日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:織田信秀

ご無沙汰していました。
久し振りの大河レビューになります。
去年の「いだてん」面白かったですが、どちらかというと男版朝ドラのような感じがして楽しく拝見しました。
って、今年の「麒麟がくる」を厳しく見るわけではないですけどね??

みなさん見て見てどうでしたか??
あまりにも鮮やかな色彩にビックリ!!した方が多かったみたいですが、実は私も同じです。
もしかしたら、草木は今よりも栄養もあったから色が鮮やかだったかもしれませんが、着物はなあ・・・と思う私です。
さて??1年間どんな感想になるのやら??
楽しみです~~!!

さて・・・時代は??
天正2年(1574年)・・・光秀は19歳です。
時代は、京都での戦乱に次ぐ戦乱で足利幕府が弱体化した室町末期、争いは各地に伝染していきました。
舞台は京都から四十里の美濃国・・・ここから物語が始まります。

綺麗に豊かな作物が実っている明智荘。

キリリとした一人の青年・・・彼がこの物語の主人公、明智十兵衛光秀です!!

OPはいい感じにレトロ感です。
やっぱり大河は王道でないと安心できないもう既に年寄りか?な私です。


kirin5











明智荘が、野盗に襲われるところから始まりました。
野盗は15騎!!
地の利を生かして倒す判断をし、迎え討ちます。

キリッと判断する光秀、農民の土地を思いやる光秀、そして何より強い、強い!!
なんともリーダーです。
が・・・なんとか村人は守れたものの、放火され、米俵を奪取され・・・そして野盗の置き土産は”鉄砲傷”!!
見たこともない鉄砲に興味を覚える光秀。

kirin













叔父・光安に、村の現状を訴えますが、叔父も解っているようで・・・

「この明智の里は、美濃の国教にある故野盗に狙われやすい。
 他国からもすぐ攻め込まれる。
 それゆえ、殿も何かとご配慮下さっている。」

と言っているものの・・・明智だけでは国境は守れないと反論する光秀!!
まだまだ若いだけあって、血気盛んな正義感の強い青年です。

稲葉山城下に向かった光秀・・・鷹狩りに行く殿(斎藤道三)を待ってに話を聞いてもらうためです。
で・・・道三の息子・斎藤高政に会います。
高政=のちの龍興ですね??
この二人は幼なじみです。
会いたければ城に入ればいいのに・・・と言ってくれる高政に、叔父に怒られるから偶然を装って会うつもり・・・と遠慮するものの、結局城の中へ・・・。
そこで、道三の妻・小見の方が病気であることを小耳に挟みます。

殿は、高政に目の前にあるサンゴの数をどれだけあるのか聞きました。
「1500か、1600・・・」と答えた高政に対し光秀は、

「2000を少々超えるかと。
 数珠ならば一連で108個、20人分として2160個となります。」

名を聞かれ、明智十兵衛ですと答える光秀。

そこで、高政の幼なじみであったことを思い出します。
四書五経をわずか2年で読み終えたことも・・・。
「お前は七年もかかったのに・・・」と言われて「六年です!!」という高政。

なんだか、このやり取り、本当に性格が出ているというか・・・今までのピッタリの感じが出ています。
斎藤道三は油売りから下剋上で成り上がったのだから、お金の算段は得意でしょうし、龍興のコンプレックスもいい感じで導かれそうです。

昨日来た野盗に肝を冷やしたこと・・・鉄砲です!!

kirin3














殿は鉄砲のことを知っていました。
美濃の外で作られた鉄砲を見て見たい!!
美濃から出てみたい!!
これから何度もくる野盗・・・野盗は美濃の外を知っている、鉄砲を知っている、しかし、我々はそれを知らない・・・だから、外を見て見たい!!
堺を見て見たい!!
この美濃のために・・・!!

理論立てて殿にお願いします。

「どうか、旅をさせていただきたいのです・・・!!」

旅には金がかかるがその金はどうする??そのたびに出すことで自分にどれだけの得があるのか?という殿・・・
流石、道三です。
汚くのし上がった感が出ていますね。
あ~、モッくんの綺麗なお顔からはまだそんな感じが出ていませんが・・・これから蝮感が出てくるのかしらね??
私的には、モッくんの昭和天皇が大好きです~~!!

syouwa











邪心のない綺麗な昭和天皇から、邪心の塊の蝮の道三に・・・楽しみです~~!!

得になること・・・
鉄砲を買ってくるという光秀ですが、道三の心には響きません。
「小見の方のために京都から名医を連れてくる」と頑張ります。
やっとお金を出してくれるようです。
そして、そんな頭の回転の速い光秀のことを頭に捕らえた道三でした。
いいですね、蝮ってだけでなく、奥方に優しい一面と、光秀の才能を見抜く一面・・・ただの蝮ではなさそうです~~!!

家に帰って母上に旅に出ると告げる光秀、母に相談もせずに決めたことを謝ります。
そして家の者たちは、光秀が旅に出るのを心配し用意をするのでした。
それは、光秀の父も同じでした。
土岐一族として都にあがったこと、大事にされていたこと・・・土岐源氏の誉として生きていく心得を母に聞き、心に念じて出発・・・!!

旅の途中でいろいろ経験する光秀・・・広い世の中に希望を持って・・・!!
鉄砲のこと、堺のことを収集します。
堺の刀は宗次郎・・・!!

比叡山では僧兵が「ここを通りたければ一人15文をおいていけ!」と、無法地帯です。
野盗にも襲われ、人買いも見てしまいました。

堺に入った光秀・・・町の様子にビックリです!!
カラフルで活気のある堺!!
化粧をした男子、見たこともないお菓子、大道芸人・・・全然違う~~!!
さぞ豊かな街に映った事でしょう。

宗次郎の店にやってきた光秀。
斎藤山城守のために、鉄砲を売ってほしいと頼みます。

成り上がりの田舎大名には売れない・・・??

そこへやってきたのは誰・・・??
大塚明夫~~!!
じゃなかった宗次郎~~!!
お店にいた三淵藤英(細川藤孝の兄です~~!!こんなところにもう出会いが!!)が、鉄砲の試し打ちを始めました。
試し撃ちをした感想は・・・??
弓矢なら次々撃てるが、鉄砲は1回うつと次まで時間がかかる・・・戦には不向きと判断しました。

が・・・光秀は欲しいというものの、人気商品なので2月、3月かかるという・・・。

美濃ならば山奥だから狸でも撃てばよかろう~~~!!

などと馬鹿にされてしまいましたが・・・??
そこへ誰??吉田剛太郎登場!!

kirin4














剛太郎さん、私の中では信長のイメージが強いんですが・・・今回は松永久秀ですよ~~!!
って、とっても似合っているわ~~!!
既に松永久秀!!

松永久秀は、斎藤道三が大好きらしい。
やっぱり成り上がり者は成り上がりが好きなのかしら??
尊敬しているそうです~~!!
でも、怪しいですよ~~!!
損な怪しい男に「お金を持ってる」って言っちゃったわ!!
おまけに飲みにまで誘われて・・・なんだか怪しいでしょ~~??
でも、久秀が何も知らない光秀のために京都のあれやこれやを教えてくれます。
おお!!まさに、剛太郎劇場!!
京都のふんぞり返っている人よりも、道三の方を尊敬すると言い出します。
あまりに褒めるので、不満を爆発させる光秀!!
しゃべってストレス発散する光秀。

「ケチなのか・・・!!」by久秀

論語で政を語り出した光秀・・・
懐には大金が・・・!!
意気投合した二人ですが・・・??

