日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:織田信長

織田信長が、豊臣秀吉が、徳川家康が・・・天下統一を目指して熾烈な戦いを繰り広げた戦国時代・・・彼らの戦場は陸だけではありませんでした。
その一つは・・・海!!
軍船対軍船の戦い・・・その数多ある水軍の戦を勝ち抜き、遂には天下人に恐れられた海の侍たち・・・それが村上海賊です。
当時日本にいたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、村上海賊のことを日本最大の海賊と評しました。
天下取り目前の信長を、海の戦で完膚なきまでに打ちのめすほどの力を持っていたからです。

近畿、中国、四国、九州に囲まれた瀬戸内海・・・この海は、古くから西国と大坂・京都を結び、年貢や交易のための物資が行き交う大動脈でした。
戦国時代はその沿岸に、周防・長門の大内氏、伊予の河野氏、安芸の毛利氏、それぞれが領土の拡大を目指す戦いの場でもありました。
そんな瀬戸内海を拠点としていた村上水軍・・・その名を一躍とどろかせたのが、海の桶狭間でした。

広島県廿日市市にある厳島神社・・・
海に立つ鳥居で知られ、国保であり、世界遺産です。
この宮島と呼ばれる静かな島が、かつて戦の舞台となりました。
1555年厳島の戦いです。

領国の拡大を狙う毛利元就と、大内氏の重臣で、実質的に権力者だった陶晴賢が厳島で激突したのです。
晴賢は前年に元就によって奪われたこの島を取り戻すために、毛利軍の拠点宮ノ尾城に襲い掛かります。
大軍の敵に囲まれ窮地に追いやられた毛利軍・・・もはやこれまでか!!と思われたその時、数百艘の水軍が現れ陶の水軍を急襲したのです。
これこそが、村上海賊・・・!!
つながりの深かった毛利の援軍として参加したのです。
村上海賊は、瞬く間に陶の海軍を撃退!!
形勢は逆転し、毛利軍の逆転勝利となりました。
奇襲によって形勢が逆転したことによって勝利したことで、織田信長が今川義元に奇襲作戦で勝ったことになぞらえて、後に海の桶狭間ともよばれるようになりました。
陶の水軍を一気に破った村上水軍・・・
その強さの秘密とは・・・??

①船乗りとして優れていた
島が入り組んで、狭い水路、複雑な潮の流れなど難所の多い瀬戸内海で、船を自在に操る高い航海技術を持っていました。
さらに、彼らの使う軍船の強さ!!
当時、大名らが使用する軍船の主力となったのが、全長20mを超える安宅船と呼ばれる大型船で、兵士が乗り、弓矢や槍などで戦いました。
もちろん、村上水軍も安宅船を使っていましたが、違ったタイプの船を駆使していました。
その一つが小早船です。
安宅船は大型船だったので、小回りが利かず、容易に方向転換ができないという弱点がありました。
村上水軍は、全長5mの小早船を操り、スピードと縦横無尽の動きで敵船を攻めました。
もう一つが中型船の関船です。
その鋭い船首で体当たりし、敵船を破壊、時には敵を沈没させました。
こうして海を知り尽くして多様な船を使いこなしていた村上水軍は、瀬戸内海で無敵の存在となっていきました。

村上氏の始まり
・平安時代の村上天皇が祖
・南北朝時代に北畠氏の一族が村上と名乗った
しかし、その出自は定かではありません。

村上家は三家に分かれていました。
因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏です。
この三家は連携しながら沿岸の諸大名と手を組んで拡大していきます。
中でも、海の戦国大名と呼ばれ、大きな力を持っていたのが能島村上氏当主・村上武吉です。

今に伝わる陣羽織があります。
架空の動物で赤面赤毛で猿に似た猩猩の血の色と言われる真赤な生地に、背に記された丸に上の文字は村上家の家紋・・・
これを身にまとい、瀬戸内海をわがものにしていた人物こそ、村上武吉です。
1533年に生れました。
若くして沼島村上家の当主となり、後に能島殿と呼ばれ畏れられる存在になっていきました。
人々は、武吉の何を畏れたのでしょうか?

それは、拠点とした能島にありました。
能島の周囲は850mほど・・・小さな島で今は無人島となっています。
潮の流れが早く、海は渦を巻き、船を近づけることができません。
能島は敵が攻められない天然の要塞だったのです。
能島と鯛崎島が城となっていて、築城は14世紀半ばと考えられています。
能島城は、小さな島全体を城としていますが、上から本丸、二の丸、三の丸、ハナには曲輪・・・
周りが急斜面で切岸となっています。
基本的なお城の構造を島全体で作っていました。

残っている岩礁部分に空いた穴は、船を停めておく杭を刺した穴で、島にはこのような穴が400ほど残っています。
能島村上海賊が大規模だったことがわかります。

敵から攻められにくい天然要塞である能島を拠点に、多様な船を駆使して瀬戸内海に君臨した村上海賊の棟梁・村上武吉・・・
武吉が周囲から恐れられたもう一つの要員は・・・経済力でした。
武吉が能島村上氏の当主となる前は・・・その名の通り、航行する船を襲っては抵抗すれば殺害してでも積み荷を奪う海賊行為を行っていました。
しかし、武吉が当主となると、配下の海賊たちに言い放ちます。

「これからは船を襲うことは許さん!!」

武吉は、略奪行為を一切やめさせました。
その代わりに航行する船から通行料である帆別線を徴収します。
金を支払えば、村上海賊の勢力圏での安全を保証・・・通行料は船の帆の大きさで決められたといいます。
さらに武吉は、上乗りという警護も担当します。
村上海賊が依頼のあった船に乗船するというもので、上乗りが言えば顔パスで、襲われることも通行料を撮られることもありませんでした。
その見返りとして警護料を支払わせたのです。
それらの収入を合わせると、一説には戦国大名の石高に匹敵するといわれています。
武吉は、無敵の水軍と、戦国大名に匹敵する財力を持っていたのです。
それで、周囲から畏れられたのです。
武吉は、瀬戸内海の船の航行を牛耳ることとなり、瀬戸内海の支配者となりました。

1576年、瀬戸内海を支配する村上海賊の頭領・村上武吉に大大名となっていた毛利輝元が、要請します。
「大坂に行ってもらえぬか・・・??」
「大坂・・・??」
輝元が、どうして大坂行きを武吉に要請したかというと、そこには織田信長の存在がありました。

天下布武を掲げる織田信長にとって、長年の障害となっていたのが浄土真宗の総本山・石山本願寺でした。
宗主の顕如率いる本願寺が、10万人の門徒を従え、畿内を中心に一大勢力を築いていたからです。
何としてでも畿内をわがものにしたい信長は、石山本願寺を攻め、遂に寺を包囲して兵糧攻めにします。
それによって、本願寺は兵糧が無くなり風前の灯火に・・・。
この本願寺の危機を知った輝元は、援軍を送ることに・・・!!
本願寺に送る大量の武器や食料を積んだ輸送船の警護を村上水軍に依頼したのです。
要請を受けた武吉は、嫡男・元吉を大将にして村上海賊を大坂に向かわせました。
その数、毛利水軍と合わせておよそ800艘・・・!!
そして、遂に大阪湾から石山本願寺の脇を流れる木津川の河口にやってきたところで200艘の織田水軍と当たります。
世にいう第一次木津川口の合戦です。
その結果は・・・村上水軍を任された元吉が、毛利輝元に報告しています。

”織田の船をことごとく焼き崩しました
 敵方を数百人は討ち取りましたので、首実検のために揃えてお持ちします”

