日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:細川ガラシャ

1582年6月2日・・・天下統一目前で織田信長が家臣・明智光秀の謀反で命を落とします。
本能寺の変です。
戦国の世を大きく変えたこの事件は、信長と光秀を取り巻く女たちの運命も翻弄しました。
光秀の娘・・・細川ガラシャもその一人です。

戦国の革命児・織田信長が、尾張の一大名から天下布武を掲げ走り出したころ・・・
1563年、細川ガラシャは武勇、教養を兼ね備えていた明智光秀の三女・玉として生まれました。
ガラシャとは、キリスト教の洗礼名です。
幼少の頃の玉の記録はありません。
歴史にその名が現れるのは、16歳で名門・細川家の嫡男・忠興と結婚した時です。
当時、二人の父・・・明智光秀(近江国)と細川忠興(山城国)は、織田信長の家臣した。
その婚儀を取り持ち、媒酌人を買って出たのが、主君・信長本人でした。
そこには信長の思惑がありました。
この頃の明智光秀は信長の重臣で、西を攻める・・・細川藤孝も援軍として、この二組を固く結びつけようとしていたのです。
京都府長岡京市・・・細川家の居城・勝龍寺城で婚儀が執り行われました。
誰もがうらやむ美男美女のカップルでした。
夫・忠興は玉の美しさに惚れ込み、手作りのカルタを作るなどして喜ばせ、夫婦仲は良かったといいます。
結婚した翌年には、長女・於長、その翌年には長男・忠隆が生れます。
そんな中、明智家は丹波国を、細川家は丹後国を見事平定・・・拝領し、順風満帆でした。
勝龍寺城での生活が、玉にとって一番幸せな時期でした。

玉は、美しいだけでなく、和歌、儒学、仏教にも精通していました。
才色兼備で、義父・細川藤孝も「一入 最愛の嫁」と絶賛していました。

1582年6月2日、結婚から4年がたった玉20歳の時・・・運命が急転します。
本能寺の変が起きるのです。
父・明智光秀が、主君である織田信長を討ったことで、謀反人の娘となってしまった玉・・・
これが悲劇の始まりでした。

ガラシャの悲劇①謀反人の娘

信長に謀反を起こした光秀は、すぐさま細川家に援軍を要請・・・
上洛し、味方に加わるように書状を送りました。
しかし、細川家が出した答えは非常なものでした。
「光秀は主君の敵」
光秀に味方することを拒んだのです。
当主の藤孝は、髻を切って息子・忠興に家督を譲ります。
主君信長への哀悼の意を示します。
昵懇であった実家と嫁ぎ先の対立・・・その狭間で苦しむ玉に・・・
織田家、細川家家臣たちから謀反人の娘・玉に対する離縁や自害を求める声があがります。

この時夫忠興が取った策とは・・・??

父を助けてほしい・・・愛する夫と一緒にいたい・・・そう願う玉・・・
夫・忠興に一縷の望みを託していました。
しかし、忠興は・・・「最早、共に暮らすことはできない」そう言って、玉を丹後国のはずれ味土野に幽閉してしまうのです。
明智軍記には、味土野に明智家の茶屋があったといいます。
忠興は、玉を実家ゆかりの地へ移すことで、様々な圧力から守ろうとしたのです。
そんな忠興の気持ちなど知る由もない玉は・・・
「(父上が)腹黒なる御心ゆえ
 自らも忠興に捨てられ
 微かなる有り様なり」と、認めています。
本能寺の変から11日後・・・1582年6月13日、山﨑の戦い
父、光秀は信長の家臣だった羽柴秀吉と戦い、惨敗・・・敗走する中、落ち武者狩りにあい落命・・・母や玉の男兄弟たちも命を絶ち、明智家は乱世に散りました。

玉は・・・数人の家老と侍女をつれ、陸の孤島で幼い子たちとも引き離され孤独の日々を送っていました。
この時、身籠っていた玉は、次男・興秋を出産。
そんな玉の支えとなっていたのは、身の回りの世話をしてくれていた清原いとという侍女でした。
このいとは、儒学者の娘で、玉の教養の高さは彼女の影響もあったようです。

秀吉の臣下となり武功をあげて行った細川忠興は、妻・玉の幽閉を解いてもらえるように秀吉に願い出ます。
秀吉は、あっさりと主君・信長の敵を許します。
この頃、秀吉自身は地位を不動のものとしていました。
徳川家康、織田信雄など周りに敵もいたので、忠興が自分の手足となって働いてくれるようにと思ってのことでした。
かつて大阪での大坂での屋敷のあった地に玉は戻ってきました。
しかし、その暮らしは幽閉生活よりも苦しいものでした。

ガラシャの悲劇②戦国一の美女
玉の幽閉中に側室を持ち、子まで成していた夫・忠興・・・たまに厳しく接します。
それは、かつての優しい夫ではありませんでした。
短気な忠興に、頑なになっていく玉の心・・・。
どうして忠興は玉に厳しかったのでしょうか?

”彼女に対して行った極端な監禁は、信じられぬほど厳しいものであった”byルイス・フロイス

そして出入りを逐一報告させました。
窮屈な生活を強いられていた玉・・・どうしてそんな必要があったのでしょうか?

理由❶謀反人の娘ということへの世間体を気にした
理由❷戦国一の美女だったので、忠興の過度の嫉妬がそうさせました。
     美しい妻が、他の男の目に触れることを嫌ったのです。

次第にふさぎ込んでいく玉・・・。
常に監視されている窮屈な暮らし・・・

玉を他の男の目に触れさせたくない・・・その心を最も駆り立てたのは、主君である秀吉でした。
忠興が秀吉の命で朝鮮出兵した時の事・・・
秀吉が九州の名護屋城に大名たちの妻子を招き、茶会を行うという噂を聞くと、忠興はいてもたってもいられず、玉に何度も手紙を送っています。
その中には歌も・・・

なびくなよ
  わが姫垣の
       女郎花
男山より
  風は吹くとも

女郎花とは玉の事、男山は秀吉の事・・・どんなことがあってもなびくなということです。
秀吉は女好きで有名で、留守見舞いとして家臣たちの妻を呼び寄せていました。
それであわよくば自分のものにしようと・・・そこを気にしていました。
そんな忠興に対して、こんな歌を返しています。

なびくまじ
   わがませ垣の
         女郎花
男山より
  風は吹くとも

そして茶会当日・・・玉はある覚悟をもって秀吉と謁見します。
秀吉の前に進み出て挨拶をした玉は、その懐からわざと短刀を落としたのです。
私に触れれば自害するという意思表示でした。
流石の秀吉もその覚悟を知り、そのまま帰したといいます。
とはいえ、自分の幽閉中に側室を持ったうえ、嫉妬・監禁というゆがんだ愛情表現・・・
玉の夫への不信感は強まっていきます。
そんな中でも、忠興のある話には熱心に耳を傾けました。
キリスト教の話です。
忠興は、親交の深かった大名・高山右近から聞いたキリスト教の教えを玉によく聞かせました。
何より自分の話を聞き、こちらだけを見てくれる・・・
玉の心を唯一引き止められる幸せな時間でした。

1549年、イエズス会の宣教師ザビエルによってキリスト教は伝えられました。
30年余りで全国に広まり、信者は15万人に達したといいます。
夫・忠興からキリスト教の話を聞かされた玉は、その教えに大きく心を動かされました。

