日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:織田信長

津軽10万石の城下町だった青森県弘前市・・・2016年ある発見が話題を呼びました。
町中にある一軒の古民家が、忍者屋敷であることがわかったのです。
弘前藩の忍者集団”早道之者”が諜報活動のために使ったとされています。
忍者屋敷がそのまま残されているのは、全国でも極めて珍しい。
藩主、家老から命令を受けて、作戦会議をする場所だったと思われています。

忍者・・・影のヒーロー??そのほとんどは、創作の産物です。
しかし、実在の忍者が一度だけ歴史の表舞台で活躍した戦いがありました。
敵は、織田信長!!天正伊賀の乱です。

戦国時代最強を誇った織田軍が、忍びの郷・伊賀に向けて出兵しました。
ところが・・・攻め込んだ先で、兵士たちは次々とうち取られていきます。
織田軍大敗北!!ついには撤退!!
果たして伊賀の忍び達はどんな手段で織田軍を撃退したのでしょうか?

群雄割拠の戦国時代、歴戦の武将の影には不思議な呼び名を持つ者たちがいました。
上杉謙信に伏齅・北条氏康に乱波・武田信玄に透波・・・彼らは戦国時代に活躍した忍び達です。
ある時は敵地に潜入し諜報活動、ある時は敵の不意を突き夜襲攻撃、凡人には出来ない危険な任務を行う特殊部隊でした。
そんな忍びを数多く輩出したのが伊賀・・・忍びの里と呼ばれたこの地には、どんな秘密があったのでしょうか?

伊賀には屋敷を取り囲む不自然なほど高い土塁がたくさんあります。
防御を備えた館城があり、土塁だけではなく堀もあったようです。
確認された城跡はおよそ650以上・・・全国有数の密度です。
どうしてこれほどまでに多く築かれたのでしょうか?
伊賀は中世以来、限られた土地をめぐり争いの絶えない地域でした。
各地で自ら館城を築いた地侍たちは、大名の直接支配を受けることなく自治独立の国だったのです。
戦国時代の伊賀衆について・・・
毎日夜明け前から昼頃までは士農工商それぞれの仕事に励み、それから日暮れまでは武芸を磨く・・・
そして密謀の通力を伝える風習があった・・・と記述されています。
密謀の通力がいわゆる忍びの術なのです。

常に危険と背中合わせだった伊賀では、武芸だけでなく敵を陥れる技も鍛える必要があったのです。
そんな伊賀を疎ましく思っていた男がいました。
織田信長です。
当時、信長は近畿一帯に勢力を伸ばしていましたが、伊賀には手を出せずにいました。
そして隣国にはもう一つの忍者の里・甲賀があり、同じく自治独立を守っていました。
伊賀と甲賀が連携して信長の進出を阻んでいたのです。
険しい山々に囲まれ、進入路さえ分かりにくい土地・・・信長は現地の情報を集めながら、じっくり攻め入る予定でした。
しかし・・・その意図を汲まずに伊賀を狙っていたのが信長の次男・信雄でした。
1579年伊勢にいた信雄は、信長に無断で伊賀へ出兵。
1万を超える大軍勢でした。
山を越え、伊賀領内に侵入しようとしたその時・・・突然山道に地侍たちが現れ、一斉に襲い掛かってきました。
山の中で待ち伏せしていた伊賀衆でした。
その奮闘ぶりは・・・
地の利はよく心得ている
ところどころに砦を築いて弓矢や鉄砲を放ち、槍を併せ、息つく間もなく攻撃し、山の崖へ追いつめていきました。
総崩れとなった織田軍の戦死者は、数千人に及んだといいます。
そして、織田方重臣・柘植三郎右衛門が討死!!
信雄は、命からがら伊勢に逃げていきました。
伊賀の完全勝利でした。

織田軍敗北の報せは、すぐさま信長に知らされました。
言語道断!!
息子・信勝が安易に出兵したことに激怒したといいます。
見事な結束で独立を守った伊賀衆・・・
しかし、彼らにとって本当の試練はこれからでした。

1581年、織田信長は伊賀討伐を命じます。
その軍勢なんと、4万以上・・・汚名返上に燃える信雄を総大将に、織田の名だたる武将・・・筒井順慶、蒲生氏郷、丹羽長秀が先陣に加わります。
しかも、今回は多方面からの一斉攻撃!!
迎え討つ伊賀は、それぞれ敵の情報を正確につかんで連携する必要がありました。
そのために使ったとされるのが、狼煙による情報伝達です。
伊賀ではのろし台の跡がいくつか確認されています。
いずれも集落から見えやすい位置にあり、南北15キロ以上に警報を伝えることができたと言われています。
さらに・・・忍びの狼煙には、特殊能力がありました。

江戸時代の忍術書「万川集海」・・・そこに狼煙の材料が記されていました。
最初に掲げられているのがオオカミの糞・・・手に入りにくいものの代表的な材料でした。
すぐに煙が立ち上がり、煙から強烈なにおいが発せられます。
狼煙が嗅覚にうったえていた可能性があるのです。
その悪臭は、1~2キロ位は伝わる可能性がありました。
悪天候で煙が目視できないときでも使えた可能性があるのです。



織田軍に対してあらゆる防御を備えていた伊賀衆・・・
しかし、4万という大軍勢を前に、彼らの心は揺れていました。
信長に内通するもの(福地伊与)まで現れます。
福地は険しい進入路の道案内を行い、織田軍を伊賀領内に導いたといいます。
どうして仲間を裏切ったのか??
伊賀北東部にある福地城・・・ここは、織田軍が最大の軍をおいた地域でした。
福地の集落は、真っ先に攻撃を受ける場所だったのです。
福地は福地で、集落を守ろうとしたのです。

内通者を得た織田軍は、伊賀領内に侵入!!
その攻撃は苛烈を極めます。
一軒残らず焼き払い、男女問わずに殺害した・・・
伊賀衆は、わずか数週間で、最後の拠点柏原城まで追いつめられます。
籠城したのは1600人・・・城には女子供達も逃げ込んだといいます。
各方面から侵入した織田軍は終結し、およそ4万で柏原城を取り囲みました。
絶体絶命の中、協議に望んだ伊賀衆・・・
徹底抗戦する??それとも降伏・・・??
補給路も援軍もない・・・今更降伏しても命の保証はない・・・どれだけの仲間が殺されたのか??
信長は伊賀を殲滅したいのか??
袋小路に陥った伊賀衆・・・意外な意見も・・・
敵を欺いて、せめて女子供だけでも城から脱出する??
城からの脱出路・・・すでに柏原城を包囲される前に、この作戦を実行した者たちがいました。
西部の比自山城に籠城した伊賀衆です。
織田軍が城に突入すると、そこは一夜にしてもぬけの殻になっていたといいます。
伊賀衆は、城中に松明を炊き、城にいるかのように見せて織田軍を欺き、密かに脱出に成功していたのです。
しかし、すでに小田野全軍が、城の周りに・・・本当に脱出することなどできるのか??
宿敵・信長に対し徹底抗戦か??それとも降伏か??それとも脱出か??

伊賀衆が出した結論は”脱出”でした。
およそ4万で包囲する織田軍から、どのように逃れるのか??
籠城から10日以上たった夜、柏原城から数人の伊賀衆が抜け出しました。
彼等は周辺に隠れていた百姓たちを動員して、織田軍の背後の山に、可能な限り多くの松明を灯させます。
それを見た織田軍は、数千に及ぶ伊賀の援軍あらわる!!そう思い込み、大混乱となりました。
これこそ、伊賀衆の狙いでした。
この隙に、柏原城から女子供を逃がす手はずだったのです。
ところが・・・この計略を見破った男がいました。
織田の名将・丹羽長秀・・・10代のころから信長に仕えた重臣でした。
比自山城での伊賀衆の計略を見ていた長秀は、援軍を偽物と見抜き、混乱を速やかに収束させてしまいました。
脱出作戦・・・失敗!!

