邪馬台国増補版 唐古・鍵遺跡から箸墓古墳へ [ 水野正好 ]

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(2018/1/31 23:10時点)
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”ニッポン”の文明はいかに成立したのか?
古の人々は、心に何を秘めていたのか?

第1章 新たなる弥生社会の衝撃
我々が思い描いている弥生人とは・・・??
弥生人といえば稲作に勤しむ人々・・・農耕民族のイメージです。
しかし近年、そのイメージを覆す、新たな弥生人像の遺跡が発掘されています。
それは、農耕だけに頼らない特異な技能集団でした。
我々の想像を越える技や社会を持っていました。

鳥取県青谷町・・・日本海に面したこの町に弥生時代のホットスポットがあります。
”青谷上寺地遺跡”です。
20年にわたる発掘調査で出土した遺物はおよそ10万点。
他に類を見ない貴重な遺物が発見されることから、地下の弥生博物館の異名を持ちます。
集落の中心部では・・・多くの暮らしの息吹が感じられます。
青谷上寺地遺跡では、粘土質の土壌が真空パックの役割をし、多くの遺物が奇跡的に残ったのです。
出土品は極めて多様で、丸木舟、漁具、貨泉、勾玉、弥生人の脳、うんち(糞石)も・・・衝撃的発掘でした。
細かい網目のマタタビで作られたカゴ、強度を考慮して編み方を変えていました。

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多くの出土品の中でも、弥生人のイメージを覆したのは、大量の木製品です。
摩訶不思議の形をした木製の器・・・そこには、弥生人の美意識が伺えます。

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高杯には、高度な技が・・・。
巧みな職人が作ったのか・・・??


木製のつぼ型容器にも、細かい装飾が・・・。


彼らは、ある目的をもって、この器を作っていました。
日本海沿岸のいくつもの遺跡から、青谷で作られたと推測される木の器が出土しています。
これは、青谷の弥生人が、他の集落の求めに応じて、木製品を輸出していた証拠かもしれません。
まさに”青谷ブランド”です。

どうしてそこまで精巧な木工品を作ることができたのでしょうか?
aoya4そこには、いろいろな鉄製の工具がありました。
青谷の技能集団は、鉄の道具を器用に使いこなし、高度な文化を営んでいたのです。

交易をし、ものづくりの専門集団だったのです。
そして、稲作を行う人々・・・
遺跡からは高度に専門化した人々が、分業し、共生する弥生人の社会が浮かび上がってきたのでした。

滋賀県琵琶湖の東・・・彦根市にある稲部遺跡で弥生社会の重要な発見がありました。
全国的に見ても珍しい大型建物跡が発見されたのです。
近畿屈指の一大勢力が存在していた可能性が・・・!!
この遺跡で重要な発見が・・・鍛冶工房があったのです。

この頃は製鉄はしていませんでした。
鉄素材を朝鮮半島から輸入していたのです。
日本海ルートがあった・・・。
素材から入手して、生産・供給まで一貫して稲部で行われていたのです。
製品を、北陸、東海に供給していた可能性があります。
20棟以上の鍛冶工房が発見され・・・それだけ大きな工房で、何を作っていたのでしょうか?
発掘された鉄製の遺物は・・・鉄鏃・・・実践の武器として使用していたようです。
弥生人は武器を作り始めたのです。
稲作によって、収穫物という冨がもたらされると、同時に富をめぐる集落同士の争いが起き・・・
弥生人たちは、より強力な武器を求めるようになります。

青谷上寺地遺跡には、武器がもたらした社会の変化の遺物があります。
弥生後期の地層から、100体を越える老若男女の人骨が見つかったのです。
それは、溝の中に無造作に捨てられたような感じでした。
衝撃だったのは、110点にのぼる骨に、武器による殺傷痕があったことです。
死体には武器による深い傷が・・・!!
青谷の集落で一体何が起こったのでしょうか??
それは、戦争の痕跡・・・日本最古の戦争の痕跡かも知れません。
鉄の工具は弥生人に優れた製品をもたらしました。
一方で、鉄による強力な武器が、弥生社会と人々の精神を変えていくことになります。

第2章 弥生人が求めた神秘のパワー
弥生社会を劇的に変えた鉄・・・
さらに弥生人のこころを知るためには青銅を知る必要があります。
青銅器は、鉄器と同時期に日本に普及したと言われています。
中でも、銅鐸は、近畿地方を中心に独自の発展を遂げます。
印象的な青みがかった緑色・・・これは、長い年月をかけて酸化した色です。
石と粘土で作った鋳型に溶けた青銅を流し込みます。
完成した銅鐸は、神々しい輝きを放ちます。
この銅鐸こそ、弥生人の心のモニュメントです。
彼らは一体どんな思いを込めていたのでしょうか?

