日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:織田信長

群雄割拠の戦国時代、一人の男が乱世を制し、やがて時代の覇権を握りました。
戦国の革命児・織田信長です。
天下統一を目指した信長・・・しかし、その前には、数々の大きな壁が立ちはだかりました。
僅かな兵力で、10倍以上の大軍に挑んだ桶狭間の戦い・・・
周囲を多くの敵に囲まれる中で断行した上洛作戦!!
そして、不意の奇襲攻撃を受け窮地に立たされた姉川の戦い!!
信長は、3つの逆境をいかにして克服したのか・・・??

戦国の覇者・織田信長・・・しかし、若き日々は、苦悩と不安に満ちていました。
それは信長19歳の時に始まります。
1552年、信長の父、死去。
急死した父親の葬儀に駆け付けた信長・・・突然仏前に抹香を投げつけました。
どうしてそんなことをしたのか??
定かではありませんが、父の死が信長の方に重くのしかかっていたことは確かでした。
信長の父・織田信秀は、守護代の一家臣という低い身分でしたが、尾張一国を担う立場にありました。
力の源泉は、海運の要・津島湊と熱田湊を支配下に置いたことでした。

信秀は、海運を通じて商業を活性化・・・莫大な富を得ることに成功しました。
ところが、晩年は美濃・斎藤氏との戦いに敗れるなど信秀の求心力は徐々に低下・・・。
尾張統一も危ぶまれる情勢にありました。
そんな中、父の跡を継いだ信長・・・
しかし、周囲から大うつけ・・・非常識、愚か者として疎まれていました。

一族が敵対する事への恐れ、不安感がないまぜになっていた信長・・・不安は的中します。
ほどなくして一族の離反が始まります。
織田信友の謀反!!
それに対し信長は、信友を切腹に追い込んでいます。
そして実の弟・信勝・・・その謀反の計画を察知した信長は、仮病を使って見舞いに来させ家臣に命じて殺害しました(1558年)。
激しさを増す信長の一族討伐!!
造反勢力を抑えるのは容易ではありませんでした。
さらに、信長に巨大な外敵が迫っていました。
東海一の弓取りと畏れられた今川義元・・・義元は、一族の内紛に苦しむ信長に対して攻略の準備を進めていました。
まず義元は、尾張領内にあった鳴海城・大高城・沓掛城を手中に収めます。
それは信長にとって大きな痛手でした。
伊勢湾沿いに建てられた鳴海城と大高城・・・義元は、尾張の海運の要である津島と熱田に狙いを定めたのです。
信長は、父から受け継いだ経済基盤を失う危機に直面していました。
義元の領国は、駿河・遠江・三河の三か国・・・離反した織田方の家臣も組み入れ、石高にするとおよそ100万石!!
対する信長は、美濃・斎藤氏とも対立しており、まさに四面楚歌!!
援軍を望むべくもなかったのです。
しかし、信長はあくまでも義元に対抗!!
寝返った城の周辺に善照寺砦など3との砦を、そして鷲津砦・丸根砦を築いてけん制しました。

信長のこの動きをきっかけに・・・1560年今川義元、尾張に進軍・その数2万5000!!
信長軍の10倍以上でした。
尾張に侵攻した義元・・・信長にとってこれまでに兵力を持つ外敵でした。
5月18日夕刻・・・清須城にいる信長に、今川の動きを偵察していた家臣から報告が入りました。

「今川軍が明朝に攻撃開始!!」

いよいよ決戦の時!!
集まった家臣たちは、信長の言葉を待っていました。
ところが信長は・・・

「さあ・・・夜も更けた
 皆、帰宅して良いぞ」

そういって、軍議もせずに家臣たちを帰らせました。

「運の尽きる時は知恵の鏡も曇るというが、今がまさにその時なのか・・・!!」

そう失望する家臣もいました。
今川軍襲来の報を受けても動かない信長・・・果たして信長に勝機はあるのか・・・??

1560年5月19日、清須城の信長に、今川軍が鷲津砦と丸根砦が攻撃され始めたと連絡が入りました。
義元はまず、自分に寝返った大高城をすくうため、その周囲の鷲津・丸根砦を攻略し始めたのです。
すると信長は、僅か5騎を引き連れ、砦方面へと駆け出しました。
これまでの今川迫るの知らせには、微動だにしなかった信長が、どうして突然清洲城を飛び出したのか・・・??
それは、具体的な今川の攻撃場所を知る必要があったからです。
信長が、僅かな手勢で飛び出したのは、あくまで状況確認のため・・・もっと情報が必要だったと考えられます。
途中、善照寺砦に到着した信長は、一旦ここで馬を止めます。
ここには、遠くを見渡す物見櫓がありました。
この砦こそ、戦況を知るための前線基地だったのです。
高いところから今川軍の方向を見ると、鷲津砦・丸根砦の当た場所が遠望できます。
当時の信長が見た景色・・・立ち上る煙を目の当たりにして、信長は二つの砦が陥落したことを確信しました。
当時の戦術の常として、義元は鷲津・丸根攻略のためにまず、軍の主力・・・まず先陣を送ったはず・・・一方、大将・義元のいる本陣は、そのはるか後方で待機!!
今川軍が二つに分かれているこの状況を信長は図っていました。
今川本陣がむき出しになっている瞬間・・・その瞬間にかけて・・・!!
しかし、信長はまだ今川本陣がどこにあるのか具体的な場所をつかみかねていました。
そして正午ごろ・・・決定的な報告が、家臣からもたらされます。
鷲津砦と丸根砦陥落の知らせを聞いた信長が、桶狭間山で人馬を休憩させ、謡を歌わせているというのです。
桶狭間山は、先陣から3キロほど離れた場所でした。
地元の地理を熟知していた信長・・・今川軍が二手に分かれる構図に勝機を見出します。
この時、義元の本陣はおよそ5000、対する信長軍は2000足らず!!

今しかない!!

信長は、ここで最終決断をします。
そして檄を飛ばします。

「今川軍はすでに疲れている 大軍を恐れるな!!
 この戦に参加する者は、すべて名誉を得て功名は永遠に語り継がれるであろう!」

午後2時ごろ、今川本陣に突進!!
その途中で豪雨が降り出しました。
一方、今川本陣は、散り散りになって雨宿りの場所を求めました。
迫りくる信長軍に注意を向けるものはいませんでした。
豪雨が治まった時、信長軍は今川軍の本陣のすぐ目の前に接近していました。

「旗本これなり これへかかれ!!」

信長の号令で一斉攻撃!!
不意を突かれ浮足立つ今川軍、信長軍の一人が義元に一番槍を突き刺し、もう一人が首を刎ねる!!
いずれも、信長が育てた精鋭部隊でした。
一方、本陣から離れて休憩していた2万の軍勢は、”義元討たる”の報を聞くと、戦意を失って退却!!
信長軍の奇跡的大勝利!!
そこには、敵の情勢を見極め、勝機を逃さない信長の優れた判断力がありました。
戦国の覇者へ、その一歩を踏み出したのです。


2014年10月、新発見の資料が公開されました。
それは、新発見であり、未紹介であり、内容が非常に重要でした。
発見されたのは、信長の上洛に関する書状です。

”将軍上洛の供として 織田信長が参陣する”

1568年、信長が足利義昭の要請に応じて上洛したのは、桶狭間の戦いから8年後のことでした。
発見された書状の年号は永禄9年・・・信長は、実際の上洛の2年も前から義昭を奉じ、今日を目指す計画を立てていました。
どうして信長はそこまでして上洛にこだわったのか・・・??
室町時代、京の都で始まった権力争いは、全国を巻き込み大乱に発展!!
室町幕府は衰退の一途をたどっていきます。
戦国時代になると、将軍はしばしば都を離れ、地方の有力大名に庇護を求めました。
しかし、近年の研究によれば、戦国時代でも将軍の権威は保たれていたといいます。
信長が、将軍の権威を重んじていたことを示す資料が残されています。
幕府の家臣の名簿の中に信長の名前・・・権威を蔑ろにするイメージの信長も、将軍を支える大名の一人でした。
信長が上洛を目指したのは、衰退した室町幕府の細網を図ったからか・・・??
従来の室町幕府の秩序を、もう1回再構築するのが信長の目的なので、将軍は必要な存在でした。
そして、一有力大名として支えていくというのが信長の考え方でした。
尾張守護代の家臣という信長の出自は低い・・・
義昭の要請に応えることは、大名としての正当性を獲得する絶好の機会となったのです。
しかし、桶狭間の戦いで今川義元を討ち、尾張統一を果たしたとはいえ、永禄9年の時点では、信長の周囲は強敵に囲まれていました。
上洛など夢のまた夢・・・
さらに、上洛は、京に義昭を送り届けるだけではありませんでした。
将軍を守り、都の治安維持を図る・・・それには兵を常駐させておかなければなりません。
圧倒的な軍事力を求められました。
当時、信長が居城としていた小牧山城・・・
この城から信長の上洛に対する並々ならぬ決意が伺えます。
近年の発掘調査によって、当時の最新技術を使った巨大な石垣が次々と出土しました。
石垣の先端技術は、畿内で古くから発達しました。
信長は、畿内のいろんな技術、情報を押さえていたのです。
その中で、最先端の技術を築くことが出来るノウハウを持っていたのです。
また、小牧山城には、城下町が整備されていました。
上洛を睨んで、兵農分離が行われていたと考えられます。
兵農分離は、武士を農民から切り離す軍制改革です。
戦国大名の軍団を成す兵は農民たち・・・普段は村で農業をし、いざ戦いとなると兵隊として駆り集められました。
一方信長は、一早く専業の武士団を作り、城下町に集めて生活させていたことが小牧山城の発掘からわかりました。
兵農分離したことで、農繁期・農閑期に関わらず、いつでも遠征できる・・・!!
尾張をいかに治めるかということだけでなく、京都を目指していた意図が隠されていました。
上洛を果たすために、畿内の先進技術を取り入れ軍制改革を推し進めた信長・・・周到な準備を重ね、ようやく上洛が実現したのは最初の計画から2年後のことでした。