「神の前では何人も平等であり、愛をもって接しなければならない」

玉は、教会に行き、もっと教えを聞きたいと思うようになっていきます。

ガラシャの悲劇❸キリシタン
厳しい監視の中、外に出ることのできない玉に、チャンスが巡ってきたのは1587年3月のことでした。
夫・忠興が秀吉の命を受け、九州討伐へ・・・!!
大坂の屋敷を離れたのです。
玉は、病気と偽り部屋に籠ると監視の目を欺き、侍女たちと屋敷を抜け出します。
向かったのは、天満の教会です。
玉は、日が暮れるまで宣教師にキリスト教の教えについて質問を繰り返しました。
玉に会った宣教師は・・・イエズス会日本通信にこう書いています。

”これほどの理解力を持つ聡明な日本女性を見たことがない
 明晰かつ果敢な判断ができる女性であった”

玉は、すぐに洗礼を受けることを望みましたが、かないませんでした。
細川家の素性を明かさない玉を、宣教師が怪しんだからです。
諦めて屋敷に戻った玉でしたが、その後、外出の機会がもどってくることはありませんでした。
そこで、どうしてもキリシタンになりたかった玉は、まず侍女・清原いとに洗礼を受けさせます。
そしてそのいとから洗礼を受け、ようやくキリシタンとなったのです。
洗礼名はガラシャ・・・ラテン語で神の恩恵という意味です。
玉という名から連想された”賜る”からつけられたといわれています。
この時、25歳でした。

どうしてガラシャはそこまでしてキリシタンになりたかったのでしょうか?
儒教の”三従の教え”から解き放たれたかったのでは・・・??
三従の教え・・・子供の時は父に、結婚してからは夫に、年老いたら長男に従うというものです。
女性は生涯男性にしたがうという三従の教えから解き放たれたかったのです。
そして三男の忠利が病弱だったため、その回復を願ったのだともいわれています。

キリシタンとなって充実な日々を送っていたガラシャですが、生きる希望となっていたキリスト教が、またもや悲劇を起こします。
1587年6月・・・九州を平定した秀吉が、キリスト教への入信および日本人奴隷の売買への禁止、宣教師の国外退去を命じる伴天連追放令を発布しました。

秀吉は、実際に九州に足を踏み入れて、キリスト教が強くなってきていることに気付いたのです。
長崎の出島をイエズス会が占拠している・・・!!
憤りを感じているところへ、日本人の男女が奴隷として東南アジアへと売られていったことを知ります。
そしてキリスト教徒の結束力の強さ・・・そこに信長が苦しめられてきた一向一揆と同じものを・・・結束力の恐ろしさを感じたのです。
秀吉のキリシタンに対する迫害は、次第に強くなっていきます。
大名たちにもキリスト教を禁止・・・破ったものは領地没収など厳しく接します。

秀吉がキリスト教への締め付けを強める中、ガラシャは娘や侍女たち、家臣たちにも洗礼を受けさせていました。
これに激高したのは九州から帰ってきた細川忠興でした。
忠興は、ガラシャの喉元に短刀を突き付け改宗することを迫りましたが、ガラシャは決して首を縦に振りませんでした。
そこで、忠興は、洗礼を受けた周りの者たちを攻撃し始めます。
キリシタンとなった侍女たちの髪を切ったり、鼻や両耳を削ぎ落され屋敷の外に追い出されるものまでいました。
忠興自身もキリシタンに共感している部分もありましたが、秀吉も伴天連追放令を出したことに従うほか、家を守れませんでした。
妻がキリスト教にのめり込んでいく・・・立場上許せませんでした。
ガラシャは、忠興との離縁を望むようになります。
侍女を通じて宣教師に相談するも・・・・キリスト教では離婚は禁じられているといわれます。
ガラシャは覚悟を決めて宣教師に手紙を書きました。

「どのような迫害を受けようとも、私の信仰はかわりません」

厚い信仰心で自らの人生に立ち向かう決意をしたガラシャでしたが、時代の大きな波にのまれようとしていました。
1598年8月18日、天下人・豊臣秀吉死去・・・
秀吉亡き後、天下を狙って暗躍する徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成が対立・・・
再び戦乱に・・・
徳川家康の東軍7万8000VS石田三成の西軍・8万4000!!
天下分け目の関ケ原の戦いが始まりました。
しかし、この大戦は、わずか半日で決着・・・!!家康の東軍の圧勝で終わりました。
この勝敗に大きく関係していたのが、細川ガラシャだといわれています。
関ケ原の戦いとガラシャの関係とは。。。??
関ケ原の戦いの3か月前・・・細川忠興を始め多くの大名たちが家康に反抗していた上杉討伐の為に会津へと向かいます。
大坂城下に残されたのは、夫を待つ妻たち・・・。
三成は、敵対する大名の妻子を大坂城内に人質にとる作戦に出ます。
人質として三成がどうしても欲しかったのがガラシャでした。
ガラシャを人質にすれば、妻を溺愛する忠興は必ず寝返りする・・・!!
そうなれば、他の大名たちの次々と味方に付くだろうと考えたのです。

7月16日、三成の使者が大坂城下の細川家の屋敷を訪れて・・・
「御上様(ガラシャ)を人質として差し出すように・・・さもなければ屋敷に押しかける」
この時、大坂に残った細川家の重臣たちが出した結論を、侍女が書き残しています。
”一人も人質なし”と・・・!!
絶対に人質になってはいけないというのです。
この判断の元、ガラシャは人質になることを拒絶!!
すると翌日・・・石田軍によって細川家は取り囲まれてしまいます。
危機が迫る中、ガラシャの脳裏によぎったのは夫の言葉でした。

「いざという時には、そなたも細川忠興の妻として自害するように。」

ガラシャは悩みます。
キリスト教では自殺は禁止されていました。
しかし、このままでは人質として捕らえられてしまう・・・
そうなれば、妻としての面目が立たない・・・!!
神への祈りをささげたガラシャは侍女たちを集め、自らの覚悟を話します。

「私はひとりで死にます。
 皆は逃げよ・・・!!」

そして、夫に宛てた遺言を託すのです。

「側室を正室代わりにされることはないように」

妻の意地を見せたガラシャに、最早迷いはありませんでした。
そして家老である小笠原秀清に言います。

「私の胸をその長刀で突きなさい」

自害せず、家臣に殺させることでキリストの教えを守り、死によって大名の妻として細川家を守ったのです。
残った家臣たちもガラシャに続いて自刃・・・屋敷に火が放たれ、遺体は炎に包まれました。
細川ガラシャ・・・この時38歳・・・妻の死が、上杉討伐に行っていた夫・忠興の元に伝えられたのは数日後のことだったといいます。
この一連の出来事について細川家の記録にこう書かれています。

「自害せしむるの間 三成怖れて 人質を取り入ることならず」

ガラシャを死なせてしまったことで、三成は怖気づいてしまったのだ・・・と。
この事件が、三成が正室を人質にとる作戦を諦めさせる原因となりました。
結果、関ケ原の戦いで家康が不利にならずに済んだのです。

男たちの争いに翻弄されたガラシャの辞世のうた・・・

散りぬべき
   時知りてこそ
       世の中の
花も花なれ
      人も人あれ

散り際を知っている花は美しく、私もそうなりたい・・・
その潔い死は、歴史を大きく変えたのでした。

キリスト教が禁じられている中、忠興は妻の葬儀を教会で行いました。
その際、涙を流し泣き続けたといいます。
そして忠興は亡くなる83歳まで正室を迎えることはありませんでした。
ガラシャの遺言通り・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いと、戦国の覇権争いに巻き込まれ、波乱の人生を送ったガラシャ・・・
自らが招いたわけではない悲劇に、何度も身を引き裂かれるような思いをし、キリスト教という救いに出会い、慈悲深い心で戦乱の世を必死に生き抜きました。
ガラシャはまさに戦国の世を象徴する女性でした。

