日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

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タグ:織田信忠

尾張国・清須城・・・1582年6月27日、ここで本能寺の変で命を落とした信長亡き後の織田家の跡継ぎを決める重要な会議がありました。
清須会議です。
顔をそろえたのは、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・・・そして、羽柴秀吉・・・4人の織田家家臣と言われています。
そんな清須会議・・・詳しいことはわかっていません。

1582年6月2日・・・天下統一目前の織田信長が、京都・本能寺で家臣の明智光秀の謀反に遭い自害しました。
その後、同じく信長の長男・織田信忠も明智軍に攻められ命を絶ちます。
強大な影響力を持っていた信長と、家督を譲られ織田家当主となっていた信忠の死・・・。
織田家存亡の危機に一早く駆けつけたのが、備中高松からおよそ200キロの道程を2万もの軍勢を率い、わずか8日間で駆け戻った中国大返しを果たした羽柴秀吉・・・。

6月13日、山城国山崎で光秀と対峙。
見事主君・信長の仇を討ったのです。
それから14日後・・・
1582年6月27日、清須会議が行われます。

その議題は二つ・・・
①織田家の家督相続者を決めること
②織田家の所領の配分を決めること
旧明智領を含む560万石の所領の分配です。

清須城には誰が参加していたのでしょうか?
「川角太閤記」によると・・・参加したのは、
・織田家の古参で家臣の筆頭である柴田勝家
・同じく宿老の丹羽長秀
・信長の仇を討った功労者・羽柴秀吉
・秀吉と同じく山崎の戦いに参加していた池田恒興
この4人が通説となっています。

しかし・・・参加者はもっといた・・・??
「多門院日記」によると・・・4人に堀秀政が加わり5人だったとされています。
秀政は、織田軍の中国方面軍に参陣し、秀吉の配下として活躍した武将です。
本能寺の変の後、秀吉軍と共に中国大返しで信長・信忠の弔い合戦に駆け付け貢献しています。
秀政が会議に参加した可能性は・・・??
清須会議の時点では、秀政は織田軍団でのランクは他の4人よりもかなり下でした。
そのため、織田軍団の重役会議に同席しているとは考えにくいと思われます。
また、「多門院日記」は、尾張の出来事を、奈良の僧が伝え聞いて書いています。
若干史実とは受け止め難いと思われます。

また、7人いたという資料も・・・山鹿素行の「武家事紀」です。
そこには、通説の4人の他に、滝川一益、信長の次男・信雄、三男・信孝が書かれています。
滝川一益は、勝家、長秀、明智光秀と共に織田四天王と呼ばれていました。
織田家の行く末を決める会議に参加していてもおかしくないのですが・・・。
織田軍団の重要メンバーでしたが、滝川一益は会議に参加していません。
どうして・・・??
一益は、会議への参加を自ら辞退したと言われています。
織田軍団の関東方面軍司令官と思われるポジションでしたが、本能寺の変の直後、上野国で起こった神流川の戦いで、北条の大軍に乾杯しています。
そのみじめな敗戦を恥じて、清須会議への参加を辞退したのです。
また、単に北条氏との戦が長引いて、会議に間に合わなかったともいわれています。

信雄と信孝は会議に参加していたのでしょうか?
清須城にいたとは言われていますが、家督継承の当事者であり、会議に参加していないと思われます。
出席を止められていた可能性もあります。

こうしたことから、「川角太閤記」に書かれた柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人が参加者と考えられます。

その中で、清須城での会議開催を呼び掛けたのが柴田勝家でした。
しかし、どうして清須城だったのでしょうか?
勝家が指定した清須城には、信忠の忘れ形見の三法師がいました。
そのために、清須城ですることを決めたのです。

6月27日・・・顔を合わせた4人・・・張り詰めた空気の中、話し合いの口火を切ったのは柴田勝家でした。

「上様親子を突然に失ったのはまことに口惜しいことだが、新しい天下人を定め、上様と仰ぎ奉るがよかろう」

こうして、織田家の後継者選びから話し合うことになりました。
ところが・・・誰一人口を開きません。
相手を伺っているようでした。
そこにはそれぞれの思惑がありました。

この時後継者候補となり得たのは、信長の次男・織田信雄、信長の三男・織田信孝、信長の孫(信忠の嫡男)・三法師でした。

①織田信雄
この時、25歳!!
信長の長男の信忠と同じ母から生まれた嫡流の子でした。
しかし、信長の伊勢攻略に利用されます。
伊勢国・北畠具教を取り込むために.、養子に・・・。
それ以後、信雄は北畠を名乗りながらも信長・信忠と共に戦に参加。
戦歴だけは重ねるものの・・・今一つ。
信長の死後、安土城に入ります。
安土城は五層七重の天主閣を持つ当時最大の城です。
信長が天下取りの夢を馳せた居城でした。
ところがこの城が、信雄が入った直後に炎上し、灰になってしまいました。
ルイス・フロイスの報告やイエズス会日本年報に書かれている「信雄が放火した」という説が現在では有力視されています。
そんなこともあってか、信雄は家臣団からの評判も悪く、清須会議の前には後継者争いから外されていました。
織田家の後継候補は、信長の三男・信孝と、孫・三法師の二人に絞られていました。

