日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:維新

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日本の未来をかけた幕府と長州の戦いが始まりました。
高杉晋作らが幕府軍を撃破したその頃・・・
と、そのお話は終わってしまい、美和が中臈になって興丸様の好き嫌いを治すお話が始まりました。

「幕府軍に勝てたのは、小田村様が幕府軍の足並みを乱してくれたおかげです。」by伊藤博文
・・・「高杉晋作の遺言」の回なのに、晋作のおかげではないのね・・・。
おまけに伊藤によると、興丸がすくすく育っているのは美和のおかげだそうです。
だって、先週まで赤ちゃんだったのに、もう大きくなってるからなあ・・・

あ~、何だかなぁ・・・

私の見たい奇兵隊は、すでに勝利を祝っていました。
そんな中・・・晋作・・・吐血!!

でも・・・そんなことはどうでもいいらしい。。。
「高杉晋作の遺言」なのに。。。

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野菜嫌いの激しい興丸様にこんなことをさせたり・・・

他の女性たちが大変だと怒っていると・・・

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大殿がこんなことをやっていたりして。。。
「そうせい。」

銀姫もアホっぽいし口調だし・・・。
おまけに、この畝じゃあ、何も育たないわよ・・・。
どう見ても土が固い。。。畝っぽく土を乗せただけの美術に見えるのは私だけ・・・??


高杉の病状が悪化していると奥にまで来て言う伊之助。
おまけに、美和に手紙を持ってきました。

「話したいことがあるのでできれば下関まで来て欲しいと。。。」by美和
「行ってくれるか・・・??」by伊之助

宿下がりをしてまで下関に向かいますよ。。。
興丸をほったらかしていいのか・・・??
おまけに、畑の世話まで頼んでますよ。。。
こんな話でいいのか・・・??

下関の外れの庵で養生していた晋作。
かなりのやつれよう・・・。

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なんと、元徳様から世話をするようにと命じられていたようです。
「お前たちも来たとはのう・・・」と、パーンしたら、雅と梅之進でした。
??妻なんだから、来ちゃダメなのか・・・??
それは、おうのがいるからか・・・??
ちょっと出て来てた望東尼は・・・??

「本当に、おひとりでございますね!!」
と、病人にきつい嫌味な一言を言った雅、「さっ!!」と・・・

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結核なのに梅之介膝の上に乗せたらだめだろう・・・。

「家族そろって仲睦まじく。。。」と、晋作らしからぬ??いろいろ話してるんですが・・・美和・・・出て行ってあげてください。。。
それ以上に・・・「それはようございます。」って、お前が相槌打つんじゃないよ・・・。
と、邪魔者以上の何ものでもありません。

そして・・・なんと、「高杉晋作の遺言」とは、「久坂の子を引き取って育てろ」ということでした。
なんだこれは・・・。
明日の日本はどうなったの・・・??って感じ。
長州の全てを託された男のすることがこれか・・・


と、落ち込んでいたら伊之助。
「大義であった。。。」と、大殿に褒められてます。
大きなことを成し遂げた伊之助が幕府に狙われる可能性があるから、「名を改めよと」と言われます。
なんと、大殿の右腕となっていたんだって。
「有り難き幸せ。」と、楫取素彦と名を改めます。

う~ん・・・この頃の人は、みんないくつも名前を持っていました。
伊之助だけではないんですよ。。。狙われていたのは。
晋作もいくつも名前があって・・・最後は谷潜蔵です。

晋作に会いに来た伊之助・・・
まだいたのか・・・美和。
庭掃除なんか・・・妻もおうのもいるだろうに・・・。

またもやお菓子を作って・・・松下村塾を思い出すのでした。
「うまい。。。」という晋作、思い出を語る美和・・・そこには雅は入っていけない雰囲気ですよ。。。

「高杉のことを頼んだぞ」by素彦
「はい」by美和

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薬を持ってきたのはまたもや美和。
さっき・・・家族の時間を持たせてやれてよかったって言ってましたよね、美和。。。
お世話を雅にさせてあげてください。

ウフフ・・・と、いろいろ話していますが、もう、私の耳には入りません。
と、やっぱり子供を引き取れという晋作。
引き取ることは出来ないという美和。

これからの日本が心配でたまらないと、美和に託してますよ・・・
新しい世を。。。
近くにいるじゃないの・・・??あなたが振り回していた伊藤博文が・・・!!!