次の日の朝・・・懐にあった大金は無くなっていました。
が・・・枕元には鉄砲が・・・!!
書置きをして出ていっていた久秀の仕業でした。
喜んで飛び上がる光秀!!
鉄砲を片手に颯爽と宿を後にします。

名医を探して京都に来たものの・・・戦いに次ぐ戦いで・・・そこは廃墟のようになってしまって・・・貧しい者たちの巣窟となっていました。
将軍様も近江に逃げ、名医もいないという・・・
そこで、六角堂の望月東庵がいるかも・・・??と話を聞くのです。
東庵のもとへ行った光秀ですが、出てきたのは駒という少女でした。
薬を支払うお金もないという・・・
かくかくしかじかで、美濃に来て診てもらいたいと願います。

お金に困っていると思われる東庵・・・駒は、美濃に行けばいくらくれるのか??聞きます。
「100貫ぐらい??」
「・・・相応の・・・」
と、東庵のもとへ・・・。

近所の子供・お梅とすごろくをしている東庵・・・
医者といっても道具も薬も、何もなさそうです。

お金では動かないという東庵。
自分は名医でもない、名医なら御所の周りにという。

貧乏で薬を買うお金もないし、名医にもなれない・・・という駒に、話しだします。

東庵は、ある時から御公家や大名の脈を取るのはやめようと決めました。
具合が悪いから診てくれと言われ、病人を残して出かけた・・・。
見事な一室に通されたものの、病人はいない・・・
連れていかれた中庭には・・・そこに犬が一匹いたのです。


「大事な犬ゆえ、金はいくらでも出す。

 それで申し上げた。
 犬に打つ鍼は、ありませぬ。
 以後、二度とお呼びはかかるまいと思うたけれど、それでよいと。」

「わかりました・・・」

光秀は、幼くして亡くした父のことを思い出します。

「大事なのは一つ・・・ただ一つ・・・誇りを失わぬことだ」と。

お気持ち、腑に落ちました。と、帰ろうとしたとき・・・悲鳴が!!


火事が・・・!!盗賊の仕業でした。

お梅が建物の中に取り残されてしまった・・・!!
水を被って火の中に飛び込む光秀・・・!!
柱に足を挟まれて動けなくなっていた梅・・・挟まれた足を気遣いながら、なんとか助け出します。

kirin2














気は失っているものの、生きていた梅・・・
その処置からも、東庵が名医であることが伺えます。

助けててくれた光秀に、駒が話し出しました。
自分は先生に拾われたことを・・・
そして、自分の両親も戦の火事で亡くなったこと、自分もお梅と一緒だったと・・・

その時助け出してくれた人の大きな手は覚えている・・・
大きな手の人はこう言いました。

いつか、戦が終わる。

戦のない世の中になる。

そういう世を作れる人が、きっと出てくる。

その人は、麒麟を連れてくるんだ。

麒麟というのは、穏やかな国にやってくる不思議な生き物だよ、って。

それを呼べる人が、必ず現れる。

麒麟が来る世の中を・・・。

だから、もう少しの辛抱だ。

と。


「何処にも麒麟はいない・・・何かを変えなければ・・・誰かが!!
 美濃にも京にも麒麟は来ない・・・!!」by光秀

そして・・・家も焼けてしまったので、美濃にでも行くと言い出した東庵でした。

美濃に帰れることとなった光秀。

その頃、尾張の織田信秀が、隣国美濃に攻め込む構えを見せていました。

ということで、いよいよ明智光秀が始まりました~~!!
第1回、いい感じでした。
とんとん拍子でご都合主義的なと言われるかもしれないですが、戦国時代はやっぱり冒険活劇!!
麒麟が何たるかも紹介してくれて、ストンとすんなり心に入る作品だったと思います。

今回の大河を見て、明智光秀を誰がやってるのかな??って思ったんですが、あんまり思い出せません。
個人的には”江”の市村正親さんぐらいしか思い出せません。
ちなみにこの時の信長は豊川悦司さんですが・・・覚えていません。
”真田丸”の吉田剛太郎信長に蹴られていたのは、岩下尚史光秀ですが、覚えていません・・・。
いろいろな作品での明智光秀を見て見ましたが、みんなインパクトないんですよね・・・。
どうして市村正親さんを覚えているのか??
それは、「え~~??この年で~~!!」と、あまりにもインパクトがありすぎたからです。
ま、信長さんよりは年上ですけどね??

ということで、明智光秀・・・戦国を描くうえで絶対必要なのに、演じた役者さんもほとんど覚えていないという・・・
この大河には期待しかない・・・!!

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群雄割拠の戦国時代、並み居る強敵を退けて天下統一に王手をかけたのが織田信長です。
しかし、その戦績を見ると・・・
上杉謙信・・・64勝8敗36分
武田信玄・・・54勝6敗22分
織田信長・・・151勝42敗9分
と、負け戦が多いのです。

どうして信長は戦国の世を征することができたのでしょうか??
その理由は旗印にありました。
描かれているのは・・・「永楽通宝」・・・どうしてお金を旗印にしたのでしょうか??
それは、銭の力で天下を取る・・・信長の圧倒的な力は経済力だったのです。

1559年尾張国を平定した織田信長は、桶狭間の戦いで駿河・遠江を支配する今川義元に勝利し、天下に名をとどろかせます。
その勢いはとどまることを知らず、美濃の斎藤龍興を責め難攻不落と言われた稲葉山城を制圧!!
岐阜城と改めて新しい居城としました。
天下統一に邁進する信長・・・この時34歳!!
しかし、まだまだ並の大名にすぎず、武田信玄や上杉謙信の足元にも及びませんでした。

1568年、室町幕府の再興を願う足利義昭から支援を要請された信長は、義昭を擁して上洛。
6万もの兵を以て京を制圧し、義昭を15代将軍に就任させます。
大いに喜んだ義昭は、褒美をとらせることに・・・

「此度の礼として畿内5か国の管領に任ぜよう」by義昭

信長にとっては大変な出世でしたが・・・「身に余ること」と辞退してしまいました。

義昭は・・・「管領で不足ならば、副将軍ではどうじゃ」

それでも信長は首を縦に振りません。
何が欲しいのか・・・??

「堺・大津・草津に代官を置かせていただきたい」by信長

代官を置くとは、直轄地にすることで・・・義昭はそれをあっさりと認めました。
どうして信長は副将軍の座より3つの町を選んだのでしょうか??

足利将軍に取り入れられることを拒否し、銭の力で天下統一を果たそうとするマネー戦略の一つでした。

信長のマネー戦略①地位より港町
堺は、日本最大級の港町で、物流の拠点でした。
日明貿易や南蛮貿易の外国船も数多く入港し、国際商業都市として大いに発展。
それは、京都をもしのぐ繁栄と言われ、フランシスコ・ザビエルは
「日本の殆どの富がここに集まっている」と言っています。
一方、大津と草津は、琵琶湖水運港町でした。
当時、京都と日本海を行き来するためには、琵琶湖水運で船を使うのが一般的でした。
そのため、大津と草津には、常に多くの人や物が出入りしていたのです。
信長が、義昭に所望した場所は、いずれも物流の拠点となる港町でした。
当時は、船の積み荷に関税を課していました。
大きな港となれば、莫大な関税収入を得ることができました。
これが、信長の軍資金となりました。
越後の上杉謙信の場合、柏崎港と直江津港からの関税収入は、年間4万貫・・・約60億円でした。
堺や大津などは、莫大になったでしょう。
副将軍より三つの町を選んだ理由は、港町からの莫大な税収を、軍資金にして天下を取るためでした。

1534年、信長は尾張国守護代重臣の織田信秀の長男として生まれます。
守護代とは、守護大名を補佐する立場で、尾張には二人いました。
信秀は、その守護代のひとりに仕える重臣のひとりにすぎませんでした。
信長が生まれた頃から急激に勢力をつけていきます。
そこには圧倒的な経済力がありました。
信秀は、勝幡城近くにある津島近くの港町を支配下に置いていました。
木曽川沿いの津島は、伊勢湾水運の要所で、多くの船が出入りしていました。
信秀は、ここに出入りする船に関税をかけ、莫大な収入を得ていました。
さらに信長が生まれた年には古渡城を築城、それによって伊勢湾水運によって栄えていた熱田湊の関税収入を手に入れます。
すると信秀は、伊勢神宮の下宮の仮殿造営費のために700貫(1億円)を献上。
四千貫(6億円)を京都御所の修理に献上。
圧倒的な経済力を相手に見せつけることで圧倒!!
ついに、尾張国の実質的支配者となるのです。
そんな父を見て育った信長は、「武力に勝るものがある」ことを、知っていたのです。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った翌日、信長は清須城で論功行賞を行いました。
真っ先に一番槍をつけた服部春安か、一番首の毛利良勝が一番手柄だろうと考えていました。
ところが、信長が一番の褒美を与えたのは戦場では目立った活躍もしていない簗田政綱でした。
簗田は信長への情報提供・・・戦った武将たちよりも情報を届けた簗田の方が手柄が上だと考えたからです。
戦国の世に置いて、武力だけにとらわれない信長は、革新的な経済政策を打ち立てていきます。

