縄文時代の不思議と謎 (じっぴコンパクト新書) [ 山田康弘 ]

価格:1,058円
(2019/1/16 18:10時点)
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青森市にある三内丸山遺跡・・・その広さは、約42ヘクタール・・・東京ドームの9個分です。
国内最大規模の集落跡です。
日本人のルーツである縄文人はどんな生活を送っていたのでしょうか??

1万5000年前から2800年前を縄文時代と言います。
そんな時代(約3800年前)に生きていた縄文人の骨が、北海道礼文島から発見されています。
これから縄文人の顔が復元されました。

kao顔は四角く、目は垂れています。
眉間は出っ張っていて、鼻は高かったようです。
上下の葉のかみ合わせがピタリと合っていました。

身長は・・・
男性が平均158㎝で、女性の平均は153㎝と、小柄だったと言われています。
縄文人たちはどんな暮らしをしていたのでしょうか??

毛皮を着て獣を追いかけて転々としていた・・・??
これは、旧石器時代です。
旧石器時代に続いた氷河期が終わり、温暖な気候の中、家を建てて定住した生活を送っていました。
植物から布を作り、衣類には刺繍が施されていました。

三内丸山遺跡は、縄文前期から後期・・・5500年前~4000年前の物で、1500年もの間永続的に住居を構え、ここで生活していました。
茅葺の竪穴式住居で、直径は4m以内、6帖一間、真ん中に土間、炉の跡があります。
植物を使って編んだ敷物、板、土器、石皿も場所を決めて壁際近くに置かれていました。
三内丸山遺跡では、住居の中で調理をしていた可能性があります。
炉の上の棚は・・・燻製を作っていたと考えられます。
煙が木材をいぶすことで、家の耐久性が増しました。
竪穴式住居の寿命は10年~30年。
4~5人が住むような家族的なものから、大型竪穴式住居までありました。
長さ32m、幅10m・・・300人が収容できる遺跡最大の竪穴式住居です。
集落の中央付近にあったことから、集会所、共同作業所、共同住宅であったと考えられています。

縄文時代は、定住が始まったため、コミュニティが大きくなっていました。
5~10家族ほどの集落があったと考えられ、村社会も形成されていたのです。

富山県小竹貝塚から出土した50歳以上の縄文人骨・・・
大腿骨は大きく変形し、周辺の骨には長期間強く圧迫した跡が・・・これは、大腿骨が骨折し、上手く治らなかったので膝を曲げて足を縛っていたためにできた溝だとされています。
そうした状況にもかかわらず、50歳ぐらいまで生きていたことは、家族や集落の人が支えて生きていたことがわかります。

北海道高砂・入江貝塚では、20歳前後の縄文人骨・・・
骨が細くて歩けないほど・・・子供の頃の小児麻痺だったと思われます。
この人物を面倒を見る環境があったと推測されます。
介護は縄文人の中に芽生えていたのです。

縄文人はどこから来たのか・・・??
我々ホモ・サピエンスが誕生したのは、20万年前のアフリカだとされています。
その後、進化した彼らは、6万年前にアフリカを旅立ち、各地の人類と交わって様々な種族へ・・・
そんな彼らが日本にやってきたのは、4~3万年前の旧石器時代です。

今考えられているルートは3つで・・・
当時はユーラシア大陸と繋がっていました。
人類はそこを歩いてある種族は
①北方ルート・・・サハリンから北海道へ
②東方ルート・・・朝鮮半島から九州北部へ
③南方ルート・・・船を使って南西諸島・東南アジアから九州南部へ

縄文人の特徴から東南アジア人・・・と思われてきましたが・・・
2017年福島県三貫地貝塚で3000年前の縄文人骨が発見されました。
奥歯のDNAが細かく分析できた結果、東南アジアとはかけ離れた遺伝子を持っていました。
現在の説は・・・??

縄文人は、東南アジア系が進化したのではなく、3つの種族がまじりあい独自に進化したアジアでも徳庶な種族ではないか??
そのためか、アジアでも特異な顔だと言われています。

そんな縄文人は独自の文化を築いていきます。
まずは縄文土器・・・
日本で生まれ独自の進化を遂げたものだと考えられています。
最古のものは、青森県大平山元Ⅰ遺跡から出土した16000年前の無文土器で、縄文時代の草創期には縄の文様はありませんでした。
文様が施されるようになるのは、人々が本格的に定住を始めた前期で、三内丸山遺跡ではその土器が多く発見されています。
縄目の模様を中心とした土器から、年度を張り付けた文様に変わっていっています。
模様の種類も100種類以上あります。
どうして文様をつけるようになったのか?何のためなのかはわかっていません。
土器づくりは主に女性の仕事で、鍋などとして日常的に使われていました。
しかし、生活が安定してきた中期には、生活には不便そうな装飾過多な土器が増えてきます。
その一つが火焔型土器です。
火焔型土器は新潟県を中心とする一部でしか発見されていません。
土器には地域性があるのです。
それぞれの地域に、時代によって独特の様式の土器が発達しました。
土器のデザインではなく、地域を主張するアイデンティティだったのです。
模様は単なる装飾ではなく、縄文人の世界観、哲学、思想を表現したものです。
儀礼用の繊細な土器と、日常用の素朴な土器も作っていました。

