日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:秦

20世紀最大の発見・・・兵馬俑。
そのすべての始まりは、一人の農民の鍬の一振りでした。

長い戦乱の世を一代で終わらせ、統一王朝を築いた秦の始皇帝。
その死後も仕える軍隊として作られたのが兵馬俑です。
威厳にあふれる将軍、武器を構える兵士、洗車をひく馬・・・始皇帝の軍隊を忠実に再現しています。
驚くべきことに、一人一人顔が違います。

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しかし、ここ兵馬俑・・・2000年間は土の中にいました。
そのまま埋まっていてもおかしくはない・・・。

1974年3月29日、中国中央部の荒れ地で、一人の村人が振り下ろした鍬が、偶然兵馬俑に当たります。
それからあれよあれよと・・・8000体の兵馬俑が現れました。
始皇帝の大軍団が、2000年の時の彼方から蘇りました。
今世紀最大の発見といわれる巨大遺跡でいた。

第一発見者・・・楊志発
最初に兵馬俑を掘り出したことで数奇な運命に翻弄されます。

中国中部陝西省の大平原・・・
都会から遠く離れた地で兵馬俑は見つかりました。
今や兵馬俑のおかげで見事に発見した村に、その男はいました。
楊志発・・・現在は自宅の一角で小さな記念館を開いています。
入場は無料で、話しも聞けます。

一本の鍬が、兵馬俑に当たった瞬間から、彼の人生は一変しました。
1974年、楊志発36歳・・・兵馬俑の発見は、いくつもの偶然が重なった結果でした。
楊の住む西楊村から1.5キロのところに始皇帝陵がありました。
しかし、当時の楊たちにとっては今日の暮らしの方が問題でした。
当時、中国はみんなで作ったものをみんなで分ける・・・共産主義体制が敷かれて25年目・・・
農村では食料は役所を通じて村人に均等に配給されていました。
しかし、どれだけもらえるかは、その村の収入次第・・・。
楊の村は、度々干ばつで、農作物がほとんどとれませんでした。
井戸は枯れ、どこを掘っても水は出ない・・・楊は家族を抱えて途方に暮れていました。
水よ・・・出てくれ・・・!!荒れ地を鍬で掘り続けます。

1974年3月29日・・・運命の日もそうでした。
村はずれのくぼ地・・・必死に4mぐらい掘った時・・・鍬がズボッと入り、抜けなくなりました。
土を払うと・・・そこには壺が・・・??
壺ではなく、それは神様の像・・・??
土の中から顔も出て・・・本物の人間のようでした。
最初の兵馬俑は、こうして姿を現しました。
掘り当てたいのは水・・・しかし、出てくるのは焼き物ばかり・・・。
楊は考えます。
始皇帝陵の近くで・・・大事なものなのでは・・・??
この日見つかっただけで、リヤカー3台分・・・地元の役人の元へと持ち込みます。

面倒と思っていた役人・・・陶俑ではないか??と気づきます。

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身分の高い人の墓に納められた陶器の人形・・・陶俑。
楊は、この時初めて自分が発見したものの価値を知りました。

役人は・・・
「手間賃はくれてやる
 とっとと井戸掘りにもどれ」と、30元をくれました。
当時の日本円でおよそ4,200円で、当時は現金は村人全員で分ける必要があり・・・楊の手元に残ったのは、0.13元・・・およそ20円でした。
農民の財産は集団のもので、個人の物はなく、方針に従わなければ食料ももらえませんでした。

あの掘り出し物はどうなるのか・・・??
井戸を掘り続けます。

役人は役人で困り果てていました。
妙な掘り出し物をどうするのか・・・??
国の法律もない・・・。
無かったことにしよう・・・役人は、倉庫の奥深くに兵馬俑を隠しました。
まだ残り、8000体もあるとは夢にも思わず・・・。

そしてそのまま3か月、事態は一転します。
きっかけは、北京の政府内で出回った密告文書でした。

従来の陶俑とは全く異なった等身大のものが見つかった・・・
地元の役人は、これに妥当の措置をしていません。

隠したつもりでも、情報は漏れていました。
密告を受けて政府が出した命令は・・・
「速やかに妥当な措置をとれ」でした。
妥当な措置とは・・・??
あいまいな命令でしたが、噂を聞いて楊は役所に駆けつけました。
発掘を手伝うつもりでした。
しかし、学者先生が発掘することに・・・。
発見したにもかかわらず、兵馬俑の外に追い出されてしまった楊・・・
その後、20年もの間遺跡に近づこうとはしませんでした。

所詮農民だから・・・と。

兵馬俑発見者の存在は忘れられました。
しかし、20年後、彼の立場は一変します。

すみやかに妥当な措置をとれ・・・に正面方立ち向かったのは、兵馬俑の初代発掘責任者・考古学者・袁仲一です。
最初に頼まれたときは、10日あれば終わると考えていました。
しかし、40年も兵馬俑に関わることとなります。
袁に託された任務は、ただの発掘ではありませんでした。
当時、中国では文化大革命(1966~1976)の嵐が吹き荒れていました。
名だたる歴史遺産が、次々と破壊されていた時代・・・兵馬俑は壊されていてもおかしくはありませんでした。

文化大革命・・・それは、当時の中国全土を吹き荒れた破壊と粛清の嵐でした。
新しい文化を生み出すスローガンのもと、古くからの歴史遺産が容赦なく破壊されていきました。
其れに抗う者たちは、反体制分子として厳しく処罰されました。
破壊を止めることは誰にもできない・・・。

折角見つかった兵馬俑も、このままでは・・・!!
そうなる前に、ピンチを救ったのは・・・袁仲一でした。
権力のプレッシャーと、学者としての使命・・・その狭間で戦います。

発掘隊のメンバーには、
「危険な時代だから一歩間違えば刑務所に行くかもしれない・・・でも、私たちで兵馬俑を守り抜こう!!
 たとえ逮捕されようとも、歴史の犯罪者にだけはなってはならない!!」そう決めていました。

悲壮な決意で発掘に臨んでいた袁仲一。
文化大革命の中、ギリギリの戦いが始まりました。

陝西省西安・・・この町で20代から考古学者の道を歩んでいた袁。
31歳の時、文化大革命が起きました。
毛主席の本を読み、毛主席の言葉を聞き、毛主席の指示に従おう・・・
毛沢東と違う考えを解く者たちは、自己批判を迫られさらし者に・・・
その敵意は、歴史自体にも向けられ、由緒ある仏像でも破壊される・・・!!
古い価値は否定しろ・・・!!考古学者には最低の時代でした。

文化大革命によって貴重なものが壊されました。
しかし、それを口に出すことは許されませんでした。
そんな袁が、運命を変える一報を受けたのは、1974年7月!!

