日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:竹中半兵衛

「わが命ある限り、兄者の天下の事に尽くしたい」by豊臣秀長

1540年、豊臣秀長は、尾張国・中村で生まれ、幼名は小竹でした。
兄の秀吉とは、3歳違いで唯一の男兄弟でしたが、父親は違い、秀吉の父・弥右衛門が亡くなった後に、母・なかが再婚した筑阿弥の子だとされてきました。
しかし、弥右衛門が亡くなったのは秀長誕生の3年後でした。
なので、秀長も弥右衛門の子だったのでは??とも言われています。




3歳違いの兄弟として幼少期を過ごした秀吉と秀長・・・
しかし、それは長くは続きませんでした。
母の再婚相手・筑阿弥とそりが合わなかった秀吉が、10歳前後で家を出ます。
その後、秀吉が流浪の末に織田信長に使えることとなりました。
一方、秀長は、農家の後継ぎとして成長・・・貧しいながらも平穏な日々を送っていました。
しかし、突然武士となり、兄・秀吉に仕えることとなったのです。

尾張国・前野一族の記録「武功夜話」によると・・・
1562年、秀長23歳の時、家を出て以来、音信不通だった秀吉が、何の前触れもなく帰ってきました。
そして、再会を喜ぶ秀長にこう告げます。

「わしのもとで武士になってほしい」by秀吉

この時、設永のもとで足軽組頭となっていた秀吉は、更なる出世のためには信頼できる腹心が必要と考え、唯一の男兄弟である秀長に声をかけたのです。

「自分が武士となれば、田畑はどうなる・・・
 そもそも、人の命を奪う戦など性に合わんわ」by秀長

断わろうとした秀長でしたが、秀吉から熱心に誘われると押し切られてしまいました。

秀長は、織田信長のもとで成り上がろうとする兄・秀吉のために武士になることを決意したのです。
名前は、木下小一郎長秀!!
秀長と改名するのはずっと後のことです。

秀長は、秀吉が天下人になるまで数々の重要な局面で大きな役割をしていくことになります。



秀長の名サポート①墨俣城築城
1566年、織田信長は、美濃攻めの拠点として敵地の墨俣に城を築こうとしましたが・・・敵軍の妨害に遭いことごとく失敗・・・。
そこで名乗りを上げたのが、更なる出世を目指す秀吉です。

「敵が妨害するよりも早く城を築いてしまえばよい」by秀吉

そう考えた秀吉は、墨俣周辺の水上運送を牛耳る怒号の蜂須賀小六に協力を依頼。
事前に作っておいた築城用の木組みを水上で墨俣まで運んでもらいそれを組み立てようと考えます。
しかし・・・かなりの危険を伴う策だったため、蜂須賀は人たらしの秀吉が演説を駆使して頼み込んでも頑として拒否!!
すると、それまでじっと黙っていた秀長が・・・

「私如きが申すのはおこがましいことなれど、此度兄者は墨俣築城がならなければ自身の命をないものと覚悟でお頼み申しております」by秀長

と控えめながらも力のこもった誠実な言葉で蜂須賀に協力を乞いました。
その結果・・・

「墨俣のこと、お引き受けいたす」by小六

蜂須賀小六は、言葉巧みな秀吉よりも、真面目、真摯な言葉で話す秀長の人柄に惹かれたのです。
こうして、蜂須賀の協力を得た秀吉は、一説に一夜城と言われるほど短い期間で墨俣城を築城!!
信長から称賛されたといいます。
それ以降、蜂須賀小六は、秀吉の重臣として多くの武功をあげています。
この小六を味方につけた秀長の功績は、大きかったのです。

秀長の名サポート②金ヶ崎の退き口
1570年4月・・・信長率いる織田軍は、朝倉義景を撃つべく越前に進軍!!
朝倉方の金ヶ崎城を攻め落としたのですが・・・
その直後、同盟を結んでいた北近江の浅井長政が朝倉方に寝返り、信長方に牙をむいたのです。
突然の裏切りに退却を余儀なくされた信長・・・
ここで、退却する織田軍の殿を買って出たのが秀吉でした。
世に言う”金ヶ崎の退き口”です。
秀吉の武功の一つとして知られています。
その殿の最後尾・・・殿の殿を務めたのが秀長でした。
殿は、敵の追撃を食い止め、味方を無事に退却させるという戦において、もっとも危険な難しい任務でした。
生還できる可能性は非常に低く、その最後尾ともなれば生きては帰れません・・・。
この時、秀吉は秀長にこう命じました。

「上様が駆け出されたのち、二刻(4時間)ばかり持ちこたえればよい
 無駄な戦いはしたらあかん!!
 もうよいと思ったら、兵を引き、ワシの陣に追いつけ」by秀吉

秀長はこの言葉通り、浅井・朝倉軍の追撃を食い止め、信長が安全圏に撤退するまで持ちこたえます。
そして、自らも秀吉に追いつき、無事に生還を果たしました。
最大の危機を逃れた信長は、秀吉に金30枚を与えたといいます。

1573年、羽柴秀吉37歳、弟・秀長34歳の時・・・
天下取りに邁進する織田信長が、朝倉義景、浅井長政を討ち取ります。
これに貢献いた秀吉は、褒美として浅井氏の旧領である北近江を与えられ、12万石の大名となります。
そして、翌年・・・琵琶湖の東岸に、自らの居城となる長浜城を築きます。

この頃、信長の命令で各地を飛び回っていた秀吉・・・長浜城を留守にすることが多かったのです。
その際、秀吉の代わりに城を守り、政務を行ったのが秀長でした。
秀吉は、秀長を分身のように考えていました。
秀長自身も、秀吉から8500石を受領、自分の家臣団を持つようになります。
その一人が、後に江戸城大改築に関わる築城の名手・藤堂高虎です。
近江出身だった貧乏浪人だった藤堂高虎は、生涯で7度も主君を変えています。
どれも長続きしませんでしたが、秀長のことは慕っていて、秀長が亡くなるまで約15年間仕え続けました。