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細川ガラシャ:散りぬべき時知りてこそ (ミネルヴァ日本評伝選)

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細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯 (中公新書)

大阪市中央区にある純白の大聖堂・・・カトリック大阪大司教区・大阪カテドラル聖マリア大聖堂・・・
荘厳な大聖堂の正面には、生母マリアが日本画壇の重鎮・堂本印象によって描かれています。
マリアの前に跪く女性は、戦国時代きっての美女とうたわれた細川ガラシャ。
ガラシャは、織田信長を本能寺で討った明智光秀の娘で、乱世を生き抜いた細川忠興の妻です。
豊臣秀吉、徳川家康の天下取りに翻弄され、悲劇的な死を遂げたガラシャ・・・。

世は大航海時代・・・南蛮渡来の先進文化が日本にも押し寄せ、宣教師たちがもたらしたキリスト教は庶民にまで広がっていました。
そして、キリスト教に入信したガラシャには、過酷な運命が待っていました。

1574年正月、織田信長の居城・安土城のこと・・・天下統一に邁進する信長は、重臣・明智光秀の娘・玉を細川藤孝の息子に嫁がせるように命じました。
信長は、政権基盤確立のために、家臣たちに婚姻でむすびつけ、強大な結束を結ぼうとしていました。
光秀の娘・玉子・・・後のガラシャ12歳は、夫・忠興も同じ年でした。
信長の命令から4年後、16歳になった玉子は細川忠興のもとへ輿入れしました。
玉子が嫁いだのは、京都・・・長岡京市にある勝竜寺城・・・陸の交通と水運の要衝に位置したこの城は、今は公園となっています。
城内には、玉子が嫁いだころからの井戸が残っています。
玉子はどんな女性だったのでしょうか?

結婚から間もなく一男一女をもうけた玉子と忠興夫妻・・・
戦での功績も目覚ましく、細川家は信長から丹後国を与えられます。
はれて12万石の城持ち大名となった細川家・・・玉子の未来も限りはありませんでした。
ところが・・・玉子の人生を一変させる事件が起こります。
1582年6月2日・・・本能寺の変・・・父・明智光秀が突然織田信長を襲います。
光秀は、娘・玉子の嫁ぎ先の細川家に援軍を求めます。
羽柴秀吉らに対抗する為に・・・!!
しかし、細川藤孝・忠興親子はこれを拒絶!!
藤孝は出家し、信長を弔う姿勢を見せます。
忠興は怒りのあまり、光秀の使者を斬り殺さんばかりでした。
援軍を得られないまま秀吉との決戦に敗れた光秀・・・。
その他の明智一族も、玉子を除いてほとんどが命を落としました。
細川家の嫁でありながら、謀反人の娘となってしまった玉子・・・人生最初の選択に迫られます。

明智の娘であるから、謀反人の娘として生き恥をさらすなら自害すべき??
この時、玉子は3人目の子を身籠っていました。
「御身の父光秀は、主君の敵なれば同室叶ふへからす」by忠興
忠興は、玉子を離縁して、三戸野に幽閉しました。
要害の地で切ない日々を過ごす玉子・・・。



細川家は、形勢が逆転し、明智の味方が増えたなら・・・
玉子を生かしておくことで、両天秤にかけたのです。
男たちの思惑によって、子供たちと離れてしまった玉子・・・。

身をかくす 里は吉野の奥ながら 花なき峰に 呼子鳥なく

「謀叛人の娘」というレッテルを貼られたものの、子供に細川家を継がせることで、明智の血を後世まで残すこと・・・
明智家からついてきた侍女や家臣も守らなければいけない・・・
そのためにも、自分が今、命を絶つわけにはいかない・・・
幽閉の翌年、水戸野で男児を出産した玉子・・・数え21歳でした。

幽閉から2年・・・信長のあと天下の実権を握った秀吉は、大坂に大きな城を築きつつありました。
党第一の実力者となった秀吉から、玉子との復縁を許された忠興・・・
父・光秀を討った秀吉の許しで、玉子は大坂城下の細川邸に正室として返り咲きました。
秀吉が美貌で噂の玉子との面会を望んだ時・・・

「秀吉は父の仇・・・殺されても出ていくことはありません。
 それでも強いてということなら、懐剣で刺し殺し、復讐を果たします。」by玉子

気丈に振る舞う玉子でしたが、忠興は厳しく監視します。
それは、嫉妬とも旧織田勢から守るためだったともいわれています。
謀反人の娘というレッテルを貼られた世間の目に苦しんで、精神の変調をきたす玉子。。。
細川家の正室としての態度をしっかりとしながらも、閉じ込められた苦しさ、悩み、ストレス・・・
その葛藤が気鬱となって現れます。

この頃、世界は激動の時代を迎えていました。
航海技術の発達によって、スペインとポルトガルがアジアやアメリカに進出していました。
新たな交易ルートの開拓や、領土獲得を目的とした大航海時代の到来です。
スペインとの覇権争いの中、ポルトガルが日本に・・・
南蛮船との交易で、利を得ようと大名たちは自領の港を開きました。
南蛮船によって、イエズス会の宣教師も来日・・・宣教師たちは有力大名たちに領内での布教を認めさせていきます。
大名の中にも自らキリスト教に入信する者も相次ぎます。

大阪府高槻市・・・かつてここは、キリシタン大名として知られる高山右近の領地でした。
領内からは、キリシタンゆかりの品が見つかり、キリスト教が広く普及していたことを伺わせます。
キリスト教は、広く人々に受け入れられます。
大坂城築城と同時期に、キリスト教に入信する大名が増加します。
その多くが、黒田官兵衛ら大坂に直接地縁のない武将たちでした。
天下統一に向け各地から来た彼等は、キリスト教で団結を図ったとも考えられます。
キリスト教に興味を持った人の中に、気鬱になっていた玉子もいました。

1587年秀吉の命令で、忠興は九州へ出兵!!
忠興の留守中、玉子は屋敷近くの教会へ向かいます。
これをきっかけにキリスト教に傾倒していく玉子・・・。
キリシタンの考え方は、基本的に一夫一婦制。
自分の疑問に・・・心の葛藤を解決してくれるのは一体何なのか??
それは、儒教的考えや仏教的教訓ではないと考えるようになります。
キリシタンの教えを勉強するようになります。

抑えがたい衝動にかられた玉子は、キリスト教への入信を決意し、洗礼名をガラシャに・・・。
それは、ラテン語で恩恵を意味するグラティアを意味していました。
キリシタン細川ガラシャの誕生でした。

西洋の文物は、土豪出身の戦国大名の権力を高める文化になりました。
おまけに実利がある・・・。

1587年6月、九州を平定した秀吉は驚くべき法令・・・伴天連追放令を出します。
それは、キリスト教を邪法をし、バテレンは20日以内に国外退去せよというものでした。
領内でキリスト教に深く帰依している大名たちに危機感を抱いたからです。
見せしめに南蛮寺と言われた教会が、京都をはじめ50カ所以上破壊されました。
宣教師たちの多くは、一旦長崎に逃れ、潜伏を余儀なくされます。
ガラシャは心を痛め、苦悶の日々を送ることとなります。