村上海賊との連合軍が、織田水軍に圧勝したのです。
どうして村上海賊は圧勝することができたのでしょうか?
「信長公記」にはこう書かれています。

”海上はほうろく、火矢などと云う物をこしらえ、お味方の船を取籠め、投げ入れ、投げ入れ、焼き崩し、多勢に敵わず”

ほうろくが、織田水軍に有効だったのです。
村上海賊の特色は、ほうろくという小型爆弾のようなものを用いていました。
それ以外にも、村上水軍は
熊手・・・敵や物をひっかけて自分の方に引き寄せる
袖がらみ・・・棘がついていて、相手の衣服に絡めて相手の動きを封じる
村上海賊の勝因は、多様な武器に加え、様々な船による組織的な攻撃力でした。

その戦法は・・・
①射手船・・・火矢や銃弾で混乱させて相手の反撃能力を奪う
②ほうろく船・・・ほうろく玉を投げ入れて、敵船を炎上させる=船は瞬く間に炎上
③武者船・・・兵たちが敵船に乗り込み、敵兵を海に追い落とす
これで織田水軍を壊滅的に追い込んだのです。
海での戦術に優れ、ほうろく玉などの秘密兵器を駆使して圧勝していたのです。
こうして食料や武器などを石山本願寺に届けた村上海賊と毛利水軍の連合軍は、意気揚々と西に帰っていきました。

木津川口の合戦で、織田水軍に勝利した村上海賊の村上武吉・元吉親子は、毛利氏から令嬢が贈られるなど、信頼が厚くなっていきます。
そんな中、木津川口の合戦から2年後の1578年・・・
石山本願寺攻略に執念を燃やす織田信長が、またもや本願寺の兵糧攻めを開始しました。
そして毛利氏は、本願寺に援軍を送ります。
再び村上海賊の出番となりました。
この時は、当主である武吉自らが600艘を率いて、毛利水軍と共に大坂へ・・・!!

ところが、木津川の河口についた武吉は愕然とします。
武吉が目にしたのは、今までに見たこともない異様な船でした。
第一次木津川口の戦いで村上海賊に完膚なきまでに叩かれた信長は、ほうろく玉の攻撃に耐えうる船の建造を志摩の領主であり海賊の頭領・九鬼嘉隆に命じていました。
そこで完成したのが鉄甲船でした。

「多門院日記」によると・・・
”人数五千程乗る横に七間、縦へ十二、三間もこれあり 鉄の船なり”

それは、横幅13m、全長23m、5000人もが乗船できる鉄の船でした。
これを6艘も作らせていました。
銃弾が通らないように、部分的に鉄で船を装甲していたのです。
こうして第二次木津川口の合戦が始まりました。
村上海賊は、ほうろく玉攻撃を繰り出しますが・・・
厚い鉄板で跳ね返され、織田水軍の鉄甲船に全く歯が立ちませんでした。
さらに、信長にはもう一つの秘密兵器が・・・
近づいてくる村上海賊を引き付けて・・・鉄甲船には大砲が装備されていたのです。
その一斉砲撃を受けると、村上海賊は撤退を余儀なくされました。
海戦では無敵だった村上海賊が、最新鋭の武器の前に敗れ去ったのです。
この敗戦を機に、毛利氏の瀬戸内海での影響力が弱まり、2年後の1580年に石山本願寺は織田信長に明け渡されることになります。

当然村上海賊にも、信長による懲罰が待ち受けているはずでした。
武吉と元吉の元に信長から書状が届きます。

”望む事これ有るにおいては いささかも異議なく候 その意を成すべく候”

なんと信長は、希望があれば何でも聞くという寛大な姿勢を示したのです。
どうしてでしょう・・・??
信長は、軍事力に関して陸上は毛利氏に勝っていると考えていましたが、海上の水軍力については毛利氏に劣っていると認識していました。
そこで、武吉の軍事力は織田に欠かせないと考えていました。
そして毛利攻めを任せていた秀吉に対し、村上武吉への調略を命じます。
それを受け秀吉のにこう伝えます。

”能島殿が信長公に味方するなら、所領は伊予十四郡はもちろんの事、四国全土を与えてもよい”

それは、秀吉の常套手段でした。
過大な条件を出して誘いをかけたのです。
一族のごたごたも利用・・・
当時、武吉と元吉の間に隙間風が吹き始めていました。
元吉を揺さぶります。
秀吉は、村上三家の団結を崩そうとも考えていました。
同じように、因島村上氏・来島村上氏にも仕掛けていました。
すると来島村上氏が織田側に寝返ります。
それでも武吉は、信長、秀吉の誘いに首を縦に振りませんでした。
あくまで毛利氏に追従する道を選んだのです。
その理由とは・・・??
毛利氏の必死の引き留め工作がありました。
武吉は、毛利氏と強い絆で結ばれていたため、裏切れなかったのです。

信長・秀吉の誘いを蹴った能島村上氏の武吉ですが、来島村上氏が織田方に寝返ったため、村上家は結束を欠くことに・・・
これで織田軍の毛利攻めが易くなる・・・!!
そんな矢先、1582年6月、家臣明智光秀の裏切りによる本能寺の変で信長が自害!!

これで村上海賊の宿敵が無くなった・・・??新たな敵が現れました。
羽柴から豊臣となった秀吉です。
信長亡き後、天下人を狙う秀吉は、中国、四国、九州を支配下に置き、残すは東北となっていました。
そんな中、ある法令を発布します。
1588年7月8日、秀吉は「海賊停止令」を発布します。
そこには、諸国の海上において速やかに海賊行為をやめよ・・・とありました。
各地の領主に対し、船に関わる全ての人物から誓約書をとって提出するように求めたのです。
船頭や漁師までも・・・!!
もし、海賊行為を行った場合、その海域の領主も罰せられるという「海の刀狩り」とも取れる厳しい令でした。
これによって、武吉は海での警護や通行料の徴収などができなくなってしまいました。
まさに、秀吉の海賊取り締まりは、村上海賊を狙い撃ちしたもの・・・
もはや懐柔ではなく目の敵にし、弾圧したのです。
海賊停止令は、秀吉の天下統一の理念を海にまで及ぼそうとしたものです。
海の世界まで統一する為に、海上交通路も秀吉が支配しなければならないと考えたのでした。
村上海賊は、その障害になると考えたのです。

1588年9月・・・秀吉から毛利方に書状が届きます。

”能島が海賊行為をしているという知らせがあったが言語道断”

禁令を破ったとして武吉を処罰するという者でした。
秀吉は、”赤間関より上国には居ることまかりならざる様に”と、武吉追放を命じます。
赤間関とは今の下関のことで、瀬戸内海から出て行けということ・・・
武吉は、一族配下のものを守るため、従うほかありませんでした。
村上三家のうち、武吉だけが筑前・糸島に移り住むこととなったのです。

1598年、武吉を瀬戸内海から追放した秀吉が亡くなります。
これによって、武吉に再びの活躍の場が・・・!!
再び毛利氏に仕え、所領2万石を得ていた武吉・・・
その際、新たな本拠地としたのが伊予制圧の要衝・竹原鎮海山城でした。
それは、あわよくば天下を狙う毛利輝元の指示によるものでした。

秀吉の死後、実権を握った徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成の対立が激しくなります。
そして遂に三成を中心とした西軍が挙兵したことで、家康の東軍と激突することとなります。
その際、西軍の総大将に担ぎ上げられたのが武吉の仕える毛利輝元でした。

勝てば毛利の天下も・・・!!
この時、武吉68歳、嫡男元吉48歳!!
村上海賊復活のチャンスが。。。!!

