日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:紀州

徳川宗春: 〈江戸〉を超えた先見力

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1731年名古屋城下・・・太平の世に嵐を呼ぶ男が現れました。
その姿に人々は息をのみました。
”白牛に鞍鐙をおいて、猩々緋の装束を身にまとう
 唐人笠をかぶり、五尺ばかりのキセルを持って領内を練り歩いた”

尾張藩第七代藩主・徳川宗春です。

御三家筆頭にあって傾奇者。。。
前代未聞の規制緩和でした。

芝居、踊り、祭り・・・全国の人が名古屋を目指し、金を落としていきました。
空前の活況・・・現代にいたる名古屋繁栄の礎を築いたのは尾張宗春!!
その存在を許せなかったのは、八代将軍・吉宗!!
自らの方針・・・質素倹約に反すると詰問!!

1696年尾張藩主・綱誠の20男として名古屋に生まれます。
尾張藩を継ぐことなど夢のまた夢・・・へ休みの生活でした。
18歳で江戸に移り住んだ宗春は、華やかな元禄文化の香りが残る江戸で町民とも近くに育ちました。
そんな宗春の運命を大きく変えたのが徳川吉宗!!
吉宗もまた、紀州藩の部屋住みから藩主・・・将軍にまで上り詰めた男でした。

二人に共通するのは・・・帝王学を学んだわけではないので、視野が広く、市中・農民に関心を持ち知識がありました。
自分と同じような境遇の宗春に特に目をかける吉宗!!
1729年梁川藩主に抜擢されます。
宗春も期待に応えるべく、政治に取り組みます。

福島県伊達市には宗春のこんなお触れが出ました。
”この度東医宝鑑の値を引き下げる。
 百姓・町民に知らせ、昨日者に買い取らせるように”
「東医宝鑑」は、朝鮮の医学書で、将軍吉宗が諸国大名に配布した書物です。
これを庶民にまでいきわたらせようとしたのが宗春です。
しかし・・・二人の間には相いれない部分もありました。

経済政策です。
将軍を継いだ吉宗が直面していたのが40万両にも及ぶ巨額の赤字でした。
破産寸前の赤字に吉宗は、上下挙げての倹約で立ち向かいます。
将軍自ら一汁三菜に・・・支出を削減し、庶民の生活にも・・・婚礼衣装にまで規制し、贅沢を禁じました。
徹底した引き締めで、江戸にお金が回らなくなると、それは全国へと波及していきます。
経済活動が停滞し、年貢の強化により民に痛みを強要する吉宗・・・。
それに疑問を抱く宗春!!

1730年、兄の死去によって尾張藩藩主となった宗春。
御三家筆頭として吉宗を支える・・・と、吉宗は期待するものの・・・
1731年名古屋東照宮祭礼への規制緩和。
倹約によって縮小されていた祭りを、以前の祭りに戻しました。
からくり人形・・・幕・・・山車・・・極端に派手になっていきます。
同年、禁止されていた藩士の芝居見物も許可、繁華街が出来上がります。
人だかりをあてこんで、商店が増えていきます。
伊勢や江戸の名物が、名古屋にいながら食べられるようになります。
越後屋、大丸など呉服商なども進出・・・日本中が倹約を強いられる中、名古屋に人も者も集まってお金が落ちます。
人口も、5万人から7万人に増加・・・ここに、江戸、京、大坂に並ぶ大名古屋の礎が出来たのです。

どうして宗春は吉宗の方針に逆らったのでしょうか??
文書「恩知政要」によると・・・
”道理をわきまえぬ倹約では、慈悲の心は薄くなり、むごく不仁な政治となる
 法令が多くなり過ぎると、人の心は狭く、いじけたものになる”
吉宗の政治は秩序維持、統制強化なので、人々は委縮しがちですが、宗春の規制を緩和することで人々は解放される・・・地域で幸せになる!!
自治の思想が強かったようです。

