日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:第2次世界大戦

1944年夏・・・大事件が起きます。
ワクチンを接種された400人近いインドネシアの労働者が命を落としたのです。
労働者の大量死・・・日本軍はインドネシアの研究者が毒を入れたとして逮捕、処刑!!
謀略事件として処理しました。
しかし戦後、冤罪ではないかと疑問の声が上がりました。
近年、研究者たちがこの事件の真相に迫ろうとしています。
日本軍が作った破傷風ワクチンの有効性を試すために、毒素のあるワクチンを労務者に接種してしまった・・・その結果、意図的ではなかったが、彼等は命を落とした??
戦場の感染症に向き合っていた日本軍・・・
ワクチン開発の舞台裏で何が起きていたのでしょうか??



太平洋戦争中、日本は石油資源の豊富なインドネシアを占領します。
オランダ軍を破り、3年にわたって軍政を敷きました。
1944年8月、ジャカルタの病院に、急患が次々と運び込まれました。
手当の甲斐なく、命を落としていきました。
治療に当たった日本人医師は、回想しています。

”口を固く食いしばり、背筋を弓のように張り、前震のけいれんを起こし、呼吸もできぬ悲惨な有様
 恐るべき破傷風であった”

破傷風は、土の中にいる破傷風菌が傷口から入り感染。
脳やせき髄の神経に作用して、筋肉のけいれんが起こり、死に至ることもあります。
患者は当時、ロームシャ・労務者と呼ばれたインドネシア人で、泰緬鉄道の建設のため村々から動員されていました。
ジャカルタ東部のクレンデル・・・労務者たちは、港に近い収容所に集められました。
ジャングルの工事現場に送られる前に、予防接種を受けていました。
コレラ・チフス・赤痢の三種混合ワクチン、接種された直後、破傷風の症状が現れました。
一体何が起きたのでしょうか?
当時、東京の大本営に現地の軍医部長から報告が送られていました。
4回にわたる極秘の報告です。
474人が罹患し、364人が命を落としています。
事件を捜査した憲兵隊は、予防接種に当たったインドネシアの看護人3人とスレイマン医師を逮捕しました。

その後、スレイマン医師の自供により、捜査の矛先は思わぬ方向に向かいます。
当時、ジャカルタで感染症の研究に当たっていたエイクマン研究所。
アフマッド・モホタル所長をはじめ、13人の現地の研究員が連行されました。
憲兵隊の激しい取り調べの末、モホタルが自供したというのです。

”細菌謀略を行い、日本軍の誤れる労務者対策を是正せん”

モホタルが日本軍の労務者動員に反対して、破傷風菌を混入したとされました。
1945年1月、軍律会議はモホタルに死刑、スレイマンに禁固7年の判決を下しました。
事件は細菌謀略として処理されたのです。
しかし・・・捜査の過程に疑問が残ります。
最初は事実関係を述べていて、相違はないと思われます。
しかし、誰が犯人かというあたりで作為が感じられます。
モホタルは、最後まで悪者でした。
モホタルは、オランダへの留学経験があり、当時インドネシアではもっとも著名な感染症の研究者でした。
モホタルが、大量殺人を・・・??

当時、エイクマン研究所は、そもそもワクチンを製造していませんでした。
問題のワクチンはどこで作られたのか??
パスツール研究所は、元々はオランダの植民地時代に設立され、バンドンで感染症の研究を進めていました。
1942年、それを日本軍が接収し、南方軍防疫給水部の支部となりました。
問題のワクチンは、モホタルが所長を務めていたエイクマン研究所ではなく、南方軍防疫給水支部で製造されていました。
しかし、憲兵隊は、エイクマン研究所に疑惑の目を向けました。
拷問が続く中、とらわれていたアリフ医師が命を落としました。
日本の記録では、心臓麻痺とされています。

”アリフ医師の遺体は大きく膨れ、臭気を放っていました
 許しがたい光景でした”



アリフ医師の死の直後、モホタルは自供を始めます。
そこには、どのような背景があったのでしょうか?

”逮捕の理由は、クレンデル収容所の労務者の死に関わることだとわかりました
 伯父が事件の首謀者だと責められている
 威厳があり、評価されていた伯父が、なぜインドネシアの労務者を殺すのでしょうか
 全く筋が通りません?
 モホタルは父に言いました
 「憲兵隊の狙いは私なんだよ
  心配するな、お前たちはもうすぐ釈放される」
 そしてそれは現実になりました。
 父は12月に、1月には全員が解放されました。
 伯父以外全員です。
 自分が自白すれば、全員が釈放されると・・・
 想像できますか?どんな人だったかを?
 私たちがどれほど怒り、憎んだかわかるでしょう”

結局、モホタルひとりだけが死刑となりました。
モホタルを断罪した日本軍には、政治的な意図があったのではないか??
大本営への報告では、モホタルは独立運動に関係しており、細菌謀略を以て原住民の半日反軍思想を醸成しようとしたとされていました。
独立運動の指導者モハメド・ハッタと同じ故郷でした。
スマトラのミナンカバウ族・・・民族運動のリーダーをたくさん輩出していました。
反日謀略のスケープゴートにするには一番都合が良かった。。。
最大の大物・・・反日的なミナンカバウ族の医者だったのです。

モホタルは、冤罪ではないのか??
戦後、遺族は疑問を投げかけてきました。
近年になって、現地に渡ったアメリカの感染症研究者・ケビンが、新たな光を当てようとしています。
2015年、インドネシアの研究者と共に、著書を出版します。

”日本軍占領下インドネシアにおける戦争犯罪”

この本では、モホタルが冤罪の可能性が高いとしています。

日本軍医たちが、意図的に労務者たちを殺したとは思えませんが、即席で作った破傷風ワクチンの有効性を証明しようとしたと考えられます。
日本軍兵士に接種する前に、試そうとしたのです。
そのワクチンが、労務者を殺すことになった・・・
日本軍が破傷風ワクチンの開発のため、労務者で実験をしたのではないか??
当時、日本軍は破傷風ワクチンの開発・製造を急いでいました。
南方の戦場で、破傷風は感染すると死に至る病と日本軍兵士から恐れられていました。
もともと破傷風の治療法は、日本の北里柴三郎博士によって発見されました。
破傷風の毒素を馬に注射して、抗体を得、それを患者に注射する血清療法です。
しかし、血清はすぐに患者に打たないと、効果がなく、大量生産や輸送も難しかったのです。



