日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:織田信雄

1590年、豊臣秀吉は、小田原の北条氏を攻めました。
天下統一の総仕上げとなった戦場・・・そこに苦楽を共にした一人の武将の姿がありませんでした。
秀吉の弟・豊臣秀長です。兄が壮大な夢を叶えるのを見届けることなく、秀長はこの世を去りました。

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1582年6月2日、秀吉、秀長兄弟の運命の歯車が急速に回り始めました。
織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変・・・
信長の家臣として出世を重ねていた羽柴秀吉、この時46歳!!
中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉は、信長が討たれたという知らせを受け急ぎ畿内へと引き返します。
中国大返しです。
この時、撤退する秀吉軍の殿を任されたのが、弟・秀長・44歳でした。
最後尾で敵の追撃を食い止める殿は、命を張って大将を守る危険な任務です。
これまで幾度となく秀吉軍の殿を務めてきた秀長・・・
この時も、明智光秀のもとに攻めあがる秀吉の背後を守る地味ながら重要な役割を一手に引き受けました。
そして迎えた明智光秀との山崎での戦い・・・
秀長は、勝敗を分ける天王山に布陣!!
この地の守りを固め、秀吉本体の突撃を援護、勝利に貢献しました。
強気に攻める秀吉に対し、守りを固める秀長・・・
そんな兄弟は、生い立ちからして対照的でした。

1537年、尾張国の農民の家に生まれた秀吉は、若くして家を出ます。
行商人として放浪したのち、武士を志し信長に仕えるようになります。
一方、秀長は、1540年、秀吉の3歳下の弟として生まれました。
真面目で働き者の秀長は、長男の秀吉に代わり農家を守っていました。
しかし、秀長が20歳を過ぎた頃、突然、秀吉が弟の元を訪れ、自分の家来になってほしいという・・・。
武士になるなど夢にも思わなかった秀長は困り果てたものの、兄の強引な誘いを断り切れませんでした。
以来、行動を共にするようになった2人・・・20年後、本能寺の変をむかえたのです。
山崎の合戦で主君の仇を討った秀吉と秀長・・・ここから天下統一への兄弟の挑戦が始まります。

1583年、賤ケ岳の戦い・・・
秀吉は、信長の後継者の座をかけて、柴田勝家と戦います。
勝家軍は、北国街道を南下、それを琵琶湖の右岸で秀吉軍が迎え撃ちました。
布陣から一月後、両軍睨み合う中でハプニングが発生!!
信長の3男・織田信孝と、滝川一益が挙兵。
秀吉は戦場を離脱し、美濃に向かわなければならなくなりました。
後を任されたのが、秀長でした。

この時、秀吉から秀長に送られた書状が残されています。
秀吉が秀長に、どう戦闘を行うべきか、柴田軍と対峙するべきかの命令が書かれています。

”私が戻ってくるまでは攻め込んではならない”

この時も秀長は、秀吉から戦場の守りを任されたのです。
しかし、敵の大将がいなくなったのを知った柴田軍は、一斉に攻撃を開始。
窮地に立たされる秀長・・・それでも秀吉の命に徹し、守り続けました。
そこへ秀吉本体が美濃から引き返してきました。
形勢は一気に逆転し、戦いは秀吉軍が勝利!!

兄弟の連携によって、秀吉の後継者争いに一歩抜き出たかに見えました。
しかし、ここで二人に待ったをかける者が現れます。
徳川家康です。
賤ケ岳の戦いの翌年の1584年。
家康は、信長の2男・織田信雄の求めに応じて挙兵。
小牧長久手の戦いで、秀吉は家康に手痛い敗戦を被りました。
各地の反秀吉勢力と関係を深めた家康・・・最大のライバルとして秀吉の天下統一に立ちはだかります。

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家康と敵対するうえで、戦略拠点となった城・・・それは、大和国の宇陀松山城です。
ここを難攻不落の城に大改修したのが秀長でした。
この城の東には、伊賀・伊勢、南には紀伊、そこには、家康と気脈を通じる勢力が根を張っていました。
伊賀衆、根来衆、雑賀衆・・・といった地侍集団の本拠地でした。
彼らは、小牧長久手の戦いでは家康と連携して秀吉を苦しめました。
もし、再び彼らが家康と結託して攻め寄せる事態となれば、秀吉は二方面から攻撃を受けることになってしまう・・・
その脅威を阻むためには、宇田松山城で、伊賀や紀伊の在地勢力を押さえ込むことが必要でした。
その為に、秀長は、この宇陀松山城の防御能力を飛躍的に高めようとしました。
東海より東に領地が広がる徳川家康・・・西に広がる秀吉。
両者がぶつかり合う地点を、秀長は堅固な城で守り通すのに成功します。
秀長は、秀吉の影の存在として、兄の天下取りを支え続けていたのです。