伴天連追放令から11年後・・・秀吉の死によって新しい展開が・・・
秀吉亡き後、天下取りに動いた徳川家康!!
これに対抗したのが石田三成!!
ガラシャの夫・細川忠興は、家康に味方しました。
家康は会津征伐のために、伏見城から京を出ました。
忠興も軍を率いてこれに従います。
忠興は、出陣に際しこう言い残します。

「ことが起きれば恥を着せられぬよう振る舞え」

これが、ガラシャの人生を大きく変えることに・・・
忠興らの出陣から間もなく、大坂で噂が立ちます。
家康に従い関東に出陣している諸大名の妻を石田方が人質として大坂城に取り入れるというのです。
時を置かず、細川邸に石田方から密かに使者が・・・

「内々に大坂城へご登城されたい」

ガラシャを人質に出し出せとの要請でした。
ガラシャは毅然と言い放ちます。

「夫・忠興のためにはどのようなことがあっても同意できません」

しかし、彼女は大きな問題を抱えていました。
登城を拒否し続けていれば、いずれ力づくで拘束に来る・・・
その時は、夫の言いつけを守り命を絶たなければならない・・・
しかし、キリスト教は自殺を神に対する罪としている!!
忠興の出陣から3週間・・・石田方は正式な使いを差し向けガラシャに登城を迫ります。
家臣たちはガラシャを守るために、細川家の重臣たちは、細川の本拠地丹波に逃がそうと考えていました。
事ここに及んでは人質になるしかないのか・・・??
それとも身をかくすのがいいのか・・・??
それとも自害する・・・??
自害を禁じているキリスト教・・・その時は、神が決めるのだ・・・!!
神はどこまで私に試練を与えるのか・・・??

1600年7月17日、石田方に取り囲まれた細川邸から火の手が・・・
ガラシャは屋敷に火を放たせ自害を選びました。

最後を見届けた侍女が後に語っています。
細川家の重臣たちが相談し、いざという時に表門で石田方を防いでいる間に、自害する手はずになっていました。
その日の夜・・・敵が門まで迫ってきたとき・・・守備隊の寝返りもあって「もはやこれまで」と、重臣に長刀で介錯させ、ガラシャは自害しました。
そしてこの様子を侍女に忠興さまに伝えるようにと逃がすのでした・・・。

潜伏していたイエズス会の神父が、焼け跡にガラシャの骨を拾いにやらせ葬儀を行ったと言われています。
イエズス会の記録にガラシャの死はこう書かれています。

”ガラシャはその死を受け入れ、強い勇気をもって主の御旨に従い、その手にあるものとして亡くなった”

キリシタンであったけれども、最期は家に殉じた自害でした。

ガラシャはその生涯を終えるにあたり、辞世の句を書いています。

”ちりぬへき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ”

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「わが敵は本能寺にあり!!」
主君を裏切った悪人??
光秀の実像はあまりよくわかっていません。
が・・・どうして主君を討つことになったのでしょうか?

本能寺の変の後、光秀が味方を集めようと各地に送った書状が見つかりました。
この発見で、どうして光秀が信長を討つことになったのか??に関心が集まりました。
もともと長い間浪人生活を送っていた光秀・・・そんな彼を、一国一城の主としたのが織田信長です。
信長のもとで、光秀は裁縫をいかんなく発揮します。
朝廷との交渉、戦場での活躍・・・まさに信長の右腕といえる存在でした。
いわれたことをきっちりこなす理想的な部下・・・とんとん拍子の出世でした。
しかし、光秀は突如、信長に反旗を翻します。

怨恨説、野望説、四国説、前途悲観説、黒幕説・・・真相はいまだ闇の中・・・。

天下の謀反人の真の姿とは・・・??

京都府亀岡市・・・かつて、明智光秀の居城・亀山城がありました。
町では光秀の功績を称え、毎年祭りが行われます。
もともと農家が点在する場所に、光秀が城を築き、城下町として発展させたのです。
織田信長のもとで成功を手にした光秀・・・しかし、信長に仕え始めたのは41歳の時でした。
その年で、どうして信長を主君と仰ぐようになったのでしょうか?

光秀は戦国時代を迎えていた1528年美濃国明智城主の子として生まれました。
その後、美濃国は下剋上でのし上がった斎藤道三が治めるところとなり、土岐明智家も道三に仕えることに・・・。
ところが、光秀29歳のころ・・・
斎藤道三の息子・義龍が兵を挙げ、道三を討ったのです。
そして、道三の家臣だった明智家も攻撃を受けます。
1556年、29歳の時に明智城落城・・・光秀は城から逃れます。
以来、再び明智家を再興することが、光秀の使命となります。

光秀は主君を探し、何年も諸国を渡り歩きます。
「再び我らの領国を手にするためには、力ある主君に仕えねばならぬ。」by光秀
しかし、生活は厳しく、食事にも事欠く始末・・・

そんなある日、客人をもてなすことになって困り果てた光秀・・・。
しかし、豪華な料理が・・・!!
客人の帰った後、妻に聞くと・・・長く美しかった煕子の髪を売って客をもてなしていたのです。
光秀は生涯側室を持つことはなく、煕子を大切にしたといいます。
子宝にも恵まれ、光秀の三女は、後の細川ガラシャ・・・関ケ原の戦いの際に、人質になる事を拒み、死を選んだことで有名です。

放浪生活の末、越前の朝倉義景に仕えることに・・・
すでに戦国の世、武田信玄、上杉謙信、新興勢力の織田信長も台頭しつつありました。
ある日、光秀が仕える朝倉家に、思いもよらない人物が・・・後に室町幕府の第15代将軍となる足利義昭です。
当時の室町幕府は、有力大名に牛耳られていて、足利家に何の実権もありませんでした。
義昭は、復権を望んでいました。
そこで、昔から将軍家と関わりのあった朝倉家に支援を求めてきたのです。
この時光秀は、足利義昭の家臣・細川藤孝と出会います。
二人は意気投合し、強い信頼関係で結ばれます。
足利義昭の意向を知りながら、主人・朝倉義景はなかなか動こうとしません。
遂に光秀は、細川藤孝に切り出します。

「残念ながら、朝倉家には義昭公を京に上らせ奉るほどの武力も、気力もござりませぬ。
 もっと強い力と、果敢な意気に燃えた大名を求めねばなりませぬ。
 尾張の織田信長さまがおよろしかろう。」by光秀

光秀は、仲介役として信長の元へ・・・!!
二人が対面したのは、光秀41歳、信長35歳の時でした。
信長は光秀の申し入れを承諾します。
足利義昭を将軍に就かせ、その権威を利用しようとします。
こうして信長は、義昭を擁し、京へ上ります。
1568年、上洛
義昭は室町幕府第15代将軍に・・・!!
そして光秀は、朝倉義景のもとを去り、足利義昭と織田信長に仕えることになるのです。
両属といって、二人から禄をもらっていたのです。

信長と出会った光秀は、その後、織田家臣団のTOPに上り詰めます。
信長は光秀をこう評しています。
「明智光秀の働きは、天下に誇れるものである。」
どうして信長の信頼を勝ち得ることができたのでしょうか?

信長に仕えることになった光秀は、重要な役職に抜擢されます。
京都奉行です。
都の治安維持や朝廷や公家との交渉を行う要職です。
光秀は歌会や茶会を開いては、公家たちの要望を聞きだしていきます。
貴族は、各地に荘園を持っていましたが、応仁の乱以降、武士に侵略されたその公家や調停の荘園を取り戻す仕事もやっています。
公家と光秀は親密になっていきます。

1570年、朝倉義景討伐!!