一方、アメリカ軍などの連合国軍は、太平洋戦争開戦前に破傷風ワクチンの開発に成功していました。
第2次世界大戦中、破傷風の感染はたった12件・・・
陸軍と海軍、そして公衆衛生局が協力して破傷風ワクチンを推奨しました。
ワクチン開発のために軍は民間の研究所と協力しました。
マラリアとの戦い同様に、協力体制を整えたのです。
アメリカは国が主導して、第2次世界大戦中に従軍したすべての兵士に破傷風のワクチンを接種していました。
連合国に追いつこうと、ワクチン開発を急いだ日本・・・
北里柴三郎ゆかりの北里研究所は、日本軍のワクチン開発には不備があったと指摘します。
ワクチンは疾病に対する武器です。
その認識が、陸軍の人たちにありましたが国として重要性を感じていませんでした。
一部の人が認識しているだけで、陸海軍と一緒になって軍全体でやろうという考えはなかったのです。

陸軍と海軍が別個に進めていた破傷風のワクチン開発・・・
海軍が開発を急ぐ中で人体実験を行っていた記録がありました。
日本のBC級戦犯の裁判記録・・・
1945年、インドネシアのスラバヤで、海軍の軍医が死刑囚に破傷風ワクチンを接種し、その効果を確かめようとしました。
その結果、15人が亡くなり、戦後戦争犯罪に問われました。
裁判で実験を担当した軍医将校は、次のように供述しています。

「連合国軍の上陸を前にワクチンの有効性を実証する必要があり、時間がありませんでした
 100%成功する自信を持っていたが、予想に反した結果になったのは実験の過程に原因があったからだと思います」

実験では、破傷風の毒素にホルマリンを加えて不活化。
トキソイドと呼ばれるワクチンを製造します。
このワクチンを、2回にわたって接種。
その後、毒素を注射し、免疫ができているかどうかを確かめます。
軍医と共に裁かれた法務官・・・海軍における法の番人として、当初実験には反対だったと供述していました。

「私は、囚人が処刑されるまで、決まった手順で収監されるべきであり、弁護士の立場から賛同することはできないといいました」

しかし、海軍の准尉から強く説得されたといいます。

「ワクチンの実験が必要との結論に至ったので、実現するために協力してほしい
 心配だろうが、専門家からの意見によれば動物実験でも成功しているので不幸な結果にはならないであろう」

結局、実験では19人中15人が死亡しました。
軍医は最後に接種した毒素の量が多すぎたことが原因だと認めました。
軍医は禁固4年、法務官は3年の判決を受けました。



破傷風の毒素を測定することは非常に難しく、本来はモルモットで試すべき実験です。
彼等は人間を動物として扱いました。
バンドンの日本陸軍も、労務者の存在を実験の機会だととらえたのでしょう。
クレンデルでも日本軍が労務者を使って破傷風ワクチンの効果を確かめようとしたのではないか??
労務者の大量死事件を大本営に伝えた報告書・・・
コレラ、赤痢、腸チフスのワクチンに、破傷風の不活化したワクチンを一緒に入れた・・・
入れた破傷風の毒素が完全に不活化されていなかったことが一番の大きな原因でした。

破傷風の毒素をホルマリンで不活化しワクチンを作った際に問題があったのではないか??
製造のミス・・・混合する前に不活化されているか、チェックする必要がありました。
そもそも日本陸軍は、破傷風ワクチンの開発をどのように進めてきたのでしょうか?

731部隊の破傷風の実験の記録・・・
731部隊でも、ワクチン研究は重要視されていました。
関東軍防疫給水部・・・731部隊。
石井四郎陸軍中将のもと、旧満州で細菌兵器の開発に携わっていました。
ワクチン開発も重要な任務でした。
破傷風ワクチン開発のために、人体実験を行っていたのです。
破傷風の毒素をマルタと呼ばれる中国人に接種し、筋肉の電位変化を測定した実験・・・14人全員が死亡しています。
こうした731部隊の研究は、南方軍防疫給水部に引き継がれたといいます。
731部隊の人脈が、南方軍防疫給水の創始者になっています。
大連にあった支部では、ワクチンの研究が盛んでした。
大連にいた人間が、バンドンの初代所長になっています。
太平洋戦争開戦と共に731部隊の多くのメンバーが、南方軍防疫給水部の設立に関わりました。
彼等はシンガポールやバンドンでワクチン開発を続けていました。
さらに、南方軍防疫給水部でも、細菌兵器の開発も行われていました。

陸軍省の業務日誌に記された南方軍防疫給水部からの報告・・・

”粟は南方において発育良好なり
 繁殖力も大なり
 種餅を1回輸入すれば、あとは現地自活も可能なり”

ノミを粟、ネズミを餅と・・・本来の防疫給水とは違う、国際法に違反することをしているのです。
ペスト菌が体内に入っているノミを敵方の支配地域に投下する作戦を考えていました。
細菌兵器となるペストノミが製造されていたのです。
しかし、使用されることはありませんでした。
細菌兵器を使用すると、連合軍から倍返しされるのではないか?と。

ペストノミの製造と共に、シンガポール本部でもワクチンの開発が進められていました。
当時、ワクチン製造に従事していた現地の男性の証言によると・・・

「私たちは、破傷風のワクチンを作っていた
 豚の胃や肝臓を集めて、培養液を作り、日本人が破傷風菌をいれた
 ネズミやモルモットに注射して、死ぬかどうかを試した」

731部隊から南方軍防疫給水部へと引き継がれたワクチンと細菌兵器の開発・・・
インドネシアの大量死事件を読み解くには、このつながりが重要でした。
開発したものが、日本軍兵士にとって効くかどうか??
南方軍防疫給水部にマルタはいないので、とりあえず労務者に打ってみて効果があれば日本軍兵士にすると・・・労務者を使って試したのではないのか??
日本軍のワクチン接種によって400人近いインドネシア人が命を落としました。
しかし、遺族に事件の詳細が知らされることはありませんでした。

労務者の大量死は、戦後何故問題にならなかったのでしょうか??
戦中、日本軍に協力して労務者動員の先頭に立っていたスカルノ。
戦後、初代大統領となっていました。
スカルノは、日本と賠償協定を結び、インフラの整備を進めていました。
インドネシア社会で、労務者が声をあげることは難しかったのです。



南方軍防疫給水部が本部を置いたシンガポール。
敗戦と共に、旧宗主国のイギリス軍が戻ってきました。
南方軍防疫給水部は、細菌兵器などの証拠書類を隠蔽しました。
イギリス軍は、細菌兵器を製造できる部署がシンガポールやマレーにあったことに気づきませんでした。
その後、各国独立し始めて、誰も追及、研究しようとしませんでした。
段々闇の中に消えてしまって今日までになったのです。
南方軍防疫給水部の隊員が、戦後どのように生きたのか??
現在、確認できただけで30名が細菌や感染症に関わる研究で、医学者として学位を受けていました。
多くが、医療や製薬会社の中枢で活躍しています。
防疫給水部のことは一言も話さず・・・。

戦争中のインドネシアの大量死・・・
その全容は、今も解明されていません。
戦後、BC級戦犯として裁かれたスラバヤでの海軍の破傷風ワクチンの実験・・・
疑問を抱きながらも立ち会った法務官・・・裁判で次のように供述していました。