1600年7月、西軍の総大将毛利輝元は、秀吉の嫡男・秀頼を守るために大坂城に入ります。
その輝元から武吉が任されたのは、西国にある徳川方の城を攻め落とすことでした。
村上海賊は、阿波・蜂須賀氏を攻略すると、加藤氏の伊予に乗り込むことに・・・!!
9月14日、武吉親子が向かったのは、興居島・・・加藤氏の拠点である松前城に攻め入るためでした。
翌15日、村上海賊は三津浜に上がり布陣します。
まさにその同じ日・・・美濃の関ケ原で天下分け目の戦いが始まりました。
しかし、わずか6時間で東軍が勝利し、毛利輝元は敗軍の将となってしまいました。
16日、敗戦を知らない武吉は、松前城に三千の兵を差し向け、開場を要求・・・
松前城の留守役に開場を受け入れさせます。
あっけない勝利に見えました。
もはや攻め入る必要もない・・・武吉は猶予を与え、一旦引き上げることに・・・。
武吉たちは近くの民家に陣を張り、宴会を開き勝利を祝ったのです。
西軍本体が負けたとも知らずに・・・!!
そしてその日の夜中・・・
兵を整えた加藤氏の軍が、武吉の陣を夜襲・・・間一髪で難を逃れましたが、この戦いで嫡男元吉を失ってしまいました。
村上海賊の完敗でした。
村上氏が持っていた優れた船や熟練した乗組員が力を発揮する余地がなかったのです。
瀬戸内海で百戦錬磨の海の支配者も、陸の上では並の武将に過ぎなかったのです。
その後、関ケ原で西軍が敗戦したことを知ると、武吉は撤退・・・屋代島へと追いやられていきました。
その所領は2万石からわずか1,500石へ・・・付き従っていた者たちも、その財力を失った武吉の元を次々と去っていきました。
そして、1604年8月22日、村上武吉は72歳で波乱の生涯を閉じたのでした。
村上武吉の死と共に、水軍としての村上海賊も終わりを告げました。
しかし、能島の村上一族は、その後船手衆として生き残ります。
江戸時代には、参勤交代の際の藩主の送迎や、朝鮮通信使などの船の護衛を担いました。

南北朝時代から戦国時代にかけて瀬戸内海に君臨し、そして消えて行った村上海賊・・・
その海の侍たちの勇壮な姿とロマンは、これからも語り継がれていくでしょう。

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1573年9月・・・戦国最強と謳われた巨大山城が落城しました。
城の名は小谷城・・・城主・浅井長政は、織田信長の妹・お市を妻にして、信長と同盟関係を結んでいました。
小谷城を落としたのは、身内のはずの信長でした。
長政の裏切りをきっかけに、血で血を洗う戦いが始まったのです。
しかし、城の守りは固く、落城までは3年の月日が必要でした。
小谷城を信長はこう評しています。

”高く険しい要害の地、攻め上がること困難なり”

小谷城とはどのような山城だったのでしょうか?
織田信長が、天下統一への第一歩となった小谷城落城・・・この攻防が現代に残す教訓とは・・・??

滋賀県北東部の長浜市・・・琵琶湖を見下ろす山に、巨大な山城・小谷城がありました。
標高495m・・・今は木々に覆われた山は、かつて巨大な山城として近江国にそびえたっていました。
自然の地形を生かしながら、巨大な要塞として構築された小谷城です。

曲輪には兵を配置し、尾根筋を進んでくる敵を鉄砲や弓矢で攻撃する拠点となります。
曲輪の外側には、敵の攻撃を防ぐ工夫があります。
切岸です。
急斜面を作り、下からの敵の侵入を防いでいるのです。

尾根沿いの道は、曲輪に横を過ぎると曲がっています。
これも側面から敵を倒す工夫です。
何の変哲もない山道も、綿密に設計された敵を倒す防御システムだったのです。

尾根沿いの道を避け、斜面から攻めようとすると・・・竪堀があります。
竪堀を掘っておくことで、敵が山の斜面を横移動して城内の中心部に入ることを防ぐ防御施設です。
竪堀の先は、数多くの曲輪があり、敵を皆殺しにするためのワナです。
竪堀に足止めされたところを曲輪から攻撃されます。
斜面からは攻め込めません。

本丸を目指す・・・その先には、今まで以上に強力な曲輪が待ち構えていました。
防御のための土塁を全周回していています。
鉄砲を撃ちかけることもできます。
仮に銃撃をかいくぐることができても、その先に侵入することも難しい・・・
見事な守りの城です。

本丸の出入り口・・・
石段の上には見事な黒鉄門という鉄ばりの城門がありました。
門の中には、小谷城最大の曲輪がありました。
大広間といい、幅35m、奥行き85mあります。
政治の中心地でした。
城主・長政が暮らしたこの空間からは、壺や皿などの日常生活や宴会に使用されたとみられる遺物が3万点以上発見されています。
大広間と本丸の背後には、尾根を断ち切った深さ9mの大堀切が作られています。

大堀切の奥には、城主・浅井長政の大切な人が暮らす曲輪が連なっています。
地元北近江の守護だった京極氏を住まわせる京極丸、長政の父・久正が入る小丸、本丸よりも高いところに置かれています。
しかし、小谷城はまだまだあります。
そこから急な坂道を登る事50分・・・
標高495mの山頂に、巨大な防衛陣地が作られていました。
大嶽城です。

たどり着くことさえ困難な山頂に、三重の土塁が張り巡らされています。
小谷城を背後から攻撃しようとする敵に備えたものだと考えられます。
さらに、大嶽城から南にのびる尾根筋にも、砦がいくつも配置され、西側からの攻撃に備えていました。
小谷城は、あらゆる方向からの敵に備えた難攻不落の要塞でした。
南国屈指の巨大山城・小谷城・・・
木々の下に隠れていたのは、戦国乱世が行きついた究極の城の姿でした。

浅井長政の居城・・・北近江の巨大山城・小谷城・・・。
長政は、小谷城の他にも、領内各地にいくつもの小さな城を配置していました。
こうした城は、どのような役割を持っていたのでしょうか?

横山城には、重要な意味がありました。
横山城は、小谷城の南にある軍事拠点で、街道が三角形に集まってくる真ん中にある城でした。
主要な街道を監視し、南、東の動きを把握することができ、即座に対応することができました。
浅井氏の支城は、色々な役割を担っていました。
小谷城の西の山本山城・・・琵琶湖の脇を日本海側に抜ける街道は、この山本山城と小谷城の間を通っていました。
二つの城で街道を囲んでいる・・・経済のポイントを山本山城が押さえていました。
私情を築くことで、地域を守るだけでなく、街道・・・流通そのものを把握していくことにつながりました。

小谷城の麓を通る街道・・・浅井氏は、この街道を小谷城の城下町まで引き込んでいました。
小谷城自体が、流通を支配する!!
重要な幹線道路を浅井氏が遮断している・・・きちんと管理していました。
小谷城の城下町は、川で琵琶湖ともつながっていました。
川を下ると姉川に合流し、姉川からすぐに琵琶湖で下。
琵琶湖の湖上交通という大きな物流の大動脈につながったのです。

浅井氏は、城下に川湊を作り、琵琶湖の物流と直接つなげていたのです。
北陸の米などを京都に運ぶ琵琶湖の大規模の水運は、物流の幹線ルートとして重要な意味を持っていました。
このルートを掌握する役割を持たせていたのが佐和山城です。
佐和山城は湖の入り江に接していました。
浅井氏は、湖に接する城を通じて、琵琶湖の水運にもにらみを利かせていました。
北陸から朝井領を通る琵琶湖の物流ルートには、隣国の大名も注目していました。
越前の朝倉氏は、早くから朝井氏と同盟を結んでいます。
天下統一に向かう織田信長も、妹・お市を長政に嫁がせ、緊密な関係を築いていました。

1570年4月、信長は、浅井氏と同盟関係にあった朝倉氏を攻撃!!
これを機に、長政は信長から離反します。
長政の裏切りを知った信長は、朝倉攻めを断念し、命からがら京に逃げ帰るのです。

長政の裏切りから2か月後・・・
1579年6月、信長は浅井領に侵攻します。
兵を向けたのは、小谷城ではなくその南の支城・横山城でした。
横山城を包囲した信長に、長政も出陣!!
姉川の戦いです。
戦は信長の勝利に終わり、長政は横山城を失います。
その頃、浅井長政、朝倉義景、武田信玄、石山本願寺、三好三人衆・・・信長包囲網が築かれようとしていました。
信長は大ピンチだったのです。
それでも信長は、浅井への攻撃を続けます。
狙ったのは、南の橋の佐和山城!!
佐和山城は、全体の戦局を左右する要の場所でした。
佐和山城は8か月にわたる籠城戦の末、信長の手に落ちました。
要となる城を奪われた長政・・・厳しい選択を強いられます。

佐和山城、横山城を落とされ、小谷城に来るのは時間の問題・・・和睦を願い出る・・・??
信長が、裏切ったものを許すはずがない・・・鉄壁の小谷城で戦いに打って出る・・・??