秀吉の天下取りを陰で支え続けた秀長・・・
46歳になった時、武将としての真価が問われる機会が訪れました。
1585年、四国攻めです。
小牧長久手の戦い以降、秀吉は徳川家康と手を組む勢力への対応に苦慮していました。
なかでも、秀吉に強く反抗し続けていた人物が・・・長宗我部元親です。
土佐の豪族から身を立てて、一代で四国全土を制覇した戦国大名です。
小牧長久手の戦いの際には、徳川家康の重臣・本多正信が元親に畿内への出兵を依頼していたことが記録されています。
四国支配を目論むようになってきた秀吉には、服従しない姿勢を貫いていました。
業を煮やした秀吉は、対に自ら総大将となって、四国攻めに出ることを決断し、準備に取り掛かります。
しかし・・・直前になって秀吉は体調を崩したため、急遽総大将は秀長が任されることになります。
これまで影の存在となってなってきた秀長は、予期せず表舞台に立つことになりました。
徳島県土佐泊・・・秀長が率いる6万の軍勢が、ここに上陸しました。
秀長は、長宗我部方の前線の城を次々と攻略。
そして行きついたのが、阿波一宮城!!
四国山地の入り口に位置するこの城は、長宗我部の本拠である土佐へ侵入するのを防ぐ防衛拠点でした。
ここを突破すれば、四国攻めは一気に秀長側に形勢が傾くと考えられていました。
5000の長曾我部軍は、阿波一宮城に籠城します。
秀長は、川を挟んだ辰ヶ山に本陣を置き、およそ5万の兵で城を包囲しました。
城攻めを進めていた秀長・・・そこに、大坂から思わぬ知らせが届きます。
病のいえた秀吉が、出陣して来るというのです。
秀吉からの申し出に・・・指示に従い秀吉の出陣を待つ??それとも、秀吉の出陣を断わる??

四国攻めを行っていた当時、秀吉は別方面にも手ごわい敵を抱えていました。
家康に与していた佐々成政が、北陸で敵対行動を起こしていました。
佐々討伐のために、秀吉が発給した命令書が残っています。
記されているのは、前田利家・池田輝政・山内一豊・蒲生氏郷・細川忠興・・・名だたる武将への出兵要請でした。
兵の総勢は、5万7300!!
北陸で、四国攻めと同等の大きな戦が始まらんとしていました。
もしここで秀吉が四国攻めに参加すれば、佐々成政や家康に自由に動く機会を与えることになってしまう・・・!!

秀吉の出陣を待つべきか??自ら四国攻めを決着させるべきか・・・??

秀吉が四国攻めに参戦すると聞いた秀長は、思案の末、兄に書状を送りました。

”ご出陣は、殿の御威光を損ねます
 たとえ日数がかかっても、期待に応えますのでご出陣をおやめください”

秀長は、秀吉の出陣を断わり、自ら四国攻めをやり遂げることを選択しました。
これまで戦場では、兄からの命令を忠実にこなしてきた秀長が、自らの考えで行動することを決断した瞬間でした。

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鉄壁の阿波一宮城をどのように攻略すべきか??
秀長は一つの策を思いつきました。
貯水池を干上がらせるため、秀長は城の背後から侵入させ、水路を破壊しました。
水の手を奪われたことで、城の兵たちは慌てふためきました。
このタイミングで、秀長は長曾我部元親に和議を提案しました。

”城が落ちる前に降参すれば、元親殿の面目も保てるでしょう
 私に任せてもらえれば、良きように取り計らわせていただきます”

秀長は、どちらかが滅ぶまで戦うよりも、和議による道を探ります。
阿波一宮城が落城すれば、本領土佐への侵攻は避けられないと考えた元親は、提案を受け入れ降伏。
阿波・讃岐・伊予の三国は秀吉方に接収されましたが、秀長の計らいによって土佐は安堵されました。

