日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:細川藤孝

戦国の世に革命をもたらし、天下統一を目指した武将・織田信長・・・

その冷酷な言動ゆえに、魔王と呼ばれて畏れられた信長に、刃向かった男たちがいました。
ひとりは、本能寺の変を起こした明智光秀。
信長が光秀の謀反により命を落としたのは有名です。
しかし、信長が信頼する重臣に裏切られたのはこれが初めてではありませんでした。
本能寺の4年前・・・光秀より先に信長に反旗を翻したのが、摂津国を治めていた荒木村重でした。

荒木村重史料研究 信長公記が村重をおとしめた

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大阪市北西部に位置する池田市・・・ここにはかつて摂津国の有力国人であった池田氏の城がありました。
1535年、池田氏に仕える荒木家に生まれた村重は、優れた武将に成長し、当主になると主君である池田勝正に信頼され、重臣の一人となりました。
村重が仕えていた池田氏は、摂津国北部を支配、畿内や四国で力を有し、室町幕府足利将軍家と対立していた三好勢の傘下にありました。
そんな池田氏や村重たちの運命は、ある男の登場で翻弄されることになります。
尾張の織田信長です。

1568年、天下を狙う信長は、室町幕府再興を目指す足利義昭と手を組み上洛・・・
信長が、三好勢を京都から追い出したことで、義昭が15代将軍に就任します。
この時、池田氏当主の勝正は、京都を追われた三好勢を見限り、将軍となった義昭に寝返りました。
これに、池田氏内の三好派の重臣たちが猛反発!!
謀反を起こし勝正を追放、新たな当主として勝正の弟・知正を据えたのです。
村重は・・・??
三好派側にいたため、池田氏の重臣として残りました。
しかし、義昭が将軍となったことで、摂津国の情勢は大きく変わります。
将軍義昭が、側近だった和田惟政に摂津北東部の支配を任せたことで、北東部の和田氏、北部の池田氏、西部の伊丹氏らが鎬を削る状況となったのです。

1571年、池田知正と和田惟政が、領地争いにより激突!!
この時、敵将の惟政を討ち取ったのが、村重でした。
フロイスの”日本史”によると、発端は和田惟政が荒木村重の領地の境に城を築いていきました。
これによって、村重が激怒、惟政を討ち取って武功をあげることになります。
この戦いで、池田家臣団のその他大勢ではなく、池田家臣団を率いていく代表の地位を固めていきます。
しかし、惟雅の息子惟長が党首を継いだことで、池田氏と和田氏の対立が続くこととなります。

一方、信長もまた敵対する勢力に苦しんでいました。
1573年、三方ヶ原の戦い・・・信長は、徳川家康と手を組み、武田信玄と戦うも完敗・・・
これを知った将軍義昭が、信長を見限り、反信長勢力と手を組んだのです。
信長は、足利将軍家、三好勢、大坂本願寺、浅井長政、朝倉義景、武田信玄にまで包囲される形となり、窮地に追い込まれました。
そこで、将軍義昭に人質を差し出し、和睦を申し出るも、義昭はこれを拒否。
これで戦となれば、信長の敗北は決定的であろうと畿内の武将たちの誰もが思っていました。
そんな中、村重は敗色濃厚な信長方につくことを決意します。

この時、池田氏内で村重と対立関係にあった重臣たちが、反信長勢力となった将軍・義昭方につきました。
そこで、村重は、対立する重臣たちに対抗するため、信長に味方することにしたのです。
池田氏内の勢力争いに勝つため、信長にかけた村重・・・
同じく、将軍・義昭の家臣から織田方についた細川藤孝を通じ織田家に忠節を誓う旨を伝えました。
そんな中、村重は、池田氏と対立していた摂津北東部を支配していた和田惟長を追放。
北摂津最大の実力者となったのです。

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そして1573年3月29日・・・村重は、近江で初めて信長に対面します。

”村重が信長の前に進み出ると、信長は自らの刀を引き抜き、そこにあった大きなまんじゅうを突き刺し、村重の前に差し出した
 すると、村重はひるむことなく、大口を開けてそのまんじゅうを口にくわえた
 これを見た信長は大喜びしたといい、名刀を与え、摂津方面は任せたと、村重が摂津国を支配下に置くことを許した”by陰徳太平記

信長は、将軍・義昭と和睦するため、その交渉役に荒木村重と細川藤孝を起用。
そこには、将軍・義昭に圧力をかけるという狙いがありました。
その思惑通り、将軍・義昭は、疑念を抱きます。
京都に近い摂津の実力者である村重や、それまで自分に仕えていた細川藤孝まで信長についたことで、このまま信長と対立を深めると、都の周りの他の武将たちも寝返るのではないか・・・
そんな、好戦意識の薄れた将軍・義昭を、信長はすかさず攻め、京都から追い出しました。
こうして、室町幕府が滅亡へと追い詰められていきました。
村重の決断は、信長の危機を救っただけでなく、室町幕府滅亡という日本の大きな歴史を変えるきっかけとなったのです。

そうした功績から、村重は、信長の厚い信頼を得て、柴田勝家や丹羽長秀らとならび織田家の奉行を任されます。
さらに、摂津一国を支配する権限を与えられたのです。
これによって、池田氏との立場は逆転!!
池田知正が村重の臣下となりました。
摂津を治める権限を与えられたとはいえ、摂津には、まだ西部を支配する伊丹氏などの武将がいました。
切り取り次第・・・自力で支配領域を広げていかなくてはなりませんでした。

1574年、村重は、西摂津への侵攻を開始。
物流の要所だった尼崎を押さえたことで力を増し、伊丹氏などを滅ぼすことに成功!!
摂津国の統一を成し遂げました。
そんな中、村重は、明智光秀の娘を嫡男・村次の正室に迎えていました。
信長のもとでともに活躍していた外様の光秀との関係を強化することで、新参者である自らを守り、その地位を確かなものにしようとしました。
さらに、村重は織田軍の主力として各地を転戦!!
常に最前線で戦い続けることで、自らの存在を信長にアピールしていきました。

1575年、活躍目覚ましい村重に、信長は播磨国の浦上宗景の救援を命じます。
信長は、備前国の実力者だった宗景を味方にするため、備前・美作・播磨三国の支配権を与えたのですが、宗景には三カ国を治める実力がなく、毛利方の武将・宇喜多直家に次々と城を奪われていました。
信長が宗景の実力を見誤った尻拭いをすることになりましたが・・・
播磨に向かうと、信長の期待に見事にこたえ、小寺氏、別所氏など、播磨の武将たちを説得し、信長への忠誠を誓わせます。
その村重の能力を、信長は高く評価、ますます信頼を置くようになります。
こうして村重は、播磨方面の武将と信長を仲介する取次役として、信長の西国政策に欠かせない存在となりました。

ところが・・・1578年10月21日。
安土城にいた織田信長のもとに、荒木村重が背いたという知らせが届きます。
信長は信じませんでした。
というのも、村重は、織田家代々の家臣ではないものの信長に忠誠を誓い、何度のも窮地を救った功労者だったからです。

謀反のきっかけ①大坂本願寺攻め
1576年、信長と敵対していた仏教勢力・本願寺が、法主の顕如を中心に大坂で挙兵!!
村重は、信長から明智光秀らと共に大坂本願寺攻めを命ぜられます。
村重ら信長軍は本願寺を包囲、何度も攻撃するも落とすことができず、とうとう信長自ら援軍に駆けつけました。
どこまでも力攻めにこだわった信長は、次に行う総攻撃で村重に先鋒を命じます。

「それは、お受けできませぬ!!」

この時、本願寺は、信長と敵対している毛利輝元に援軍を要請しています。
これにたいして、輝元は、兵糧や弾薬を、水軍を使って大坂本願寺に届けようとしていました。
これを見越していた村重は、海からの補給を断つために木津川口を遮断、無益な力攻めではなく、兵糧攻めを行う準備をしていました。
村重が先鋒を断ったのは、もはや力攻めではできないと考え、兵糧攻めの準備をしていたからでした。
しかし、村重が兵糧攻めに変えるよう進言するも、信長は総攻撃を決行したのです。

結果は、またしても失敗!!
結局、兵糧攻めに戦法を変えることになります。

村重の意見を無視し、いたずらに力攻めを行って失敗・・・
兵糧攻めの際も、村重ではなく尾張出身の佐久間信盛を本願寺攻めの司令官に登用。
こうしたことから、信長の人材登用の不公平さを村重は不満に思い始めていました。
おまけに、佐久間信盛は、結局、本願寺を攻め落とすことができませんでした。