永禄11年(1568年)9月26日、およそ4万の大軍を率いて上洛!!
立ちはだかる敵を一蹴します。
ついに、足利義昭を奉じて上洛を果たしました。
10月18日、信長の軍事力を背景に、足利義昭将軍に就任!!
一方、新将軍誕生の立役者となった信長・・・信長の名は畿内一円に広がり、周辺の武将たちが次々と馳せ参じて忠誠を誓ったといいます。
信長が目指した国のありようを表した言葉・・・”天下静謐”・・・天下を平和にするという意味です。
将軍が中心となった畿内の政情を安定させる・・・そういう状況こそ、信長が考えた天下静謐でした。

ところが、上洛からわずか2年・・・怖れていたことが起こります。
越前の大名・朝倉の叛逆を皮切りに、畿内周辺の有力大名や、寺社勢力が次々と信長に反旗を翻したのです。
信長は、天下静謐を目指し、戦を重ね支配地域を拡張していきました。
一方、義昭は信長の凄まじい勢いに恐怖を抱き始めます。
2人の亀裂があらわになったのが、信長が義昭に宛てた「十七条の意見書」です。
義昭の怠慢や不正を十七ヶ条にまとめ、諫めたものです。

忠勤の部下を大切にせよ
えこひいきがあってはならない
世間から悪しき御所と陰口をたたかれている

などと、義昭を注意しています。
以後、信長と義昭の関係は、悪化の一途をたどります。
そして遂に1573年2月、義昭・・・挙兵!!
しかし、信長の圧倒的な軍勢を前に、降参する以外に術はありませんでした。
7月・・・義昭、京から追放・・・ここに室町幕府は崩壊したといわれます。
義昭を殺さず追放に止めたのは、将軍の権威を恐れ、謀反人と見なされることを避けたからだともいわれています。
以後、信長は、将軍の権威に寄らず、天下の静謐を目指しました。
それは、新しい天下人の姿でした。

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足利義昭を奉じ、上洛を果たした信長・・・
将軍の権威を背景に、信長は畿内周辺の諸大名に上洛を命じる書状を出しました。
これをはねつけたのが、朝倉義景です。
かつて、足利義昭の後ろ盾となっていた越前の雄です。
信長の上洛勧告に朝倉側はこう答えました。

「これは上意にはあらず
 信長の謀略である!!」

1570年4月、信長は3万の大軍勢を引き連れて朝倉討伐へ!!
目指したのは、今の福井県敦賀市。
陸上交通と、北国海運の要です。
朝倉氏にとっては、畿内への玄関口でした。
1570年4月26日、金ヶ崎城の戦い!!
信長は力攻めで、敦賀にある金ヶ崎城を攻略します。
ところが、この時信長のもとに驚愕の知らせが・・・!!
妹婿で北近江を治める浅井長政が裏切ったのです。
長政裏切りの報に接した信長は、こう答えました。

「虚説たるべき!!」

裏切りを嘘だと報告を信じようとはしませんでした。
当時の資料には、こうあります。
”浅井は近年信長の家来となり、心の隔たりなく付き合ってきた”
長政には、十分な所領・北近江半分を与えています。
しかも、信長の妹・お市の方を嫁にしているのに・・・!!
別格の待遇をしていると、信長は長政に恩を着せています。
しかし、長政は、信長の家臣ではないと思っていました。
家臣扱いされることに対する自尊心があったのです。
朝倉攻めを優勢に進めている信長・・・
しかし、長政の裏切りが事実ならば、形勢は一気に逆転します。
長政が南から敦賀に攻め入れば、朝倉との挟撃は免れない!!
西には敵対する若狭の武将たち・・・さらに、南の琵琶湖を支配しているのは長政!!
四方を囲まれ、信長は袋の鼠!!
この時、信長は即断即決します。
南西に向かい、即座に駆け出します。
京までおよそ100キロの道程・・・信長の撤退戦・金ヶ崎の退き口の始まりでした。
信長を京まで逃がすために、困難な殿を受け持った家臣たち・・・
木下藤吉郎(豊臣秀吉)・明智光秀・徳川家康があその任に当たったといいます。
若桜街道を南下し、京に無事たどり着いた信長・・・長政の裏切り発覚から3日後のことでした。
この時、信長に付き従ったものは、僅か10人ばかりと記されています。

フロイスの「日本史」によると・・・
”信長は自らに加えられた屈辱に対しては懲罰せずにはおかなかった”
とあります。

いよいよ、姉川の戦いの幕が切って落とされようとしていました。

1570年6月、信長は長政討伐のために北近江に侵攻。
同じ頃、朝倉の援軍8000が到着、小谷城近くの大依山に陣を構えました。
対する信長の本陣は龍ヶ鼻!!
左手には徳川家康が陣を構えました。
姉川を挟んで浅井・朝倉の連合軍と信長の本陣とが睨み合う形となりました。

6月27日、大依山の浅井・朝倉勢が動きます。
大依山の軍勢が、山向こうに異動したため、信長の目の前から浅井・朝倉勢が見えなくなってしまったのです。
この時信長は、敵の動きを小谷城への撤退行動だと読んでいました。
しかし、長政は撤退したと見せかけて信長本陣に奇襲攻撃をかけようとしていました。

6月28日午前5時ごろ・・・浅井勢、姉川に到着。
信長の本陣に密かに迫っていました。
そして・・・姉川の戦い開戦!!
信長の虚をつくまさに乾坤一擲の奇襲攻撃でした。
浅井軍の猛攻に押される信長の軍勢・・・崩れるのは、もはや時間の問題でした。
この時、信長の本陣は、陣杭の柳と呼ばれる場所にありました。
本陣の奥深くまで攻め込まれ、信長が窮地に立たされたことを物語るものがありました。
浅井家家臣・遠藤直経の墓です。
信長に迫り、あと一歩のところで討ち取られた武士として記録されていました。
本陣から墓までの距離・わずか300m!!
これこそ、浅井長政の奇襲攻撃で、信長本陣が大混乱した証です。
浅井勢に攻め込まれた織田軍・・・
しかし、信長は戦場を離脱することなく本陣に踏みとどまりました。
この時、信長を支えたのが家康の援軍でした。
これにより、信長は反撃を開始!!
結果、浅井軍は退却し、信長は辛くも勝利を得たのです。
この戦い以降、信長は大きく戦法を変えます。
時間をかけて浅井方の城を包囲し、小谷城の包囲網を築いて行きました。
さらに、浅井に組する武将に調略を持ちかけ寝返りを図ったのが、後の豊臣秀吉です。

1571年9月、比叡山焼き打ち!!
信長は、浅井長政に味方した比叡山を焼き打ちにしました。
その2年後の1571年8月、5万の大軍勢で朝倉滅亡!!
返す刀で小谷城を包囲!!
信長軍の猛攻についに浅井長政は切腹・・・享年29の若さでした。
浅井・朝倉滅亡の後、畿内周辺から信長に敵対する大勢力は途絶えました。
最大の逆境を乗り切った信長は、領土を拡大、天下統一に邁進していきます。

浅井・朝倉滅亡の2年後・・・信長は、当時最強と畏れられた武田軍を撃破することに成功!!
その後信長は、巨大な安土城を築き、天下統一事業に邁進!!
敵対する勢力には周到な準備と圧倒的な兵力で臨み、勝利を重ねていきます。
新しい時代の扉は数多の逆境を克服した男によって開かれたのです。

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今から400年ほど前、大坂城で天下統一の総仕上げを目論む徳川家康と、豊臣秀吉の後継者・秀頼の間で一大決戦が行われました。
大坂の陣です。

天下をかけた男たちのその戦いの裏で、激しくも悲しい三人の戦国の女たちの運命が交錯していました。
浅井三姉妹・・・長女・淀の方こと茶々、次女・初、三女・お江です。
三姉妹の父は、北近江の戦国武将・浅井長政、母は織田信長の妹で戦国一の美女と言われたお市でした。
しかし、三女のお江が生れたその年・・・
1573年小谷城の戦いで、浅井家は伯父である信長の怒りにふれ、小谷城が落城・・・滅亡に追い込まれます。
その後、三姉妹はお市の再婚相手となった柴田勝家が治める越前に移るも・・・
1588年賤ケ岳の戦いで、勝家が羽柴秀吉に敗れ、居城・北庄城が落城・・・母のお市は、勝家と共に自害してしまいます。
三姉妹が次に庇護を受けることとなったのは、母を死に追いやった豊臣秀吉でした。
まさに、波乱の人生・・・中でも長女・茶々は、そのにっくき仇・秀吉の寵愛を一身に受ける側室となりました。

1614年11月、豊臣方が籠城する大坂城を、総勢20万の徳川軍が包囲しました。
大坂冬の陣の始まりです。
この時、大坂城には、長女・茶々と、徳川方との交渉役を務めていた初が・・・三女・お江は、徳川軍を指揮する二代将軍・秀忠の正室となっていたため、遠く江戸城にいました。
望まずして敵味方となった姉妹たち・・・そのきっかけとなったのが、あの豊臣秀吉でした。