秀吉の代役が務めるほど有能で、家臣からも慕われていた秀長・・・しかし、時代は戦国。
兄弟は時に最大のライバルにもなり得ます。
秀長は兄にとって代わろうとは考えなかったのでしょうか?
秀長は、秀吉の補佐役こそが自分の使命と撃考えていました。
武功夜話にも、”秀長は数々の武功をあげても決して驕ることなく、秀吉を助けることに専念していた”と書かれています。
秀吉の影と思い、自分の功績などは敢えて残さないようにしていました。
だからこそ、一級資料が少ないのです。

秀吉は、竹中半兵衛と並ぶ名軍師の黒田官兵衛を味方につける際に、「そなたを弟同然に信頼している」と書状を送っています。
秀長に全幅の信頼を置き、それは周知の事実でした。
秀長は最高の腹心だったのです。



1577年夏・・・信長は、北陸方面に進出してきた上杉謙信を抑えるため、重臣の柴田勝家や秀吉を加賀に派遣しました。
しかし、作戦をめぐって2人が対立!!
当面の衝突は避けるべきだという秀吉と、即時決戦の勝家は「臆したか!!」とののしります。
怒った秀吉は、信長に無断で兵を撤退してしまいました。
戦線離脱は重大違反・・・激怒した信長は、秀吉に長浜城での蟄居を命じます。
すぐに秀長ら5人の側近を伴い信長のもとへ謝罪に向かいました。
秀吉が信長と対面している間・・・秀長たちは控えの間で待機。
上様の気分次第では自分たちの命も危うい・・・と皆不安と緊張の中、浅野長政は3度も厠へ・・・
蜂須賀小六に至っては
「おのおの方覚悟めされよ もはやただではこの城を出られまい
 万が一討ち手が迫ってきたら、それがしは斬り死を覚悟しておる」
とふところのあいくちを握りしめ殺気立っていました。
他の面々も血を登らせたとの時・・・!!

ひとり涼しい顔をしていた秀長が、扇子を扇ぎ一同に風を送りました。
そよ風に頬を撫でられた面々は、我に返り、張りつめていた空気も一転!!
落ち着き払った秀長に習い、みな、心静かに秀吉の帰りを待つようになったといいます。
最終的に信長の怒りはとけ、秀吉と共に無事に変えることができました。
どんな時も冷静沈着、どっしりと構えているのが秀長の魅力でした。

秀長の名サポート③中国攻め

1577年秋・・・信長から毛利氏の支配する中国地方の攻略を任された秀吉は、その拠点となる播磨・姫路城に入ります。
そこで秀長は、こんな進言をしました。

「兄者・・・まずは但馬を攻略し、生野銀山を手に入れるべきと存じます」by秀長

但馬国にある生野銀山は、平安時代から銀が掘られていたという日本有数の銀山です。
当時、銀は通貨として用いられるなど非常に重宝されていたため、ここを手に入れれば戦いを有利に進められると考えたのです。
秀長は、戦における経済力の重要さをよく知っていました。
また、銭の使いどころもよくわかっていました。
秀吉の許しを得た秀長は、但馬に攻め込み、生野銀山を管理していた太田垣氏の居城・竹田城を落として大量の銀を手に入れました。

さらに、手に入れた銀の使い方は・・・??
中国攻めを進める中、丹波の平定に取っかった秀長は、地元農民たちの一揆を制圧すると、降伏した農民たちに生野銀山で採掘した銀の粒を与えました。

「今後は、乱暴狼藉を働くでない」by秀長

と言い聞かせたのです。

農民たちは大感激!!
秀忠に加勢したいという者もあらわれ、気が付けば秀長軍は5000人余りに膨れ上がっていたといいます。
無駄な殺生を嫌う秀長・・・農民だったので、その苦労も銭のありがたさも身をもって知っていました。

秀長の名サポート④賤ケ岳の戦い

1582年6月2日未明・・・明智光秀の謀反にとって、京都本能寺で織田信長が命を落とします。
その25日後には、信長の後継者を決める会議が尾張の清州城で開かれました。
そこで、信長の三男・信孝を推す柴田利家と、信長の嫡孫・三法師を推す秀吉と対立!!
そして、翌年3月・・・余呉湖を挟んで両軍が対峙しました。
賤ケ岳の戦いです。
しばらくはにらみ合いが続きましたが、勝家と手を組む信孝が美濃で挙兵したことで秀吉がその征圧のために半数を率いて美濃に向かうと、柴田軍が動きました。
先鋒を務めていた作間盛政が羽柴軍の最前線・大岩山砦を守る中川清秀を襲撃。
この時、賤ケ岳に残った軍勢の指揮を執っていたのが秀長でした。
心優しい秀長のこと・・・すぐに救援に向かった・・・??
なんと、非常にも中川を見殺しにしたのです。
どうしてでしょうか??
これは秀吉に勝利をもたらすための策略、戦略でした。
この時、大岩山砦を落として気をよくした佐久間盛政は、秀吉陣営の奥深くまで侵攻してきたことになります。
これこそが、秀長の狙いでした。
中川清秀を見殺しにすることで、佐久間盛政を自陣深くまで誘い込み、一気に叩こうと考えていました。

戦況を知らされた秀吉が美濃から急遽帰還します。
秀吉陣営の中に取り残された佐久間軍を撃退し、その勢いで勝家率いる本隊も襲撃。
敗走する勝家を猛追し、北庄城で自害に追い込みます。
秀吉は勝家に勝利したことで、信長の後継者の座を確立し、天下統一に向けて進むことができました。

秀吉の方は、味方を見殺しにしたことで秀長を激しく叱責しています。
味方を見殺しにすれば叱責されるのは当たり前で、それは秀長もわかっていました。
それ以上に秀長は兄のためにあえて汚れ役を務め、非情な決断をしたのです。

秀長の名サポート⑤四国平定
柴田勝家を破り、名実ともに織田信長の後継者となった秀吉と、その秀吉を天下人にするべく力を尽くす弟・秀長・・・
1585年6月には、病に臥せっていた秀吉に代わり、秀長が四国攻めの総指揮官に就任。
四国を支配する長宗我部元親を討つべく10万の兵を率いて阿波・讃岐・伊予の三方から攻め入ります。
ところが、長曾我部軍の抵抗は思いのほか激しく大苦戦・・・
すると、大坂城で静養していた秀吉が、
「生ぬるいわ!わしが出陣する!!」