兵馬俑発見から4か月後のことでした。
すみやかに妥当な措置をとれ・・・!!という命令でした。
破壊せよ・・・??
とにかく物を見て見よう・・・と、村を訪れます。
すると・・・ゴミ捨て場に陶俑の手が転がっていました。
兵士の胴体が植木鉢に・・・子供が腕でチャンバラを・・・!!
最初に発見した人は役所に届けていましたが、かなりの数の村人がこっそりと掘り返していました。

役所の倉庫に眠っていた兵馬俑も日の目を見ます。
陶俑は、秦より後の時代にも作られていますが、2、30cm・・・大きくても60cmほどしかありません。
兵馬俑は実物大・・・!!誰も見たことのない大きさでした。
遺跡の広さは想像をはるかに超えていました。
そこまで言っても終わらない・・・兵馬俑1号抗の大きさは1万4000㎡・・・世界でも1、2を争う規模の地下遺跡で、中身はぎっしり・・・!!
考古学者全員が大興奮でした。
大大大発見だったのです!!
どう措置する・・・??
絶対に守り抜く!!どうやって文化大革命の破壊を免れる・・・??

この時代でも壊されなかったもの・・・それは、万里の長城です。
どうして壊されなかったのか・・・??それは、秦の始皇帝が築いたものだったからです。
当時、始皇帝は特別な存在でした。
毛沢東が礼賛していたのです。
その理由は焚書坑儒。
始皇帝が儒教の学者を土に埋め、書物を焼き払ったという故事です。
毛沢東も、古い思想を否定する点では同じ・・・!!
この時代、始皇帝の行いはいいこととされ、彼の残したものは例外的に破壊を免れました。
兵馬俑が始皇帝のものだとわかれば・・・!!
始皇帝陵の近くで発見されたことから予感がありましたが・・・
与えられた発掘期間はわずか1年・・・なんども延長を訴えます。
遺跡の規模はとてつもなく大きい・・・途絶えることなく出てくる・・・
しかし、当局の決定は変わりませんでした。
始皇帝に関わるものを・・・??
いよいよ危険を感じ始めた1975年4月・・・
機嫌まで3か月を切ったある日の事・・・
兵馬俑が持っていた武器に、作らせた人物の名が書かれていました。
相邦の呂不韋・・・兵馬俑は焼き物ですが、武器は本物を持っていました。
その一つに明記されていたのです。
相邦とは、秦の国の政治のTOPに当たる存在、呂不韋とは始皇帝の若き日に相邦を務め、歴史書にも登場する人物です。

遂に、兵馬俑が始皇帝と結びつきました。
呂不韋は始皇帝と縁が深い人物です。
これで兵馬俑を守れる・・・!!

袁が突き付けた100点満点の回答・・・誰もが納得する妥当な措置でした。
これには毛沢東も大喜び。
1975年7月12日、始皇帝の遺跡、兵馬俑が発見されたという第一報が世界に向けて発信されました。
すると、全部掘り出せ、早く掘り出せと要求の嵐・・・
それをはねつける袁・・・10年でも20年でも待ってもらう・・・と。
袁は、発掘と修復が終わるまで、遺跡を考古学者の管理に置き、政治の介入を拒みました。

文化大革命という混乱の中、孤軍奮闘した袁・・・しかし、一つだけできなかったことがあります。
写真の公開です。
中国政府は詳細な情報は国家機密として写真は一切公表しませんでした。
闇に葬られる・・・??

ジャーナリスト、オードリー・トッピング・・・兵馬俑の価値を世界に知らしめた女性です。
兵馬俑は世界の宝へと変身していきます。
兵馬俑の運命を変えたオードリー・トッピングは、今、アメリカに住んでいます。
中国とのつながりは深く、先祖は19世紀の末から中国でキリスト教の布教をしていた宣教師でした。
中国=怖いというイメージが世界で広がっていた中で、何度も中国を取材し、人々の生の声を使えることを使命としてきたトッピング・・・1975年、兵馬俑を訪れたときも、もともとは別の取材を進めていました。
父の中国訪問を記事・・・父が周恩来などと面会するという記事・・・にするつもりでした。
父・チェスター・ロニングは、カナダの外交官でした。
イギリスのエリザベス女王や、インドのネルー首相などとも親しく交流した世界的な有名人物でした。
父の特別待遇を利用して中国を訪れることができたトッピング・・・
周恩来、鄧小平らとの会談を取材中に、思いがけないニュースを知ります。
北京で新聞を見ていたら、兵馬俑発見の記事が・・・
政治家の記事よりもこちらの記事を・・・!!
予定を切り上げ、すぐに遺跡へ・・・!!

発掘現場に向かおうとしたとき、役人が立ちはだかります。
兵馬俑遺跡を訪ねてきた欧米人など初めて・・・しかもカメラを持っている・・・。
ウソ泣きをして連れて行ってもらう・・・
「カメラはダメです!!」
しかし、予備のカメラを持っていました。
足を踏み入れた発掘現場・・・一目で圧倒されます。
いにしえの戦場が目の前に広がっていました。
こんな素晴らしい遺跡を目にしたら・・・ジャーナリストのすることはただ一つ!!
覚悟を決めてカメラで写真を撮りたい・・・!!
同行していた娘を囮に使います。
質問をしてメモを取り続け、役人の目を母からそらします。
その隙に撮った写真・・・撮れたのはごくわずかで、ピントもくるって使えません・・・。
滞在時間2時間・・・写真は撮れないまま、現場を後にします。
折角の取材をニューヨークタイムズに・・・!!
現場を見たものでしか書けない臨場感・・・!!
詳細に書かれたその記事・・・しかし、写真はないのでインパクトはありませんでした。
書きたいことは山ほどある・・・!!

考古学会で一番権威のあるナショナルジオグラフィックに売り込みます。
しかし、読者は写真なしでは許してくれませんよ!!
現場に行ったのに、どうして写真がないのか・・・??
世界中の人は、見たこともない写真を待っている。
どうやって写真を手に入れる・・・??

中国の秘密ルートを使いました。
発掘現場の誰かから写真を横流ししてもらいました。
トッピングが写真を入手たのは1976年の秋・・・同じころ、中国は激変を迎えていました。
1976年9月9日・・・毛沢東死去。
これを機に、文化大革命は収束に向かいます。
1年半後・・・もう誰も危害が及ばない・・・
1978年4月、ナショナルジオグラフィック誌・・・オードリー・トッピングは写真を掲載します。
世界はこの時初めて兵馬俑を見ます。
兵馬俑は今や世界の宝となりました。
この記事が、兵馬俑の価値を世界中に伝えたのです。
トッピングの記事の翌年・・・兵馬俑博物館がオープン!!
初日から外国人が殺到します。
1984年、たっての希望で兵馬俑を訪れたのはアメリカ合衆国レーガン大統領でした。
それからも相次いだビップに、中国政府も写真撮影を黙認・・・
1987年にはユネスコの世界遺産に登録され、名実ともに世界の宝となりました。
もう・・・兵馬俑を破壊しようと思う者もいない・・・!!

