によって現れるのは、次の時代を担う英雄たちです。
英雄たちは人々とどう向き合ったのでしょうか?

秦の始皇帝以来2000年、中国を治めてきた皇帝。。。
1912年その統治が終わりを告げます。
辛亥革命です。
最後の王朝清を倒した革命軍・・・指導者・孫文は革命の父とよばれ、人々の敬愛を一身に集めてきました。
太平天国の乱・・・辛亥革命の60年前に起きた太平天国の乱・・・。
清王朝を揺るがした大きな民衆の反乱でした。
リーダーの名は洪秀全。
一握りの民族・満州族が治めた清・・・その支配がほころびを見せる中、貧しい漢民族の農家に生まれた洪秀全が反乱を起こします。
都・北京にまで迫ったのです。
13年に及んだ太平天国の乱・・・清に鎮圧され、乱に関わる文書などが焼かれたため、長い間謎に包まれてきました。
しかし・・・近年、洪秀全が民衆に宛てた檄文が発見されました。
そこから洪秀全が掲げた壮大な理想が見えてきます。
浮かび上がる歴史の真相とは・・・??

中国南部の大都市・広東省の広州・・・
太平天国の乱を起こした男は、この郊外のちいさな農村・官禄坿で生まれました。
1814年農家の3男に生まれた洪秀全・・・どのようにして、国を動かすような大乱を起こしたのでしょうか?
一族の住んでいた長屋は窓がなく、部屋が狭い事です。
洪秀全は、漢民族の中でも「客家」に属していたので、貧しく地元の住民と対立しやすかったので、周りの十人との防犯の意味で、窓がなかったのです。
「客家」には、よそ者という意味があります。
過去の王朝が滅んだときなどに故郷を追われ、流民となった漢民族の事です。
18世紀以降、客家は敢闘賞に多く移住・・・その多くが、大地主の元で、小作として生活していました。
地元の小作農よりも安い賃金で働いた客家の人々・・・働き口を奪うものとして敵視されることも多く、固まって暮らしていました。
非常に貧しかったものの幼いころから勉強熱心だったので、両親は塾の費用を工面しました。
すべては、科挙に合格するためでした。

科挙は、中国で7世紀以来続いてきた官僚の採用試験です。
主な科目は儒教と詩作。
男性であれば、身分を問わず受検することができたので、14歳から何度も受けました。
受験料が要ったので、毎年ではありませんでしたが・・・。
洪秀全の村の近くにある富裕層向けの塾・・・富裕層の子弟たちは、高額な授業料を払って充実した教育を受けていました。
一方、洪秀全が通った塾には優秀な先生もおらず、半ば独学でした。
厳しい農作業の合間に、懸命に塾に通い学び、受験し続けること14年・・・
しかし、合格の通知は届きませんでした。

この頃、科挙に大きな問題があったことが、近年解ってきました。
紫禁城にあった資料には・・・1833年広東省の科挙について記された資料が・・・
科挙を受ける学生たちの管理をする「学政」という官僚がいて、その広東学政の李泰交が1834年の正月に自殺しています。
自殺をしたときの手紙が発見されたのです。
それは・・・採点官が手心を加えた・・・カンニングなどの不正を取り締まることができなかったことに対する、抗議の自殺でした。
背景にあったのは、科挙の倍率の急激な上昇でした。
17世紀には人口8000万ほどの清でしたが、洪秀全が生きた19世紀には4億となっていました。
科挙の試験がますます狭き門となる中、実力での合格を諦め、不正を働くものが出てきたのです。
不正を告発した監督官の自殺・・・
清王朝は公にしませんでしたが・・・洪秀全には伝わっていたようです。
自分が一生懸命受けて・・・あれは何だったんだ・・・
不正を取り締まれないような試験の中で、自分が結果を出せないことに対するいら立ちは大きいものでした。
清王朝の支配にほころびが見え始めた19世紀・・・
この頃、中国の利権をめぐり、欧米列強が進出します。
1840年、イギリスとの間でアヘン戦争・・・清は大敗を喫し、時代は転換点を迎えるのでした。