②織田信孝
信孝は、信雄とは異母兄弟でこの時25歳。
母親の身分が低く、信長から冷遇されていたせいか、記録は殆どありません。
歴史上、その存在が顕著になるのは信長が伊勢攻略の際、抵抗の大きかった有力豪族・神戸具盛のもとに養子に・・・。
その後、武功をあげるも信長の扱いは変わらず、信孝は不満を募らせていきました。
それを知ってか、信長は信孝を四国派遣軍の総大将に抜擢!!
大坂に入った信孝は、そのチャンスをものにしようと準備に精を出していました。
そこに本能寺の変の報せが・・・。
信孝はすぐに備中高松から戻った秀吉と合流し、山﨑の戦いで明智光秀を破り、見事、父と兄の仇を討つのです。
当時の人々も、父と兄の仇を討った信孝が後継者に相応しいと考えていました。
来日していた宣教師たちも、キリスト教に理解のある信孝を後継者に望んでいました。

③三法師
信長の長男で織田家当主となっていた信忠の嫡男です。
血筋的には最も有力でしたが、この時まだ3歳でした。

信孝か三法師か・・・??

・・・??張り詰める空気の中、遂に勝家が・・・

「信孝様こそお年頃といい、その利発さといい、まことに天下人として適任この上ない人物と存ずる」

信孝を、織田家の後継に挙げたのです。
しかし、それは表向きの理由・・・勝家には思惑がありました。
勝家が清須会議の開催を呼びかけたのは、信長の敵討ちで秀吉に後れを取ってしまった汚名を返上するためです。
会議をリードすることで、織田家家臣筆頭という立場を周囲に示そうと考えたのです。
そしてその立場を盤石にするためには信孝を後継者にする必要がありました。
勝家は、信孝の成人の際の烏帽子親で、信孝とのつながりが強かったのです。
勝家は、信孝を織田家の後継者にし、自分が中心となって織田家を支えていこうと考えていました。

事実上天下を掌握するのは誰・・・??

「勝家殿の意見はごもっともだが、ここは筋目から言ってもご嫡男を擁立するのが道理・・・
 信忠さまにれっきとした若君がおられる以上は三法師様をお取り立てるのが当然かと存ずる」

秀吉は、勝家が信孝の後ろ盾として前面に出てくることを避けようと考えていました。
勝家に対抗する候補を擁立しようといました。
何よりも血筋を重んじる時代だったので、信忠の後継者を決める会議となると、信忠の血をひく三法師がいる限り、家督相続者は三法師以外ありえませんでした。

宿老の勝家に対し、強気の秀吉・・・
秀吉には、明智勢討伐の実績があったからです。
光秀討伐の功績に伴う発言力は大きいものでした。
秀吉の思惑は・・・??
成人した信雄、信孝が織田家を継ぐと、その家臣として仕えなければなりません。
幼少の三法師であれば、自身の傀儡にすることができると考えたのです。

自分よりも各下で足軽からの成り上がり者の秀吉の態度に、勝家は顔に出さないもののはらわたが煮えくり返っていました。
武将として優秀な信孝を推す勝家に対し、筋目を理由に三法師を推す秀吉・・・。
真っ向から対立する二人を前に、会議は膠着状態に・・・
勝頼と同じく織田家古参で秀吉を嫌っていた丹羽長秀が・・・
「そうじゃな・・・秀吉の申すことは正論。
 三歳とはいえ三法師様が後を継がれるのが筋目であろうな。」

どうして長秀は秀吉に味方したのでしょうか?

秀吉の器量を認める長秀・・・。
丹羽家を守るためには、勝家と秀吉のどちらに味方した方が良いかを見極め、秀吉を選んだのです。
長秀の援護射撃で、会議は一気に秀吉に傾きます。
ところがとうの秀吉は・・・席を立ってしまいました。
これも秀吉の作戦で、秀吉が立った間に長秀、恒興も勝家を説得・・・。
「弔い合戦に間に合わなかったお前の出る幕はない」という勝家への直言を秀吉がすると角が立つからです。
わざと退席し、長秀に言わせたのです。
こうして三法師が後を継ぐこととなります。
清須会議の前、秀吉は信長の妹で浅井長政に嫁いでいたお市と勝家の再婚話を進めていました。
高嶺の花であるお市との縁談を持ちかけることで、会議前に勝家に恩を売っていたのです。

