春日局 今日は火宅を遁れぬるかな (ミネルヴァ日本評伝選) [ 福田 千鶴 ]

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(2017/6/7 15:24時点)
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将軍の世継ぎを設けるため、将軍以外の男子の出入りが禁じられた空間・・・
政治の中心地に出現したこの空間・大奥で、徳川による平和な時代を願い辣腕を振るったのが春日局。
三代将軍家光に仕えた日本史上最も力を持った乳母・春日局です。

丹波国にある黒井城・・・春日局はこの城の主・斎藤利光の子として生まれました。
父の利光は武芸に優れ、明智光秀の重臣として手腕を振るっていました。
1582年6月、本能寺の変!!
明智光秀が、主君・織田信長に謀反を起こしたのです。
しかし光秀は、羽柴秀吉との戦いに敗れ命を落とし、利光もまた謀反人として捕まってしまいました。
利光は、市中引き回しの上打ち首・・・
その首は、京都粟田口に晒されました。
当時4歳だったお福は、1万石の姫から一転、謀反人の娘となってしまったのです。
父の僅かな友人や、母の親族を頼り、各地を流転する日々・・・
お福は母方の一族・稲葉家の養子となり苗字を変え、京都で身を隠しながら暮らしたといいます。

そんな生活から14年、お福に転機が・・・!!
同じく稲葉家の養子だった稲葉正成と結婚。
稲葉正成は、小早川秀秋の重臣で、関ケ原の合戦では秀秋を徳川方に寝返らせることに成功!!
武功を立てた男が夫だとなったのです。
が・・・正成が主君と対立し、牢人となってしまいました。
お福たちは正成の弟を頼り美濃へ・・・。
お福たちは乳飲み子を抱え、ひそやかに生きました。
お福が通ったとされる汾陽寺の参道は後にお局道と呼ばれました。
戦乱の世に翻弄される日々・・・ここに通ったお福の思いは・・・??

その頃、江戸では歴史が大きく動いていました。
1603年徳川幕府樹立!!
ほどなくして秀忠の正妻・お江が身ごもりました。
男子ならば・・・待望の世継ぎ!!
そのため、徳川家は乳母を探し始めました。
当時の乳母は・・・
御台所は子育てをしません。
子育てはすべて乳母の仕事でした。
女房集団のTOPが乳母で、次世代を養育する・・・乳母は、中世後期の社会において、憧れの職業だったのです。

日本で乳母という職業ができたのが平安時代・・・
枕草子には、乳母が女官たちの間で特別な存在であったことが記されています。
乳母には大きな権限が与えられていました。
そして武家の時代となっても、乳母は権威のある職業としてあり続けます。
流転の日々を送ったお福・・・
お福が乳母に採用された裏には、徳川家康の意向がありました。

「斎藤利光の娘なら、ただ者ではないだろう。。。」by家康

武勇で知られた父を持ち、偶然にも4人目の子を産んだばかりのお福に白羽の矢を立てたのです。
それは、大きなチャンス・・・夫と別れ、幼い子供を連れて江戸へと旅立っていきました。

江戸城に入ったお福の生活は・・・??
竹千代の乳母となったお福には4部屋・・・広さ40畳の住まいが用意されました。
貧乏生活から一転、お福は安定した暮らしを手に入れたのです。
さらに・・・天井裏には・・・部屋が隠されており、秘密の相談や女中を説教する時に使われたといわれています。
お城を支える女性たちをまとめるために、一生懸命努力していたようです。
お福は竹千代に乳を与え、我が子のように愛情を注ぎます。
後の将軍として期待を背負った竹千代・・・僅か4歳で優秀な守役がつき、帝王学を学びます。
そんな周囲の期待に反し、竹千代は病気がちな子供でした。
お福は竹千代の健康のために工夫を凝らします。
七色飯を用意し、食の細い竹千代に食べさせたといいます。