「彼らが病気になったと聞いたときには大変驚き、すぐに全員を病院に送って治療を受けさせ、私もできる限りのことをしました」

法務官は、禁固3年の刑に服したのち、1950年に帰国。
戦後は弁護士として生きました。

ジャカルタ郊外のアンチョール墓地・・・
日本の占領時代に命を落とした人が葬られています。
終戦の直前・・・1945年7月3日、木の下でモホタルは日本軍の手によって斬首されたという・・・
遺体は密かに葬られたが、近年埋葬場所が明らかとなりました。
6年前から、モホタルの追悼を続けています。

仲間を救うために、自らの豊かな人生を犠牲にしたこと・・・
実験の責任を取らなかったことに対して、無罪の人間に罪を着せ、殺したことに、怒りを抱いています
この事件は、これまで埋もれてほとんど知られていませんでした
私はも夫ひろく知ってほしいと思います
医学の人道的責務が、軍事に踏みにじられた
戦争が軍医たちにそうした道を選ばせたのです
モホタルをめぐる事件は、厳しく強い教訓を残しています    byケビン
 
戦後・・・日本軍の感染症対策、その真相に迫る試みが、今も続いています。

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80年前に始まった太平洋戦争・・・その戦場で多くの負傷兵が感染症に斃れていきました。
餓死や戦病死は戦没者の6割に達したと言われています。
中でも南方のジャングルで兵士たちに畏れられた感染症がありました。
マラリアです。
感染症から兵士を守るため、組織された部隊がありました。
防疫給水部・・・予防と衛生対策に奔走しました。
汚れた水を浄化することも重要な任務でした。
日本軍は、当初マラリアの特効薬キニーネを独占し、連合国に優位に立っていました。
一方、南太平洋に展開したアメリカ軍は、その感染に苦しんでいました。
やがて、日本の敗色が濃くなると、日本軍兵士は赤痢、チフス、マラリア・・・感染症で斃れて行きました。
同じ頃、アメリカ軍はマラリア感染を押さえ込むことに成功していました。
何があったのか??
感染症をめぐる日米の攻防とは・・・??



1941年、太平洋戦争開戦と同時にマレー半島を南下した日本軍・・・イギリス軍の拠点シンガポールを陥落させました。
1942年6月、医科大学を接収し、南方軍防疫給水部の本部が置かれました。
細菌の培養や研究が進められました。
本部の建物は、今、シンガポールの保健省となっています。
シンガポールの港は設備がいいので、ここを中心に東南アジアへ色んな薬品や人を送り込むことが便利でした。
破傷風、天然痘、ペスト菌、マラリア・・・研究が行われました。
南方軍防疫給水部・・・軍医や衛生兵など、最盛期には800人を超える隊員を数えました。
シンガポールを中心に、ビルマ、タイ、フィリピン、ジャワなど、日本軍が占領した東南アジアに支部を広げました。
防疫給水部は、戦場で汚水をろ過し、感染症予防を行うことを主な任務としていました。
濾水機は、医療用石井式濾水機を用いました。
中国の戦場で汚水に苦しんだ日本軍・・・石井四郎と軍医学校が、独自の濾水機を開発したのです。
珪藻土を用いた濾過筒によって、泥水も飲料水となり、99.9%の浄水率を誇ったといいます。
石井の依頼を受けて開発に当たった会社・日本濾水機工業は、今も濾過筒の製造を続けています。

戦時中、防疫給水部によって作詞作曲された歌があります。

山河幾百踏み越えて
はるばる運んだ 濾水機だ
友よ 存分飲んでくれ
病に倒れてなるものか
病原菌をせん滅だ

太平洋戦争が始まると、防疫給水部は東南アジアからニューギニア、ソロモン諸島にまで展開していきます。
なかでも防疫活動に力を入れたのが、ビルマでした。
感染症対策の最前線に立った防疫給水部・・・その隊員名簿が公開されました。
隊は師団ごとに編成されました。
名簿には、隊員ひとりひとりの氏名、職種、階級、留守家族の情報などが記されていました。

日本軍を苦しめたマラリア・・・
ハマダラカが、マラリア原虫を媒介し感染します。
1日おきに発熱が続く三日熱マラリア・・・罹患する兵士が相次ぎました。
マラリアの感染が特に著しかったのがビルマ戦線でした。
ビルマに派遣された第26野戦防疫給水部隊・・・軍医少尉が、戦場での体験を語っています。

「340名の部隊・・・衛星兵器の濾水機甲で、綺麗な水を作り、各部隊に・・・
 一番被害が多い会ったのはマラリア
 その外にアメーバ赤痢、熱帯潰瘍、チフス・・・
 バタバタとそういうような病気にかかって亡くなられ、B封現微生物ミクロに対する戦いでした」

軍医は、ビルマの体験手記に詳細に残しています。
マラリア対策は、住民の血液検査から始まりました。

”患者の血液をスライドガラスの上に一滴とり、薄くのばし、これをアルコールで固定
 染色液で染め、顕微鏡で見れば、赤血球の中にマラリア原虫が発見された” 

感染した患者には、特効薬のキニーネを与え、マラリア原虫を駆除しました。


日本のマラリア対策は、植民地の台湾であみ出されました。
下腹部が大きく膨れる脾腫と呼ばれる感染の目安とされました。
マラリア原虫を駆除する原虫対策が、日本の基本方針となりました。
太平洋戦争が始まると、兵士一人一人にキニーネが配られていました。
キニーネは、キナと呼ばれる木の樹皮から採取されます。
キナはもともと南米に自生していました。
西洋人によって発見され、治療薬として開発されました。
キナの木は、太平洋戦争当時インドネシアのジャワ島で世界の9割が生産されていました。

太平洋戦争は、感染症の大きな転換点となりました。
キニーネの生産は、オランダ領だったインドネシアで行われていました。
そこに、進駐した日本軍がキニーネの世界市場を独占します。
それは、アメリカ、イギリスにとって非常に大きな脅威でした。
キニーネが入手できなくなったアメリカ軍・・・
太平洋戦争開戦と共にマラリアの感染に苦しめられることになります。
1943年1月までのニューギニアで、米軍の唐リア感染率は年間1000人当たり3300以上・・・!!
つまり、兵士たちはマラリアに3回感染しています。
この数字は、マッカーサー将軍の注意をひきました。
将軍が軍医に告げます。

「この戦域の勝利を妨げる最大の脅威はマラリアだ」

太平洋での戦いで、当初、マラリアによる死者が戦闘による死者の5倍に達したアメリカ・・・
対策のため、キニーネに代わる特効薬の開発に乗り出さざるを得なくなります。

タイ・カンチャナブリ・・・太平洋戦争中、タイとビルマをつなぐ泰緬鉄道の建設が進められました。
イギリス、オランダの捕虜や、インドネシアの労働者などが動員されましたが、1943年、コレラやチフスなどの感染症が拡大しました。