貿易の拠点として外国人たちがたくさんやってきた広州・・・
そこで科挙を受けた洪秀全は、人生を変える教えと出会うのです。

キリスト教の教会”石室聖心大聖堂”です。
19世紀、欧米の宣教師たちは、中国人たちに積極的に布教活動を行っていました。
洪秀全が初めてキリスト教徒であったのは、19歳の時でした。
宣教師が街角で配布していたパンフレットを手にしたのがきっかけでした。

「儒教はウソに満ちていませんか?
 みなさん、幼いころから儒教の勉強をしてきたのに70歳、80歳になっても科挙に合格できない者がいるなんて・・・」

洪秀全は、このパンフレットをずっと持っていたといいます。

23歳の時、洪秀全は、3度目の科挙の試験に失敗し・・・そうしてその夜、不思議な夢を見ます。
夢の中、天に上った洪秀全は、金髪の黒い衣服をまとった一人の老人と出会います。
「洪秀全よ、まずそなたの体を清めよう」
そう言って、老人は洪秀全の内臓をすべて取り去り、代わりに新しい真っ赤な臓腑を埋め込みます。
そして老人は剣を渡してこう言いました。
「そなたの天命はこの剣を振るい、腐敗した世を正しい方向に導くことだ。」
その後、科挙に挑戦するも不合格に終わった洪秀全・・・
遂に、夢のお告げに従うことを決意します。
洪秀全は独学でキリスト教を学び始めます。
それが腐敗した世を変える力だと信じたからです。

洪秀全は30歳の時、上帝教という教団を作ります。
当初は聖書に基づく不況をしていましたが、中々信者が集まらず・・・
洪秀全は、上帝以外は神でないとし、中国伝統の儒教や道教の寺院を仲間と共に破壊しました。
さらにそこに、神のお告げが下り、洪秀全は上帝の息子であり、キリストの弟ということに・・・。
異端ともいえる教えでしたが、多くの人が耳を傾け、崇めるようになりました。
僅か3年で、信者は2万に上りました。
その信者の殆どが、貧しき客家の人々でした。
清への強い不満・・・アヘン戦争で敗れた清は、賠償金返済のために土地の税を増額・・・重くのしかかったのが小作の客家の人々だったのです。
腐敗した世を正せ・・・遂に、お告げを叶える時がやってきました。
1851年、37歳の洪秀全は、江西省の金田という村で、兵を挙げます。
太平天国の乱です。
突然の反乱に、清は後手に回る中、洪秀全たちは南部の年を次々と攻略!!

清の人たちは、彼らの事を長髪賊と言いました。
国が決めた辮髪を結っていなかったからです。
辮髪は、清を支配する少数民族満州族の独特の風習でした。
17世紀に王朝ができて以来、ほとんどを占める漢民族をはじめ全国民に強要されていました。
殆どが百家・・・漢民族だった太平天国の兵士たちは、清の支配に反発し、髪をほどいたり、切ったりしました。
太平天国の乱は、満州族を倒し、漢民族を復活させる・・・滅満興漢の戦いでもあったのです。

決死の覚悟を支えたものは一体何だったのでしょうか?
湖南省・長沙で・・・「太平王洪秀全檄文」が発見されました。
洪秀全が人々に反乱への参加を求めたビラです。
太平天国の乱に関する記録は、清王朝が燃やしてしまったので、極めて貴重です。
このビラは、太平天国の極めて初期のもので・・・
興味深いのは、キリスト教や饅頭族のことについてほとんど触れられていない点です。
強調されているのは、どんな新しい国を築くか?というものでした。
・一つでも技能のある者は、身分を問わず、1000人のリーダーにします。
・富めるものが分け与え、貧しい民が決して見捨てられないようにします。
・もし、権威をかさに貧しいものから略奪する者があれば、誰であろうと即刻処刑します。
身分を問わず、人材を登用する・・・貧富の差を無くす・・・全く新しい平等の世を築くことを宣言していました。
これは、中国で最も早くに考えられた社会主義の思想です。
貧しい民衆たちは、これに心惹かれました。
キリスト教の教えに基づくように思われますが、洪秀全独自の考えによるものです。
聖書には神の下の平等は書いてあっても、政治や経済の平等は具体的には書かれていません。
それを言い出したのは洪秀全でした。
元々農民であった洪秀全にしか書けない農民の心に訴える思いが書かれていました。
平等を目指す戦い・・・洪秀全は、社会を支配する皇帝という存在にまで疑問の目を向けていきます。