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謀反のきっかけ②羽柴秀吉の行動

1577年、信長は、毛利輝元の勢力圏内である山陰、山陽道の侵攻を決断。
その中国方面軍総司令官・総大将に羽柴秀吉を指名します。
これを聞いた村重は・・・怒ります。
播磨方面の武将と、信長の取次役として、信長の西国政策に欠かせない存在となっていた村重が、総司令官になってもおかしくはなかったからです。
さらに、秀吉の行動が村重を怒らせます。
中国方面軍の総司令官として播磨に入った秀吉は、播磨の実力者小寺政職の家臣・黒田官兵衛を参謀役に起用、官兵衛の居城・姫路城を毛利攻めの拠点にしたのです。

これが、信長を見限る決め手となりました。
もともと小寺などを味方につけたのは村重でした。
その功績を無視して、秀吉が小寺氏の家臣である黒田官兵衛と繋がっていく・・・
これは、村重の権益を侵すものでした。
そうして、村重の取次役としての面目をつぶすことになりました。
本来ならば、播磨方面の取次役である村重が、小寺政職に話がいき、その小寺から黒田官兵衛に話がいくのが筋でした。
それを、秀吉は無視して、直接官兵衛を起用してしまったのです。
権益を侵され、メンツをつぶされることは、当時の武将にとってその地域の支配力を失うのと同じことでした。
周囲の武将たちからも、見限られかねません。
そして、なにより村重は、自分を無視した秀吉の行動を、信長が容認したことに腹を立てたのです。
つまり、村重が信長に叛いたのは、尾張出身の家臣を優遇し、功労者の村重を蔑ろにした信長への不信感によるものでした。

村重の謀反が事実だと知った信長は、すぐに説得に乗り出します。

「不満があるなら聞くとつたえよ!!」

そう言って、明智光秀や羽柴秀吉など、錚々たるメンバーを説得に当たらせますが・・・村重は応じませんでした。
すると、信長自ら筆を執り、こう認めたのです。

「天下の面目を失った
 早く出頭せよ
 待っている」

それまで自分に歯向かう者は、実の弟でも殺害してきた信長が、村重を許し、説得して呼び戻そうとします。
それだけ、村重を評価し、天下取りに欠かせない存在と思っていたからです。
しかし、信長の書状にも村重の気持ちは揺るがず・・・
秀吉の参謀役となっていた黒田官兵衛が説得に有岡城にやってくると、村重は官兵衛を有岡城内に幽閉してしまいました。

当時の常識では、外交官・使者は、敵に捕まったら殺されてもおかしくない時代でした。
しかし、官兵衛を殺してしまうと、官兵衛の主君である小寺政職が離反しかねない・・・
そこで、村重は、あえて官兵衛を殺さず、軟禁することで小寺に対し恩を売りつけたのです。

村重は、信長に反するにあたり、味方を増やすための様々な工作を行っていました。
事前に安芸・毛利輝元に同盟を要請、その証として人質を送っています。
さらに、本願寺の顕如とは、同盟を結ぶ際の細かい条件を決めた起請文を作成。
村重は、反信長勢力と結ぶなどして、謀反の準備を進めていました。

1578年10月、織田信長に反旗を翻した荒木村重は、軍勢を有岡城・尼崎城・花熊城などに分け、籠城戦に打って出ます。
対する織田軍は、村重が籠城する有岡城に攻撃を仕掛けると苦戦!!
有岡城が難攻不落!!
村重は、もともと伊丹氏の本拠地であった有岡城を奪った後、大改修を行っていました。
城下町を土塁と堀で囲い込んだ惣構の城とし、周囲に3つの砦を配置するなど、防御機能を最大限に強化していました。
その為、織田軍は城攻めにてこずり、逆に反撃にあって2000もの死傷者を出してしまいました。
力攻めが通用しないと悟った信長は、兵糧攻めに変更します。
しかし、荒木軍は、2年近くも織田軍に抵抗します。
それは、有岡城が難攻不落の城だっただけでなく、援軍があったからでした。
安芸・毛利輝元は、軍勢を摂津に派遣、本願寺も紀伊の傭兵集団である雑賀衆などを送ってきました。
援軍が、海路を通り、尼崎などから上陸、兵糧はもちろん、武器や兵力の補充がなされたことで、荒木軍は長期の籠城戦に耐えることができました。

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そして、もうひとつ、村重の籠城を支えたものは・・・
地元・摂津の領民たちでした。
花熊城には近隣の村々から1000人余りが加勢して立てこもり、六甲山地周辺の農民たちは、海から有岡城への補給路を守るため立ち上がります。
全ては、領主である村重の為・・・
村重は、有事の際、周辺の領民が逃げ込める場所を作るなど、領民思いの領主でした。
その為、領民は信長が主になることを断固阻止したかったのです。

信長は、戦の際に領民たちを総動員させる体制を作らせました。
このような体制が、摂津の領民たちに不信感を抱かせていました。
信長に駒として扱われることを避けたい領民たちは、自分たちを守ってくれる村重に協力することを選びます。
村重と共に戦う・・・となっていったのです。
領民たちが協力したことで、長期の籠城戦に耐えることができたのです。

織田信長に反旗を翻した荒木村重は、居城である有岡城で籠城・・・
対する信長は、織田信忠・羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益など織田軍の精鋭たちを送り込みます。
しかし、そんな織田軍に対し、村重は果敢に猛攻を跳ね返していきます。
ところが、1579年9月2日、村重は突如有岡城を出て、嫡男が守っていた尼崎城へと移ってしまいます。
信長公記によれば、村重は夜陰に乗じて数人の家臣を連れて城を出ます。
妻子や家臣を見捨てて逃亡したと言われています。
この時、備前に宇喜多直家が毛利方から織田方に寝返ったことで、毛利軍は尼崎城、花熊城から撤退し始めていました。
おまけに、拠点の尼崎城が落城することがあれば、村重の有岡城だけではなく、大坂本願寺への補給もたたれてしまう・・・!!
村重は、危機的状況にあった尼崎を守ろうとしたのです。
有岡城を見捨てたわけではありませんでした。

村重は、尼崎城に移ってからも毛利や雑賀に援軍を・・・戦線を立て直そうとしていました。
ところが、村重が家臣・荒木久左衛門や妻のだしに任せた有岡城で誤算が生じます。
村重不在の有岡城で、城兵たちの士気が低下・・・
結束力が弱まったとみた織田軍の武将・滝川一益が、内通社を通じ、有岡城の足軽大将たちを寝返らせます。
そして、惣構えの中に侵入すると、城下町に放火して、本丸だけの裸城にしてしまいました。
もはや、落城寸前・・・!!
すると、村重と姻戚関係にあった織田方の明智光秀がやってきて説得します。

「村重殿、有岡城は間もなく落ちる・・・
 潔く、この尼崎城も明け渡しなされ
 そうすれば、上様は城内の女子供や家臣たちの命を助けると仰せですぞ!!」by光秀

有岡城内の女子供や家臣の命と引き換えに、尼崎城の開城を要求します。

「白を開け渡すことは、出来ぬ!!」by村重

これを聞いた信長は、
「己ひとりの命を惜しみ、開城を拒むとは前代未聞!!」
そう言って、有岡城を落城させると、見せしめのために尼崎城の近くで有岡城にいた家臣やその妻子ら500人余りを処刑!!

”女たちの悲しみ泣き叫ぶ声が天まで響いていた”by信長公記

さらに、信長は村重の妻・だしをはじめとする荒木一族ら30人を京都の六条河原で処刑したのです。
その為、村重は妻子を見殺しにした卑怯者と言われますが・・・
本当に村重は卑怯者だったのでしょうか??

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信長公記によると、開城を拒否したのは荒木村重一人だけの責任のようにしていますが、尼崎城と花熊城には荒木村重の軍勢だけではなく、毛利氏からの援軍や本願寺からの援軍(雑賀衆)がいました。
彼等も籠城していたため、ひとりでは決断できなかったのです。
ひとりの決断で城を明け渡せる状態ではありませんでした。
開城すれば女子供は殺さない・・・というのは、信長の方便だったと思われ、それを知っていた村重は、信長を信用して城を明け渡すことはできなかったのです。

結局、有岡城の女子供は処刑された後、8か月も村重は籠城戦を続けます。

信長公記では、村重のことを恩知らず、卑怯者と書かれました。
わざと村重を悪く書いています。
これは、作者の太田牛一が、信長の家臣であったこと、主君の信長を美化した結果なのです。

1579年11月、有岡城落城。
しかし、荒木村重がこもる尼崎城や花熊城での籠城戦は依然続いていました。
ところが、1580年4月、本願寺・顕如が織田信長と和睦して大坂を退去・・・。
村重が同盟する顕如は、大坂城を開城したことで、織田軍は大坂に張り付けていた軍勢を、尼崎城と花熊城に集中させることができました。
つまり、荒木軍の敗北は決定的となっていきます。
7月2日、花熊城落城・・・すると、村重は、「もはや・・・これまで・・・!!」
村重は、嫡男・村次らと共に尼崎城を出ると、信長の追撃を避けるため、毛利氏の領国へと逃れ生き延びます。
荒木家再興のために・・・!!
こうして2年近くに及んだ籠城戦・・・信長に反旗を翻した村重の戦いは、終わりを告げました。
この時、46歳・・・!!
その後の村重は、表立った行動ははっきりとわかっていません。
しかし、道薫と名乗り、茶人として堺での茶会に参加したことが記録に残っていることから、堺に移り住み、毛利方の交渉役として活動していたと考えられています。

