零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

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「零戦よ永遠なれ」


日本時間の1941年12月8日午前1時30分・・・
ハワイオアフ島沖を進む日本の空母6隻から、183機の飛行機が飛び立ちました。
真珠湾攻撃・・・太平洋戦争の勃発です。

「トラトラトラ (ワレ奇襲ニ成功セリ)」

アメリカ軍に甚大な被害を与えた日本の飛行隊・・・そこで活躍したのが、当時の最新鋭戦闘機・零戦でした。
日本で最も多く作られた飛行機で、生産数は1万425機!!
設計者は、アニメ映画「風立ちぬ」の主人公となった堀越二郎です。


1937年に始まった日中戦争・・・その年の夏・・・
日本の新鋭の陸上攻撃機が戦闘機の護衛なしで中国奥地へ爆撃を仕掛けたのですが・・・撃墜されてしまいました。
陸上攻撃機とは・・・??
陸上基地から発進し、爆弾や魚雷を落として攻撃する飛行機のことで、敵の攻撃機と戦う能力に劣っているために、戦闘機が護衛についていました。
が・・・その頃、日本の戦闘機の飛行距離は短く、陸上攻撃機を援助できずに敵に撃ち落されてしまったのです。

その頃・・・中国撤退を巡ってアメリカと対立・・・国際情勢は悪化の一途を辿っており・・・
ABCD包囲網を組む諸外国との太平洋を舞台にした戦争を視野に入れなければまりませんでした。
なので、今まで以上に空戦性能に優れ、長距離飛行な戦闘機を必要としていました。

10月・・・日本海軍は、「十二試艦上戦闘機」(後の零戦)の開発を決定!!

零式艦上戦闘機・・・どうして零式なのか・・・??
当時は、神武天皇の即位の年を皇室紀元年とし、武器などのその下二ケタをつけていました。
〇〇式・・・零戦が制式採用されたのが昭和15年・・・これは皇紀2600年に当たったのです。
なので・・・零式。
艦上戦闘機とは・・・航空母艦から離発着できる戦闘機という意味です。
空対空戦闘機を任務としました。
日中戦争から太平洋戦争に活躍した戦闘機です。

そして、この戦闘機の開発に当たったのが三菱航空機の技術者・堀越二郎でした。

堀越二郎は1903年群馬県藤岡で生まれました。
奇しくもこの年はライト兄弟が世界初の動力飛行に成功した年でもありました。
堀越は子供の頃から飛行機に思いを寄せ、その夢を真っすぐに追いかけます。
1924年東京帝国大学工学部航空学科に入学・・・3年後首席で卒業すると、航空機製造を手掛けていた三菱内燃機製造(今の三菱重工業)に入社。。。
その後、航空機先進国の欧米を視察、入社僅か5年で設計主任に・・・!!
1936年制式採用された九六式艦上器戦闘機が日中戦争で無類の強さを誇りますが・・・
航続距離が短いのが難点でした。
そこで、十二試艦上戦闘機の開発命令が出されます。
航続距離、空戦能力、武装、速度、上昇力・・・全てにおいて他国に勝る戦闘機を・・・!!

堀越はその要求をスポーツに例え・・・
「十種競技の選手に対し、5千メートル競争で世界記録を大幅に破り、フェンシングの競技で世界最強を要求し、そのほかの種目でもその種目専門の選手が出した世界記録に近いものを要求しているようなものであった。」と言っています。
全てを満足させる・・・当時の常識を超える開発でした。

設計チームは、平均年齢24歳、気心の知れたメンバーでした。
が・・・一筋縄でいけません。
苦悩の日々が半年続き・・・堀越は海軍に対し、一つでも妥協できないか??と、聞きます。
航続距離、速度、空戦能力の重要性の比率は・・・??
議論は平行線をたどり、終わらせることは・・・やはり、要求通りの物を作る以外になありませんでした。

最大の難関は重量軽減でした。
開発会議ではあまり述べず、部下たちに議論を刺せる堀越でしたが・・・黙々とメモを取って支持をします。

重量軽減の秘策は・・・??
①穴開け加工
零戦の座席など、強度を計算し、問題のない所を穴開け加工します。
グラム単位で軽減しました。

②新素材採用
超々ジュラルミンです。
国内の金属メーカーが開発し、強度が高く、この新素材を主翼の桁に採用!!
これによって、30キログラムの軽量化に成功!!