もはやこれまで・・・1581年10月28日柏原城開城・・・
伊賀の自治独立は、ここに消滅しました。
信長の容赦ない処分が・・・
各地の城は焼き払われ、神社仏閣は破壊されました。
そして男女の差別なく、多くが処刑されました。
運よく他国に逃げ延びたものの・・・半数の伊賀衆が犠牲になったといいます。
それから数日後、見聞のために織田信長が伊賀に入りました。
山の上から伊賀の国を見下ろしていた・・・その時、事件は起こりました。
数発の銃弾が信長に向けて放たれたのです。
伊賀の忍の残党でした。
しかし、弾はいずれも外れ、忍びは姿を消したといいます。
伊賀の執念は、最後まで信長を脅かしたのです。

その後も伊賀への警戒を緩めなかった信長・・・
その城が、信長が伊賀支配のために築いた滝川氏城・・・。
巨大な本丸跡は、伊賀のそれまでにはないものでした。
その一方、形は伊賀の館城と同じ・・・そこに信長の心境が表れています。
当時の織田のお城の作り方とは全く離れていますが・・・伊賀の城に織田の城が合わせにいっています。
伊賀の人に分かりやすい館城のお化けのような巨大なお城が作られたのです。
自らの力を誇示しつつ、慎重に支配を進めた信長・・・
伊賀を織田の直轄地とし、地侍たちが再び力をつけないように統制を図ります。

しかし・・・1582年6月2日、本能寺の変・・・信長は、突然この世を去ります。
天正伊賀の乱から8か月後のことでした。

信長の死後、天下人は秀吉から家康へと移り、戦国乱世の終焉を迎えます。
他国へ落ち延びていた伊賀衆の中には故郷に帰る者もいました。
しかし、伊賀がかつての自治独立を取り戻すことはありませんでした。
そんな伊賀の忍び達に目をつけたのが、徳川家康でした。
服部半蔵のもとにまとめられた伊賀者たちは、江戸時代、将軍家の隠密や江戸城の警備などを務めます。
伊賀者たちの評判は、全国に知れ渡り、諸藩の大名達にも雇われるようになります。
ある者は諜報活動を行い、ある者は藩主の身辺警護を務めたりしました。

伊勢の関宿にある江戸時代から370年続く老舗の和菓子屋・・・
そこには、忍者の末裔が住んでいました。
服部家には、まだ世に出ていない資料がたくさん眠っています。
関宿は、東海道五十三次の宿場町です。
多くの人が行き交い、各地の情報を得るにはうってつけでした。
店のその目の前には、将軍家の宿泊所である御茶屋御殿がありました。
家康はじめ、将軍が上洛する際に、宿泊した場所だったのです。

服部家の資料は、多くのご先祖が忍びの経歴があったことを伝えています。
もしかしたらこの和菓子屋で、代々徳川家を支えるために、忍者の仕事をしていたのかもしれません。

戦国から江戸時代へ・・・幾多の試練を生き抜いた忍者たち・・・故郷で培った忍びの術は、形を変えてその暮らしを支え続けたのです。

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大阪市中央区にある純白の大聖堂・・・カトリック大阪大司教区・大阪カテドラル聖マリア大聖堂・・・
荘厳な大聖堂の正面には、生母マリアが日本画壇の重鎮・堂本印象によって描かれています。
マリアの前に跪く女性は、戦国時代きっての美女とうたわれた細川ガラシャ。
ガラシャは、織田信長を本能寺で討った明智光秀の娘で、乱世を生き抜いた細川忠興の妻です。
豊臣秀吉、徳川家康の天下取りに翻弄され、悲劇的な死を遂げたガラシャ・・・。

世は大航海時代・・・南蛮渡来の先進文化が日本にも押し寄せ、宣教師たちがもたらしたキリスト教は庶民にまで広がっていました。
そして、キリスト教に入信したガラシャには、過酷な運命が待っていました。

1574年正月、織田信長の居城・安土城のこと・・・天下統一に邁進する信長は、重臣・明智光秀の娘・玉を細川藤孝の息子に嫁がせるように命じました。
信長は、政権基盤確立のために、家臣たちに婚姻でむすびつけ、強大な結束を結ぼうとしていました。
光秀の娘・玉子・・・後のガラシャ12歳は、夫・忠興も同じ年でした。
信長の命令から4年後、16歳になった玉子は細川忠興のもとへ輿入れしました。
玉子が嫁いだのは、京都・・・長岡京市にある勝竜寺城・・・陸の交通と水運の要衝に位置したこの城は、今は公園となっています。
城内には、玉子が嫁いだころからの井戸が残っています。
玉子はどんな女性だったのでしょうか?

結婚から間もなく一男一女をもうけた玉子と忠興夫妻・・・
戦での功績も目覚ましく、細川家は信長から丹後国を与えられます。
はれて12万石の城持ち大名となった細川家・・・玉子の未来も限りはありませんでした。
ところが・・・玉子の人生を一変させる事件が起こります。
1582年6月2日・・・本能寺の変・・・父・明智光秀が突然織田信長を襲います。
光秀は、娘・玉子の嫁ぎ先の細川家に援軍を求めます。
羽柴秀吉らに対抗する為に・・・!!
しかし、細川藤孝・忠興親子はこれを拒絶!!
藤孝は出家し、信長を弔う姿勢を見せます。
忠興は怒りのあまり、光秀の使者を斬り殺さんばかりでした。
援軍を得られないまま秀吉との決戦に敗れた光秀・・・。
その他の明智一族も、玉子を除いてほとんどが命を落としました。
細川家の嫁でありながら、謀反人の娘となってしまった玉子・・・人生最初の選択に迫られます。

明智の娘であるから、謀反人の娘として生き恥をさらすなら自害すべき??
この時、玉子は3人目の子を身籠っていました。
「御身の父光秀は、主君の敵なれば同室叶ふへからす」by忠興
忠興は、玉子を離縁して、三戸野に幽閉しました。
要害の地で切ない日々を過ごす玉子・・・。



細川家は、形勢が逆転し、明智の味方が増えたなら・・・
玉子を生かしておくことで、両天秤にかけたのです。
男たちの思惑によって、子供たちと離れてしまった玉子・・・。

身をかくす 里は吉野の奥ながら 花なき峰に 呼子鳥なく

「謀叛人の娘」というレッテルを貼られたものの、子供に細川家を継がせることで、明智の血を後世まで残すこと・・・
明智家からついてきた侍女や家臣も守らなければいけない・・・
そのためにも、自分が今、命を絶つわけにはいかない・・・
幽閉の翌年、水戸野で男児を出産した玉子・・・数え21歳でした。

幽閉から2年・・・信長のあと天下の実権を握った秀吉は、大坂に大きな城を築きつつありました。
党第一の実力者となった秀吉から、玉子との復縁を許された忠興・・・
父・光秀を討った秀吉の許しで、玉子は大坂城下の細川邸に正室として返り咲きました。
秀吉が美貌で噂の玉子との面会を望んだ時・・・

「秀吉は父の仇・・・殺されても出ていくことはありません。
 それでも強いてということなら、懐剣で刺し殺し、復讐を果たします。」by玉子

気丈に振る舞う玉子でしたが、忠興は厳しく監視します。
それは、嫉妬とも旧織田勢から守るためだったともいわれています。
謀反人の娘というレッテルを貼られた世間の目に苦しんで、精神の変調をきたす玉子。。。
細川家の正室としての態度をしっかりとしながらも、閉じ込められた苦しさ、悩み、ストレス・・・
その葛藤が気鬱となって現れます。