一方、四国に来なかった秀吉は、北陸を攻め佐々成政を降伏させました。
各地の味方を失った徳川家康・・・
ここで秀吉は、思い切った懐柔策に打って出ようとします。
妹・旭姫を家康に嫁がせ、母の大政所も家康のもとに送ろうとしたのです。
家族を事実上の人質に差し出そうとする兄に、秀長は猛反対!!強く意見したといいます。
この頃を機に、秀長は秀吉からいわれるがままに動かずにはっきりと反対意見もいう存在に変わっていきました。

1585年、秀長は、大和、紀伊、和泉の大名になります。
秀長が、領国経営の拠点とした大和郡山城!!
近年の発掘調査によって、この城について新たな事実が明らかになりました。

2014年に行われた発掘調査で、礎石が発見され大和郡山城に天守があったことが分かりました。
さらに、大坂城と同種の金箔瓦が出土したことから、豪華絢爛な天守であったことも明らかとなりました。
秀長が、煌びやかな天守を築いたことには、ある狙いがありました。
薬師寺、東大寺、興福寺を見ることができます。
大和国はもともと寺院や神社の力の強い地域でした。
寺社勢力は、広大な荘園からなる経済基盤を持つだけでなく、独自に兵を組織し、武力も備えていました。
武士にはなびかない厄介な相手に対して、天守を見せることで領主としての権威を示そうとしたのです。
豊臣が力を持ち、これからの時代は豊臣が中心の大和国である!!
そのメッセージを、いかにお寺のお坊さんたちに見せつけるか??意図して豪華にしたものです。

秀長は、寺社勢力と渡り合うために他にも知恵を絞っていました。
興福寺の僧が記した”多門院日記”には、秀長の行った政策が細かく記されています。

・多武峰(寺)が、弓・槍・鉄砲などの全てを秀長に差し出した
秀長は、強大な兵力を備えていた多武峰寺をはじめとする寺社から、武具や防具をすべて没収し、武装解除させました。
これは秀吉が行った刀狩りの3年も前のことです。
秀長は、戦乱の世を終わらせる方策をいち早く考えていたのです。
秀長が行った政策について、こうも記されています。

・土地の面積など書き、差し出すように申しつけられた
秀長は、所領の面積や米の収穫量を申告させる差しだしという検地を行いました。
申告内容は、細かく確認され、寺の土地はことごとく押し取られたというケースもあります。
実際、興福寺は、2度に渡った検地で、領地を1/5にまで減らされました。
秀吉は、大和国の検地をさらに改良した太閤検地を全国の大名に実施させ、長く続いてきた荘園制に基づく土地所有の在り方を一新させました。

秀長は、後に豊臣政権の屋台骨となる政策を先駆けとなってあみ出していたのです。

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1587年、九州攻めでは秀吉が肥後方面の総大将・・・秀長は日向方面の総大将となり、二方面から島津氏を攻略。
九州平定によって、東海より西はほとんど秀吉の支配する処となり、天下統一は目前となりました。
秀長はこの年、48歳にして従2位大納言に叙されます。
豊臣政権内では、秀吉に次いで高い官位です。
この頃になると、秀長は戦場よりも政治の場で重要な役割を担うようになっていました。
秀吉に謁見する為に上洛する各地の大名達・・・
血の気の多い戦国武将たちをもてなすのも秀長の仕事となりました。
秀長の居城・大和郡山城に招かれた毛利輝元の言葉が残されています。

”お供の衆にまで気を遣われる大納言殿の心配りは、筆舌に尽くしがたい”

九州の有力大名であった大友宗麟は・・・

”内密の話は千利休だ
 公式な業務は私が執り計らうので安心してほしい”

大友宗麟は、豊臣ファミリーをこう評しています。

”秀長殿に頼ればすべて大丈夫である”

今や権力者となった秀吉に、意見を言える数少ない存在となった秀長・・・
最も強く反対したのは、朝鮮出兵の構想についてでした。
決して実行すべきではないと歯止めをかけ続けました。

1590年の北条攻め・・・秀吉の天下取りも最終段階に入ったこの戦に、秀長の姿はありませんでした。
1591年・・・病を患った秀長は、52歳でこの世を去りました。
秀長の葬儀には、20万もの領民が集まり、野山を埋め尽くしたと記録されています。
秀長に領地を奪われた興福寺の僧でさえ、こう記しています。

