沙門空海唐の国にて鬼と宴す 巻ノ一~巻ノ四 映画カバー合本版【電子書籍】[ 夢枕 獏 ] 価格:2,592円 |
平安時代の仏教界に一人の大天才が出現します。
日本における真言密教の開祖・空海です。
中国の人をも驚嘆させた、空海の超人的な能力・・・。
ある時には雨を降らせ、ある時には杖を刺したところから温泉が・・・
さらには5本の筆を同時に使いこなすとか・・・
超人空海はいかにして誕生したのでしょうか。
774年讃岐国の豪族・佐伯家に生まれました。
幼いころから神童とよばれ、将来は都で役人に・・・と思われる逸材でした。
親族の期待を一身に背負って、空海は18歳の時に役人を養成する大学に・・・エリートコースを歩み出したのですが・・・。
しばらくして、大学を止め、山林修行者として山野を放浪するようになります。
若き空海に何があったのでしょうか?
「三教指帰」によると、大学で学業に励む空海の前に一人の僧が現れ・・・
”虚空蔵求聞持法”を教えてくれたと記されています。
修行によって無限大の記憶力を獲得し、全ての経典を暗記できるという秘法です。
しかし、これを会得するためには、虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱えるという壮絶な修行が必要でした。
空海が大学を辞めたのは、この修行に専念するためだったと言われています。
徳島県阿南市・・・舎心ヶ嶽・・・実際に空海が修行したと伝えられています。
空海は、一歩間違えば滑落死といわれる高さ600メートルをこえる断崖絶壁によじ登り、自らの命を危険にさらしながら一心不乱に真言を唱え続けます。
日に日に体は痩せおとり、体力の限界に・・・。
ところがある日、不思議な体験をします。
それは、土佐国室戸岬での修行の時・・・
明け方、空海がいつものように真言を唱えていると・・・空の明星が明るさを増したかと思うと空海の口の中に飛び込んできたのです。
この体験が、空海のその後の人生を変えることとなります。
当時の唐は、世界の先進国で、最新の文化や技術を誇っていました。
なにより唐の都・長安では、最新の仏教が隆盛を極めていました。
「唐なら自分の疑問を解く、本物の仏の教えがあるに違いない」
空海は、唐に渡りたいと考えるようになります。
当時、日本から唐に渡る手段は一つ・・・遣唐使の一員に選ばれることでした。
空海には、その可能性がありました。
語学が完璧で、チャンスをつかんだ空海は、804年、遣唐使船に乗船することになります。
空海31歳の時でした。
この時、別の遣唐使船に・・・乗っていたのは、後に天台宗の開祖となる最澄でした。
最澄は当時、仏教界のエリート中のエリートで、朝廷の絶大な信頼を受け、看病禅師として、天皇家の人々の病気治療にあたる特別な僧でした。
そのため、最澄は還学生として乗船・・・これは、国のお墨付きの留学生で、費用は国の負担、通訳付きの期間は短期なもの・・・1年後には、帰国が決まっていました。
一方、空海は、何の肩書もない留学生で、莫大な費用は自費で・・・期間は最低20年というのが義務となっていました。
そんな空海に試練が・・・嵐に巻き込まれました。
空海の乗った遣唐使船は、1か月ほど海上を漂流・・・明州からおよそ700キロ離れた赤岸鎮にたどり着きました。
ところがここで空海が天才的な才能を発揮・・・
上陸しようとしたとき、遣唐使の大使が地元の役人に上陸の許可を得ようとしますが・・・嵐で国書を失くしていたので、遣唐使と認められず上陸させてくれません。
困り果てた大使が空海に・・・
「そなたの名文で、実情を陳述してもらえぬか」と。
空海は、自分たちが正式な遣唐使であること、嵐で国書を失くしてしまったことなどを書き記しました。
この書の、達筆さと文章の巧みさに驚嘆し、すぐさま上陸を許可しました。
空海一行は、陸路と水路を利用して、およそ2000キロを踏破し、長安にたどり着きました。
長安に入った空海は、仏教を学び始めます。
当時、長安では西遊記のモデルと言われる玄奘三蔵が」広めた法相宗や、達磨がインドからもたらした禅宗など、様々な宗派(三論宗・三階教・天台宗・法相宗・華厳宗・律宗・禅宗・浄土宗・・・)がありました。
空海の心を掴んだのが、当時最先端の仏の教えと言われ、日本ではまだほとんど知られていなかった密教でした。
密教を学び始めた空海は・・・
密教を学ぶために、インドのサンスクリット語を猛勉強!!