この頃、世界は激動の時代を迎えていました。
航海技術の発達によって、スペインとポルトガルがアジアやアメリカに進出していました。
新たな交易ルートの開拓や、領土獲得を目的とした大航海時代の到来です。
スペインとの覇権争いの中、ポルトガルが日本に・・・
南蛮船との交易で、利を得ようと大名たちは自領の港を開きました。
南蛮船によって、イエズス会の宣教師も来日・・・宣教師たちは有力大名たちに領内での布教を認めさせていきます。
大名の中にも自らキリスト教に入信する者も相次ぎます。

大阪府高槻市・・・かつてここは、キリシタン大名として知られる高山右近の領地でした。
領内からは、キリシタンゆかりの品が見つかり、キリスト教が広く普及していたことを伺わせます。
キリスト教は、広く人々に受け入れられます。
大坂城築城と同時期に、キリスト教に入信する大名が増加します。
その多くが、黒田官兵衛ら大坂に直接地縁のない武将たちでした。
天下統一に向け各地から来た彼等は、キリスト教で団結を図ったとも考えられます。
キリスト教に興味を持った人の中に、気鬱になっていた玉子もいました。

1587年秀吉の命令で、忠興は九州へ出兵!!
忠興の留守中、玉子は屋敷近くの教会へ向かいます。
これをきっかけにキリスト教に傾倒していく玉子・・・。
キリシタンの考え方は、基本的に一夫一婦制。
自分の疑問に・・・心の葛藤を解決してくれるのは一体何なのか??
それは、儒教的考えや仏教的教訓ではないと考えるようになります。
キリシタンの教えを勉強するようになります。

抑えがたい衝動にかられた玉子は、キリスト教への入信を決意し、洗礼名をガラシャに・・・。
それは、ラテン語で恩恵を意味するグラティアを意味していました。
キリシタン細川ガラシャの誕生でした。

西洋の文物は、土豪出身の戦国大名の権力を高める文化になりました。
おまけに実利がある・・・。

1587年6月、九州を平定した秀吉は驚くべき法令・・・伴天連追放令を出します。
それは、キリスト教を邪法をし、バテレンは20日以内に国外退去せよというものでした。
領内でキリスト教に深く帰依している大名たちに危機感を抱いたからです。
見せしめに南蛮寺と言われた教会が、京都をはじめ50カ所以上破壊されました。
宣教師たちの多くは、一旦長崎に逃れ、潜伏を余儀なくされます。
ガラシャは心を痛め、苦悶の日々を送ることとなります。

伴天連追放令から11年後・・・秀吉の死によって新しい展開が・・・
秀吉亡き後、天下取りに動いた徳川家康!!
これに対抗したのが石田三成!!
ガラシャの夫・細川忠興は、家康に味方しました。
家康は会津征伐のために、伏見城から京を出ました。
忠興も軍を率いてこれに従います。
忠興は、出陣に際しこう言い残します。

「ことが起きれば恥を着せられぬよう振る舞え」

これが、ガラシャの人生を大きく変えることに・・・
忠興らの出陣から間もなく、大坂で噂が立ちます。
家康に従い関東に出陣している諸大名の妻を石田方が人質として大坂城に取り入れるというのです。
時を置かず、細川邸に石田方から密かに使者が・・・

「内々に大坂城へご登城されたい」

ガラシャを人質に出し出せとの要請でした。
ガラシャは毅然と言い放ちます。

「夫・忠興のためにはどのようなことがあっても同意できません」

しかし、彼女は大きな問題を抱えていました。
登城を拒否し続けていれば、いずれ力づくで拘束に来る・・・
その時は、夫の言いつけを守り命を絶たなければならない・・・
しかし、キリスト教は自殺を神に対する罪としている!!
忠興の出陣から3週間・・・石田方は正式な使いを差し向けガラシャに登城を迫ります。
家臣たちはガラシャを守るために、細川家の重臣たちは、細川の本拠地丹波に逃がそうと考えていました。
事ここに及んでは人質になるしかないのか・・・??
それとも身をかくすのがいいのか・・・??
それとも自害する・・・??
自害を禁じているキリスト教・・・その時は、神が決めるのだ・・・!!
神はどこまで私に試練を与えるのか・・・??

1600年7月17日、石田方に取り囲まれた細川邸から火の手が・・・
ガラシャは屋敷に火を放たせ自害を選びました。

最後を見届けた侍女が後に語っています。
細川家の重臣たちが相談し、いざという時に表門で石田方を防いでいる間に、自害する手はずになっていました。
その日の夜・・・敵が門まで迫ってきたとき・・・守備隊の寝返りもあって「もはやこれまで」と、重臣に長刀で介錯させ、ガラシャは自害しました。
そしてこの様子を侍女に忠興さまに伝えるようにと逃がすのでした・・・。

潜伏していたイエズス会の神父が、焼け跡にガラシャの骨を拾いにやらせ葬儀を行ったと言われています。
イエズス会の記録にガラシャの死はこう書かれています。

”ガラシャはその死を受け入れ、強い勇気をもって主の御旨に従い、その手にあるものとして亡くなった”

キリシタンであったけれども、最期は家に殉じた自害でした。

ガラシャはその生涯を終えるにあたり、辞世の句を書いています。

”ちりぬへき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ”

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細川ガラシャ―散りぬべき時知りてこそ (ミネルヴァ日本評伝選)

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朱なる十字架

江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母として大奥で絶大な権力を握った女性・・・お福・・・春日局です。
戦国乱世に翻弄しながらも、江戸という時代を自らの手で切り開いていった女性です。

春日局の辞世の句の一つ・・・

西に入る 月を誘い 法をへて
    今日ぞ火宅を 逃れけるかな

天下取りに邁進する戦国の風雲児・織田信長が、西日本攻略の足掛かりにするため丹波を平定した1579年、その丹波国でお福は生まれました。
父は斎藤利三・・・信長の家臣・稲葉一鉄に仕える武将でした。
母・お安は一鉄の兄・通明の娘だったといいます。
多くの兄弟の末っ子として生まれたお福は、何不自由ない生活を送っていました。
しかし、時は戦国・・・その人生は乱世に翻弄されていきます。
原因は、父・利三・・・武功をあげたにもかかわらず、取り立てがないことに怒り、主君である稲葉一鉄とたもとを分かったのです。
そんな利三が次に仕えたのは、信長の重臣・明智光秀でした。
これが、お福の運命を大きく変えます。

1582年6月2日、お福4歳の時・・・あの事件が起こります。
本能寺の変!!
光秀の重臣として本能寺襲撃の戦法を命じられたお福の父・利三は、襲撃の中心メンバーとして信長を自害に追い込んだのですが、主君の死を知り備中高松から急ぎ引き返してきた羽柴秀吉の軍勢と山城国・山崎で激突!!大敗を喫した明智軍は、散り散りに逃げていきました。

お福の父・利三も大津まで逃げるも残党狩りにあい捕縛され・・・市中に引き回しの上、京の六条河原で斬首!!
その首は、謀反人として光秀と共に晒されました。
幼いお福は、母と共にその父の無残な姿を見たともいいます。
謀反人の身内となったお福と家族は苦労が絶えなかったと言われています。
母は、7人の子供を抱え・・・秀吉は、男の子を探し出し、亡き者にしようと躍起になっていました。
京都の公家・三条西家を頼って、ひっそりと暮らしていましたが・・・
京は危ないということで、土佐の長宗我部正親の正室がお福の父の義理の妹だったので、援助を受けていたのではないか??
一説によると京を離れ、正親を頼り土佐へ・・・身を隠して暮らしていたといいます。
そして・・・1588年、お福たちはようやく京都に戻ってきます。
そこには理由が・・・
秀吉が関白になり、九州平定し・・・あとは関東と東北となった時、天下を取った秀吉にとって明智の残党などどうでもよくなっていたのです。
13歳になったお福は、一鉄の妻の援助により、三条西家に奉公に出、作法を学ぶ機会を得ました。
その後、一鉄の息子・重通の養女となり同じく養子であった稲葉正成に嫁ぐこととなったのです。
1595年、この時、お福17歳。。。