信長に果敢に刃向かった荒木村重は生き延び、1586年5月4日、52歳で死去・・・
荒木家の再興を息子たちに託して・・・!!
しぶとく戦い抜き、生き残ることで再起をかけた荒木村重・・・民を思う優しさと、先を読む鋭さを兼ね備えた武将でした。

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1582年、日本を揺るがす大事件が勃発しました。
本能寺の変です。
どうして明智光秀は主君・信長を討ったのか??
日本史最大の謎とされています。
本能寺の変のカギを握るのは細川藤孝・・・細川幽斎となる戦国大名です。
戦国の動乱期に、信長・秀吉・家康という三人の天下人に仕えた稀有な武将です。

江戸時代、239年にわたって熊本藩を統治してきた細川家・・・
現在、熊本市には細川家の数万点に及ぶ資料が蓄積されています。
どうしてこれほど多くの資料が細川家に受け継がれてきたのか・・・
細川藤孝は、室町幕府の名門・細川家の分家筋に生れ、足利将軍家と大名家との取次役として活躍していました。
藤孝の母方は、天皇の教育係をしていた清原家。
藤孝は、幼いころから一流の教育を受けていたといいます。
藤孝が、幼いころから鍛錬を積んだのは、連歌が外交に不可欠な道具だったからです。
和歌や連歌を藤孝が地方の大名たちに教えたり共有したりすることは、その秩序と地方の大名たちを結びつける意味を持っていたのです。
そういう役割が、京都の政権には必要でした。
そして、それを担ったのが藤孝でした。

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当時、貴族や武士は、和歌や連歌を通じて外交交渉を行い、広いネットワークを築いていました。
藤孝は、将軍家の交渉人として、その才を発揮していきます。

1565年12月5日、藤孝に宛てられた手紙が残っています。
差出人は、あの織田信長です。
”京都に入られるときには命令次第でいつでもお供する覚悟である”
この時藤孝は、暗殺された将軍・足利義輝の実の弟・義昭と京都から逃げ延びていました。
藤孝は、義昭を将軍にするため、地方大名たちに支援を呼びかけ、京都に戻ろうと画策していました。
この文書からは、藤孝が当時勢いのあった新興武士・織田信長の後ろ盾を得ることに成功したことが読み取れます。
さらに、藤孝はこの頃、近江周辺で活動していた明智光秀と出会い、親交を結んでいたとみられています。

1568年10月14日、足利義昭入洛。
室町幕府15代将軍となりました。
藤孝は、3年がかりで目標を果たしたのです。
ところが・・・足利義昭の政権は、わずか5年で瓦解・・・
政治に介入してくる信長に、不満を抱いた義昭が挙兵・・・!!
将軍に忠誠を立て、必死で働いてきた藤孝は、この時驚くべき行動に出ます。
抗争が始まって間もなく、信長が藤孝に送った手紙が現存しています。

”京都の模様を具体的に知らせてくれて満足である”

藤孝は、信長に京都の情報を流していたのです。
この時藤孝は、明らかに信長側についていたとみられています。

1573年7月18日、室町幕府滅亡・・・。
義昭は信長によって京を追放されました。
新時代のリーダーに誰が相応しいのかを見極めた藤孝の大きな決断でした。
そして、すでに信長の配下にいた明智光秀と共に、藤孝は激動の時代を迎えることになります。

室町幕府が滅亡すると、信長は畿内を支配するための新しい闘いの日々を始めます。
信長の命を受け、光秀と藤孝は丹波・丹後攻略に向かっていきます。
丹波と丹後は、近畿と西国を結ぶ要衝・・・信長が何として手に入れたい土地でした。
2人は、4年もの歳月を費やし、丹波、丹後を平定。
藤孝は、光秀の指示のもと、丹後に城を築き領国を運営することになります。
さらに、信長の薦めで藤孝の息子・忠興と光秀の娘・玉子(ガラシャ)が結婚し、姻戚関係で結ばれた細川家と明智家の結束は、さらに堅くなっていきました。

ところが・・・1582年6月2日、本能寺の変勃発。
光秀の謀反によって、信長は討たれました。
どうして光秀はこのような行動に出たのでしょうか??
2014年に発見された石谷家文書「長曾我部元親書状」
光秀の家臣・斎藤利三と、土佐の領主・長曾我部元親が交わした複数の手紙が見つかりました。
元親の四国支配政策を、真っ向から否定した信長は、討伐を決断。
四国との調整役をしていた光秀は、戦闘を回避しようと元親と交渉を重ねました。
その結果、元親の側に信長の要求に応じようとする形跡が見られます。

”信長の朱印状に従う
 全く叛逆する気持ちはない”

これが、本能寺の変のおよそ10日前のやり取りです。
しかし、光秀の苦労むなしく、信長の四国討伐の方針が覆されることはありませんでした。
信長は、四国の対岸に、三男・信孝の軍勢を集結させ、まさに四国上陸は寸前にまで迫っていました。
調整役の面目が丸つぶれになった事が、光秀謀反の引き金になったともいわれています。

信長の軍事要員の仕方は、具体的な動員人数、動員期間を一切指定しません。
自分の領国の家臣や百姓たちに、過重な軍事動員をかけてしまうことになります。
そうなると、自分たちの領国を回せなくなっていきます。
そんな悪循環と、それに対する危機感が非常に高まっていました。

かくして、6月2日、本能寺の変が発生したのです。

その知らせは、数時間後に丹後の宮津城にいた藤孝の元へと届けられました。
共に苦労を重ね、どの武将よりも親交の深かった光秀と藤孝・・・
細川家は明智側であると考える者も少なくありませんでした。
しかし・・・本能寺の変の速報を聞いた藤孝は、すぐに剃髪し、信長への弔意を示したのです。
そんな藤孝の元へ、光秀は書状を送っています。
そこには、光秀の切実な思いが書かれていました。

第1条では、藤孝が剃髪したことについては腹は立ったがそれは仕方のないこと。
こうなったからには全軍を率いて入魂してほしいと懇願しています。
さらに第2条では、恩賞として摂津や若狭といった領国を渡すと綴っています。
第3条では、信長を暗殺した理由は、自分の息子や忠興の世代を取り立てる為であり、自分自身は身を引くつもりだと書かれ、私利私欲のための謀反でないことを藤孝に訴えています。
盟友・光秀の思いを聞いた藤孝は、どう動くのか??

光秀に加勢する??それとも、光秀を討つ・・・??
自分の行動次第で時代が大きく変わる・・・どうするのか・・・??

本能寺の変を受けて、藤孝は丹後・宮津で緊急会議を開きました。
会議には藤孝の息子や細川家家臣たちが集められました。
長男の忠興は、光秀の使者に斬りかからんばかりに怒り、光秀討伐の意思を見せます。
一方、次男の興元は、信長は悪逆無比で人望もなく、細川家は光秀に協力すべきだと主張します。
藤孝は、家が二分するほどの究極の選択を迫られることになります。

信長と本能寺の変 謎99 (イースト新書Q) [ かみゆ歴史編集部 ]
信長と本能寺の変 謎99 (イースト新書Q) [ かみゆ歴史編集部 ]

藤孝が選んだのは、丹後を動かず中立を貫くという選択でした。
藤孝は軍を動かすことはなかったものの、いち早く情報収集の手を打ちます。
家臣を京都に送り、東福寺に情報本部を設置します。
目まぐるしく変わる京都の情報を、逐一入手しています。
さらに、息子・忠興は、玉子を人里離れた山奥に幽閉。
細川家は中立の立場であると天下に知らせます。

光秀にとって、藤孝の選択は大打撃でした。
細川藤孝動かず!!
この事実は、光秀側につくかどうか迷っていた大名たちを足止めさせたからです。
結局、藤孝の行動は、戦いを大きく動かすことになります。

1582年6月13日、山崎の戦いで、光秀は秀吉軍に敗れ、滅亡・・・。
本能寺の変からわずか10日ほどのことでした。

7月15日、藤孝は、信長追善懐旧連歌百韻興行を主宰します。

墨染の 夕べや名残り 袖の露   幽斎

細川家は、亡き信長に忠誠を尽くしたことを天下に知らしめたのです。

信長が秀吉に送った手紙が、細川家に伝わっています。
そこには、鳥取城攻めの方針が事細かく書かれていました。
この事実から、藤孝と秀吉が、本能寺の変以前から深く通じていた可能性もあると考えられます。
両者の軍事連携が、急速に進んでいます。
丹後から・・・光秀の背後から”京都に細川が加勢してくる可能性なし”と、秀吉には確信があったと想定できます。