この記事によって、ようやく一人の男が見出されます。
忘れ去られていた第一発見者の農民・・・楊志発。
トッピングの記事を読んだ外国人が、楊のもとを訪ねてくるようになります。
聞かれるまま秘話を話していた楊・・・本をだすと瞬く間に8か国語に翻訳されます。
1994年6月、役所から「外国人に話をしたり、サインをするなら博物館の中でやってほしい」と頼まれます。
楊は20年ぶりに兵馬俑の近くに。。。
6月26日、兵馬俑博物館でサイン会開始・・・大行列となります。
アメリカ大統領クリントンもその一人です。
不遇だった兵馬俑の発見者は、外からの評価によって報われます。

誰一人かけても世界に知られることはなかった奇跡の遺跡兵馬俑・・・
2000年の眠りから掘り出したのはひとりの農民でした。
兵馬俑発見の直後にとった3歳の息子との写真が宝物です。
息子に話します。
「父さん、なんかすごいものを見つけてさ・・・」
息子に自慢ができてうれしかった。
それだけで十分だ・・・。


一本の鍬によって2000年の歴史から蘇った兵馬俑・・・
その瞳は、愚かで愛すべき人の営みを、これからも見つめ続けるのです。


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中国の広大な大地に生きた英雄たち・・・
天下統一の夢、渦巻く謀略・・・その伝説とは・・・??

広大な中国を統一した秦の始皇帝・・・紀元前210年に世を去ります。
再び戦乱の世が訪れました。
天下を手中に治めようと、二人の英雄が熾烈な戦いを繰り広げます。

”項羽と劉邦”です。

項羽はこの時、20代の前半・・・
その後、70以上の戦いに勝利した中国史上屈指の戦の天才でした。
一方、劉邦は50歳間近・・・連戦連敗で、いつも負け続けていました。
戦いに敗れて逃げる時、我が子を見捨てて逃走するという逸話も残っています。
しかし、最後に勝利を掴んだのは劉邦でした。
劉邦は天下を統一し、漢王朝の皇帝に即位します。
その後、2000年にわたり、中国の国家体制の基盤となった漢の開祖となったのです。
どうして劉邦は、勝利したのでしょうか??
戦の天才、項羽はどうして敗れたのでしょうか??
その秘密は、始皇帝の兵馬俑に隠されていました。

長江の下流にある宿遷は、英雄・項羽の生誕の地です。

項羽は真っ直ぐな生き方をした人で、その潔さに共感を覚えます。
劉邦はつかみどころのない、凡庸でつかみどころのない人物に見えますが、その劉邦にどうして項羽が蒔けたのでしょうか??

後に、楚の国の覇王となった項羽・・・
項羽の一族は、代々楚の国の将軍を務める名門でした。
項燕・・・項羽の祖父は、楚の大将で、軍の最高責任者でした。
楚は、かつて長江流域に強大な勢力を誇った大国でした。
しかし、項燕の時代に秦に滅ぼされます。
始皇帝の死後・・・各地で反乱が勃発!!
その反乱をまとめ、打倒秦の中心勢力となったのです。
復興を目指した楚の国・・・その反乱軍の先頭に立ったのが、項羽でした。
項羽は・・・
「楚の人間は、三戸と雖も 秦を滅ぼすは必ず楚なり。」といったと言います。
三人になっても、秦を滅ぼすまで戦う・・・と。

一方劉邦は・・・同じ楚の生まれ・・・金劉村に生まれています。
曽祖父の名は”劉清”・・・戦乱の世、この村に逃げ込んで、農業を始めたと言われています。
劉邦は、その家の4人兄弟の末っ子として生まれました。
そして、劉邦は下級役人を務めていました。

司馬遷の「史記」・・・
そこには、村役人だったころの劉邦について・・・
酒と色を好み、いつも酔いつぶれていたとあります。
ところが、40代後半の頃・・・運命を変える事件が起こります。
村にほど近い芒碭山・・・劉邦は、この山の麓で農民たちを連行していました。
始皇帝墓の建設に向かわせるためでした。
しかし、その道中に農民たちが逃亡・・・劉邦はその責任を問われることを恐れ、山に立て籠ります。
この窮地を救おうと、劉邦を慕う村の農民たちが集まりました。
この事件をきっかけに、心ならずも反乱軍に身を投じることとなってしまった劉邦。
紀元前208年、秦に対する反乱が各地で勃発していました。
斉・魏・趙など、秦に滅ぼされた国々が次々に立ち上がります。
そして、秦軍は、その鎮圧に手を焼いていました。
反乱軍の中で最大勢力となった項羽の軍は、楚を出て秦の都・咸陽を目指します。
黄河の支流・漳河が流れる河北省・鉅鹿・・・項羽はここで反乱鎮圧のために来ていた秦の主力軍と遭遇します。

紀元前207年・・・鉅鹿の戦いです。

項羽の軍と秦の軍の命運をかけた一大決戦・・・項羽の軍は、勢力的に圧倒的に劣勢でした。
秦軍は、軍備を整えた正規軍・・・兵力は20倍でした。
しかし、劣勢だった項羽の軍が勝利を治めます。
「史記」によると・・・項羽は船を沈め、釜を破った・・・
つまり、川を渡って戦いに挑む項羽軍・・・。
全軍が川を渡り終えると船をすべて沈め、兵士たちの退路を断ったのです。
3日分残っていた食料を捨て、釜を壊したのです。
項羽は兵士たちに、生きては帰らないという覚悟を求めたのです。
数にものをいわせて、波状攻撃を繰り返す秦軍をことごとくはねのける項羽の軍・・・。
秦軍は降伏しました。
史記には、楚の兵士たちが10倍の働きをしたと書いています。
項羽は指揮官としても、一人の戦士としても、極めて高い能力を持っていました。
その強さにけん引されて、兵士たちも十二分の力を発揮したのです。
その強さが魅力的なのです。
中国全土に、項羽の強さがひびき渡ります。
同調し、増えた軍は、40万の大軍にもなりました。
山に立て籠っていた劉邦は、農民や流民たちを引き連れて、項羽の配下の軍に入ります。
戦闘経験の乏しい劉邦の軍は、秦軍との正面衝突を避けながら、西へと進んでいました。
そして、ある戦い・・・南陽の戦いをきっかけに、急速に力を伸ばします。
南陽を包囲していた劉邦の軍に、項羽が鉅鹿で勝利を治めたとの知らせが・・・!!
母国の滅亡が近いと悟った秦軍は、戦意を失います。
降伏を願い出た兵士たちを劉邦は許し、戦わずして城を手に入れたのでした。
投降した秦の兵士たちを使い、劉邦は他の秦の城へ投降を呼びかけます。

「史記」によると・・・
西に進む劉邦軍・・・それを前に、降伏しない者はなかった。。。
敵をも許す劉邦の戦略・・・噂は広がり、次々と投降・・・およそ3か月で、劉邦軍は10万の大軍勢に・・・!!