僅か3か月でマスターしてしまいました。
密教と他の仏教の違いは・・・??
他の仏教は、悟りを開くまでに膨大な時間がかかります。
密教は、即身成仏・・・生きたまま身体で悟りを開き、仏になることができるとされていました。
仏になる・・・仏と同じ力を持つことができる・・・とされていました。
最澄は、密教が盛んであった長安には行かずに帰国したので、本格的な密教を学ぶことができませんでした。
この差を埋めることができずに、運命は大きく分かれていくことに・・・。
唐に渡って密教を極めることとなった空海にとって、会わなければならない人物がいました。
長安にある仏教寺院・青龍寺の高僧・恵果です。
密教の正当な継承者として1000人を超える弟子を持ち、皇帝から国師として仰がれていた人物です。
無謀にも、会いたいと青龍寺の門をたたいた空海・・・。
すると・・・恵果は、面会を許したばかり・・・
「汝がここに来ることは、すでに知っていた。
長い間待っていたぞ。
今日、会えたのは、なんと喜ばしい事よ。」と、歓迎したと言います。
さらに恵果は、近いうちに灌頂を授けると言いました。
密教における灌頂とは、頭頂部に水を注ぎ、種々の戒律や資格を授けて正当な継承者とする儀式の事です。
つまり、恵果は、初対面でしかも日本人の空海を自らの後継者として認めたのです。
恵果には、もともと後継者がいましたが、早くに亡くなっていました。
そこに現れたのが、空海だったのです。
さらに、恵果に残された時間もあまりありませんでした。
病に伏せっており、最後のチャンスとして空海を迎え入れたのです。
そして、空海もまた、それにこたえるだけの力を持っていました。
こうして空海は、恵果の弟子となって青龍寺で直接教えを乞うこととなります。
僅か3か月で、密教の最高位・阿闍梨を授かり、密教の後継者のひとりとなったのです。
やっかみや嫉妬までも打ち破る能力が空海にはありました。
恵果は、密教の全てを空海に教え、法具や袈裟などを授けました。
そして、自らの役目を終えるかのように死の床に就くと・・・空海に遺言します。
「汝に伝法し、もはや心残りはない
汝はすぐに故国に帰り、この密教を転嫁に広めよ。」by恵果
二人の出会いから、僅か半年後の事でした。
空海は、恵果との約束を果たすべく、帰国しようとします。
凄まじい勢いで経典を集め、持ち帰れない経典があれば寝る間を惜しんで写経します。
そして・・・806年、空海、460巻を超える膨大な経典と共に、唐から帰国。
806年10月・・・帰国した空海・・・しかし、20年間留学期間を2年で切り上げてしまったことが重罪と、九州の大宰府に止め置かれ、京に上ることはできませんでした。
それに対し、空海は、帰国報告として自分が唐から持ち帰った経典などを目録として提出し弁明します。
「罪は死んでも償えませんが、得難い真理の教えを生きて持ち帰れたのは、実に良かったと心の中では喜んでおります。」
自分が凄いものを唐から持ち帰ったという絶大な自信がありました。
そして、唐でいかに自分が高い評価を得ていたのかを・・・!!
しかし、朝廷は空海の弁明を黙殺!!