名君の噂は広まり、1732年には京の版元が「恩知政要」を出版計画!!
高まり始めた宗春待望論!!
これを、吉宗は見過ごすことが出来ませんでした。

1732年5月、江戸・尾張藩邸で盛大な催しが繰り広げられました。
家康から賜った貴重な旗やのぼりや並べられ、町人も見物が許されました。
嫡子・萬五郎の初節句を民とともに祝おうという宗春の趣向でした。
倹約で締め付けられていた江戸の人々は、気風のいい殿さまに喝さいを・・・!!
しかし、将軍のおひざ元での度を超えた行いは、吉宗の逆鱗に触れます!!
一月後・・・「恩知政要」の出版禁止を通告!!
希代の名君と言われた宗春に・・・
もともと将軍職を継ぐことのなかった吉宗にとって・・・宗春の行いは脅威としか映らなかったのです。

吉宗は尾張藩邸に二人の使者を向け、三か条を突きつけます。
①江戸でほしいままに物見湯残をしたのはなぜか?
②嫡子の節句祝いをみだりに町人に見物させたのはなぜか?
③倹約令を守らないのはなぜか?

将軍からの直々の質問・・・
答え方ひとつで、尾張藩の行く末までも決めかねない・・・。

このまま独自路線??
謝罪し方針に従う・・・??

宗春は、中央との関係を破たんさせないための対策をとっていました。
付家老・成瀬正泰。。。付家老とは、幕府から御三家にお目付け役として派遣される家老のことです。
就任の翌年、宗春は正泰に家督を継がせ、付家老の地位を継承させています。
しかも、成瀬家の公式記録には、宗春の名が・・・個人的に関係が深かったようです。
付家老は、参勤交代の時に、藩主についていき、将軍に直接お目にかかります。
老中との関係も密だったのです。

使者の詰問に対して・・・
①江戸での物見遊山に対して・・・
江戸では慎んだんだふりをして国元で遊びふけるようなことはせぬ
②節句祭りを庶民に見せたことに対して・・・
見せてはいけないという法律など聞いたことがない
③倹約令を守らないことについては・・・
我が藩は、民に重い税をかけず、経済を混乱させる藩札を発行していない
民とともに世を楽しんでいる。

これが清の倹約である!!と、断固たる態度をとったのでした。

翌年・・・宗春は・・・木曽山中での巻狩を計画!!
宗春は村々に1000人単位の人員を招集・・・その数2万人以上!!
巻狩とは、シカやイノシシなどを四方から追いつめる狩りのことです。
藩主の命のもと、藩士や領民が規則的に動くのは、軍事演習としての側面が!!
そしてもうひとつ・・・宗春は、巻狩による経済の活性化を狙っていました。
尾張藩全てが元気になるように!!
しかし、尾張藩が大量の武具を集め始めたことが色々な憶測を呼んでいきます。
幕府を刺激しかねない計画に、藩の重臣たちは猛反対!!計画は中止に追い込まれます。
独自路線を突き進んだ宗春・・・その足元は、揺らぎ始めていました。

名古屋の賑わいを取り戻した宗春・・・
しかし、度重なる祭りや派手な催しの財政負担は莫大で・・・財政赤字2万7000両に転落!!
巻狩中止の翌年には、重臣たちも宗春と距離を置き始めます。
あれほど親密だった成瀬正泰も・・・
尾張藩・反宗春の動きを見逃さなかった吉宗!!
ターゲットは成瀬と並ぶ付家老・竹腰正武!!
1736年、吉宗は、わざわざ正武を御前に呼び密談。
そして2年後・・・鉄槌が下されます。
1738年、参勤交代で宗春が江戸に向かったとちぃい・・・
竹腰ら尾張藩重臣たちが、規制緩和政策をすべて廃止!!