「これからこの国はどうなるのか、心細い限りである」

その心配は、ほどなくして現実となります。
秀長の死から1か月後、政権を内から支えていた千利休が、秀吉に命じられて切腹。
さらに翌年、秀長が頑なに反対していた朝鮮出兵が断行されました。
秀長亡き秀吉政権は、崩壊へと進んでいったのです。

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愛知県北西部にある長久手市・・・リニアモーターカーが走るベッドタウンとしても人気のこの町で、今からおよそ440年前の1584年3月、戦後最大の頭脳戦と言われる戦いが繰り広げられました。
後の天下人秀吉と、徳川家康が激突した小牧・長久手の戦いです。
最初で最後直接対決でした。

織田信長亡き後、天下をわがものにしようとする羽柴秀吉と、信長の次男・信孝とタッグを組んだ徳川家康!!
果たして小牧・長久手の戦いとはどんな戦だったのでしょうか?

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1582年6月、天下統一まであと一歩と迫っていた織田信長と、その長男で織田家の家督を継いでいた信忠が、家臣である明智光秀の謀反によりこの世を去りました。
その後、頭角を現したのが主君の敵・明智光秀を山崎の戦で破った羽柴秀吉でした。
秀吉は、天下統一への野心をたぎらせ、障害となる武将たちを次々と排除していきます。
まず、信長の次男・信雄を味方につけると、信長の三男・信孝と組んだ柴田勝家と激突!!
賤ケ岳の戦いで、勝家を自害に追い込みます。
さらに、敗走した信孝に対し、兄である信勝に切腹を命じさせたのです。
これで、信長の子の中で、秀吉に対抗できる武将は次男・信雄だけでした。

「信雄殿の役目は終わったのう」by秀吉

秀吉は、一転、態度を変え、安土城にいた信勝を追い出すと、信勝の有力家臣であった岡田重孝・浅井長時・津川義冬の三家老を懐柔し、寝返らせます。

信雄は激怒し、遂には秀吉に宣戦布告します。
しかし・・・相手は、明智光秀や柴田勝家を倒した強者・・・しかも、この時秀吉は大坂城を拠点に四方に版図を広げ、すでに20か国を支配下に置いていました。
援軍が必要だと考えた信雄は、ひとりの武将に接近します。
それが、徳川家康でした。
亡き父・信長の盟友であり、同盟者だったからです。

秀吉・家康 たった一度の直接対決・・天下取りの知恵くらべ・・



家康はこの時、新たな領地である信濃と甲斐を加えた5か国130万石の経営に専念。
中央と距離を取り、天下取り争いを静観し続けていました。
それにもかかわらず・・・信勝からの要請を受けたのです。
どうして信勝と組んで秀吉と戦うことにしたのでしょうか??

①自領を守るため

信勝の領地である尾張と接していた家康は、信勝が秀吉に飲み込まれれば常に侵攻の脅威にさらされると恐れました。
その為、家康は領国の支配を盤石なものにしておくために、信雄と手を組んで秀吉と戦うことにしたのです。

②天下取りのため

賤ケ岳の戦いまでは、秀吉と友好関係にあった家康は、自身もまた天下を手に入れようともくろんでいました。
そこで、信雄を立て、織田家を守るという大義名分を手に入れることで、秀吉に対峙し、急速に拡大する勢力に歯止めをかけようとしたのです。

③北条氏との同盟関係

さらに、家康が秀吉と戦う決意をしたのには、北条氏が関係していました。
家康は、小牧・長久手の前年、自分の娘・督姫を北条氏政の嫡男・氏直と政略結婚させていました。
その証として北条氏と同盟を結んでいます。
この北条氏は、伊達政宗とも同盟を結んでいるので、三国同盟が樹立されていました。
強気だったのです。
家康は兵の上では秀吉に圧倒的に劣っていましたが、北条と伊達が味方に付けば秀吉とも対峙できると思っていました。
家康から、北条に援軍を要請していますが、北条氏も他の戦いが忙しくて援軍を送るに至りませんでした。

1584年2月、家康は信雄と同盟を結びます。
そしてすぐに援軍を養成して秀吉包囲網を確立します。
3月になると、信雄は、秀吉と内通した三家老を誅殺しています。
この時、家康は信雄にこう言いました。