稲葉正成は、お福の7つ年上で、戦国大名小早川秀秋の家老で5万石でした。
結婚の2年後、長男・正勝が誕生!!
お福にとってようやく平穏な日々が訪れました。

1600年9月15日、天下分け目の関ケ原の戦いが起きます。
お福の夫・稲葉正成は、主君小早川秀秋と共に西軍に・・・
しかし、小早川は、突然味方である西軍襲撃を命じたのです。
この寝返りが、家康率いる東軍勝利に導く大きな要因となったのですが・・・
この時、裏切りを進言したのが稲葉正成だと言われ・・・正成は、東軍勝利の陰の功労者でした。
ところが・・・その翌年、主君・小早川と対立!!
5万石の家老を捨て、浪人となって美濃国に戻ります。
こうしてお福は家老の妻から浪人の妻へ・・・
子供を連れての苦しい生活に・・・
しかし、夫・正成は、浪人の身でありながら側室をおき、子供まで設ける始末・・・
するとお福は・・・
「そとで囲うのは周りの目もあります故、その女子と子を屋敷へ呼び寄せここで育てましょう。」
ところが・・・
正成が屋敷を留守にしたとき、お福はその女子を殺害し、家を出ていきました。
どうして・・・??
浪人でありながら側室を置くことに我慢できなかったのでは??
側室殺しは後世のお話の可能性がありますが、お福が家を出たのはその通り・・・

「お福は正成に恨みがあり、まだ幼子であった正勝を懐に抱いて家を逃げ出し、城に走り入った」

夫・稲葉正成に離縁を認めさせるために、城に駆け込んだのです。
夫と離縁して、自分自身の力で生活を良くしたいという前向きな決断でした。



1604年7月17日、江戸城で2代将軍・徳川秀忠と正室・お江の間に男子が生まれました。
幼名・竹千代・・・後の3代将軍・徳川家光です。
正室は子育てをしないという将軍家の慣例に伴って、すぐさま竹千代の乳母の募集が京都で行われました。
お江にしてみれば、教養の高い京都辺りから募集したかったようです。
しかし、乳母に手をあげる者はいませんでした。
当時の江戸は未開の土地だったのです。
そこで、京都の入り口・粟田口に募集の高札を建てたと言われています。
夫と離縁して自立の道を模索していたお福は、そのうわさを聞きつけて応募します。
将軍家の乳母の条件は厳しく・・・
乳飲み子が元気に育つようによく母乳が出るのはもちろん、当時はその子の養育も任されていたので、家柄と教養も必要でした。
1604年、お福は4男・正利を出産、母乳はよく出ました。
若い頃に公家の三条西家に奉公に出ていたので、教養や行儀作法も身につけていました。
問題は竹千代の母であるお江・・・
お江は、織田信長の妹であるお市の方の三女・・・お江にとってお福は、伯父・信長を殺した謀反人の娘でした。
しかし、お福は竹千代の乳母に採用されます。
どうして・・・??
ひとつは責任者であった京都守護職の板倉勝重と三条西家が親しかったこと・・・。
そして家康の目に留まったことです。
乳母採用に関して、家康が決定権を持っていました。
家康が・・・関ケ原の戦いで西軍を裏切って東軍を勝利に導いた陰の功労者である稲葉正成の妻であったこと・・・それが魅力だったのです。

乳母となったお福は江戸城に入り、生母・お江に代わって竹千代に乳を与え育てていくことに。
そんな中、気をもんだのが、竹千代の体の弱さと食の細さでした。
お福は竹千代を強く育てるために心を砕きます。
七色飯や大食いの男が食べるところを見せたり・・・
献身的なお福に、竹千代は懐きました。

しかし、そんなお福の前に暗雲が・・・
1606年、竹千代の弟となる国松(のちの忠長)が生まれます。
お江は、乳母をおかず、自らの手で育てることにします。
一説には乳母に育てられた竹千代が、お江に懐かなかったことが原因だともいわれています。
次第にお江は国松ばかりをかわいがるようになり・・・それは単に自分が手塩にかけているというわけではなく・・・
竹千代はおっとりしていて何事にも消極的、それに比べ国松は聡明で積極的と全く違うタイプでした。
戦国乱世の息吹が残る時代、親が見てどちらが家を発展させることができるのか?・・・それは、器量が重視されました。
おまけに大坂にはまだ豊臣家が残っていました。
弱肉強食の戦国時代同様、家を守れるものを跡取りにしなければなりません。
お江は、国松の方が将軍に相応しいとかわいがるようになったのです。
そんなお江の振る舞いは、秀忠までも動かしてしまいます。
二人が国松を溺愛・・・江戸城内でも・・・
「家督は国松さまが・・・」
「今のうちに我等もそちらに・・・」
と、幕臣たちも国松の方に足しげく通うようになり、竹千代の元には訪れるものが無くなってしまいました。
こうして江戸城内は、次期将軍は国松だという機運が高まる中・・・乳母として竹千代を将軍にと頑張ってきたお福は焦ります。

1611年・・・竹千代が7歳になったその時、大胆な行動に打って出ます。
伊勢参りと偽って、江戸城を出発し、大御所・家康に会うために駿府に向かいます。
二元政治と言われていた江戸と駿府ですが、この時はまだ家康の方が力が強かったのです。
しかし、一介の乳母が家康に直訴するなど手打ち覚悟の命がけの行為でした。
そこでお福は根回しに・・・
お福があったのは、晩年家康の寵愛を受けていた側室のお六でした。
お六は、並びなき美人で器用な人で、家康公に何を言ってもすべて聞き入れられると言われていました。
この頃乳母が力を持つということは・・・特に、正室に勝つなどとはあり得ないことでした。
お福は家康が寵愛するお六を動かすことによって何とかしようとしたのです。
根回しが上手くいき、家康に御目通りが叶ったお福・・・

「どうか・・・どうか竹千代さまを、次の将軍に・・・宋でなければまた国が乱れます。」

すると家康は・・・「わかっておる・・・良きように取り計らうから、安心して江戸にもどるがよい」

それから数か月後、家康は江戸城にやってきました。
そして孫の竹千代と国松に体面・・・並んで座る二人を見た家康は、竹千代を上座に呼び寄せます。
これに国松も続こうと腰をあげましたが・・・
「上座にあがれるのは次の将軍のみである!!」
と一喝!!その場に座らせ、竹千代が次期将軍だと周りに認識させたのです。

お福にあった後、家康はお江に「訓戒状」を送っていました。
そこには長男は跡取りで別格である。次男以下は家来と同じであると辛らつな言葉を記しています。
長幼の序・・・長男と次男以下は別格であると・・・竹千代を次期将軍として別格としたのです。
今後争いが起きないように、長子相続の重要性を説いたのです。

1616年、自らの役目を終えたかのように、家康はこの世を去ります。
千代は元服し、家光となります。
1623年7月27日、徳川家光が三代将軍となりました。
この時、家光20歳!!
お福の人生も変わります。
1624年11月3日、家光が将軍となったことで秀忠は大御所となりお江と共に西ノ丸御殿へ移りました。
家光は将軍の住居・本丸御殿へ・・・乳母の春日局も共に移ります。
これによってお福は乳母という立場を越え、政治的な立場に立って行きます。