藩主不在を狙ったクーデターでした。
あくる年正月・・・吉宗は尾張藩・重臣を呼び出し言いました。
「宗春の不行跡により。国の政治が整わず民が困窮した
 謹慎を命ずる!!」
江戸藩邸で知らせを受けた宗春は・・・
「おわり 初もの」
御三家筆頭・尾張藩主の治世がこのような形で終わるのは初めてのこと・・・。
無念さのにじみ出る一言でした。

その後宗春は、名古屋城下の屋敷に幽閉・・・
実母の葬儀の参列すら禁じられました。
それから25年後・・・波乱の生涯を閉じたのでした。
1764年享年69歳・・・
幕府は死してなお許さず・・・墓石には金網がかけられたと伝えられ・・・
尾張藩でも宗春に関する記録のほとんどが抹消されました。
しかし、民衆は宗春を忘れることがありませんでした。

「遊女濃安都」・・・ゆめのあと・・・
意味が悟られないように当て字となっていますが、幕府の処罰をはばかりながら、宗春の時代を語り継ぎました。
”かかる面白き世に生まれあうこと 前世の利益ならん”
人々は宗春の再来を夢見たのでした。

宗春の表した「恩知政要」には、二つの文字が・・・”慈””忍”
民を慈しみそのためには為政者は我儘を耐え忍ばなければならない。
何よりも民のことを考えた宗春の思いは、人々の中に受け継がれていったのでした。


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GWも最終の5月7日8日は、「紀州九度山 真田まつり」。
私たちはトークショーのある8日に行ってきました。

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地元民としては、あんまり来てくれていなかったらどうしよう・・・??
なんて思っていましたが、そんな私の心配をよそに、たくさんの人で大賑わい・・・大盛況でした。

紀州の九度山は、関ケ原の戦いで”秀吉側”についた真田昌幸・信繁親子・・・
兄・信幸は徳川方だったので、家康に頼み込んで昌幸・信繁たち二人の命だけは勘弁してもらいましたが・・・和歌山の九度山の地に流されました。
ということで、今でもかなりの田舎ですが、流されるぐらいだから・・・当時は本当に辺境の地だったのでしょう。

このお祭りは、道の駅「柿の郷くどやま」の芝生広場(↑)や真田庵など・・・
九度山で13年間の雌伏の時を過ごした真田幸村父子を偲んで行われるお祭りです。


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道の駅「柿の郷くどやま」の芝生広場から、九度山町商店街や真田庵まで、戦国さながらの武者行列総勢200名がが練り歩くとともに、真田鉄砲隊の演舞があります。
この武者行列、真田昌幸、幸村、大助をはじめ、真田十勇士などの甲冑をまとった武将たち総勢200名が街中を練り歩きます
なので、戦国マニアにはたまらないですね。

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この日は町中、ほんと、赤一色になってました。
盛り上がる~~~!!

そして、戦国マニアでもなく、史跡、神社仏閣はNo thank youな娘のお目当ては・・・

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この日のトークショーのために来ていた豊臣秀頼役の中川大志君です。
フレッシュな17歳ですって!!

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可愛いですね。
ジャニオタの娘によると、ファンサービスが旨くないところが、ジャニーズと違って素人感があってまたいいのだそうだ。
「大志く~ん!!」と、手を振ってましたよ。

そして、私と旦那さんのお目当てはもちろんこの人!!

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パパ上様です。
何ともかっこいい!!本当にかっこいい!!
赤備えにちなんで、車も真っ赤なオープンカーです。
そりゃあ、あの格好でパレードしてほしかったですが・・・そこまでは言うまい・・・。

警備をしているお兄さんも言っていました。
「正雄人気すっげー!!」って。

本当は真田ミュージアムにも行きたかった・・・
が、娘ももうすぐテスト発表ということもあって・・・時間が・・・
ま、車で1時間の距離だしね。。。また見に来ます。

それにしても、駐車場もいっぱいで・・・たくさんの人に来ていただけました。
和歌山は海とミカンと梅干しにマグロのイメージですが、本当に歴史もあっていいところなんですよ。
高野山も、熊野古道もあるしね。
あ・・・ちなみにこの九度山の柿は日本一です。