これを戦場で伝え聞いた秀長は、急ぎ書状を認め、秀吉にこう訴えます。

「期待を裏切ることはないゆえ、任せていただきたい」by秀長

秀吉は大した家臣を持っていないという噂が流れ、秀吉の器量が疑われるのを避けたかったのです。

兄秀吉の出陣をとどめた秀長は、決死の覚悟で奮戦・・・
その結果、わずか50日余りで長曾我部を降伏させ、四国平定という難事業を成し遂げたのです。

この功績によって秀長は、それまでに受領していた和泉、紀伊に加えて大和を与えられ、100万石越えの大大名となるのです。



秀長の名サポート⑥大和国の統治

この時46歳、大和郡山城を居城とし、大和の領国経営に取り掛かります。
現在の奈良県は、かつての大和国・・・神国と呼ばれるほど寺社勢力が強い地域でした。
東大寺、興福寺などのたくさんの寺社が勢力を誇っていました。
これらの多くは僧兵を持ち、その武力を背景に、単なる宗教組織ではなく大きな政治的発言力を持っていました。
秀吉の意のままにならない地域だったのです。
天下統一の障壁となるので、最も信頼する秀長を送り込んで、刷新しようとしたのです。

早速秀長は、寺社勢力の弱体化に取り掛かります。
その一つが検地でした。
それまでの検地は、自己申告制だったため、多くの寺社が虚偽の申告をして不当な利益を得ていました。
中でも興福寺は、不正を厳しく糾弾され、領地を1/5にまで減らされました。
さらに秀長は、多くの僧兵を抱えていた多武峰の寺院に全ての武器武具を差し出すように命じます。
その軍事力を削ぎます。
秀吉のせいさっくとして知られるものに、刀狩りがありますが、この秀長の政策が原型ともいわれています。
既得権益を次々と奪われた寺社側には反発心が芽生えましたが・・・
秀長は、社殿の造営や寄進などの懐柔策を織り交ぜることで、不満を抑え、秀吉の天下統一の障壁となっていた大和国を刷新します。

秀長は、寺社勢力の弱体化と並行して、大和郡山城の整備にも着手していきます。
同業者を集めた13の町・・・箱本を作り、営業上の独占権や税金の免除を許して、商工業を活性化。
また、箱本に城下町の治安維持や消火活動、課税や訴訟などを月替わりで担当させました。
住民自治の制度です。

秀長のサポート⑦九州平定

1585年7月、羽柴秀吉は関白に就任・・・翌年には正親町天皇から豊臣姓を下賜されます。
聚楽第を京都に造営しました。
秀長も、参議・正三位に昇進、農民出身だったと言われる二人が天下に手が届くところまで上り詰めました。
そんな中、豊後の大友宗麟が、薩摩の島津義久に攻め込まれたことで、上洛して秀吉に救援を願い出ます。
すると、大坂城で秀吉の代わりに大友と対面した秀長は、

「内々のことは千利休が、公儀のことは私が取り計らうので心配なされるな」by秀長

これは、豊臣政権における大名統制の権限を秀長が持っていたということです。
実際、この頃の秀長は、外交のほとんどを任されていて、諸大名からの信頼も厚かったのです。
そして内々のことは千利休が・・・というように、豊臣政権の内政を任されていたのが、秀吉の筆頭茶頭を務めていた千利休でした。
当時、茶の湯は選ばれた者だけが行うことを許された政治的権力の象徴でした。
その頂点に立つ利休は、絶大な権力と発言力を持ち、豊臣家の内政顧問のような存在となっていました。
利休にとって秀長は、共に豊臣政権を支える良き理解者でした。
そして、時には秀吉との間を取り持ってくれる大事な存在だったのです。

1587年2月、秀長は、島津義久を撃つべく出陣!!
翌月には秀吉も九州に入り、総勢18万の大軍になると、秀長は九州の東沿岸から、秀吉は西沿岸から薩摩に向けて出陣します。
挟み撃ちにされた島津義久は降伏・・・
九州はh知恵由の手に落ち、また一歩天下統一に近づいたのです。

そしてこの年の8月、秀長は従二位・大納言に昇進・・・大和大納言と呼ばれるようになりました。

1590年3月、天下統一に王手をかけた秀吉は、最後の難敵・関東の覇者・北条氏を討つべく、京都・聚楽第から小田原に向けて出陣!!
秀吉の命を受けた諸大名たちも、小田原に駆けつけ、総勢20万以上に及んだと言われています。
しかし、そこに秀長の姿はありませんでした。
この少し前から病に臥せっていたのです。
一説に結核だったと言われる秀長の病状は重く、心配した秀吉は小田原攻めに向かう途中に立ち寄ったと言われています。
また、興福寺や春日大社に大量の金品を寄進して、回復を祈願させるなど、弟のために手をつくします。
秀長の回復を願って多くの人々が祈祷し、見舞いの品が数多く届けられました。

そんな中、秀吉は小田原城を攻め落とし、北条氏に勝利。
遂に天下統一を成し遂げます。
それを伝え聞いた秀長は、家臣にこう告げていました。

「わが命ある限り、兄者の天下のことに尽くしたいがどうにもならず」by秀長

秀長は死期を悟っていました。
そして半年後・・・秀長は、兄を支え続けた激動の生涯に幕を下ろしました。
52歳でした。
秀長が亡くなったとき、大和郡山城には金子5万6000枚以上、銀子二間四方の部屋2棟にぎっしりと積み重なっていました。
秀長は、終生贅沢を好まなかったと言われ、豊臣政権安定のために蓄財していたのです。



最後まで兄・秀吉、豊臣家のことを案じていた秀長・・・
しかし、その思いとは裏腹に、秀長の死の直後から秀吉が暴走を始めてしまいます。
秀長の死の翌月、秀吉は千利休に切腹を命じます。
その理由は
①千利休が茶器の売買で私利をむさぼっていた
②大徳寺の山門の上に利休の木像を置いたことが身分不相応
ともいわれていますが・・・
まさに、秀吉の暴走で、豊臣家にとっては痛恨の極みでした。

翌年には、秀長が暴挙であると強く反対していた朝鮮出兵を断行、2度にわたった出兵は、どちらも失敗に終わり、豊臣政権に甚大なダメージを与えました。
さらに、秀長の死の4年後・・・
1595年に、秀吉は、関白の座を譲っていた甥の秀次に謀反の疑いをかけて切腹に追い込みます。
そして、その妻子や側近たち30余人も処刑しました。
淀の方との間に実施の秀頼が生まれたことで、養子の秀次が邪魔になったともいわれていますが・・・
秀吉の苛烈な処断に不満を抱いたものは少なくなく、豊臣政権を大きく傾かせる要因となりました。

秀長は、秀吉のナビゲーター役でした。
ナビゲーターがいなくなったことで、秀吉が暴走を始めたのです。
秀長が生きていたら・・・利休や秀次が切腹させられることがなかった・・・
朝鮮出兵も止めていたのでは・・・??