老中も大奥には容易には口出しは出来ない・・・
そして表向きの事まで・・・
将軍眼の姫君の婚姻、大名間の縁組にまで口を出すようになります。
しかし、それもすべて家光のため・・・家光の政治を陰で支えたいというお福の強い思いからでした。
お福は家光が将軍となってからも献身的に尽くします。
家光が26歳の時に疱瘡(天然痘)にかかります。
当時は命にかかわる病でした。
お福は懸命に看病しました。
さらに家康が祀られている東照宮に願掛けをします。
「上様の病をどうか、どうかお治し下さい。
 その代わり、私はどんな病にかかろうとも、今後一切薬は飲みません。」
その1か月後・・・家光は病を克服し、回復していきます。
安堵したお福は、そのお礼参りとして伊勢神宮に参詣することにします。
1629年8月21日江戸を出発・・・無事に伊勢参りを済ませたのですが、江戸には戻らず京都に向かいます。
後水尾天皇と天皇の中宮になっていた家光の妹・和子に挨拶するためでした。
この時、幕府と朝廷の間でもめ事が起こっていたので、三代将軍家光のため、少しでも緊張状態を緩和しようと考えたのです。
しかし、このお福の行動は、京都の公家にとっては由々しきことでした。
お福は家光の乳母として幕府内では大きな力を持っていましたが、朝廷から見れば無位無官の人物です。
そんな立場の者が、天皇に謁見したいと参内したので大ごとでした。
そこでお福は若い頃に奉公した三条西実条の妹と名乗り、何とか天皇と謁見したのです。
天皇からの杯を受け・・・1629年お福は「春日」の局号を賜わります。
春日は、朝廷の女官に代々引き継がれてきた由緒正しい局の名でした。
この時51歳・・・謀反人の娘から、家光の乳母となり強大な権力を得、春日局となったお福でしたがもう一つ心配事が・・・世継ぎでした。
とうの家光が、女性に興味を示しません。
家光は五摂家(近衛家・九条家・鷹司家・一条家・二条家)の鷹司家から孝子を正室に迎えますが、気に入らないと大奥から中ノ丸御殿へと移してしまいました。
お福も孝子をあまり気に入らなかったようで・・・悪く言っています。
お福は自分の手で相手を探すために、なりふり構わず奔走します。
将軍家家族の生活の場として誕生した江戸城大奥・・・
そこを将軍の世継ぎを産み育てる場所として整備したのが春日局でした。
それもまた、家光のため・・・
家光には男色の気があり、女性に興味を示さなかったからです。
それでも春日局は家光に側室をとらせたいと奔走します。
江戸市中に出ては、美女を探し出し家光に引き合わせました。
一向に女性に興味をひきません・・・

1639年・・・六条有純の娘・慶光院が跡目のお礼をするために江戸城に登城・・・
席巻した家光が、その美青年のような姿に心を奪われたのです。
春日局は慶光院を口説き落として、江戸城に留まらせます。
そして還俗させ、お万の方として家光の側室にしてしまうのです。
しかし、二人の間に世継ぎはできませんでした。
そこで春日局は、浅草浅草寺近くの古着屋の店先で、お蘭という女の子を見つけて驚きます。
その顔立ちが、お万の方によく似ていたからです。
春日局はお蘭が13歳になるのを待ち、大奥に迎え入れました。
すると狙いは敵中・・・家光はお蘭を気に入り、寵愛するようになります。
そして8年後・・・家光とお蘭の間に待望に男の子が誕生・・・
1641年、後の4代将軍徳川家綱の誕生でした。
この1か月後、徳川御三家へのお披露目の際、家綱を抱いていたのは春日局となったお福でした。
この時、63歳・・・江戸城に入ってから40年経っていました。

幕府内で、絶大な権力を誇る春日局・・・しかし、それは家光のため。
決して奢ることはなかったといいます。
しかし、一度だけ鬼になったことが・・・理由は、実の息子・・・四男・稲葉正利。
正利は家光と将軍争いをしていた忠長に仕えていたのですが、素行が悪く、駿府の細川家に預けられます。
そこでも素行は悪く・・・人々が恐れ逃げ回るほどの乱暴狼藉でした。
春日局の耳にも入り・・・しかし、正利が変わることはありませんでした。
1638年、春日局は実の子・正利に自害を命じます。
これも家光の為でした。
これ以上正利の悪行を許せば、乳兄弟である家光にも悪い噂が立つと考え、鬼になったのです。
母に自害を命じられ、ようやく目が覚めた正利・・・
「春日殿のことを思い出せば、涙が流れました。
 詫言を致します。」
改心した正利は、自害を免れたといいます。
家光のため鬼となった春日局・・・自らの信念に生きた女性でした。

三代将軍徳川家光に世継ぎが生れ・・・春日局は自らの役目を終えたと引退・・・
江戸城を離れます。
その翌年の1643年8月、春日局は病に倒れます。
自分のために薬立ちをしていると知っていた家光は・・・
「薬を飲まないより飲むことが奉公になる」と手紙を送ります。
自分のために薬を飲んでほしい・・・と。
家光の前では薬を飲んだふりをして安心させます。
しかし、家光が帰るとそれを吐き捨て、一切口にしなかったといいます。
春日局は薬絶ちを最期まで貫いたのです。

「上様が末永く健やかでおられますように・・・」

そしてそのまま春日局はこの世を去りました。
家光が春日局を知ったのは、その2日後でした。
家光は、一人嘆き悲しみ、食事も喉を通らなかったといいます。
そして7日間喪に服しました。
家康の月命日17日には毎月欠かさず行っていた江戸城内の東照宮参詣もこの時は止めたといいます。

今日までは 乾く間もなく うらみわび
           何しに迷う あけぼのの空

戦国の世に翻弄され、江戸という新しい時代を切り開いてきた春日局でした。

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戦国最強の武将とはだれか??
織田信長・・・??
しかし、江戸時代初期の軍記物「北条五代記」には・・・
最強の武将とは・・・北条氏康・武田信玄・上杉謙信と書かれています。
3人の名称のうち、一人でも長命であったならば、信長は滅亡していたはず・・・??

信長と対峙したことがあるのが上杉謙信・・・軍神毘沙門天の化身と恐れられた武将です。

決戦の場は、石川県を流れる手取川流域・・・
謙信対信長・・・氏康、信玄亡き後、戦国最強を決定づける手取川の戦いです。

謙信の猛攻の前に織田軍はなすすべなく敗れ去った・・・??
闘いの後謙信はこう豪語しました。
「織田軍は案外弱く、この分では今後天下までの道は容易であろう。」と。
しかし、織田側に記録は残っておらず、実像は明らかになっていません。
勝敗を決めたものは・・・??

”国宝 上杉本洛中洛外屏風”・・・戦国時代の京都を描いた屏風です。
これは、信長が謙信に贈ったと言われています。

屏風絵の中でひときわ目立つのは、将軍の御所へ向かう武家の行列・・・
この人物こそ、若き日の謙信だと言われています。
どうしてこのような屏風を贈ったのでしょうか?
謙信と信長・・・二人の関係は古く、最初の交わりは、この屏風を贈った日から10年前です。
この時謙信は35歳、川中島の戦いで武田信玄との争いを繰り返していました。
31歳の信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破り、隣国美濃攻略に力を注いでいました。
謙信に宛てた信長の書状には・・・
”我が息子を養子に迎えても構わないとの由、まことに光栄の至り、今後もご指導を仰ぎたい。”
この養子縁組は実現していません。しかし、謙信に対する信長の低姿勢は何を意味するのでしょうか?