また違う見方も・・・
それは、そもそも「川角太閤記」は、秀吉の天下人への台頭を前提とした歴史観によって書かれたものだからです。
三法師が後継者に選ばれたのは、秀吉が擁立鹿からではなく、会議の前から決まっていたという説です。
血筋が重要視されていた当時ならば、三法師がすんなりと跡継ぎになっていたはず・・・。
そのために、会議では後継者はすぐに決着。
別のことが議題に・・・・
信雄・信孝は、織田家当主の座を争っていたのではなく、どちらが三法師の名代になるかを争っていたのです。
議論は紛糾・・・
次男の信雄を名代とすれば、血筋は大事にされるものの・・・
信長と信忠の仇討の功績のある信孝は・・・??
信孝のもとで活躍した家臣たちも不満が・・・。
信孝を名代とすれば、血筋が軽んじられる・・・となると、三法師を血筋で選んだことにも異議が生じます。
どちらを選んでも、不都合が生じることに・・・
そこで4人が出した答えは・・・三法師様に家督は継承させるが、信雄様、信孝様のどちらも名代にはしない・・・でした。
その代わりとして、三法師の世話役の傅役を置くことに・・・。
その傅役は、三法師が治める直轄領の代官に就任した堀秀政でした。
そして三法師は、居城である安土城が修理の間、信長の三男・信孝の居城である岐阜城に・・・信孝が後見人となったのです。

謀反人・明智光秀の所領を含む560万石の遺領分配は・・・??
織田家の血縁者たち・・・光景に決まった三法師は、近江の国一郡と安土城を。
次男・信雄は本領の南伊勢に加え尾張国と清須城を。
信雄は、織田家の父祖の地である尾張国と信長ゆかりの清須城を与えられたことで、あっさり受け入れます。
信孝には、本領の伊勢神戸に加えて、美濃国と岐阜城を分配することに・・・。
信孝はこれを不満に思うも、父信長の天下布武の根拠であった岐阜城を譲り受けること、自身が三法師の後見人となったことで、しぶしぶ承知しました。

会議に参加した織田家家臣4人は・・・??
池田恒興は、摂津国池田・有岡に加え、同じ摂津国の尼崎・兵庫・大坂を。
丹羽長秀には、若狭国に加えて近江国二郡と坂本城を。
羽柴秀吉には、播磨国に加えて丹波国・山城国・河内国を。
ただし、本領だった近江国三郡を手放すことになります。
その近江国三郡を本領の越前国に加えて手に入れたのが柴田勝家です。
これによって、秀吉の居城・長浜城も勝家のものとなりました。
どうして秀吉は、長浜城を勝家に譲ったのでしょうか?
勝家が所望したのか?秀吉から譲ったのかははっきりとはしていません。
しかし、家督問題で主導権を秀吉に握られ、信雄擁立に失敗した勝家にとっては、せめて遺領配分の県は自分の言い分を通したと考えます。
秀吉は、これ以上勝家を刺激しないように、自分の本拠地の割譲と、居城の譲渡という大幅な譲歩をし、プライドの高い勝家のメンツを立てたのです。
長浜城を手放すことになった秀吉の居城は、播磨国の姫路城となりました。
秀吉は、山崎の戦いの戦場にもなった天王山に山崎城を築城することにしていました。

そして、三法師が織田家当主となったこと、山城国を押さえ京都を手中にしたことで、天下を手中に収めるという構想が出来上がっていました。
長浜城を手放すことぐらい、痛くもかゆくもなかったのです。
この時、山城国を押さえて京都を手中にしたことが、後の天下統一への足がかりとなったのは、歴史が証明しています。

ところが・・・半年後、秀吉が長浜城を攻めます。
勝家の養子柴田勝豊が守っていましたが、あっけなく降伏・・・
もともと秀吉の城・・・攻め方はわかっていたでしょう。
そして季節は冬に・・・越前に帰っていた勝家が、すぐには動けないことをわかっていたのです。
1583年、秀吉と勝家は賤ケ岳の戦いで戦います。
敗北した柴田勝家は、その二日後に自害・・・!!
秀吉は1590年、天下を統一します。

清須会議の後織田家はどうなったのでしょうか?
武将として器量なしと言われていた信雄は、秀吉についたり、家康についたりと日和見で・・・。
しかし、最後は幕府をひらいた徳川家から、大和国宇陀松山藩2万8000石を与えられ、大名となり血を繋ぎます。
対照的な信孝・・・
秀吉と敵対し、勝家と共に賤ケ岳の戦いに臨みます。
しかし、敗れて降伏・・・切腹を命じられます。
信孝辞世の句は・・・

昔より
  主をうつみの
      野間なれば

報いを待てや
      羽柴筑前

信孝は秀吉への凄まじい怨念を抱いたまま切腹!!