群雄割拠の戦国の世において、秀吉が天下人No,1になれたのは、光あたらずとも実直に働き秀吉を陰で支え続けた秀長の存在があったればこそでした。
秀吉亡き後、豊臣家を滅ぼした徳川家康が天下を取ります。
その家康も、秀長には一目置いていたと言われています。
秀長がもっと長生きしていたら・・・秀吉の暴走を止め、豊臣政権も崩壊させず、家康に天下を奪われえることもなかったかもしれません。
不世出の補佐役だった秀長は、まさに戦国最強のNo,2・・・影の太閤と呼ばれるのにふさわしい武将でした。

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「私、信長様の忍びになります!!」本格戦国ギャグアニメ!はじまりはじまり~
原作は、重野なおきさんによる4コマ漫画です。

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ということで、先日から夜中にやっていたアニメです。
どんなものか全くわからず、それでも面白ければ・・・と思ってみました。
久し振りの私にとっての初めて見るアニメ作品です。
さて・・・どんなのでしょう?

1555年──世はまさに戦国の時代!!ひとりの青年がでっかい夢を抱いていた。
うつけと呼ばれる彼こそ後の…、そう、織田信長である。
そんな青年を慕う少女がひとり・・・名は千鳥。
信長の夢に魅せられた彼女は笑顔で言った。
 「私、信長様の忍びになります!!」目指すはひとつ、天下布武のみ!! 
ど天然帰蝶、パシリ秀吉、ツンデレねね、ツッコミ光秀、死にかけ半兵衛、脇を彩る豪華キャラと共に、本格戦国ギャグアニメ、はじまりはじまり~!!

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ということで、このお茶目で可愛い忍び・千鳥が主人公です。
で・・・殿がこちら。

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もちろん信長様です。

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他のキャラクターはこんな感じで、簡単なキャラに見えますが、一度見ると納得の「そんな顔かもなあ・・・」と思えるキャラクターデザインになっています。

本格戦国ギャグアニメと銘打っているのも納得です。
キャラクターの顔が私たちの思う顔と結構リンクしているし、その性格もきっとこんな風だろうなあ・・・って思える性格になっています。
いい声優さんも沢山出ていますしね。

で・・・この作品を見て思ったのですが・・・
5分のギャグアニメ・・・それでも、その世界観は戦国だし、そのキャラクターの思想はかっこよく書かれています。
そうであってほしいと見る側が思うように書かれています。
そう・・・5分のアニメであっても・・・。
次のシリーズが4月10日からBSフジでやってくれるそうです。
とっても楽しみ!!

だからこそ、大河ドラマには見る側の夢を壊してほしくないんだよ~~~!!って思ってしまいました
ああ・・・西郷どん・・・どうにかしてくれ~~~

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羨望術数渦巻く戦国時代、大きな野望を抱き、下剋上という荒波を乗り越え、遂には天下統一を成し遂げた男・豊臣秀吉。
そんな秀吉には二人の軍師がいました。
一人は、若き日の秀吉を支えた竹中半兵衛。
織田信長が認め、家臣にしたがったほどの逸材!!
もう一人は、その半兵衛の後を継ぎ、秀吉を天下人へと導いた黒田官兵衛です。
天下無双の戦術と巧みな交渉術で次々と敵を落としていきます。
清算帽として名を馳せた半兵衛と官兵衛。
二人の天才軍師・・・最強なのはどちらでしょうか?

美濃国・斎藤家に仕えた竹中半兵衛は、1544年に生まれ、細身で色白女性のような面立ちでした。
性格も温和で女性のようでした。
しかし、軍師・半兵衛は、「敵を制すること神の如し」と、軍師・諸葛孔明に例えられ、”今孔明”と呼ばれていました。
黒田官兵衛は・・・半兵衛よりも年下の1546年生まれ、姫路出身です。
軍師としては、戦国一の切れ者と言われました。

①戦術
竹中半兵衛は、豊臣秀吉に仕える前は、美濃国・斎藤龍興の家臣でした。
龍興に対し、クーデターを起こします。
難攻不落の稲葉山城をわずか17人で、1日で落としてしまいました。
1564年稲葉山城占拠事件です。
半兵衛はどうやって難攻不落の城を落としたのでしょうか?
まず、稲葉山城に詰めていた弟・久作に仮病をさせ、その見舞いの為と見せかけて城に向かいます。
酒と御馳走と偽って、長持ちの中にびっしりと武具を詰め込んで!!
一行は、武具を身に着けるや否や、一気に奇襲!!
龍興の側近ら6人を殺害します。
半兵衛の奇襲に龍興は動揺し、家臣らと共に城から飛び出していきました。
どうして半兵衛はクーデターを起こしたのでしょうか?
斎藤龍興は、政務に関心を示さなかった上に、遊興に溺れていました。
この悪政を見かねてのクーデターだったのです。
電光石火のクーデター・・・半兵衛21歳でした。
これに織田信長が驚きます。
自分が長年攻めあぐねていた稲葉山城をわずか17人で・・・しかも1日で落としてしまった・・・。