1582年7月11日、本能寺の変から1か月後に、秀吉から藤孝に宛てた手紙があります。

”この度の信長の不慮について、比類ない覚悟をもって行動されたことは頼もしかった”

秀吉は、光秀に与せず、丹後から動かなかった藤孝を高く評価しています。
さらに、これからは入魂・・・協力関係を維持し、表裏なくどんな時も見放すことはないと血判を押し、藤孝と盟約を結んだのです。
この時、藤孝は来るべき秀吉の時代を見通していたのかもしれません。

1600年9月、関ケ原・・・天下分け目の戦が始まろうとしていました。
秀吉亡き後、石田三成が率いる西軍と、徳川家康が率いる東軍の決戦が迫っていました。
その2か月前・・・丹後の細川藤孝に、人生最大の危機が訪れていました。
舞台は、丹後・田辺城・・・
徳川方の東軍についた藤孝は、この城に立てこもっていました。
これを包囲する西軍勢1万5000!!
対する藤孝の軍勢はわずか500!!
死を覚悟していた藤孝を救ったのは??
古今伝授・・・古今和歌集の解釈を秘伝として伝える儀式で、三種の神器を模した鏡・剣・玉を前に執り行われます。
当時、数少ない古今伝授の継承者が藤孝でした。
籠城戦に入る直前、藤孝は急いで次の継承者・八条智仁親王に古今伝授の講義を行っています。
そして田辺城で死を覚悟して、辞世の句を・・・

いにしへも今もかハらぬ世中に
             心の種をのこすことの葉

そんな藤孝を助けようと働いた人物が、後陽成天皇でした。
藤孝の死によって、古今伝授の伝統が失われることを嘆き、藤孝に西軍と講和するように要求します。
一方、西軍には、田辺城の包囲を解くように迫ったのです。

9月18日、天皇の勅命により、藤孝は籠城をときます。
古今伝授を伝える藤孝は、危機を乗り越えたのです。
籠城が解かれる3日前に、関ケ原の戦いは終わっていました。
藤孝の2か月に及ぶ籠城が、西軍勢を田辺城に足止めしたことが合戦の行方に大きな影響を及ぼしたのです。
そして、徳川家康が次の天下人となります。

藤孝は家康に、室町幕府時代の伝統やしきたりを伝授し、77歳で亡くなるまで、江戸幕府の基礎作りに貢献しました。
1610年8月20日・・・死去。

国宝「太刀 豊後国行平」

古今伝授を終えた記念の名刀です。
武士でありながら、教養を手掛かりに、戦国を生き抜いた細川家の誇りを、今に伝えています。

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本能寺の変の首謀者はだれか 信長と光秀、そして斎藤利三 (読みなおす日本史) [ 桐野 作人 ]
本能寺の変の首謀者はだれか 信長と光秀、そして斎藤利三 (読みなおす日本史) [ 桐野 作人 ]



1982年6月2日未明・・・
京都本能寺で突如炎が上がりました。
わずかな手勢で宿泊していたのは、天下の織田信長!!
その最も信頼する家臣・明智光秀が襲ったのです。
事件当日光秀には、中国地方で戦う羽柴秀吉の応援に向かう筈が、突然軍を本能寺に向けます。
夢にも思っていたなかった光秀の謀反・・・信長は寺に火をかけ、奥に入って自刃しました。
日本史上最大のクーデターともいわれる本能寺の変・・・いまだに謎が多く、光秀の動機について数えられないほどの説が語られてきました。
真実は何なのか・・・??

①怨恨説
これまで通説そして長く信られてきた怨恨説・・・映画やドラマなどで常に描かれてきた信長による光秀への暴力的叱責・・・怨恨説は、光秀が恨みを募らせて謀反を起こしたというものです。
この説の根拠の一つとされているのが、1582年の「惟任退治記」です。
本能寺の変の4か月後、羽柴秀吉が書かせたもので、光秀を討伐したという記録です。
この資料には、光秀が謀反を起こした動機について、こう書かれています。

「決して当座の思い付きではなく、積年積もる逆意があって、この時が好機であると決断したのである」

主君・信長を殺害するまでに、積もりに積もった逆意とは・・・??
光秀の信長に対する恨みの理由に関して、後世の資料では様々なエピソードがありますが、その中でも有名なものが”徳川家康の饗応役解任”をめぐる確執です。

本能寺の変の2週間前、信長は同盟相手の徳川家康をねぎらうために、安土城で盛大にもてなすことに・・・饗応役としてその仕切りを任されたのが、明智光秀でした。
光秀は、各地から山海の珍味を集め、豪勢な料理の準備に余念がありませんでした。
しかし・・・接待の食事に出した魚から悪臭が漂っていたとして信長が激怒、光秀は足蹴にされたと言います。

信長からの暴力的な叱責は、宣教師ルイス・フロイスの記録にも見ることができます。

”人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度足蹴にしたということである”

信長の光秀に対する激しい叱責と、積年の恨みが光秀が謀反を起こす理由だったのか??

怨恨説の中にはもう一つ・・・斎藤利三をめぐる怨恨説があります。
斎藤利三は、光秀の右腕ともいわれた明智家の重臣です。
本能寺の変から遡ること1か月、斎藤利三は明智家のために他の織田家の家臣から家老の一人を引き抜きました。
これを聞いた信長は、織田家家臣団の規律を乱すとして激怒、利三の切腹を命じるほどの激しい怒りでした。
このエピソードは、利三に家老を引き抜かれた稲葉家の記録「稲葉家譜」に書かれています。
1582年5月27日、光秀は、利三の監督責任を問われ、叱責を受けたと言われています。
この時、あるアクシデントが起こり、光秀のプライドがズタズタになります。
殴ったはずみで、”かつら”が取れてしまいました。
光秀は、髪が薄いことを気にして、普段から付髪をしていました。
人前であからさまに付髪を取られてしまったのは、屈辱でした。
この事件が起きたのは、本能寺の変の4日前です。
公衆の面前で潰された武士の面目・・・これが本能寺の変に向かわせたのでしょうか?

怨恨説の根拠は、後の時代に書かれた二次資料です。
一次資料には、光秀が信長を恨んでいたという記録は残っていません。
怨恨説の否定材料となる一次資料は・・・??
本能寺の1か月前の信長の最後の朱印状が細川家に残っています。
あらゆる軍事情報は、光秀を通じて送るように命じています。
虐めるどころか、光秀あっての近畿の軍事政権であると信頼していました。

光秀が信長を恨んだエピソードは、後世の脚色で、一次資料には見られません。
おおむね否定です。

②共謀説

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、光秀についてこう評しています。

”彼は裏切りや密会を好み、己を偽装するのに抜け目がなく、計略と策謀の達人であった”

計略に長けた光秀と何者かが手を組んで本能寺の変を起こしたのか・・・??
数ある共謀説の中でも代表的なのが”朝廷共謀説”です。
朝廷と光秀が共謀して信長を殺したというものです。
だとしたら、朝廷が信長を亡き者にしようとした理由とは・・・??
本能寺の変の前年、信長は京都で馬揃えを行いました。
馬揃えとは、今の軍事パレードです。
しかも信長の馬揃えは、かつてないほどの壮大なものでした。
朝廷共謀説によれば、信長は軍事力で朝廷を威圧するためのものだったのでは・・・??と言われています。
自らの軍事力を見せつけたうえで、これまでにない要求をします。
”三職推任”です。
三職とは、朝廷の最高職「太政大臣」、天皇の補佐「関白」、武家のTOP「将軍」という天皇の除く最高権力・・・信長はこのうちのどれかに自分を推薦するように天皇に迫ります。
三職を与えるかどうかを決めるのは、天皇の専権事項・・・
信長の要求は、天皇の権力を蔑ろにするような前代未聞の暴挙でした。
朝廷にとって信長は危険な存在・・・
そこで朝廷は、公家とも親しい文化人の光秀に近づき、謀反を共謀したというのです。

イエズス会共謀説
さらに、朝廷以外にも、公家と親しかったイエズス会・・・
キリスト教の布教のために、イエズス会は本能寺の変の33年前から日本で活動を始めました。
この時彼らは、中国進出のために日本での基盤を固めるべく、信長を経済的に支援していました。
ところが、信長がほぼ天下を収め、手中に収めると・・・天下人として振る舞うようになり、イエズス会にとってコントロールできない存在となってきました。
ルイス・フロイスは、イエズス会を震撼させた信長の言動を記しています。

「途方もない凶器を盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないというに至った
信長はあろうことか絶対的な存在であり、キリスト教の守ですら否定し、自分はそれよりも上の存在だと言い出したのだ
神を冒涜する信長を許してはならない」