織田家当主となった三法師は、元服して秀信となります。
その後、美濃国を与えられますが、秀吉の身内の扱いを受け、天下分け目の関ケ原では秀吉の西軍についたことで敗北・・・
家康によって改易となり、高野山に追放されます。
再び歴史の表舞台に出てくることはありませんでした。
1605年、26歳の時、静かにこの世を去ります。

天下を決めた清須会議の結末でした。

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天正10年6月2日・・・この日、歴史が変わりました。
天下統一目前だった織田信長が、家臣・明智光秀の謀反により非業の死を遂げる・・・本能寺の変です。
光秀はどうして謀反を起こしたのか?
今なお多くの謎に包まれた本能寺の変ですが・・・
今回の視点は”どうして信長は本能寺に泊まったのか?”です。
この時、信長には京都において定宿が三カ所ありました。
その中で、信長が本能寺を選んだのはなぜか??

戦国最大の事件本能寺の変・・・この時明智光秀は、主君・織田信長だけでなく信長の跡継ぎ・信忠をも討ち果たしました。
この信忠の死により、織田政権は実質的に崩壊したのです。
信忠とは・・・??
26歳で亡くなっていますが、非常に活躍した有能な息子でした。
偉大な父・信長の影に隠れ、歴史に埋もれてしまった信忠・・・。
1557年、信長の長男として誕生します。
信長のもうけた息子は、信忠・信雄・信孝など11人・・・。
しかし、信忠以外は幼くして養子に出されています。
攻めようとしている伊勢などに、養子に送ったりしています。
しかし、それは織田家に限らず、戦国大名のいろんな家がしてきている事・・・。
嫡男以外の男子を戦略的に周辺の領主に養子に入れるので、余程能力に問題がない限りは、後継者は嫡男でした。
生れながらにして信長の後継者として育った信忠・・・
その帝王学は厳しく・・・織田家の家臣が信忠を褒めると・・・信長は、
「家臣に手の内を読まれるなど、信忠は大将の器ではない
 そうであれば、信忠を我が後継者とするわけにはいかない」と。
他にも、信忠が自ら能を舞うのが好きな能数寄だとわかると、それに対し、
「武将たるものが能にうつつを抜かすなど何事か」と怒り、能に使う道具を取り上げたといいます。

信長から後継者としての資質を疑われた信忠・・・いかにして信頼を勝ち得たのでしょうか?

1575年5月、織田・徳川連合軍が戦国最強とうたわれた武田軍と激突!!
世に言う長篠の戦いです。
結果、織田・徳川連合軍は、武田軍に完勝!!
この機に乗じ、織田軍は武田領の東美濃を攻略。
その総大将に抜擢されたのが、わずか19歳の信忠でした。

岐阜県恵那市岩村町・・・武田の東美濃の拠点となった岩村城は、標高717メートルの巨大な山城です。
信忠軍が包囲する岩村城は、自然の地形を利用した難攻不落の要塞でした。
その秘密が井戸にあります。
兵糧攻めでは、水の手をたつということが行われます。
しかし、この城は、豊富な水が城内に湧いているので、城を落とすことができませんでした。
信忠が攻めたときも、半年間ここに籠っていました。

事実、信忠は5か月間岩村城を落とせず・・・

そこに、長篠の戦いの敗戦から息を吹き返した援軍が迫ってきます。
岩村城に籠城していた武田勢は、援軍を待たずして出撃!!
信忠の陣を逆に攻めたてます。
この時信忠は、自ら先陣として出陣!!
敵を返り討ちにしたばかりか、大将格21人を討ち取りました。
これによって岩村城は落城!!
11月、信長は信忠に茶器などの名物を褒美として与えたばかりか、尾張・美濃の二国を与ます。
さらに織田家の家督を譲りました。
信忠は、自らの武勇を示すことで織田家当主の座を勝ち取ったのです。
そして、天下人の後継者としての地位を盤石にしたのが・・・1582年2月武田征伐!!
総大将・信忠率いる織田軍は、怒涛のように武田領を席巻!!
最大の激戦となった高遠城攻めでは、自ら前線に赴き、采配を振るいました。
信忠は武田が誇る高遠城を、わずか1日で落城させたのです。

戦国最強の武田軍を相手に、自ら先陣を切る信忠に、信長は苦言を呈しています。
武田を弱敵と侮ってはならぬ・・・
しかし、そんな信長の心配を余所に、信忠は快進撃を続け、遂に武田家は滅亡!!
信忠が武田領に侵攻してわずか1月でした。
武田滅亡によって東の憂いは無くなりました。
信長は宣言します。

「信忠に天下を譲る!!」

織田家の家督だけでなく、天下人の座も継ぐことになった信忠・・・
本能寺の変3か月前の出来事でした。

本能寺の変2日前・・・1582年5月29日。
信長は安土を出立!!
二、三十人のお供を連れて上洛。
信長が少人数で上洛したのはなぜか?
「信長公記」によると・・・

直ちに中国へ出陣しなければならないので、安土に残るものは戦の準備をして待機させ、命令次第出陣するというので、この度小姓衆以外は随行しなかった。

当時織田軍は、関東・北陸・中国・四国と各地に展開。
中国方面軍羽柴秀吉は、備中高松城で中国の覇者・毛利と対峙。
信長に援軍の要請をしていたのです。
大規模な軍事遠征を間近に控え、上洛した信長・・・
その宿所となったのが本能寺でした。