「新しい日本を作れ!!新しい日本人を作れ・・・!!
 おまえならできる・・・!!美和・・・それが天命じゃ・・・!!」by晋作

と、言わなければならなかったことを必死に言った晋作は、血を吐いて危篤!!
あ~、最期ぐらい家族水入らずで・・・と思っているのに、晋作の最期の手をとったのは美和でした。
何でじゃ~~~!!
なんで、雅じゃないんや~~~!!な、展開です。
いくら託されててもなぁ・・・。
しんみり・・・やっと出ていったよ・・・美和。。。

「おもしろき こともなき世を(に) おもしろく」

波乱万丈の人生を遂げた・・・って言ってるけど、そこをやって欲しかった。。。

享年29歳の早すぎる死でした。

臨終には、雅と梅之進の他、父・小忠太と母、野村望東尼、山県もいたのです。
ま、この句は、最期に詠んだのではない・・・少し前に詠んだ句なので、下の句を呼んだ望東尼は今回欠片も出てきませんでした。
そんななら、なんで前回出したんだろう・・・望東尼。。。
美和よりも随分、重要なポジションなのに・・・
なんとも寂しい最期です。


やっと奥御殿に戻ってきた美和。
なんと、大きく育った小芋!!そんなに行ってたのか・・・??
興丸様も好き嫌いが治って万々歳の美和でした。

で・・・京で戦(戊辰戦争)が始まるという。
元徳の足りない薬を運ぶのは、またもや美和。
久坂の忘れ形見を探したいんだそうだ。。。
妾がいて当然の時代に、奥では久坂に忘れ形見がいたことをブーブーサイテーみたいなことを言ってます。
それって・・・どうよ。。。
元徳様の薬を忘れたお付の者は完全に大失態!!
おまけに届けるのは私情をたっぷり挟んだ美和だなんて・・・。

「ありえね~っつうの!!」て言わしたらどうですか”つくし”に。
ま、江も、神君伊賀越えやってますから・・・いいのか・・・

亡き夫、久坂の忘れ形見を探す為京へと旅立つこととなった・・・
と、ナレーションでは言ってますが、駄目ダメ、本当は薬を持って行くことなんですよ・・・!!
吉田松陰は、私情は捨てて公に生きろって言われたんじゃないの・・・??

  

体は私(わたくし)なり、心は公(おおやけ)なり。

私を役(えき)して公に殉(したが)う者を

大人(たいじん)と為(な)し、

公を役して私に殉う者を小人(しょうじん)と為す。


体は私で、個別的なものであり、

心は公で、普遍的なものでなければならない。

私の肉体を使って、身をかえりみずに公のために

役立てる者は、りっぱな人であり、

公である心を私の欲望のために満足させることに

使おうとする者は、

徳のないとるに足らない人である。


松陰が27歳の時、「丙辰幽室文稿」七生説の中でいった言葉です。


さすが”松陰の妹”というんだったら、松陰の妹を貫いてください。

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もう一つの幕末維新①です。

世界における日本のイメージは・・・フジヤマ・ハラキリ・ゲイシャ・・・
芸者と言えば・・・日本人にもあまりなじみがありませんが・・・
芸者は、日陰の身でありながら、キャリアウーマンであり・・・芸能界としての憧れの的でした。
一番の仕事はとりもち・・・空気を読んで人と人とをとりなすことでした。
コミュニケーション能力に長け、社会性も磨かれていく。。。芸者無くして日本の女性史は語れません。

花街にはルールがあります。
①お客を名前では呼ばない=お兄さん、お父さん
②お手洗いもついて行って案内する=お客同士が鉢合わせにならない様に

幕末・・・勤皇芸者と言えば幾松・・・

ikumatsu
桂小五郎を維新の英傑に導きました。
京都の花街は情報収集と政治工作の舞台となっていきます。
情報を漏らさないお茶屋は、志士たちにとって最適な場所だったのです。
おまけに志士には芸妓が欠かせない存在でした。
超一流の・・・耳目の学を駆使し、商売を取り持つ・・・そんな存在でした。


幾松は、三本木の名妓でした。
9歳の時に口減らしのために芸妓修業を始めます。
文久2年桂小五郎と出会い恋に落ちます。
それは苦難の始まりでした。

討幕を目指す長州藩の中心人物桂小五郎は、常に新選組に狙われていました。
幾松は・・・桂を出せ!!という近藤勇の前で舞を見せ・・・
時間を稼いで小五郎を逃がしたと言われています。
当時のお茶屋には秘密の脱出路があったのです。
台所にあるかくし扉から河原へと逃げることが出来たようです。

