千年の都・・・京都・・・由緒ある寺・・・東寺(教王護国寺)。
11年にわたり、京都が戦火にまみれた応仁の乱(1467~1477)。
きっかけは嘉吉元年(1441年)に起きた二つの事件でした。
室町幕府6代将軍足利義教が、酒の席で暗殺された嘉吉の変・・・。
その2か月後・・・京都が占拠された空前の大一揆・・・
まさに前代未聞の事件でした。
追いつめられる細川持之・・・!!

応仁の乱勃発の26年前・・・1441年6月24日!!
信じがたい事件が起きました。
室町幕府6代将軍足利義教が酒の席で斬殺されました。
これが、混迷の時代の幕開けでした。
関東の反幕府勢力を討伐した義教は、連日家臣宅で先勝祝いに明け暮れていました。
夕闇が辺りを包み始めた頃・・・
突然義教の後ろの障子が破られ、甲冑姿の男たちが乱入!!
彼等は義教を押さえつけると、一瞬で首を落としました。
世に言う嘉吉の変です。
事件の知らせを受けたある公家は・・・「前代未聞の珍事」「言語道断の次第」と表現しました。
殺害された義教は、大名争いの家督争いに次々と介入して自分の意に沿うものを跡継ぎに据えました。
そのやり方は、万人恐怖と呼ばれていました。
将軍殺害の首謀者は、守護大名・赤松満祐・・・幕府の重臣たちが、次々と失脚させられていく中、実力者は赤松だけになっていました。
次は自分が狙われるのでは??と、凶行に及んだのでした。
現場にいた幕府のNo,2細川持之は、本来であればだれよりも将軍を守らなければならない立場にありました。
しかし、持之は慌てふためいてその場を逃げ出していました。
持之の意気地なさは、京都の人々に嘲笑されたといいます。
しかし、この持之の判断が、幕府と都の運命を大きく左右していくこととなります。

持之は、事態の収拾に動きました。
まず、足利将軍家にゆかりのある者を確保。
赤松に幕府の主導権を握られないための工作でした。
続いて義教の長男、後の7代将軍足利義勝を擁立を決めます。
そしてまだ8歳の義勝を補佐する為に、管領の自分が政の主導権を握ることを周知させました。
続いて持之は、播磨の自領に戻った赤松を討伐する為に、幕府軍を編制します。
司令官には山名持豊!!
しかし・・・山名はなかなか出陣しません。
持之の人望は地に落ちていたのです。

持之は山名達幕府軍を動員する為に、朝廷の権威を借ります。
後花園天皇から赤松討伐の綸旨を出してもらうように働きかけます。
綸旨を武士の争いに利用することは、権威を失墜させることになりかねない・・・
しかし、持之にはこの方法しかありませんでした。
こして、ようやく赤松討伐軍は動き出しました。
事態は収束するかに見えましたが・・・
しかし、将軍暗殺という前代未聞の事件で幕を開けた混乱は、守護大名たちの思惑が渦巻き、更なるカオスになだれ込んでいくのでした。

京都の南東部に位置する東福寺。
将軍暗殺の2か月後、寺を揺るがす大事件が起こります。
古来、東福寺は室町幕府によって制定された京都五山の一つとして偉央を誇り、幕府の権威を宗教的側面から支えていました。
広大な敷地は中世以来、多くの禅僧たちの修行の場でありました。
嘉吉元年9月3日・・・1000人を超える一揆勢が寺を占拠したのです。
この一揆は、当時の庶民階級が起こしたために土一揆とされています。
一揆は幕府軍が赤松討伐のために京都をするにしたすきを突き、隣国近江からなだれ込んできました。

国宝・東福寺三門・・・当時の姿を今もとどめています。
三文の楼上の須弥壇に置かれた宝冠釈迦如来・・・そのわきを固めるのは、十六羅漢像。
三門内部は全面極彩色で彩られ、天井には極楽浄土の世界に住むという迦陵頻伽が描かれています。
修行僧たちの厳粛な空間に、土一揆が押し寄せてきたのです。

時の管領・細川持之にとって、これは予期せぬ出来事でした。
9月3日に東福寺を占拠した一揆勢は、その数3万に膨れ上がり、3日間ほどで主要な寺社など16カ所を占拠します。
同時に一揆勢は、京都七口・・・武士の流通経路を遮断して、完全に都を包囲したのです。
学問の神様・菅原道真を祀る北野天満宮・・・この神社も一揆勢の攻撃を受けていました。