弥生時代の重要な遺物が発見されている淡路島。
ここで、2015年新発見がありました。
海岸近くの砂の中から7個の銅鐸が発見されたのです。
この銅鐸は、考古学者の注目を集める重要な発見となりました。

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松帆銅鐸と名付けられたこの銅鐸は、6つは大きな銅鐸に入れ子になっていました。
さらに珍しいものが・・・すべて舌・・・内側で音を鳴らす振り子が伴っていたのです。
そして、紐も残っていたので、どのように銅鐸を下げていたかということも、ハッキリとわかりました。
この発見で、今まで推測の域を出なかった銅鐸の実際の使用方法が判明したのです。

さらに松帆銅鐸には動物の頭の絵が描かれていました。
同じように絵が描かれたものは全国で60個ほど発見されています。
文字を持たない弥生人たちは、絵を描くことで、内面を表現していたのです。
全国の銅鐸絵画から絵を分類すると・・・2種類の動物が多く書かれています。
二番目は鳥・・・これは稲作との関係が考えられます。
水田に水を入れるとサギが飛んでくる・・・サギは真っ白で神々しくて姿かたちも非常にいい・・・
そこに彼らは神聖性を見出して、自分たちの水田を守ってくれる・・・稲の成長を見守ってくれている・・・としたのです。
そして、最も多く描かれていたのは鹿です。
角に対する強い思い入れ・・・
晴に生え始めて秋に立派になって、年の明けた頃にポロンと落ちる・・・
稲に似ています。
弥生時代の稲作民にとって、信仰の対象になったのではないかといわれています。


銅鐸・・・初期の銅鐸は高さ21センチほどでしたが、500年かけて大きく装飾的になって・・・
最大の大岩山1号銅鐸に至っては134.7センチもあります。
どうしてここまでの変化になったのでしょうか?
そこには弥生人の心の変化がありました。
シンボルというのは、大きければ大きいほど祈りが通じると思えます。
最初は目に見えないもの(音)を畏れていたのに、人間が作った目に見えた大きなものを畏れるようになったのでしょう。
銅鐸には、未だ解き明かされていない大きな謎があります。
銅鐸の多くは、整然と並べられた状態で発見されています。
意図的に埋めたと伺えるのです。
弥生の人々が銅鐸を埋めた理由は・・・??
廃棄説・・・崇める対象が変化したため不要になった
境界埋納説・・・敵の侵入を銅鐸の呪力で防ぐために埋めた
奉納説・・・神に銅鐸を捧げた
果たして人々はどんな思いを託したのでしょうか??
しかし、その関係は終わりをつげ、新たな心のよりどころを生み出していくことになります。

3世紀・・・この国は、歴史の大きなターニングポイントを迎えます。
銅鐸の時代が終わりをつげ、巨大な前方後円墳が現れたのです。

第3章 巨大モニュメント誕生・・・纏向遺跡
奈良県桜井市にある纏向遺跡・・・
前方後円墳発祥の地とされ、この国の文明の成り立ちを知るには欠かせない地です。
遺跡は東西2キロ、南北1.5キロ・・・これまでの発掘調査から、この場所が人と物が集中する一大拠点だということが分かっています。
物資を運ぶ巨大な運河、九州から関東までの人々が土器を携えてやってきました。
2009年には大型建物群が発見・・・纏向遺跡は、この国の最初の都市と考えられています。

纏向石塚古墳
3世紀前半に作られた、日本一古い前方後円墳と考えられています。
第2次世界大戦の時に、高射砲の陣地を据えるために、上が削られてしまっています。
今よりも8メートルも高かったと思われています。
かつて古墳の周りにあった周濠・・・外と内の世界をはっきり分けるという意味があり、聖域でした。

勝山古墳
朱塗りの板が出土しています。
古墳が作られた当時、墳丘の上で、何らかの建物が建てられており、祭りをした後に壊し、堀の中へ投げ込んだ跡があります。
死と再生の儀式・・・??
イメージとしては、今の神道のお祭りのように、祭祀として使った器物は片付けという行為の中で叩き壊したり、たたき割ったりということをしていたようです。
日本的な「けがれ」感が生じていたのかもしれません。