この時、信長は尾張を治めて、謙信は越後を治めていました。
関東管領上杉家の名跡を、謙信はそれ以前に継いでいました。
室町時代の家の格としては、圧倒的に上杉の方が上だったのです。
当時のルールとしては、信長が謙信に対して丁寧に手紙を書くのは当然のことでした。
謙信が就任した関東管領とは、関東諸国の政務長官で、将軍が直接任命する室町幕府の要職でした。
二人の関係は、1568年に信長が足利義昭を奉じて上洛した後も、変わっていません。
信長は謙信にこう報告しています。

”将軍様ご上洛の件、信長はお供することを請け負っただけです。”

信長の謙信に対する気遣いが伺えます。
しかし、やがて軋轢が生じ始めます。
契機となったのは、戦国時代最強と言われた武田信玄の死でした。
当時信玄は、信長と謙信共通の敵・・・信長の同盟者徳川家康は、三方ヶ原の戦いで信玄に大敗を喫していました。
武田軍は、徳川領に侵攻・・・そのさなか、信玄が病没したのです。

英雄信玄の死で、武田の領国は揺らいでいました。
謙信と信長に好機が・・・!!
この機を逃すまいと、謙信は信長に申し入れます。

「畿内のことより、武田に対する軍事行動に精を出すべきである。」

互いに協力して武田領に侵攻することを提案したのです。
1574年武田勝頼が、信長の領国・東美濃へ侵攻。
信長軍は武田軍を迎え討ちます。
その時謙信は、越後から雪の峠を越え、武田領の西上野に侵攻しました。
これによって武田軍は織田領から撤退・・・謙信・信長の共同戦線は成功したかに見えました。
しかし・・・謙信は信長を救援する為に苦労して出兵したにもかかわらず、何の例もないことに腹を立て、これを遺恨としました。
洛中洛外図屏風は、謙信の怒りを収めるために、信長が贈ったものと考えられています。

翌1575年、信長が武田領にへの共同戦線を謙信に持ちかけます。
が、謙信は武田領でなく、越中へ出兵!!
これには信長も黙っていません。

「約束を違えるのは世間体が悪く、無念です。」

謙信に恨み言を述べ、批難しています。
謙信と信長・・・二人の行き違いは、やがて決定的なものとなっていきます。

1575年8月、信長は大軍勢を率いて越前に侵攻。
長年信長と対立していた一向一揆を滅ぼすためです。
一向一揆とは、本願寺門徒宗を中心とした民衆の連合で、その勢力は、戦国大名に匹敵していました。
この時信長は、驚くべき手段に打って出ます。

山林までわけ入り、男女問わずことごとく切り捨てよと命じました。
結果、生け捕られ斬首された人は併せて3、4万にももぼったと言われています。
一方謙信は、それまで敵対関係にあった加賀一向一揆と和睦。
謙信と和睦した加賀一向一揆の拠点だった鳥越城・・・。
鳥越城は、加賀一向一揆が織田軍の侵攻に抵抗する為に築かれたと考えられ、後に壮絶な攻防戦を行うこととなります。
最新鋭の武器・武具を備えていて、戦国大名の軍勢に全く劣らない強い軍事力を持つ加賀一向一揆・・・。
江戸時代の一揆と、戦国時代の一向一揆は全く異なっていました。
越前一向一揆を力で殲滅した信長・・・。
信長と相反するように、手を結んで加賀へ進出した謙信・・・。
両者の勢力のさかいを接したことで、二人の対立は避けられないものとなっていきます。

信長がしかけます。
越前を平定した後、信長は朝廷から権大納言・右近衛大将を授かります。
これは、武官の中で最高位と見なされる官職で、朝廷は信長を武家のTOPと認めたのです。
謙信の関東管領を凌ぐ信長の官位・・・
朝廷権威を背景に信長が謙信より優位に立とうとした現れです。
謙信は外交政策に力を注ぎます。
信長に追放された足利義昭の妖精に応え、毛利や武田、本願寺と組んで信長包囲網を形成します。

対する信長は経済封鎖を行います。
三国湊に謙信の勢力圏から船が入ることを禁じています。
これは、荷留と言われる信長の経済戦略でした。
謙信は3万の兵を率いて能登へ侵攻。
能登を支配していたのは名門畠山氏・・・
謙信は畠山氏が信長と手を組むことで背後が危うくなることを避けようとしたのです。
畠山氏の居城・七尾城・・・いくつもの尾根に郭が築かれた山城です。
標高およそ300mに築かれた七尾城・・・
東西1キロ、南北2.5キロ・・・日本屈指の巨大城郭です。
城内から出土した天目茶碗・・・都の華やかな文化が日本海経由で持ち込まれていました。
城の麓に総構えが・・・。
総構えとは、城下町も含め、城の外郭を囲んだ堀のことです。

謙信には、城攻めに失敗した苦い経験がありました。
1561年小田原城の戦いで、謙信は力攻めするも、落とせなかったのです。
七尾城も、力づくで落とせるような城ではない・・・七尾城の周囲を守る畠山氏の城を攻略!!
能登の港を押さえることで、制海権をとることで、七尾城の孤立を図ります。
七尾城の大きさが、謙信の戦法を変えさせたのです。
謙信にその戦法までも変えさせた七尾城・・・
信長と決戦が近づく中、どうしてもこの城を落とさなくては・・・!!
同じころ、信長は謙信との戦いに向けて、配下の武将たちを集めていました。
柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家・・・
そうそうたる顔ぶれで、兵力は4万8000!!
ここに、戦国最強をかけた戦いが始まろうとしていました。

1577年7月、謙信は3万ともいわれる軍勢で、七尾城へ向けて出陣!!
その頃、七尾城では重臣たちが上杉派・織田派に分かれ、対立していました。
織田派の重臣は信長に援軍を求めます。
出兵の大義名分を得た信長は、謙信討伐を決意!!
謙信VS信長・・・月に直接対決の時が・・・!!
しかし、出陣の直前・・・突然、信長に従っていた松永久秀が大和で挙兵!!
この謀叛には、謙信が関わっていたという資料も・・・!!
こうした不穏な状況により、信長は出陣せず、総大将・柴田勝家のもと織田軍の大軍勢が七尾城に向けて出陣!!
まもなく七尾城を攻めあぐねる謙信のもとへ織田軍侵攻の報せが届きます。
このまま七尾城を落とせないと、織田と畠山に挟み撃ちにされる・・・!!
織田の大軍勢が迫る中、普段することのない謀略を試みています。
七尾城内の上杉派に送られた謙信の書状には・・・

信長派の一族親類を討ち取って城をとれば七尾城主にする・・・!!

一方七尾城に進軍する織田軍にも問題が生じていました。
総大将・柴田勝家といさかいを起こした羽柴秀吉が、勝手に手勢を率いて帰国してしまいました。
一枚岩ではなかったのです。

9月15日、七尾城に内紛が勃発!!
謙信の謀略が功を奏したのです。
これを機に、上杉派の重臣が上杉軍を城内に引き入れ織田派をことごとく討ち果たしました。
ついに謙信は、七尾城を手に入れたのです。
七尾城に進軍を続ける織田軍は、まだそれを知らない・・・。

七尾城を手に入れた謙信・・・織田の大軍勢をどうするのか・・・??
平地決戦をするか??それとも籠城か・・・??

1577年9月10日、加賀に侵攻した柴田勝家から興味深い報告がされています。

今日まで七尾城からの使者が一人も来ない・・・
地元の百姓が、ことごとく謙信に味方するため、七尾への通路がふさがっているようである・・・

謙信は、七尾城周辺の街道を封鎖!!これによって、織田軍には情報が一切入っていなかったのです。
謙信が七尾城を落とした3日後の9月18日、織田軍は加賀・手取川近辺に到着!!
手取川・・・日本の中でも特に急流な川の一つです。

手取川は、歴史上何度も氾濫を起こし、人々に甚大な被害を与えてきました。
島集落は、避難場所の名残です。
9月23日、織田軍に七尾落城の報せが届きました。
総大将・柴田勝家は、謙信の襲来を恐れ全軍に撤退を命じます。
しかし、織田軍は、まだ気づいていませんでした。
謙信は手取川に向かって軍を進めていたのです。
謙信は、平地決戦を選びました。

謙信は織田軍に攻めかけます。そして1000人余りを討ち取ります。
撤退しようとする織田軍を手取川に追い込んで、大雨続きで溢れんばかり川が行く手を阻み、人馬もろとも流されました。
戦いのあった日は11月上旬に当たります。その頃、それほど水量があったとは思えません。
しかし、膝まで水があったとしたら、それだけで足がとられてしまうような流れでした。
その上、大きめの石がごろごろしており、駆け抜けることは不可能でした。
撤退のために川を渡ろうとする織田軍は、急流に足をとられ行軍は進みません。
そこに上杉軍が背後から攻撃を仕掛け、織田軍の多くが討ち取られたのが真相では・・・??
勝利した謙信は、家臣にこう送っています。