項羽もまた、勝利を重ねるたびに破った秦の兵たちを軍に加えていました。
しかし、項羽の投降兵に対する姿勢は、劉邦のそれとは違っていました。
河南省・義馬二十里村には、項羽の伝説が残っています。
村はずれに、項羽がほらせた穴・・・楚坑があります。
今から10年前・・・大量の人骨が出てきました。
「史記」によると・・・
秦の兵士20万人、生き埋めにしたとあります。
項羽の軍に投降した秦に兵士たちは、危険な任務を強いられていました。
不満を持つ兵士たちの間に不穏な空気が・・・反乱を恐れた項羽は、秦の兵士たちの処刑を命じました。
20万の兵士たちを生き埋めにしたのです。
秦を倒すために、軍の統率を一番に考えた項羽・・・
その目的のために見せた厳しさでした。

紀元前207年・・・秦の兵にはもはや抵抗する力は残っていませんでした。
劉邦が戦わずして秦の都・咸陽に入ります。
項羽も入城しました。
西安・・・かつて秦の都・咸陽があった場所で・・・兵馬俑が発見されました。
兵馬俑は、秦の始皇帝が、自らの墓を守るために作らせたものです。
それぞれは等身大で作られ、始皇帝の軍団を忠実に再現しています。
項羽と劉邦がこの都に入ったのは、兵馬俑が完成してすぐのことでした。

兵馬俑には謎があります。
黒い跡・・・天井を支えていた木材が燃え、崩れた跡だと考えられます。
さらに、一部の兵馬俑に、不自然な赤い色が・・・
兵馬俑が赤く変色している原因は・・・??

何者かが火をつけた・・・??
「史記」には・・・項羽は、秦の王宮に火を放った!!とあります。
その火は、3か月消えることなく燃え続けました。
中国全土を支配した帝国の都が、廃墟と化したのです。
この時、兵馬俑も燃えたと考えられます。
さらに・・・兵馬俑には何かを握りしめているかのような手・・・
手首から先が不自然に失われているものも・・・断面は、鋭い刃物で断ち切られたかのようです。
右手には戟・・・本物を持っていたようです。
8,000体の殆どが武器を持っていたと考えられますが、発見されたのは170しか出土されていません。
武器は、押し入った者たちによって持ち去られた可能性があり・・・項羽が命じたと考えられます。

「史記」には・・・項羽は秦王の墓を暴き、密かに財物を盗んだ・・・と。

かつて、祖国の楚を滅ぼした秦・・・その秦の栄光を徹底的に破壊したのです。

楚の国・・・秦とは違う独自の文化を築いていました。
楚に赴任した秦の行政官の文章が残っています。
”自分の習俗に固執して勝手な振る舞いをする者が後を絶たない・・・”と。
ここには従わないものが多い・・・。

根底にあるのは、秦に対する恨み、つらみ・・・楚の復活のために、秦と徹底的に戦う!!倒す!!という気持ちでした。

一方、咸陽に入城した劉邦は・・・項羽の意向を無視し、独自の方法で咸陽を支配しようとします。
「史記」によると・・・劉邦は王宮から秦の文書を持ち出し、項羽の目につかないように独り占めしました。
劉邦は、支配する規範である人々の実態を正確に掌握しようとしました。
更に劉邦は、どうすれば咸陽の人々の支持が得られるのか・・・計算していました。
部下の略奪行為を厳しく取り締まることで安心感を与え、心を掴もうとしたのです。
あいついで咸陽に入った劉邦と項羽・・・二人は全く違っていたのです。

紀元前207年咸陽陥落で秦は滅亡・・・
項羽は西楚覇王を名乗ります。
楚の復活を天下に告げたのです。
項羽は中国全土を18に分け、秦討伐に活躍した将軍などに分け与えます。
中でも最も功績をあげた劉邦・・・しかし、彼に与えられたのは・・・陝西省の厳しい山間の褒斜道・・・劉邦はこの道を通って与えられた領地に向かいました。
中央から離れた地に遠ざけられた劉邦のエピソードから「左遷」という言葉ができました。

劉邦がたどり着いたのは漢中・・・ここから、劉邦は自らの国を漢と名付けました。
漢は山が多く、農地の少ない貧しい土地でした。
漢の国で、再び進出する機会を狙っていた劉邦・・・

項羽が・・・自らの権力を盤石にするために、楚の王族を長江で殺害したのです。
この事件を巧みに利用する劉邦・・・各地に伝令を走らせます。

「項羽は大逆無道である・・・!!」劉邦は、項羽に戦いを挑むのです。

紀元前205年彭城の戦い・・・二人の初めての対決です。
圧倒的な項羽・・・強さを発揮!!
これに挑んだ劉邦の軍は打ち砕かれます。
十数万の兵を失い敗走する劉邦・・・
「史記」には・・・逃げる馬車から劉邦は実の子供をけり落した。けり落すこと3度に及んだ。。。
劉邦の惨敗でした。

河南省滎陽・・・黄土高原丘陵地帯が続きます。
戦いの4か月後、この地に逃げ込んだ劉邦・・・起伏にとんだ地の利を生かし、項羽の追撃をかわそうとしました。
その後、戦いは膠着状態となり3年・・・
北に黄河を望む渓谷・鴻溝・・・ここを挟んで項羽と劉邦二つの勢力が睨み合っていました。
漢王城村・・・ここに劉邦が陣を構えたといいます。
今は500mほどしか残っていない城壁は、当時は20kmありました。
黄河の激流で山すそが流され、城壁も埋もれてしまったのです。
3年間・・・劉邦の軍は、項羽の軍に圧倒されていました。
項羽がいないすきを狙って攻撃したり、項羽の配下を買収したり・・・
策を練るも歯が立ちません。
「史記」には、劉邦は逃げてばかりだったとあります。
項羽の陣地は、谷を挟んだ山の上にあり、覇王城と呼ばれていました。
この頃の項羽は連戦連勝でした。
しかし・・・項羽の敗戦の目はこの頃にあった・・・??