四代将軍足利義持は、北野天満宮ゆかりの西の京神人にだけ、酒麹を作る特権を認めていました。
彼ら以外に酒麹を作った者がいれば取り締まり、代々北野天満宮を庇護してきました。
北野天満宮をはじめ多くの寺社は、幕府の庇護で特権や荘園を持ち、富を蓄えていました。
軒並みこれらの寺社を標的にしていたのです。
京都の主な寺社を占拠し、流通経路を押さえた一揆・・・彼らが持之率いる幕府に要求したのは徳政令でした。

借金帳消しに・・・質入れしたものを借入金額の1/11で取り戻すことができる・・・。
困窮した農民たちを助けています。
この木札が発見された大嶋神社・奥津嶋神社・・・神社の周辺は、比叡山延暦寺が荘園として管理していた土地でした。
この時代、各地の荘園で農民たちは、領主の貴族や寺院に年貢を納めていました。
木札からは、荘園領主・延暦寺がこの土地に暮らす農民たちに特製を認めていることが読み取れます。

当初、一部の延暦寺の農民たちに許された徳政令・・・
ところが、これを契機に農民たちは武器を手に京都へ・・・!!
一揆の背景には、切迫した要因がありました。
室町時代の日本は、異常気象に見舞われていました。
1441年嘉吉元年は、気温が低く、降水量が多い・・・稲の成長に悪影響を及ぼした年でした。
長雨・・・水害・・・飢饉・・・
天候不順による飢饉に土民たちは追いつめられていました。
多くは過酷な年貢に苦しみ、酒屋や土倉など当時の金融業者からの借金で食いつないでいました。
生き残るために、どうしても大規模な徳政令が必要だったのです。

9月5日、三万人に膨れ上がった一揆はついに京都最古の寺・東寺を占拠しました。
2000人もの土民が詰めかけたのです。
彼等は徳政令の申し入れが受け入れなければ、伽藍に火をかけると幕府を脅します。
まさに、前代未聞の事でした。
寺側の一揆勢への対応が残っています。
一揆勢に酒を振る舞い枝豆をつまみに付け合わせ急場をしのごうとします。
京都最古の寺・東寺に火を放つと息まく一揆勢・・・
それは、細川持之にとっても驚愕の事件でした。

一揆の主力は困窮した農民でしたが、他にも台頭してきていた人々が・・・
馬借・・・馬を使って農産物を都市に運ぶ馬借は、室町時代、流通の発達に伴って重要な職業となっていました。
馬借は物を運びます。
飢饉、凶作となれば、彼らの仕事が無くなるからです。
馬借は、行き来をするので、情報をもたらしてくれます。
室町時代の変革期に登場した馬借・・・新興勢力が、時代の歯車を大きく動かしていくこととなります。

徳政令を要求した土一揆が京都を包囲してから一週間・・・寺社を占拠した一揆勢は勢いを増し、土倉や酒屋への襲撃をはじめていました。
幕政を預かる管領・細川持之にもはや一刻の猶予もありませんでした。
どうする・・・??

9月12日、持之はついに、一揆勢の要求を受け入れ、徳政令を発令しました。
寺社の占拠は解かれ、危機は去りました。
人びとは土倉に詰めかけ、借金の帳消しを求めました。
徳政令発令という持之の選択は、赤松討伐で京都を留守にしていたための苦渋の選択でした。
赤松討伐にも大きなっ出来事が・・・
徳政令発令の直前、山名率いる幕府軍に攻め込まれた赤松満祐が、自害したのです。

ところが、討伐後も山名持豊は京都には戻りません。
そのまま居座り、旧赤松領を手に入れようという魂胆です。
結局細川持之は、持豊の要求を受け入れ、播磨の守護に任命します。
激動の年が明けた嘉吉2年8月、細川持之病死・・・。

激動の嘉吉元年が終わり、人々は応仁の乱の破局へと進んでいきます。
播磨を手に入れた山名持豊は、後に山名宗全となを変え、応仁の乱で西軍を率いて幕府に対抗するほどの力を手に入れます。
畠山持国は、細川持之の後を継いで管領となり、しかし、跡継ぎに恵まれず家督争いが応仁の乱の直接の引き金となるのです。
そして持之の死後跡を継いだ細川勝元は、応仁の乱で東軍のリーダーとして山名宗全たちと相まみえることとなるのです。
日本の歴史を大きく揺るがす応仁の乱勃発は、26年後の事でした。

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