「この難題を解決するには、今までのしきたりや規格を神格化せず、新しい光を当ててみよう」

③安全率の引き下げ
当時の軍用機の安全率は1.8。
一部を1.6に引き下げます。
現在の飛行機の安全率は1.5。

航続距離や速度などを向上させるために、期待を極限まで軽くしました。


これと並行して空力設計・・・空気抵抗を減らすことにもにも取り組んでいました。
速度を上げ、航続距離を伸ばすためにも・・・!!
まず注目したのは、機体の金属板を留めていた鋲・・・従来は、表面に突起がありました。
①沈頭鋲を用い、機体表面を滑らかにしました。
②主脚を翼に納める
③密閉式のコックピット
と、空気抵抗を減らしていきます。
遂に、試作機が・・・!!
海軍の要求から1年が経っていました。

これまでよりもはるかに早く、長く飛ぶ戦闘機を・・・!!

「どんなに優れた戦闘機であっても、平時で4年、戦時なら2年で旧式となり通用しなくなってしまう。」

1939年3月23日、試作機の運搬がありました。
名古屋市内の工場を出発し、1日がかりで岐阜県各務原飛行場へ・・・!!
4月1日初試験飛行開始!!
14日には特殊飛行試験!!
堀越は「美しい・・・!!」心の中でそう叫んだと言います。
しかし、次々と問題点も出てきました。
「零戦」試作1号機の試験飛行で・・・パイロットから。。。
「操縦桿と飛行機の動きが合わず運転しにくい。」
それは、今までの飛行機よりも格段にスピードの上がった結果でした。

飛行機は、昇降舵によって上昇下降しますが・・・
操縦桿を手前に引くと連動し、機首上を向き、エンジンのパワーをあげていきます。
しかし、スピードが速いので、操作時に大きな風圧があがって機体が急激に上がってしまったのです。

「操縦系統の弾性を利用できないだろうか・・・??」

操縦系統を細くすることによって、伸び縮みするようにしました。
すると、上昇が穏やかに・・・。
低速でも、高速でも同じような運転が可能となりました。
これを、剛性低下方式といい、戦後の戦闘機の設計にも大きな影響を与えました。

2度の空中分解・・・二人の殉職者・・・原因はフラッター現象。。。
フラッターとは、高速飛行中に、機体の一部が気流の影響で破壊的な振動を起こすことです。
原因の一つは軽量化でした。
そこで、外板を厚くし、制限速度を750㎞から670㎞にしました。

改良を加えながら、2年に及ぶ試行が行われました。
試作機は・・・1940年7月24日制式採用され・・・零式艦上戦闘機(零戦)となりました。
しかし・・・国民にも伏せられ・・・知ったのは、4年後でした。

中国との泥沼の戦いが続く日本・・・
1940年9月13日・・・零戦初陣!!
中国・漢口の海軍基地を飛び立った13機は、1000キロ離れた中華民国の首都・重慶に・・・!!
中国軍戦闘機27機を相手に、すべてを撃墜!!
零戦の損壊は0でした。
その後1年間に、中国戦線に配備された零戦は、僅か30基ほどでしたが、敵機266機を撃墜、撃破しました。
零戦の損害は、僅か2機で、地上からの攻撃によるもので・・・空中戦では無敵でした。
この圧倒的な強さは、中国の航空部隊からアメリカに報告されましたが・・・広く伝わることはありませんでした。
どうして、アメリカ軍に知られなかったのでしょうか・・・??
アメリカやイギリスから見れば、航空後進国の日本・・・信用していなかったのです。
アメリカ軍は、日本に高性能戦闘機を開発する技術はないと、零戦の存在を黙殺したのです。
この黙殺によって、真珠湾攻撃まで零戦の存在は知られなかったのです。