長女・茶々が秀吉の側室になったのは、賤ケ岳の戦いで北庄城が落城したのち、秀吉のもとに身を寄せてから5年ほどたったころと言われています。
この時茶々は20歳前後・・・しかし、茶々にとって秀吉は、小谷城の戦いの際、織田方の先方を率い、父・浅井長政を自害に追い込み、賤ケ岳の戦いでは母・お市を自害に追い込んだにっくき親の仇です。
どうして茶々はそんな秀吉の側室になったのでしょうか?
何不自由ない暮らしの中で、秀吉への憎しみが薄らいでいき、側室になることを受け入れたのでは??と言われています。
さらに、母・お市に託された言葉・・・北庄城落城寸前・・・

「茶々、妹たちと生き延びで、浅井の血を残し、私の代わりに浅井家の菩提を弔うのです」

茶々は、父・浅井長政と母・お市の方の供養を行うことを第一に考えていました。
秀吉の側室になれば、両親の菩提を堂々と弔うことが出来ると考えたのです。
こうして、秀吉の側室となった茶々は、やがて淀の方と呼ばれるようになり、秀吉との間に跡継ぎとなる男子・秀頼を生むと、二人目の正室として存在感を高めていきました。
すると、淀の方は、それまで内に秘めていた思いを秀吉に伝えます。

「お願いがございます
 浅井の菩提寺を建てることをお許し願えないでしょうか?」

「好きにするがよい」

こうして秀吉の許しを得た淀の方は、1594年に京都に父・長政を供養する菩提寺・養源院を建立。
浅井家の菩提を弔うようにという母・お市との最後の約束を守ったのです。
その4年後の1598年、秀吉が病の床に臥します。
そして、嫡男・秀頼のことを、豊臣政権を支えていた五大老(徳川家康・前田利家・上杉景勝・宇喜田秀家・毛利輝元)に託し・・・この世を去るのです。
翌年、淀の方は、まだ8歳だった秀頼と共に淀城から大坂城西ノ丸に移ります。
そして、秀頼が成人するまでの後見人として、豊臣家の実権を握ることとなるのです。

次女・初は、18さいで近江の戦国武将・京極高次にのもとへ嫁ぎます。
京極家は名門でありながら、当時はその力を失っていました。
初との結婚で運が開けていきます。
京極高次は、小田原征伐などで出世し、近江国大津城・6万石を擁する大名となります。
初は、夫の出世を喜ぶとともに、夫婦力を合わせて興廃していた村と城を立て直すことに力を尽くしています。

三女・お江は・・・この時、3度目の結婚をしていました。
1度目は、12歳の若さで尾張大野城主・佐治一成・・・佐治が秀吉の怒りを買いすぐに離縁。
2度目は太閤秀吉の甥・羽柴秀勝・・・しかし、秀勝は秀吉の朝鮮出兵に参陣し、病死してしまいます。
この時、お江のお腹の中には秀勝の子がいました。
お江はやがて女の子・・・完子を産みますが、23歳の時秀吉から3度目の結婚を命じられます。
相手は、徳川家康の三男・秀忠でした。
この結婚のため、お江は娘を姉の淀の方に託します。
戦国の荒波に耐えてきた終いの絆が伺えます。

次女・初が嫁いだ近江の戦国武将・京極高次は、姉妹である竜子が秀吉の側室であったため、秀吉から全幅の信頼を寄せられていました。
ところが、秀吉亡き後天下を狙う徳川家康と石田三成の対立が表面化・・・
1600年7月、石田三成挙兵。
三成方の西軍についていた京極高次は、突然家康方の東軍に寝返ります。
これを知った西軍は、総勢1万5000もの軍勢で高次がいる大津城を包囲、一方籠城する京極軍は3000・・・!!
城内には高次の妻の初もいました。
西軍の総攻撃が始まると、瞬く間に三ノ丸、二ノ丸が落とされ、残すは本丸のみになってしまいました。
高次は、討死する覚悟を固め、西軍の猛攻にたえ続けました。
この状況を伝え聞いた淀の方は、

「このままでは初の命が危ない・・・」

淀の方は使者を送り、西軍に降伏するように高次を説得、姉の気持ちをうれしく思いながらも初は・・・

「我が身がどうなろうと、高次さまが決めたことに従います」

すでに、死を覚悟していました。
しかし、高次は結局、淀の方の説得を聞き入れ、城を明け渡すことを決断・・・
初は、淀の方の妹だったこともあり、命はすくわれたのです。
高次が降伏し、城を明け渡したのは9月15日早朝のことでした。
それは、奇しくも家康方の東軍が、三成方の西軍に関ケ原で勝利した日・・・。
この後、高次は関ケ原の戦いに参戦していないにもかかわらず、家康から褒美として若狭一国、8万5000石を拝領することになります。

1万5000という大軍を、近江にくぎ付けにして関ケ原に向かわせなかったこと・・・
関ケ原の戦いは、どちらに転ぶかわからない接戦でした。
しかも、1万5000のうちほとんどが、立花宗茂・筑紫広門などの九州精鋭部隊でした。
その大軍を引き付けたことが、高次の功績で、家康が評価したのです。

高次が家康から信頼を得たことで、妻である初は後に大坂の陣で大きな役割を果たすことになるのですが・・・それは14年後のこと。

三女・お江・・・徳川家康の三男・秀忠の正室となっていたお江は、秀忠との間に千姫をはじめ4人の姫を授かり、江戸城でおだやかに過ごしていました。
そんな中、1603年5月・・・お江は、長女・千姫を伴い京都・伏見城に入ります。
千姫を豊臣家の跡取り・秀頼のもとに輿入れさせるためです。
この縁組は、淀の方とお江の間でようやく実現したものでした。
そこには二人の願いが込められていました。
秀頼と千姫の縁組は、亡き秀吉が家康に託した遺言でした。
その裏には、徳川が臣下にある証として千姫を人質にすると言う狙いもありました。
しかし、関ケ原の戦いによって豊臣家の状況は一変・・・領地を減らされ、実質的な政権は徳川に移っていたのです。
家康は、ならばみすみす孫娘である千姫を人質にする必要はないと考えていました。
そのため、縁組は進まず・・・しかも、豊臣と徳川の関係はますます悪化・・・
そこで動いたのが、お江と淀の方でした。
2人は千姫が秀頼に嫁ぐことで、再び豊臣と徳川の関係を強めようとしたのです。
どうして家康はそれを認めたのでしょうか?
家康はこの年・・・1603年2月に征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きましたが、この頃の家康はまだ淀の方に対して気を遣い、刺激しないようにしていました。
秀頼と千姫の縁組を認めたのは、家康を警戒する淀の方への懐柔策でした。

7月・・・千姫は秀頼のいる大坂城に船で向かい輿入れすることになります。
この時、秀頼11歳、千姫7歳でした。
こうして豊臣と徳川の関係修復に骨を折った二人でしたが、そんな2人の想いを家康が踏みにじるのです。
1605年、家康は息子・秀忠に将軍職を譲ります。
淀の方にとって想定外のことでした。
徳川の将軍職は、家康一代限りのもので、秀頼が成人したら政権は豊臣家に帰ると考えていたからです。
しかし、家康が自分の息子に将軍職を譲ったということは、政権を豊臣に返す気がないということ・・・
怒りに打ち震える淀の方のもとに、さらにこんな話が伝わります。

新将軍へのあいさつに秀頼が上洛する・・・??

秀頼が上洛すれば、豊臣が徳川の臣下に下ったことを認めることとなります。
豊臣家を守る淀の方にはとうてい受け入れがたいことでした。
淀の方の猛反対を知り、この時は家康が諦め事なきを得ます。
まさに、命を懸け家康と真っ向対峙する淀の方・・・豊臣の威信を取り戻すために力を尽くしていました。
朝廷に働きかけ、徳川秀忠が将軍に任じられる4日前・・・
1605年4月13日に秀頼を右大臣に昇進させます。
右大臣は、左大臣に次ぐ朝廷で実質的No,2の官職です。
秀忠の征夷大将軍よりも上だったため、豊臣家の復権を目指す淀の方は、ホッと胸をなでおろしたことでしょう。

この頃、お江は秀忠との間に長男・竹千代を出産。
その後、次男・国松、五女・和子をもうけるなど、2男5女に恵まれます。

そして初は・・・40歳の時、夫・京極高次を亡くします。
夫の死後、初は落飾し仏門に入り、常高院と号しました。
それぞれの運命の中で懸命に生きる浅井三姉妹・・・しかし、時代は三姉妹を激流の中へと投げ込むのです。

1614年、豊臣家ゆかりの方広寺で新たに造った鐘の銘文が波乱を巻き起こします。
世に言う方広寺鐘銘事件です。
問題となったのは、鐘に刻まれた中の国家安康という文字・・・徳川家は、家康の名を二つに分断する不吉な文字であると言いがかりをつけ、事態を治めたいならば、秀頼が大坂城を出て国替えに応じよといってきたのです。
この徳川の横暴ぶりに激怒した豊臣側は、兵を募り決戦の準備を始めます。
しかし、これこそが家康の願いでした。
1614年10月・・・豊臣家を武力討伐する口実を得た家康は、諸大名に大坂への出陣を命じるのです。
迫りくる家康の脅威に対し、淀の方はかつて秀吉の恩を受けた大名たちに手紙を送ります。
秀頼が家康と戦うといえば、大名たちは立ち上がり、共に戦ってくれる!!と信じていたのです。
ところが、生前秀吉が最も頼りにしていた加賀・前田家は返事もよこさず、秀吉が可愛がっていた安芸・福島正則は話すことはないと、使者を追い返したのです。
結局、大坂城に集まったのは、関ケ原の戦いの後、世にあふれていた浪人たち・・・忠義心からではなく、皆、単なる恩賞目当てでした。
こうして、大坂冬の陣は始まったのです。