「稲葉山城を明け渡すならば、美濃国を半分与えよう」by信長

しかし、半兵衛はこれを拒絶し、半年後、反省した主君・龍興に城を返すのです。

この一件で、半兵衛に惚れこんだ信長は、木下藤吉郎をつかって落とそうとします。
渋る半兵衛のもとに足しげく通う藤吉郎。
どうやって口説き落としたのでしょうか?
と、これは、三国志演義を元にしたお話。。。
信長が美濃・斎藤家を滅ぼした後、斎藤家の家臣を自らの家臣団に迎えています。
この中に一緒に家臣となって、秀吉の与力となっています。
与力とは・・・身分は信長の家臣で、軍事行動の際には、秀吉の一員として戦ったのです。

信長が、天下統一を目指す中、同盟を結んでいた北近江の戦国大名・浅井久政、長政親子が反旗を翻します。
起こった信長は、小谷城を攻撃!!
半兵衛は、秀吉と共に小谷城近くの横山城へ!!
浅井は横山城攻略のために・・・
あたかも別の場所に向かうふりをして横山城を通過、これにつられて出てきたところを迎え討とうというのです。
秀吉は、この策にまんまと引っかかり出撃命令を出してしまいますが・・・
半兵衛はこれを見ぬいていました。
出撃を思いとどまらせ、近くの山中に速やかに兵を配置!!
なかなか兵を出さない秀吉軍に業を煮やした浅井軍は、横山城に接近!!
半兵衛はこれを不意打ちして撃退したのです。
半兵衛のするどい洞察力と起点に救われた秀吉でした。

浅井攻めも大詰め・・・小谷城に・・・!!

「城内にいる御位置を救出せよ!!」by信長

信長の妹であり、浅井長政の正室・お市とその子供たちを救出せよという難題でした。
小谷城は、急峻な山城で、攻め落とすだけでも困難・・・その上、救出とは!!
仮に攻め落とすことができたとしても、お市も自害してしまうかもしれない!!
半兵衛は、情報収集に走ります。
反信長は、父・浅井久政で、長政は仕方がなかったという。
長政とお市は織田に城本丸に、父・久政は小丸に・・・と、離れていました。

そこで半兵衛は、本丸と小丸の間にある京極丸を占拠!!
父・久政を攻撃し、長政のもとへ使いをだしお市を説得!!
追い込まれた浅井親子は自害するものの・・・お市と三人の娘は助け出されました。
情勢を把握し、知略を尽くした半兵衛の見事な戦略でした。


黒田官兵衛は、播磨の小寺政職の家臣でした。
1575年、着々と勢力を伸ばしている織田に付くか、西の大勢力毛利輝元に着くべきか??判断に迫られていました。
割れる意見・・・
小寺家の重臣は、今までのことを考えて毛利に付こうという考えの者が多かった中、官兵衛は・・・
「輝元は凡庸な男、一方信長は向かうところ敵なしで、武名を天下にとどろかせている!!」と、重臣たちを説き伏せました。
播磨が信長に味方することを使者として伝えに行く官兵衛。
秀吉に信長へのとりなしを頼みます。
これが二人の初対面でした。
そして、二人は、毛利の中国地方に攻め入ることになります。

城攻めを得意とした官兵衛。
❶1577年福原城攻め・・・囲師必闕
この時福原城には、毛利方1000の兵が!!
これを知った半兵衛は、三方に兵を置き、一方を空けておきました。
どうして一辺を空けておいたのでしょうか?
「孫氏」の戦術・囲師必闕で、四方を囲むと置き込まれた敵が、予期せぬ力を発揮することがある・・・
死に物狂いでかかってくることを生じさせないために、逃げ道を作っておいたのです。
その逃げ道に密かに兵を置いた官兵衛は、城から逃げてくる敵を一網打尽にしました。
リスクを避けて効率よく相手にダメージを負わせる・・・。
合理的な戦術です。

❷1581年鳥取城攻め・・・渇え殺し
毛利に組した山名豊国の重臣と、毛利からの援軍・吉川経家合わせて2000の兵が鳥取城に籠城!!
経家は兵糧の確保に走りますが、一向に手に入らず苦境に・・・
事前に官兵衛は手を打っていました。
1年前の秋口に、官兵衛が派遣した商人が通常の倍の値段でコメを買い占めていたのです。
農民たちは、鳥取城に治めるはずの備蓄米まで売り払ってしまい・・・城下の米の殆どを手にした官兵衛。。。
そして・・・①城下の村々を焼き払い
      ②領民を鳥取城に逃げ込ませます。
      ③2000人ほどだった城内は倍に!!食料は瞬く間になくなり、多くの人が餓死していきました。
非情な渇え殺し!!
たまらず吉川経家は、鳥取城を明け渡したのでした。

❸1582年備中高松城攻め・・・水攻め
この時、秀吉軍は攻めあぐねていました。
高松城は、湿地帯の中にあり、容易に近づけなかったからです。
大軍では近づけない・・・。
官兵衛が選んだのは水攻めでした。
湿地帯の南側に3キロ(高さ8m・奥行24m)に及ぶ堤防を築きます。
土嚢一つを100文(5000円)で買い取ると農民たちに呼びかけて・・・
数百万個の土嚢が集まって、2週間ほどで完成!!
次に官兵衛は、西にある足守川を堰き止めます。その方法は・・・大量に石を積んだ船を空きなく並べ、一気に船底に穴をあけて沈めました。
梅雨の時期だったこともあって、湿地帯の水位は瞬く間に上昇!!
城主・清水宗治は観念して自害!!
毛利と秀吉との間で講和が結ばれることに・・・!!
官兵衛の場合、極力味方にダメージを与えないような合理的な戦術です。


②交渉術

戦は、必ずしも力のある者が勝つとは限りません。
天候、運、不運・・・も関係している??
戦国時代前期までは、占い、呪術を使う軍師が活躍していました。
戦いによい日時を占ったり、勝利を願う儀式を執り行いました。
しかし、後期になると、兵法に長け、策略や外交交渉もこなせる策士タイプが求められるように!!
豊臣秀吉を支えた竹中半兵衛と黒田官兵衛もこのタイプでした。