しかし、同盟関係にあった近江の浅井長政に裏切られ挟み撃ちに・・・!!
撤退することさえ難しい、信長最大のピンチに、光秀は秀吉と共に金ヶ崎の退き口と呼ばれる武功を挙げます。
撤退する軍の殿を担い、見事撤退させたのです。
続いて信長が取り掛かったのが比叡山焼き討ちです。
当時、武装していた比叡山は、戦国大名さながらの一大勢力で、信長と対立していました。
しかし、寺院や仏像を焼き、僧侶を殺すことに家臣の多くは二の足を踏みます。
そんな中、光秀は、信長の命に忠実に従います。
光秀は、比叡山を壊滅させます。
こうした光秀の働きを、信長は評価します。
そして、比叡山に近い近江・坂本に5万石の領地を与えるのでした。
光秀はここに坂本城を築城し、念願の城を手に入れるのでした。
信長の家臣の中で、一国一城の主となった最初です。
明智城の落城から17年・・・ついに光秀は、明智家再興の悲願を達成したのでした。

信長に仕える一方で、足利義昭にも仕えていた光秀・・・しかし、厳しい選択を迫られることに・・・
将軍・義昭を飾りとしか考えない信長に不安を募らせた足利義昭が挙兵!!
光秀が選んだのは信長でした。
戦いに敗れた義昭は、京都から追放され、室町幕府は事実上の滅亡!!
室町幕府を滅ぼした信長は天下統一へ・・・!!
そして、48歳の光秀に新たな命が・・・!!
丹波攻略!!
丹波国には、堅固な山城が点在し、信長をはじめ、多くの戦国武将が攻めきれずにいました。
その丹波攻略を命じられた光秀!!
しかし、他のものの援軍も命じられ、各地を転戦します。
1576年、過労によって・・・陣中で病に倒れます。
それでも復帰を果たした光秀は、5年がかりで丹波攻略をします。
信長は光秀を絶賛!!
「明智光秀の働きは、天下に誇れるものである。」by信長
光秀は、攻略した丹波29万石を加増。
元々の5万石とで34万石の大名に!!
信長につかえて12年・・・信長の右腕となった光秀なのでした。

信長は次々と支配地域を拡大!!
1582年、最大のライバルだった武田氏を滅ぼします。
天下統一に大きく近づいた信長・・・
しかし、その数か月後、本能寺で討たれることとなるのです。

どうして光秀は、信長に反旗を翻したのでしょうか?
様々な説があります。
黒幕説も・・・
・朝廷黒幕説
天下統一目前の信長は、朝廷に対し不遜な態度をとるようになっていました。
そこで朝廷が光秀をそそのかし、信長を討つように仕向けたというものです。
・幕府黒幕説
信長に追われ毛利家に滞在していた足利義昭が、後ろで糸を引いていたと言うものです。
・秀吉黒幕説
本能寺の変の後の素早い行動は、事前に光秀の動きを知っていたからというのです。

光秀自身の決断??
・四国説
四国統一を目前にしていた長宗我部元親。
信長と同盟関係にあり、その仲を取り持ってきたのは光秀でした。
しかし、一方的に信長が元親との同盟を破棄!!
領地を差し出すように命じます。
光秀は面目丸つぶれ・・・信長は四国討伐を決意!!
本能寺の変の当日、四国征伐軍が出陣予定だったのです。
光秀がこれを阻止しようとした??
・怨恨説
ポルトガルの宣教師が人々から聞いたところによると、口答えをした光秀を、信長が足蹴にした。
この理不尽な仕打ちに恨みを抱いた・・・??
・前途悲観説
この頃信長は、息子たちなど身内を重用するようになっていました。
一方で、織田家に長年仕えてきた家老二人を、最近目立った働きがないと追放!!
そして、光秀にも信長の命令が・・・
現在の領地・近江と丹波を手放し、山陰地方(出雲・石見)に移れと言うもので・・・しかも、その二つは毛利家の領地・・・実力で奪えというものでした。
この時、光秀は55歳・・・将来への不安が心を占めます。
「人を道具としてしか見ておらぬ・・・」
・野望説
本能寺の変の4日ほど前、毛利出陣のための戦勝祈願を神社でしています。
翌日、この神社で連歌会がありました。
その時光秀が詠んだ歌は・・・
「時はいま 雨が下しる 五月かな」
時は土岐明智家、雨が下は天下、しるは治める・・・
つまり、今こそ自分が天下を治める時だ!!という解釈です。

果たして、光秀の真意は・・・??

1582年6月1日・・・
この時、信長の主だった家臣たちは京都から遠く離れたところで戦っていました。信長は、僅か100人の手勢と共に、本能寺に・・・!!
光秀は、毛利攻めをしている秀吉の援護に向かうために、夜8時ごろ、丹波・亀山を出発!!
光秀の決意を知るものは僅かな者だけ・・・

「我が敵は、本能寺にあり!!」by光秀

一万を越える軍勢が、本能寺に攻め入ります。
ただならぬ物音に起きた信長は、謀反を知ります。
「相手は、何者・・・??!!」by信長
「明智光秀にございます!!」by家臣
「是非に及ばず・・・!!」by信長

信長は自害し、亡骸は、炎に包まれたのでした。

信長を討った光秀は、天下をとろうと動き始めます。
しかし、光秀の天下は僅か11日・・・後に三日天下という言葉が生れるほど、あっけないものでした。
光秀は、何を読み違えたのでしょうか?
信長、長男・信忠を討った光秀は、安土城へと向かいます。
我こそが天下人という立場を示すためでした。
しかし、信長の家臣によって、安土城への橋が落とされます。
止む無く光秀は坂本城に戻りました。
橋の復旧には3日かかりました。
その間に、各地の大名たちに書簡を書き続けます。

「信長父子の悪逆は、天下の妨げ、討ち果たし候」

信長を討ったことを知らせるとともに、協力を要請します。
3日後、橋が復旧し、光秀は安土城に入城!!
しかし、ここでも足が止まります。
光秀は朝廷からの使者を待つことに・・・。
天下人として朝廷からのお墨付きをもらおうとしたのです。
待ちに待った勅使が来るまで、3日間待ちます。
朝廷からの公認を得た光秀。
一安心ですが・・・気がかりは書状を受け取って集まってくるはずの武将たちがなかなかやってきません。
原因は、秀吉の策略でした。
本能寺の変が起きたとき、秀吉は京都から200キロ離れた備中高松城に!!
毛利勢と睨み合っていました。
信長が討たれたことを知ると、迅速に行動に出ます。
毛利勢に信長の死が伝わらないようにし、停戦!!
そして、各地の武将に書状を送ります。
「信長さまは、無事に切り抜けられた!!」
遺体が見つかっていないことをいいことに、生きているというニセ情報を流したのです。
そして、猛スピードで京都へ・・・中国大返しです。
稀に見る強行軍で、1日で70キロの日もありました。
光秀は完全に秀吉に出遅れ、協力を得られず孤立していきます。
かつての盟友・細川藤孝にも断られてしまいました。
ガラシャを細川家に嫁がせていたのに・・・藤孝は出家をしてしまいました。

いよいよ秀吉の軍が迫ってきました。
上京の途中で兵が加わり、2倍以上になった秀吉軍!!
6月13日、山崎の戦い!!
光秀の軍1万VS秀吉3万6000以上!!
圧倒的な兵力の差に、勝負は短時間でつきました。
そして光秀は、落武者狩りをしていた農民に命を落としたのです。
享年55歳。。。

ながい放浪生活に耐えた苦労人。
家族を大切にしたよき夫。
恩をアダで返した逆臣!!