鉄道第七連隊第一大隊・・・
ジャングルを切り開く工事現場では、経験したことのない熱帯熱マラリアの感染が広がっていました。
ミニムス、マクラータスなど、ハマダラカが媒介する熱帯熱マラリア・・・
早く治療しないと短期間で重症化し、死に至ることがあります。
熱帯熱マラリアが蔓延するタイ、ビルマ国境の工事現場・・・
対策のために派遣されたのが、南方軍鉄道隊防疫給水部でした。
部隊の詳細な報告書を発見・・・
排水溝を整備、水を流し、ボウフラの発生を防ぐ!!
ボウフラが繁殖する沼地の排水、蚊が生息するジャングルの伐採、油の散布や、湿地を無くす排水溝の整備、いずれも、蚊が繁殖する環境を無くそうとするもので、対蚊対策と呼ばれました。
さらに、どの地域にどのような種類の蚊が生息するのかを調査してまとめています。

日本のマラリア対策は、台湾を基盤としていた対原虫対策・・・血液検査をして患者を発見してキニーネを投与してマラリアを治す・・・結局、うまくいかなくなってきました。
現中隊k策ではなく、蚊に対する対策をやっていった転換点でした。



原虫対策から対蚊対策へ・・・
ビルマで防疫活動をつ透けていた軍医たちも、対蚊対策に苦闘していました。
そして、マラリア工作どころではなくなっていくのです。

戦線が、中国、ニューギニア、東南アジアに拡大すると、物資の供給が上手くいかなくなってきました。
成功体験があるがゆえに、縛られて変えることが難しい・・・
現場では、いけないということが蓄積されていますが、ボトムアップされ政策転換を明確に行うまでには至らないのです。

ミッドウェー海戦に破れた日本軍・・・制空権を失い、輸送船は次々と撃沈されました。
食糧や医薬品の補給が滞っていきます。
ガダルカナル・・・たくさんの人々が死んでいきました。
薬もなければ食料もない・・・野戦病院は、屍の収容所となっていました。

兵士たちが特効薬と信じてきたキニーネ・・・しかし、その信頼が揺らぐ事態が戦場で起きていました。
ラバウル・・・キニーネを毎晩一錠ずつ飲んでいたのにかかったのです。
身体が衰弱していました。

マラリア対策に行き詰った日本軍・・・
1943年7月、参謀総長の杉山元は、発言しています。

「戦力が、マラリヤのために1/4に減じてしまった
 増兵をいくらやってもマラリヤ患者を作るようなものなり」

一方、当初マラリヤ対策に苦慮していたアメリカ軍・・・
キニーネに代わる特効薬アテブリンの兵士への供給を始めます。
1943年、アメリカ軍は、アテブリンなどの物資の輸送を最優先することを決定します。
医薬品、食糧の補給で日本軍を圧倒していきます。
補給が滞った日本軍・・・
兵士に原因不明の病が広がっていました。
極度に痩せ、慢性の下痢から死に至る兵士・・・
戦争栄養失調症と呼ばれ・・・日中戦争から大きな問題となっていました。
身体がミイラ状となり、生ける屍のようになる兵士も現れました。

原因究明のため、兵士の解剖を行った日本軍・・・
戦争栄養失調症は、ニューギニアやソロモン諸島で報告され、陸軍軍医学校の軍医が調査研究しました。
しかし、十分に解明することができないまま、敗戦を迎えました。
マラリアや、戦争栄養失調症と並んで、戦場で日本軍に恐れられていた病気・・・それは、デング熱です。
デング熱は、向こうに行ってから初めてであった病気でした。
熱が出る症状でしたが、経験がないので怖かったのです。
デング熱は、デングウィルスを持っている蚊に刺されることで発症します。
発熱や頭痛、筋肉痛などの症状が現れます。
当時、原因は不明で、治療薬はありませんでした。
戦争中、長崎や沖縄でも流行し、病理の解明が急がれました。
当時、日本医学に掲載された論文・・・
陸軍医学校の軍医が、デングウィルスを人体に接種した実験が報告されています。
さらに、デング熱が治った者に、再び病毒を接種させ、免疫力がついているかを見ました。
死に至ることはありませんでしたが、デング熱を発症し、38度以上の高熱に陥りました。

南方進出した軍にとっては、マラリア制圧に次ぐ、重大な病気だとして研究されるようになりました。
しかし、デング熱は人しかかからないので、動物実験ができませんでした。
まだウィルス概念がなく、病原は捕まっていませんでした。


1942年から43年にかけて、盛んに人体実験が行われていました。
実験の対象となったのは、当時、東京の精神科病院・松沢病院に入院していた20人以上の患者たちでした。
戦後、この病院に務めた医師は、人体実験の事実を知り大きな衝撃を受けました。
戦時下、患者たちは食糧不足で多くが栄養失調に陥っていました。
栄養失調の始まっているときに実験をしたという憤りと、よくも秘密にしきったというすごさ・・・
立派な教授たちで、尊敬する人たちでしたが、残念なことでした。

感染症対策の最前線だったビルマ・・・
1944年、インパール作戦は、兵士たちをさらに過酷な状況に追い込みます。
補給を無視した作戦で、多くが飢餓に斃れて行きました。
兵士たちの屍が横たわる退却路は、白骨街道と呼ばれました。
防疫給水部の軍医は、倒れた兵士たちの公葬に奔走していました。

「激しい腐臭があたりに立ちこめ、十数名の死者が横たわっていた
 あるものはすでに顔面をウジに食い荒らされ、うつろの目と口には白骨があらわれ、目を向けられない形相であった
 まだ、虫の息で余命を保っている一名を探し出した
 しかし、あの大きく動く像の背の後送には、耐えられぬと判断した
 せめて、安らかに成仏してもらいたいものと、モルヒネを注射し、この場を離れた」

感染症に斃れる兵士を最後まで看護し続けようとした防疫給水部員。

汚水を濾過して清水をゴム枕に入れ、第一線に運んだ
コレラ、赤痢、チフスなど、様々な病原菌との戦い・・・
克明に描いていたのが、終戦間際の敗走でした。

「総退却となると、味方は散り散りバラバラに
 歩けません、早く、早く殺してください
 栄養失調とマラリアでは、皆が根気はないものばかり
 何の罪もない見方を、殺生する勇気もなく、胆力もなく、心を残しつつ走り去ることのつらさは、胸を突かれる思いであった」



1945年4月、米軍沖縄本島上陸。
この時、新たに開発された殺虫剤を散布しました。
DDT・・・大量生産が可能な、塩素系の殺虫剤です。
DDTを散布することで、アメリカ軍は感染症の抑制に成功します。
さらに、マラリア対策に特化した部隊を編制しました。
太平洋戦争の終結後、DDTは感染症対策や農薬として世界各地で散布されました。
しかし、60年代に入り、環境汚染や発がん性物質があることがわかり、その使用は規制されていきます。
米軍が戦場において感染症を管理することに成功したのは事実です。
60年代、70年代にベトナム戦争でDDTのような薬品を使って戦場を管理してしまいます。
自然を征服し、管理してしまうという発想によってもたらされたダメージも検証されるべき問題です。
ある段階で上手くいったことが、次の段階で必ず上手くいくとは言えないのです。
そこで生活している人たちの生存という視点に立って、検証してみる視点も必要です。