「戦は先手を取る必要がある」by家康

3月7日、秀吉と内通していた三家老を信勝に殺害させた翌日、家康は1万3000の主力部隊を率いて浜松城を出発します。
3月13日には、信雄のいる尾張の清州城に入り、秀吉との直接対決に入ります。
そんな中、信雄のもとに驚きの報せが・・・

「池田殿が寝返り、我が方の犬山城を奪いました!!」

寝返った池田恒興は、幼いころから小姓として織田家に仕え、厚い信頼を置いていた重臣でした。
当然、自分につくであろうと思っていたのです。
池田恒興は、秀吉が力をもってきていると判断していました。
得意の懐柔策によって、池田恒興という即戦力を得た秀吉の動きも早く、家康が清州城に入る前、3月8日には恒興とその娘婿である森長可に犬山城と小牧山城を奪うように大坂から命じていました。
これを受け、恒興は犬山城を、長可は小牧山城を攻めることにすると、先に恒興の軍勢が犬山城を攻撃・奪取します。
まさに、家康が清州城に入った3月13日のことでした。
この池田恒興の裏切り行為による犬山城の占拠こそが、小牧・長久手の戦いの始まりでした。
犬山城を奪取されたと知った家康は、

「これで小牧山まで取られては後手に回る」

家康は、小牧山城を狙っていた秀吉の策を見抜いていました。
そこで、すぐさま重臣の酒井忠次を小牧山城に向かわせ守りを固めると、3月15日信勝と共に小牧山城に入り秀吉軍を待ち受けることにしたのです。

対して秀吉方では・・・
恒興が先に犬山城を奪取したことで、森長可が焦っていました。

「急ぎ、小牧山城を落とさねば・・・!!」

功を急いだ長可は、3月16日、小牧山城を奪取する為に援軍となる恒興の軍勢を待たずに単独で出陣してしまいます。
この動きはすぐに家康の知るところとなりました。
家康は、その夜長可の軍勢を討つため、松平家忠、酒井忠次ら5000あまりの兵を向かわせます。
そして、翌3月17日早朝・・・
酒井の軍勢の先鋒が、小牧山城に向かう途中の長可の軍勢に奇襲をかけるのです。
横から松平家忠の鉄砲隊の攻撃を受け、長可は後退・・・しかし、背後にはすでに酒井の別動隊が待ち構えていました。

勝機なしと判断した長可は敗走・・・羽黒での戦いは、信雄・家康連合軍が勝利しました。
そこで家康は、小牧山城周辺に土塁や砦を築かせ、秀吉軍への備えを盤石のものとします。

一方、羽黒での敗北を知った秀吉は、大激怒!!
すぐに大坂を発ち、3月27日、犬山城に入りました。
信雄・家康連合軍1万6000に対して、秀吉軍は10万の大軍勢でした。
数の上では圧倒的に優位だったのです。
さらに秀吉は、家康連合軍同様周囲に土塁や砦を作り、戦に備えます。
その為、両軍攻めあぐね、睨み合い・・・膠着状態が続きました。
総勢11万6000の兵が待機する中、この状況を打破するべく動いた人物がいました。
池田恒興です。
娘婿の失態を取り戻したい一心でした。

「我らに中入りをお許しいただきたい」

これを聞いた秀吉は、ほくそ笑んでいました。

犬山城は、室町時代、織田信長の叔父・信康によって築城された、現存する日本最古の天守です。

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1584年3月13日、天下を狙う羽柴秀吉軍に、信長の次男・信雄と徳川家康の連合軍が対峙した小牧・長久手の戦いは、信雄がたからこの犬山城を奪取したことで秀吉軍優位で始まりました。
しかし、羽黒での戦いで、信雄・家康連合軍が勝利しました。
敗戦の報せに自ら動いた秀吉は、犬山城から信雄・家康連合軍が陣を構える小牧山城に5キロと迫る楽田城日本人を移します。
両軍周囲の守りを固めたため、互いが見える位置に陣を構えたまま膠着状態に・・・。
そんな中、犬山城を奪取した池田恒興が、秀吉にある秘策を持ち掛けます。

「羽黒戦の屈辱を晴らすため、我らに中入りをお許しいただきたい」by恒興

この中入りは、空になった相手の領国を攻撃することです。
この場合は、三河の徳川家康が尾張まで出てきているので、三河・岡崎城を攻めるということです。
この時、恒興は自分の娘婿・森長可の小牧山城奪取の失敗を挽回するため、中入りを願い出たと思われます。