かつて光秀が治めた近江坂本にある寺には一通の書状が残っています。
光秀が戦で亡くなった家臣を弔うために供養米を収めたときのものです。
当時、部下である家臣を弔うのは、珍しい事でした。
一人一人の名前、同じ量の供養米・・・身分の分け隔てなく、家臣を平等に弔った光秀・・・
中には苗字を持たない低い身分の者もいました。
天下の謀反人といわれた男の素顔は、ようやく光が当たり始めたばかりです。


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1582年6月2日・・・天下統一を目前に、織田信長が家臣の明智光秀の謀反で命を落とす・・・本能寺の変です。
戦国の世を大きく変えたこの本能寺の変・・・信長と光秀を取り巻く女たちの運命をも翻弄します。
光秀の娘・・・細川ガラシャもその一人でした。
父・光秀の暴挙によって謀反人の娘となってしまったガラシャ・・・戦国の美女と謳われたガラシャの人生は壮絶なものでした。

戦国の革命児・織田信長が尾張の一大名から天下布武に走り出したころ・・・1563年、細川ガラシャは、明智光秀の三女・玉として生まれました。
幼少の頃の記録はなく、歴史に名を刻んだのは、16歳・・・1578年8月に細川忠興に嫁いだ時でした。
当時、ふたりの父親・光秀と藤孝は信長の家臣で、光秀は近江国、藤孝は山城国を治めていました。
そんな婚儀を取り持ったのが、主君・信長でした。

信長の思惑は・・・
この頃の明智光秀は信長の重臣・・・西を攻めるために、両家を固く結びつけようというものでした。
婚礼は、細川家の居城・勝龍寺城で行われ、誰もがうらやむ美男美女のカップルでした。
夫婦仲は良く、翌年には長女・於長、次の年には長男・忠隆が生まれ、子宝にも恵まれました。
そんな中、明智家と細川家は信長に命じられた丹波・丹後を見事に平定!!
父・光秀は丹波国を、舅・藤孝は丹後国を・・・順風満帆でした。
勝龍寺城での生活が、玉の一番幸せな時だったのかもしれません。


若くて綺麗で、和歌に儒学、仏教にも造詣の深い、才色兼備な女性だったようで、藤孝も絶賛な嫁でしたが、気位が高く、怒りっぽかったかも・・・??
ガラシャは洗礼名ですが、どうしてキリシタンとなったのでしょうか?

最初の悲劇は1582年6月2日、結婚から4年・・・玉が20歳の時、運命が急変!!
本能寺の変!!父・明智光秀が主君・信長を討ったことで謀反人となり、その娘となってしまった玉・・・これが、悲劇の始まりでした。

悲劇①謀反人の娘
信長に謀反を起こした光秀は、玉の嫁ぎ先の細川家に援軍を要請!!
上洛し、味方に付くように書状を送りました。
しかし、細川家の答えは。。。「光秀は主君の敵」・・・光秀に協力することを拒みます。
細川藤孝は髻を切り、息子・忠興に家督を譲ることで、主君・信長への哀悼の意を表します。
昵懇の中の両家の対立に板挟みの玉に試練が・・・
織田家・細川家家臣から、離縁、自害などの声が上がります。
忠興は・・・「もはやともに暮らすことはできない・・・」と、玉を丹後国の外れ味土野に幽閉してしまいました。

味土野には、明智家の茶屋があったようで・・・
実家ゆかりの地へ幽閉することで、送り返したと見せかけ様々な圧力から守ろうとしたと考えられます。
しかし知らない玉は・・・
「(父上が)腹黒なる御心ゆえ、自らも忠興に捨てられ、幽かなる有り様なり」と恨み言を述べています。

11日後の6月13日、山崎の合戦にて光秀は羽柴秀吉と戦い惨敗。
落ち延びる際、落武者狩りにあい絶命します。
母や、玉の男兄弟たちも命を絶ち、明智家滅亡・・・乱世に散りました。
玉は・・・味土野で、子供とも話され孤独な日々を送っていました。
幽閉生活で次男・興秋出産。
玉の支えは、清原いとという侍女でした。

1584年豊臣秀吉が天下を統一!!
そんな秀吉の臣下となった細川忠興は、妻・玉の幽閉を解いてもらえるように秀吉に願い出ます。
幽閉生活から2年・・・大阪市中央区玉造に戻ってきました。
しかし、その暮らしは幽閉生活以上に苦しかったのです。


悲劇②戦国一の美女
玉の幽閉中に側室を持ち、子まで作っていた忠興は、玉に厳しく接します。
それはかつての優しい夫ではありませんでした。
短気な忠興に玉の心は頑なになっていきます。
どうして忠興は玉に厳しく接したのでしょうか??

「彼女に対して行った極端な監禁は、信じられぬほど厳しいものであった。
 家臣に昼夜普段に、自邸での妻の監視を義務付けた。
 自分が外出する時には、いかなる使者が入り、またいかなる女たちが家から外出したか報告するように命じた。
 ごく親しい親戚か、身内の者でない限り、彼女に対してはいかなる伝言も許さぬようにし、彼女に伝えられることは家臣の検閲を受けるように命ぜられた。。。」byルイス・フロイス

どうしてそのようにしなければならなかったのでしょうか??
謀反人の娘という事への世間体から。。。
戦国一の美女・・・美し過ぎる妻を持った男の嫉妬・・・美しい妻が、他の男の目に触れることを嫌ったのです。
次第にふさぎ込んでいく玉・・・

1592年秀吉の命により朝鮮に出兵。
その際、九州・名護屋城に大名たちの妻子を招いて茶会を催すという噂を聞いて・・・

「なびくなよ わが姫垣の 女郎花
         男山より 風は吹くとも」・・・秀吉のことも警戒していたようです。

そんな忠興に対し・・・

「なびくまじ わがませ垣の 女郎花
          男山より 風は吹くとも」・・・と、返しています。


そして茶会当日・・・玉は覚悟を以て秀吉と謁見します。
挨拶をした玉は、その懐からわざと短刀を落とします。
私に触れれば自害するという意思表示でした。
さすがの秀吉もその覚悟に、何もせずに帰したと言われています。

しかし、自分の幽閉中に側室を持ち、帰ってからは監禁・・・その歪んだ愛に・・・夫への不信感が強くなっていきます。
しかし、忠興のキリスト教の話には興味がありました。
高山右近から聞いてきた話です。
忠興にとっては唯一幸せな時でした。

1549年キリスト教伝来
イエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエルによって伝えられ、30年あまりで全国に広まり、信者は15万人に達したと言われています。
玉は、その教えに大きく心を動かされます。
「神の前では、何人も平等であり、愛を持って接しなければならない。」
玉は、教会に行き、もっと教えを・・・と思うようになっていきます。

悲劇③キリシタン
厳しい監視の中、外に出られない玉にチャンスが回ってきたのは、1587年3月。
夫・忠興が秀吉の命を受け、九州討伐へ・・・!!
大坂の屋敷を離れたのです。
玉は病気と偽って部屋にこもると、お付きの者と屋敷を抜け出します。
向ったのは天満の教会。
日が暮れるまで宣教師に質問します。
「これほどの理解力を持つ聡明な日本女性を見たことがない。
 明晰かつ果敢な判断ができる女性であった。」by宣教師
玉は、すぐに洗礼を受けることを望みましたが、それは叶いませんでした。