1571年5月、長政は、奪われた支城の奪還に打って出ました。
あくまで信長と戦う道を選んだのです。
しかし、強力な信長軍を前に敗戦が続きます。
勢いづく信長は、小谷城に近づき・・・小谷城から500mのところに虎御前山城を築きます。
目の前に大規模な陣を構え、長政を物理的にも精神的にも追いつめていきます。
信長は、新しい戦略をとっていきます。
信長は、幅6mの軍用道を5km作ったとされています。
高い塀で目隠しをし、浅井側に見えない徹底ぶりでした。

じわじわと小谷城を締め上げる織田軍・・・
一方の長政は、味方を次々と失っていきます。
比叡山延暦寺は焼き打ち、武田信玄は病死・・・

1573年8月、小谷城のすぐそばの支城・山本山城が信長に降伏・・・。
羽柴秀吉の巧みな調略によるものでした。
山本山城が陥落することによって、小谷城の裏に回れる・・・!!
山本山城降伏からわずか4日後・・・信長は勝負に出ます。
振りしきる雨をものともせずに、自ら手勢を率いて小谷城背後の要・大嶽城に攻め上ります。

8月27日、信長は総攻撃を命じます。
羽柴秀吉率いる軍勢は城下町を突破、谷から急斜面を駆け上がります。
京極丸の辺りに乱入!!
長政の父・久正の籠る小丸を攻めたて自刃に追い込みます。
滅亡を悟った長政は、妻・おとに三人の娘たちを信長の元へ送り出します。
そして自らは、最後まで残った家臣たちと共に本丸で打って出ます。
総攻撃開始から3日後・・・
1573年9月1日、小谷城城主・浅井長政は自決・・・28年の生涯を閉じました。
落城した小谷城は、秀吉に預けられましたが、琵琶湖湖畔にある長浜に新たな城が築かれると廃城が決まります。
この後、再び巨大山城が築かれることはありませんでした。
山城に立て籠れば守り切れるという戦国の常識が崩れた瞬間でした。
中世的な山城から近世の平城に・・・この転換を武将に決断させた大きなきっかけが小谷城の戦いでした。

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今から400年前の戦国時代、誰よりも激しく運命に翻弄され、誰よりも強く生きようとした一人の女性がいました。
淀殿です。
織田信長の姪に生まれ、豊臣秀吉の側室となり、最後は一人の母として徳川家康に立ち向かいました。

天下人・豊臣秀吉の妻として強大な権力を握り、秀吉と共に天下に君臨した淀殿・・・
江戸時代の絵や本では、彼女は冷酷で横暴な稀代の悪女として描かれています。
大坂城を落城させ、我が子と共に死んだ愚かな母・・・??
焼け落ちる大坂城と共に、波乱の生涯を閉じた淀殿・・・その実像とは・・・??

淀殿はもともと茶々という名でした。
淀殿と呼ばれるようになったのは、天下人・豊臣秀吉の側室となってからです。
京都の南にある淀城・・・秀吉から城ひとつ与えられるほど愛され、家臣から淀殿と呼ばれた茶々。
しかし、茶々にとって秀吉は、実の両親を死に追いやった仇でした。

どうして親の仇を夫としたのでしょうか?

茶々が生れたのは、1569年、琵琶湖を望む交友の要所・北近江でした。
父はこの一帯を支配した戦国大名・浅井長政、母は織田信長の13歳年下のお市でした。
天下取りを目指す信長の意向で、お市は政略結婚として浅井長政に嫁ぎ茶々を産みました。
お市は、戦国一の美女・・・茶々もその美貌を受け継ぎ、美しい女性でした。
茶々が生れた翌年には次女・初が生れ、1573年には三女・江が生まれます。
政略結婚でしたが、仲の良かった父と母・・・家族と一緒に平穏な日々を送っていました。
しかし、運命の歯車は動き出していました。

父・長政が、越前の朝倉氏と組み、織田家を裏切って攻撃します。
長政の裏切りに怒った信長は、近江に出陣!!
姉川の戦い・・・浅井・朝倉の軍と激闘の末、蹴散らします。
長政も粘りよく戦ったものの・・・2年後、遂に城に追いつめられてしまいます。
浅井三代記によると、城が攻め落とされる直前・・・

「そなたは信長の妹なのだから、ここで死ぬことはない
 信長の元に送り返すから、生き長らえて菩提を弔ってほしい
 今、花のような姫たちを殺すのは不憫だ・・・
 理を曲げて逃げてほしい」by長政

父・長政は白と共に自刃。
5歳の茶々は、母と妹たちと共に城を脱出しました。
この時、茶々の腹違いの兄・万福丸は、秀吉の手で串刺しにされたといいます。
その後、伯父・信長の元に引き取られた茶々たち・・・
しかし、9年後・・・またもや運命の荒波が・・・!!

1582年、茶々、14歳の時に本能寺の変!!
信長は、天下統一目前で命を落とします。
信長を失った織田家で、後継者争いが始まります。
名乗りを上げたのは、有力武将の羽柴秀吉と柴田勝家。
秀吉は巧みな計略で、実質的に織田家の主導権を握ります。
お市は、対抗馬の柴田勝家の元に嫁ぎます。
秀吉を嫌っていたから・・・とも言われています。
この時、茶々14歳・・・母と二人の妹と共に、現在の福井県にある勝家の城で暮らし始めました。
しかし、ここでも平穏な生活は1年だけ・・・

1583年、15歳の時・・・賤ケ岳の戦い
秀吉を、織田家の当主と認めない勝家は、秀吉と衝突!!
戦う道を選びます。
しかし、大敗・・・!!
茶々たちの暮らす勝家の城も、秀吉の大軍に囲まれてしまいました。
その時、秀吉からの使者が・・・!!
母・お市と三姉妹は助命するという・・・。
しかし、母は申し出を拒否、そして、15歳の茶々に二人の妹を託し、三人だけで秀吉の元に行くように命じます。
この時、茶々は、母から弁財天の小さな像を託されます。
父・浅井長政と、母・お市は弁財天を篤く進行していました。
自分は浅井の血をひく娘だ・・・相当強く意識したと思われます。
そして、母・お市は、夫・勝家と共に自ら命を絶つのでした。

秀吉の保護された茶々たちは、織田の血をひく娘として多くの縁談がありました。
そして秀吉からも、茶々に使者が・・・
「私と一緒になっていただきたい」
天下一の美女・・・お市に憧れていたという秀吉。
秀吉が母に似た美女となっていた茶々に迫ってきたのでした。
秀吉は、かつて父・浅井長政を攻め、弟・万福丸を殺され・・・母も死に追いやり・・・何人も身内を滅ぼされた仇・・・
しかし、茶々はこう秀吉に返事をしたといいます。

「このように親なしになって秀吉さまを頼みにするからには、どのようにも秀吉さまの指図通りにしますが、先に妹たちの縁組を整えていただき、秀吉さまとのことはどのようにもしていただきたい」

秀吉に、妹たちにしっかりとした嫁ぎ先を探してくれるならば、側室になってもいいといったのです。
二人の妹を守っていかなければ・・・!!