「良いであろう、貴殿らの志、この秀吉しかと受け取った」by秀吉

秀吉は、池田恒興と森長可をおとりにしようと考えたのではないかと思われます。
当然、城を出てくるであろう家康を討ちに行こうと考えたのです。
この策を聞きつけて、大将にしてほしいとはせ参じたのは、三好信吉・・・後の豊臣秀次でした。
秀吉は、軍略に長けた堀秀政を軍師にたてるということを条件に、参陣を許します。
秀吉が池田恒興の策に乗ったのは、甥の信吉が武功をあげるチャンスだと考えたのです。
中入りを許したのは、恒興と長可をおとりにして、家康をおびき出す狙いと、甥の信吉に 武功をあげるチャンスを与えたいといいう思いからだったのです。

1584年4月6日深夜・・・
三好信吉、池田恒興、森長可らは、三河に向け2万ほどの兵を率いて、本陣である楽田城を出発したのです。
秀吉の思惑通り、秀吉の動きは伊賀衆を通じてすぐに家康の耳に入ってきました。

「2万の兵とな!!
 秀吉め、何を考えておる・・・!!
 城攻めか・・・ならば、どこだ??」by家康

おとりとは知らず城から出てしまうのか・・・罠だと気づき残るのか・・・??
別の策があるのか・・・??

8日夜、家康は、榊原康政ら5000の兵を、城から10キロほど南東の小幡城に向かわせます。
さらに家康は、酒井忠次、石川教正、本田忠勝らに城を任せると、およそ9000の兵を率いて出発します。
秀吉の思うつぼ・・・??

1584年4月6日、膠着状態を脱するため、羽柴秀吉は甥の三好信吉を大将に、池田恒興、森長可ら2万ほどの兵を三河中入り隊として出陣させます。
家康はこの動きを伊賀衆から知らされます。
すると、5000の兵を先発隊として、自らも9000の兵を率いて小牧山城から出陣、小幡城に向かいます。

秀吉が思うより早く情報を得た家康は、秀吉が動く前に小幡城に。
そこで、家康は恒興らがここから2キロ北東のところを進んでいると情報を得ると逆に仕掛けます。

「明朝背後から忍び寄る 仕度いたせ」by家康

情報網に長け、敵の動きを素早く知ることのできた家康は、先に奇襲をかけようと考えます。
4月9日午前2時・・・家康軍は小幡城を出発。
この頃秀吉方は・・・第1陣として戦闘を進んでいた池田恒興の軍勢が、進路にある信雄方の岩崎城を襲撃、夜が明けるころ攻略していました。

殿をつとめる総大将・信吉は、その岩崎城から5キロ離れた林の中にいて知らせを聞きます。
すると・・・安堵したのか、兵を休めて悠長に昼食を取り始めたのです。
これが戦の流れを大きく変えることとなりました。

家康はすかさず奇襲をかけます。
油断していた信吉の軍勢は壊滅状態に・・・!!
大将の危機を知った軍師・堀秀政が向かうも、これも家康に読まれていました。
家康は引き返してくる残りの秀吉軍を一網打尽にしようと、長久手・御旗山に有利な陣形を作り待ち構えていたのです。
軍略に長けた秀政も、敗走するしかありませんでした。
そして、同じく引き返して来た恒興と長可は9000の軍勢も、家康軍に取り囲まれてしまったのです。
大きな動きがあったのは、午前10時ごろ、長可の正面突破で長久手の戦いの火蓋が着られました。

両軍、槍や刀を手に駆け回り、大乱戦です。
2万を超える軍勢が、鎬を削る中、先陣を切った森長可が、鉄砲で眉間をうたれ即死。
恒興も、家康に背後から狙われ首を取られてしまいます。

秀吉軍の敗北は、決定的となりました。
そして、午後2時ごろ・・・家康軍は高らかに勝鬨を挙げるのです。

どうして秀吉軍が負けたのでしょうか??
まずは、家康の情報網のすごさです。
敵の動きを十分に察知していました。
そして、秀吉側の軍師・黒田官兵衛が、現場にいなかったことも理由の一つです。
この時、官兵衛は毛利氏との国境画定協議に行き、戦場にいなかったのです。
官兵衛がいれば違ったかもしれません。