半兵衛がその力を発揮したのは、浅井の小谷城攻め!!
信長と秀吉は半兵衛を使って浅井家家臣の寝返り工作を進めさせます。
半兵衛の場合、浅井家にも仕えていたのでは??と言われています。
浅井の家臣・堀秀村、宮部継潤など浅井の家臣を寝返らせています。
戦わずして勝つことを理想とした半兵衛は、事前に敵との交渉し、できるだけ戦を避ける戦術をとったと言われています。
外交交渉だけでなく・・・半兵衛のことを快く思わない秀吉の家臣たちとも交渉を・・・
相手を褒めちぎり、褒めた後にアドバイス!!
秀吉の名前を上手く使いました。


官兵衛の交渉術は・・・
1590年小田原城攻めでは・・・
長期に渡り籠城していた北条氏政、氏直親子を、説得し無血開城していますが・・・。
その交渉術は大胆なものでした。
秀吉軍は小田原城を完全に包囲したものの、なかなか落とせずにいました。
そこで、交渉役として官兵衛を遣わします。
城の中の北条方に、酒・二樽、魚・十尾を差し入れます。
北条家はプライドも高いので、礼を尽くし懐柔しようとしました。
その返礼として鉛玉と火薬が出されました。
この意味は・・・北条の降参ととり、交渉に臨んでいます。
礼装に身を包むと、台頭せずに丸腰で、単身で小田原城に乗り込む官兵衛。
礼を尽くし、説得に当たった官兵衛に対し、北条親子は城を明け渡すことを承諾します。
この官兵衛の働きによって天下人となった秀吉です。


③人間力
二人が秀吉の下で一緒に働いたのは4年間ほどでした。
その頃の二人のエピソードから人間力を推察すると・・・??

官兵衛が秀吉について間もない頃、毛利方の大名を次々と織田方に寝返らせたことで、秀吉から感謝状を受け取り有頂天に!!
得意げに半兵衛に見せると・・・その書状を破り捨てた半兵衛は・・・
「こんなものを残しておいても、そなたの物にはならぬ!!」過去の栄光に縋りつくことを戒めた半兵衛は、手柄をひけらかすことを良しとしない愚直な男でした。

1578年織田信長に仕えていた荒木村重が裏切って毛利についたとき・・・
官兵衛は信長から村重を説得してくるように命じられ、意気揚々と有岡城に入りますが・・・
そこで囚われの身となってしまいます。
いつまでたっても戻ってこない官兵衛に、「村重に続き、官兵衛も裏切ったか!!」と思い込んだ信長は、人質に取っていた息子・松寿丸を殺すように秀吉に命じます。
これに断固反対したのが半兵衛でした。

「人質を殺せば、官兵衛は深く恨み、敵となるでしょう。
 そうなれば、大きな損失となります。」by半兵衛

しかし、この信長の直談判は聞き入れられません。
そこで半兵衛は松寿丸を、美濃国にあった自分の屋敷に匿ったのです。
バレれば自分の命も危ういというのに・・・。
しかし、半兵衛は、官兵衛を信じていました。
出会って数年のふたり・・・半兵衛は、軍師としての官兵衛を高く評価しており、自分が死んだ後、秀吉を支えるのは官兵衛だと思っていました。

1年後、救出された官兵衛は、家臣から半兵衛が息子を匿ってくれていたことを聞くと、半兵衛の懐の大きさに改めて感服し、自分を信じてくれたことに深く感謝しました。


④危機管理能力

乱世の世、危険だらけ??
半兵衛は、高価な馬には乗りませんでした。
それは、いつでも捨てて逃げられるように!!

官兵衛は、??
1582年毛利方の備中高松城を落とした秀吉は、毛利との講和条約を結ぼうとしていました。
が・・・衝撃の知らせが!!
本能寺で信長が光秀に討たれたのです。
焦る官兵衛!!
そもそも、毛利が交渉に応じるのは、急速に勢力を拡大している信長に脅威を感じていたから・・・。
しかも、秀吉軍は、信長軍に加勢すべく集まっていた播磨・備中の諸大名の混成部隊!!
信長が死んだと聞けば、秀吉軍は瓦解する可能性があり、毛利から反撃を受けた場合どうなるか・・・大ピンチでした。
おまけに秀吉は、主君・信長の死で冷静な判断ができない状況でした。
官兵衛はどうしたのか??
秀吉の耳元で・・・
「今こそ、貴殿が天下人となる好機ですぞ!!」by官兵衛

この言葉で我に返った秀吉は、官兵衛にすぐさま毛利との講和条約を結ばせ、明智光秀を討つべく、岡山から猛スピードで200キロを進軍!!
光秀がいた京都・山崎に僅か1週間で到着します。
中国大返しです。
この中国大返しを成し得た裏で、官兵衛が動いていました。

「本能寺で無念の死を迎えた信長公の仇を、秀吉さまが討てば、秀吉さまが天下人となる。
 此度手柄を立てた足軽は侍大将に、侍大将は大名になれるであろう。」by官兵衛

出世欲を刺激された兵たちは走りに走ります。
こうして、空前絶後の大移動が完成したのです。
本能寺の変の時点で、信長の部下がどこにいるのか?それを官兵衛は把握していました。
なので、一早く、秀吉に光秀を撃たせるために!!
信長の死を、秀吉のチャンスに変えたのです。
これがなければ、秀吉は天下をとれなかったかもしれません。


⑤秀吉からの信頼度
軍師・竹中半兵衛最後の戦いは、1578年播磨三木城主・別所長治の三木城攻めでした。
兵糧攻めに出るも、粘る別所軍に思わぬ持久戦に・・・。
長く陣を張り、待つ中で、半兵衛は病に倒れてしまいました。
京都に戻って養生するも、一向に回復せず・・・。
死を悟った半兵衛は・・・
「どうせ死ぬのであれば、戦場で死にたい・・・」
望み通り、戦場に戻ると36歳の若さで亡くなりました。
秀吉はその亡骸に縋りついて泣き崩れたといいます。
病弱だった半兵衛は、私利私欲のない男でした。
いかに敵を攻略するかだけを求めた、生粋の軍師でした。
なので、野心のない半兵衛は、秀吉にとって信頼できる数少ない家臣でした。


中国大返しの後、官兵衛は四国征伐、九州征伐で武功をあげ、秀吉の天下統一に大きく貢献していきます。
しかし、秀吉から与えられたのは・・・豊前12万石の小国でした。
どうして官兵衛の印象は少なかったのでしょうか?