三女・江・・・11歳で秀吉が仮親となり、尾張の佐治一成に嫁ぎます。
次女・初・・・京極高次に嫁ぎます。
秀吉の申し出があってから4年・・・妹たちが無事に嫁いだのを見届け、1588年、20歳の茶々は秀吉の側室となるのでした。
秀吉は52歳でした。

秀吉の側室となった事で、茶々の運命は大きく変わっていきます。
庶民から関白まで上り詰め、あらゆる望みをかなえた秀吉が、唯一叶えられなかった望みは、世継ぎでした。
茶々は側室に入ってから1年後・・・秀吉を狂喜乱舞させます。
1589年、21歳の時に待望の男の子・鶴松を産みます。
秀吉は、茶々が出産する為にわざわざ淀に城を建てさせます。
茶々が淀殿と呼ばれたのも、この頃とされます。
秀吉にはおね・・・北政所がいましたが、世継ぎを産んだことで淀殿の立場は北政所と同じ正室となりました。
鶴松出産の褒美として茶々がねだったものは・・・
それまで許されなかった父・長政の十七回忌、母・お市の七回忌の法要をお願いしています。
浅井を大切にする気持ちが、淀殿の中にはずっとあって、その一心でした。
淀殿は、戦災の為に失われていた両親の面影を、供養のために書かせています。
これが、今も残っている唯一の肖像です。

1590年、秀吉は小田原攻め・・・北条氏を降伏させます。
豊臣日に歯向かうものはなくなり、秀吉は天下統一を果たします。
しかし・・・1591年、茶々23歳の時、病弱だった鶴松が3歳で死去。。。
秀吉の落胆は激しく・・・
しかし、その2年後の1593年、25歳で男の子を出産。
秀吉は大喜び・・・その子こそ、後の当主となる秀頼です。
淀殿25歳、秀吉57歳の時の子でした。

この頃、秀吉が淀殿に送った手紙が残っています。

”ひろい(秀頼)にお乳を十分に与えなさい
 お乳が足りないときは(お乳が出るようお前が)飯を多く食べなさい”

想いが天に通じたのか、秀頼はすくすくと育っていきます。
無ず子を溺愛する秀吉に、淀殿は褒美を願い出ます。
浅井家の菩提寺の建立です。
その時建てられた寺は、今も京都に・・・

1598年、30歳の時に醍醐の花見・・・淀殿を始め、多くの側室、一族、重臣たちを率いて盛大な花見を催します。
今も伝わる醍醐の花見です。

しかし、この時、すでに秀吉は病魔に侵されていました。
その年の8月・・・秀吉は有力な大名を五大老、有能な五人の家臣を五奉行とし、秀頼を支える体制を整えます。
そして、大老の筆頭・・・徳川家康の手を握ってこう言いました。

「どうか、どうか、秀頼のことをよろしく頼む」

天下人秀吉は、62歳の生涯を閉じました。

大坂城には、淀殿や家族が残っていました。
秀吉を長年支えていた北政所は、出家して大坂城を出ていきました。
一説では、世継ぎを産んで我が物顔の淀殿を快く思わず出ていったといいます。

しかし・・・
秀吉が死んで2年後・・・大老の筆頭・徳川家康が、密かに勢力を拡大していました。
それを察知した秀吉の家臣・石田三成が反徳川の狼煙を挙げます。
1600年、関ケ原の戦いです。
この戦い、淀殿にとっては同じ豊臣の家臣である家康と三成の・・・いわば家臣同士の内紛・・・積極的にかかわりませんでした。
しかし、ある知らせが届いて否応なく、この戦いに巻き込まれることに・・・。
それは、妹・初の命が危ないという報せでした。
東軍について大津城に立てこもった京極高次とその妻・初が西軍に取り囲まれ、命が危ないというのです。
この時、淀殿が協力を仰いだのが北政所でした。
淀殿と北政所は、いがみ合っていたわけではなく、お互いの役割を理解しあっていました。
淀殿と北政所はそれぞれの使者を一緒に大津へと送り込みます。
そして二人の名で、両軍に停戦を求めたのです。
大津城は無血開城・・・淀殿は、無事に妹・初の救出に成功するのでした。

1614年11月、淀殿のいる大坂城に向かって、20万もの徳川の兵が攻め寄せました。
大坂冬の陣です。
豊臣方は、大坂城に籠城・・・難攻不落の大坂城を攻めあぐねる徳川軍・・・
戦は豊臣方の優位でした。
しかし、家康から和平を持ちかけられるとあっさり受け入れてしまいます。
どうして和平を結んだのでしょうか?

1600年、関ケ原の合戦に勝利した家康は、実質的ナンバー1となります。
しかし、淀殿はそのことをさほど深刻に考えていませんでした。
というのも、家康はじめ全員、秀頼に忠誠を誓っていたからです。
その間、家康は着々と豊臣の力を削いでいきます。
家康は秀吉の代行として、領地を淀殿に相談せずに諸大名に分け与えます。
そのため、200石以上あった豊臣の領地は半分以下になってしまいました。
さらに家康は、京都南にある伏見城に居を構え、それまで大坂城にいた多くの大名を伏見へ集めてしまいます。
秀頼の周りから大名がいなくなっていく・・・流石の淀殿も、不信感が増していきます。

淀殿の医師の診察記録・・・家康が伏見城に移って2か月後のもの・・・
不食、めまい・・・淀殿は、気がめいり、食欲がなくなりめまいに苦しんでいました。
この時、淀殿33歳・・・。
その心の支えは、大坂城と秀頼でした。
家康は、あくまで豊臣家の家臣・・・!!
秀頼が成人すれば、豊臣家に天下は戻るはず・・・!!

1603年、家康は朝廷から武家のTOPである征夷大将軍に任じられます。
同じ年、家康の孫・千姫が、秀頼に輿入れ。
そのため、淀殿は家康の忠誠を信じて疑わなかったといいます。
しかし2年後・・・愕然とする出来事が・・・!!
1605年、家康は将軍職を嫡男・秀忠に譲ります。
家康亡き後、徳川家が代々将軍となって政権を担っていくことを全国に知らしめたも同然でした。
淀殿も秀頼が成人するまでのつなぎであると思っていたのに・・・!!
徳川家が将軍職を世襲するとなると、諸大名の大阪場慣れが始まる・・・!!

1614年、淀殿と家康が対立する決定的な事件が・・・!!
淀殿の肝入りで改築工事がされていた方広寺・・・鐘楼に納められる鐘には”国家安康”の文字が刻まれていました。
これを見た家康は、自分の名前を分断して呪う行為だとして猛反発します。
淀殿にとっては言いがかりにしか思えない行為・・・淀殿は、家康の誤解を解くために、最も信頼する家臣を使者に出します。片桐且元です。
且元の父は、長政の家臣でした。淀殿にとって且元は二代にわたって自分たちに仕えてくれる数少ない身内と言える存在でした。
この時、淀殿か且元に送った手紙には・・・

「私と家康の間柄を、親密なものに戻せるかどうかは、すべてあなたにかかっています。
 私はしっかりとした親を持っておらず、相談する相手もいないので、あなただけが頼りです。」

しかし、徳川方との交渉が難航・・・且元は一か月近くも戻ってきませんでした。
戻ってきた且元は、事態を治めるために家康が出した条件を淀殿に伝えます。

秀頼が大坂城を出て国替えをする・・・!!
または、淀殿を人質として徳川へ差し出す!!