大型建物群
発掘された跡から、3つの建物の存在を堪忍することができます。
それは、弥生時代最大の大型建物群
一番大きな建物は、今の3階建てに相当すると思われます。
驚くべきは、建物の中心は、東西に一直線に配置されていたことです。
中国の王宮のように整然と設計された建物群・・・
発見されたのは四角い柱・・・この頃は、円形、楕円形が主でした。
従来考えられていた弥生時代をはるかに超える大発見でした。
王がきっちりと直線的に計画したように整然と建物を建てる状態をもって文明となる・・・
最初の日本の文明だったのです。

この場所からは、纏向遺跡最大の箸墓古墳がよく見えます。
建物が廃絶したのが3世紀の中頃・・・
時期的には、入れ替わりの関係で古墳の築造が始まったのです。

纏向で誕生した前方後円墳の一つの到達地点が、この国最初の古代古墳・・・箸墓古墳です。
卑弥呼の墓・・・??とも言われています。
2012年の調査によってわかってきたこと・・・
木々に覆われていた古墳は、見事な段築構造で、後円部5段前方部3段となっていました。
精巧な作りで、最高水準の技術と途方もない労働力を結集した新しい文明のモニュメントでした。

2014年、明治9年に撮られた写真が発見されました。

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それは、築造当時の姿を彷彿とさせるものでした。
纏向川の河原石を使い、周辺の石材は大阪から持ってきたともいわれています。

文字がない社会で複雑な社会をいかにして作っていくのか??
前方後円墳のようなモニュメントが、非常に大きな役割を発揮していたようです。
特別な時代が纏向から始まったのです。

第4章 新時代が求めた女王・卑弥呼はどこから来たのか?
謎とロマンに満ちた日本の古代・・・
そのミステリアスな存在が邪馬台国女王・卑弥呼です。
歴史に突如として現れ、新しい時代を開いた指導者です。
その女王卑弥呼の正体とは・・・??

中国の歴史書・魏志倭人伝によれば、卑弥呼の時代の日本は、倭国とよばれ30の国が乱立していました。
それら諸国は7,80年の長きにわたって戦争状態だったと言われています。
世にいう倭国大乱です。
何がこの混乱を引き起こしたのか??
そこには異常気象がありました。
2世紀の日本列島は、大雨と干ばつが繰り返される不安定な気候でした。
それが、地域ごとの収穫に格差を生じさせ紛争の一因になったと考えられています。
水害は、局所的に被害の大きいところ、少ないところがわかれてしまい・・・より、地域間での争いが・・・持てる者に対して、持たない者が執拗に攻撃をかけてしまう。。。
食糧の奪い合いが始まったり、土地の奪い合いが始まったり・・・
この時代にたくさんあったのではないか?と思われます。

争いを治めるためにはどうすればいいのか??
諸国の王たちが下した決断・・・それが魏志倭人伝に書かれています。
”共に一女子を立てて王となす”でした。
一人の女性を共通の王として抜擢し、連合政権を立てたのです。
新時代の倭国・・・その未来を託され、選ばれたのが卑弥呼でした。
これまで卑弥呼を巡っては・・・邪馬台国はどこにあったのか?という論争に100年を費やしてきました。
卑弥呼を共立した王たちの視点は??
王たちにとっては、どうにかして争乱を治めたい・・・そんな時、リーダーはどんな人でどこから選べばいいのか・・・??
どこの出身であれば軋轢を生むことなく、王たちは争いを避けることができるのだろうか・・・??
古代の王たちの選択です。
卑弥呼の出身地は・・・??

①北九州説
まず考えられるのが、最も力を持った地域の者という説です。
その場合、浮かび上がってくるのが北九州にある伊都国です。
伊都国はずば抜けた政治経済力を誇り、諸国も畏れると書かれています。
どうして強大な力を持つことができたのでしょうか?
新しく発見されたのは、弥生時代後期の硯・・・。
1~2世紀ごろのすずりです。
この硯を使って、外交、貿易の文書・・・字を書いていたようです。
伊都国は、中国、朝鮮半島に近く、早くから交易で富を蓄え、強大な権力を築いていました。
卑弥呼は間違いなく伊都国出身??
その根拠・・・理由は・・・??
伊都国の女王のものとされる平原王墓・・・
目立つのは40枚もの鏡です。
たった一つの墓から40枚もの銅鏡・・・
通常、20cmを越えれば貴重な大型鏡とされますが、その鏡が倍以上・・・直径46センチを超える圧倒的な大きさの鏡がいくつも出土しています。
卑弥呼は中国から100枚もの鏡を授かったとされています。
さらに、この地域は女性を王にする伝統を持っていたようです。
古代のピアス、身分の高い女性しか使わないものが発見されています。
邪馬台国以降の古墳時代は、近畿を中心としているものの、その伝統は全部伊都国で醸成されてきた・・・??
となると、卑弥呼は伊都国から選ばれたのか・・・??
それとも、一つの強力国家からだすと、他の国家が黙っていない・・・??