細川家の素性を明かさない玉を宣教師が怪しんだのです。
その後、外出の機会が巡ってくることはありませんでした。
どうしてもキリシタンになりたかった玉は、侍女・清原いとに洗礼を受けさせます。
そしてそのいとから洗礼を受け、キリシタンとなったのです。
洗礼名はガラシャ・・・ラテン語で”神の恩恵”という意味です。
玉=賜るからついたと言われています。

この時、ガラシャ25歳。。。
どうしてそこまでキリシタンになりたかったのでしょうか?
儒教の三従の教えから逃れたかったのではなかったか??
三従の教えとは、女性は幼い頃は父、嫁いでからは夫、年老いたら長男に従うというものです。

そして病弱な三男の回復も願います。
多くの不安の心のよりどころとなったのがキリスト教でした。

キリシタンとなり充実な日々を送っていたガラシャ・・・
1587年6月九州を平定した秀吉は、キリスト教への入信および、日本人奴隷の売買などの禁止、宣教師の国外退去を求める伴天連追放令を出します。

九州に行き、キリスト教の圧を感じたようです。
信長の一向一揆のようになるかも・・・??
その結束力の恐ろしさ・・・
秀吉のキリシタン迫害は、日に日に強くなっていきます。
大名たちにも侵攻を禁じ、破った物は領地没収!!

キリシタンの結束を恐れた秀吉が、キリスト教への締め付けを強める中、ガラシャは、娘たち、侍女たち、家臣たちも洗礼を受けさせていきます。
これに激高したのが、九州から帰った忠興でした。
忠興は改宗を迫りますが、ガラシャは聞きません。
そこで、洗礼を受けたガラシャの周りの者たちに攻撃します。
キリシタンとなった侍女たちの髪を切ったり、鼻や両耳を切り落とされ屋敷の外に放り出されるものまで・・・。
忠興も、高山右近の影響を受け、キリスト教には寛大だったのですが・・・
秀吉が伴天連追放令を出したので・・・家を守るためには仕方なかったのです。

ガラシャは離縁を望むようになり、侍女を通じて宣教師に相談・・・
しかし、キリスト教は離婚が禁止されていました。
そこで、宣教師に手紙を書きます。
「どのような迫害を受けようとも、私の侵攻は変わりません。」
篤い信仰心。。。しかし、時代の渦に巻き込まれていきます。

1598年8月18日豊臣秀吉死去
秀吉亡き後、天下を巡って暗躍する徳川家康と守ろうとする石田三成。。。
再び戦乱の世へ・・・!!
天下分け目の戦いが始まるのです。

悲劇④戦国武将の妻

1600年9月15日美濃国関ケ原・・・
徳川家康率いる東軍7万4千。。。石田三成率いる西軍8万4千・・・激突。
天下分け目の関ケ原の戦いが始まりますが・・・わずか半日余りで・・・東軍の圧勝に終わりました。
この勝敗に大きく関係していたのが、細川ガラシャだった・・・。
その関係とは・・・??

3か月前の6月15日、ガラシャの夫忠興をはじめ多くの大名たちが上杉討伐のために会津へ向かいます。
大坂城下には女性だけ・・・。
そこで三成は、敵対する妻子を大阪城内に人質にとる作戦に出ます。
この時点での三成の想いは・・・人質にとることで、自分の味方になる・・・という思いがあったのです。
人質としてどうしても欲しかったのがガラシャ・・・。
ガラシャを愛している忠興なら、絶対に寝返るはず・・・!!

そうなれば、他の大名たちも次々と味方に付くだろうと考えたのです。
7月16日、三成の使者が、大阪城下の細川屋敷に・・・
「御上様(ガラシャ)を人質として差し出すように」
家臣たちの判断は・・・人質は出さない・・・
翌日、石田軍によって取り囲まれてしまいました。
危機が迫る中・・・かつて夫から言われた言葉を思い出しました。
「いざとなったら細川忠興の妻として自害するように。」by忠興
しかし、キリスト教では自殺は禁止されている!!
このままでは人質になってしまう・・・大名の妻としての面目は・・・??

屋敷の者を逃がすことに・・・夫への遺言を渡します。
「側室を正室代わりにされることのないように。」byガラシャ
そして・・・家老・小笠原秀清に・・・
「私の胸を、その長刀で突きなさい。」
「御免!!」
自害せず、家臣に殺させることでキリスト教の教えを守り、死によって大名の妻として、細川家を守ったのです。
残った家臣たちもガラシャに続いて自刃・・・屋敷に火を放ちます。
遺体は炎に包まれました。

細川ガラシャ・・・38歳でした。
妻の死が夫・忠興のもとに伝えられたのは、数日後のことでした。

ガラシャを死なせてしまったことで怖気づいた三成・・・
諸大名たちの正室を人質にとることを諦めてしまうこととなります。
結果、大名たちは徳川側に残ることとなり、関ケ原の戦いで家康が不利にならずに済んだのです。
男たちに翻弄されたガラシャ・・・

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
           花も花なれ 人も人あれ」byガラシャ

散り際を知っている花は美しく・・・私もそうなりたい・・・

その潔い死は、歴史を大きく変えたのでした。

キリスト教禁令の中、忠興は愛する妻のために教会で葬儀を行いました。
涙を流し泣き続けたと言います。
そして、亡くなる83歳まで正室を持ちませんでした。
本能寺の変、関ケ原の戦い・・・悲劇に何度も遭いながら、キリスト教という救いに出会い、慈悲の心で戦乱の世を一生懸命生きました。
戦国時代を象徴するような女性でした。



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関白・秀次の死の後、秀吉は伏見に政治の拠点を移す。
大名たちも伏見に移り、心機一転を図ったが、
それはさらなる異変の前兆でもあった。



maru













真田信繁は、秀吉の肝いりで大谷吉継の娘・春を性質に迎えました。
これで、大谷吉継とのパイプが繋がったわけで・・・
当時の婚姻とはこんなもの。
武家の場合、家と家を繋ぐものが多かったのです。
お兄ちゃん(信幸)もそうですしね。
でも、この場合、秀吉の肝いりということで、秀吉に忠義を尽くさなければならなくなりました。
なので、秀吉側もお世話をするのもお仕事なのです。

maru2












で・・・息子たちは聞きたいことが・・・
母・薫の出自です。
菊亭晴季卿の娘だと聞かされていましたが・・・??
父によると、娘ではなく侍女だったのです・・・!!