豊臣家を一大名に落とす厳しい条件でした。
淀殿にとって飲めない理不尽な要求・・・
このため、使者を務めた且元にも疑惑の目が向けられます。
ことごとく対立していた家臣たちは、この機に乗じて且元を暗殺する計画も・・・!!
且元も、危機を察して病気を理由に屋敷に引きこもってしまいました。

しかし、淀殿は且元を信頼していました。

「決して親子ともどもあなたをおざなりにはしていません
 長年の温情をどうして忘れることができましょうか
 あなたをひたすら頼みにしています」

しかし、手紙を送った甲斐もなく、且元は淀殿の元を去ってしまいました。

一方家康は、豊臣側から正式な答えがないことで大阪城攻めを決断・・・
諸大名を集め進軍します。

1614年11月、大坂冬の陣・・・
豊臣方は、浪人などを集め、10万の兵で大坂城に立てこもります。
取り囲む徳川方は、その倍の20万です。
難攻不落の大坂城・・・その理由は、城の三方向を外堀、内堀、さらに河出囲んでいる構造にありました。
徳川方も、その方向からは攻めず、堀のない南の方から攻めていました。
しかし、そこには真田氏の最強の砦・真田丸が・・・!!
真田丸の戦いでは、徳川は2万の戦死者を出し惨敗・・・こうした戦いで、豊臣方が優勢でした。
負け戦が長引けば、徳川方に離反者が出るかもしれない・・・。
家康は、和平を申し込みます。
豊臣方にしてみれば、応じる必要はない・・・
しかし、淀殿は徳川方とあっさりと和平を結んでしまいます。
しかも、大坂城の外堀を埋めるという徳川に都合のいい条件を、受け入れたのです。

和平を結んでわずか半年後・・・大坂夏の陣・・・!!
家康が豊臣方を攻め、大坂城は落城し、豊臣方は壊滅・・・!!
女性である淀殿は、城を落ち延びる選択もありました。
しかし、淀殿は、息子秀頼と共に、大坂城でその命を落とすのです。

どうして大坂城と運命を共にしたのか・・・??
大坂冬の陣の後、家康はあっという間に外堀を埋めました。
しかし、条件にはなかった内堀まで埋めてしまったのです。
堀を失くした大坂城は、最早どこからでも攻められるので、防御力の大半が削がれてしまいました。
戦が始まる前、淀殿は家康から”徳川の家臣としてなら豊臣家を存続させる”という屈辱的なことを言われます。
この時、仲介役となったのが、淀殿の妹・初でした。
初は、かつて関ケ原合戦の時に、淀殿に命を救われていました。
今度は自分が・・・と、初が淀殿を説得します。
降伏の条件を飲むように説得し続けます。
しかし、初の言葉に耳を貸さず、家康の家臣となることを拒否。
徳川方の大坂城総攻撃が始まります。
戦いが始まってなお、初は説得し続けますが、城を脱出せざるを得なくなります。
この頃、大阪城にいたのは、戦闘経験の乏しい家臣だけでした。
徳川方が豊臣方を圧倒・・・大坂城は落城寸前に追いつめられます。

しかし、淀殿には最後の切り札・・・千姫が残っていました。
千姫は家康に対しての人質・・・千姫が逃げ出さないよう、淀殿は千姫の袖を捕まえていました。
しかし、千姫は一瞬のスキを突いて逃亡・・・
徳川方の手引きで大坂城を脱出したといいます。

意気消沈する淀殿・・・そんな中、前線からは秀頼出陣の要請が・・・
前線で指揮をあげてほしいと何度も言われるも、淀殿はそれを許しませんでした。
やがて豊臣方は総崩れとなり、大坂城は炎に包まれました。
5月8日、秀頼と淀殿は大坂城で自害・・・秀頼23歳、淀殿47歳でした。
淀殿は、大坂城と共に滅びる道を選びました。
しかし、母から受け継いだ弁財天は無事でした。
落城前に徳川に使者を送り、三女・江に弁財天を託していたのです。
今は、父母を弔うため、淀殿が立てた菩提寺に今も祀られています。

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大阪府大東市と四条畷市にまたがる飯盛山・・・
2019年6月、この地で今までの戦国史を覆す大発見がありました。
大東市と四条畷市の3年に及ぶ調査の結果、50カ所で石垣が発見されたのです。
それは、戦国時代その山に築かれた飯盛城の石垣でした。
城全体に石垣を施した初期の城として織田信長の小牧山城が知られていますが、その信長より前に、城に巨大な石垣を作り上げていた戦国武将のいることがわかりました。
三好長慶です。

最近、長慶はこう呼ばれています。
「戦国初の天下人 戦国の革命児」・・・それは織田信長のことでは・・・??
しかし、三好長慶のことです。

江戸時代に歴史家・頼山陽が書いた「日本外史」には・・・
織田信長のことを”世に優れた才能である”と、高く評価している一方、
長慶は”まだ若いのに病の老人のように政を家臣の松永久秀に任せきり”と全く評価していません。
長慶は、信長の影に隠れて忘れ去られてしまったのかもしれません。

そんな三好長慶とは・・・??
1522年、武士たちが覇権を争う真っただ中、三好長慶は阿波国の武将・三善元長の嫡男として生まれました。
長慶の父・元長は、阿波国守護・細川晴元の重臣でした。
当時、細川氏は、細川晴元と細川本家室町幕府No,2の管領・細川高国が勢力争いをしていました。
その内紛で功績を挙げたのが、長慶の父・元長でした。
管領の高国を討ち、主君・晴元に細川家の実権を握らせたのです。

これで三好家も安泰・・・と思っていた1532年、元長に悲劇が起こります。
元長の力を警戒した晴元が、排除すべく大坂の本願寺と手を組んで、一向一揆を起こさせたのです。
それによって、10万の一揆勢が、堺にいた元長を襲います。
追いつめられた元長は、顕本寺で自害・・・。
一説に、元長は腹を掻っ捌き、内臓を引き出し、天井に投げ出したといいます。
壮絶な最期、無念の死でした。
この時、父と共にいた長慶は、辛くも逃がされ、阿波国に帰ったことで命を救われます。
わずか11歳で家督を継ぐことに・・・しかし、一揆勢の為に多くの重臣を失い、三好家は危機的状況にありました。

「三好の家を守るには、どうすれば・・・?」

考えた末に、長慶の決断は・・・??
1533年、再び機内にわたると、父の仇である細川晴元に服従を示しました。
弱体化した三好家を滅亡させないためには、晴元に従うしかなかったのです。

細川で実験を握った晴元は、1537年12代将軍足利義晴の時に管領に就任。
幕政を取り仕切るほどの力を持つようになります。
長慶は、そんな晴元の家臣として戦歴を重ねます。
18歳の時、力が認められ・・・1539年摂津国の越水城主となり、守護の代わりに守護代に任命されます。

「いつの日か、父の仇を・・・!!」

耐え忍ぶこと、晴元に仕えること15年・・・1548年、仇を討つ好機が・・・!!
摂津国の池田城主・池田信正は、ある戦で晴元を裏切ったと疑われ自害します。
すると、晴元の側近・三善政長が、池田家の財産や領地を没収しようとしました。
子の横暴な振る舞いに、四国の武士たちは、強い不信の念を抱くことになります。
長慶は、これを好機ととらえました。
兵を挙げ、各地の武士に訴えます。

「我こそが、武士の利益を守るものである」

すると、晴元に不満を持つ武士たちが、長慶のもとへ・・・!!
1549年1月、長慶は晴元側の軍勢と激突!!
そして6月24日、大坂・江口で800人の軍勢を破り、見事勝利するのです。
これを知った晴元は、すぐさま京都に退散・・・
さらに、家慶の追撃を恐れ、12代将軍だった義晴、13代将軍になった義輝親子を連れて、近江に逃げるのです。 
主君と袂を分かった長慶は、細川氏内で晴元と対立していた細川氏綱(高国の養子)に付きます。
そして新たに主君となった氏綱と京都に入ると、本拠地・阿波を始め、淡路、讃岐摂津を支配下に・・・!!