信長のマネー戦略②楽市楽座

美濃国の戦国大名・斎藤龍興を退けて岐阜城に入った信長は、1568年に岐阜城下に「楽市楽座令」を発布します。
「市の独占、座の特権は全く認めない」
市=商売を行う場所のこと。
当時は、定められた市でしか商売ができず、一の多くは寺社の境内や門前に開かれることが多く、商人たちは寺子銭(場所代)を払わなければなりませんでした。
座=商品の独占販売権を持つ同業者組合のこと。
商人たちはどこかの座に所属しなければ商売ができませんでした。
座を保護している公家や寺社に冥加金(売上税)を払わなければなりませんでした。
信長はこれらを自由化してどこでも商売ができるようにし、以前よりも安く設定した売上税のみを信長側に支払うように命じました。

楽父楽座は、南近江の戦国大名・六角義賢が観音寺城で始めたもので、信長よりも20年ぐらい早く始めていました。
更に進化したものを行った信長です。
信長の経済改革によって岐阜城下には多くの商人が集まりました。
経済は活性化し、城下町が急速に発展!!
信長には売上税ががっぽり!!
しかも、城下町のおかげで人材や物資の確保がしやすく、天下取りの土台と考えていました。

この楽市楽座には、信長の大いなる野望が隠されていました。
”天下布武”という言葉の意味は・・・
鎌倉時代以降の日本は、公家、寺家、武家の3つの権門がけん制し合っていました。
公家や寺家が莫大な税収に寄って武家に対抗できる大きな権力を持っていたのです。
信長は、公家や寺家の介入を許さない、純粋な武家政権の樹立を目指していました。
公家や寺家の既得権益を奪い、経済力を低下を図ったのです。
そして、商人たちを信長の味方につけることに繫がりました。

さらに関所を撤廃。
これもまた天下布武のためには外せません。
戦国時代の関所は税関で、公家や寺社が自領の荘園内を通る道に勝手に関所を設けていました。
通行税を課して、大きな収入源としていたのです。
そのため、関所の数は膨大で・・・
荘園が入り組んだ淀川河口から京都までの50キロの間に、380カ所もありました。
ひどいところでは、1里の間に40カ所もありました。
行商人は大変で・・・上乗せした値段が高くて商品が売れないという悪循環も・・・
そこで信長は、1568年頃から関所の撤廃を始めます。
公家や寺社の資金源を断ち、商品をスムーズに動かし経済を動かしました。

信長のマネー戦略③交通インフラの整備

戦国時代、通常戦国大名たちは敵を警戒して居城辺りはわざと悪路にしていました。
橋も架けない・・・そんな常識を・・・
1574年、命令を出しています。
・入り江や川には船を並べた上に橋を架け、意志を取り除いて悪路をならせ
・本街道の道幅は、3間2尺(約6.5m)とし、街路樹として左右に松と柳を植えよ
・周辺の者たちは道の清掃と街路樹の手入れをせよ

交通インフラの整備によって商品流通を活性化させ、財を成した商人たちから多くの税を集めることが目的でした。
道を通りやすくすることで敵に攻められやすくなる・・・そのことを、圧倒的な経済力によって強化しました。

兵農分離・・・当時の多くの兵士たちは、半農半兵の地侍でした。
普段は村に住んで田畑を耕し、合戦が始まると戦場に駆り出されていました。
そのため、農繁期の秋には出陣もままならず、長期遠征も困難でした。
「戦に専念できる兵士が欲しい」
そこで、信長が目をつけたのが、地侍の次男、三男でした。
当時は調子相続が原則で、次男、三男は長男が亡くなった時の控えで、家を継ぐことはありません。
そんな次男、三男を召し抱え、親衛隊を結成しました。
親衛隊が活躍すると、兵農分離を強化します。
召し抱えた兵士たちを城下町に住まわせて、武器ごとに集団訓練をさせます。
高い組織力と機動力で強くなっていきました。
農業からから切り離した兵士たちに生活費を支給しなければならない・・・経済的な負担は大きいものでしたが、それを実行できたのは、信長が様々な税によって収益を得ていたからです。
信長の経済力がなさせた・・・天下統一への大きな要因の一つでした。

火縄銃・・・信長が10歳の時、1543年にポルトガルから種子島に伝来。
しかし、強力な新兵器としてみなが興味を示すも普及しませんでした。
その理由は・・・
①弾を込めるのに時間がかかる
②非常に高価だった
からです。
鉄砲1挺=1丁30金・・・およそ50万円しました。
信長は、鉄砲を重視していました。
19歳の時に引き連れていた親衛隊は、500挺の鉄砲を持っていました。
そして、その鉄砲が活躍したのは、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いでした。

兵の数こそ織田・徳川軍が大きく上回っていたものの、武田軍には戦国最強の騎馬軍団がいました。
そこで信長は、今のお金で15億円という大金を使って3000挺の鉄砲を購入し、騎馬軍団に対抗しました。
一発撃つごとに先頭を交代し、連射を可能にしたともいわれています。
これによって長年の宿敵・武田軍を撃破!!
天下取りに大きく近づきました。
強大な経済力と境を手に入れていたこと・・・この二つが鉄砲を大量に手に入れることができた理由でした。
堺は鋳物文化が盛んであったこと、そして日本では作ることのできない火薬である硝石を手に入れやすかったことが、信長が鉄砲を存分に使えた理由でした。

信長のマネー戦略が武力に勝った瞬間でした。
その経済力のたまものの兵器・・・鉄鋼船です。
1570年、寺社勢力を削ごうとする信長に対し、石山本願寺の蓮如が立ち上がります。
各地で一向一揆が勃発!!
激闘を繰り広げるも、蓮如は次第に追いつめられていきます。
すると・・・中国地方の有力大名の毛利輝元に援助を要請!!
毛利水軍700艘を本願寺に・・・補給のために大坂湾に差し向けます。
信長は、これを阻止する為に300艘を大坂湾に・・・しかし、あえなく撃退・・・。
毛利水軍焙烙火矢(焼夷弾)によって多くが焼かれてしまいます。
信長は、配下に置いていた伊勢志摩水軍に燃えない船を作れと言明!!
こうして作られたのが鉄鋼船です。
全長23mの巨大な船でした。
当時、鉄鋼は高価なので、船全体に貼ることは莫大なお金が必要でした。
それを作ってしまった信長・・・経済力は相当なものでした。
この頃、鉄鋼船は世界中にどこにもなく、信長が初めてでした。
鉄鋼船は、焙烙火矢にはびくともせず、多数の銃を搭載していたので圧倒的な力で毛利を撃退!!
2年後の1580年には石山本願寺が降伏しました。

信長のマネー戦略④居城の移転
一所懸命・・・当時の武士たちは一つの場所でその土地を命をかけて守るというものでした。
そして、その土地をめぐっての戦いで・・・土地が最も大切でした。
そのため、自分の土地を離れる者はおらず、武田信玄、上杉謙信も一度も城を移してはいません。
しかし、信長は那古野城、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と、4回も城を変わっています。
理由は・・・22歳の時父から譲り受けた那古野城から清須城に移転したのは、清州が尾張国の中心だったからです。
8年後に小牧山城に移ったのは次の侵略目標の美濃に近いからでした。
美濃を攻略するとそのまま岐阜城に。
次には安土城に・・・更なる領地拡大の拠点とするため、最前線に城を築いたのです。
兵農分離のなせる業でした。