元治元年・・・禁門の変が・・・!!
激しい戦闘のあと・・・京都を追われる長州・・・
小五郎は物乞いに変装し、河原に潜伏します。
幾松は、下女に変装し、握り飯を届け続けたと言われています。

しかし・・・小五郎は突然消えてしまいました。
幾松は芸妓を辞め、全財産をはたいて小五郎を探しました。
9か月後・・・潜伏しているのを発見し・・・
小五郎は、禁門の変で多くの仲間を無くしてしまっていました。
生きる気力も無くしていたのです。
幾松は・・・
鉱物料理と芸者遊びで・・・1か月も癒します。
血縁関係のない世界で生きてきた幾松。。。
当時の女性にしては珍しく、精神的に自立していたと思われます。
遂に歴史の表舞台に返り咲いた小五郎は・・・明治維新を成し遂げるのでした。
明治3年正式に結婚し・・・
木戸孝允・松子と改名しました。

松子は元勲の妻となった明治以降も花柳界にいた頃の道具を大切に持っていました。
かんざし、櫛、小物入れ・・・
これらには、芸妓時代の誇りが込められています。
芸妓時代があったからこそ木戸を支えられた。。。
そんな自負心を支えに生きてきたのです。

芸妓にとって男は4種類。。。
旦那・客・客色・真夫だそうで・・・
身分的にはお金で縛られている芸妓ですが、恋愛感情に対しては選べたのです。
心底惚れた真夫・・・桂小五郎に全てを託したのでした。

明治花柳界のゴッドマザー・・・
横浜富貴楼のお倉は、料亭政治を生み出しました。
日本独自の政治システムでした。
首都東京で???はなく、明治時代は新開地・横浜で。
幕末に開港し、日本最大の貿易港となった横浜。。。
明治5年には鉄道が開通!!
海・陸のターミナルとして人・物・金が集まる一大都市となっていました。

横浜富貴楼 お倉―明治の政治を動かした女

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そこでもっとも繁盛していたのが料亭・富貴楼。
芸者上がりの女将・お倉は、明治の元勲たちを相手に料亭政治を生み出したフィクサーとも言われています。

顧客は・・・伊藤博文・山県有朋・大久保利通・・・他にも・・・!!
大事なことは話さないお倉。。。
横浜が元勲を引き付けたようです。
陸蒸気に乗って横浜へきてアイスクリームを食べる・・・
それだけで、自分たちがやってきたことに対して肯定できる・・・
そんな気持ちにさせてくれるのが横浜だったのです。

最も重要だったのが欧米視察。
明治4年岩倉使節団が横浜から出航・・・。
送別の宴は富貴楼で。。。
一切合財を取り計らったのがお倉でした。
参加していたのは・・・岩倉具視・伊藤博文・大久保利通・木戸孝允・・・
新たな政治の舞台が富貴楼だったのです。
これからの日本をどうしていくのか???
日本の料亭政治の始まりでした。

絶大な信頼を得たお倉。。。
大変な苦労人でした。
6歳で家族が離散、20歳で遊女に身を落とし・・・
働いても働いても放蕩者の夫・・・。
富貴楼を始めるまで人生の底辺を歩いてきたお倉。

そんな人生経験のいかされた接待術があります。
「客の手が三つ鳴ったら料理を辛くすべし!」
江戸っ子は、三つ手を鳴らすのは神には慰霊するときだけ。。。
3つ手を鳴らすのは田舎の客なので、料理の味付けを濃くする。というものです。
細かい気遣いで先回りするサービスは、究極のおもてなし。
そこでは待合(料亭)政治が発達し、100年も続いたといいます。

初代総理大臣夫人・伊藤梅子は、地方芸者からファーストレディーへ!!
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梅子は下関の芸者でした。
17歳の時に、貧しい家計を助けるために茶店で働いていました。
そこへ飛び込んできたのは命を狙われていた伊藤。。。
とっさに匿いました。
その後、下関で芸者をしていた梅子を身請けし、維新直前の慶応2年に結婚しました。
初代総理大臣となった梅子。。。前代未聞のシンデレラストーリーでした。
足軽の子からトップへとなった伊藤博文。。。
秀吉以来の大出世でした。
梅子は、世界一勉強したファーストレディかも知れません。