さらに、大将を秀吉の甥・三好信吉にしたことも敗因だったのかもしれません。
信吉はこれが初陣でした。
戦経験のない信吉は、岩崎城陥落の報せに油断、家康軍に不意を突かれ、秀吉軍が総崩れとなるきっかけを作ってしまったからです。
長久手の戦いで、秀吉軍が負けてしまったのは、
①家康軍の方が情報量がまさっていたこと
②頼れる軍師・黒田官兵衛がいなかったこと
③初陣の三好信吉を大将にしたこと
が要因だったのです。

本陣である楽田城で苦戦の報せを受けた秀吉は、怒りに震えます。
すぐに出陣するも、時すでに遅し・・・
勝敗は決し、家康の姿もそこにはありませんでした。
長久手の戦いでの敗戦は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった秀吉に汚点を残したのです。
復讐に燃えた秀吉は、美濃にある信雄方の支城を攻め落とし、尾張の蟹江城も占拠します。
しかし、一進一退の攻防が続き、長期戦の様相が呈してくると・・・

長久手の戦いで黒星を喫した秀吉は、もはや力で徳川家康をねじ伏せるのは難しいと判断、そこで、家康と共に戦う織田信雄に狙いを定めます。

そもそも、小牧・長久手の戦いの発端は、秀吉に圧迫された信雄が、家康に泣きついたからです。
秀吉が事の発端である信雄と和議を結べば、家康が戦う大義名分がなくなるのです。
秀吉は、信雄に単独の講和を申し入れています。
このまま戦が長引いて秀吉軍が苦戦したとなれば、全国の大名に秀吉おそるるに足らずと思われかねません。
そうなれば、秀吉に歯向かうものが現れ、天下統一の妨げになると思ったのです。

1584年9月、秀吉軍は信雄が治める北伊勢に侵攻・・・信雄方の重要な市場である戸木城を攻略しました。
すると信雄は精神的に追い詰められ・・・
11月11日、秀吉を恐れた信雄は、家康に黙って和議の申し入れを受け単独講和を結ぶのです。

秀吉の目論見通り、信雄という大義名分を失った家康は、浜松へと帰っていきました。
こうして、9か月に及んだ小牧・長久手の戦いは局地戦では家康が勝利したものの最終的には秀吉が信雄と講和を結ぶことに成功したことで引き分けに終わりました。

こののち秀吉は、紀州や四国などを平定。
1585年には関白に就任して絶大な権力を握ります。
すると秀吉は、家康に自分のもとに上洛して和議を結ぶように要求します。
しかし、家康はこれを拒否、何度交渉しても首を縦に振りませんでした。
再び家康を攻めると決めた秀吉は、前線基地となる大垣城に新たに兵糧蔵を築くとそこに、5,000俵あまりの兵糧を運ぶなど戦の準備を開始。
さらに、家康の右腕で豊臣家との交渉を担当していた石川教正に近づくと10万石の所領を餌に寝返らせたのです。
実質N0,2だった石川教正が秀吉側に転じたことで、徳川家滅亡の可能性がありました。
上洛して秀吉と和議を結び傘下に入るか、再び一戦交えるか・・・
徳川家の存亡をかけた決断が迫られた家康の元に、秀吉の使者が岡崎城にやってきます。
すすと家康は・・・

「わしは秀吉殿の家来ではない
 何故、指図を受けねばならぬのだ
 よって、秀吉殿のもとへ上洛する気など毛頭ない!」

「上洛せねば、関白殿下は大軍をもって攻めますぞ!!」

家康はひるむことなく・・・

「わしが、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国の兵力を集めれば、三万、四万は集まる
 潔く一戦交えようではないか!!」by家康

しかし本心は・・・

「わしが小牧・長久手で、多くの羽柴方の武将を討ち、秀吉殿は怒っていることだろうよ
 上洛?
 何をバカな、上洛して殺されでもしたらたまらぬではないか」by家康

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1585年11月、徳川家康を討つべく盤石の準備を整えていた羽柴秀吉は、こう宣言します。

「明くる年、正月十五日までには出陣し、家康を討つ!!」

対して家康は・・・??
右腕だった石川教正が秀吉に寝返ったことで、徳川家の情報が敵方に筒抜けとなり、このまま戦えば負けるのは必至・・・徳川家存続は今や風前の灯火でした。