新しく城を築くには、莫大なお金がかかります。
城下町を拡大すれば、経済が活性化し、税収がアップする・・・城下町を作り、拡大し、より多くの税収を集めるために居城を移転しました。
満を持して・・・安土城!!
1576年1月・・・信長は標高200メートルの安土山に築城を開始。
この時43歳でした。安土を選んだ理由・・・
中京経済圏、近畿経済圏の両方に目を光らせ、琵琶湖を使えば京都に半日で行けること。
中山道、近江商人と伊勢商人が行き来する八風街道・・・商品流通の要所・・・経済的な発展も狙っていました。
城下町も整備し、商人たちの誘致にも知恵を絞ります。
「安土山下町中掟書」には・・・
・城下町を楽市楽座とする
・往来する商人は必ず安土に立ち寄らなければならない
・他所からに転入者も従来からの住人と同じ恩恵が受けられる
・馬の流通は安土で独占する

人々を呼び集めるために政策が書かれていました。
城にも・・・完成した安土城は七層の壮大なものとなりました。
最上階は内も外も金で輝いていたといいます。
信長はこの城を、盂蘭盆会でナイトアップ!!
人々は集まり、信長の威厳と力を目の当たりにしました。
信長は、安土を京都や堺に並ぶ大都市に成長させました。
天下統一がなされたときには、安土に遷都を考えていました。
安土城には天皇を迎えるための御幸の間がありました。
そして、その御幸の間は信長の天主よりも低いところにあったのです。
天皇をも凌駕する存在になろうとしたのでは・・・??
お金の力で天下を取る・・・それを現実のものにしようとしていた信長・・・
1582年6月2日、京都本能寺で明智光秀に襲撃されあえなく死去。
光秀は、天皇をも超える存在になろうとしていた信長を危惧し、今何とかしないと大変なことになる・・・そう考え謀反を起こしたともいわれています。
巧みな経済感覚で時勢を追い、戦乱の世を征した信長でしたが、光秀の心までは読めませんでした。


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標高329メートルの金華山山頂にそびえる岐阜城は、織田信長が天下取りの足掛かりとした城です。
しかし、その前は、稲葉山城とよばれ、その主は美濃のマムシと恐れられた戦国大名・斎藤道三でした。
一介の油商人から大名になった下剋上の代名詞です。

11年もの長きにわたった応仁の乱・・・全国を争乱の渦に巻き込んだこの戦いは、足利幕府の権威を失墜させ、守護の力を弱めてしまいました。
そんな不安定な情勢の中、実力で下のものが上のものにとって代わる下剋上の時代がやってきました。
そこに登場したのが斎藤道三です。

道三の出自ははっきりしていませんが、京の都・山城の地侍の子として1494年に生まれました。
11歳で出家して京都・妙覚寺で修業したとされています。
しかし、その傍らで軍略書を読み、兵法を勉強していました。
武士として名をあげたい・・・野心を抑えきれずに還俗!!
油商人の入り婿となり、庄五郎と名乗ると、全国を渡り歩き活躍の場を探します。
そんな中、今日に近い交通の要所・美濃国でチャンスが訪れます。
この時、美濃を治めていたのが守護・土岐政頼。
守護である政頼は、弟である頼芸と家督相続でもめていました。
政頼には守護代に美濃の斎藤家が、頼芸には重臣の長井長弘が付き、土岐家は分裂!!

大きく揺れる土岐家・・・
道三は、商売をやめて槍の猛特訓をし、槍使いの名人となり長井長弘に仕える道三。
やがて頭角を現し、出世し、ほどなく頼芸の直臣となります。
しかし、それでは満足できない道三。
狙いは美濃の国を手に入れること。
その野望を叶えるために、次々と邪魔者を排除していきます。
まず、土岐頼芸をそそのかしてクーデターを起こし、政頼と斎藤家を追放!!
その後、自分を最初に取り立ててくれた長井長弘を殺害!!
主君である頼芸までも追放!!
僅か一代で美濃を乗っ取ってしまいました。

しかし、この一大国盗り話はウソ??

「六角承禎条書」の中に・・・
「新左衛門尉 京都妙覚寺の修行僧にて、長井弥二郎に仕える」とあります。
新左衛門尉とは、斎藤道三の父のことです。
つまり、僧侶から油商人となり、長井家の家臣となったのは道三の父親の経歴でした。
多分、頼芸を担ぎ出し、政頼を追放したのは父で・・・美濃の国盗りは、道三と父との二代でのことだったのです。
道三の資料はほとんど残されていませんが、この文書が書かれたのが道三の死後の4年後なので、信憑性があります。

父の地盤を元に、国盗りに邁進していく道三。
1533年、父・新左衛門尉 死去。
家督をついだ道三の下剋上が始まりました。
最初のターゲットは、頼芸の重臣であり、自分を取り立ててくれた長井長弘!!
長弘が道三のことを疎ましく思うようになっていたのです。
というのも、頼芸が弁の立つ道三の傀儡になりつつあったので、長弘は危機感を感じていました。
道三の調略は手が込んでおり、一説には長弘に美女をあてがい遊興に溺れさせ、政務怠慢でその信用を落としていきます。
そうしたうえで道三は頼芸に、「長弘に謀反の意あり」と、讒言!!
上意討ちの許可を取り付けて殺害!!
非情にも、かつての主で恩人の首を斬ったと言われています。
長井家を乗っ取り、居城だった稲葉山城を手に入れたのです。

さらに、追放した斎藤家の名跡を継ぎ、それ以来斎藤道三と名乗るようになりました。
実質的な美濃のNo,2となった道三は、頼芸の弟・頼満を娘婿に迎えます。
姻戚関係を結ぶことで、土岐家をも乗っ取ろうとしていたのです。
しかし、婿に入った頼満は、道三の危険性を感じており、道三の排除を画策しますが、道三に気付かれてしまいました。
頼満を毒殺!!マムシの道三なのです。
そんな道三の新しい敵となったのが、尾張・織田家!!
信長の父・信秀が、稲葉山城の道三に戦を仕掛けてきました。

織田軍の兵2万VS道三の兵数千・・・。
調略に暗殺・・・邪魔者をことごとく排除してきた道三、次なる敵は織田!!
ところが、その圧倒的な状況の中・・・
織田の軍勢は稲葉山城に詰め寄り、城下を焼き払いました。
それでも、城に籠った道三に、怖気づいたか・・・と、信秀は勝利を確信し、日暮れにいったん兵を下がらせました。
道三はこの時を待っていたのです。
買ったも同然と気が緩んだ織田軍に、奇襲をかけ、僅かな兵で勝利を収めます。
一説には、織田一族、十院など、5000の兵が討死したともいわれています。
この時道三は、織田の家臣に謀反を起こさせて兵を退かせたり、調略で勝っていくという戦略化でした。
この織田家との戦いで、土岐家に代わって道三は美濃の実権を握ったのです。

1548年、織田信秀から和睦の要請が・・・。
織田家は、道三との戦で多くの犠牲者を出し、疲弊していました。
さらに、織田信秀はこの時、今川義元とも戦っていて負けていました。
同時に二つの戦いは・・・と、手を結ぼうと思ったのが道三でした。
道三は織田との和睦を受け入れ・・・娘・濃姫を信秀の息子・信長に嫁がせようとしたのです。
この時、信長15歳でした。
帝王学を学ぶために、那古屋城の城主となり、家老・平手政秀によって養育されていましたが・・・
この頃は、大うつけとして、一族、家臣、城下のものたちにまで疎まれていました。
道三は、濃姫に短刀を渡します。
「隙あらば、信長を討て!!」と。
事実はわかりませんが、マムシの道三、織田家の乗っ取りを企てていたかも・・・??