1614年11月、身を着るような寒さの中、総勢20万の徳川の軍勢が大坂城を包囲、対する豊臣方は9万でした。
しかし、豊臣方が籠城する大坂城は、およそ2キロ四方の広大な惣堀の中に、三ノ丸・二ノ丸・本丸が置かれ、それぞれの間に堀がめぐらされた三重構造・・・戦を知り尽くした豊臣秀吉の難攻不落の城でした。
なので、徳川方の猛攻にも耐え抜きます。
淀の方も奮戦します。
大坂の陣について記した資料によれば、
”お袋様は女ながらに武具をつけ、城内を見回り、浪人たちを叱咤激励している”
一方、すぐに決着がつくだろうと考えていた家康は、いら立っていました。
そこで徳川方が放ったのは、ヨーロッパの最新式の大砲・・・大阪城本丸に撃ち放たれたその砲弾は、淀の方の櫓に命中!!
傍にいた数人の女房が命を落としました。
これにはさすがの淀の方も怖気づき、まだ戦おうと躍起になっていた秀頼に停戦を進言します。
こうして、和睦を結ぶための交渉が行われることになります。
豊臣方の代表として交渉に選ばれたのは常高院と号していた初でした。

どうして常高院が選ばれたのでしょうか?
関ケ原の戦いの前哨戦・大津城の戦い以降、京極家は家康から高く評価されていました。
京極高次の正室ということで家康から信頼されていたのです。
さらに、常高院が選ばれた理由としては、豊臣方と徳川方に姉妹がいたということが挙げられます。
そしてもう一つは、すでに彼女が出家していたということが挙げられます。
戦国時代、和平交渉の使者には出家して俗世と無縁である僧侶がよくたてられました。
そのために、出家していた常高院はうってつけだったのです。

徳川方は、家康の側室・阿茶局でした。
阿茶局は、側室といっても家康に最も信頼されていました。
女性が戦の和平交渉の場に立つのは極めて珍しいものでした。

1614年12月18日、和睦交渉は、徳川方の京極忠高の陣地で行われました。
豊臣方の代表は、常高院と淀の方の乳母である大蔵卿局、対する徳川方は阿茶局と本田正純。

「淀の方は秀頼さまのお命に差しさわりがないのであれば、和睦について考えても良いと申しております」by常高院

「秀頼さまのこと承知いたしました
 和睦が成立した場合、秀頼さまが大坂に住みたいのであればそのままに、
 他の土地に移りたいのであればそのようにしていただいて結構です」by阿茶局

「和睦するのであれば、大坂城の惣堀を埋めるというのが条件ですな」by本田正純

「惣堀を埋めると・・・わかりました
 それも伝えましょう」by常高院

こうして、交渉を終えた常高院は、淀の方がいる大坂城に戻り、徳川方から提示された条件を伝えます。

「秀頼さまのお命と豊臣の領地は安堵するとのことです」by常高院
 
「まことですか?それは良かった」by淀の方

「ただ・・・城の惣堀を埋めるのが和睦の条件との事
 いかがいたしましょう?」by常高院

「惣堀を埋めるとな・・・よいでしょう
 長い惣堀を埋めるには数年はかかるでしょうから、その間に家康が亡くなるかもしれぬ
 あの古狸がいない徳川など、恐るるに足らずじゃ」by淀の方

当時、すでに70歳を超えていた家康の老い先は短い・・・それまで時間を稼げれば、状況が変わる・・・と淀の方は考えていました。
こうして和睦が成立。
その翌日から、徳川が総動員であっという間に惣堀を埋めてしまい、続いて三ノ丸、二ノ丸の堀まで勝手に埋め始めたのです。
豊臣家の重臣たちは、徳川方に抗議しましたがあとの祭り・・・
惣堀、三の丸の堀、更には二ノ丸の堀の一部まで埋め立てられ、大坂城は本丸を残すのみとなってしまいました。

秀頼と千姫の間には子供はいませんでしたが、秀頼は側室との間に国松という男の子を設けていました。
淀の方はこれを憚り、徳川に悟られないように極秘に妹である常高院に預けていたようです。
大坂城での和睦交渉の際、国松を常高院の長持ちの中に入れ荷物と偽って大坂城内に運び込んだといわれています。
和睦が成立したので、そのまま国松は淀の方と同じ部屋で過ごしたといわれています。
この時、国松まだ7歳だったそう・・・
和平に尽力した常高院も、またそのまま大坂城にとどまりました。
しかし、徳川と豊臣の間に訪れた平穏な時間は、つかの間のことだったのです。

大坂冬の陣の和睦が成ってから3か月・・・
京の都にこんな噂が・・・
「豊臣の兵が埋められた堀を戻し、再び戦の準備をしているらしい」
実は、大坂城には依然、浪人を含む5万の兵が残っていたので、まだ戦うのだと要らぬ噂が立ちました。
家康は、豊臣方に釈明を求めました。
この時、豊臣方の使者として常高院が二条城にいた家康と会います。
すると家康は・・・
「本当に戦う気がないのなら、秀頼殿が国替えに応じるか、浪人たちを追放するかどちらかを選ばれよ!!」
どちらの条件も、豊臣方が飲めないことは承知の上・・・
これは、家康の事実上の宣戦布告でした。

常高院は、家康の要求を伝えるために大坂城に戻りますが、豊臣方の総大将・秀頼は家康の要求など聞かぬと常高院と会うことを拒絶!!

なんとか戦を避けようと常高院はすがりますが、その思い空しく、豊臣と徳川は観戦に決裂!!
こうして1615年、大坂夏の陣が勃発!!
豊臣方の武将たちは、場外に出て奮戦するも、翌日には本丸に退却・・・
陥落は時間の問題となりました。
常高院は、姉である淀の方を説得します。

「私は母上のように誇り高い死を選ぶつもりです」by淀の方

固い決意を知った常高院は、姉に最後の別れを告げると大坂城を脱出するのです。
この時、徳川方として京極忠高が城の外に布陣していました。
そのためいつまでも自分が城の中にとどまっていれば、京極家の将来に差しさわりがあると、止む無く脱出したのです。
城に残った淀の方は、秀頼と千姫と共に、糒櫓に立てこもると、最後の賭けに出ます。
妹・お江の娘・千姫に、家康と秀忠に助命嘆願を託すのです。
千姫は大坂城を出て、家康と秀忠の本陣に向かいますが、千姫からの返事が来ることはありませんでした。
もはやこれまでと覚悟を決めた淀の方は、糒櫓に火をかけさせ、その業火の中秀頼と共に自刃・・・
秀頼23歳、淀の方47歳でした。
秀頼の子・国松は、大坂城外に逃れたものの、徳川方に捕まり、まだ8歳だったにも関わらず、市中引き回しの上斬首・・・ここに豊臣家は滅亡しました。

一方、大坂城を脱出した常高院は、家康のもとに連れていかれることとなり、侍女たちにこう言いました。

「たとえ女の身であっても、我々は大坂城中におった者・・・
 どのような沙汰があるかわからないので覚悟するように」

しかし、おとがめはありませんでした。
その後、常高院は、妹・お江のいる江戸城に移り、久々の再会を果たします。
しかし、最後まで戦い自害した姉を思うと手放しで喜ぶことなどできず・・・
豊臣家を滅ぼした徳川家の一員であるお江も、

「姉上は私を恨んでいるのではないか」

と、憂い、その後の供養を欠かしませんでした。

1年後、お江は姉・淀の方が建立した浅井家の菩提寺・養源院で大坂夏の陣の戦没者供養の法要を行いました。
そして時は過ぎ・・・大坂夏の陣の終結から8年・・・お江の産んだ家光が、三代将軍となりました。
さらに、娘の和子が後水尾天皇に嫁ぎ、興子内親王を設けます。
後の女帝・明正天皇です。
これによって、織田家、浅井家の血が幕府と朝廷・・・両方に受け継がれたことになりました。
浅井の血を絶やさぬように・・・その言い残し死んでいった母・お市の願いを、娘たちはともに助けあい、見えない絆で結ばれながら見事叶えたのです。

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1582年6月2日、この日、時代を揺るがす大事件が勃発!!
明智光秀が謀反を起こし、主君・織田信長を討ち取った本能寺の変です。
この時、羽柴秀吉・・・豊臣秀吉が奇跡を起こします。
備中高松城から姫路城まで100キロを、わずか2日で駆け抜けた・・・??
秀吉軍、2万5000の高速代移動・・・中国大返しです。
この奇跡の行軍により、秀吉は京郊外・山崎で光秀を討つことに成功!!
その後、天下人への道を切り開いたのです。
秀吉は、どのような方法で長距離移動を可能にしたのでしょうか?
戦国の軌跡・中国大返し・・・秀吉は天下への道程をいかにして切り開いたのか・・・??