新型コロナウィルス変異株の感染拡大が続く日本・・・
戦争の時代に感染症と向き合った防疫給水部の経験は、何を伝えているのか・・・??
現場では原因もわかって、個々のお医者さんが懸命に対策をやろうと頑張っています。
しかし、全体として上手くいかない・・・
対策の重要性が広く共有されていなかった可能性があります。
日本軍の、あるいは当時の日本社会の感染症に対する意識の低さ、認識の甘さが事態を招いたのです。

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ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー・・・第2次世界大戦中、ユダヤ人虐殺など20世紀を血塗られた歴史にした人物です。
そのヒトラーの側近としてあらゆるメディアを牛耳ったのが、ヨーゼフ・ゲッベルスです。
嘘をばらまき、憎しみと暴力を煽って、人々を戦争へと動かしました。
彼が信じたのはヒトラーだけでした。
独裁者・ヒトラー・・・最大850万人もの党員を抱えたナチ党を率いる彼には、多くの側近たちがいました。
中でも異彩を放ったのが、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスです。

「プロパガンダには秘訣がある
 何より人々にプロパガンダと気付かれてはならない」byゲッベルス



プロパガンダとは、特定の主義・思想に導く宣伝戦略のことです。
これを駆使したゲッベルスは、地方の弱小政党に過ぎなっかったナチ党をドイツ有数の大政党に育て上げました。
ナチ党の名を広めるためには・・・わざと大乱闘を起こす
大統領選挙では、ヒトラーを飛行機に乗せ、ドイツ全土で演説させました。
これは、世界初の試みでした。
政権成立後は、ラジオ放送、映画・・・すべてのメディアをヒトラーのために利用しました。
そして・・・

「ユダヤ人による極端な知性主義の時代は終わった」byゲッベルス

煽られた国民は、ユダヤ人排斥の道へ突き進んでいきました。
しかし、第2次世界大戦の終盤・・・ナチス・ドイツは敗北をかさね、
側近たちはヒトラーのもとを去っていきました。
しかし・・・ゲッベルスだけは、ヒトラーのそばを離れませんでした。
ヒトラーのいない人生など考えられませんでした。

ゲッベルスは、1929年に出版した自伝的小説の中で、ヒトラーについてこう述べています。

「僕は新しいキリストを見た」

ゲッベルスは、どうしてヒトラーを救世主と崇めるようになったのでしょうか?
1897年、ドイツ西部、人口3万人の工業都市ライトで生まれました。
父親は、ガス燈を作る会社の支配人で、両親は敬虔なカトリック信者でした。
ゲッベルスは、6人兄弟の4番目、幼いころからコンプレックスを抱いていました。
学校での休み時間・・・楽しそうに遊ぶ同級生の輪の中に入っていくことはできませんでした。
その訳は・・・足の長さが異なるため、右側には整形用の靴を履き、足を引きずっていました。
4歳の時にかかった小児まひの後遺症でした。

「猛烈な痛み、長い処置、足は一生麻痺・・・」

同級生や周りの大人は、彼に同情したが、ゲッベルスはそれが嫌でした。
ゲッベルスは、友達を作らず、家に帰っても屋根裏に閉じこもっていました。
1914年、16歳の時・・・第1次世界大戦が勃発。
ゲッベルスの同級生たちは、先を争うように兵隊に志願!!
ゲッベルスも志願しましたが・・・兵役不適合とされました。

「みんなは旗の元へ、一緒に行けないのはつらい」
 


その後、ひたすら勉強に打ち込み、優秀な成績で高校を卒業。
その頃の夢は、ジャーナリストか小説家でした。
親元を離れ、大学では文学を専攻、文学の博士号を取得しました。
卒業後は、新聞に記事を投稿するなど、ライターとして身を立てようとしました。
しかし、記事は没ばかり・・・心血をかけ書いた小説も、全く評価されませんでした。 
その頃、ドイツは第1次世界大戦に敗北、戦勝国から課せられた巨額の賠償金のため、ドイツ経済は深刻な打撃を受けました。
苦しい暮らしを強いられた人々の不満は、敗戦でワイマール共和制となった政府に向けられました。
若者たちの多くは、反政府運動へ身を投じていきます。
そんなある日、ゲッベルスはある新聞記事を読みます。
ナチ党という小さな党が、政府の打倒を掲げてミュンヘンで武装蜂起したという・・・!!
指導者は、アドルフ・ヒトラー、34歳。
共和国政府を否定して、強いドイツの復活を訴えるヒトラーに惹かれたゲッベルス・・・。
武装蜂起は失敗に終わり、ヒトラーは逮捕されます。
しかし、ゲッベルスは、ヒトラーこそ新しいドイツのリーダーと確信し、手紙を送ります。

「あなたは奇跡を行い、我々の心にかかる雲を取り除かれた
 いつの日か、全てのドイツ人があなたに感謝するでしょう」

ゲッベルスは、ヒトラーをキリストの使いだと書いています。
武装蜂起で自らの命を懸けて、犯罪者扱いされても食い下がって、民族の覚醒を訴える大胆さ・・・
これは、他の政治家にはありませんでした。
1925年、27歳の時、ナチ党地方支部に加入、宣伝活動に従事しました。
そこで、文学で培った才能が開花します。
それが演説です。
演説の上手さを買われてか、ゲッベルスは入党してわずか1年の間に180回以上の演説を行っています。
ゲッベルスの活躍が、ヒトラーに伝わります。
2人は面会することに・・・
ゲッベルスは、その時のことを日記に綴っています。

「この人は、王となるにふさわしい
 生まれながらの指導者、未来の独裁者」

この時、ゲッベルス28歳でした。

わずか50人ほどから始まったナチ党・・・
結党14年で政権の座に就いたとき、党員は85万人になっていました。
その後も増え続け、第2次世界大戦が終わるころには、党員数は850万人に達していました。
ヒトラーはこう述べています。

「宣伝は組織に先行する
 そして、その宣伝のためには有意な人材を獲得せねば
 ゲッベルスこそ、私が待ち望んだ人間だ」byヒトラー

ゲッベルスは、どのようにしてナチ党を大きくしたのでしょうか??