織田家と同盟を結び、盤石な備えを築いた斎藤道三は、国盗り最後の仕上げに取り掛かります。
主君・土岐頼芸を追放し、遂に念願の美濃一国を手に入れたのです。
その矢先・・・織田信秀急死。
これによって19歳だった信長が後を継ぐこととなりますが、家臣からは不満の声が・・・
織田家当主の自覚が微塵もないうつけ者・・・。

そこで、道三は会ってみることに・・・。
これは当時としては異例のことでした。

1553年4月、場所は、美濃と尾張の境にある寺でした。
道三は対面を前に、信長が通る道沿いの小屋から信長をうかがうことに・・・。
行列を率いてやってきた信長は、髪は無造作に結び、奇抜な虎皮の袴に奇抜な着物でした。
噂通りのうつけ??
尾張を手にする日も近い・・・??
しかし、供のものは・・・6mを越える長槍を装備した兵が連なっていました。
甲陽軍鑑には・・・
「信長の戦い方は、父の信秀を少しも真似ず、斎藤山城守の戦法を真似ようとしていた。」とあります。
斎藤山城守とは、道三のこと。
長槍を使った戦法は、道三が最も得意としたとされ、当時としては新しい戦法でした。
この頃の戦い方は、大将の周りには馬廻が、その周りには防御役の足軽が導入され始めていました。
しかし、足軽の武器は様々で、防御に不向きです。
そこで、彼らに長槍を持たせ、防御(槍衾)としたのです。
信長はこの道三の戦法を真似ることで、新しい時代に対応したのです。
そしてさらに・・・鉄砲隊!!
信長は、500挺近い鉄砲を携えてやってきたのです。

いよいよ対面・・・!!
対面の場に後れてやってきた道三はわが目を疑います。
信長はいつの間には髪を結い直し、正装に着替えていたのです。
キチンと挨拶をする信長・・・。
平然と信長と杯を交わす道三・・・道三の目に、信長はどのように映ったのでしょうか?

「どう見ても、信長殿は阿呆でございますなぁ」by家臣
「だから無念なのだ。
 この道三の息子どもが、必ずあの阿呆の家臣となるであろうよ。」by道三

道三は、このただ一度の対面で、信長がただ者ではないと気づいたのです。
既成の秩序を壊す改革者として・・・!!
この時、道三60歳、信長はまだ20歳でした。
同盟関係以上の強い絆で結ばれることとなる二人です。

翌年・・・今川義元が尾張を我が物にしようと侵攻を始めました。
これを食い止めるために出陣しようとした信長、しかし、留守中に那古屋城が攻められることは必至!!
そこで、同盟相手であり舅の道三に助けを求めます。
道三はこれに応じ、重臣・安藤守就を尾張に派遣します。
信長がこの戦に負ければ、道三は尾張を攻め、奪うつもりだったと言います。
ところが、その考えを変える出来事が・・・それは、信長の行動でした。
信長は、安藤の援軍が来ると、本拠地である那古屋城近くに陣を張らせ、那古屋城を預けたのです。
自分の本拠地の城を預ける・・・??
それは、道三との信頼関係を内外に示すためのものでした。
城を出た信長は、今川軍の砦に急いで向かいます。
最新鋭の鉄砲隊と共に信長も前線で戦い、今川軍を僅か1日で撃退!!
美濃へ戻った安藤は、他国の援軍に城を預ける信長の大胆さと、その巧みな戦いぶりの一部始終を道三に報告します。
「敵にすれば、信長ほど恐ろしい武将はおるまい・・・!!」by道三
こうして、道三は織田の領地を奪うことより、信長との関係を強固なものにする道を選んだのです。

しかし・・・これがマムシの道三の足元をすくうことに・・・!!

1554年、美濃国を手に入れてからわずか数年で、長男・義龍に家督を譲ります。
稲葉山城を離れ、鷺山城に入って隠居。
しかし、その翌年、事件が起こります。
病を装い床に臥せていた義龍が、二人の弟たちを殺害してしまいました。
義龍の謀反に道三は激怒!!
どうして息子・義龍は、道三に対して謀反を起こしたのでしょうか?

義龍の母は、道三の正室・深芳野です。
元々は、道三が追放した土岐頼芸の側室で、道三のもとに下げ渡された拝領妻でした。
一説によると、その時深芳野のお腹には頼芸の子がおり、その子が義龍だというのです。
成長して自分のことを知った義龍は、道三を恨んでいたというのですが・・・
これは創作で、別の理由がありました。
道三は、義龍に譲ったものの、ゆくゆくは次男にと思っていたのです。
義龍は、本ばかり読んでいる物静かな、道三とは正反対の息子だったからです。
道三→義龍への家督交代は、家臣たちによって強制的になされていました。
道三によって戦いに明け暮れていた美濃国内は、疲弊しきっていました。
国を治めるという面では、道三は優秀ではなかったのかもしれません。
国内には、まだまだ土岐家の勢力が残っており、その勢力をなだめるための家督交代だったのです。
ゆくゆくは次男に家督を・・・それを義龍は察していたようです。
それ以外にも、道三が信長に肩入れしているということに、義龍も不満を持っていたようです。

義龍の謀反に激怒した道三は、兵を挙げます。
長良川を挟んで対峙する両軍!!
知らせを受けた信長は、道三を助けるべく美濃へ・・・!!

1556年4月20日、長良川の戦い!!
およそ1万7000の義龍軍に対し、道三は僅か2000!!
この時点では、道三は隠居しているので、道三を支持する者はほとんどおらず、まるで道三が反乱軍のようになってしまいました。
道三危うし!!の知らせを受けた信長は急ぎ美濃へ・・・!!
しかし、その途中、義龍の別動隊に行く手を阻まれてしまいます。
突破を試みるも苦戦!!
そこへ知らせが・・・!!
斎藤道三討死!!63歳、無念の死でした。

義龍との決戦前夜、遺言状を認めていました。

「美濃国も、ついに織田信長の想いのままに任せるほかはないので、譲状を送りつかわした次第である。」

道三は、後継者に信長を指名していました。

すべては夢のようだ・・・
終の住処はどこになるのだろうか

道三は死を覚悟していました。
野心のままに非情な裏切りと謀略を繰り返し、下剋上によって一国を手に入れた・・・そんな人生を夢のようだと振り返り、そののちは安らかではないこともわかっていました。
道三の死から11年、信長は道三の遺言状を大義名分として美濃を攻め、斎藤家を倒し美濃国を手に入れます。
稲葉山城に入るとその名を岐阜城と改めました。
この時から信長は命令書に「天下布武」の印を使うようになります。
信長はこの美濃から天下統一へと歩み出したのです。

道三が託した男に間違いはなかったのです。



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<今川義元と戦国時代>今川家の屋台骨 太原雪斎と岡部元信 (歴史群像デジタルアーカイブス)



1560年5月19日、織田信長率いる2000の軍勢が、今川の本陣を奇襲しました。
桶狭間の戦いです。
この時、2万5000の大軍を率いていたにもかかわらず、討ち取らてれしまった武将が、今川義元です。
トレードマークは白塗りにお歯黒の公家風メイク。。。輿に乗っての進軍でした。

今川家は、足利将軍家から分かれた名門です。
その始まりは、室町時代初頭・・・
1338年、今川範国が駿河国守護職に任ぜられ、やがて隣国の遠江をも治めるようになります。
時を経て・・・7代当主今川氏親・・・その5番目の男子として1519年に生まれたのが義元です。
義元6歳の時、父が亡くなり、長男・氏輝が後を継ぐことに・・・。
しかし、まだ14歳だったので、その母・寿桂尼が後ろ盾となって政治を司ることになりました。
義元の母でもある寿桂尼は、京都の公家の出ですが、今川家の政務をとったことから”女戦国大名”と呼ばれました。
義元は・・・5男だったので、早くから出家し、栴岳承芳と呼ばれていました。
そんな義元の教育係となったのが、太原雪斎。
義元は、雪斎と共に京に上り、建仁寺などの禅宗の寺院で格式を高めていきました。
この頃の義元は・・・京都の知識人と交流し、かなりの教養を身に着けていたようです。
一僧侶として生きる予定だった義元・・・
1536年、義元18歳の時、偶然にも同じ日に、兄である氏輝、次男・彦五郎が病死しました。
氏輝には跡継ぎが居なかったので、残った弟たちの中から跡継ぎを決めることになりました。