酒の席で・・・
「わしが死んだなら、誰が天下をとると思うか?」by秀吉
家臣らは、徳川家康や前田利家など、有名武将の名をあげたといいます。
すると秀吉は・・・
「官兵衛こそが、天下を取るであろう!!」と言ったと言います。

数々の戦で絶妙の判断・・・多くの信頼を寄せていたものの、あまりの切れ者ぶりにいつしか恐れを抱くようになったのではないか??
天下人の座を官兵衛に奪われるのではないか??
これを伝え聞いた官兵衛は・・・
「某は、恐ろしい者と目されているようだ。」
自分がいると秀吉にお家を潰されてしまうかもしれない・・・と、44歳で隠居。
切れ者過ぎたことで、秀吉に疑念を抱かせてしまった官兵衛でした。

秀吉の軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛・・・どちらが最強でしょうか?
どちらか一人ではなく、二人いたからこそ、秀吉は天下をとれたのです。
 


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<戦国時代の天才軍師>秀吉を支えた二人 竹中半兵衛と黒田官兵衛 (歴史群像デジタルアーカイブス)

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感想(8件)



あ~~~、天下統一最後の敵・後北条もなんだかんだと小田原城を開城させられ・・・
戦乱の世が終わりを告げました。
こんなに早く終わったのは・・・これも官兵衛マジック??

北条氏政は、切腹を言い渡され・・・
その地へ先祖伝来の地・三河を守ってきた徳川が移封されることになるのでした。

そんな三河へやって来た官兵衛。。。

「このたびの関東への移封・・・徳川様には迷惑な話でございましょう。」

「殿下は今、お世継ぎのため、豊臣家の天下を盤石にせんとわき目もふらぬ有様・・・。」

「それが、天下のためになるのであればよろしいのですが。。。
 天下を私する為となれば、お諫めするのが某の役目。。。
 徳川様・・・このたびの国替え、天下のためになるかどうかは徳川様次第。。。」

「天下のため、関東で力を養っておくとしよう。。。
 黒田殿・・・殿下の手綱を頼みますぞ!!」

軍師とタヌキおやじの化かし合いを演じていました。


や~~~、こんなこと、言いに来てたのかどうか怪しいものです。
だいたい新幹線もなければ車もない・・・
徒歩と馬・・・そんな時代にこんなにあっちにこっちに殿が出張っていくのも不思議な感じがしますが。。。
とりあえずは、今後の伏線となっていると思っときます。

天下を統一し、明を征服するという野望を抱くようになった秀吉。。。
たぶんそこには、もう、日本には分け与える領地がない!!ということもあったと思います。
もしかすると、北条を切腹させ、領地を取り上げさせたものその考えがあったからかもしれませんね。

京・聚楽第では・・・
おねと官兵衛と一献・・・って、耳の痛いことを言われるみたい・・・

「天下統一・・・祝着至極に存じまする。。。」by官兵衛。

で・・・やんわりと明に出ていくのを止めようとしております。

「あまりに無謀!!」と。。。
淀殿にご執心のこと、鶴松のこと・・・いろいろ耳の痛いことを言うのも軍師の役目!!と。。。

kan1












そうかもしれないけれど、天下統一を果たしいい気分になっているときに、この言い方。。。
気持ちを逆なでさせるのは目に見えてますよ。。。

おまけに秀長の病状は悪化の一途を辿っているようで・・・利休と官兵衛に後を頼んでいます。
そうなんですよね。。。
何度も言うようですが、秀長がもっと長生きしてくれればね。。。

1590年11月・・・秀吉と朝鮮の使者との謁見が行われました。
取り計ったのは小西行長。
秀吉は、明征服に向けての第一歩のつもりでした。

あ・・・鶴松連れてきました。
この時点で朝鮮の使者は
おまけに鶴松はおもらしし・・・使者たちにはとっても失礼な秀吉・・・まさに、井の中の蛙。。。

しかし・・・朝鮮国は服属の意を表しにきたのではなく、”天下統一の祝いを述べるため”に来てもらえるように行長がお願いしたものでした。
って、これは本当なんだろうか??

ちなみにこの窓口となったのは、対馬の大名、宗義調・義智親子。
秀吉に、「李氏朝鮮の国王を上洛させろ。上洛が遅れた場合は直ちに討伐を開始する」
と脅しのようなことを言われてしまってアタフタ・・・
この親子がどちらにもいい顔をしようとしたためだと言われています。

これから先、小西行長、朝鮮出兵でいいとこなしになっていくのに・・・
このドラマではどうして取り立てられたのかも分かんないほど、武功のひとつもありません。。。

そんなこんなを利休と官兵衛に相談する行長。。。
「お助け下され・・・!!」と言われてもなぁ・・・
な、ふたりですが。。。どうする??官兵衛。。。

官兵衛の小言に飽き飽きしている秀吉。。。
お・・・利休もいるわ。

利休の出した茶碗に文句をいう秀吉。。。
その茶碗は、小田原攻めの際に、秀吉の怒りを買ってなぶり殺しにされた弟子・山上宗二のもの。。。
そして・・・その意図は・・・”殿下をお諫めするため”でした。

「明の征服など。。。無謀にござりまする。
 殿下、ご存知か?
 挑戦は殿下に従う気など毛頭ございませぬ。

 先だっての使者は、天下統一の祝いを述べに参っただけで、明への道案内などするはずがございませぬ。
 朝鮮に兵を送れば、その場で戦になるだけでございます。
 何卒、お考え直し下さい。。。
 戦乱の世は、100年余りも続き、皆、平穏を望んでおります。」by利休

そこまで言うか・・・利休。。。
これって、軍師・利休??

あ・・・三成・・・また、秀吉にいろいろ吹き込んでます。
今回は利休のこと。。。

そして遂に、「大徳寺山門の利休像」の話に。。。

1591年1月22日・・・
秀吉を支え続けて来ていた豊臣秀長がこの世を去りました。
秀吉を諌めることのできる人物だったのに・・・
そして、ここから歯車が崩れ始めます。

蟄居を言い渡される利休・・・。

kan5












「今までの傲慢さを改め、殿下に詫びるというのであれば、某が取り次ぎます」by三成。
この時利休は70歳??30歳そこそこの・・・若造にこんなことを言われて、どんな気分だったのでしょう??