1926年、ゲッベルスの姿は首都ベルリンにありました。
ヒトラーからベルリンのナチ党大管区長に任命されたのです。
ナチ党の地元はミュンヘン・・・遠く離れたベルリンでは知名度は低く、党員は400~500名。
ここでは、共産党が最大勢力でした。
ヒトラーは、首都ベルリンでの勢力拡大という大仕事をゲッベルスに託したのです。
そこで彼の取った手段は・・・乱闘騒ぎでした。
共産党の支持基盤である労働者地区で演説、共産党をののしり、挑発します。
すると、大乱闘となりました。
ゲッベルスはそこに突撃隊員を突入させ、乱闘騒ぎをさらに大きくしました。
多くの負傷者が出たため、こうした事件はナチ党の名前と共に新聞に大きく取り上げられました。

「ベルリンは、魚が水を必要とするように、センセーションを必要としている」

その結果、悪名にもかかわらず入党志願者が殺到・・・狙い通りでした。
しかし、あまりに流血騒ぎを起こしたことで、ナチ党は警察から集会・演説が禁止されます。
すると、ゲッベルスはすぐに次の手を打ちます。
新聞の発行です。
その名も「攻撃」。
ゲッベルスがこの新聞を作ったのは、ナチ党の首都進出を阻むベルリン市政府を攻撃し、徹底的にこき下ろすためです。
罵詈雑言を浴びせ、事実を捏造してもセンセーションを巻き起こす!!
ゲッベルスは、当局の介入は不当だと訴えます。
そして、読者の共感を得ていきます。
ゲッベルスがベルリンに来て2年後・・・1928年、国会議員選挙が行われ、国会の議席を初めて獲得します。
491議席中わずか12議席でしたが、ゲッベルスはこう語っています。

「我々は敵として乗り込むのだ
 羊の群れにオオカミが襲い掛かるように、敵として乗り込むのだ」

さらに、この後、ナチ党が大躍進する事件が起きます。

1929年、ニューヨーク・ウォール街での株の大暴落に端を発する世界恐慌・・・
第1次世界大戦の痛手から立ち直りかけていたドイツでも、次々と企業が倒産・・・。
数百万人もの失業者が街に溢れました。
そんな中、ナチ党が目をつけたのが、都会ではなく疲弊の激しい農村地帯でした。
農民が、民族の美徳と伝統の担い手・・・と訴え、貧しい農民たちの心をとらえていきました。
一方で、貧困は、ドイツ共産党にも追い風となりました。
共産党は、失業者の支持を得て急成長。
ナチ党にとっては、目の上のタンコブでした。
その為、都市部ではナチ党と共産党が衝突!!
そんな矢先・・・1930年1月、ナチ党員が、共産党員に撃たれ死亡する事件が起きました。
実はこの事件は、政治とは直接関係のない女性を巡るトラブルでした。
ところが、ゲッベルスは、共産党員によるナチ党員への銃撃事件と・・・巧みに利用しました。
プライベートな争いを、政党の争いのように掻き立てて、共産党への憎悪を煽ったのです。
彼の葬儀では、”旗を高く掲げよ”という曲をナチ党の党歌として歌うように命じました。

”赤色戦線に殺された同志は、魂となって我らとともに行進する”

この事件の宣伝効果もあって、ナチ党への支持はますます広がっていきました。
ゲッベルスは後に、プロパガンダの手法についてこう語っています。

「プロパガンダには秘訣がある
 何より人にプロパガンダと気付かれてはならない
 相手の知らぬ間に、たっぷり思想をしみ込ませるのだ」

1930年9月、再び行われた国会議員選挙・・・
ナチ党は、12議席から107議席へと大躍進!!
次の目標は、いよいよ政権獲得でした。

「正午、長時間ヒトラーと打ち合わせ
 彼は、大統領選挙に対する考えを述べ、出馬を決意した」



1932年の春・・・大統領選挙では、現職のヒンデンブルクとヒトラーの一騎打ちとなりました。
ゲッベルスはこの時、とっておきのアイデアを実行します。
それは・・・飛行機でした。
飛行機で、全国を遊説しながらドイツ上空をのヒトラーというスローガンを人々にアピール!!
さらに、膨大な量のビラまき、数百万枚のポスター、ヒトラーの演説の映画フィルムを全国の市町村で上映しました。
しかし、ヒトラーは選挙に敗れました。
ところが、翌年、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命します。
常識では考えられない行為でした。
ヒンデンブルク大統領は、ワイマール共和国(当時のドイツ)をあまり快く思っていませんでした。
特に、ワイマール共和国憲法が定めた共和国の政治秩序を。
ナチ党は危険だが、うまく利用すれば共和国の在り方を変えられると考えたのです。
ヒトラーに首相の座を与えるが、その脇を保守派が固めることで、ヒトラーを懐柔することができると考えたのです。
この時、ゲッベルス36歳。

1932年1月22日、ゲッベルスはヒトラーとこんなやり取りをしています。

「ヒトラーと遠い将来について話す
 特に将来、私が就く官職の任務、権限の範囲をかなりのところまで煮詰める
 考えているのは国民教育省というようなもので、映画・放送・芸術・文化・宣伝、それに新しい教育機関などを統括することになるだろう」

1933年3月、国民啓蒙・宣伝省という史上かつてない省庁が作られました。
ボスはもちろん、宣伝大臣のゲッベルスでした。

1933年5月10日夜、ナチ党を支持する学生たちが、ユダヤ人の書いた本を焼き払う焚書が行われました。
物理学者・アインシュタインや、精神病理学者・フロイトの本などが次々と燃やされました。

「ユダヤ人による極端な知性主義の時代は終わった」

彼の標的は、学者だけではありませんでした。
ドイツ国内の全てのユダヤ人を、国家の敵と見るように国民を煽ります。
ユダヤ人排斥です。
ゲッベルスも、ヒトラーも、初めから反ユダヤ主義者であったかどうか・・・そうではないと考えます。
世界でも、ユダヤ人を嫌う風潮が存在していました。
そこに働きかけることで、支持者を増やし、大衆運動をすすめる・・・と、反ユダヤ主義を添加していきました。
ゲッベルスが国民を扇動した方法は、非常に洗練され、巧みなプロパガンダでした。
プロパガンダの強力な武器となったのは、ラジオ放送でした。

「人々の憎悪や闘争は、ある特定の者によって育まれる
 やつらは民衆を対立に駆り立て、平和を求めない
 どこでも金儲けを始めるユダヤ人どもこそ、国際的な不穏分子だ」byヒトラー

定期的に放送を流し、それを集団で聴取させます。
内容を国民にしみこませました。
最も効果的な宣伝手段・・・それは映画でした。
映画の製作は、脚本や撮影内容など、ゲッベルスの許可なくして何一つできませんでした。
こうしたゲッベルスの仕事ぶりを讃えて、ヒトラーが賛辞を送ります。

「10年前、ゲッベルス博士は私からナチスの旗を受け取った
 その旗は、ゲッベルス博士によりドイツ国家の首都で掲げられ、今や国家を象徴する旗として翻っている
 ゲッベルス博士に最大の謝意を表する
 我らがゲッベルス博士に!!ハイル!!」byヒトラー 