垓下古戦場址・・・
長い間膠着状態だった二人が雌雄を決する時が来ました。
紀元前202年天下分け目の決戦・・・垓下の戦いです。
勝利を確信して戦場に発った項羽は驚愕、見たこともない劉邦の大軍勢が現れたのです。
それまで歩兵中心だった劉邦の軍に、精鋭の騎馬部隊が加わっていました。
兵力も、項羽の軍の6倍・・・60万を超えていました。
思わぬ苦戦を強いられる項羽・・・初めて劉邦の軍が優勢に・・・!!
どうして劉邦の軍が急に勢力を増したのでしょうか?
劉邦の軍を伝える兵馬俑があります。
その数3,000以上・・・劉邦と共に垓下で戦い、後に漢王朝の将軍となった周勃の墓から出土しました。
この中に、中国中心部・・・中原の兵士とは違う兵馬俑がありました。
頭の後ろに髪を束ねていて・・・中国の西南部の少数民族・苗族独特の風習です。
劉邦軍には、少数民族の兵士も加わっていました。
苗族は勇猛で名高い戦士でした。
騎馬兵も・・・細面の小柄な体格から、今の甘粛省周辺の遊牧民族と思われます。
彼らは、馬上から弓を射る技術に長けていました。
騎兵の存在は、劉邦の軍の戦力を向上させました。
滅ぼされた秦の兵士たちも・・・
劉邦は様々な人々を一つの軍にまとめ上げていたのです。
大きく姿を変えた劉邦の軍・・・
劉邦は彭城の戦いで敗れて3年・・・負け続けた間に信頼する家臣の韓信を戦場から遠く離れた地方に・・・!!
韓信が遠征した地域を平定し、その兵を劉邦の配下としたのです。
この時大きな力を発揮したのは、軍事ではなく行政の仕組みを駆使する劉邦のしたたかな戦略でした。
1984年に出土した竹簡・・・発見されたのは、当時の劉邦の部下だった者の墓でした。
解読の結果、律という法律を隅々まで行きわたらせ、支配の安定を図っていたのです。
劉邦は、戸籍で出自や年齢を把握し、徴兵を課していたのです。
劉邦にあって項羽になかったもの・・・それは、民の実情を把握することで、全ての民の力を戦力とする周到な戦略でした。

垓下の戦いは幕を閉じようとしていました。
項羽の軍は食料も尽き、60万の劉邦の軍に幾重にも包囲されていました。
夜になって・・・項羽の耳に四方から歌声が聞こえてきました。
祖国・楚の国の歌でした。
項羽の反応を史記は・・・
楚の国は、実際には滅びていなかったものの、項羽はすでに楚の国が落ちたと思い込んだ。
そして、劉邦の軍に楚の国の人が多いことに失望し、戦意を喪失した。
項羽の軍の兵士たちも敗北を確信し、逃亡し始めました。
今まで勝利をし続けてきた項羽の最初の敗北でした。
四面楚歌です。

項羽の敗北・・・その理由は、劉邦の部下が残した兵馬俑にも残っています。
兵馬俑の衣装は・・・膝の上までしかない短い衣・・・これは、楚の服です。
稲わらで作った靴は、長江流域出身であることを示しています。
史記によれば劉邦は、項羽のもとにいた武将たちに、領土と引き換えに寝返るように働きかけていました。
兵馬俑の数からは、楚の兵士たちだけで一つの部隊が作れるほどでした。
自らの力で運命を切り開いてきた項羽でしたが、部下の離反を止めることはできませんでした。

四面楚歌の項羽はついに最期を悟ります。

やがて項羽は長江のほとりで自らの命を絶ちました。

項羽が命を懸けて再興を願った楚の国・・・
2006年項羽の一族が仕えた楚の王とみられる墓が発見されました。
「熊家塚遺跡」です。
その車馬坑は・・・縦133m横12m・・・中国最大の車馬坑です。
43台の馬車や戦車、164頭の馬が発掘されています。
これは、馬車や戦車を連ねて領地を視察する楚の王を表していると言われています。
出土した6頭立ての馬車は、王の物と考えられています。
古代中国では、6頭立ての馬車は、天下に君臨する王朝の支配者しか許されないものでした。
死後の世界でその馬車に乗ることを願った楚の王の夢・・・
それは、項羽が追い求めたものでもありました。
楚の国の名門に生まれ、楚の国の復興を託され、そして、楚の国の夢を一身に背負って生きた項羽。
戦乱の時代に産み落とされ、短くも強力な光を放った英雄でした。

西安・・・かつて漢の都・長安が置かれた場所です。
紀元前202年・・・劉邦は、周囲に押される形で皇帝に即位。
漢王朝を開きました。
国づくりにあたって劉邦は、一族や後進に土地を与えて諸侯とし、一定の権力を許すことで王朝の安定を図りました。
漢王朝は400年にわたって続き、その支配体制はその後の中国王朝の基盤となりました。


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久しぶりに、岡田准一さんが帰ってきましたね。
「ザ・プロファイラー」です。

たった一人で生きていける???
人を全く信じていないのに、全てを手に入れた男、始皇帝を紹介してくれました。

今から2200年前の中国大陸・・・
中国を一つの巨大帝国にまとめ上げた男・・・それがファースト・エンペラー・・・始皇帝です。

全長5000㎞を誇る史上最大の建造物「万里の長城」
総面積56㎢、東京ドーム40個分に値する「始皇帝陵」
始皇帝の亡骸を守る8000体の「兵馬俑」
兵馬俑坑は、地下5mに作られた土木建築物で、全部で3つあり、総面積は20000㎡余りあります。
一号坑で発掘された兵馬俑はおよそ1000体、現在も発掘が続けられています。

全てが常識外れで圧倒的です。

その生涯を書物には・・・「秦王・始皇帝は粗暴で人を信じない」と書かれてあります。
すべての権限を自ら握り、容赦のない男・・・人間不信の塊でした。
裏切り・・・陰謀の末に、彼が信じたものは力でした。
彼を待つものは、栄光か?破滅か???

紀元前3世紀の中国は・・・始皇帝は、文化や言葉の異なる7つの国を統一しました。
始皇帝が現れなければ、現在の中国はなかったと言われています。

①母が起こしたスキャンダル

壮絶な裏切りによって、極度の人間不信となった始皇帝・・・
司馬遷の書いた史記によると・・・。
始皇帝は・・・蜂のようにとがった鼻、長く切れあがった目、山犬のような声で恩愛は少なく、虎や狼のような心だとか。

その発端は・・・紀元前265年。
中国大陸は、500年にわたる戦乱の中にありました。
しのぎを削っていたのは、戦国の七雄。
そのひとつ、趙の都・邯鄲から始まりました。

sitiyuu

















軟禁生活を送っていたのは、秦の王子・子楚。。。始皇帝の父親でした。
対立する国々は、人質の交換をしていたのです。
子楚は、兄弟が20人以上・・・皇位継承にも関係なかったので、敵国に人質に出されていたのです。

そこに来た野心に満ちた商人・呂不韋。
呂不韋は子楚にとり入ります。
「あなたの父上と御正室の間には子供がいません。
 そこで私が王家にとり入り、あなたが跡継ぎにしめいされるようしてさしあげましょう。
 そうすれば、あなたはいずれ秦の国王です。」

子楚を養子にしようとしたのです。

「もしあなたの計画が実現した時は、秦の国をああなたと共有することにしよう。」

呂不韋は金にものを言わせて、子楚を跡継ぎに!!!