戦国時代の京は、応仁の乱の被害があって、かなり荒廃した様子でした。
現在の本能寺は、豊臣秀吉の時代に移されたもので、元の本能寺は別のところにあります。
信長が宿所とした本能寺は、南西におよそ1キロ離れたところ。
戦国時代の京都を克明に記しているのが「国宝 上杉本洛中洛外屏風」です。
本能寺の周辺には、水堀などの防御施設が描かれています。
本能寺周辺で行われた発掘調査では、寺の周囲に幅およそ4メートル以上、深さ1メートル以上の堀などが設けられていたことがわかっています。
戦国時代の京都は、応仁の乱で焼け野原になって以降も戦乱で・・・その結果・・・上京と下京に分断され・・・それぞれの町は、総構えと呼ばれる濠などの防御施設に守られていました。
しかし、本能寺はその総構えの外に位置していました。
市街地のいちばんの外側・・・攻めやすかったのです。
信長自身は、本能寺はそれほどたくさん泊まっていません。
当時、信長が上洛した際に宿としていたのは、主に本能寺・二条御新造・妙覚寺でした。
記録によれば、二条御新造には14回、妙覚寺には20回、本能寺には4回・・・。
本能寺の北東に位置した妙覚寺は、一番多く泊まった宿です。
寺の周りに土塀や堀を巡らせた防御機能のある寺です。
本能寺の変の時には、信長の嫡男・信忠がここにいました。

1582年5月21日・・・信長が上洛する8日前・・・
信忠は兵500を率いて上洛!!妙覚寺に宿泊していたのです。
本来、妙覚寺は信長が京都へ上洛した時、頻繁に寄宿していた場所です。
信忠も妙覚寺へ泊るようになり・・・信長は本能寺に移り、信忠が妙覚寺にいるようになったのです。
妙覚寺と向かい合っていたのは、二条御新造。
信長の宿所として築いた屋敷です。
しかし、2年後には、時の皇太子に当たる誠仁親王に渡しています。
信長は、一旦妙覚寺に来て、その後、本能寺に移っていくのです。
妙覚寺には長男・信忠、二条御新造には皇太子・誠仁親王が・・・信長は本能寺に宿泊せざるを得なかったのです。

では、信長と信忠はどうして同時に上洛していたのか?
朝廷に対し、信長はこう申し立てています。
「我が顕職は信忠に譲与したい」と。
当時、信長の官位は右大臣・右大将(右近衛大将)・・・武士の頭領を意味します。
信長は、朝廷の許しを得て、自分の官位を信忠に譲ろうとしていたのです。
戦国武将は、いずれも成り上がりの者が多く、公家・帰属に比べると家柄も悪い・・・
権威付けという意味で、官職は重要な意味を持っていました。
これは、明治維新まで官職が人の序列を定める一番の根幹部分でした。
当時信忠の官位は従三位・左中将(右近衛中将)・・・信長は信忠の官位を武家の頭領である右大将に引き上げようとしていたのです。
今回の上洛で、信長は普段と異なる行動をとっています。
それまで信長は公家宗徒の対面を断ることが多かったのです。
その理由は「くたびれ云々」・・・面倒くさいということです。
しかし、今回の上洛では、信長は公家衆40人と数刻にわたり雑談に応じ、自慢の茶道具まで披露。

当時、信長が京都に来るときは、なにか京都に用事がある時・・・
信忠がいるということは、信長は官職を辞めた後、息子・信忠に高い位をつけてほしいと朝廷に働きかけていたのです。
その答えを聞くため・・・信忠が妙覚寺にいて、信長が本能寺にという可能性が高いのです。

後継者の豚だの地位を盤石にするために、本能寺に泊まった信長・・・
しかし、この時、明智光秀の大軍勢が本能寺を目指して進軍していました。

1582年6月2日早朝・・・
明智軍1万3000が信長のいる本能寺を襲撃!!
記録には、この時信長はこう叫んだといいます。
「信忠の別心(謀反)か!!」と。
近くにいる軍勢は信忠の身と思い込んでいた信長・・・それほど明智軍の襲撃は想定外だったのです。
本能寺から信忠の妙覚寺まで600m・・・明智軍の時の声は信忠の宿所にも届いていました。
信長のいる本能寺が明智軍に攻められている・・・信忠はどうするべきなのか・・・??

①信長の救援に向かう・・・??
②それとも、安土へ撤退する・・・??

ルイス・フロイスの記録によると・・・
信長は、安土から宮子までの陸路におよそ6mの道幅の道路を作らせたとあります。
道は平たんで真っすぐであった。
およそ50キロ・・・整備された道・・・
伊勢には次男信雄、大坂には三男・信孝集結・・・京都脱出に成功すれば、弟たちと合流することもできる・・・。
信長の弟・織田長益など、名のある武将も脱出しています。
信忠なきあと、後継者候補は信雄と信孝・・・二人はそれぞれ信雄=北畠・信孝=神戸に養子に出ています。
家督相続をめぐり、骨肉の争いは必至!!