字の読めなかった梅子は、猛勉強!!
目を悪くするほどの猛勉強で伊藤の代筆をするようになり、囲碁、和歌、英語・・・津田梅子を住み込みで雇い、英語だけではなく、欧米のマナーも勉強しました。
そんな梅子が外交の表舞台に立ったのが、鹿鳴館でした。
その鹿鳴館の目標は・・・日本の悲願、不平等条約の改正でした。
華やかな外交接待・・・
当時の鹿鳴館外交は、ファーストレディの梅子にとっても重大責任でした。
西洋風の接待は・・・何から何まで解らないことばかり・・・
まず悩んだのはドレスコード。
当時のドレスは、コルセットで締め上げます!!
梅子は、誰よりも率先し、ファッションリーダーとなります。
そして最大の問題は社交ダンス!!
異性と踊るなど・・・!!
舞踏練習会を開き、社交界を牽引していきます。

どうにかして条約改正にこぎつけたい・・・!!

ところがそんな妻の苦労はどこ吹く風・・・
伊藤は毎晩芸者遊びです。
自宅にまで芸者や愛人を連れ込みます。
そんな時も梅子は・・・
「御前様は公務で大変忙しい方だから、あなたに慰めてもらうのが一番気休めになるのよ」
と、お土産まで持たせて見送りました。
気の使い方がとっても粋だったと言います。
博文も、忸怩たる思いがあったのか・・・
「天皇陛下の次に尊敬している人は、おかかじゃ・・・
その他には、今日吾輩の尊敬するものはない。」
としています。
夫に恥をかかせないほどの女性になる。。。
其者上がりがばねになったのだ・・・と思われます。

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鹿鳴館は、女性の社会進出の先駆けとなりました。

そんな鹿鳴館の華・陸奥亮子・・・日本外交の悲願・・・不平等条約改正に尽力した影の外交官でした。
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夫は第8代外務大臣・陸奥宗光。。。
不平等条約改正と日清戦争講和で大活躍な人物ですが。。。
亮子の美貌と気品を兼ね備えた姿は、外国人を魅了します。
女性に厳しいアーネスト・サトウも亮子を称賛しています。
「陸奥の2番目の夫人、若くて大変な美人。
 涼しい眼と素晴らしい眉。。。」
世界に愛された陸奥亮子。。。
亮子は播磨国龍野藩の武家の娘でした。
明治4年の廃藩置県が武家の運命を大きく変えました。
200万人とも言われた藩士の大量解雇が行われ・・・没落した武家の娘が芸者となったとか・・・
亮子もそんな一人でした。
17歳で新橋の小兼として花柳界にデビュー。
その美貌で、瞬く間に売れっ子芸者となりました。
凛とした亮子は誇り高き武士の娘でした。
男嫌いで身持ちが固いと言われていた亮子のハートを射止めたのは・・・
当時神奈川県令だった陸奥宗光でした。
紀州の名家出身の陸奥は、薩長閥が占める中で実力でその地位を築いていたのです。
切れ者で、先妻を亡くしたばかりでした。
明治11年政府転覆計画に関与した罪で禁固5年の刑を受け・・・山形監獄へ・・・!!
女手一つで3人の子と姑をみました。
明治16年刑期を終えて釈放された宗光・・・
しかし、翌年には家族を残して、ヨーロッパに留学してしまいました。
宗光が亮子に送った手紙は・・・
2年間で50通にも及びます。
「もし暇があったら、新聞の社説を読むといい。
 ロンドンの女性はみな読んでいますよ。
 だから話も弾み、他人と広く交際できるのです。
 新聞は東京日日新聞がよく、小新聞は読んでも無益です。」
宗光は、国際的に活躍できる女性になってほしいと思っていたようです。

文明開化に時代には、そんな女性も必要だ!!