イエズス会は信長に次ぐ実力者だった光秀に近づき、共謀して信長を暗殺した??
信長を亡き者にしたい朝廷、そしてイエズス会・・・それらの巨大組織が光秀と繋がって本能寺の変を起こしたのか・・・??
イエズス会の重要人物の一人・宣教師オルガンティーノは、安土にいたものの本能寺の変の後、明智軍を恐れ、批難したと言われています。
イエズス会と明智が繋がっていたとすると、オルガンティーノの動きは説明がつきません。

朝廷共謀説、イエズス会共謀説は、根拠となる資料が乏しく否定。

③鞆幕府推戴説

広島県福山市にある惣堂神社・・・
厳重に保管されている御神体は、室町幕府最後の将軍・足利義昭です。
広島と足利義昭、本能寺の変の関係とは・・・??
本能寺の変の9年前・・・1573年に室町幕府が滅亡。
信長に槙島城の戦いで敗れ、京都から追放された足利義昭・・・
これをもって、室町幕府が滅亡したと言われています。
しかし・・・京都追放後、義昭は広島県福山市の鞆の浦に毛利氏の庇護のもと、鞆幕府と呼ばれる勢力を存続・・・
将軍として再起を図ろうとしていました。
しかし、どうして鞆の浦・・・??
港からほど近い小松寺・・・
ここは、室町初代将軍・足利尊氏が京都で幕府を開く直前戦勝祈願のために立ち寄ったとされる寺です。
再び上洛を果たし、幕府復興を目論む義昭にとって、鞆の浦は縁起のいい場所でした。
さらに、鞆の浦は、海流が満潮時に丁度ぶつかる瀬戸内海屈指の交通の要所でした。
四国・九州から、人、物、そして情報が集まり、戦力的にも有利な場所でした。
義昭は、京都から広島に逃れ、信長と敵対する西国の大大名・毛利氏らと組み、打倒信長を画策していたのです。

義昭が御所として使ったとされる常国寺・・・
今でも足利将軍家の家紋「足利二つ引」が掲げられています。
寺に伝わる羽織は、義昭が地元の有力者に贈ったものだとされています。
そこには、将軍家など権力者だけに許されていた紋「九七桐」が使われています。
光秀が鞆の浦で京都奪還を望む義昭に近づき「本能寺の変」を引き起こした??

義昭の野望と、光秀の深いつながりを示す証拠が本能寺の変から10日後に書かれた「土橋重治宛光秀書状」に書かれています。
秀吉との最終決戦・山崎の戦いを控え信長と敵対していた勢力に宛てた協力を求める書状には・・・


「上意への奔走を命じられたことを、お示しいただき、ありがたく存じます
 しかしながら、(将軍の)ご入洛につきましては、すでにご承諾申し上げています。」

信長亡き後、上意が使われる人物は、義昭以外に他ならない・・・??
その義昭の入洛・・・光秀自身既に承諾している・・・??
光秀が、鞆幕府を推戴していた証拠なのでは・・・??
光秀は、室町幕府復興の大義のために、本能寺の変を起こしたのか・・・??
義昭の入洛について承諾しているという光秀の書状から、光秀が義昭を担ごうとしていたことはわかるものの、問題は、光秀と義昭が結びついたのが、本能寺の変の前か、後か??
書状が本能寺の変の後に書かれていることから、光秀が自分の正当性を示すために義昭の権威を利用したのかも??

光秀と義昭のつながりは、変の前→義昭と計画的に行われた謀反
へんの後であれば、謀反の大義名分のために推戴したのでは・・・??と思われるのです。

将軍義昭を再び京都に迎え入れるために奔走した光秀、最近、義昭と光秀のつながりが発見されました。
そもそも、明智光秀に関する信頼できる資料は非常に乏しく、前半生は謎に包まれています。
本能寺の変を起こした時の年齢も、明智軍記=55歳、当代記=67歳と、言われています。

光秀に関して最も信頼されている古い記録は、本能寺の変の15年前、永禄10年の「永禄六年諸役人附」です。
そこには、光秀が越前国の足利義昭陣営の足軽衆であったと記されています。
信長に会う前、光秀は足利義昭の家臣でした。
当時義昭は、将軍だった兄を殺され、京を追われ朝倉氏のもとに身を寄せていました。
幕府とつながりの深い朝倉氏のもとで、上洛に必要な大名を探していました。
そこで目をつけたのが、美濃で力をつけてきていた織田信長でした。
その時、義昭と信長を結びつけるために出てきたのが明智光秀です。
この時、若く見積もっても40歳・・・出自もわからない光秀が、どのようにして義昭と結びついたのでしょうか?
長い間謎となっていました。
そんな中、2017年、熊本で・・・謎に迫る発見が・・・!!
「針薬法」と呼ばれる書物は、細川家の家老米田家に残された光秀本人が語った新資料です。
資料には、永禄9年の物と書かれていますが・・・これが事実なら、光秀に関する一番古い資料となります。
その奥書には・・・
”明智十兵衛光秀は、近江国高嶋の田中城に籠城していた”
光秀は、永禄9年(1566年)以前に武将として活躍していたことがわかります。
どうして明智光秀は、主君・織田信長を討ったのか・・・??

本能寺の変に謎はあるのか?: 史料から読み解く、光秀・謀反の真相

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④構造改革反発説
光秀は、信長の行った革新的な構造改革に反発し、変を起こしたという説です。
世は戦国時代、自分たちの所領や領地を守り、いかにして拡大するか・・・??
大名たちによる限られた土地の奪い合いは、100年近く続いていました。
そんな時代を終わらせるべく、信長が出した全く新しい思想は・・・預治思想です。
土地はあまねく天の物・・・それを預けられ、治める・・・この思想が、信長の革命的な思想なのです。
土地はすべて天からの物で、天下人に与えられたものであり、各大名はその土地を預かっているだけ・・・
そうすることで、土地の奪い合いは無くなる・・・預治思想は、秀吉・家康に受け継がれ、幕藩体制の礎となっていきます。

天正8年・・・1580年8月、信長は大和一帯を治める筒井順慶に居城ひとつを残して他の大和一帯の城をすべて破壊するように一国城割を命じました。
領地・城の管理は、従来の各大名の権限で、それを信長は奪い、自ら差配、それまでの権力者とは、一線を画す命令でした。
そして天正8年を機に、
天正8年 大和 城割 検地
      摂津 城割 検地
      河内 城割 検地 
      和泉 城割 
      丹波 城割 検地
      丹後 城割 検地
天正9年 越中 城割
      能登 城割
      伊賀 城割
光秀や秀吉などの家臣の領地で、石高を調べる検地を次々と行い、領地管理を徹底管理させていきます。
さらに、長年自らに仕えてきた宿老に対し・・・
滝川一益 伊勢長島→上野厩橋
越前府中 江千仙府中→能登七尾
細川藤孝 山城青龍城→丹後宮津
見ず知らずの土地に国替えを命じました。
全ては、天下人を中心とした集権国家にするためのもの・・・まさに、国の形を劇的に変える構造改革をしようとしていたのです。
そして次なる国替えは光秀だった・・・??
江戸時代にまとめられた「明智軍記」によれば、「丹波・近江を召し上げ出雲・石見を与える」と言われたと言います。
丹波の地は、光秀が4年の歳月をかけて平定した土地です。
新しい国の形を探して信長が行った構造改革・・・しかし、旧来の常識にとらわれる家臣たちにとっては、あまりにも革新的過ぎたのでは・・・??

革新的なのは信長か?光秀ら家臣たちか??
革命家・信長と旧来型の家臣・光秀・・・そうした従来の評価は近年大きく変わってきています。
信長の革新的の象徴とされる安土城・・・信長は土の城から城郭へと進化させ、城革命を成し遂げたと言われてきました。

しかし、光秀と親交のあった吉田兼見によると・・・
「坂本城の天守を作るところを見せてもらった」とあります。
坂本城とは、安土城の4年前に建築が始まった光秀の城です。
信長よりも早く、荘厳な天守を築いていた可能性があるのです。
さらに、京都市に残る周山城は、東西に800m、南北に620mの広大な山城で、天守の役割をする建物もありました。
当時の一般的な城は土塁・・・周山城は石垣・・・広大で巨石を積み上げた総石垣の山城は、他に例がありません。
さらに、家臣たちを統率する規律も、時代を先取りしたものでした。
「明智光秀家中軍法」によると・・・
当時の軍は、いろいろな出自の者が集まる寄せ集めでした。
家中軍法では、こまごまとした規律が定められています。
戦場での雑談や抜け駆けの禁止が徹底され、織田家はもとより他の大名家に軍法が存在しない中、明智家だけに存在した法律・・・そのあまりの革新性に、江戸時代につくられた偽の文書ではないかとも言われていました。

革命家と言われてきた信長・・・
朝廷が執り行う儀式には、多額の資金が必要で、それを援助するのは伝統的に室町幕府が行うものでした。
しかし、室町将軍・義昭を追放した後は、信長が変わって経済的援助を行い、朝廷を支えていました。
さらに、岐阜城に入ったのち、天下布武の印を使い始めた信長・・・天下統一を目指し、天下人となる決意表明ととられがちですが・・・
信長にとって戦の目的は、天下統一ではなく、各地で起きる反乱を鎮め、朝廷を中心とした伝統的な秩序を守るためでした。
信長は、次の時代を作った革命家ではなく、最後の戦国大名だったのでは・・・??