四男は、家督争いに加わりません。
六男は、尾張今川家の養子となっておりすでにそちらの家督を継いでいました。
残るはともに出家していた三番目の兄・玄広恵探と義元だったのです。
恵探の母親は、側室で今川家の有力家臣・福嶋氏の娘でした。
ちなみに義元の母は、正室の寿桂尼。
義元になりかけていましたが・・・恵探の母方の福嶋氏が大反対!!
今川家を二分するお家騒動が勃発しました。

が・・・寿桂尼は恵探の元へ・・・。
寿桂尼は、実の息子を裏切ったのでしょうか??
この頃既に、義元は将軍足利義晴から家督を継ぐことを承認されていました。
寿桂尼が恵探に足利家からの注書・・・覚書を見せて説得したようです。
しかし、その注書をを恵探に奪われてしまいました。
寿桂尼もこの時抑留されたのだとか・・・。
注書だけでなく、母も奪われてしまった義元は、すぐさま恵探派を襲撃!!
1536年花蔵の乱・・・今川家を二つに分ける内戦の始まりでした。
義元軍は、恵探派が籠る方ノ上城を攻撃!!
すると恵探は、難攻不落の花倉城へと逃げていきました。
しかし、この鉄壁の守りも、義元家臣・岡部親綱によって破られます。
見事母と注書を奪還!!
恵探は城を捨てて逃げますが・・・その途中、「もはやこれまで!!」と、自刃したのでした。
兄・江探の死によって、熾烈な家督争いは終わりを告げたのでした。
こうして義元は、1536年、9代当主となるのです。

駿河と遠江を治めていましたが、三代当主の頃、遠江を斯波氏に奪われてしまいました。
それ以来、遠江奪還は今川家の悲願でした。
そのカギを握っていたのは井伊家でした。
井伊家は遠江・浜名湖北岸の井伊谷の国人領主で、後におんな城主となる直虎になるまで因縁は続きます。
遠江を取り戻そうと侵攻する今川に対し、斯波氏について抵抗する井伊・・・。
しかし、1513年、井伊家の支城・三岳城が落城・・・井伊は屈服しましたが、それは表面上のことで、その支配はまだ安定していませんでした。
そんな中、今川の家督を継いだのが義元でした。
井伊家支配の強化に動き出した今川・・・遠江・・・そして、三河に進出する為に、井伊家を取り込もうとしたのでした。


井伊家に飴と鞭を使う今川・・・。
奪い取った三岳城を返却し、井伊谷に駐留していた兵を引き上げ、国人領主としての地位を保証します。
温情を見せておいて、当主・直平の娘を人質に出すように命じます。
ちなみに、この娘の産んだ娘が、後に家康の正室となる築山殿です。
こうして、井伊家の支配を強化した義元は、井伊家を利用していきます。

井伊家は今川にとって外様なので、戦になると一番危ないところ・・・
井伊家も早く手柄を立てて忠誠を誓わなければなりませんでした。
井伊家を配下に置くことに成功した義元は、更に三河へと侵攻していきます。
1546年、東三河・今橋城攻略。
この三河進出に刺激されたのが、尾張の織田信秀です。
早速、西三河の岡崎城に攻撃!!
自力で織田と戦う力のなかった松平広忠は、義元に援軍を求めてきました。
義元はこれを利用・・・援軍の代わりに、広忠の嫡男・竹千代を人質にと、命じたのです。
この竹千代こそ、後の徳川家康で、まだ6歳でした。
こうして義元は、松平家の後ろ盾として参戦。
三河から織田方を排除することに成功しました。
人質を取られていた松平家は、今川配下につくしかなく、西三河も義元のものに・・・
したたかかつ、巧妙な外交手段によって、駿河・遠江・三河の大大名となったのです。

着実に領土を広げていく義元・・・そこにいたのは、軍師・太原雪斎でした。
太原雪斎の支えもあって、東海三国を制した今川義元は、領土拡大のためにさらに西へ進出!!
しかし、そのためには、退路を安全にしておかなければなりません。
北には甲斐・武田、東には相模・北条氏康が・・・義元は彼らとの同盟を画策します。
1552年11月、武田信玄の息子には自分の娘を嫁がせます。
この時、信玄は、宿敵・上杉謙信との戦いで背後を安全にしておきたかったのです。
武田は、上杉と敵対していた北条と姻戚関係を結びます。
これによって間接的に北条との間にも同盟が結ばれたことに・・・
念には念を入れて・・・1554年7月、嫡男と氏康の娘を結婚させます。
これは、単なる不可侵条約ではなく、合戦になった場合の援軍という甲相駿三国同盟でした。

例えば・・・1555年の第2次川中島の戦いでは、今川の家臣が武田の援軍として出陣しています。
さらに合戦が膠着状態になると、義元が和平案をあっせんします。
信玄、謙信に匹敵する力を持っていた義元・・・
やがて海道一の弓取りと呼ばれるようになります。

1553年「仮名目録追加」21か条を制定します。
”今川家は自らで法を定め、領民の生活を守っている。
 よって今川以外の権勢がわが領内に及んではならない。”
この頃は・・・守護大名は、室町幕府から任命されて、地方を治め、指示されていました。
そんな幕府の支配を離れ、戦国大名となることを宣言したのです。

自信に満ちた義元は、次々と計画を実行に移していきます。

①検地・・・田畑の広さと収穫量を調べる検地を徹底させます。
山地の多い今川領は推定50万石・・・一国で50万石の尾張と比べると、その差は歴然です。
そのため、別の方法で収入を増やす必要がありました。

②課税・・・田畑の段銭、家屋ごとの棟別銭を領民から徴収し、税収を安定させます。

③金山開発・・・安倍川上流にあった金山に目をつけます。
今川領には金山が無数に点在しており、そこから産出される豊富な金は、大きな収入源となりました。

領国経営のモデルとなった武将・今川義元。
先駆的な経営によって、石高は、50万石から100万石へ・・・!!
義元はこれを戦の資金源として西を目指すのです。
そして今川家は黄金時代を迎えるのです。
駿府は、今でも京都と同じ名のスポットがたくさん残っています。
京都には多くの公家が滞在し、母の寿桂尼が公家出身だったこと、義元自身も京都にいたこと・・・
能や茶の湯をたしなみ、和歌は今川家のお家芸となっていました。
今川家の歌会始には、一族、重臣だけでなく、公家も招かれ、たいへん華やかでした。
だから公家風の装いな義元なのです。

1560年5月12日、今川義元は2万5000の兵を率い、自ら陣頭指揮を行い、東海道を西に登っていきます。
この時、義元が動員した2万5000は、当時としては桁外れ!!
迎え討つ織田信長は、推定でも最大5000!!
全精力を注いで西に向かった義元の狙いは、那古野城??
この時点で、信長は清須城に移っていました。
那古野城は今川家のお城でしたが、信長の父・信秀に乗っ取られたという経緯がありました。
なので、那古野城、清須城を落とし、尾張を攻略しようとしていたのです。

いざ、那古野城奪還!!尾張を我が物に・・・!!

義元は自ら陣頭指揮を執って輿に乗って進軍していきます。
1560年5月18日、今川本体は、尾張との国境にあった沓掛城に入ります。
この時、輿に乗って進軍する義元・・・。
それは馬に乗れなかったからではなく、輿に乗る=守護大名の中でもごくわずかしか室町幕府に許されていなかったのです。
自分はそれだけの身分の人間だということを、尾張の小国大名・織田信長とその家臣たちに知らしめるためだったのです。
敵を威圧する作戦でした。

そして、運命の桶狭間に・・・!!

1560年5月19日、沓掛城を出た義元は最前線の大高城へ・・・。
ここを足掛かりに那古野城を攻めるつもりでした。
午前11時ごろ・・・義元本体は、桶狭間山の陣所で昼休憩をとっていました。
するとその時・・・!!
織田方2000の兵に、正面から奇襲をかけられ、大敗を喫してしまったのです。
どうして2万5000の兵をもってしても、織田軍を打ち負かせなかったのでしょうか?