その暮らしは・・・??
目が覚めると、夜に灰をかぶせておいた火種を起こし、近くの川から汲んできた水を土器に入れ炉でお湯を沸かし、女性たちが子供達と一緒に食事の支度を始めます。
縄文人たちの食べていたものとは・・・??
食糧集め、狩りなどは男性の仕事で、森ではどんぐり、栗、クルミなどの木の実。。。
温暖な縄文時代には、広葉樹の森が増えて、木の実が増え主食となりました。
彼等は草食系でした。
動物性たんぱく質は・・・貝や魚、森での狩りは冬・・・。
冬はぢょく量不足になるので、動物を執ることで不足する主食を補いました。
そして、冬は動物が脂肪を蓄えていたので、栄養があり旬だったのです。

日本各地の発掘調査では・・・陸上動物60種、魚類70種、貝類300種にわたりました。
木の実などををはじめ陸上動物や魚介類などバリエーション豊かな食材を・・・現代人の8割に当たるカロリーを摂取していました。
そして、縄文人の狩りにはルールがありました。
縄文人は、自然と節度ある付き合い方をしており、絶滅するような狩りはしていません。
野ウサギやムササビなどの小動物が多く、食料や毛皮として無駄なく利用していました。
食材もさることながら調理法も様々で、それを可能にしたのは土器でした。
煮込んだり、あく抜きをしたり・・・人間の食べられる食材の範囲が格段に広がりました。
衛生環境も向上し、生活の安全に広く貢献しました。
縄文人たちは、魚や肉を燻製にして保存食にし、貝類は煮てから干して加工品にするように保存食にもしていました。
シカやイノシシのミンチ肉をベースに、卵を加えて混ぜ合わせ石の上で焼いたハンバーグ、木の実をすりつぶし、粉末状にしてはちみつや水を混ぜて縄文クッキーも作っていました。
栗の木を管理したり、小豆や大豆など豆類も栽培していました。
野生の豆から大きなものを選び大地に巻いて繰り返し・・・人間が栽培するに適したマメにして行ったと考えられます。

三内丸山遺跡で際立って目立っているのが大型堀立柱建物。
地面に穴を掘り柱を立てて作った建物で、柱の穴は直径約2メートル、深さ約2メートル。
4.2m間隔で、栗の巨木が立てられていた大型の高床式建物だったと考えられています。
その高さ15メートル・・・上からは八甲田山、陸奥湾が望めます。
何のために作られたのでしょうか??
ここは縄文時代は海の近くでした。
河口近くの丘の上に立っています。
当時、この上からは海岸線が一望でき、海からやってくる際には目印となりました。
柱の配列から縄文人の二至二分の意識が伺えます。
二至二分は、夏至・冬至・春分・秋分のことで、建物の長軸の延長線上に立てば夏至の日の日の出を、反対側に立つと当時の日の入りを見ることができます。
ここから縄文人には1年の感覚があったと考えられます。
狩猟採集、栽培を行い、命を繋いできた縄文人・・・四季の移り変わりを知ることは何より大切なことでした。

1992年青森の三内丸山遺跡からヒスイを丸く加工した大珠が出土。
これを分析すると、新潟県糸魚川で採取されたものだとわかりました。
およそ700キロ離れた場所で作られたものがどうして青森で・・・??
日本各地に張り巡らされた交易ネットワークの存在を具体的に示してくれています。
移動や運搬は・・・??
陸路は徒歩で、海や川などは丸木舟を使ったと考えられています。
ヒスイ以外にも黒曜石も交易品の一つでした。
交易によって生まれた広いネットワークは、情報交換としても重要でした。
そのため縄文人は、日本語に通じる言葉を使っていたと思われます。
自然が奏でる音を言葉で表したオノマトペもその一つです。
言葉を用い、他の人たちと情報交換をし、生活を豊かにしていきました。

三内丸山遺跡では、土偶は全国最多の2000個以上が出土しています。
そのうちの1958点が重要文化財です。
土偶は時代が進むにつれて、手足、顔立ちがはっきりしてきます。
縄文人の豊かな想像力によってつくられていきた土偶は、どこかが欠けた状態で発見されています。
縄文人が意図的に壊した・・・??
衣料が発達していなかった縄文時代、些細な病気やケガが命取りとなりました。
そのため、平均寿命は40歳・・・。
15歳まで生きるのは半数だと言われています。
そんな縄文人が頼ったのが呪術でした。
その祭祀や儀式のときに欠かせないのが土偶でした。
壊すことによって得られる効果を期待・・・土偶の一部をあえて壊すことで、自身の回復を祈ったのです。

三内丸山遺跡の入り口・・・村へ続く道の両脇から縄文人の墓が見つかっています。
その多くは穴を掘って埋める土葬・・・土坑墓と呼ばれるもので、子供は特別でした。
三内丸山遺跡は大人の墓地と子供の墓地がわかれていて・・・
亡くなった子供は土器に入れて埋葬しました。
また、赤ちゃんの骨の入った土器が竪穴式住居の入り口や母親が座っていた席の下に埋められていることもあり・・・一説には土器を女性の体に見立て、再び母体に戻ってきてほしいという願いが込められていたのではないか??と言われています。

幼児の手形を押して焼いた陶板も見つかっています。
1歳以内の乳幼児のもので・・・
祝って作られたとも、亡くなった子を偲んで作られたともいわれています。
理由ははっきりとさいませんが、子を思う親の気持ちは今と変わらないことが小さな手形からわかります。

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