「信長は案外弱く、この分では今後天下までの道のりは容易であろう。」

他の資料でも・・・
「謙信が加賀へ攻め入り、一向宗徒もこれに加勢した。
 この時、敵800人ばかり討ち取った。」
戦いの後、両軍は手取川を挟んで睨み合います。
しかし、互いに攻め込むことはありませんでした。

この時、謙信にも誤算が・・・

謙信は手取川の戦いに信長が出陣していると思い込んでいました。
謙信は12月まで七尾城に留まります。
その間3か月・・・謙信にとって手取川の戦いは信長との決戦を意味していました。
しかし、そこに信長の姿はなかったのです。
謙信が七尾城に留まり続けたのは、信長の出陣を待っていたのかもしれません。

しかし、信長は畿内周辺に留まり、謙信が待つ七尾城に向かうことはありませんでした。
12月18日、謙信はようやく越後に帰国。
謙信の家臣が謀反を起こしたためです。
上杉家の内紛を狙った信長の謀略ともいわれています。
謙信は織田軍との戦いを睨んで軍を編制・・・翌年を予定していましたが・・・
1578年3月13日、謙信死去・・・享年49歳でした。
謙信対信長・・・戦国最強の直接対決は実現せず、幻に終わったのです。

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<上杉謙信と戦国時代>蜜月の終わり 織田軍を圧倒!手取川の戦い (歴史群像デジタルアーカイブス)

<上杉謙信と戦国時代>上杉謙信と上洛の夢 (歴史群像デジタルアーカイブス)

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群雄割拠の戦国時代、並み居る強敵を退けて天下統一に王手をかけたのが織田信長です。
しかし、その戦績を見ると・・・
上杉謙信・・・64勝8敗36分
武田信玄・・・54勝6敗22分
織田信長・・・151勝42敗9分
と、負け戦が多いのです。

どうして信長は戦国の世を征することができたのでしょうか??
その理由は旗印にありました。
描かれているのは・・・「永楽通宝」・・・どうしてお金を旗印にしたのでしょうか??
それは、銭の力で天下を取る・・・信長の圧倒的な力は経済力だったのです。

1559年尾張国を平定した織田信長は、桶狭間の戦いで駿河・遠江を支配する今川義元に勝利し、天下に名をとどろかせます。
その勢いはとどまることを知らず、美濃の斎藤龍興を責め難攻不落と言われた稲葉山城を制圧!!
岐阜城と改めて新しい居城としました。
天下統一に邁進する信長・・・この時34歳!!
しかし、まだまだ並の大名にすぎず、武田信玄や上杉謙信の足元にも及びませんでした。

1568年、室町幕府の再興を願う足利義昭から支援を要請された信長は、義昭を擁して上洛。
6万もの兵を以て京を制圧し、義昭を15代将軍に就任させます。
大いに喜んだ義昭は、褒美をとらせることに・・・

「此度の礼として畿内5か国の管領に任ぜよう」by義昭

信長にとっては大変な出世でしたが・・・「身に余ること」と辞退してしまいました。

義昭は・・・「管領で不足ならば、副将軍ではどうじゃ」

それでも信長は首を縦に振りません。
何が欲しいのか・・・??

「堺・大津・草津に代官を置かせていただきたい」by信長

代官を置くとは、直轄地にすることで・・・義昭はそれをあっさりと認めました。
どうして信長は副将軍の座より3つの町を選んだのでしょうか??

足利将軍に取り入れられることを拒否し、銭の力で天下統一を果たそうとするマネー戦略の一つでした。

信長のマネー戦略①地位より港町
堺は、日本最大級の港町で、物流の拠点でした。
日明貿易や南蛮貿易の外国船も数多く入港し、国際商業都市として大いに発展。
それは、京都をもしのぐ繁栄と言われ、フランシスコ・ザビエルは
「日本の殆どの富がここに集まっている」と言っています。
一方、大津と草津は、琵琶湖水運港町でした。
当時、京都と日本海を行き来するためには、琵琶湖水運で船を使うのが一般的でした。
そのため、大津と草津には、常に多くの人や物が出入りしていたのです。
信長が、義昭に所望した場所は、いずれも物流の拠点となる港町でした。
当時は、船の積み荷に関税を課していました。
大きな港となれば、莫大な関税収入を得ることができました。
これが、信長の軍資金となりました。
越後の上杉謙信の場合、柏崎港と直江津港からの関税収入は、年間4万貫・・・約60億円でした。
堺や大津などは、莫大になったでしょう。
副将軍より三つの町を選んだ理由は、港町からの莫大な税収を、軍資金にして天下を取るためでした。

1534年、信長は尾張国守護代重臣の織田信秀の長男として生まれます。
守護代とは、守護大名を補佐する立場で、尾張には二人いました。
信秀は、その守護代のひとりに仕える重臣のひとりにすぎませんでした。
信長が生まれた頃から急激に勢力をつけていきます。
そこには圧倒的な経済力がありました。
信秀は、勝幡城近くにある津島近くの港町を支配下に置いていました。
木曽川沿いの津島は、伊勢湾水運の要所で、多くの船が出入りしていました。
信秀は、ここに出入りする船に関税をかけ、莫大な収入を得ていました。
さらに信長が生まれた年には古渡城を築城、それによって伊勢湾水運によって栄えていた熱田湊の関税収入を手に入れます。
すると信秀は、伊勢神宮の下宮の仮殿造営費のために700貫(1億円)を献上。
四千貫(6億円)を京都御所の修理に献上。
圧倒的な経済力を相手に見せつけることで圧倒!!
ついに、尾張国の実質的支配者となるのです。
そんな父を見て育った信長は、「武力に勝るものがある」ことを、知っていたのです。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った翌日、信長は清須城で論功行賞を行いました。
真っ先に一番槍をつけた服部春安か、一番首の毛利良勝が一番手柄だろうと考えていました。
ところが、信長が一番の褒美を与えたのは戦場では目立った活躍もしていない簗田政綱でした。
簗田は信長への情報提供・・・戦った武将たちよりも情報を届けた簗田の方が手柄が上だと考えたからです。
戦国の世に置いて、武力だけにとらわれない信長は、革新的な経済政策を打ち立てていきます。

信長のマネー戦略②楽市楽座

美濃国の戦国大名・斎藤龍興を退けて岐阜城に入った信長は、1568年に岐阜城下に「楽市楽座令」を発布します。
「市の独占、座の特権は全く認めない」
市=商売を行う場所のこと。
当時は、定められた市でしか商売ができず、一の多くは寺社の境内や門前に開かれることが多く、商人たちは寺子銭(場所代)を払わなければなりませんでした。
座=商品の独占販売権を持つ同業者組合のこと。
商人たちはどこかの座に所属しなければ商売ができませんでした。
座を保護している公家や寺社に冥加金(売上税)を払わなければなりませんでした。
信長はこれらを自由化してどこでも商売ができるようにし、以前よりも安く設定した売上税のみを信長側に支払うように命じました。

楽父楽座は、南近江の戦国大名・六角義賢が観音寺城で始めたもので、信長よりも20年ぐらい早く始めていました。
更に進化したものを行った信長です。
信長の経済改革によって岐阜城下には多くの商人が集まりました。
経済は活性化し、城下町が急速に発展!!
信長には売上税ががっぽり!!
しかも、城下町のおかげで人材や物資の確保がしやすく、天下取りの土台と考えていました。

この楽市楽座には、信長の大いなる野望が隠されていました。
”天下布武”という言葉の意味は・・・
鎌倉時代以降の日本は、公家、寺家、武家の3つの権門がけん制し合っていました。
公家や寺家が莫大な税収に寄って武家に対抗できる大きな権力を持っていたのです。
信長は、公家や寺家の介入を許さない、純粋な武家政権の樹立を目指していました。
公家や寺家の既得権益を奪い、経済力を低下を図ったのです。
そして、商人たちを信長の味方につけることに繫がりました。