①天気・・・この日、沓掛で楠木が倒れるほどの大雨が降りました。
豪雨によって視界を妨げられ、織田軍の接近に気付けなかったと思われます。
②油断・・・この日の早朝、今川軍の先鋒、松平元康らは、障害となる丸根砦・鷲津砦を攻略していました。
戦況が有利に進んだことに気を良くし、義元は休憩中に謡などを謳っていました。
この一時の油断が命取りとなりました。
③参謀の喪失・・・そして何より・・・遡ること5年、義元を支えてきた軍師・太原雪斎が亡くなっていました。
④兵の数・・・2万5000のうち、2万は別の方に向かっており、義元本隊5000程度でした。
しかも、この時昼休憩でみんなバラバラになっていて、義元の元にいたのは300ほど・・・僅かだったと言います。

その後、次々と倒されていき・・・間もなく大将である義元が取り囲まれてしまいました。
果敢に応戦する義元!!
義元に一番槍を付けたのは、織田方の服部小平太。
義元は小平太を交わし・・・そこにかかってきたのが毛利新介でした。
最後まで果敢に戦い、夢半ばで散った海道一の弓取り・・・
1560年5月19日・・・42歳の生涯でした。

その首は清須城に・・・
信長によって首実検され・・・本来なら返す必要のない首は、義元の首は駿府に送り返されることに・・・
尾張攻めの最前線であった鳴海城に、義元家臣の岡部元綱が踏みとどまり、主君である義元の首の返還を願い出たのです。
信長は、主君を思うその思いに・・・鳴海城を明け渡す代わりに義元の首を返還。
駿府に戻ったその首は、今川の菩提寺に弔われました。

義元無き後、継いだのは嫡男・氏真。
しかし、桶狭間の後、次々と配下の者たちは離れていきます。
今川家はかつての勢いを削がれるばかり・・・これを好機と見た徳川家康と武田信玄は、東西から攻め込んで・・・
1569年今川家滅亡・・・桶狭間からわずか10年足らずでした。

戦略にも領国経営にもたけていた今川義元・・・
samonji

京都にある建勲神社には、名刀”義元左文字”が大切に保管されています。
桶狭間の戦いで義元が使っていた愛刀です。
義元を討ち取り、歴史の表舞台に躍り出た信長は、この刀を終生大切にしたと言います。
戦国の世を自ら切り開いていった義元への敬意と共に。




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1582年6月2日、織田信長は天下統一を目前に、家臣・明智光秀の謀反によって命を落とします。
本能寺の変です。
この事件は、信長や光秀を取り巻く女たちにも影響を及ぼしました。
信長の妹・お市の方もその一人です。
戦国一の美女と謳われ、二度も政略結婚の道具となり、嫁ぎ先が二度とも滅亡・・・
その生涯はなぞに包まれています。


お市は、尾張の戦国大名・織田信秀の五女として1547年に生まれました。
代名詞は、「無双の美人」・・・
”緑鬢紅顔 楊柳の風に随ふ如く 桃花の露を 含むに似たり”とされ、つやのある黒髪を持つ、変な美人で、しなやかさと華やかさを併せ持っていたと言われています。
嫡男・信長と13歳も離れたお市の少女時代ことは、ほとんどわかっていません。

兄・信長は、美濃の斎藤家を滅ぼし、本拠地を岐阜に移して天下取りを目指そうとしていました。
西へ向かおうとする信長に立ちはだかっていたのは近江国・・・南近江は名門で名君・六角義賢が、北近江は六角家から独立した若き当主・浅井長政が治めていました。
そこで信長が選んだのは・・・
この二つの勢力と争うのではなく、浅井家と同盟を結び、六角家を滅ぼそうとするものでした。
そのために妹・お市を長政に嫁がせようとしました。

政略結婚を、女性はどう考えていたのでしょうか??
親が決めた相手と結婚する・・・それが普通の時代でした。
武将の場合は、特に政略結婚が当たり前・・・娘たちも違和感がありませんでした。
もちろんお市も受け入れますが・・・浅井家の方から猛反対が・・・!!
浅井家は織田家と敵対していた越前の朝倉家と同盟を結んでいたからです。
その中には、長政の父・久政もいました。
織田の家臣もついてくる・・・
信長としては、長政を見込んでいて、ゆくゆくは家康と同等の評価を与えようと思っていたようです。

何としても同盟を結びたい信長は、浅井家の反対の意見を抑えるべく、「朝倉家との不戦の誓い」を立てます。
もし、戦う場合には、前もって浅井家に連絡すると・・・
ようやく1568年結婚。

不安なお市を待っていたのは、穏やかで幸福な結婚生活でした。浅井長政は、知友と義侠心を併せ持つ・・・兄・信長に勝るとも劣らない武将で、純粋に夫としてお市を愛してくれました。
夫婦は仲睦まじく・・・茶々・・・初・・・を設けました。

そんな市には、兄から言いつけられた役目がありました。
①実家と嫁ぎ先との外交官
②実家のスパイ
重要な使命を帯びていました。
お市、長政の協力を得て、六角軍を打ち破り、天下にその名を轟かせることとなった信長!!


お市の悲劇①兄と夫の断絶
1570年お市を驚愕させる事件が・・・!!
突如、兄・信長が朝倉義景に「叛意あり」と、不戦の誓いを破り、3万の軍勢で朝倉領に攻め込みました。
しかも、朝井領を通るという知らせは一切ありませんでした。

それは織田家と浅井家の蜜月関係の終わりを意味していました。
浅井家に嫁いだお市の立場などはお構いなし!!
信長は、朝倉方の所領を奪い、金ヶ崎城まで・・・!!
一気に朝倉の本拠地・一乗谷城に迫ろうとしていました。

この暴挙に、長政の父・久政を筆頭に、信長憎しの声が上がり始めます。
板挟みとなったお市・・・
夫の長政は、信長との戦を避けたいと考えますが・・・抑えきれずに・・・ついに、信長からの離反を決意します。

「信長を討つ・・・!!」

金ヶ崎城を落とし、ほぼ勝ちを手中にした信長・・・
お市からの陣中見舞いが送られてきました。
それは、両端を紐で縛った小豆の袋でした。
袋の両端が縛られている・・・
既に織田軍が、前にも後にも逃げられない・・・ということを示していました。
信長にとっては寝耳に水の浅井の離反でした。
お市からの知らせで、僅か10人ほどで京都に逃れ、九死に一生を得ました。
”金ヶ崎の退き口”と呼ばれています。

このエピソードは、江戸時代の創作と思われます。
お市そのものはスパイ活動ではなく・・・お付きの者からの知らせだったのでは・・・??

しかし、互いを思いやるお市と長政に悲劇が・・・!!

政略結婚で嫁いだお市にもはやとどまる理由はありませんが・・・
家臣やお付きの者が織田に帰っていく中、浅井に残りたいと・・・実家に帰ることを固く拒みます。
普通は離縁され実家に戻されるのですが・・・
浅井家の嫁として生きようと考えていたようです。

長政の妻でありたい・・・それは、死を覚悟することでもありました。
兄・信長は、妹のお市が残ると言っても、将来を嘱望していた長政の裏切りが許せません!!
裏切りから2か月後・・・家康の協力の元、浅井領に攻め入ります。
浅井軍は朝倉軍と合流し、激しい戦いが繰り広げられました。
この姉川の戦いで、浅井・朝倉連合軍に大勝利を収めた信長は、浅井家を追いつめていきます。
信長との縁を切ったお市は、浅井家で不安な日々を送りながら、1573年三女・お江を出産。

しかし、この年ついに運命の日が・・・!!
当時、信長の周りの武将たち・・・武田信玄・朝倉義景・松永久秀・本願寺の蓮如そして浅井長政は、信長包囲網を作っていました。
ところが、その要だった武田信玄が急死したことによって、信長包囲網が瓦解!!
この機を逃さなかった信長は、浅井・朝倉討伐へと乗り出すのです。

1573年越前に攻め込み、朝倉家を滅亡させ、北近江の浅井に侵攻!!
その先頭を任されたのが羽柴秀吉でした。
秀吉は、姉川の戦いで浅井から奪い取った最前線の横山城から浅井家を徹底的に監視!!
浅井家の家臣たちを次々に調略。
浅井の勢力を突き崩していきます。


お市の悲劇②浅井家滅亡

秀吉の調略によって家臣たちに裏切られて行った浅井家は、信長の圧倒的軍事力の前に、あっという間に居城・小谷城のみになってしまいました。
浅井家、絶体絶命の危機!!