②近畿説
纏向遺跡からわずか5キロのところにある唐古・鍵遺跡です。
この特徴は、建物や動物の姿が書かれた絵画土器です。
その数は圧倒的で、日本の絵画土器の半数近くがここから発見されています。
高い文化レベルを誇るこの地域からなら、争いを避ける平和的なリーダーが出て来たのでは・・・??
心の豊かさ、文化的、平和的な世界を作れたのではないだろうか??
そしてこの遺跡には呪術的なものも発見されています。
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褐鉄鉱・・・土中で、鉄分などが凝縮して作られた自然の鉱石・・・その空洞にヒスイの勾玉が大切に治められたものが発見されました。

大陸の文化にも通じたシャーマン的な女性がいる・・・
新しい文化体系・思想を持った人物として一目を置いていたのではないか・・・??

③瀬戸内地方


tatetuki岡山県吉備に・・・楯築墳丘墓があります。
前例を見ない形の王の墓です。
復元図は・・・こちら。
円形部の両端に四角い突出部を持っています。
これこそ、前方後円墳のルーツであり、新しい信仰の象徴だったのではないか・・・??
さらにこの墳墓から出土した石には渦巻のような弧帯文が書かれていました。

纏向遺跡からも、同じような文様がつけられた出土品が見つかっています。
弧帯文や前方後円墳・・・新しい宗教の形が卑弥呼を介して纏向にもたらされたのではないのか・・・??

弥生時代から古墳時代には、宗教観点から言うと青銅器の宗教から墳墓の宗教へと宗教改革されつつありました。
古い宗教、古い社会体制に対する閉塞感が、新しい宗教、新しい社会体制を生み出そうという・・・そんなパワーになったのでは・・・??
吉備が新しいお手本になっていた可能性があるのです。
①北九州説②近畿説③瀬戸内説・・・未曽有の混乱を治める新しい指導者には、どのようなバックグラウンドのある者を選べばいいのでしょうか・・・??

果たして卑弥呼は強大な国力を誇る北九州出身だったのでしょうか?
それとも文化的な近畿圏出身だったのでしょうか?
瀬戸内の宗教的カリスマだったのでしょうか?

第5章 改革者現る 最強豪族・蘇我氏
3世紀から作られ始めた前方後円墳・・・それは300年にわたり権力の象徴であり続けました。
ところが、6世紀に入ると前方後円墳の代わりに方墳が作られ始めました。
連綿と続いた古墳の在り方が変わったこの時代・・・その裏では一体何があったのでしょうか?
古墳の変革に関わったとされる注目されるべき一族・・・それは蘇我氏です。
初代・稲目・馬子・蝦夷・入鹿に至る4代は、古墳時代から飛鳥時代にかけて歴史の表舞台に現れた豪族です。
曽我氏と言えば、乙巳の変で滅ぼされた一族・・・
天皇を暗殺し、その位を狙った逆臣のイメージがあります。
しかし、今、議論が白熱しています。
日本が律令国家として形を整えようとする前夜・・・時代のキーマン蘇我氏の果たした役割とは・・・??

奈良県明日香村・・・蘇我氏が権勢をふるった歴史の舞台です。
近年、稲目の墓ではないか?と注目されているのは都塚古墳です。
築造は6世紀後半から7世紀初めごろ。東西約41m、南北約42mの大型方墳です。
2014年からの発掘調査によって・・・国内で極めて珍しいピラミッド型の方墳として注目されました。
日本書紀によると稲目は・・・
536年、大臣に就任。
以来およそ35年の間、政権の中枢で国を動かしました。