政界復帰を果たした宗光は、外交官として明治21年に駐米公使として亮子と共に渡米します。
その優雅な美貌と聡明さ・・・ワシントン社交界の華とも言われました。

夫の外交機敏にも優る東洋産の名花と、もてはやされました。
武家の気品と誇り、芸者のおもてなしを兼ね備えた、国際派トップレディだったのです。
悲しみをもとにした意地を通した上での美しさ・・・
だからこそ凛として生きる。。。

陸奥宗光の最大の功績は、不平等条約の改正でした。
当時陸奥家の邸宅では・・・外国客を招いた亮子がおもてなしをし、条約改正を裏で支えていました。
武士という時代が崩壊して・・・しかし、本当の品、誇りをもって生きた人でした。


鹿鳴館が終わると・・・欧化主義の揺り戻しが始まります。
良妻賢母教育が行われます。
激動の時代、女性が自立しているとも思わずに自立して生きていた時代だったのに。。。
女性が家を守る・・・時代へとなっていくのです。

料亭は・・・
男が男を鍛え、女が女を磨く場所でした。
戦いながら、ヒントや閃きをもらう場所が料亭であり、花柳界だったのです。
今の時代はどこで磨くの???
違う装置・・・演出を考えることが必要なのかもしれません。

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幕末・・・長州藩が攘夷から開国に替えるきっけけとなったのが・・・馬関戦争です。

時は1863年4月、攘夷を促す勅書に窮した幕府が、「攘夷の期限は5月10日」と宣言したので・・・
長州藩は5月10日、藩兵を下関に終結させます。
以降、関門海峡を通りかかった外国船をかたっぱしから砲撃しました。

だから・・・64年8月5日イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4か国連合艦隊が下関を襲撃しました。
これに対して長州藩の大砲は、連合艦隊に全く役に立たず・・・
たった二日で砲台はすべて制圧されてしまいます。
高杉晋作が講和使節となって8日には集結しました。

この時あった長州藩の大砲は、117門とも150門とも言われています。
しかし・・・現在も残っているのは木製砲一門を例外として、青銅器製の大砲はすべて戦利品として連合艦隊に持ち去られてしまいました。

奪い取った大砲は、70門とも109門とも言われています。
その後は定かではないものの・・・フランスに渡った大砲のひとつは、1984年、ミッテラン大統領の決断で日仏友好の印として里帰りしています。

鋳つぶされたものも多いようですが、アメリカ・ワシントンの海軍記念博物館にも展示されています。

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幕末には、草莽、勤皇の志士、幕末の志士・・・

志士は、封建体制ではどうにもならなくなった世の中を改革し、人々を救うことを切実に願い、そのためには自分の命をも顧みることのない人のことです。

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これって本物なのかしら???

幕藩体制が招いた内憂外患の中から危機を訴え、批判をする革命家たちです。
今の日本を憂いで、動乱の世の中、広く天下国家の視点から自分の意思を明らかにしていきます。

意味はもちろん”志のある人”のことで、その言葉は「論語」の中にあります。

「志士仁人は生を求めて以って仁を害するなく、身を殺して以って仁をなすあり」と。。。

また、「孟子」の中にも

「志士は溝壑(こうがく)にあるを忘れず、勇士はその元(こうべ)を喪ふを忘れず」とあります。

ここから考えられる志士は・・・
「仁を備え、死を恐れない勇者」のことですが。。。

では、どうして彼らは脱藩したのでしょう。。。???
それは、何かを成し遂げる際、最終的に藩に迷惑がかかることを怖れてのことです。
つまり、藩籍があれば藩の管理下にいなければならず、広く天下の士と交わり、奔走する自由が奪われるのです。

もちろん脱藩は厳しく禁じられていました。
藩を抜けたものは、捜索の手が伸び捕まれば・・・
藩に送り帰されます。そして、永蟄居・切腹・斬刑・・・結構重い刑に処せられるのでした。

ちなみに、坂本龍馬の次姉お栄は、龍馬の脱藩の際に刀を与えています。
この刀は、お映画嫁ぎ先を去る際に夫からもらったものでした。
お栄は脱藩を助けたことで、藩から坂本家が咎められ取り潰しになることを気遣い、罪を一身に引き受けて自害するのでした。
この事に兄・権平は龍馬は行方不明・刀は紛失・お栄は急死ということで対処し、坂本家の危機を乗り切ったのです。

つまり、脱藩はとっても大変な事だったのです。

高い志をもって脱藩したものの・・・
困窮生活に耐えきれなくなって無頼の徒に成り下がる人もなくありませんでした。
坂本龍馬が脱藩したころ、京都にいた脱藩浪士の数は・・・
薩摩藩2000人・長州が300人・土佐が5人・肥前佐賀が6人・・・・他にもたくさんいましたが、数においては薩摩が軍を抜いて多かったのです。