フランスの地理学者シャトランの描いた「歴史地図帳」、日本の統治者の変遷の図に・・・
そこには、天皇の内裏、将軍の公方と一緒に、三好殿とあります。
天下をとった三好家は、日本の統治者であったと海の向こうまで知れ渡っていたのです。

1550年、京都から逃げていた12代将軍足利義晴が病で死去・・・
これによってまだ15歳の13代将軍足利義輝が、名実ともに将軍家の指揮を執るようになります。
すると義輝は、京都奪還を目指して兵を挙げ、幾度となく三好家と激突します。

1551年3月7日・・・
長慶が京都の寺で酒宴に興じていると、そこへ忍び込んだ子供が寺に火をつけようとしました。
その7日後には、酒宴に乱入してきた男が、長慶に刀で斬りかかる事件が発生しました。
この2度にわたる暗殺未遂事件で、長慶は一時京都をでます。
全ては、将軍義輝の差し金・・・

すると翌年、将軍義輝と和睦します。
京都に迎え入れたのです。
長慶の残した言葉の中に「理世安民」という言葉があります。
長慶は、道理の通った民が安心して過ごせるような平和な世の中にしたいと考えていたのです。
そもそも、16世紀初めの戦いの原因は・・・
応仁の乱以降、足利家が分裂し、それが一番の原因だったのです。
長慶は、個人的な恨みは捨て、世の中の平和を生み出そうとしました。
長慶は、義輝が都に不在であることも内紛の原因だと思っていました。
義輝を京都に戻し、将軍の権威を復活させることで、争いを無くそうとしたのです。
長慶はその約束の際、自身を将軍の直臣にすることを条件としました。
そのため、和睦後は細川氏を離れ、将軍の臣下となったのです。
ところが・・・和睦した将軍義輝が、再び長慶にかかってきました。
さすがの長慶にも、もう、和睦の選択はありませんでした。

1553年、長慶は2万5000の兵を率いて上洛し、将軍義輝の軍勢が守る霊山城を襲い、圧勝します。霊山城の戦い
義輝は、長慶と一戦も交えることなく敗走!!
再び近江へと逃げていきました。
長慶は、この時も義輝を追いませんでしたが、義輝に付き従っていた者たちに言い放ちます。

「将軍に従う者の領地をすべて没収する」

すると、多くのものが京都に戻り、義輝のもとに残ったのはわずか40人ほどでした。
そして長慶は決意を固めます。

「これからは、この三好長慶が都の泰平を守る」

長慶は、義輝に代わる新たな足利将軍を擁立せずに京都を支配します。
戦国時代、京都から将軍を追放したものは長慶以外にもいました。
しかし、足利家から他の将軍を擁立するのが当時の常識でしたが・・・長慶は、足利将軍を擁立せずに、京都を支配したのです。
これは戦国乱世の中でも初めてのことでした。
足利将軍家の代わりに京都を支配した長慶は、その後次々と畿内五か国を手に入れていきます。
戦国初の天下人の誕生でした。
天下とは、鎌倉時代は首都・京都を指していました。
そして、戦国時代は、天下は京都の周辺五か国(山城・大和・摂津・河内・和泉)を指していました。
長慶は確かに天下人でした。
公家や農民も、実力のある三好長慶の政治を求めるようになってきていました。
長慶は、結果的に天下人となったのです。

江戸時代初期の戦国武将の逸話集「武辺咄聞書」によると・・・
「信長は長慶の家臣になって働きたかった」とあります。
戦国の覇者となって世の中を次々と変えていった革命児である織田信長。。。
三好長慶の家臣になりたがっていたといわれるのは、信長が長慶に畏敬の念を抱いていたからかもしれません。
なぜなら、長慶は信長に先んじて常識破りの政策を行っていたからです。
信長が、足軽だった秀吉を重用しましたが・・・
戦国時代、このような画期的な人材登用は長慶の方が先でした。
武家では、代々仕える家臣を大事にするのが常でしたが、長慶はその常識を破り、身分や家格に関係なく、才能や実力を評価しました。

①人材を登用
その一人が摂津国の土豪出身とされる松永久秀です。
久秀は、長慶の右筆に抜擢されると、持ち前の知恵で、将軍や大名との交渉に力を発揮、三好家の重臣となります。
京都郊外の西九条の荘園の代官だった石成友通は、長慶の元で奉行で頭角を現し、三好家の中核となります。
長慶は自らの弟たちも上手に差配・・・
次男・実休、三男・冬康、四男・一存を敵に備えて重要な場所に置きます。
越水城主となった際、次男・実休を本拠地・阿波に、三男・冬康を淡路(安宅家の養子)に、四男・讃岐(十河家の養子)に出しました。
こうして長慶は、自身が治める畿内の周辺を兄弟で固めることで三好家を守ったのです。

②鉄砲の導入
長慶は、堺、尼崎、兵庫津など京都の物流拠点の大阪湾の主要港を支配することが重要だと考えていました。
そこで、港を拠点に活動していた法華宗の寺院や、その信者である有力な商人たちを保護、これによって流通ネットワークを掌握します。
日本国内のみならず、東アジアの貿易に関与します。
長慶の元には、明などから貴重な品が届くようになります。
その一つが、当時の最新鋭の武器・・・鉄砲です。
1550年、足利義晴方の記録に残っています。
三好長慶は、大量の鉄砲を持っていたことになり、これは信長の長篠の戦いの25年前になります。

③キリスト教の保護
1564年長慶は、領内でのキリスト教の布教を許可し、保護します。
南蛮貿易がもたらす経済効果を早くから熟知していたようで、宣教師からの最新の情報や、西欧の新しい技術を取り入れることが目的だったと考えられています。

④居城の移転
長慶は天下人となった際に、越水城から同じ摂津国でも京都に誓い芥川山城に居城を移します。
これにより、芥川山城は、幕府に代わり政治の中心となるのですが、1560年に嫡男・義興に譲ります。
自らは河内国の飯盛城に移るのです。
越水城は阪神間を、芥川山城は京を、飯盛城は河内、大和、伊勢、紀伊に拡大していく・・・
長慶は、政策課題に応じて、臨機応変に居城を移していくのが特徴で、他の戦国大名には見られません。
これは、織田信長につながっていく政策なのです。
織田信長も、那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城と、京都に近づいて行きながら戦国の覇者となっていきます。

⑤城の造り
大阪府大東市と四条畷市にまたがる飯盛山・・・
ここに、長慶最期の居城・飯盛城がありました。
長慶は、ここを新たな居城と定めると、大規模な工事を行い、南北700m、東西400mの山城を築きます。
山城は、山を削って、掘って盛り固めることで、堀や土塁なⅮ歩の防御システムを築き、それを囲った曲輪でつくられた構造となっています。
そんな当時は。。。石垣が施されるのは、土台が弱い一部のみ、補強でした。
石垣に適した花崗岩がなかなか手に入らなかったからです。
そのため、山城である飯盛城も石垣は一部だと考えられてきました。
大東市と四条畷市が3年間かけて発掘調査をしたところ、驚くべき事実がわかったのです。
千畳敷曲輪で・・・飯盛城の中でも最大級の石垣が発見されました。
その大きさは、長さ30m、高さ4mと推定され、石も大きなものが使われていて、一番大きなものは1.6mの花こう岩が使われていることがわかりました。
さらに、千畳敷曲輪を含めた50カ所で石垣が発見されました。
石垣が見つかったことで、飯盛城の全域に石垣が取り入れられていた可能性が高まったのです。
代全体に石垣を使った武将として有名なのが織田信長です。
1563年に築城した小牧山城をはじめ、岐阜城、安土城と総石垣にしています。
城を強固にするためだけでなく、貴重な花崗岩をふんだんに使うことで、その経済力を見せつけ、他を圧倒するためだったといわれています。
しかし、長慶の方が早く総石垣の城を作っていたという可能性が高まったのです。