③光秀を迎え討つ??
戦わずに退くなど、武士の一分が立たん!!

明智軍の本能寺への攻撃はわずか1時間余り・・・光秀の次なる標的は、妙覚寺にいる信忠・・・!!
その頃信忠は、妙覚寺を後にしていました。
向かった先は、隣の「二条御新造」
妙覚寺より守りが堅かったからです。
この時、信忠の側近は、「安土に移り、光秀を退治しては?」と進言します。
信忠は・・・
「これほどの謀反を企てた光秀が、洛中のあらゆる退き口に手をまわしていないはずがなかろう。
 途中で相果てることこそ、無念である。
 いたずらにここをひくべきではない!!」
信忠は、二条御新造に籠り、光秀と戦う道を選びました。
信忠は追手門を開門させ、敵をそこへ集中させます。
敵が怯むと打って出て、押し寄せる大軍勢を3度にわたって押し返したといいます。
信忠は、新陰流の免許皆伝で、剣の達人でした。
自ら剣をふるい、敵17人を切り伏せたといいます。
しかし・・・多勢に無勢・・・獅子奮迅の働きをしたのち、家臣にこう命じました。

「縁側の板をはがし、遺体を床下へ入れて隠せ!!」と。

そして、燃え盛る炎の中、信忠は切腹!!
壮絶な最期を遂げたのでした。
信忠死去・・・享年26歳でした。

明智軍は、信長同様、信忠の首も見つけることができませんでした。
この時、光秀は都の出入り口を押さえていたわけではありませんでした。
もし、この時信忠が逃げていれば、生き残れる可能性は十分にあったのです。

信忠亡き後の織田家は、弟達の家督争いで力を失い、天下は秀吉・家康のものとなっていくのです。

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天下統一を目前に、非業の死を遂げた織田信長。
信長がどうして明智の謀反に気づかなかったのでしょうか??

1579年長篠の戦いで武田勝頼を破り、その3年後武田家が滅亡・・・信長は、日本の領土の半分を手にしました。
天下統一を目論む信長は、重臣たちを全国に配置!!
北陸には筆頭家老の柴田勝家、中国地方は羽柴秀吉、関東は滝川一益、近畿は明智光秀。
1582年5月29に備中高松で毛利軍と対峙していた秀吉から援軍要請がありました。
安土城を出発した信長は、その日のうちに京都に入りました。
出立までの数日、定宿としていた本能寺に!!

この時、信長に随行した家来150人のうち、武術の心得があったのは小姓・森蘭丸らわずか30人ほどでした。
これらは、信長の家臣の精鋭たちが各国で戦いの真っ最中だったことで、信長が無防備であったということではないようです。

当時の本能寺は、現在の本能寺より南西に600mのところ。
大きさも格別で東西140m、南北270mもある大寺院でした。
平成19年の発掘調査によって、本能寺には強固な門や石垣があり、四方には深い堀もあったようです。
本能寺は、城郭、要塞の昨日のある寺でした。
他に、信長がわずかな人数しか連れていなかった理由は、すでにこの時点で信長に逆らうものがいることは予期しておらず、約1km離れた明覚寺に嫡男・信忠が500の兵を置いていました。
安全・・・まさか、光秀が反旗を翻すなど思いも取らなかったのです。

この時信長は、朝廷より太政大臣・関白・征夷大将軍らの官職に任ぜられることになっていました。
三職推任と呼ばれるもので、朝廷も信長の力を認めているという証でした。
もはや京都に敵なし!!信長はこの時、自分が襲われるなどとは思ってもみませんでした。
6月1日、本能寺から20キロ離れた丹波亀山城から秀吉の援軍の準備を行っていました。
だれも・・・謀反のことは知りませんでした。
家臣には「信長さまが、わが軍の装備を確かめたいそうだ」と、言います。
謀反の計画がばれれば許されない!!
そして、用心に用心を重ねて本能寺へ・・・
1582年6月1日午後6時・・・
光秀軍1万3000を引き連れて、丹波篠山城を出発!!
本能寺へと向かったのでした。