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では・・・”浪士”と”浪人”はどう違うのでしょう?
浪士は自分の志を遂げるために自主的に藩籍を離れたもので、浪人とは幕府の取り潰しで藩が消滅し、事故の意思に反して流浪の身となったものや、主君の怒りを買ったり人員整理にあったり、不正・不倫などで藩から追われたもののことです。

幕末の志士・・・カッコいい雰囲気

幕末においては尊王攘夷の思想を持って政治活動した者。。。
天下国家のため正しいと信じたことを、生命をかけて貫く人物のことなのでしょう。


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今から150年前、日本の歴史を動かした男たちがいました。

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200年あまり続く、疲弊した幕藩体制にピリオドを打ち、新しい日本を夢見たヒーローたち。

「坂本龍馬・勝海舟・西郷隆盛・吉田松陰・桂小五郎・大久保利通」

中でも、幕府の中枢にいながら江戸城を無血開城し、薩長政権のキーマンになった男「勝海舟」

その弟子で、「日本を今一度洗濯いたし申候」
薩長同盟、大政奉還など、日本の革命的出来事の成立に深くかかわった「坂本龍馬」

幕府側のNo,2と、革命側のNo,2。
立場も身分も違う2人のNo,2によって、近代の夜が明けたと言っても過言ではありません。
まさに、時代のNo,2でした。
日本の転換期に果たした役割は、どちらに軍配があがったのでしょうか。

その時代背景と、運命の出会い。

1853年黒船来航。
日本列島は、蜂の巣をつついたように大騒ぎ。
恐れをなした老中筆頭・阿部正弘は、幕府のみならず大名、町人に至るまで意見を幅広く求めました。

全国から700通におよぶ意見書が届けられました。
その中でも異彩を放っていたのは

「優れた人材を登用する。」
「軍艦を建設し、それによる交易で国防費を調達する。」
「西洋式の兵制に改め、江戸の守りを固める。」

それは、勝海舟の時代を見据えた意見書でした。
これが海防掛目付・大久保忠寛の目に止まります。

この時33歳。小十人組に昇進した海舟は、長崎で頭角を現します。その後教頭に出世。

1860年幕府は、日米修好通商条約の批准書交換の為に使節を送ることになります。
エリートが選ばれる中、勝は軍艦頭取として咸臨丸で護衛にあたりました。

海舟は、遣米使節団には同行せず、日本に帰ります。
そして、幕府に頼らないで身分にとらわれない海軍学校を創設しようとします。

40歳で軍艦奉行並に昇進。自分の構想を訴えるも、幕府のお偉方は「長州人は駄目だ」とか、「身分がどうだ」とか、反対します。当時は国と言えば藩のこと。日本人という発想がなかったのです。


坂本龍馬は、土佐藩、下級武士の子として生まれました。
19歳で剣術修行で江戸へ。
その時黒船のニュースを聞きます。

「もう剣では大砲にはかなわない!!」

龍馬は土佐に帰って砲術を学び、土佐藩・河田小龍のもと、世界情勢を学びます。
その中でもアメリカの民主主義にいたく感動します。

「日本もみな平等で、自由な国に・・・。」

龍馬は脱藩し、再び江戸へ。。。
目指すは勝の屋敷。
勝の屋敷では、勝の熱弁に圧倒され、すぐに弟子入りします。
「日本の為に!!」

勝海舟と坂本龍馬、日本史上類を見ない最強コンビの誕生でした。

武士の底辺にいた2人。。。
神戸の操練所を作った勝でしたが、そこは、幕府の武士のみが学ぶことが出来ました。
そこで、操練所のわきに私塾を作ります。そして、操練所で同じように教育をしました。
そこには饅頭屋の近藤長次郎や医者の長岡謙吉もいました。

そうして日本を近代国家にするプロジェクトが発動しました。
神戸海軍操練所と私塾には、全国からたくさんの学生が押し寄せました。
尊王攘夷・開国・討幕・・・いろいろな思想の学生がいました。

その中で、池田屋事件にかかわった学生がいました。密議をしていたのは、望月亀弥太。そこを、新選組に襲撃されました。

海軍操練所は、反幕府の巣窟とみなされ、なすすべなし。
勝は軍艦奉行を罷免。神戸海軍操練所も閉鎖されました。

勝は、西郷に、包み隠さず幕府の現状を伝えます。

「幕府をつぶして日本を一つの国に!!」

西郷に新国家の青写真をイメージさせました。
そして、坂本龍馬たちを預けます。
1864年9月11日、勝と西郷が初めて会ったとされる日・・・その後西郷は、大久保に手紙を送っています。
「共和制という政治制度に日本を変える以外この国を救う手立てがない」

この時、西郷も討幕を決意しました。最終的にはアメリカのように・・・。

龍馬は西郷からの援助で蒸気船を買い、「亀山社中」を立ち上げました。

その後龍馬は、薩長同盟の成立に向けて奔走。

いままで敵だった長州と薩摩この二つをどう接近させるのか?