大阪府堺市にある南宗寺・・・
ここは三好長慶が、非業の死を遂げた父・元長の菩提を弔うために、建てたといわれています。
その境内には天下人となった長慶の銅像があります。
そこには桐紋が・・・1561年、将軍足利義輝から、桐紋の使用を許可されていました。
名門の出ではない長慶が、桐紋を許されるのは、極めて異例なことでした。
この家紋のしようが許されたということは、三好家の家格が足利一門並みに上昇したことを意味しています。
長慶は、天皇からも大きな信頼を寄せられていました。
1558年、正親町天皇践祚(三種の神器を先帝から受け継ぐこと)のため、永禄の改元が行われたとき・・・
当時改元は、朝廷を代表する天皇から幕府を代表する将軍に相談や連絡があり、双方の合意により行われるのが通例でした。
しかし、正親町天皇は、将軍義輝を無視し、三好長慶に相談・連絡をしてきたのです。
これは、長慶が武家の代表者だと、天皇から認められたということでした。
名実ともに天下人となった三好長慶・・・
しかし、これから次々と悲劇に見舞われます。

1561年、和泉国を任せていた弟・・・四男の十河一存が病死、その翌年の1562年には次男の実休が戦死、そしてその翌年の1563年には長慶の嫡男・義興が22歳の若さでこの世を去ります。

「このままでは三好の家が・・・!!」

身を奮い立たせ、後継者選びに奮闘します。
候補となったのは、弟の中でまだ存命だった安宅冬康、亡き弟・実休の嫡男・長治、一存の嫡男・義継でした。
血縁の序列で言えば、弟・冬康ですが、長慶が選んだのは序列で一番下の義継でした。
長慶は、先の関白・九条植通の養女を母とする義継を選んだのです。
家格も天下人に相応しいようにと選んだのです。

「これで三好の家も安泰じゃ・・・」

しかし、1546年5月9日、弟・安宅冬康を飯盛城に呼び寄せると・・・殺してしまいました。
どうして・・・??
軍記物語などでは、長慶の家臣・松永久秀が三好家を乗っ取るために冬康を陥れるために画策・・・
「冬康殿が上様に謀反を起こそうとしております」
と、長慶にウソを吹き込んで殺害させたと書かれていますが・・・
松永久秀の讒言はなく・・・まだ幼少の三好義継が長慶の後継者となった事で、家臣団が義継と冬康に分かれてしまった事を恐れていました。
三好家の内紛で、世の中が乱れないように、内紛の火種になる弟・安宅冬康を殺害したのです。
内紛によって、衰退の一途をたどっていった足利将軍家や細川氏を目の当たりにしてきた長慶・・・三好家が同じ道を歩まないように、弟・冬康を殺害するという苦渋の結さんをしたのです。
実の弟を殺める・・・長慶は、病に伏してしまいます。
わずか2か月後・・・1564年7月4日、三好長慶、43歳で死去・・・。
この時、新たに当主となった義継はまだ15歳にも満たなかったため、混乱を避けるために長慶の死はふせられました。

家督を継いだ義継は、翌年の1565年、三好を陥れようとしたとして、将軍足利義輝を討ち取ります。
長慶の晩年より、将軍家との関係が急速に悪化していました。
そこを継いだ義継は、将軍義輝を討つことで、三好家を率いていくという姿勢を示したかったのです。
しかし、その後、長慶が憂いでいたことが起きます。

重臣・松永久秀と、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、石成友通)が対立!!
義継は、家臣たちをまとめきれずに、結局三好家は分裂・・・。
そんな中、1573年、天下布武を掲げて躍進していた織田信長の軍勢に攻められ、義継が自刃・・・
三好家の天下はここに潰えたのです。
長慶が亡くなってから、わずか9年後のことでした。

織田信長より先んじていた戦国の革命児・三好長慶・・・
戦乱の世を終わらせ、平和を築くことを願い、天下を掌握した男でした。
しかし、その天下は、皮肉にも、あとを追ってきた戦国の風雲児・織田信長によって奪われてしまうのです。
まさに乱世の因縁・・・長慶の死から4年後・・・
1568年、京都を目指して進軍していた信長は、芥川山城を攻め、10日余り滞在しています。
芥川山城は、長慶の本拠地、京都に代わる政治の中心地でした。
そこを攻め落とすことで、三好家の時代は終わったのだと、世間にアピールする狙いがあったのだとされています。
信長にそうまでさせる三好長慶は、大きな存在だったのです。

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明智光秀って、紹介するにはいろいろエピソードがあって・・・
でも、本当のことはあまりよく知られていないという・・・なんとも難しいキャラです。
が、色々話があるのにわからないってことは、いろんな話が作れるってことで、ドラマとしては面白くなるのかもしれないですね。

mituhide













先日紹介しましたが、「麒麟がくる」では長谷川博己さんがやってくれます。

mituhide2



















明智光秀は、みなさんご存じだと思いますが、本能寺の変で織田信長に謀反を起こし、でも・・・根回しが不十分で誰も味方がおらず、中国大返しで意気揚々な羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、三日天下で終わる・・・あの光秀です。

後に世を治めるのが、光秀のライバルであった秀吉や家康だったので、なかなかいいところは書物として残されていないというのが現状です。
だから、光秀のことはよくわからないんだと思います。

光秀の本姓は、源氏、清和源氏の家系で、土岐氏の支流である明智氏の出身です。
糟糠の妻は熙子、子供にはあの細川ガラシャもいます。

私のイメージでは、武闘派で田舎者の多かった織田家臣団にあって、唯一の知性派だったと思います。
もちろんそこは信長も一目置く・・・というか、光秀の公家とのあれこれを最大限に利用します。
そうして、真面目で使い勝手のいい光秀・・・
だからこそ、一国一城の主となったのは、家臣団の中で光秀が第一号でした。
信長に出会ってから3年・・・出世争いで秀吉を大きく引き離します。

ちなみに、この時秀吉は、裏切った浅井攻略を任されていましたが、大苦戦!!
浅井氏の居城・小谷城を攻め落とし、浅井氏を滅ぼすのに3年の月日を費やしてしまいます。
その後、1573年信長から落とした小谷城と北近江3郡13万石を与えられます。
一国一城の主に・・・家臣団の中では第2号・・・光秀からおよそ2年遅れてのことでした。

後に信長に領地を取り上げられますが・・・
領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域もあるほどです。

聞けば聞くほど・・・光秀のことを知りたくなります。
大河ドラマでは、どんなふうに色付けしてくれるのか・・・とっても楽しみです。



「明智光秀が築いた京の奥座敷 亀岡の城下町」はこちら
「明智光秀・本能寺への葛藤」はこちら
「悲劇!二君に仕えた男~明智光秀~」はこちら
「光秀VS秀吉 信長はどちらを評価?」はこちら
「明智光秀~"天下の謀反人"の真実~」はこちら
「新説・山崎の戦い~なぜ光秀は天下をとれなかったのか?~」はこちら

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