1606年、弟・国松誕生。
竹千代さまの弟・国松さまは聡明でした。
母・お江は、病弱な竹千代よりも、国松を可愛がったといいます。
武家社会の家督相続は・・・戦国時代は実力の時代だったから、実力のある者が天下の権を握る、国の舵をとるということが常識でした。
子供が何人いても、”誰が一番家を存続させるか”という基準で選ぶのが普通でした。

1614年大坂冬の陣・・・竹千代11歳。
翌年の夏の陣によって、豊臣家が滅び、ついに徳川の時代が到来します。
徳川の家督は誰が継ぐのか・・・??
秀忠は国松を跡継ぎにしようとしている・・・そんな噂が流れます。
12歳になった竹千代は追いつめられていきます。
”竹千代さまが自殺なされようとした”
跡継ぎ問題で混沌とする江戸城!!
竹千代のために乳母として何ができるのか・・・??

家康に直訴する??
しかし、直訴に失敗したらお福は終わりだ・・・!!
秀でたものが家を継ぐのは世の習い・・・??

徳川家康の駿府城・・・そこの姿を現したのは、江戸城にいるはずのお福でした。
彼女が目をつけたのが、当時はやっていた”伊勢参り”。
お伊勢参りに行くと偽って、手形を入手し、箱根を越え駿府へ・・・!!
女官の結びつきを利用し、家康の側室を懐柔・・・
お福は家康の面会にこぎつけました。

「竹千代さまが、将軍家のお世継ぎとして何が足りないというのでしょう。
 弟が兄に勝るなど許されぬ事・・・。
 それが将軍家で行われているとあっては、天下が乱れる恐れがあります。」byお福

お福は家康に長子相続を直訴したのです。
これに対し家康は・・・??

ある日家康が江戸城へ・・・竹千代と国松を呼び出します。
「竹千代殿、これへこれへ・・・」と、竹千代を近くに呼び寄せて、竹千代と共に近寄ろうとした国松に・・・
「国松は、元いたところに下がっておれ!!」
家康は、竹千代にのみ、自分の近くに寄ることを許したのです。
さらに家康は秀忠に訓戒する・・・
「嫡子を排し、庶子を立てん事は、天下が乱れることである!!」と。
そう、家督相続争いが起こると戦国争乱は終わらない・・・
家康自身は武断政治から文治政治への転換をしていたのでしょう。
それが、三代将軍の跡継ぎ問題となったのです。

この時期、武家諸法度、禁中並公家諸法度など作成、武力国家から法治国家への転換を図っていました。
お福が願っていた長子相続制度は、家康の願っていた国の姿に不可欠だったのです。
直訴から2年後の1617年・・・江戸城西の丸に移った竹千代・・・。
ここは、徳川家の家督を継ぐ者が住むことを許された場所でした。

その後竹千代は元服し、家光となります。
1623年、20歳で三代将軍となりました。
お福は乳母としての責務を果たしたのです。
しかし、彼女が城を去ることはありませんでした。
お江が亡くなると・・・お福は大奥総取締役に就任。
大奥の実権を握ることに・・・!!
男子禁制などの規律の遵守に側室探し、大奥の組織化と拡大に尽力します。
後の大奥の原型が、この時出来上がったのです。
お福は女官たちの待遇改善にも力を入れます。
すべての階級の女中たちに、合力金という名の衣装代を幕府に願います。

一方、お福は朝廷との交渉役も担っていました。
後水尾天皇天皇に拝謁し、春日局という称号を賜わります。
この”春日局”とは、天皇の子を産んだ女官たちに授けられた由緒ある称号で、一介の武士の娘に与えられるなど、前代未聞のことでした。

戦乱の世で、男たちに翻弄された娘が、江戸時代の始まりに権力者と肩を並べる力を手にしました。
そして・・・1643年、お福は65歳で、その激動の生涯を終えるのです。

乱世を生き抜いたお福の時世は・・・

西に入る 月を誘い 法を得て
         今日は火宅を 遁れぬるかな



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