どうして信長はこの大軍に気付かなかったのでしょうか??
2時間後、野条で軍議を開いた光秀。
呼ばれたのは、側近中の側近わずか数名で・・・謀反の意を告げます。
危惧する声の上がる中・・・光秀の決心に、最後は道を同じくすることを誓います。
野条・・・篠村八幡宮は、足利尊氏ゆかりの地です。
尊氏と光秀には共通点がありました。
明智家は、美濃国・清和源氏の流れをくむ土岐氏の一族で、尊氏もまた同じ源氏でした。
尊氏は慕っていた後醍醐天皇に謀反を起こしたことで有名ですが、その決意を固めたのが篠村八幡宮だっやのです。
部下たちに起請文を書かせます。
日付が変わった6月2日0時ごろ・・・沓掛に・・・。
光秀は、全員に小休止・食事をさせ・・・天野源右衛門に「不審者を見つけたら、構わず切り捨てよ!!」と命じます。本能寺に向かっていることを知られないように、怪しいものはみな切り捨てよということです。
この時、天野は農民まで斬りつけたと言われています。
本能寺まであと5キロ・・・戦の用意をさせます。火縄銃も・・・!!
謀反を知らない兵士たちがざわめきますが・・・
「今日より我が殿(光秀)は天下様にお成りになる。
 下々の者、わらじ履きの者たちまで勇み喜ぶがよい!!
 手柄の次第によって、処遇の高下を決めよう!!」と言われるのでした。

秀吉の援軍という大義名分を利用した光秀の周到な策だったのです。


本能寺の変から400年以上・・・怨恨説、信長自滅説、野望説、ノイローゼ説、朝廷守護説、救世主説、人間性不一致説、突発説、黒幕説、内通露見説、信長自殺説、信長不死説・・・いろいろ言われてきました。時代を超えて人々を惹きつけてきました。

野望説の根拠は・・・3日前に呼んだ句・・・
「ときは今 あめが下しる 五月哉」です。
どうして謀反を起こしたのか・・・??

長く伝えられてきたのは①怨恨説です。
江戸時代に書かれた「川角太閤記」に書かれています。
が・・・江戸時代に書かれた作品で・・・信長のイメージは冷酷非道となっていました。
信長=悪役というイメージ先行でした。
信長譜代の家臣でない光秀は、斎藤道三に仕えていましたが、勢力争いに巻き込まれ離散・・・放浪の末に、越前の朝倉義景に仕えます。身分は足軽でした。
転機があったのは1565年、京を逃げてきた足利義昭に信長を紹介する役目をすることとなりました。
帰蝶の母が明智の家系で、いとこ同士・・・その縁を頼ったようです。
権力を握るためにも足利家と近づきたいと思っていた信長は、橋渡し役の光秀を取り立てて自らの家臣に!!
光秀は、知識人で才覚に優れていたので、翌年には京都の政務についています。

1575年交通の要所である丹波国の攻略を4年がかりで平定!!
信長は、「丹波国での光秀の働きは、天下の面目を施した」と言われています。
褒め称え、光秀に丹波国29万石を与えたのでした。
足軽から一国の主にまで取り立ててくれた信長に対し、
「瓦礫のように落ちぶれていた自分を召し出し、そのうえ、莫大な人数を預けられた
 一族家臣は、子孫に至るまで信長さまへの御奉公を忘れてはならない。」
光秀がこれを書いたのは・・・本能寺の変の1年前のことでした。

②黒幕説
光秀の黒幕として一番有力視されているのが足利幕府15代将軍・足利義昭です。
義昭は、信長の後ろ盾があっての将軍でした。
なので、実権は信長が掌握!!
業を煮やした義昭は1573年兵を挙げますが・・・制圧され、京から追放されてしまいました。
それでもあきらめられない義昭は、旧知の仲の光秀に謀反を持ち掛けた??

③家康共謀説
信長の家康暗殺計画を光秀が利用したという説ですが・・・。
家康は、信長と20年にわたって同盟関係でした。
この頃から三河を手に入れようと思っていた信長・・・
家康を本能寺に招いて光秀に討たせる??というものです。
これに対して信長の横暴さに耐えかねていた光秀が共謀して本能寺で家康を待っていたところを討ったというものですが・・・
信長にとっても家康にとってもお互いが大切なパートナーであったことには間違いありません。
勝つという見込みのない物に、家康は挑戦しません。

そしてさらなる新説が・・・。
本能寺の変の直前、長曾我部元親と光秀の重臣・斎藤利光との間で書かれたものです。
④四国・長曾我部問題説
1575年10月、阿波国・三好氏と対立していた信長は、四国統一を目指していた土佐の長曾我部元親と同盟を結びます。
この時の取次役は光秀!!
信長は元親に約束します。
「四国における勢力圏の展開は、元親の手柄次第にせよ」
信長という強力な後ろ盾を手にし、破竹の勢いで勢力を拡大!!
阿波のみならず、四国を平定しようとしていました。
しかし、この勢いに危機感をいだいた信長は・・・
「本国の土佐と阿波の南半国は安堵するが、讃岐と伊予は召し上げる!!」としました。

元親はこれを一度は拒絶するも、光秀の説得もあり承知しました。
しかし、信長は、すでに準備していた四国征伐を中止せず、三男・信孝に出陣を命じます。
予定日は1582年6月2日!!まさに、本能寺の変の当日でした。
この四国征伐を阻止するために、本能寺の変を引き起こした・・・??
この手紙そのものには、元親の苦悩があり、光秀の取りなそうという苦しみもあります。
一つの要因となりますが・・・。