「神である上帝以外は、帝などと名乗らせてはいけない・・・
 帝などと名乗る大それた者は永遠に地獄に落ちるだろう。
 その罪の先駆けは、秦のせいである。」

秦とは・・・始皇帝の事です。
始皇帝以来2000年続いて以来続いてきたこの国の皇帝社会を否定したのです。
太平天国で、無条件に上に立つ存在は、上帝・・・つまり、神だけ・・・。
他は皆平等・・・洪秀全は、この平等な社会を徹底する為に、不平等の象徴だった皇帝を倒そうとしたのです。
最初に皇帝なき世界を目指したのは洪秀全でした。

挙兵からわずか2年で南京にせまります。
清にとっても要の地・・・。
高さ20メートル、全長25キロの防壁で、守りを固めていました。
指揮髙い太平天国軍は、装備もままならぬ中、一気に城壁を駆けあがります。
当初、2万人だった太平天国軍は、20万にまで膨れ上がっていました。
その圧倒的な数を前に、清軍はなすすべなく敗れ去りました。

洪秀全は、南京を天京と改め、ここを都とする太平天国の建設を宣言します。
当時、南京にいた90万の人々も、そのまま太平天国の国民となり、その後11年間にわたり南京を治めた太平天国・・・
後に破壊されたため、謎に包まれてきました。
奇跡的に残されていた痕跡・壁画には・・・
発見当初、その壁は、白く塗りつぶされていました。
乱を鎮圧した軍が破壊する前に、白く塗られたのです。
その描かれた風景には太平天国特有のものが・・・
太平天国は、偶像崇拝を禁止していたので、一人の人物も書かれていないのです。
誰かを描いた瞬間に、その人が特別となって平等ではなくなるのです。
太平天国独特のユートピアなのです。

太平天国の国民になることを望んで、様々な階級の人々が集まってきました。
南京千両から2年後、遂に北京の攻略を目指します。
しかし、清の軍に敗退・・・
原因は、南京からの物資が届かず、食料不足に陥ったせいでした。
どうして食糧不足があったのでしょうか?
太平天国は、最初に蜂起した時から、全員で財産や食料を出し合い、均等に分配していました。
南京を落とした後も、同じように90万人の市民から食料を集めて倉庫に納めたあと、軍と市民に均等に分配しようとしたのです。
果たして均等にできるのでしょうか??
無理だったのです。
南京征服によって人数が膨れ上がり、90万もの人々から集めるのも分けるのも難しい・・・
迷っている間に、北京へ行っていた軍隊に食料を届けることができなかったのです。

北京攻略の失敗後も、平等であることにこだわり続けた洪秀全。
田畑も食料も、布も、貨幣も全部一旦預けてほしい・・・
みんなで平等に分ければ、飢えたり苦しんだりしないはず・・・
巨大な倉庫をたくさん作らせて、人々が財産を提供してくれるのを待ちます。
しかし、人々は応じません。
太平天国の高すぎる理想に戸惑いや疑問を感じる人が増えていました。
やがて太平天国は税を集めるようになります。
平等の理想は失われていきました。