呂不韋の愛人に一目ぼれをした子楚は、彼女を譲ってほしいとお願いします。
やがて2人は結婚します。
この3人のいびつな関係が・・・スキャンダルへ!!

紀元前259年・政(後の始皇帝)が誕生。
しかし・・・人質の子・・・長く孤独な生活。。。
政が10歳の時、先代がなくなり子楚が秦国の王となります。
政も帰国し、皇太子と。。。3年後子楚が急死し、13歳で秦の国王となったのでした。

父がなくなり・・・頼れる人は呂不韋のみ。。。
呂不韋に仲父(父に次ぐもの)という地位を与え、自分を支えてもらおうとしたのです。

しかし、紀元前238年。
強くなってきた秦国。
不穏な密書が!!!
”太后は愛人との間に隠し子を2人もうけている
 その子供を王位につけようと
 政を追い落とす相談が密かに進められている”

実の母によるクーデターでした。
母の愛人を車裂で処刑、子供は斬殺、母は都の外に幽閉しました。

しかし・・・
そのクーデターの背後には呂不韋が!!!

史記には秘密が書かれていました。
「太后趙姫 しばしば ひそかに 呂不韋と私通す」
つまり、愛人関係だったのです。
おまけにクーデターの首謀者を趙姫にあてがっていました。

国の全権を任せていたのに・・・!!!

呂不韋追放!!服毒自殺をします。
家族も側近も信じられなくなった政がいました。

②岳に書かれた掟

始皇帝の掟は竹簡に書かれていました。
紀元前235年、運命の書と出会います。
”韓非子”です。
人間は本来悪であるという立場から、国の治め方を書いた書物です。
そこに書いていた文章は???

”主君に害となるのは人を信ずることである
 人を信ずると、人に制せられることになる”

人を信じないならば・・・

”法を奉じ守ることが強ければ国は強く、
 法を奉じ守ることが弱ければ国は弱い”

人は元々弱い存在なので、法で縛る!!
これまでにない法律を定めていきます。

竹簡には秦の法律が詳細に書かれていました。
「戦場で敵を殺して手柄を立てた兵には、殺した敵の数に応じて位をあげ、農地と家を与える」
「出陣間際に脱走した兵は、人々の見せしめに”車裂”の刑とする
 他の兵士も連帯責任として刑罰を受けなければならない」

信賞必罰・・・飴と鞭を使い分けることで秦を強大な軍事国家へと作り上げていったのです。
戦国の七雄のバランスが崩れ出しました。
秦の突出した強さに敵わなくなってきていたのです。

機は熟した!!!

強大な軍事力を背景に他国へと侵略していきます。
韓⇒趙⇒燕⇒魏⇒楚⇒斉を滅ぼして・・・
紀元前221年中国を統一するのです。

中国大陸に初めて大きな国家ができたのでした。

王に次ぐ称号を・・・!!!
「一つの国の支配者を示す王という称号は、自分にはもはやふさわしくない・・・
 世界をあまねく支配する君主に相応しいまったく新たな呼び名を作りださねばならぬ。」

そして自ら考えだしたのが”皇帝”でした。
自らの権力を未来永劫続けるために・・・
始皇帝は、新たな制度を作ります。
それまでは、一族や家臣に土地を分け与え、それぞれのやり方で統治していました。
これを廃止し、全国を郡や県に分け、役人を派遣し、中央集権体制をしきました。
地方の有力者を首都・咸陽に移住させます。
地方の武器をすべて没収し、地方の弱体化を進めます。

文字の統一、竹簡で全てを法で守らせるようにしました。
度量衡を統一、租税を等しく集めやすくしました。
全ては、権力を自らに集めるためでした。

巨大帝国すべてを自ら治めようとし、それはまさに他人を信用しない・・・
その心の表れでした。

始皇帝、その強さの秘密は???
「弩」と呼ばれる武器です。
秦の兵士の命中率は、とても高かったといいます。

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③不老不死への執着
紀元前220年、40歳の始皇帝は、10年間のうちに、地方を5回巡行しています。
豪華な隊列を組んで・・・その途中、鉄の塊に襲われます。
このような暗殺未遂は3回目・・・死の恐怖に襲われるようになっていました。

その頃、東にある琅耶台で始皇帝の心を捕える男が現れます。
方士・徐福です。
方士は、新興宗教の行者で、人間が生死を越えた神仙となることを目指します。
徐福は始皇帝に・・・
「東の海には神の山があり、そこには仙人が住んでおり、
 延命長寿の仙薬を手に入れることができるとのこと
 ぜひこれを探し求めたく存じますが・・・」
と、不老不死の薬のための資金援助をしてくれるように申し入れます。
この地には、蜃気楼が見え、そこに仙人がいるとされていたのです。

始皇帝は徐福を信用、不死の存在となり、世界を永遠とするために、金と船を与えます。

死の恐怖がまとわりついてきていました。

匈奴に滅ぼされるという預言書を持って帰ってきたある方士。。。
いてもたっても居られずに・・・築き始めたのが、万里の長城でした。
長城建設には多大な費用と人出がかかりました。
始皇帝陵は、10代から工事を始めていましたが・・・さらに大きく荘厳になっていきます。
兵馬俑は、8000体にものぼる兵士・・・みな一人一人顔も衣装も違います。
巨大建設事業に駆り出されたのは、罪人から一般人まで当時の人口の15%に当たる約300万人でした。

寒さ、飢え、病・・・国中に、始皇帝への恨みが充満してきていました。
不老不死に魅入られたために・・・!!!

どうしてここまで不老不死にこだわったのでしょう???
もしかすると、死を感じていたからかもしれません。

宮中も混乱していきます。
そして決定的な出来事が・・・!!!
”焚書坑儒”です。
北方の敵に勝った祝いの席で、儒者が皇帝を諌めました。

「かつての王朝が長きにわたっていたのは、一族や家臣たちにも土地を領有させ王の補佐としたため。
 今、もし誰かが王位を乗っ取ろうと目論めば、誰が王室を助けましょう。
 何事も、古を師とせずに長続きしたものはございません。」
と。。。

道徳によって人を導くべきだということで、皇帝の法支配を真向から否定するものでした。
始皇帝は怒り、儒教に関する書物をすべて焼き尽くしてしまいました。焚書です。

しばらくすると、方士たちが突然行方をくらませます。
不老不死の薬などなかったので、逃げ出したのです。
巨万の富を使ったのに・・・!!
口うるさい儒者や、役立たずの方士460人を生き埋めにしてしまったのです。
これが坑儒です。

魔物と化した始皇帝・・・。
もう誰もその暴走を止められない???