それにしても、惜しいのは和歌山城・・・
太平洋戦争まではそのままだったのに・・・それなら国宝だったのに・・・。
と、アメリカに文句を言ってみる・・・。

いえいえ、それより娘よ、小さい頃からあれだけ神社仏閣に連れて行っていたのに・・・
毎日のように神社にお参りに行っていたのに・・・
私と旦那さんの子なのに・・・どうして嫌いになったんだろう・・・??
「どこに行きたい??」by私
「??神社仏閣以外っ!!」by娘

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いざ、真田の聖地へ

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筆捨松と硯石。

わくわくハイクなので、歩きますよ!!

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お~、急な坂です。
でも、みんなガンバるわよ

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まさに”蟻の熊野詣”ですよ。


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この筆捨松、そのいわれは・・・
平安初期の仁和(885)のころ、絵師巨勢金岡は熊野への途中、藤白坂で童子と出会い競画をすることになりました。
金岡は松にウグイスを、童子は松にカラスの絵を描いたのですが。。。

金岡は童子の絵のカラスを、童子は金岡の絵のウグイスを、手を打って追うと、両方とも飛んでいってしまいました。
童子がカラスを呼ぶと、どこからか飛んできて絵の中に収まったのですが、しかし、金岡のウグイスはついに帰りませんでした。

金岡は「無念!」と筆を投げ捨てたといいます。
その筆は、「投げ松」のところへ落ち、以来、筆捨松と呼ばれてきました。

その童子は熊野権現・・・おもいあがった巨勢金岡を、熊野の神様がいましめたというお話です。

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17世紀になって・・・その故事にちなんで初代紀州藩主徳川頼宣公が筆捨松のそばに造らせたのがこちら。

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硯石です。


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こんなに大きな石、どこから持ってきたんだか・・・
修業なんだろうか、罰ゲームなんだろうか??
細くて急な山道をどうすんねん!!って感じですが、昔の人は本当にすごいですね。

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昨日はとてもいいお天気でした。
なので、和歌浦の方にドライブしました。
雑賀衆も、ここら辺の港に船を置いていたのでしょうね。
ここは、和歌浦にある「紀州東照宮」です。

駐車場に車を止めると、潮のにおいがします。
海が近くにあるからです。黒ハート

とっても長い階段は、すごく辛いあせあせ(飛び散る汗)
インドア派の私には、とってもしんどいですが、やっぱり「神さん」は、正面からお参りしないとね・・・。

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この紀州東照宮は、和歌山市和歌浦に鎮座する神社です。江戸幕府初代将軍徳川家康を神格化した東照大権現と紀州藩初代藩主徳川頼宣を神格化した南龍大神を祀っています。


急勾配、108段の階段を上がって、死にそうになりながら楼閣をくぐると・・・。

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こちらが東照宮本殿です。
この社殿の結構は「権現造り」または「石の間造り」といって、桃山時代の遺風をうけた江戸初期の代表的な重要文化財建造物です。

漆塗り、極彩色の精巧な彫刻、狩野、土佐両派の絵によって荘厳された豪華さは、まさに関西日光の名に恥じません。

左甚五郎の彫刻の多いのも稀有ですが、楼門の朱塗り極彩色は、関西唯一といわれます。

武具類、陶器、絵画などの宝物の他、重要文化財の刀剣、衣料など17点の秘蔵も有名です。


毎年年5月に行われる、和歌祭といわれる神輿渡御祭、ぜひ見に来てください。


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昨日は「お日柄もよく・・・」だったのですね。
帰りがけにお嫁さんを見ました。揺れるハート
なんだか、趣がありますね。
お幸せに。黒ハート

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