1582年5月26日、本能寺の変5日前・・・近江の居城・坂本を出発した光秀は、丹波・亀山城に入城しました。
その3日後、安土城を出発した信長も、光秀同様、上洛を果たしています。
信長と光秀・・・両者の行く先は、実は同じ場所にありました。
史料には・・・”中国への御出陣”とあります。
中国方面軍・羽柴秀吉の援軍のため、2人は西へ移動したのです。
この時秀吉は、備中高松城を水攻めで包囲、中国地方の覇者・毛利軍と対峙していました。
ところが・・・6月2日、前代未聞の大事件・本能寺の変が勃発します。
光秀が謀反を起こし、信長を殺害!!
これにより、秀吉の戦況は一変します。

6月3日、秀吉に事件の一報が届きます。
6月4日、毛利と講和を締結・・・停戦協定を結びます。
信長亡き今、秀吉はすぐさま敵の勢力圏から離脱し、100キロ先の姫路城まで撤退・・・不測の事態に備えなければなりません。
秀吉はいつ撤退したのでしょうか??
史料によると、6月5日・・・秀吉が撤退したのは、本能寺の変から3日後のことでした。
いよいよ中国大返しの始まりです。

撤退は、実際どのように行われたのでしょうか?
そのほとんどが平装でした。
移動には、武者押しと平押しがあって、武者押しはのぼり旗を押し立てて全員が武装して美々しく軍事行動をします。
それに対して、現場に向かう時には平押し・・・平常の衣服のまま、甲冑などはすべて荷駄として後方から運ぶというものです。
そして敵地に近づいてきて警戒しなければとなると、武装するのです。
兵や馬の消耗を防ぐため、甲冑は戦場に近づいたときに着用するのが戦国の世の習わしでした。

では、当時の道路事情は・・・??
道幅6~8m、綺麗に平らにして人工的な道を作っていました。
これは、記録に残る軍道と呼ばれるもので、このような道を作っておくことで即座に軍勢が大勢を維持しながら進むことが出来る・・・退却することが出来るのです。

信長は、早くから道路政策に力を注いでいました。
信長はこう命じています。

「険しい道を平らげ岩を砕き、道を広げよ 道幅は三間半とする」

三間半とは、およそ6.3mのことです。
当時としては道幅の広い道路でした。
道路を整備することで、補給路を確保、日本各地での戦闘を展開した織田軍・・・
迅速な行軍こそ、織田軍をして常勝軍たらしめたのです。
秀吉の中国大返しでも、こうした軍道が利用されたと推測されます。

6月5日、沼城まで撤退。
しかし、秀吉の行く手を待ち受けるのは、居城・姫路城までのおよそ78キロの道程・・・
秀吉はどのような方法で、中国大返しを実行したのでしょうか?

謎多き中国大返し・・・
その手掛かりが、中国大返しのルートで新たに発見されました。
兵庫県神戸市・兵庫城跡・・・近年の発掘調査で、兵庫城は信長時代の特徴を持つ城郭であったことが明らかになりました。
兵庫城の石垣は、石垣の下に木材を敷き、朕かを防ぐ胴木組と呼ばれる築城技術・・・当時の最新技術が取り入れられていました。
当時、畿内の先進的な技術を握った信長と家臣たちは、こういう石垣を築いていました。
さらに、城の中心部本丸に入るための出入り口が2カ所もあります。
城の守りを固める入り口がたくさんあるのはそれだけ守りが弱くなります。
通常ではこのようなことはしません。
しかし、わざわざ正面に2つの入り口を作った兵庫城は、城の使い方が大きく変わるきっかけがありました。

洛中洛外図屏風の格式高い大名の屋敷には、正門と脇門があります。
高貴な人とそれ以外の人を分ける出入り口です。
兵庫城がこのような形に改修されたのは、本能寺の変の2年前のことでした。
同じ頃、秀吉の書状にある言葉が頻繁に出てきます。

”御座所”・・・織田家の武将にとっての高貴な存在・・・信長のことです。
兵庫城の改修は、信長の”御座所”にするために、2つの入り口を持っている城としたのです。
中国大返しのルート上にある兵庫城の御座所跡・・・食料などを備蓄していたと考えられています。
秀吉の中国大返しでは、御座所を利用することで高速の長距離移動が実現できたのでは・・・??

御座所の痕跡は、兵庫県加西市にある小谷城にもあります。
室町時代に築かれたとされる山城です。
小谷城は、東西南北すべてに通じたまさに交通の要衝に築かれた城で、信長時代に改修されたところがたくさん発見されています。
秀吉が、この地の領主に宛てた書状では、小谷城の改修が見受けられます。
書かれたのは、本能寺の変の数年前とされていて、信長の御座所、信長の西国政策・毛利攻めを前提とした城を造っていたのではないか?
信長が中国の毛利と決戦する時に、ここへ入っていただく城としても造っていたのです。

歴史上、これとは全く違う戦場においても、信長のための御座所が築かれた実例があります。
本能寺の変の2か月前、織田家滅亡後・・・甲府市にある右左口宿・・・武田攻めを担った徳川家康が、この地に信長の宿所を築いたとされています。

驚くべきは、信長が甲府に入る時、すでに息子・信忠が躑躅ヶ崎に立派な御殿を造っていました。
さらに、駿河を通って帰る際に、家康が立派な御座所を造って・・・それは、かなり金銀をちりばめた豪華なものでした。
信長の移動には、織田・徳川両氏はかなり気を遣っていました。
信長が中国に来る際にも、上様の御座所を要所要所に整備しておくのは必要不可欠のことでした。
信長のために整備した街道を走り、信長のために造った御座所を活用する・・・それこそが、秀吉が中国大返しを成功させた秘策だったのでは・・・??

秀吉軍は、整備された道を行軍し、途中食料を備蓄した御座所を休憩所し、1日78キロを移動したとみられます。
そして・・・次に秀吉の前に立ちはだかるのが明智光秀。
秀吉対光秀・・・決戦の時が近づいていました。

1582年6月6日・・・本能寺の変から4日後、秀吉は信長のために用意した街道を駆け抜け、沼城から居城・姫路城までおよそ78キロの道程をわずか1日で走破することに成功!!
次に秀吉の前に立ちはだかるのは明智光秀!!
さらに、この時大阪近海の淡路島で異変が起こっていました。
瀬戸内の海賊・菅達長が本能寺の変をきっかけに洲本城を奪取、光秀に組したのです。
こうした不穏な情勢の中、いかに光秀と戦うべきか・・・!?

即時決戦を挑む??
当時、織田家の武将たちは全国各地で戦っていました。
本能寺の変の情報伝達には時差がありました。
北陸の柴田勝家には6月6日、関東の滝川一益には6月9日・・・この時点で、どの織田軍武将よりも一歩先んじていました。
光秀は信長様の三男・信孝さまを討とうと大坂へ向かったと聞く・・・
我が軍も大坂に向かい、この弔い合戦に勝利すれば、織田家中での発言力が増すことは必定・・・
信長様の後継者となるのももはや夢ではない!!
信孝はこの時、四国に攻め入るべく、軍を率い大阪に配陣していました。
ところが・・・信孝を切腹させたという風聞が・・・!!

もはや亡き者に・・・??情報を冷静に見極めるべきか??

当時秀吉は、本領・長浜をほぼ明智に押さえられてしまっていました。

1582年6月9日、秀吉は居城・姫路城を出陣!!
明石に到達しました。
およそ35キロの道程です。
秀吉は、光秀を討つべく即時決戦を挑みました。
秀吉の書状には・・・
”反旗を翻した菅達長には海と陸から軍勢を派遣し、攻め崩し、悉く討ち果たした”
とあります。
秀吉は、僅かの日にちで大坂への道を切り開いたのです。
さらに秀吉は、明石を出立、尼崎まで進出しました。
およそ45キロの行軍・・・大坂まで残すところあと10キロの距離です。

一方光秀は、この頃京に対陣。
光秀が大坂を包囲したというのは噂話に過ぎなかったのです。
しかし、秀吉の素早い進軍は、予想以上の結果をもたらすことになります。
秀吉が急速に兵を進めたことで、大坂の信孝、摂津の武将たちはもちろん、光秀の配下に属していた細川藤孝、筒井順慶、高山右近、中川清秀・・・秀吉に味方したのです。

6月13日、京の郊外で山崎の戦い・・・両軍が激突します。
軍勢の勝る秀吉は、わずか半日の戦いで光秀軍に勝利しました。
備中高松城を発した秀吉の中国大返し・・・光秀との決戦の地・山崎まで総距離230キロ・・・この長距離移動が勝敗を決したのです。

光秀との決戦に勝利した秀吉は、天下人への道を切り開いていきます。
山崎の戦いから4か月後、天下への野心を表した秀吉の書状にこうあります。
27里を一昼夜で姫路城まで帰陣することができた。
27里とはおよそ108キロのことです。
備中高松城から姫路城まで2日がかりで走破した中国大返し、それがわずか1日のことに改ざんされています。
秀吉が書き換えた中国大返し・・・
秀吉自身の手により、戦国の軌跡と称えられる伝説がここに誕生したのです。

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本能寺の変に謎はあるのか?: 史料から読み解く、光秀・謀反の真相

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学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康天下統一の謎

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常識にとらわれない大胆な発想で、戦国の世に君臨した革命児・織田信長・・・その破天荒な人生を陰で支えた女性たちがいました。
その一人が、下剋上で大名となった斎藤道三の娘として生まれ、信長の正室となった濃姫です。
信長には、正室と8人の側室がいたといわれています。
濃姫は、信長をどう支え、どう生きたのでしょうか?

1535年、濃姫は美濃国で生まれたと伝わっています。
父は、美濃の蝮と恐れられた斎藤道三・・・母は、美濃の名門・明智家の出身で道三の正室だった小見の方といわれています。
濃姫の本名はわかっていませんが、帰蝶と名付けられたともいわれています。
その名の通り、美しく育った娘は、信長に嫁ぐことになるのですが・・・
どうして、信長に嫁ぐことになったのでしょうか?