1941年12月8日、太平洋戦争勃発!!
アメリカ・イギリスなどの連合国は、零戦の性能を初めて目にしました。
零戦は無敵!!まさに太平洋の覇者!!
台湾・高雄基地を飛び立った零戦は、その性能を生かして、800キロも離れたフィリピンのアメリカ航空部隊を殲滅!!
日本の戦闘機が攻撃してくることは、空母が近くにいるはずだ!!と、アメリカ軍は混乱しました。
さらに零戦は、台湾からフィリピンを経てラバウルへ・・・!!
「ラバウル航空隊」です。
後にエースパイロットが揃う、日本海軍最強の零戦舞台でした。
笹井醇一、太田敏夫、西澤広義、坂井三郎・・・
坂井は、太平洋戦争を生き抜きますが・・・出撃回数約200回、撃墜数64機!!
戦後、「大空のサムライ」という本を出版しています。

とにかく先に敵を見つけること・・・!!
そして、敵の死角になる後方上空に回り込み、降下しながら一撃を加えました。
討ち漏らした後は乱戦となりますが、そうなれば零戦の独壇場!!
一対一なら必勝でした。

アメリカ軍機を次々と撃墜・・・!!
アメリカ軍も零戦を認めざるをえなくなります。
アメリカ軍は通達を出します。
「飛行中、退いていいのは”雷雨に会った時”と”零戦と遭遇した時”と・・・!!


太平洋戦争で、零戦と同じく快進撃を続けていた日本軍でしたが・・・
開戦からわずか半年後の6月5日ミッドウェー海戦!!
空母四隻を失う大敗北!!
敗戦への分水嶺ともいわれる戦いです。
その頃零戦も・・・栄光から悲劇へ向かう事件に・・・!!
アリューシャン列島のアクタン島に1機の零戦が不時着・・・沼地に足を取られてひっくり返り・・・パイロットは即死しましたが、機体はほぼ無傷でした。
本当なら、敵に見つかる前に破壊しなくてはならないのですが・・・
アメリカ軍に発見、回収されてしまいました。
「アクタン ゼロ」と呼ばれたその機体は、星印をつけられ、徹底的に研究されました。
そして、零戦との戦い方を見つけていったのです。

アメリカ軍はこの零戦を研究し・・・次々と新鋭戦闘機を投入していきますが、零戦は・・・??
もともとも地力の差・・・戦争中にわずかな改良のみとなったのです。
ガダルカナルの上空に散っていったパイロットたち・・・。
日本の敗戦は、零戦の悲劇と共に、足音を立てて近づきつつありました。

1944年10月25日・・・日本海軍の恐るべき作戦・・・神風特別攻撃隊を実行に移します。
神風特攻隊です。
機体に爆弾を抱えたまま敵艦に突っ込む・・・命と引き換えの作戦・・・これに使われたのが零戦でした。
11月23日、日本国民は初めて零戦の名を知るのでした。
1945年・・・年が明けるとアメリカ軍の爆撃機”B-29”によって日本各地が焦土と化します。

8月15日・・・終戦。

零戦の悲劇に寄り添うように・・・。

零戦の設計者・堀越二郎は玉音放送を聞きながら・・・
「これで私が半生を込めた仕事は終わった。
 それと同時に、長い苦しい戦いと、緊張からいっぺんに解放され、前身から力が抜けていくのを覚えた。

 飛行機と共に歩んだ私の生涯において、最も心を痛めたのは、神風特攻隊のことであった。」


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