この頃、信長が使っていた”天下”という言葉も、最近解釈が変わってきています。
天下とは室町幕府、朝廷、京都のこと・・・??
天下布武は、日本全土を支配するのではなく、近畿一円では・・・??
従来のイメージと異なる信長と光秀の人物像・・・
ここから本能寺の変の真相に、新たな説が見えてきます。

⑤暴走阻止説
信長の暴走を止めるために、本能寺の変を起こした・・・??
1580年、石山本願寺との戦いが終わり、畿内を平定。
しかし、信長は戦いをやめることはありませんでした。
全国各地の自らに従わない勢力に対し、兵を送り、武力で押しつぶそうとしました。
信長の行動は、武力に任せるという旧来の戦国大名と何ら変わりのないものでした。
既に中国地方での毛利との戦いは6年に及び、上杉とも戦いは続いていました。
長引く戦と、拡大する戦線・・・織田家臣団は、疲弊しつつありました。
そんな中で、信長は更なる戦を決定します。
四国攻めです。
尾張の見えない戦の日々・・・そんな信長に最も危機感を持っていたのは光秀でした。
織田家の有力者たちに任された地域を見ると、秀吉の中国地方、柴田勝家の北陸地方に対して、光秀は信長のおひざ元・畿内周辺を任されていました。
さらに、光秀と軍事行動を共にする大名を含めると、京をぐるりと包囲しているのがわかります。
信長の暴走を止められるのは、畿内を任され、軍事的No,2だった光秀のみ・・・??
本能寺の変の動機に関して、自筆の書状が残っています。
”明智光秀覚条々”(1582年6月9日付)によると・・・
本能寺の変の後、細川藤孝に対して自ら筆をとっています。
ここに書かれた動機こそ、この説の大きな根拠になっています。
本当に光秀は、信長の暴走を止めるべく本能寺の変を起こしたのでしょうか?
本能寺の変は、光秀が天下を取るためではなく信長の時代を終わらせ、次世代に渡すためだった可能性も・・・??

⑥四国説
2014年、歴史界を驚かす、驚きの発見がありました。
”石谷家文書”によると・・・明智光秀の重臣・斎藤利三と土佐の長曾我部元親がやり取りした膨大な数の手紙によると・・・
注目されたのが、四国説です。
長曾我部元親は、四国統一を目指していた戦国大名でした。
元親は、信長と同盟関係にあり、その取次ぎを務めていたのが光秀でした。
戦いで勝ち取った土地は、自分のものにしてよいという信長のお墨付きをもらい、敵対する三好家と戦い続けた元親・・・四国統一目前でした。
ところが、状況は一変・・・本能寺の変の前年・・・信長は突然長宗我部ではなく三好家と接近・・・元親が戦いで勝ち取った四国の一部を三好家に返上を要求します。

「元親のために光秀は尽力している」

手の平を返す用に領地を奪われる立場となった元親のために、奔走していた光秀・・・
その結果、ようやくたどり着いた妥協案は・・・??
本能寺の変の10日前、元親から光秀の重臣・斎藤利三に出された手紙です。

「信長との間を始終取り計ららってくれたことは忘れない
 阿波国内の主要な山城は明け渡す」

領土の返上を渋っていた元親の説得に成功した光秀・・・
しかし、信長は情け容赦ない決定を下します。
長宗我部を滅ぼすと・・・!!

光秀の人力空しく、四国出兵が決まります。
元親討伐軍が四国渡航予定の6月2日未明・・・光秀は本能寺の変を決行したのでっす。
この四国政策の手のひら返しが本能寺の変を引き起こさせた・・・??

本能寺の変が起こった1582年、信長はすでに家督を信忠に譲っていました。
二人を同時に討たなければ、謀反は成功したとは言えない・・・
ところが、当初信長と別行動をとるはずだった信忠が、予定を変更。
二人が急遽、兵を伴わずに京都にいることになりました。
これが決定したのは、本能寺の変がおこるわずか3日前のことでした。
中国出兵が決まっていた光秀のもとには、1万3000余りの軍勢が・・・!!
光秀にとってありえないほどの好条件が重なったことが、本能寺の変の大きな要因の一つになりました。
四国をめぐる信長の判断が、光秀を追いつめ、織田家家臣団の問題が表面化し、本能寺の変につながった可能性が高いと思われます。

⑦秀吉陰謀説
四国説で浮き彫りになった光秀と秀吉による織田家臣団のNo,2争い・・・
ここからまことしやかに囁かれているのが・・・秀吉陰謀説です。
本能寺の変の直後の光秀について、京都・吉田神社の神官・吉田兼見・・・
朝廷にも深くかかわり、光秀と頻繁に行き来する間柄の吉田兼見によると・・・
本能寺の変当日の兼見の日記には、

”光秀は信長方を悉く討ち果たし、大津に異動した
 私は馬に乗って粟田口まで走り出て光秀に対面し
 吉田家・吉田神社の領地を保証してくれるよう直接頼んだ“

兼見だけでなく、京都の多くの勢力が光秀を謀反人として扱うことはなかったようです。
その後、安土城に入城した光秀のもとに、朝廷からの勅使が訪れました。
これは、朝廷が光秀を次の天下人として認めた可能性を示しています。
本能寺の変後、光秀の動きは順調に見えました。
しかし・・・
それを打ち砕いたのが、秀吉の中国大返しです。
本能寺から200キロも離れていた高松城から毛利との講和を結び、京都に取って返した秀吉・・・
変からわずか11日後・・・1582年6月13日、山﨑の戦いで光秀は秀吉に破れました。
本能寺の変で最も得をした人はだれか・・・??
天下人の道を歩み始めた秀吉です。
どうして秀吉は、こんなに早く変の情報を入手し、動くことができたのか・・・??
秀吉は本能寺の変に何らかの形で関わっていたのか・・・??

秀吉の陰謀である可能性は低いが、秀吉は光秀の謀反を予知していた可能性は高いと思われます。

本能寺の変の直後から、光秀は味方になってくれる織田家家臣団を取り込むべく各所に書状を送り、援軍を頼みました。
敵対勢力・・・最大の秀吉を制すれば、謀反は成功するはずでした。
光秀が最も頼りにしていたのが、細川藤孝・忠興親子でした。
藤孝は、光秀が信長と出会う前からの長い付き合いで、当時光秀の与力大名として軍事行動を共にする間柄でした。
息子の忠興は、三女のガラシャが嫁いだ相手・・・つまり、娘婿でした。
当然彼らの援軍を得られるであろうと思っていた光秀・・・
ところが、本能寺の変を知ると、細川親子は信長の喪に服すると出家、光秀とは組まないという意思を示しました。
さらに、娘婿の忠興は、たまを離縁、幽閉します。
思いもよらない細川親子の反応・・・
光秀はどう受け止めたのでしょうか?
本能寺の変の7日後・・・
光秀が細川家に送った書状によると、細川親子の出家に対し、抗議しながらも、今からでも味方してほしいと強く要請しています。
にもかかわらず、細川家が動くことはありませんでした。
細川家のこの判断によって、光秀の運命は決まりました。

秀吉による中国大返し、それでももし、秀吉の通り道にある丹波で細川が迎え撃てば、秀吉の足止めができたかもしれない・・・
しかし、細川は動かず、実に三倍の兵力を引き連れた秀吉と・・・
1582年6月13日、山﨑の戦い!!
光秀を撃破した秀吉は、信長の後継者の地位を手繰り寄せました。
本能寺の変の1か月後・・・光秀に組しなかった細川家に宛てた秀吉の文書が残っています。
”羽柴秀吉血判起請文”によると・・・花押の上に秀吉の血判が・・・今に残る秀吉唯一の血判です。
細川家によって、400年以上大切に保管されてきました。
秀吉はこう書いています。

”この度のご不慮(信長が自刃に追い込まれた本能寺の変で)
 細川家の行動は「比類なき頼もしさ」であった”と。

そして秀吉はこう続けます。

”これからは、ごく親しい関係を結び
 表裏なく、公私とも抜かりなく協力していこう”

そこには、細川家に対する最大の感謝が伺えます。
しかも、書かれたことが真実であることを誓う、熊野神社の護符の裏紙が使われ、この誓いを破ったら、日本中の神の罰を受けてもいいとまで書かれています。