⑤信長横暴阻止説
本能寺の変当日に、光秀が旧知の武将に宛てた手紙には・・・
「信長の悪虐は、天下の妨げ・・・討ち果たし候。」とあります。
悪虐??
信長は気性が激しく、目的の為ならば非道な行いも厭いませんでした。
刃向かうものは実の弟でも抹殺!!
義理弟(浅井長政)家滅亡!!
比叡山焼き討ち!!
石山合戦!!
人々が恐れおののきます。
そのうえ、信長は権威のために、天皇家の皇子を養子に迎え、朝廷との関係を強めます。
が・・・天皇家にも横暴な態度を・・・
天皇が決めていた暦、年号・・・これは、陰陽師・安倍晴明の子孫に当たる土御門家が制定した”宣明歴”が使われていました。
しかし、信長は、尾張を中心に流布していた尾張暦を勝手に使っていたのです。
二つの暦の決定的な違いは閏暦・・・。
この頃は、1年が354日の太陰暦でした。
3年に一度閏月を設けて暦のずれを直していました。
本能寺の変が起こった年も閏月です。
新年のはじめを閏1月にする宣明歴と、年の終わりを閏12月信長の暦では新年が変わってきます。
ここで、朝廷と対立したのです。
京都で公家との交流も盛んだった光秀は、公家たちの不満を耳にしていました。

時まで支配しようとしていた信長・・・!!

正親町天皇から誠人親王に譲位させ。。。
養子にしていた誠人親王の第五皇子を新天皇とし、天皇の義父として君臨しようとしていたようです。
常識人だった光秀にとっては、目に余るものがあったのです。
もう一つ許せなかったのは・・・織田氏は藤原でしたが、ある段階から平氏を名乗っています。
源氏の光秀にとって、兵士を名乗る信長が天下を取るのは許せなかったのかもしれません。
そう、幕府を開いた源義朝・足利尊氏は源氏直系なのです。

平氏が天下を取るのなら、それは阻止しなければならない・・・??
1582年5月29日、秀吉の毛利攻めの援軍として出発し、京・本能寺に宿泊!!
信長の京での目的は、茶の湯に傾倒していた信長が、これまで信長が集めてきた茶器を公家たちにお披露目することでした。

本能寺の変の1日前の6月1日・・・
信長は、本能寺に公家や僧侶など40人ほどを招き、茶会を催し、持ってきたいくつもの茶器を披露します。
ご満悦の信長は、陽が落ちるとそのまま酒宴へ!!
そこには、近くの寺にいた長男・信忠もいました。
親子は久しぶりに酒を酌み交わします・・・これが、最後とも知らず・・・。

信長が床に就いたのは、日が変わったころ・・・。
酔いしれたせいか深い眠りに・・・しかし、6月2日午前4時!!
京に入った光秀軍が本能寺を取り囲みます。
光秀軍1万3000に対し、信長軍150!!
静かな夜は、一転、修羅場と化したのでした。
喧騒で目を覚ました信長は、下々の者が喧嘩でもしているのだろうと楽観していたようです。
しかし、森蘭丸から謀反を知らされると・・・「是非に及ばず!!」と、弓をとり、次々と敵を迎え撃ちます。
しかし、肘に深手を負ってしまい・・・「もはやこれまで!!」覚悟を決めて本能寺に火を放ち、自害するのでした。

その後、光秀たちは懸命に信長の遺体を探しますが・・・髪の毛一本すら探すことが出来なかったのです。
信長の遺体は何処へ・・・!!
火災によって燃え尽きてしまった・・・??
木造建築が燃え尽きるのは1000℃、人骨が完全に燃え尽きるのには1600℃以上必要です。
この時の火災だけで完全に燃え尽きたとは考えにくいのですが・・・。
信長の家臣が持ち去ったのか・・・??
しかし、周りは光秀の兵1万3000!!そんな余裕はなかったはずです。
信長の遺体はどこへ消えてしまったのでしょうか・・・??

遺骨一本さえ残っていない・・・その手掛かりは本能寺にありました。
信長は、鉄砲を重用し、種子島→堺の豪商を介して、鉄砲や火薬を入手していました。
そして信長は、戦に大量の鉄砲や火薬を使っていました。
その保管先の一つが本能寺だったのです。
そのため、当時の本能寺には、多くの鉄砲や火薬を置く保管庫があったと思われます。
敵に自分の首をとられないために・・・遺体を晒さないために・・・
大量の火薬に火をつけ爆破!!
跡形もなく吹き飛ばしたのではないか??とも言われています。

1582年6月2日信長自害!!


人間五十年  下天のうちを比ぶれば
                  夢幻のごとくなり


短くはかない人生を、天下取りの野望に向かって突き進んだ信長・・・49年の壮絶な生涯でした。



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