長男・扶蘇は、温和な性格で頭脳明晰、一目置かれる存在でした。
扶蘇は、人々への厳しすぎる姿勢に進言しました。
しかし、始皇帝を諌めた罪で北方へ追放!!

始皇帝49歳の時、ある村に隕石が落ち・・・
その意思に誰かが文字を刻みました。始皇帝の死と秦の崩壊を求める声でした。
始皇帝は、この村を皆殺しにしてしまいます。

紀元前210年5度目の巡行で・・・
終わりは突然やって来ました。
不老不死の薬を探す旅の途中、病に倒れ・・・死去。
50年の生涯でした。

始皇帝の死後の遺言には・・・
「長男・扶蘇を呼び戻し後継とする」
とありました。

しかし・・・扶蘇は、弟の陰謀によって自害に追い込まれます。
紀元前206年秦、滅亡。。。
中国初の帝国は、もろくも始皇帝の死後3年で終わったのでした。。。

始皇帝の夢のあと・・・兵馬俑・・・兵馬俑には色がついていました。
使われていたのは、赤・黄・黒・白・青。
これらの色は、大陸各地の色であると言われています。
しかし・・・人を信じる事の出来なかった男は、人をまとめることができなかったのです。

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秦始皇兵馬俑博物館には・・・
2万㎡に毎年500万人が訪れます。
中国四千年 兵馬俑・鴻門宴・赤壁・龍門石窟…
中国四千年 兵馬俑・鴻門宴・赤壁・龍門石窟…

兵馬俑は発掘されたその上に覆いを作って展示されています。
兵馬俑は、当時の兵士や馬をそのまま再現したものです。
それを作らせたのが・・・初めて中国を統一することになった秦の始皇帝です。
これまで始皇帝は、情け容赦ない圧倒的な軍事力で支配したと言われてきました。

しかし・・・最近ではちょっと変わってきました。
始皇帝が支配したのは軍事力ではなく、多様な人々を束ねる巧みな戦略だったのです。
始皇帝は、どのように中国を統一したのでしょうか???


秦の国を大改革して強大な軍事国家にした改革者。名神・商鞅。
祖国の楚が秦に敗北する中悲劇の生涯を閉じた憂国の詩人・屈原。
今よみがえる英雄たちの伝説がそこにはありました。

強大な始皇帝の陵墓の一角で見つかったのが兵馬俑です。
この兵馬俑は、死後も始皇帝の魂を守るために作られたものです。
兵馬俑の身長は、180㎝・・・大きいものになると200㎝もあります。
当時の人も、これくらいあったようです。

そして・・・それぞれの顔が全く違います。
表情は様々で・・・しかし、完全体で出てくるものはほとんどありません。
なかには色のついた兵馬俑もあります。
もともとすべての兵馬俑には鮮やかな色が施されていました。
1974年に発見されてから39年。兵馬俑の発掘は今も続けられています。

その色の配色を分析すると・・・
白・黒・赤・黄色・青の誤植を使っています。
当時これだけの色をそろえられるのは始皇帝ぐらいでした。

赤い兵馬俑

赤い兵馬俑注目されるのは中国各地の土の色。

中国の土壌は、地域によって色が違います。
五色・・・それは天地の万物を表す特別な色です。
兵士たちの鎧は黒・その閉じ紐には赤・襟巻には青・歩兵たちを指揮する将軍には、その他にも黄色や白を使っています。
そのような多彩な・・・多様な人々を統一した始皇帝。
どのようにして統一したのでしょうか???

それ以前の時代、群雄割拠の覇権を争う戦乱の時代でした。
紀元前2000年ごろに誕生した最古の王朝・夏王朝。殷・周・・・初期の国は、黄河周辺の中原一帯に栄えました。
しかし、春秋戦国時代に入り・・・複数の国が乱立するようになり・・・やがてそれを統一することになる始皇帝の秦。

秦が誕生したのは辺境の地でした。
甘粛省東部・・・秦発祥の地・秦亭村です。
中原から西に500㎞。人口1200人の寒村です。穀類の栽培で生計を立てています。
ここは昔、始皇帝の祖先たちが、馬を育てていた場所です。

司馬遷の記した「史記」にも・・・

昔、非子という者があったと。
馬や家畜を好み、その者は王の為に馬を育てることになります。
馬は見る見るうちに増え・・・これを喜んだ王は、この非子に秦という土地を与えました。
始皇帝からさかのぼること37代目の非子の時代、秦の国は誕生しました。

秦の始まりは、当時このあたりにいた西戎だったと言われています。
秦は、戦争に欠かせない馬の飼育に長けていたことから力をつけてきたのです。
甘粛省の東部で今でも発掘が続けられていますが・・・
そこには馬車が・・・それは以外にも、金や銀の装飾品で飾られていました。
秦の力を表しています。
秦は、中原に勝るとも劣らない文化を持っていたようです。

そして・・・殺傷能力の強い武器も・・・
青銅の剣・・・表面には特殊な金属塗装がされています。

“弩”という武器も・・・
ボーガンのような武器です。これが、秦の強さを決定づけました。
この弩は今も使われています。
狩猟民族が狩猟用に使っていたものを兵器として利用した秦。
史記には辺境の遊牧民だった秦が、大きくなっていく様を描いています。
西戎の覇王へ!!

激しい戦闘が繰り返された春秋戦国時代に・・・故事成語が作られました。
例えば・・・「呉越同舟」呉と越がライバルだったところからきています。

呉王夫差と越王勾践は積年のライバルで・・・呉王夫差の父は、越王との戦いにやぶれその傷がもとで命を失いました。
夫差はその恨みを忘れまいと薪の上に寝、体に痛みを感じる度に、復讐を誓いました。そして、呉王夫差は越を攻め大勝します。
敗北した越王は、食事のたびに苦い獣の肝をなめて雪辱を誓い、呉の国を滅ぼします。
「臥薪嘗胆」です。


しかし、そう簡単に統一とは行きませんでした。秦に立ちはだかったのは、中原にある国々です。中原は、夏王朝が栄えた場所です。
夏王朝は、宮廷儀礼を生み出し、王の権威を示すことで秩序を保ったと言われています。
秦は、この中原の国々とどう対したのでしょうか???

西戎の覇王となった秦は、満を持して中原に進撃します。
兵力組織力共に中原が勝り・・・全滅してしまいます。
しかし、あきらめません。

そして、秦以外の国も中原を狙います。
それに対し中原の国は・・・同盟して結束を固めます。
その時に、牛の耳の血で誓いを立てることから牛耳を取る・・・「牛耳る」という言葉が出来ます。
そして、この牛の血と占領を混ぜた液体で、誓文を認めました。
それは、夏王朝の儀式を取り入れたものでした。
ますます夏王朝色が強くなり・・・自分たちを夏と呼ぶようになったのです。
そして、その他を・・・夷・蛮・戒・狄と呼んで蔑み、排除しようとしました。
自分たちを正当化するために・・・夏を利用したのです。
この夏が中と一緒になって、中夏→中華となったと言われています。

孝公の時代に秦は大改革を行います。
その方法は、以外にも・・・能力のあるものならば・・・と、中原の国に求めたのです。
中原の魏の国の商鞅。当時仕えていた宰相の死によって、活躍の場がなくなっていました。
その改革方法とは???