本能寺の変で、中世が終わり近世が始まる・・・国家の在り方を江戸時代につなげる転換期でした。

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明智光秀伝: 本能寺の変に至る派閥力学

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1582年6月2日・・・天下統一目前で織田信長が家臣・明智光秀の謀反で命を落とします。
本能寺の変です。
戦国の世を大きく変えたこの事件は、信長と光秀を取り巻く女たちの運命も翻弄しました。
光秀の娘・・・細川ガラシャもその一人です。

戦国の革命児・織田信長が、尾張の一大名から天下布武を掲げ走り出したころ・・・
1563年、細川ガラシャは武勇、教養を兼ね備えていた明智光秀の三女・玉として生まれました。
ガラシャとは、キリスト教の洗礼名です。
幼少の頃の玉の記録はありません。
歴史にその名が現れるのは、16歳で名門・細川家の嫡男・忠興と結婚した時です。
当時、二人の父・・・明智光秀(近江国)と細川忠興(山城国)は、織田信長の家臣した。
その婚儀を取り持ち、媒酌人を買って出たのが、主君・信長本人でした。
そこには信長の思惑がありました。
この頃の明智光秀は信長の重臣で、西を攻める・・・細川藤孝も援軍として、この二組を固く結びつけようとしていたのです。
京都府長岡京市・・・細川家の居城・勝龍寺城で婚儀が執り行われました。
誰もがうらやむ美男美女のカップルでした。
夫・忠興は玉の美しさに惚れ込み、手作りのカルタを作るなどして喜ばせ、夫婦仲は良かったといいます。
結婚した翌年には、長女・於長、その翌年には長男・忠隆が生れます。
そんな中、明智家は丹波国を、細川家は丹後国を見事平定・・・拝領し、順風満帆でした。
勝龍寺城での生活が、玉にとって一番幸せな時期でした。

玉は、美しいだけでなく、和歌、儒学、仏教にも精通していました。
才色兼備で、義父・細川藤孝も「一入 最愛の嫁」と絶賛していました。

1582年6月2日、結婚から4年がたった玉20歳の時・・・運命が急転します。
本能寺の変が起きるのです。
父・明智光秀が、主君である織田信長を討ったことで、謀反人の娘となってしまった玉・・・
これが悲劇の始まりでした。

ガラシャの悲劇①謀反人の娘

信長に謀反を起こした光秀は、すぐさま細川家に援軍を要請・・・
上洛し、味方に加わるように書状を送りました。
しかし、細川家が出した答えは非常なものでした。
「光秀は主君の敵」
光秀に味方することを拒んだのです。
当主の藤孝は、髻を切って息子・忠興に家督を譲ります。
主君信長への哀悼の意を示します。
昵懇であった実家と嫁ぎ先の対立・・・その狭間で苦しむ玉に・・・
織田家、細川家家臣たちから謀反人の娘・玉に対する離縁や自害を求める声があがります。

この時夫忠興が取った策とは・・・??

父を助けてほしい・・・愛する夫と一緒にいたい・・・そう願う玉・・・
夫・忠興に一縷の望みを託していました。
しかし、忠興は・・・「最早、共に暮らすことはできない」そう言って、玉を丹後国のはずれ味土野に幽閉してしまうのです。
明智軍記には、味土野に明智家の茶屋があったといいます。
忠興は、玉を実家ゆかりの地へ移すことで、様々な圧力から守ろうとしたのです。
そんな忠興の気持ちなど知る由もない玉は・・・
「(父上が)腹黒なる御心ゆえ
 自らも忠興に捨てられ
 微かなる有り様なり」と、認めています。
本能寺の変から11日後・・・1582年6月13日、山﨑の戦い
父、光秀は信長の家臣だった羽柴秀吉と戦い、惨敗・・・敗走する中、落ち武者狩りにあい落命・・・母や玉の男兄弟たちも命を絶ち、明智家は乱世に散りました。

玉は・・・数人の家老と侍女をつれ、陸の孤島で幼い子たちとも引き離され孤独の日々を送っていました。
この時、身籠っていた玉は、次男・興秋を出産。
そんな玉の支えとなっていたのは、身の回りの世話をしてくれていた清原いとという侍女でした。
このいとは、儒学者の娘で、玉の教養の高さは彼女の影響もあったようです。

秀吉の臣下となり武功をあげて行った細川忠興は、妻・玉の幽閉を解いてもらえるように秀吉に願い出ます。
秀吉は、あっさりと主君・信長の敵を許します。
この頃、秀吉自身は地位を不動のものとしていました。
徳川家康、織田信雄など周りに敵もいたので、忠興が自分の手足となって働いてくれるようにと思ってのことでした。
かつて大阪での大坂での屋敷のあった地に玉は戻ってきました。
しかし、その暮らしは幽閉生活よりも苦しいものでした。

ガラシャの悲劇②戦国一の美女
玉の幽閉中に側室を持ち、子まで成していた夫・忠興・・・たまに厳しく接します。
それは、かつての優しい夫ではありませんでした。
短気な忠興に、頑なになっていく玉の心・・・。
どうして忠興は玉に厳しかったのでしょうか?

”彼女に対して行った極端な監禁は、信じられぬほど厳しいものであった”byルイス・フロイス

そして出入りを逐一報告させました。
窮屈な生活を強いられていた玉・・・どうしてそんな必要があったのでしょうか?

理由❶謀反人の娘ということへの世間体を気にした
理由❷戦国一の美女だったので、忠興の過度の嫉妬がそうさせました。
     美しい妻が、他の男の目に触れることを嫌ったのです。

次第にふさぎ込んでいく玉・・・。
常に監視されている窮屈な暮らし・・・

玉を他の男の目に触れさせたくない・・・その心を最も駆り立てたのは、主君である秀吉でした。
忠興が秀吉の命で朝鮮出兵した時の事・・・
秀吉が九州の名護屋城に大名たちの妻子を招き、茶会を行うという噂を聞くと、忠興はいてもたってもいられず、玉に何度も手紙を送っています。
その中には歌も・・・

なびくなよ
  わが姫垣の
       女郎花
男山より
  風は吹くとも

女郎花とは玉の事、男山は秀吉の事・・・どんなことがあってもなびくなということです。
秀吉は女好きで有名で、留守見舞いとして家臣たちの妻を呼び寄せていました。
それであわよくば自分のものにしようと・・・そこを気にしていました。
そんな忠興に対して、こんな歌を返しています。

なびくまじ
   わがませ垣の
         女郎花
男山より
  風は吹くとも

そして茶会当日・・・玉はある覚悟をもって秀吉と謁見します。
秀吉の前に進み出て挨拶をした玉は、その懐からわざと短刀を落としたのです。
私に触れれば自害するという意思表示でした。
流石の秀吉もその覚悟を知り、そのまま帰したといいます。
とはいえ、自分の幽閉中に側室を持ったうえ、嫉妬・監禁というゆがんだ愛情表現・・・
玉の夫への不信感は強まっていきます。
そんな中でも、忠興のある話には熱心に耳を傾けました。
キリスト教の話です。
忠興は、親交の深かった大名・高山右近から聞いたキリスト教の教えを玉によく聞かせました。
何より自分の話を聞き、こちらだけを見てくれる・・・
玉の心を唯一引き止められる幸せな時間でした。

1549年、イエズス会の宣教師ザビエルによってキリスト教は伝えられました。
30年余りで全国に広まり、信者は15万人に達したといいます。
夫・忠興からキリスト教の話を聞かされた玉は、その教えに大きく心を動かされました。

「神の前では何人も平等であり、愛をもって接しなければならない」

玉は、教会に行き、もっと教えを聞きたいと思うようになっていきます。

ガラシャの悲劇❸キリシタン
厳しい監視の中、外に出ることのできない玉に、チャンスが巡ってきたのは1587年3月のことでした。
夫・忠興が秀吉の命を受け、九州討伐へ・・・!!
大坂の屋敷を離れたのです。
玉は、病気と偽り部屋に籠ると監視の目を欺き、侍女たちと屋敷を抜け出します。
向かったのは、天満の教会です。
玉は、日が暮れるまで宣教師にキリスト教の教えについて質問を繰り返しました。
玉に会った宣教師は・・・イエズス会日本通信にこう書いています。

”これほどの理解力を持つ聡明な日本女性を見たことがない
 明晰かつ果敢な判断ができる女性であった”

玉は、すぐに洗礼を受けることを望みましたが、かないませんでした。
細川家の素性を明かさない玉を、宣教師が怪しんだからです。
諦めて屋敷に戻った玉でしたが、その後、外出の機会がもどってくることはありませんでした。
そこで、どうしてもキリシタンになりたかった玉は、まず侍女・清原いとに洗礼を受けさせます。
そしてそのいとから洗礼を受け、ようやくキリシタンとなったのです。
洗礼名はガラシャ・・・ラテン語で神の恩恵という意味です。
玉という名から連想された”賜る”からつけられたといわれています。
この時、25歳でした。