朝廷には、目録に書かれている価値をわかる者はおらず、一介の留学僧が貴重な書物を持ち帰れるはずがないと思っていたのです。
待つこと3年・・・諦めかけていた時、突然京の都に上ることを許されます。
空海が記した目録に驚愕したのが・・・空海と同じ時期に唐に渡り、一足早く帰ってきていた最澄でした。
価値が解っていたのは、最澄だけだと思われます。
空海より先に帰国していた最澄は、806年比叡山延暦寺を精緻に天台宗を開宗。
仏教界の最重鎮として天皇家から益々厚い信頼を得ていました。
そんな最澄が空海に手を差し伸べたのか・・・空海の実力を認めただけではなく・・・もう一つの思惑が・・・。
最澄の後ろ盾であった桓武天皇が、唐の最新の密教の存在を知ると、密教による国家の鎮護を強く望みました。
ところが、その思いを果たせずに崩御・・・
最澄も、唐で密教を学んだとはいえにわか仕込み・・・。
桓武天皇の遺志を継ぐためには、どうしても本格的な密教を修めなければなりませんでした。
そんな時目にしたのが、空海の目録でした。
最澄は驚きました。
学びたかったのに、学べていなかったものがそこにあったからです。
帰国から3年、ようやく今日に上ることができました。
空海が唐から持ち帰ったものは、経典だけではなく・・・
有名なのは、高野豆腐・大和茶・金山寺味噌・・・食や暮らしの向上に大きな貢献を果たした人物でした。
809年7月、京への許可が下りた空海は都の北の高雄山寺に入り、密教の更なる編纂に努めます。
そんな空海の元に、最澄の弟子が手紙を携えてやってきました。
その手紙には、唐から持ち帰った密教の経典を借用したいという申し入れが書かれていました。
空海にとって最澄は、九州に止め置かれたときに京の都に呼び戻してくれた恩人・・・
その言葉に応じ、経典を貸し出します。
こうして、二人の交流が始まったのです。
仏教界のTOPである最澄が・・・
「どうかあなたの弟子にしてほしい」と、空海の弟子になりたいと言いました。
それは、最澄が密教をどうしても教わりたいという決意の表れでもありました。
最澄の想いを受け入れ、弟子のひとりとします。
これによって、空海は密教の日本における第一人者となりました。
二人の立場が逆転したのです。
最澄は確立した地位にありました。
その超エリートが、弟子になるというのは驚くべき事でした。
空海の名は、一気に広まり、次々と空海の元を訪れる人が・・・。
当時は親密な子弟関係を築いていた最澄と空海でしたが、しかし、二人の間に溝が・・・
「密教の最高位である阿闍梨を授けてもらえぬか」by最澄
「そのためには3年の修行が必要ですぞ」by空海
最澄は、比叡山に天台宗を開いた仏教界のTOPとして多忙を極め、3年もの修業はできません。
そして、二人の関係がさらなる悪化を・・・
813年11月、比叡山に戻った最澄は、弟子を通じて空海に書物の貸し出しを求めます。
その書物は、密教経典の注釈書でした。
密教を極めようとする最澄にとって、難解な経典を正しく解釈するためには、どうしても注釈書が必要でした。
そんな最澄からの依頼に対し・・・注釈書の貸し出しを拒否しました。
密教の真理、奥義は、修行を通して心から心へと伝える・・・
文字はがれきのようなもので、それで最高の真理を伝えられると思ったら大間違いだと、空海は言っています。
修行を実践しないとダメということです。
最澄は、かなり悔しかったようです。
最高の審理でも、勉強すれば何とかなると考えていたようです。
「最近売り出し中の某人物は、文字によって仏の真理を伝えるという麗しい伝統を断ち切ってしまった。」
と書いています。
愕然とした最澄・・・
加えて、自分が一番期待していた弟子が、空海の元から帰って来ないという現実が・・・。
それまでも見解の相違があったものの・・・書物の貸し借りや、弟子のトラブルによって決別したようです。
真言宗の寺院では、今でも空海が伝えた護摩祈祷が行われています。
これは、護摩の炎によって、煩悩を焼き払い、清らかな願いへと成就させるよ言う密教の儀式です。