さらに関所を撤廃。
これもまた天下布武のためには外せません。
戦国時代の関所は税関で、公家や寺社が自領の荘園内を通る道に勝手に関所を設けていました。
通行税を課して、大きな収入源としていたのです。
そのため、関所の数は膨大で・・・
荘園が入り組んだ淀川河口から京都までの50キロの間に、380カ所もありました。
ひどいところでは、1里の間に40カ所もありました。
行商人は大変で・・・上乗せした値段が高くて商品が売れないという悪循環も・・・
そこで信長は、1568年頃から関所の撤廃を始めます。
公家や寺社の資金源を断ち、商品をスムーズに動かし経済を動かしました。

信長のマネー戦略③交通インフラの整備

戦国時代、通常戦国大名たちは敵を警戒して居城辺りはわざと悪路にしていました。
橋も架けない・・・そんな常識を・・・
1574年、命令を出しています。
・入り江や川には船を並べた上に橋を架け、意志を取り除いて悪路をならせ
・本街道の道幅は、3間2尺(約6.5m)とし、街路樹として左右に松と柳を植えよ
・周辺の者たちは道の清掃と街路樹の手入れをせよ

交通インフラの整備によって商品流通を活性化させ、財を成した商人たちから多くの税を集めることが目的でした。
道を通りやすくすることで敵に攻められやすくなる・・・そのことを、圧倒的な経済力によって強化しました。

兵農分離・・・当時の多くの兵士たちは、半農半兵の地侍でした。
普段は村に住んで田畑を耕し、合戦が始まると戦場に駆り出されていました。
そのため、農繁期の秋には出陣もままならず、長期遠征も困難でした。
「戦に専念できる兵士が欲しい」
そこで、信長が目をつけたのが、地侍の次男、三男でした。
当時は調子相続が原則で、次男、三男は長男が亡くなった時の控えで、家を継ぐことはありません。
そんな次男、三男を召し抱え、親衛隊を結成しました。
親衛隊が活躍すると、兵農分離を強化します。
召し抱えた兵士たちを城下町に住まわせて、武器ごとに集団訓練をさせます。
高い組織力と機動力で強くなっていきました。
農業からから切り離した兵士たちに生活費を支給しなければならない・・・経済的な負担は大きいものでしたが、それを実行できたのは、信長が様々な税によって収益を得ていたからです。
信長の経済力がなさせた・・・天下統一への大きな要因の一つでした。

火縄銃・・・信長が10歳の時、1543年にポルトガルから種子島に伝来。
しかし、強力な新兵器としてみなが興味を示すも普及しませんでした。
その理由は・・・
①弾を込めるのに時間がかかる
②非常に高価だった
からです。
鉄砲1挺=1丁30金・・・およそ50万円しました。
信長は、鉄砲を重視していました。
19歳の時に引き連れていた親衛隊は、500挺の鉄砲を持っていました。
そして、その鉄砲が活躍したのは、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いでした。

兵の数こそ織田・徳川軍が大きく上回っていたものの、武田軍には戦国最強の騎馬軍団がいました。
そこで信長は、今のお金で15億円という大金を使って3000挺の鉄砲を購入し、騎馬軍団に対抗しました。
一発撃つごとに先頭を交代し、連射を可能にしたともいわれています。
これによって長年の宿敵・武田軍を撃破!!
天下取りに大きく近づきました。
強大な経済力と境を手に入れていたこと・・・この二つが鉄砲を大量に手に入れることができた理由でした。
堺は鋳物文化が盛んであったこと、そして日本では作ることのできない火薬である硝石を手に入れやすかったことが、信長が鉄砲を存分に使えた理由でした。

信長のマネー戦略が武力に勝った瞬間でした。
その経済力のたまものの兵器・・・鉄鋼船です。
1570年、寺社勢力を削ごうとする信長に対し、石山本願寺の蓮如が立ち上がります。
各地で一向一揆が勃発!!
激闘を繰り広げるも、蓮如は次第に追いつめられていきます。
すると・・・中国地方の有力大名の毛利輝元に援助を要請!!
毛利水軍700艘を本願寺に・・・補給のために大坂湾に差し向けます。
信長は、これを阻止する為に300艘を大坂湾に・・・しかし、あえなく撃退・・・。
毛利水軍焙烙火矢(焼夷弾)によって多くが焼かれてしまいます。
信長は、配下に置いていた伊勢志摩水軍に燃えない船を作れと言明!!
こうして作られたのが鉄鋼船です。
全長23mの巨大な船でした。
当時、鉄鋼は高価なので、船全体に貼ることは莫大なお金が必要でした。
それを作ってしまった信長・・・経済力は相当なものでした。
この頃、鉄鋼船は世界中にどこにもなく、信長が初めてでした。
鉄鋼船は、焙烙火矢にはびくともせず、多数の銃を搭載していたので圧倒的な力で毛利を撃退!!
2年後の1580年には石山本願寺が降伏しました。

信長のマネー戦略④居城の移転
一所懸命・・・当時の武士たちは一つの場所でその土地を命をかけて守るというものでした。
そして、その土地をめぐっての戦いで・・・土地が最も大切でした。
そのため、自分の土地を離れる者はおらず、武田信玄、上杉謙信も一度も城を移してはいません。
しかし、信長は那古野城、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と、4回も城を変わっています。
理由は・・・22歳の時父から譲り受けた那古野城から清須城に移転したのは、清州が尾張国の中心だったからです。
8年後に小牧山城に移ったのは次の侵略目標の美濃に近いからでした。
美濃を攻略するとそのまま岐阜城に。
次には安土城に・・・更なる領地拡大の拠点とするため、最前線に城を築いたのです。
兵農分離のなせる業でした。

新しく城を築くには、莫大なお金がかかります。
城下町を拡大すれば、経済が活性化し、税収がアップする・・・城下町を作り、拡大し、より多くの税収を集めるために居城を移転しました。
満を持して・・・安土城!!
1576年1月・・・信長は標高200メートルの安土山に築城を開始。
この時43歳でした。安土を選んだ理由・・・
中京経済圏、近畿経済圏の両方に目を光らせ、琵琶湖を使えば京都に半日で行けること。
中山道、近江商人と伊勢商人が行き来する八風街道・・・商品流通の要所・・・経済的な発展も狙っていました。
城下町も整備し、商人たちの誘致にも知恵を絞ります。
「安土山下町中掟書」には・・・
・城下町を楽市楽座とする
・往来する商人は必ず安土に立ち寄らなければならない
・他所からに転入者も従来からの住人と同じ恩恵が受けられる
・馬の流通は安土で独占する

人々を呼び集めるために政策が書かれていました。
城にも・・・完成した安土城は七層の壮大なものとなりました。
最上階は内も外も金で輝いていたといいます。
信長はこの城を、盂蘭盆会でナイトアップ!!
人々は集まり、信長の威厳と力を目の当たりにしました。
信長は、安土を京都や堺に並ぶ大都市に成長させました。
天下統一がなされたときには、安土に遷都を考えていました。
安土城には天皇を迎えるための御幸の間がありました。
そして、その御幸の間は信長の天主よりも低いところにあったのです。
天皇をも凌駕する存在になろうとしたのでは・・・??
お金の力で天下を取る・・・それを現実のものにしようとしていた信長・・・
1582年6月2日、京都本能寺で明智光秀に襲撃されあえなく死去。
光秀は、天皇をも超える存在になろうとしていた信長を危惧し、今何とかしないと大変なことになる・・・そう考え謀反を起こしたともいわれています。
巧みな経済感覚で時勢を追い、戦乱の世を征した信長でしたが、光秀の心までは読めませんでした。


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