濃姫にとって信長は、二度目の結婚相手でした。
最初の夫は土岐頼純・・・土岐家は美濃を治めてきた守護大名です。
濃姫の父・道三は、一説には油売りの商人から調略を重ね、仕えていた主人を裏切ることで武将になりあがったとされる人物です。
そうして土岐家の重臣にまで上り詰め、稲葉山城を手に入れたのです。
さらに、守護職を務めていた土岐頼芸を美濃から追い出すことに成功し、実質的な美濃の支配者となりました。
そして、1546年、頼芸の甥である土岐頼純が新たに守護職に就くと、娘の濃姫を頼純に嫁がせ、自らの立場を盤石なものにしようとしたのです。
この時、濃姫13歳、最初の政略結婚でした。
ところが・・・結婚の翌年・・・夫・頼純が24歳の若さで病により亡くなってしまいました。
濃姫は、道三の元へと戻ります。

その矢先・・・道三にピンチが・・・!!
越前の朝倉家と尾張の織田家が南北から美濃に侵攻してきました。
道三は、両軍相手に戦うことは難しいと判断・・・織田家と和睦することに決めました。
そして、その証として、濃姫を織田家の嫡男・信長に嫁がせることにしたのです。
しかし・・・この頃の信長は、派手な湯帷子をまとい、髪を茶筅髷にし、人目もはばからず闊歩するという・・・相次ぐ奇行に”大うつけ”と、家臣や一族たちから疎まれていました。
そんな信長と濃姫の縁組をどうしても実現させたかったのが、信長の傅役・平手政秀でした。
信長は、母・土田御前に嫌われていました。
織田家の後継者として家中で疑問を持たれていたので、平手は信長に家を継がせるためには、斎藤道三という後ろ盾を借りようと縁組を勧めたのです。

織田家と和睦したい父・道三の思惑と、道三を信長の後ろ盾にしたい平手政秀の思惑が重なり、濃姫は織田家に嫁ぐこととなりました。
二度目となる濃姫の政略結婚・・・
嫁ぐ前に、濃姫は父・道三から一本の懐刀を渡され、こう告げられます。

「信長が本当のうつけものだったら、この刀で刺し殺せ」by道三
「わかっておりまする
 でも、もしかしたら、この刀は父上を刺す刀になるやもしれませぬ」by濃姫
「よく申した。それでこそ我が娘よ・・・!!」by道三

隙あらば、尾張を乗っ取ろうと思っていた道三の狙いを理解しながらも、信長が有利と見るや父を裏切るかも・・・
濃姫はまさに、蝮の道三の娘でした。

1549年、濃姫は、尾張の織田家へと嫁ぎます。
濃姫15歳、信長16歳でした。
最初に濃姫と呼んだのは、信長だったといいます。
美濃から来た姫・・・という意味です。

濃姫は、うつけものと呼ばれた夫・信長の奇行に悩まされます。
1552年、信長の父・織田信秀が死去。
その葬儀の際、信長は、遅刻してきたばかりか、いつものように茶筅髷で袴もつけず、そしてずかずかと霊前に向かうと抹香をつかみ、父・信秀の位牌に投げつけたのです。
父とは確執があったといわれる信長ですが、それは憎しみだったのか?それとも悲しみだったのか・・・??
しかし、この奇行によって、信長はまたもや評判を落とします。

夫・織田信長のうつけぶりに悩まされる濃姫に、また悩みが・・・。
今度は、信長が夜な夜な出ていき、明け方戻るようになったのです。
不審に思った濃姫は・・・

「上様が、夜ごと出掛けるのは、どこか別のおなごのところへ通っているからなのでしょうか?」

「なに・・・そのようなことではない。
 実は、美濃の家老で、わしに内通する者がおるのじゃ
 そやつに、舅の道三を殺したら、狼煙をあげよと言ってあっての
 毎夜、その狼煙が上がってないか、見に行っておるのじゃ
 狼煙が上がれば、美濃に攻め込む!!」

これを聞いた濃姫は、父・斎藤道三に密書を送り、危険を知らせました。
知らせを聞いた道三は、すぐさま信長と通じているという家老たちを見つけ、切り殺すのです。
しかし、実はこれは信長の策略で、濃姫が美濃側のスパイとして必ず情報を伝えると見抜いていた信長は、それを逆手に取り、嘘の情報を濃姫に伝え、美濃の内紛を画策したというのです。
この逸話の真相とは・・・??

他家に嫁いだ姫が、折に触れて嫁ぎ先の様子を実家に報告することはよくありました。
が・・・これは創作??
その理由は、この時期の信長の居城が那古野城なので、那古野城から稲葉山城の狼煙は見ることが出来ないことがあげられます。
もう一つは、この時点で斎藤道三の家老が殺された事実がないことが挙げられます。
もちろん、道三と信長が対立する理由もありませんでした。

道三と信長は、強い信頼関係を築いていました。
きっかけとなったのは、濃姫が信長に嫁いだ4年後・・・1553年。
道三は、信長が本当にうつけものかどうか知るために、直接会って確かめることにしました。
会見の場所となったのは、美濃と尾張の国境の寺院・・・
しかし、道三は、会見の前に信長を見定めようと道沿いの小屋に潜んで信長を待っていました。
やがて行列を率いてやってきた信長は、相変らずの茶筅髷・派手な衣装・奇抜な虎皮の袴をつけていました。

「噂通りのうつけよな・・・
 これなら、尾張を我が物にする日も近いのぉ」by道三

ところが、会見の場所で相対した信長は、いつの間にか髪を結い直し、正装に着替えていたのです。
道三は、このたった一回の会見で、信長が只物ではないと見抜きました。
美濃を手に入れるためには手段を選ばなかった道三と、うつけといわれても自らのスタイルを崩さなかった信長・・・2人とも、当時としては常識外れでした。
既成の秩序を壊し、新しいものを作り上げる改革者・・・似た者同士の2人が認め合うのは必然のことでした。
たがいに持つたぎる野心を感じながら、認め合った道三と信長・・・

そんな二人の強い信頼関係が分かる事件が起こります。
1554年、駿河の今川義元が尾張に侵攻・・・緒川城の近くに村木砦を築きます。
しかし、村木砦の攻略に兵を出せば、信長の居城・那古野城ががら空きになってしまう!!
困った信長は、美濃の戦国大名となっていた濃姫の父・道三に援軍を頼みました。
すると、道三はすぐに尾張に1000の兵を派遣!!
信長の居城・那古野城の傍に陣取ると、防備を固めたのです。
戦国時代・・・本拠地を他国の者に守らせるというのは異例のことでした。
道三と信長の関係が、濃姫を通じて固く結ばれていたことを示しています。

これにより、背後を固めた信長は、熱田から海を渡り緒川城に入城。
当時としてはまだ珍しかった鉄砲を用いて砦を攻略し、今川方を降伏させることに成功しました。
この後、道三は家督を嫡男・義龍に譲り出家します。
そして、鷺山城で余生をゆっくりと始めようとしたのですが・・・
その矢先、義龍が実の弟たちを殺害するという暴挙にでたのです。
道三に可愛がられていた弟たちが、自分にとって代わるのではないか?と、恐れたためでした。
これに激怒した道三は挙兵、鶴山付近に陣を置き、息子・義龍と相対します。
しかし、美濃を強引に乗っ取った道三に、不満を抱えていた家臣団が義龍を支持。
義龍軍1万2000に対し道三軍は2000・・・の兵しか集まりませんでした。

道三は、死を覚悟したのか、書状を書き残します。

「もし、わしが死んだら、濃姫の婿・信長へ美濃一国を譲る」

道三の危機を知った信長は、すぐに挙兵します。
信長は美濃の大良河原まで進軍しましたが、義龍軍に行く手を阻まれてしまいました。
そのため、道三は劣勢を跳ね返すことが出来ず、首を落とされ、この世を去ったのです。
父・道三の非業の死を知った濃姫は、悲しみにくれました。
百ヵ日法要の際には道三の肖像画を描かせ、美濃にある斉藤家の菩提寺に寄進したといわれています。

そんな道三の死から4年・・・
1560年、27歳となった信長は、桶狭間の戦いで駿河の今川義元を討ち取り、三河の徳川家康と同盟を結んで背後を万全にすると、いよいよ美濃攻めに乗り出します。
この時美濃は、斉藤義龍の病死によって、息子の龍興が治めていました。
信長は、まず斉藤家の重臣たちの一部を、調略によって味方につけると、1567年、稲葉山城を攻め落とし、念願の美濃を手に入れたのです。
稲葉山城に入った信長は、城の名を岐阜城に改め、ここを天下取りの拠点とします。

岐阜城の麓で、2008年、瓦の破片が見つかりました。
表面に緊迫が施された直径28センチもある飾り瓦でした。
そんな豪華な瓦を用いた建物とは・・・??
ルイス・フロイスの「日本史」によると・・・
”庭園を見た後、信長の妻・濃姫の金で彩られた部屋を見た”と書かれています。
贅を尽くした信長らしい豪華なものだったようです。
普段はこのような屋敷に住んでいた妻も、一旦戦乱となると妻たちも天守に籠り戦いました。
その妻たちの役目とは・・・??