1934年8月、ヒトラーは、首相と大統領の権力を一手に握り、自らを総統としました。
大衆を巻き込んだゲッベルスのプロパガンダ・・・憎悪を煽るだけでなく、人々の暮らしや家庭に入り込み、感情の奥に訴えかけるものもあります。
ゲッベルスは34歳の時、マグナという女性と結婚、6人の子供に恵まれます。
ゲッベルスは、自らの家族をドイツの理想的家庭として撮影させ、全土で公開しました。
ゲッベルスは実際に、出来るだけ時間を割いて、良きパパであることを心掛けました。
しかし、その裏では、個人的な欲望を追い求めます。
ゲッベルスは、しばしば撮影所を訪れます。
仕事というよりは、女優を物色するためです。
気に入った女性には、権力をちらつかせて次々と関係を迫っています。
その中で、ゲッベルスがぞっこんになった女優がいました。
チェコ出身のリダ・バーロヴァ・22歳です。
バーロヴァは、ゲッベルスについてこんな言葉を残しています。

「湖のそばの隠れ家で、彼は私を”愛している”と告白しました
 ”こんなに愛した女性は、これまでに一人もいなかった”と
 私たちは、完璧に恋に落ちました
 彼が家族を置き去りにするくらいに」



しかし、この恋は、呆気なく破局を迎えます。
ヒトラーの逆鱗に触れたのです。
ドイツの理想的家族の父親であるゲッベルスに、不倫などあってはならない!!
ヒトラーは、ゲッベルスを別荘に呼びつけ、バーロヴァと円を切るように厳しく迫りました。
しかし、ゲッベルスは、
「バーロヴァと別れるぐらいなら、宣伝大臣をやめ、バーロヴァと一緒になります」
この返答に、ヒトラーは激高!!

「国家に対する義務か、バーロヴァか、どちらを取るか、よく考えることだ」

その結果、ゲッベルスは・・・

「私は義務に屈しよう つらい 残酷な
 ただ義務に服した生活、青春は今終わった」

しかし、その矢先、ゲッベルスに失態を取り戻すチャンスが巡ってきました。
ユダヤ人青年によるドイツ大使館員射殺事件が起こります。
ゲッベルスは、ユダヤ人を敵視する演説を行いました。
これを引き金に、ナチ党の若者たちは、ドイツ中のユダヤ教会ユダヤ人商店を焼き討ちします。
この時の迫害は、ゲッベルスにとっては点数稼ぎにすぎなかったのかもしれません。
ナチス・ドイツは、こうして反ユダヤ政策を加速させていくのです。

1945年4月、ベルリンに向けてソ連軍の総攻撃が始まりました。
敗戦が濃厚となる中、ヒトラーの側近たちは、次々と彼の元を逃げ去っていきました。
しかし、ゲッベルスだけは、最期までヒトラーと生死を共にしました。

1935年、ヒトラーは、第1次世界大戦の敗北によって定められていたドイツの軍備制限を破棄すると宣言・・・ドイツ再軍備宣言!!
これをきっかけに、世界は再び戦争へと突き進みます。
ヨーロッパ諸国と対立し、孤立が深まる中、ヒトラーは日本との同盟を模索します。
日本は、ドイツと同じくソ連を仮想敵国としていました。
そこで、ゲッベルスは、国民への日本のイメージアップのため、あるプロパガンダを実行します。
日独合作映画「侍の娘」です。
これを、ドイツ国内で、大々的に公開しました。
日本人の恋人と日本を訪れたドイツ人の女性が、日本文化を体験するストーリーです。
この作品は、俳優・原節子の初主演映画でもありました。
ドイツでの封切には、ゲッベルスをはじめ、ナチ党幹部が出席するほどの力の入れようでした。

1939年9月、ナチスドイツはポーランドに侵攻。
さらに、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、そしてフランスを、1年足らずで占領します。
しかし、戦線を拡大しすぎたドイツ軍は、1943年スターリングラード攻防戦でソ連軍に敗北します。



そんな流れを断ち切ろうと、国民を鼓舞する演説会が大々的に開かれました。
この時、ヒトラーはあまり表に姿を見せなくなっていました。
戦局が悪化していたからと言われています。
壇上に立ったのは、ゲッベルス!!
ヒトラーの代わりに1万5000人の聴衆に訴えたのです。
彼にとって、一世一代の演説でした。

「諸君は総力戦を望むか?
 諸君に問う、勝利を勝ち取るため、総統に従っていく決意はあるか?
 苦難を共にし、最も重い負担に耐える覚悟はあるか?」

ゲッベルスは、渾身の演説でヒトラーの代役を完璧に演じました。
この演説は、ラジオでも全国に中継され、ソ連やアメリカとの戦いに総力戦が訴えられました。

「これより先、我々のスローガンはこうだ!
 ”人々よ、立ち上がれ、そして嵐を起こせ”」

しかし、ゲッベルスの演説の甲斐なく、ドイツ軍は次々と敗退していきました。
1945年4月、ソ連軍による首都ベルリンへの砲撃が始まりました。
ドイツの敗北は決定的となりました。
ヒトラーは、がらんとした総統官邸の地下壕で、最期の時を待っていました。
そばに付き従っていた高官は、もうゲッベルスしかいませんでした。
ヒトラーは、ゲッベルスにベルリンの防衛が敗れた場合は、ベルリンを去り、新内閣の首相になるように命じました。
そして・・・ヒトラーは、直前に結婚式を挙げたエヴァ・ブラウンと共に自ら命を絶ちました。
ヒトラーにドイツの将来を託されたゲッベルス・・・
しかし、

「私は生涯で初めて総統の命令に背かざるを得ない
 どんなことがあっても、総統の傍らで命を終える覚悟であることを断固として表明する
 総統のために奉仕することができなければ、私の命などもはや価値のないものだ」

ヒトラーの死の翌日、ゲッベルスは家族と共にヒトラーの後を追いました。
47年の生涯でした。

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1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相に就任しました。
ユダヤの人々にとって苦難の12年間が始まった日です。
ヒトラーの著書「我が闘争」には、ユダヤ人に対する憎悪が書かれています。
この本を読んでいたであろうドイツ系ユダヤ人・・・
自分達の存在を消そうとする政権の誕生をどう思っていたのでしょうか?