どうしてガラシャはそこまでしてキリシタンになりたかったのでしょうか?
儒教の”三従の教え”から解き放たれたかったのでは・・・??
三従の教え・・・子供の時は父に、結婚してからは夫に、年老いたら長男に従うというものです。
女性は生涯男性にしたがうという三従の教えから解き放たれたかったのです。
そして三男の忠利が病弱だったため、その回復を願ったのだともいわれています。

キリシタンとなって充実な日々を送っていたガラシャですが、生きる希望となっていたキリスト教が、またもや悲劇を起こします。
1587年6月・・・九州を平定した秀吉が、キリスト教への入信および日本人奴隷の売買への禁止、宣教師の国外退去を命じる伴天連追放令を発布しました。

秀吉は、実際に九州に足を踏み入れて、キリスト教が強くなってきていることに気付いたのです。
長崎の出島をイエズス会が占拠している・・・!!
憤りを感じているところへ、日本人の男女が奴隷として東南アジアへと売られていったことを知ります。
そしてキリスト教徒の結束力の強さ・・・そこに信長が苦しめられてきた一向一揆と同じものを・・・結束力の恐ろしさを感じたのです。
秀吉のキリシタンに対する迫害は、次第に強くなっていきます。
大名たちにもキリスト教を禁止・・・破ったものは領地没収など厳しく接します。

秀吉がキリスト教への締め付けを強める中、ガラシャは娘や侍女たち、家臣たちにも洗礼を受けさせていました。
これに激高したのは九州から帰ってきた細川忠興でした。
忠興は、ガラシャの喉元に短刀を突き付け改宗することを迫りましたが、ガラシャは決して首を縦に振りませんでした。
そこで、忠興は、洗礼を受けた周りの者たちを攻撃し始めます。
キリシタンとなった侍女たちの髪を切ったり、鼻や両耳を削ぎ落され屋敷の外に追い出されるものまでいました。
忠興自身もキリシタンに共感している部分もありましたが、秀吉も伴天連追放令を出したことに従うほか、家を守れませんでした。
妻がキリスト教にのめり込んでいく・・・立場上許せませんでした。
ガラシャは、忠興との離縁を望むようになります。
侍女を通じて宣教師に相談するも・・・・キリスト教では離婚は禁じられているといわれます。
ガラシャは覚悟を決めて宣教師に手紙を書きました。

「どのような迫害を受けようとも、私の信仰はかわりません」

厚い信仰心で自らの人生に立ち向かう決意をしたガラシャでしたが、時代の大きな波にのまれようとしていました。
1598年8月18日、天下人・豊臣秀吉死去・・・
秀吉亡き後、天下を狙って暗躍する徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成が対立・・・
再び戦乱に・・・
徳川家康の東軍7万8000VS石田三成の西軍・8万4000!!
天下分け目の関ケ原の戦いが始まりました。
しかし、この大戦は、わずか半日で決着・・・!!家康の東軍の圧勝で終わりました。
この勝敗に大きく関係していたのが、細川ガラシャだといわれています。
関ケ原の戦いとガラシャの関係とは。。。??
関ケ原の戦いの3か月前・・・細川忠興を始め多くの大名たちが家康に反抗していた上杉討伐の為に会津へと向かいます。
大坂城下に残されたのは、夫を待つ妻たち・・・。
三成は、敵対する大名の妻子を大坂城内に人質にとる作戦に出ます。
人質として三成がどうしても欲しかったのがガラシャでした。
ガラシャを人質にすれば、妻を溺愛する忠興は必ず寝返りする・・・!!
そうなれば、他の大名たちの次々と味方に付くだろうと考えたのです。

7月16日、三成の使者が大坂城下の細川家の屋敷を訪れて・・・
「御上様(ガラシャ)を人質として差し出すように・・・さもなければ屋敷に押しかける」
この時、大坂に残った細川家の重臣たちが出した結論を、侍女が書き残しています。
”一人も人質なし”と・・・!!
絶対に人質になってはいけないというのです。
この判断の元、ガラシャは人質になることを拒絶!!
すると翌日・・・石田軍によって細川家は取り囲まれてしまいます。
危機が迫る中、ガラシャの脳裏によぎったのは夫の言葉でした。

「いざという時には、そなたも細川忠興の妻として自害するように。」

ガラシャは悩みます。
キリスト教では自殺は禁止されていました。
しかし、このままでは人質として捕らえられてしまう・・・
そうなれば、妻としての面目が立たない・・・!!
神への祈りをささげたガラシャは侍女たちを集め、自らの覚悟を話します。

「私はひとりで死にます。
 皆は逃げよ・・・!!」

そして、夫に宛てた遺言を託すのです。

「側室を正室代わりにされることはないように」

妻の意地を見せたガラシャに、最早迷いはありませんでした。
そして家老である小笠原秀清に言います。

「私の胸をその長刀で突きなさい」

自害せず、家臣に殺させることでキリストの教えを守り、死によって大名の妻として細川家を守ったのです。
残った家臣たちもガラシャに続いて自刃・・・屋敷に火が放たれ、遺体は炎に包まれました。
細川ガラシャ・・・この時38歳・・・妻の死が、上杉討伐に行っていた夫・忠興の元に伝えられたのは数日後のことだったといいます。
この一連の出来事について細川家の記録にこう書かれています。

「自害せしむるの間 三成怖れて 人質を取り入ることならず」

ガラシャを死なせてしまったことで、三成は怖気づいてしまったのだ・・・と。
この事件が、三成が正室を人質にとる作戦を諦めさせる原因となりました。
結果、関ケ原の戦いで家康が不利にならずに済んだのです。

男たちの争いに翻弄されたガラシャの辞世のうた・・・

散りぬべき
   時知りてこそ
       世の中の
花も花なれ
      人も人あれ

散り際を知っている花は美しく、私もそうなりたい・・・
その潔い死は、歴史を大きく変えたのでした。

キリスト教が禁じられている中、忠興は妻の葬儀を教会で行いました。
その際、涙を流し泣き続けたといいます。
そして忠興は亡くなる83歳まで正室を迎えることはありませんでした。
ガラシャの遺言通り・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いと、戦国の覇権争いに巻き込まれ、波乱の人生を送ったガラシャ・・・
自らが招いたわけではない悲劇に、何度も身を引き裂かれるような思いをし、キリスト教という救いに出会い、慈悲深い心で戦乱の世を必死に生き抜きました。
ガラシャはまさに戦国の世を象徴する女性でした。

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明智光秀って、紹介するにはいろいろエピソードがあって・・・
でも、本当のことはあまりよく知られていないという・・・なんとも難しいキャラです。
が、色々話があるのにわからないってことは、いろんな話が作れるってことで、ドラマとしては面白くなるのかもしれないですね。

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先日紹介しましたが、「麒麟がくる」では長谷川博己さんがやってくれます。

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明智光秀は、みなさんご存じだと思いますが、本能寺の変で織田信長に謀反を起こし、でも・・・根回しが不十分で誰も味方がおらず、中国大返しで意気揚々な羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、三日天下で終わる・・・あの光秀です。

後に世を治めるのが、光秀のライバルであった秀吉や家康だったので、なかなかいいところは書物として残されていないというのが現状です。
だから、光秀のことはよくわからないんだと思います。

光秀の本姓は、源氏、清和源氏の家系で、土岐氏の支流である明智氏の出身です。
糟糠の妻は熙子、子供にはあの細川ガラシャもいます。

私のイメージでは、武闘派で田舎者の多かった織田家臣団にあって、唯一の知性派だったと思います。
もちろんそこは信長も一目置く・・・というか、光秀の公家とのあれこれを最大限に利用します。
そうして、真面目で使い勝手のいい光秀・・・
だからこそ、一国一城の主となったのは、家臣団の中で光秀が第一号でした。
信長に出会ってから3年・・・出世争いで秀吉を大きく引き離します。

ちなみに、この時秀吉は、裏切った浅井攻略を任されていましたが、大苦戦!!
浅井氏の居城・小谷城を攻め落とし、浅井氏を滅ぼすのに3年の月日を費やしてしまいます。
その後、1573年信長から落とした小谷城と北近江3郡13万石を与えられます。
一国一城の主に・・・家臣団の中では第2号・・・光秀からおよそ2年遅れてのことでした。

後に信長に領地を取り上げられますが・・・
領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域もあるほどです。

聞けば聞くほど・・・光秀のことを知りたくなります。
大河ドラマでは、どんなふうに色付けしてくれるのか・・・とっても楽しみです。



「明智光秀が築いた京の奥座敷 亀岡の城下町」はこちら
「明智光秀・本能寺への葛藤」はこちら
「悲劇!二君に仕えた男~明智光秀~」はこちら
「光秀VS秀吉 信長はどちらを評価?」はこちら
「明智光秀~"天下の謀反人"の真実~」はこちら
「新説・山崎の戦い~なぜ光秀は天下をとれなかったのか?~」はこちら

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