信長の出陣中、濃姫は夫の無事を神仏に祈ります。
しかし、それだけではありません。
合戦で夫たちが城を出ていくと、当然夫が城でやっていた仕事をしなければなりません。
その一つが火の用心です。
女性たちが集まり、台所と中居は火事の火元になりやすいところでした。
また、籠城戦になると、男たちと共に鉄砲玉の製造を行いました。
さらに、女性たちが任されたのが、首化粧・・・。
天守に集められた敵将の首を、水で洗い、その首に誰々が誰々を討ち取ったと記した札をつけていきます。
これは後に褒美を与える論功行賞の際に、誰の手柄化をハッキリさせるためでした。
この時、その首にお歯黒を塗ったといいます。
戦国時代後期になると、戦は熾烈を極め、女子供を含め城中皆殺しとする例が増えていきます。
そうなれば、自ら身を守らねばならず、日ごろから長刀などの訓練を行っていました。
戦国の女性たちは、常に嫁いだ家と運命を共にする覚悟をもって、生きていたのです。

信長と正室・濃姫の間には子供はおらず・・・
そこで信長は、側室を持つことにします。
生涯8人の側室がいたといわれますが、信長から最も寵愛を受けたのが、生駒吉乃でした。
吉乃は、1528年、尾張国・生駒家の娘に生れます。
成長した吉乃は、一説には信長の母の甥の弥平次と結婚、しかし、29歳の時、夫が戦死してしまったのです。
未亡人となり実家に戻っていた吉乃を見初めたのが信長でした。
信長より6歳年下の吉乃は色白で、優しく、控えめな性格だったといいます。
側室となった翌年、1557年に、信忠を出産。
この時信長は、子ができない濃姫をはばかり、城の外でひっそりと産ませたといいます。
信長の寵愛を受けた吉乃は、信雄、徳姫を設けますが、産後の肥立ちが悪く、床に臥せってしまいます。
これを知った信長は、生駒家にこう命じます。

「吉乃を新しい城の御台所として御殿に移すように」

信長は、吉乃を完成したばかりの小牧山城の奥を取り仕切る御台所・・・正室の待遇を与えることにしたのです。
病を押し、なんとか小牧山城に移った吉乃・・・
御台所となってわずか2年・・・1565年、死去・・・39歳でした。

1576年信忠が織田家の家督を譲られ、岐阜城主となります。

織田信長と交流のあった公家・山科言継の「言継日記」によると・・・
信長の美濃攻略から2年後の逸話が記されています。

1569年、信長は斎藤道三の息子・義龍の未亡人に所持する銘品の壺を差し出すように命じました。
すると義龍の未亡人は・・・??

「戦乱のさ中、壺は紛失してしまいました。
 それでもなお差し出せとおっしゃるなら、もはや、自害して果てるしかありません。」

これを知った信長の本妻と呼ばれる女性が擁護します。

「もし、義龍の妻を自害させるのなら、わたくしも自害いたします。」

さらに、斉藤家の重臣たちもこれに繋がり抵抗。
大事件に発展してしまいました。
流石の信長も、本妻の意見を聞き入れて、未亡人の意見を聞き入れたといいます。
この日記に書かれている”信長本妻”とは・・・??
義龍は、濃姫にとっては母違いの兄・・・この時期、織田家のなかで義龍の未亡人をかばうことが出来たのは、濃姫以外にはいません。
つまり、信長が美濃を手に入れた2年後の1569年までは、濃姫は存命で、信長の正室のままだったと思われます。

織田信長の配下には、美濃出身の武将が多く仕えていました。
明智光秀もその一人です。
濃姫の母・小見の方は光秀の叔母に当たり、濃姫と光秀は従兄妹同士だったといわれています。
こうした縁もあってか、光秀は信長に気に入られ様々な任務を任されるようになり、信長の躍進に貢献しました。
しかし・・・1582年6月2日・・・
光秀が京都本能寺に滞在していた信長を襲撃・・・信長は49歳で命を落としました。
信長の家臣・太田牛一の「安土日記(信長公記)」によると、本能寺の変の際、信長が

「女どもは苦しからず 急ぎ罷りいでよ」

そういって女性たちを逃がしたといわれています。
このことから、本能寺には信長の世話をしていた女性たちがおり、その中には濃姫もいて、本能寺で信長と戦い亡くなったといわれています。
岐阜市にある”濃姫遺髪塚”・・・本能寺の変で亡くなった濃姫の遺髪を家臣が持ち帰り、この地に埋めたといわれています。
では、濃姫が本能寺で死んだというのは本当なのでしょうか?

戦国時代の女性が戦場で男並みの働きをした者もいます。
しかし、濃姫の場合は、資料的な裏付けがなく、後世の創作だと思われます。
後世の人々は、濃姫に勇敢な女性像をあてはめたかったのでは・・・??と思われます。

濃姫が本能寺の変で亡くなっていないならば、いつまで生きていたのでしょうか?
それを知る手がかりの一つが信長の家臣・蒲生氏郷の「氏郷記」です。
そこには本能寺の変の際、御台所を安土城から近江の日野谷へ避難させたとあります。
安土の摠見寺にあるとされる織田家の過去帳には、信長の正室が1612年に78歳で亡くなったと記されています。
これが事実ならば、濃姫は本能寺の変の後、30年ほども長生きしたということになります。
しかし・・・御台所としか書かれていないので、濃姫であるという確証はありません。

濃姫は、1573年には亡くなっていたと思われています。
その根拠となるのが、濃姫の実家である斎藤家とゆかりの深い、快川紹喜の「快川和尚法語」です。
そこには、濃姫とみられる女性(雪渓宗梅大禅定尼=濃姫)が側室・吉乃の死から8年後の1573年に亡くなったと記されているのです。
つまり、本能寺の変の9年前に、濃姫はすでに亡くなっていた・・・
では、本能寺の変の際に登場する御台所とは・・・??お鍋の方であった可能性が高いと思われます。
信長の葬儀の際に、秀吉から信長の位牌を受け取ったのもお鍋の方と言われています。
岐阜の崇福寺には、信長の位牌場をこの場所にするようにという指示を出したお鍋の方の書状が残されています。
これらのことから、正室・濃姫が亡くなった後、お鍋の方が織田家を取り仕切る御台所となっていたことが推測されます。

戦国の乱世、蝮の道三の娘として生まれ、織田信長に嫁いだ濃姫・・・
夫の最期をみとることはできなかったかもしれません。
しかし、若き信長が天下人へと駆け上がっていく、最も大切な時期を身近で支えた女性であったことは確かなのです。

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天正10年6月2日早朝・京都・・・
戦国の歴史を大きく変えた本能寺の変が起こりました。
天下取りを目前にしていた織田信長が、家臣・明智光秀の謀反にあい自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存知豊臣秀吉!!
しかし、神業ともいわれる中国大返しには、今なお多くの謎が・・・!!

織田信長の死を一番早く知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの戦の準備中だった織田信孝と丹羽永時ででした。
本能寺の変が起こったその日に信長の死を伝え聞いていました。
にも関わらず、京都に向かわなかったのは何故なのか・・・?
この時、織田信孝、丹羽長秀は、箝口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こしました。
信長の死を知った兵士たちがパニックを起こして逃げ出したのです。
2人は、仇討に向かうところではなくて、守りを固めるのが精いっぱいだったのです。

柴田勝家は、京都からおよそ300キロ離れた越後で上杉攻めを行っていました。
勝家が信長の死を知ったのは6月5日から7日の間です。
勝家はすぐに北ノ庄城に戻り、明智光秀討伐の準備を始めますが、出陣できずにいました。
京都の戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったためです。
明智光秀は、上杉景勝に本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころではなくなるとわかっていたのか、上杉軍が追撃の体勢を整えていたため、勝家は動けずにいました。

北条氏が治める関東をほぼ制圧しつつあった滝川一益が、本能寺の変を知ったのは、6月7日から9日の間です。
しかし、時を同じくして北条氏も信長が死んだという情報を入手、反撃してきたのです。
そのため一益は、京都に敵討ちに行くことが出来ませんでした。

中国地方を制圧するため毛利方の備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は・・・??
信長の死を知ったのは、本能寺の変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロも離れた場所で、どうしてそんなに早く知ることが出来たのでしょうか?
本能寺の変が起こることを知っていたのでは??とも言われていますが、それはないでしょう。
明智光秀はこの時、織田信長を討ったから和平交渉に応じるなという内容の密書を毛利に送っていました。
その密書を持った使いの物が、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
つまり、毛利より、秀吉の方に情報が早くっ伝わってしまったのです。
この時秀吉は、毛利方の清水宗治の居城・備中高松城を水攻めにし、落城寸前にまで追い込んでいました。
作戦は、城の周りに全長3キロ、高さ7キロの堤を築きました。
その中に、近くの川の水を引き入れ、城を水没してしまおうというものです。
さらに、城を完全に孤立させるために、周辺の警備も厳重に警備します。
すると、光秀が毛利方に送った密使が祖の警備網に引っかかってしまったのです。
城攻めの秘策のおかげで思いもよらず、信長の死を早く知った秀吉ですが、草履取りから取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、我も忘れて只々泣くばかり・・・
そんな秀吉の目を覚まさせたのは、軍師官兵衛の一言でした。

「これは天の御加護・・・天下取りの好機でございます」

その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵・明智光秀を討ち、天下を取るという野望を滾らせるのです。
そして、すぐさま箝口令を敷きます。
事件を知った一部の家臣たちに口止めをし、信長の死は極秘事項に・・・
当然、毛利方にも情報が漏れないように密使を斬ったうえで、備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉がまとまりかけていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩める旨を伝えます。

①備中・美作・伯耆の三国の割譲を求めていましたが、割譲するのは美作、備中・伯耆は領土折半と譲歩
②備中高松城主・清水宗治が切腹すれば、城に籠っている5000人の兵士たちの命は保証

暗礁に乗り上げていた講和、秀吉からの譲歩で毛利側は喜んで応じてきました。
清水宗治の死もやむなし!!
こうして、毛利との講和が実現!!
秀吉が信長の死を知ってから数時間後のことでした。

その日のうちに、水上の船の上で、備中高松城主・清水宗治自刃。
その見事な最期に秀吉は”武士の鑑”と褒め称えたといいます。
しかし、その直後・・・秀吉のウソがばれ、毛利側が信長の死を知ってしまいました。
秀吉が恐れたのは、毛利方の追撃でした。
この時、毛利方の吉川元春・小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に向かっていました。