1200年前の密教も、この祈祷が重要視されていました。
平安時代初期の日本は、地震などの天変地異が次々と起こり、干ばつや飢饉が人々を苦しめ、朝廷では平城上皇に重用されていた藤原薬子らが上皇の天皇返り咲きを狙って、嵯峨天皇の失脚を目論んで失敗した薬子の変など権力闘争が勃発・・・それらはすべて、怨霊の仕業とされていました。
怨霊は、非業の死を遂げた人の魂がこの世に残って悪さをする・・・
それは、特定の人に及ぶのではなく、天下国家に祟る・・・その怨霊を何とかしなければ、日本を平和にすることはできない・・・そのための仕事を密教僧が担っていたのです。
空海は、密教界の第一人者として嵯峨天皇に国家を鎮護する為に仏の力によって怨霊を鎮めるべく願い出て行います。
これをきっかけに空海は、嵯峨天皇の信頼を得、交流を深めていきます。
権力と上手く付き合っていかない限り、教えを広めることはできない・・・。
空海は、宗教面だけではなく、文化の面でも唐の最新を伝えるところがありました。
当時の日本は中国を手本としていたので、その中国の文化や文明をもたらしてくれる・・・それは、朝廷の文化を高めるうえでも貴重な存在でした。
嵯峨天皇と空海の関係は、権力者と宗教者だけでなく、文化を通じた友のところもありました。
天皇との関係を深めた空海は、嵯峨天皇に真言密教を開くことを許されると、日本全国に新しい教えを広めていくこととなります。
全国には、空海の伝説が数多く残っています。
空海が杖を突きさすとお湯が出たという・・・空海開湯伝説22湯
様々な言い伝えが残っていますが・・・
空海は唐で、密教だけではなく、科学技術も学んでいました。
土木、鉱山、薬学、医学・・・すべて、マスターして帰ってきました。
全国を行脚することで、水源を発見・・・温泉を発見・・・鉱脈を発見・・・そうなる伝承の素地はあったのです。
嵯峨天皇の絶大な信頼を得、新しい大事業へと進んで行きます。
真言密教をこの日本に・・・!!
恵果との約束・・・
「故国に帰り、この密教を転嫁に広めよ」by恵果
816年、空海は、恵果との約束を守るために、嵯峨天皇に高野山を真言宗教の修行の場としたいと願い出、その地を賜わります。
高野山は、当時何もない山岳地帯でした。
それこそが、空海が求めた場所でした。
多くの弟子を育て、心身の修行を必要とする密教の奥義を、弟子たちに伝えるために、都から離れ俗世間から隔絶したこの地を修行の場に決めたのです。
空海は、多くの弟子たちと共に空海にのぼり、標高900mの山の頂に、東西およそ5キロ、南北2キロにわたる真言密教の聖地を造りました。
金剛峰寺を中心とする幽玄の世界。。。
この聖地に、大宇宙を意味する真言密教の本尊・大日如来を置き、命あるもの全てに無限の慈悲を広げていく密教の世界を出現させました。
ここを拠点に、更なる真言密教の普及に努めました。
高野山に総本山を開いておよそ20年後・・・空海は、自らの役目の終わりを悟り弟子たちを集めてこう述べました。
「私は永遠に高野の山に帰る
弟子たちよ、悲しんではならない」
その後の布教を弟子たちに任せました。
数日後、空海は、真言密教の究極の修行に入るために、835年・・・奥の院山道の最も奥不覚の御廟に入定しました。
空海はこんな言葉を残しています。
「この宇宙が尽き果て、人々が尽き果て、悟りの境地が尽き果てることがあるのならば、私の願いも尽き果てよう」
空海は、その時まで瞑想し続けるというのです。
空海は、今でも御廟で世の中の平和と幸福を願っていると信仰されています。
1200年の間、1日2回の食事が絶えることなく運ばれています。
高野さんで修業をした僧は、高野聖として空海の教えや空海の奇跡を広めるべく、諸国を行脚します。
それによって空海は、日本で最も有名な僧のひとりとして尊敬を集めています。
空海が入定してから1200年経った今も、人々は空海が修行で廻った道をお遍路として歩いています。
空海は、今も人々の心に生き続けているのです。
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