この利休は、官兵衛は軍師なので、朝鮮出兵に必要な人物・・・なので、自分が命を懸けて諌める役を引き受けた・・・みたいになっていますが。。。

秀吉も百姓から成り上がったように、堺の商家(魚屋)に生まれた利休も、ある意味天下を取ったお人なので、傲慢になってもしかるべきって感じもします。
秀吉は、自分と同じにおいを感じていたのかもしれませんね。

そんな商家に生まれた利休が、見事に切腹をしたのもスゴイというか・・・ある意味武士道??いえいえ、茶道を貫いたってことになるんでしょうね。。。kan2













政所、官兵衛・・・ふたりの想いも虚しく・・・利休切腹。。。

2月28日・・・切腹を命じられた利休。。。
「茶の支度ができております。。。」

使者に茶を振る舞っての見事な切腹でした。

そんな利休をも晒し首にしようとは・・・やっぱり殿下は変わってしまったのでしょう。
賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたといいます。

利休の願いも虚しく・・・届きませんでした。

そんな横暴に災いか??
鶴松が病気に・・・。しかし、秀吉の願いも虚しく、鶴松は3歳でこの世を去ったのです。
あ~、この三成、何考えてんのか全く分らん。。。

で・・・秀吉崩壊・・・!!
そうですよね・・・わが子を亡くした気持ち・・・光は解るって言ってるけど、そんなの偽善者だと思う。。。
だって子供を亡くしたことがないんだから。。。
私はひねくれているのか、自分の経験していない辛いことを・・・そんなことを簡単に”わかる”と言ったり、台詞にするのは嫌い。。。

う~ん。。。秀吉が変わってしまったのは、鶴松が生まれたせい・・・で、一本化してしまってますが・・・
やっぱり傲慢になってもいいんじゃないかと思うんです。
誰もやったことのない天下統一を果たしたんだから。。。
やっぱりブレーンがしっかりしていなかったということが最大の弱点だったんですよね。
そう、秀長の死から利休の死まで1か月半・・・
まさに両腕をもがれてしまった秀吉なのです。。。

で・・・その目を朝鮮出兵へと移すのでした。。。
朝鮮をはじめ、家臣みんながとばっちり。
でも、信長も、天下統一を果たせば、海外へ進出していたと思われます。
このあと、伊達政宗も慶長遣欧使節をスペインに送っているしね。

会議にて・・・
官兵衛は肥前に城を作れと命令されます。
朝鮮出兵の用意が始まったのです。
ま・・・朝鮮出兵の準備は、九州遠征のときに始まっていますから、そんなに驚くことないんじゃないかと思います。

「無謀・・・無謀・・・!!無謀!!」by官兵衛

三成に船を作ることを命じる秀吉。。。
船と兵糧を用意させるのでした。
ま、これはとってもベストな選択です。
三成の物資調達能力は、ずば抜けたものがありました。
そう、朝鮮出兵後のみんなの褒美もろもろの時に、加藤清正や福島正則は戦っているので、武断派は武功を武器に文句を言いますが、その時の三成の物資調達にはすんごい苦労があったらしく・・・
清正、正則が戦えたのは、三成の物資があったからなので・・・
ここに豊臣政権のもう一つ大きなヒビが配流原因となってしまうのです。

kan3












怒りを何処に持っていっていいのか解らないほど怒り心頭・官兵衛です。


kan4










そんな朝鮮出兵に選んだ城・・・その場所は名護屋・・・!!
名護屋からは壱岐が見え・・・対馬・朝鮮へと繋がっていました。

「我らが支えねば・・・!!
 黒田が支えねば・・・!!この国が滅びてしまう・・・!!」

???

黒田の立ち位置って???

とも思えちゃうほどのこっちもある意味傲慢??

いよいよ朝鮮出兵に入ってきました。
軍師・官兵衛と言いながら、戦のシーンをことごとく避けてきた今回の大河ドラマ・・・。
なら、朝鮮出兵はどないすんねん??

期待しています。

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秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛。
はじめは美濃国の斉藤家に仕えていました。
1564年、半兵衛は突然、斎藤龍興の稲葉山城を占拠してしまいました。
理由は藩主が不甲斐なかったから???とも言われています。
目を覚ましてくれた藩主に、半年後城を返します。
その後、近江の浅井長政に仕えます。

1567年に信長が美濃を平定。
半兵衛は、信長の与力として羽柴秀吉に仕えるようになります。
秀吉の智将として各地を転戦し・・・しかし、播磨国・・・三木城攻囲の陣中で、病死してしまうのでした。

そんな半兵衛の晩年・・・
敵方の有岡城の牢に幽閉されてしまった黒田官兵衛。。。

信長は、官兵衛が寝返ったと疑い、官兵衛の嫡男で人質となっていた松寿丸を殺すように秀吉に命じました。
半兵衛はこの時、「官兵衛に二心なき」と、信じて密かに松寿丸を匿ったのでした。

後に官兵衛の疑いが晴れて釈放された時、信長は半兵衛の計らいによって問い違いを犯さずに済んだと深く感謝したそうです。

半兵衛が病没した時、息子の重門はわずか7歳。。。
重門は元服後、秀吉に仕えます。
1588年4月の聚楽行幸の際は、従五位下丹後守に叙任され、諸太夫に列せられました。

翌年美濃不破郡で5000石、さらに1594年には河内の大方郡・安宿郡で1000石加増され、6000石を知行しました。

文禄・慶長の役は、幼少のため参加が許されませんでしたが、関ヶ原の合戦でははじめ西軍に属していました。
しかし、岐阜城落城後、東軍に加わるように説得したのが黒田長政・・・かつて半兵衛に助けられた松寿丸だったのです。

重門は、合戦で西軍が敗北後、小西行長を捕え、その身柄を家康に引き渡した功により、竹中家は領地を安堵されました。

その後、子孫たちも徳川家の旗本として、明治維新まで存続しました。
そして、両家の信仰も、末永く続いたといいます。

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