そう・・・こんな片田舎に来てくれる公家などいなかったのです。
って、これは、この二人の兄弟にはかなりショック!!
当時は今以上に、母の位がモノを言いました。
きっと菊亭晴季卿の孫!!っていうプライドがあったと思うんです。
母の位が低いと子に出されましたからね・・・。
なので、すごくショックなはずです。

maru3













母・薫に挨拶する春・・・
そんなことは知らずに自分が菊亭晴季卿の娘だと自己紹介する薫・・・
その薫を受けて・・・

「晴季卿は流罪、親類縁者に至るまで、ことごとく罰せられたと聞きました。
 よくぞ御無事で・・・!!」by春

「早く嫁に出されたのが良かった様じゃな。」by薫

これは何のことかというと・・・前に、関白・秀次の妻の父が菊亭晴季卿だという話が出ました。
実は、菊亭晴季卿は、秀吉の関白就任に尽力した男です。
で・・・もっと勢力の拡大を図り・・・秀次に娘を娶らせていたのです。
つまり・・・秀次に嫁いでいた晴季卿の娘も斬首されているのです。
そう思うと・・・公家の女子供まで・・・となると、やっぱり無残かも・・・??
でも・・・侍女も殺されてるからさあ・・・
「早く嫁に出されたのが良かった様じゃな。」by薫
は、当たっているのでしょう。


その頃秀吉は・・・

maru4













老いとは恐ろしい・・・
おねしょをしちゃったようです。
そんなこんなも三成&信繁で処理です。

maru5













お髭が無くなっていることに気付く信繁・・・
先月から付け髭にしたそうです。

ま、もともと薄いんですけどね、秀吉。

「殿下が心配です。
 近頃同じことを何度も言われる。」by信繁

「昔からだ。
 お怒りになると、ご自分を制することが出来なくなる。
 それも今に始まったことではない。
 私はお主よりずっと長く、殿下にお仕えしている。
 変わりようは誰よりもわかっておる。」by三成

しかし・・・三成の顔は冴えない・・・。

「拾が元服するまでは、関白は置かぬと決めた。
 それまでは、お前たち奉行衆が相談の上、政を行え。」by秀吉。

maru7













その頃・・・おねは秀吉の大好きな生煎餅を作っていました。
元気のない秀吉&きりも元気づけてくれるようですよ。

その頃・・・信幸に、昌幸パパが遊郭に行っているのが発覚!!
そこへ大工の吉蔵を探してきりがやってきました。
何を取りに・・・??

maru10













これをガラシャ様に・・・!!

で・・・ついでに薫に会いに来たきり・・・
普請場に昌幸パパがいなかったことを話しちゃいました。

そうそう、こんなところに・・・

maru12













そして・・・昼間から太夫と遊ぶ殿を見たくない・・・昔の殿はどこに行かれた・・・と、嘆く出浦昌相。。。

その頃太閤殿下は家康に・・・。

「わしは政の仕組みを考え直す時が来たと思っておる」と、相談。

三成には拾が元服するまで関白は置かぬ・・・それまではお前たち奉行衆が相談の上、政を行え・・・と言っていたのに・・・

「わしが隠居した後も、拾が元服するまで関白は置かぬつもりだ。
 政は徳川殿を要とした大名たちの合議で進めていって欲しい。」by秀吉。

maru8













???な、三成です!!
言ってたことと違うじゃないの・・・!!??

「かしこまりました。」by家康

「拾のこれからは、徳川殿、そなたにかかっておる!!
 どうか、頼みますぞ!!」by秀吉

何かが違う・・・??


その頃、きりはガラシャの元へ・・・

maru11













吉蔵の作ったクロスをもって・・・。

真田では・・・詰問される昌幸パパ!!

maru13












父上が仕事もせずに、女のところに行っていたのではないのか・・・!?
逃げ出す出浦昌相・・・。

もちろん、普請なんかしてない昌幸パパ・・・伏見城が平城だったことに初めて気が付いた模様。

maru14












やっと立ち上がりますよ!!
難攻不落の城を造るために・・・!!

そして・・・秀吉は・・・家康を呼び出し・・・
またもや徳川を中心とした大名の合議で行ってほしいという。
これで二回目・・・。

自分の意見に満足している秀吉。
同じことを二度も言われてびっくりする家康。
そして・・・苦虫をかみつぶしたような三成・・・。


どうして2回も言われたのか・・・??
急かされたのか・・・??と、不審に思う家康に、はぐらかす三成。。。

殿下が危うい事を、誰にも悟られてはならない・・・!!
殿下から目を離さないように・・・。
吉継にそう命令される信繁。。。
そんな吉継も、体調が思わしくないよう・・・。

伏見城・・・昌幸の作ったジオラマが完成しました。
完ぺきに・・・見事な守り!!
完ぺきな城を造りたくなったと思う昌幸。。。
生き生きと・・・しかし、考え方が変わってきたようです。
そして、子供のできた信幸。。。しかも二人!!
生き方・・・そして世代が変わりつつあるようです。


またもや徳川殿を呼べという秀吉・・・
政は徳川を中心とした合議で・・・と言い出しました。
三成は・・・そのことは既に徳川も了承済みだと秀吉に報告します。

殿下がすでに命じたこと・・・しかし、その前に、三成ら奉行衆で行えと言ったことも・・・!!

頭が真っ白になってしまった秀吉・・・自分の老いをまざまざと見せつけられてしまいました。。。
慰める信繁。。。


「捨が元服するまでは生きていたいんじゃ。。。
 ただ、生きているだけではいかん!!
 捨がわしのようになりたいと思う、そんな父親であらねばならん!!
 死にとうない・・・死にとうない・・・!!」

maru15













何もないところから、何もかも手に入れてきた秀吉・・・やっぱり最後に行きつくところは不老長寿・・・!!
老いには勝てないのか・・・!!

老いてきたと心配する三成に・・・
「あなたたちが何もかも押しつけとるからでにゃあですか!!」byおね
一喝されてしまいました。
そうですね・・・この豊臣子飼いがしっかりしていればねえ・・・
ほんと、秀長・・・秀次・・・次々とな亡くなっちゃって、っていうか、秀長は病気だから仕方ないけど、秀次はどうにかできたんじゃないかと悔やまれます。。。

元気が出るように、拾との接触を増やそうという三成ですが・・・
茶々に拒否られてしまいました。。。

「拾に太閤殿下の置いた姿を見せたくないのです。
 拾にとって、思い出の中の父親は、権威に満ちた天下人でなければならないのです。
 老いさらばえた、惨めな菅田など見せたくありません。」by茶々

「お気持ちはごもっともながら、殿下の御心をお察しくださ・・・。」by信繁

「察したうえで申しておるのです・・・!!」by茶々

ああ・・・厳しいですね・・・
やはり、このお方も高貴な姫なのでしょう。。。そう、織田の誇りを、浅井の誇りを受け継いでいる女なのです。


近い将来・・・この世はどうなっていくのでしょう・・・??
弟に問いかける兄・信幸。。。
豊臣の世は続くのか・・・??

そうして・・・真田兄弟はどうする・・・??

信幸は・・・わからないと言いながらも・・・
「俺は徳川の婿だ。
 もし世が乱れて、その時徳川につくことが真田を利するならば・・・
 俺は迷うことなく徳川につく!!

 源次郎・・・お前はいささか豊臣家に深入りしすぎたようだ。
 お前は真田家のために太閤殿下のおそばにいるのだぞ。
 それを忘れるな・・・!!」by信幸

「かしこまりました。」by信繁

「もう一度尋ねる・・・殿下のお具合はどうだ。。。?」by信幸

「何も変わったところは義ざいません。」by信繁

ああ・・・二人の兄弟の決定的な瞬間です。。。
お互いがお互いに・・・袂を分かってしまった瞬間でした。


文禄5年6月27日。
京、大坂、堺一帯に原因不明の灰が降った・・・
人々は天変地異の前触れではないかと恐れた。
そして・・・

maru16












閏7月13日未明・・・
マグニチュード8ともいわれる大地震が伏見を襲った。

余震の続く中・・・昌幸が真っ先に向かったのは伏見城でした。

この地震によって完成間近の伏見城は天守が倒壊・・・位置から造り直しとなった。


ということで・・・天変地異が・・・自然もわかっているんですね・・・。
政権の終焉を・・・!!


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