太平天国が勢いを失う中、清が攻勢に転じていきます。
それは欧米列強からの援軍でした。
当時、列強は太平天国と友好関係を築こうとしましたが・・・求めていたアヘンの取引を洪秀全に拒否され・・・
認めた清に手を貸したのです。
南京総統府・・・洪秀全が最後に住んだ場所です。
勢いも衰え、清王朝の打倒の望みが潰えようとする中・・・洪秀全は変わっていきます。
黄金の玉座・・・玉座の形も部屋の作りも・・・清王朝の皇帝と同じです。
反乱末期は、側近に政治を譲り、言われるがまま判を押し続けたといいます。
着ていた衣の黄色は、皇帝だけに許されたものでした。
その姿は、洪秀全が否定しようとした皇帝そのものでした。
かつて新しい社会を築こうとした洪秀全の意欲は失われていたものの・・・部下たちは彼に縋り、祭り上げるばかり・・・。
理想通り平等にはできない社会。。。
ひとたび劣勢となった反乱軍が攻勢に転じることはありませんでした。
占領した都市を次々と失い・・・1864年南京包囲!!
南京に籠る反乱軍は、食料もなくなり、絶望的な状況に陥っていました。
清の軍の包囲が続く中、病を得た洪秀全はこの世を去りました。
享年50・・・。
それから1か月後、南京陥落。
清は、洪秀全の遺体を掘り出し焼き払います。
貧しい農民だった洪秀全は、蜂起してから13年・・・太平天国の乱は終わりました。

中国の国土の広さ、人の多さに挫折した洪秀全・・・
洪秀全の黄金の玉座が置かれていた総統府・・・ここで48年後、同じ場所で中国の指導者となったのは孫文でした。
1912年信を倒し、ここで中華民国初代臨時大総統となったのです。
孫文の部屋には・・・どこにでもある机と椅子がありました。
清王朝を倒し、皇帝なき世界を作ろうと二人・・・
洪秀全が挫折し、孫文が成功した理由は・・・??

孫文は、洪秀全と同じ広東省の出身です。
生まれたのは、太平天国の乱終結から2年後の事でした。
孫文の父は、農業の傍ら出稼ぎで家計を支えていました。
幼いころ、孫文は太平天国に参加した老兵から洪秀全の話を何度も聞きます。
後の側近によれば、自分の事を洪秀全第二と呼んでいたといいます。

孫文の幼いころ、太平天国の痕跡は殆ど焼かれていましたが、人々の心の中には強く残っていました。
しかし、洪秀全を超えることを考えることをできたのは、孫文だけだったのです。
36歳の孫文が書いた太平天国戦史は、清王朝の目を逃れるために、日本で出版されました。
この頃すでに革命運動に身を投じていた孫文は、徹底的に太平天国の乱を分析しています。
孫文が革命を推し進めるうえで二つの事を重視しました。
それは、外交と革命資金の調達でした。
孫文はアメリカやイギリス、日本を頻繁に訪れ、中国の近代化を説き援助を求めます。
孫文は、イギリスやアメリカなど西側世界の人々から得た共感を、支持者たちに届けたいと訴えています。
中国の革命をアメリカやヨーロッパ世界と共に行おうとしているのです。
孫文の外交活動は功を奏し、清王朝は次第に列強の支援を失い、孤立していきます。
更に孫文は、海外からの資金調達に奔走します。
日本でも政治家の犬養毅、実業家の渋沢栄一と交流し、資金の調達に成功します。
こうして得た莫大な資金を、中国各地の革命勢力に送ります。

そして・・・1911年10月辛亥革命勃発!!
1912年宣統帝溥儀退位・・・清王朝は滅ぶのです。
中華民国の初代臨時大総統に就任した孫文は、就任時の宣言書で革命の総決算ともいえる理想を説きました。
それは「五族共和」です。
五族とは、清王朝の主要な民族漢民族・満州族・モンゴル族・ウイグル族・チベット族のことで、その五つの民族が違いを超えて一つになることを解いたのです。

かつて皇帝なき平等な世を唱えながら満州国打倒を唱え続けた洪秀全・・・これに対し、孫文は満州族も含む多様な民族があってこその中国だと宣言したのです。
洪秀全に憧れ、その失敗を学び続けた孫文・・・彼は周囲にどれだけ押されても、最後まで皇帝になること張りませんでした。
皇帝の時代が孫文によって終わりを告げたのです。

孫文が最も大切にした言葉は「天下為公」・・・天下は公の為、民のためにある。


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