6世紀後半から天皇陵は前方後円墳から方墳へと変わっています。
どうして蘇我氏の時代からそんな変化が起こったのでしょうか?
そこには稲目の功績がりました。
稲目が台頭した理由は、屯倉と呼ばれる大和政権の直轄地を広げたことでした。
稲目は屯倉の設置に当たり驚くべき手法を取りました。
全国でも作られていなかった戸籍を活用します。
民を効率的に支配するためです。
どうしてそんなことができたのでしょうか?
稲目の人材登用術に秘密がありました。
稲目が知識を持っていたというよりは、稲目が管轄していた渡来系の人々が、建築・文字など大陸の優れた技術・知識を持っていたのです。
それを稲目が利用したのです。
新しい技術・文化をどんどん吸収し、それを道具としてのし上がっていったのです。
稲目は渡来系士族との結びつきによって、大和政権内で確固たる地位を固めていきます。
そして、仏教受容・・・いち早く取り入れています。
その仏教を受け入れた稲目の先進性こそ、方墳を選んだ理由です。
お寺などは、四角の基壇を作ります。
なので、最初に四角い基壇を作って墓を作り始めたのです。
仏教寺院の在り方から、稲目が新しい古墳のスタイルを作り出した可能性があるのです。

稲目の息子・二代馬子の墓とされる石舞台古墳・・・
古墳に権力が象徴される・・・力の象徴が古墳・・・。
前報後円墳から方墳へ・・・それが、蘇我氏の力だったのです。
時代、社会の変わり目を作ったのが蘇我氏なのです。
馬子は父が受け入れた仏教を広げていくために、本格的な寺院・飛鳥寺を建立します。
古墳に代わる一つのシンボル・・・それを寺院に求めたのです。
本格的な寺院を最初に作る・・・そこに蘇我氏の新しい戦略・生き方があるのです。
ここに、権威を象徴する全く新しいモニュメントとして、ついに寺院が誕生しました。
仏教は当時の東アジアの先進性の象徴!!
馬子はこれを取り入れることによって、国際的に通用する国家へと変革しようとしたと考えられます。
更に馬子は、政治改革を推し進めていきます。
厩戸王と共に冠位十二階の制を作り、実力主義を取り入れます。
50年以上の長きにわたり、政権のTOPにいた馬子・・・蘇我氏は絶頂を迎えます。
権力はさらに次代へと受け継がれていきます。

あとを継いだのは3代蝦夷、4代入鹿・・・蘇我氏の中でも悪名高い二人です。
日本書紀によると、蘇我氏は帝位を傾けようとした大悪人として書かれています。
入鹿・蝦夷の親子は、天皇のいる飛鳥板蓋宮を見下ろす甘樫丘に邸宅を構え、宮門(うえのみかど)、谷宮門(はざまのみかど)と、天皇の住まいを意味する名でよんだと言います。
しかし、甘樫丘での発掘調査では、複数の大型建物、石垣、兵などの跡が見つかり、軍事拠点として使われていた可能性が出てきました。
この時期、大陸では唐が周辺諸国への軍事的圧力を強めており、その波は日本にも及ぶ可能性があり緊迫状態でした。
甘樫丘は飛鳥全体を抑える・・・防御の拠点と思われます。
都としての飛鳥を蘇我氏が監視して守るために、甘樫丘に新しい邸をつくった可能性もあります。
蘇我氏は、緊張たかまる国際情勢の中で、この国の守護者であろうとした可能性があるのです。
しかし、645年入鹿・蝦夷親子は、乙巳の変によって滅ぼされます。
一夜にして歴史の表舞台から引きずり降ろされたのです。
海外の文明の波を受けながら、神社などの新しいモニュメントを作った蘇我氏の時代・・・
変革を求める精神は後の世にも継承されています。
その証が再び古墳の形の変化に現れています。

蘇我氏失脚の直前に亡くなった舒明天皇の墓・・・天皇の墓は方墳から八角形の墳墓へと変化していました。
この八角形・・・支配者は天下の八方を治めるという中国の古代思想からきています。
これ以降日本は、中国の王朝のような強力な中央集権国家を目指していくことになります。

蘇我氏は、日本が古代国家への歩みを始めた6世紀から7世紀に、最も大きな影響を与えた豪族で、渡来人を支配下に置くことで大陸や半島の最新技術を掌握したのです。
文字が書け、計算、灌漑、養蚕、製鉄・・・などです。
前報後円墳は、豪族や大王を土俗の神として祭り上げる装置でもありましたが、それを否定し、仏教を導入したのです。
先進国になるために・・・!!
仏教家の大王家・貴族という新しいシステムを作り上げたのです。

蘇我氏が日本初の氏寺・飛鳥寺を作った意味とは・・・??
古墳はあくまでも墓で、労力をかけても一代限り・・・
お寺は1回作るとそこは永遠です。
古墳は300年たつと慣れてみんな作れてしまいます。
寺は、誰かれ作れないので、中央が造ってあげる・・・権力者にとって合理的で使いやすいものだったのです。
天武天皇の時代になると、日本各地にお寺・・・氏寺ができ、律令による社会が出来上がっていくのです。


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