ヒトラーは、職業公務員再建法やニュルンベルク法でドイツ系ユダヤ人の生存権を奪っていきます。
ひび強まっていく差別・・・。

1930年代、反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れていたドイツ・・・。
ナチス・ドイツのベルリンで、ユダヤ人小学生たちの避難場所となったのが小学校でした。
若い女教師が立ち向かいます。

1933年首相に就任したヒトラーは、独裁体制をひいていきます。
反ユダヤ人をスローガンとしていました。
ヒトラーが出てくるまでは、ユダヤ人たちはごく普通にドイツ人として生活していました。
当時ベルリンでは、2万7000人のユダヤ人の子供たちが学校に通っていました。

普通に生活していたのに・・・
ヒトラー政権の下、忌み嫌われていきます。
反ユダヤ主義は、学校にまで持ち込まれ、ナチズムが刷り込まれていきます。
ユダヤ人生徒に対するいじめ、差別が激しくなり・・・
それは、教師も同じでした。
レオノラ・ゴールドシュミットは、11年の経験を持つ教師。
1933年4月・・・職業公務員再建法によって、政治的に好ましくない公務員は、即刻解雇できるようになりました。
好ましくない存在・・・ユダヤ人のことでした。

解雇されてしまったレオノラ。
しかし、鳴き寝入りはしません。
公立が雇ってくれないなら、私立を作ろう!!
と、行動を開始します。

当時の状況で、ユダヤ人の学校を作ることは極めて困難でした。
ナチスは、ユダヤ人教師が教えてもいい人数を、一度に5人までとしていました。
この規定をうまく利用したのです。
しかし、レオノラと夫・エルンストは・・・多くの教員で教えれば学校ができる??

学校設立に動いていたレオノラ・・・
その間も着々と独裁体制を固めていくヒトラー。
1937年、宣伝映画を作るために、アメリカ人の映画製作者ジュリアン・ブライアンを雇い入れました。
が・・・ユダヤ人に関することや軍事力に関することの撮影は禁止されました。
ブライアンは、労働者、建物、高速道路・・・しかし、ナチスがひた隠しにする現実に気が付いていくのです。

そして・・・本当は何がこの国で起こっているのか?暴こうとします。
ナチスの掲げる反ユダヤ主義は教室の子供たちにも強まっていきます。
教師は、ナチスを浸透させるための道具に変貌し、子供たちはユダヤ人はドイツ人より人種的に劣ると教え込まれます。
そうした中・・・レオノラは、ユダヤ人の子供たちが安心して安心して通える学校を!!と、奮闘していました。

何代も遡って家系を調べられ、ユダヤ人の子は教室の後ろに分けられていきます。
レオノラは、乗り越えなくてはならない壁にぶち当たっていきます。
膨大な資金、学校に相応しい建物・・・。
1934年レオノラの親戚がナチス親衛隊に殺害され、レオノラに莫大な財産が入りました。
遺産の一部のベルリンの邸宅を使っての学校ですが・・・
許可はなかなか下りません。
当局の規制をかいくぐり・・・
1935年申請が許可され、ゴールドシュミット・スクール開校。
解雇された5人の教師による25人の生徒の学校が始まり・・・
そこには本当の自由がありました。

しかし、迫害はひどくなっていきます。
1935年ナチスはニュルンベルク法という反ユダヤ主義の法律を作りました。
ユダヤ人は、国民としての権利を奪われます。

レオノラは、将来子供たちが国外に逃げることを想定し英語教育をします。
ほとんどの授業は英語で行われ・・・移住に備えられました。

イギリス大使館から教師を呼びます。
自分の学校を、イギリス・ケンブリッジ大学受験の認定校にするように動き出します。
教え子たちが国外の学校に行きやすくなるように。。。

ドイツ教育省の高官ヴァルター・ヒューグナーを頼ります。
かつての恩師に嘆願書を送ります。
ヒューグナーは、ナチスに睨まれるのを承知で協力してくれ。。。
1937年・・・ドイツでも数少ないケンブリッジ大学受験の認定校となるのです。
お蔭で、他のユダヤ人学校のように閉鎖されずに済んだのです。
ドイツ以外でも生きていけるように・・・!!

しかし、学校の外ではナチスの暴挙が・・・!!
ユダヤ人迫害の事実は隠せなくなってきました。
その頃、ジュリアン・ブライアンは、事実を暴く撮影を始めていました。

「ユダヤ人お断りの看板」
「ユダヤ人は黄色のベンチ」

1937年夏・・・7週間かけてドイツを廻り・・・
ゴールドシュミット校にも来て撮影しています。
しかし・・・このオアシスも長続きすることはありませんでした。

ブライアンは、自らとった映像を世界に公表しようとします。
撮りためたフィルムを国外に出さなければ・・・

ブライアンは、自分が撮った映像が、ナチスにとって大打撃になることを知っていました。
アメリカに帰国したブライアンは、記録映画を作り始めました。
1938年「ナチスドイツの内側」という映画が公開され、何百万人の観客を動員しましたが・・・
歴史はすぐには動かなかったのです。
アメリカの世論を動かそうとしたのに・・・
その間にも、事態はますます悪化していきます。
1938年3月、ヒトラー率いるドイツが隣国オーストリアを併合!!

ユダヤ人への迫害があからさまに行われるようになっていきます。
そしてドイツのユダヤ人にも・・・。
1938年11月9日「水晶の夜」事件によって、ユダヤに関係のある建物が襲撃されます。
3万人ものユダヤ人男性が強制収容所に送られました。

そして学校も危険に晒されていました。
襲撃されたのは、全てユダヤ人の所有する建物でした。
たった一晩で、何百もの建物が襲撃されたのです。
どうすれば学校を守れる??

建物をイギリスの所有物だということにして、難を逃れます。

そのうち・・・町では男性はみんな逮捕され、強制収容所に送られていきました。
そしてその危険は、レオノラの夫・エルンストにも・・・
水晶の夜の次の日・・・ゲシュタポが家の近くまでやってきていました。
二人が家を出た直後にやってきて・・・対応したのは彼らの娘でした。

娘が時間を稼いでいる間に、イギリスのビザを取得し逃れることができました。
ドイツのユダヤ人たちは、もはや生き残るためには国外脱出しかない・・・!!と、思い始めていました。

1938年には、もう、国を出ることすら難しくなっていました。
経済恐慌・・・反ユダヤ主義は、各地に飛び火していたのです。
アメリカも受け入れには消極的でした。
生徒たちを国外に・・・!!
イギリスに渡った夫と考えます。
イギリスにゴールドシュミット校の分校を作ろう!!
ユダヤ人を支持しているイギリスの団体に援助を求めます。
が・・・いい返事は得られません。

あらゆるつてを頼ったのに、資金は集まりません。
多くのユダヤ人たちが連行されていきます。
一刻の猶予もない!!

イギリスにあるユダヤ人支援団体が、ユダヤ人の子供の移住を後押ししていました。
9000人以上の子供たちが親元を離れ、イギリスに渡っていきました。

1939年7月レオノラがドイツ出国!!
9月1日、イギリスでゴールドシュミット校が開校。
その2日後、イギリスはドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦がはじまったのです。
幸いにも当時の生徒たちのほとんどはホロコーストを免れることができました。

レオノラは、その後もイギリスで教師を続け・・・
1983年に85歳で亡くなりました。
多くの生徒たちは、今も彼女を誇りに思っています。

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