「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ」by吉川元春

しかし・・・
「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ」by小早川隆景

結局、小早川の主張が通り、軍勢は秀吉を追撃することはありませんでした。
さらに、毛利軍が追撃しなかった理由には・・・
和睦の1か月ほど前の事、毛利輝元が家臣に宛てた書状には・・・
「こちらは鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている」
武器弾薬を使い果たしていたのでは、追撃などできません。
ところが、これも秀吉の策によるものでした。

秀吉は、瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していました。
つまり、毛利の補給路を断っていたのです。
もともと村上水軍は毛利方の水軍で、因島、来島、能島の三家に分かれていました。
そのうちの来島村上家は、既に毛利を裏切り信長側についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略・・・手中に収めていたのです。

6月5日、吉川元春と小早川隆景の軍勢は撤退を開始、それを見届けた秀吉は、翌6日、2万の軍勢を率い京都へ・・・8日間、200キロの怒涛の行軍が始まりました。
秀吉の神業ともいわれる中国大返しが始まりました。

1日目・6月6日午後2時・・・
備中高松城を後にした秀吉軍は西国街道を通り、22キロ離れた沼城へ。
西国街道は、援軍として来るはずだった信長のために、秀吉が事前に整備していたため行軍は比較的楽でした。
向かう備前・沼城は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城・・・待ち受けていた宇喜多もまた抜かりなく。
秀吉たちが夜でも移動しやすいように、街道沿いに松明をたき、城についたときにすぐに食事ができる用に整えておきました。
こうして順調なスタートを切った秀吉軍でしたが、この先が大変でした。

2日目・6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発します。
向かうは、およそ70キロ先にある姫路城です。
その途中には、西国街道最大の難所・船坂峠が待ち受けていました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万もの軍勢が重装備でしかも、多くの武器弾薬、食料を運びながら超えるのは、かなりの困難を極めました。
さらに、姫路城の行軍では、暴風雨に見舞われてしまいます。
道筋の川も増水し、農民を雇って人間の鎖を作らせ、その肩にすがって川を渡らせたといいます。
姫路城に着いたのは、翌日8日の早朝・・・24時間で70キロの行軍でした。
鎧などの装備の重さは30~50kg・・・本当にそんなことが出来たのでしょうか?

秀吉は、兵士の負担を少しでも軽くするため、ある策を講じていました。
海路を利用したのでは??という説があります。
秀吉は、村上水軍を味方につけていました。
騎馬隊・足軽隊は、陸路を駆け抜けたと思われますが、物資を運ぶ輜重部隊(小荷駄隊)は海路を使ったといわれています。
言い伝えによると、牛窓からから佐古志、あるいは片上津から赤穂御崎まで海路で行ったという資料が残っています。
重い武具や物資を船で運ぶことで、兵士たちを身軽にし、大軍勢のスピードを上げた秀吉・・・。
さらに、近年中国大返し成功の謎を解く新しい説が浮上しています。
注目されたのは、秀吉が書いた一通の手紙でした。
本能寺の変を知った織田家家臣・中川清秀への返書です。
問題は日付と内容・・・
秀吉は、6月5日に野殿まで来ていると書いています。
野殿とは、備中高松城から7キロの場所・・・
これが正しければ、出発日の定説が覆されることに・・・!!
6日出発という通説は、小瀬甫庵が書いた「太閤記」という豊臣秀吉の生涯を綴った伝記によるものです。
しかし、太閤記の内容は誇張表現では・・・??と考える人もいました。
近年、中川清秀宛ての書状が注目され、5日に野殿まで退却し、沼城へ向かったのでは・・・??という新説が出てきています。
毛利の追撃の可能性はゼロではない・・・天晴な秀吉です。
この6月5日出発説は、本隊は備中高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのでは・・・??という可能性もあります。

中国大返し・・・この成功の裏には、秀吉のこんな知略が・・・!!
①人心掌握術
備中高松城を出発し姫路城まで・・・2日で92キロを走破した兵士たちでしたが、まだ道半ば・・・京都までは100キロ以上残っていました。
秀吉に、ある懸念がよぎります。

「こやつらも、随分疲弊している・・・
 そろそろ逃げ出す者も現れるのではないか・・・??」

そこで秀吉は、姫路城に着くと皆に信長の死を知らせ、この行軍は、信長の仇である明智光秀を討ち取るためであると兵士たちの士気をあげたのです。
さらに、城にあった兵糧米8万5000石と金800枚、銀750貫文・・・現在の価値にしておよそ66億円相当をすべて兵士たちに分け与えたのです。
また、現存する秀吉の書状によると、”163人いる中間や小者らに一人五斗あたえよ””とあります。
中間、小者は、武器や荷物を運ぶ者です。
そうした者たちにまで、一人五斗・・・つまり、半年分の米に当たる高い報酬を与えたのです。
そして、翌日からの行軍に備えて、ここで1日ゆっくりと休ませることに・・・。
すると、そこへ一人の僧侶がやってきてこう言うのです。

「明日は二度と帰ることが出来ない悪日にあたります
 それゆえに、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」

それを聞いた秀吉は・・・

「そうか、二度と帰ることが出来ないのはむしろ吉日じゃ」

そういって取り合わなかったといいます。

その意味は・・・??
秀吉は、光秀を見事討つことが出来れば、天下人の道がある・・・そうなれば、姫路城に帰ってくる必要はない・・・城などどこにでも作れる!!だから、帰って来られないのはむしろ吉日!!
自分が勝って、天下を取るということだというのです。

みなぎる自信と天下取りの野望・・・

秀吉は富田に向かいます。その際、摂津国を通ることとなります。
そこにいるのは、茨城城主・中川清秀、高槻城主・高山右近でした。
かつて織田信長に対して、謀反を興した武将・荒木村重の重臣でした。

「やつらが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」

そこで秀吉は、彼らにこんな書状を送ります。

”上様は難を逃れ、無事である” 

信長が生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしました。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、信長の首を晒すことが出来ていれば、嘘がすぐにばれていました。
情報を操作することで、裏切りの芽を摘んだ秀吉は、安心して進軍することが出来たのです。

②家臣の働き
秀吉は、家臣にも家ぐまれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時後方支援を担当。
食糧や武器などの物資を調達、人の手配を迅速に的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・。
また、黒田官兵衛は、軍師として優れた才能を発揮。
それが・・・毛利家の旗。
兵庫を過ぎたあたりから、隊列の先頭にこの旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせたのです。
官兵衛は、備中高松城での和議が成立し撤退する際に、小早川隆景の素をたずね、毛利軍の旗を20本ほど借りたいと申し出ていました。
隆景は、ある程度の察しはついており、秀吉に協力しておいた方が毛利家のためになると考えました。
幡を見て、毛利が味方に着いたと勘違いした武将たちが、次々と秀吉方に加わったといいます。

こうした家臣たちの働きもあり、6月11日、秀吉軍は尼崎に到着。
秀吉は、大坂城にいた信長の三男・信孝と丹羽長秀に、尼崎まで来たと伝えますが、信孝を光秀討伐の総大将には立てませんでした。
本来なら、息子の信孝が総大将となって仇を討つのですが、信孝を総大将にすれば自分はその下の駒でしかない・・・
こでまでと何ら変わりないと考えました。
当時、信孝には兵が4000ほどしかいませんでした。
おまけに光秀は、本能寺の変で信長の嫡男・信忠も討っていました。
どうしたらいいのかわからない信孝は、光秀を討つ気迫が無かったので秀吉の上には立てなかったのです。

6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!

一方の光秀は・・・??
本能寺の変を起こした6月2日から4日までの間に居城の坂本城に入って近江を平定。
6月5日には信長の居城・安土城と秀吉の居城・長浜城を占拠。
さらに、丹羽長秀の佐和山城も押さえています。
光秀も、味方の結束を強めていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城の細川忠興や、大和郡山城・筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
一方、朝廷を味方に付けようと調停工作も行います。
朝廷から京都の経営を任せるといわれ、信長の後継者は自分に認められたと思っていたようですが・・・
8日、秀吉の大返しの知らせを受けるのです。
しかし、光秀は、調停工作に励みます。
調停工作を第一に考えていたのか?
秀吉はまだ帰ってこないと思っていたのか・・・??

秀吉の軍勢は、4万に膨らんでいました。
一方、明智光秀は織田信長の謀反に成功するも、細川忠興や筒井順慶らが参戦しないという誤算に見舞われます。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく、娘の細川ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉、筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5千!!
秀吉の軍勢の半分にも及びませんでした。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎!!

6月13日

劣勢で迎え撃つこととなった光秀には策がりました。
それは、天王山の地の利を生かす作戦です。
川が迫る天王山の麓には、当時、馬がやっとすれ違えるほどの細い道しかなく、光秀はそこに秀吉の大軍をおびき寄せて、天王山に配置した兵に急襲させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、逆に秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。

「先に天王山を押さえねば!!」

しかし、秀吉もまた天王山が勝負の分かれ目になるとわかっていました。
そこで、このあたりの地理に詳しい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は敵に気付かれぬように松明をつけづに前日の夜に山に分け入り、光秀軍より先に天王山を押さえたのです。
これで、光秀軍は勝機を失いました。
そして遂に、両軍が激突!!
山崎の合戦です。
わずか数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は、命からがら逃げだすも、落ち武者狩りの竹やりで重傷を負い、その後・・・自刃。

3日天下と揶揄されることとなった明智光秀。
その一方、主君・信長の敵討ちを見事遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
全ては、中国大返しという神業をやってのけたことにありました。
その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして大胆な行動力と決断力、何をするにもスピードに驚かされました。
秀吉、天下取りとなるべき人物だったというのがよくわかります。


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