長州は、当時幕府から武器購入を禁止されていました。
そこを、薩摩名義で7000丁の銃と軍艦1隻を購入。薩摩は京都の警護で兵糧が欲しかったので、米と交換しました。
敵だった二者をギブ&テイクの関係にしたのは、龍馬の亀山社中でした。

1866年1月22日京都・薩摩藩邸にて・・・薩長同盟成立。
そこに証人として署名したのは龍馬でした。

そして時代は討幕へ・・・。

この後、西郷とは道を違えます。勝と龍馬は無血革命を目指します。

1866年第2次長征征伐で幕府は大敗。
薩長は、武力討幕へ傾くも、龍馬は平和裏に討幕をしたいと考えていました。

次の一手は。。。
自分が脱藩した土佐藩の力を借ります。
会談が行われたのは、長崎「清風亭」
当時の土佐は、幕府支持派。時代を様子見していました。
後藤象二郎と会談し、大政奉還をする方向に進んでいきます。

大政奉還してしまえば薩長も大義名分がなくなるので、戦うことなくケリがつき、案を出した土佐藩も有利に政治参加が出来る。。。

龍馬は脱藩の罪を解かれ、海援隊は土佐藩お抱えとなります。

龍馬は、後藤と一緒に京に上る途中の船の中で「船中八策」を書き上げます。
これは、山内容堂から徳川慶喜に提案され、大政奉還が実現しました。
どうして慶喜は、大政奉還を受け入れたのでしょう?
そこには・・・
「700年間政治から離れていた公家に、政治が出来るわけがない!!
 きっと、もう一度お願いされて政治を任されるに違いない!!」
という西周の目論見がありました。

しかし、それを察知した薩長・武力討伐派が王政復古をしてしまうのです。

この時点で、龍馬の掲げたピュアな「船中八策」から血なまぐさいものへと変化してきました。

龍馬は大政奉還の1か月後近江屋で中岡晋太郎と一緒のところを刺客に襲われて即死。
龍馬は惜しい人物でしたが思想家というよりも「脚本家」
惜しまれて、死ぬべき時に死んだのかもしれません。

あくまで武力討伐を掲げる薩長。薩摩藩の起死回生は「錦の御旗」
西郷と岩倉具視は天皇の命により慶喜を追い落としにかかります。

「鳥羽伏見の戦い」これに幕府軍は大敗。
最後の砦は江戸城総攻撃!!

慶喜は海舟を海軍奉行並・陸軍総裁に昇進させます。

「江戸を火で埋め尽くすわけにはいかない」
と、無血開城を主張。
イギリスのパークスに圧力をかけます。どうしてイギリスか・・・薩摩がイギリスから武器調達していたのです。

江戸城総攻撃2日前に西郷と交渉開始。
「国内戦争は避けたい!!」
西郷は延期すると約束します。

この時海舟は、江戸市民を千葉に移す予定にしていました。
おまけに江戸の侠客・町日けし十番組の頭・新門辰五郎に慶喜の身辺警護をまかせました。

つまり、和戦両様の構えをとっていたのです。
勝は、幕府は見限っていても、慶喜には想いを持っていたのです。


さて、海舟と龍馬、どちらがNo,2か?
今回は、2人をあわせたような幻の人に軍配を上げるというものでした。あせあせ(飛び散る汗)

大きな時代の転換期、激動期には出てくるヒーロー。

2人のヒーローが成し遂げた偉業は、近代日本の礎となりました。

1868年無血開城。
船中八策は、五箇条の御誓文に生かされました。

岩崎弥太郎は、海運事業で三菱財閥を。

海舟は、数々の役職を歴任し、旧幕府軍の世話や生活の面倒を30年以上も続けました。
徳川幕府の終わりを最後まで見届けたのでした。


立場の違う2人が出会った奇跡、2人の考えは凡人を超えていながら二人ともジャパニーズ・ドリームを描いていました。

この二人の運命の出会いは、神が用意していた歴史の必然だったのです。

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