そこへやってきたのは秀吉。・・・長政に告げます。
「城を明け渡してくだされば、命だけはお助け申そう。」by秀吉
断固拒否する長政!!

「命を惜しんで信長に屈するよりも、たとえ浅井が滅びようとも武士として最後まで戦うのみ!!」

そんな中、お市は三人の娘を連れて浅井家を脱出するのですが・・・

落城を覚悟した長政はこう切り出します。

「お前と子供たちは、今すぐ信長のもとへ帰るのだ。」by長政

一緒に覚悟するというお市を説き伏せて・・・
幼い娘たちのために生き延びて、私の菩提を弔ってほしい!!
諭され、これが、長政との最後の約束となるのです。

8月28日、妻と子の命だけは助けてほしいという長政の願いが聞き入れられ、お市は三人の娘を連れて信長の陣へ・・・!!
幼い子たちのために生き延びるという約束を果たすために・・・!!

無事に織田方に渡されたのを見守って・・・長政、自刃!!
9月1日、小谷城は落城したのでした。
お市との結婚からわずか4年の事でした。
浅井家は信長によって領地をすべて没収され、嫡男・万福丸は串刺し、末子の幾丸は出家させられてしまいました。
忘れ形見は3人の娘たちでした。


織田家に戻ったお市たちは、信長の弟・信包に預けられ、伊勢・上野城で手厚く保護されました。
戦国時代、嫁ぎ先から戻ってきた女性は尼になることが多かったのですが、お市は出家しませんでした。
それは、織田信長が敢えて出家させなかったのではないか??
政略結婚の駒として使えるのではないか??
3人の子供たちと穏やかな日を過ごすお市。。。
しかし、運命は一変します。


お市の悲劇③兄・信長の死

小谷城落城から9年後の1582年6月2日、本能寺の変!!
明智光秀の謀反の謀反によって兄・信長が急死!!
最大の庇護者であった信長を失ってしまいました。
そして・・・織田家臣団に覇権争いが勃発するのです。

しかもこの時、家督を継いでいた信忠も亡くなったため、家臣団は混乱を極めます。
次の覇権を握るのは誰・・・??
家臣が集まって、清須会議が行われました。

この話し合いで、織田家の将来を決めるとともに、お市の将来を決めるのです。
最も力を持っていたのが、織田家・筆頭家老&猛将の柴田勝家。
織田家のために一途に生きてきた勝家の想いは、信長亡き後の織田家を守り抜くことでした。
そこで、三男・信孝を支持します。

頼りない次男・信勝よりも、体制が維持できると考えたのです。
これに異を唱えたのが羽柴秀吉!!

中国大返しの強行軍に、謀反人・明智光秀の天下を三日天下とし、勝家をしのぐ勢いを持っていました。
秀吉は長男・信忠の子・三法師を推挙!!
実質的な権力を自分が取ろうとします。
秀吉の用意周到な根回しによって、会議では三法師が跡継ぎと決まってしまいます。

秀吉の策略に破れてしまった勝家・・・
そのうえ、秀吉は播磨に加え、山城国などを領地とし、光秀の領地であった丹波を自分の一族に分け与えました。
かたや・・・勝家の領地は北近江の36万石のみ・・・
筆頭家老としての面目をなくしたばかりか、領地においても秀吉に大きな差をつけられてしまいました。

これに対し・・・
「お市の方を嫁にもらっていただきたい。。。」
提案してきたのは・・・??
 
勝家はお市より25歳年上で、この時61歳!!
昔からお市は勝家にとってあこがれの存在でしたが、信長の妹であり、絶世の美女であったため、高嶺の花でした。
勝家は、この提案を受け入れ、お市も受け入れます。

提案してきたのは秀吉だったという説もありますが、三男・信孝という説もあります。
信孝が、自分の勢力を強化するために、持ち掛けたというのです。
秀吉は反対しなかったんでしょうか??
三法師を跡継ぎとするためには、何かしら譲る条件としたのかもしれません。

勝家や秀吉に対してお市はどう思っていたのでしょうか??
浅井家を滅ぼした秀吉憎し・・・
秀吉は浅井家を滅ぼしたのち、お市の居城であった小谷城を自らのものとし、間もなく平地に長浜城を築きます。
小谷城は、山城で交通の便が良くないと潰してしまったのです。
秀吉はお市から思い出の場所さえも奪ってしまったのです。

そのうえ、三法師を操って織田家を牛耳ろうとしたり・・・絶対に許せない男でした。
それを見返すためには、柴田勝家に秀吉を討ってほしい!!
秀吉に一泡吹かせるためにも結婚したとも考えられます。

1582年織田家・筆頭家老の柴田勝家と結婚。
三人の娘を連れて越前国北ノ庄城へ・・・
北ノ庄城は、天守が九層もあり、信長の安土城を上回るほどの巨大な城でした。
ここで平和な新し暮らしが始まりました。

夫・勝家は優しく・・・鬼柴田の異名の強面も・・・お市を慈しみ、「城に花が咲いたようだ。」と、三人の娘も可愛がりました。
しかし・・・風雲急を告げる・・・


お市の悲劇④柴田家滅亡

勝家と秀吉の対立は激化し、戦に発展!!
1583年賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家は、撤退を余儀なくされ、北ノ庄城へ・・・
秀吉は追撃の手をゆるめず・・・北ノ庄城は包囲されてしまいました!!

敗北を悟った勝家は、お市と娘たちを城の外へ出そうと試みます。
そんな勝家の言葉にお市は・・・
「殿の妻となりえたのが、我が運命・・・ 共に死にとうございます。」

勝家は何度も城の外に出るように諭しますが・・・
最後まで拒み、死を選んだのです。

どうして頑なに死を選んだのでしょうか??

①娘たちは大きくなり、自分が居なくても大丈夫だったから。
②実家の織田家に帰っても安泰ではなかった。
③秀吉の側室になることを嫌った。

③が大きな要因だったようです。

前の夫・長政を死に追いやり、兄・信長が盛り立てた織田家を乗っ取ろうとする秀吉に、命を救われるぐらいなら死んだほうがまし!!

「お前たちは何があっても生き抜くのです。
      浅井の血を絶やさぬために・・・!!」

三人の娘を落城寸前の城から出し・・・1583年4月23日。
お市は夫・勝家と共に命を絶つのです。

信長の妹にして無双の美女・・・お市・・・波乱に満ちた37歳の生涯・・・。
本能寺の変からわずか1年後の事でした。


”さらぬだに うちぬる程も なつの夜に
           わかれをさそふ ほととぎすかな”


武将たちの政略に巻き込まれたお市・・・
しかし、三人の娘たちはお市の想いを遂げていきます。

浅井と織田の血を引いた茶々・初・江が、柴田家滅亡のあと秀吉の庇護をうけることとなります。
長女・茶々は秀吉の側室となり秀頼を生みます。
皮肉にもお市の孫が、浅井と織田を蹂躙し、天下取りを成し遂げた秀吉の後継者となります。

次女・初は京極家に嫁ぎ、徳川の世になっても京極家は大名として生き残ります。

三女・江は、徳川家康の息子・秀忠に嫁ぎ二男・五女を設け・・・その一人が、江戸幕府三代将軍家光となるのです。
浅井長政の孫が・・・天下人となったのです。
お市の死から40年後の事でした。


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