竹簡によると・・・
商鞅は、秦に法を持ち込みます。
600巻以上になる法律文書によって、庶民の生活を決めていきます。
秦は厳密な法律制度によって人々を巧みに統治し、国力を高めました。
おまけに商鞅は、画期的な軍事制度を導入します。
首一つとったものには、爵一つを与える。
20段階の爵位を作り、手柄を立てるごとに階段を上がっていく仕組みです。
この効果はとても大きく・・・
身分を問わない、徹底した能力主義でした。
それは驚異的でした。秦が軍事大国となった瞬間でした。

紀元前340年商鞅自ら総帥となり、魏の国に進撃。
その精鋭部隊を打ち破ります。
野蛮とされた秦が、中原の一角を突破しました。
そうなるのには、秦と中原の違いがありました。
古くからの文化を受け継ぐ中原の国は、王族や貴族の権力が強く、その土地に有力者がいました。それが、改革の抵抗勢力となったのです。

しかし、発展が遅れていた秦では、そういった力が少なく・・・
強力な中央集権国家をつくるために有利だったと思われます。
都市が発達していない方が有利だったのです。

秦の始皇帝は陝西省西安に都をおきました。その後も、いくつもの王朝が都としました。
西安は、12.3㎞四方、城壁に囲まれている・・・石の街です。
この城壁は、明の時代に整備されたものです。
西安の街には至る所に遺跡の遺産が・・・
陽陵(漢の皇帝の陵墓)・大雁塔・鐘楼・・・
古都・西安の発展の秘密は、西との交易にありました。
シルクロードの玄関口だったのです。
食事は、小麦を中心としています。ここから花開いて・・・麺文化が発達しました。

そして・・・兵馬俑も・・・西の文化の影響を・・・ギリシャ彫刻の影響を受けたと言う専門家もいます。
文化交流の中心地だった西安。

商鞅による改革で、軍事大国となった秦。始皇帝より5代前の恵文王の時代・・・
その圧倒的な力を背景に領土拡大に乗り出します。
しかし・・・それと共に難題も抱え込みます。

それは・・・支配した国々にも文化やしきたりが根強く残っていたことです。
紀元前316年秦は南へ侵攻し、巴・蜀の国を占領します。
巴・蜀は、船の形をした船棺に埋葬されています。
人は死んだら船に乗ってあの世へ行くという言い伝えを信じていました。
当時、川が近いこの地域では、船は大切な生活用具・交通手段だったのです。
船棺の多くには、青銅の武器が埋葬されていました。
秦が進出した巴・蜀の地には、独自の文化があったのです。

巴・蜀を侵略した秦は、楚の国に・・・
この地にも独特の文化がありました。
羽人と言われる像が出土しています。
漆の高度な技術が特徴です。
この楚は、秦に最も抵抗した地域の一つでした。
その中心人物が、楚王の一族だった屈原。
伝統的な詩人としても知られています。
屈原は、秦に対抗するために斉と同盟を結ぶことを主張しますが・・・秦は、外交交渉によって楚の王を説得しようとします。
斉との同盟を破棄すれば、600里の土地を与えよう・・・と。

強大な秦に恐れ・・・楚の王は、秦と同盟を結び・斉と対立・・・というのは秦の手で、秦は斉と結び、楚を孤立させました。
これを機に楚の勢力は弱体化。
秦を倒すという案はなくなって、秦と共に・・・という意見が多くなっていきます。
秦と徹底抗戦を!!と、思っていた屈原は、ついに追い出されてしまいました。

骨と皮になって・・・川のほとりをさまよっていた屈原、祖国を憂い続けて・・・川に身を投げることとなりました。
端午の節句の祭りは、川に身を投げた屈原を偲んだことから始まったと言われています。
端午の節句に作られる“ちまき”も、川の中にいる屈原に・・・魚に食べられないように米をササに巻いて川に投げたのが始まりです。

そんな文化の違う人たちを、秦は法律で管理しようとします。
しかし、各地で反発が生まれます。

反発の原因は・・・秦が生活体系を否定したことにありました。
力で抑えるのには無理がある・・・と思った秦は・・・
自らを“夏”であると定めたのです。

秦はそもそも夏から野蛮だったと思われていましたが・・・“夏だった”と話を作り変えました。秦だけではなく、秦に従った国をも夏だとしました。
こうして、もともと中原の国だけを夏と呼んでいたのに・・・“夏”は広がっていくことになります。

紀元前246年始皇帝即位。
秦は、統一への最終段階を進んでいきます。
そして・・・紀元前221年、中国を統一しました。

その統一を支えたのは、強大な軍事力と、夏王朝の権威を巧みに利用したそのシステムだったのです。
始皇帝は、それだけでは満足せず、北との戦い、南との戦い・・・統一したとはいえ、常に敵に対して注意を払っていたのでしょう。
外に敵を作ることによって、中をまとめ、維持しようとしたのだとも言われています。
巨大な国家でいること・・・それは、始皇帝の願いであり不安であり、希望だったのです。

そして・・・統一を維持するための壮大な計画は・・・
安房宮の・・・一角に、金や塩を集めていたようです。
今まで謎に包まれていた・・・史記に記されていた“極廟”。
北極星をかたどっていると言われています。
始皇帝は、北極星という権威によって、国を統一しようとしていました。
王という呼び名を辞めて、皇帝という称号を造りだし、自ら始皇帝となった始皇帝。
煌々と輝く皇・北極星を表す帝を合わせたものでした。

天の世界を映したと言われている始皇帝の・・・秦の都。
宮殿などの建築物は、夜空の星と重ねられています。
そして、北極星のところにある極廟は、後に始皇廟になったと言われています。
始皇帝は、宇宙の中心という究極の権威によって、中国を支配しようとしていたのです。
自分が天になろうとしたのかもしれません。

今は人々の憩いの場となっている北京・天壇公園。
明・清の時代の王朝が、天を仰いで儀式を行った祭壇だったと言われています。
始皇帝の作った支配の仕組み・・・それは、代々の皇帝たちによって受け継がれてきていました。

秦の始皇帝による初めての天下統一・・・そこにあったのは、強大な軍事力だけではなく過去の王朝や天の権威を利用した巧みな統治システムでした。

始皇帝の統一の物語・・・それは、この多様な国を一つにするには何が必要なのか・・・雄弁に語っています。

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