ところが・・・11月29日夜・・・
中部・東海・北陸と、広範囲に及びM8、最大震度6の天正大地震が起こります。
この時、近江国大津に滞在していた秀吉は、最も安全とみられた大坂城に避難します。
事なきを得るも衝撃的な・・・大垣城全壊!!
大垣城は、家康討伐のための前線基地として兵糧蔵を置いていた城です。
前線基地が崩壊した秀吉は、家康討伐どころではなくなってしまったのです。

この天正大地震が起きたのは、家康が岡崎で秀吉の使者と交渉した翌日のことでした。
家康は、秀吉と一戦交えると腹をくくり、援軍を要請する書状を北条氏らに書き送るなど戦の準備に追われていました。
そんな中、大地震が起きたのです。
この地震がなければ、家康は秀吉の軍の総攻撃を受けていたと思われます。
家康は、天正大地震によって徳川家滅亡の窮地を逃れたのです。

風前の灯火だった家康・・・なんという強運の持ち主!!
こののち秀吉は、家康討伐を中止し、双方若い路線に転じます。

「もはやわしは五畿内・中国・北国まで支配下に置いた
 家康とて、わしに本気で勝てるとは思ってはおるまい
 妹の旭姫を家康の妻にやり、婿入りの挨拶にことよせて上洛させよう」by秀吉

家康も、旭姫を娶り、秀吉と講和をします。
しかし、秀吉は長久手の戦いで敗戦したこともあり、家康を厚遇せざるをえなくなります。
これが豊臣家崩壊へとつながるとは夢にも思わず・・・

江戸時代後期の歴史家・頼山陽の「日本外史」にはこう書かれています。

”家康が天下を取るは、大坂にあらずして関ケ原にあり
 関ケ原にあらずして小牧にある”

まさに、この言葉通り、2人の唯一の直接対決となった小牧・長久手の戦いこそが天下分け目の戦いと言えるのかもしれません。

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琵琶湖の北に位置する余呉湖・・・そこは天女が舞い降りた羽衣伝説が残る美しい湖です。
かつてこのおだやかな湖の周辺で、血で血を洗う決戦がありました。
戦いの主役は後の天下人・羽柴秀吉と鬼柴田と呼ばれた猛将・柴田勝家です。
本能寺の変の直後、二人の重臣が天下争奪をかけて激突!!
賤ケ岳の戦いです。
しかし、戦国合戦の多くが、後世に編纂された史料に基づいているのでその実像は明らかではありません。
ところが・・・戦いのさ中に書かれた秀吉の書状に軍事機密が書かれていたのです。
その戦略とは・・・??
そして勝家の山城に隠された知られざる戦いの真相とは・・・??

戦国の覇王・信長のもと、全国で死闘を繰り広げた織田家の武将たち・・・
中でも優れた家臣たちを評した言葉にこうあります。

木綿藤吉
米五郎左
かかれ柴田に
のき佐久間

木綿藤吉とは羽柴秀吉のことで、秀吉は木綿のように貴重な存在だという意味です。
かかれ柴田は柴田勝家を指し、かかれとは、突撃の大音声のこと・・・戦上手な勝家を評した言葉です。
下賤の身ながら知恵と才覚で出世を果たした秀吉、対する勝家は信長の父の代から織田家に仕える筆頭家老。
二人の差は歴然としていました。
ところが・・・1582年6月2日未明、本能寺の変・・・二人の運命を変える大事件が起こりました。
明智光秀の謀反によって織田信長が討たれたのです。
その時織田軍は、それぞれの方面軍に分かれ全国に展開、毛利と対峙していた秀吉、勝家は北陸で上杉と死闘を繰り広げていました。
そこで本能寺の変が勃発、逆臣・明智光秀を討つべく京へ戻ることが武将たちの急務となりました。

この時抜きんでたのが秀吉でした。
毛利との講和に成功した秀吉は、すぐさま上洛の途につき京に・・・
世に言う中国大返しです。

6月13日、山崎の戦い・・・秀吉軍は、京都郊外で光秀軍を撃破。
本能寺の変からわずか11日後のことでした。
弔い合戦に見事勝利した秀吉・・・これまでの序列が崩れます。
秀吉と勝家の対立は、一気に深まっていきます。

6月27日、信長ゆかりの清洲城に織田家の重臣が集まって後継者問題、領地配分を行う清須会議が行われました。
結果、光秀を討ち果たした秀吉は領地を拡大・・・従来の播磨に加え畿内を中心に新しく三か国を手にしました。
一方勝家は、越前加賀の外秀吉の長浜城を獲得、それに配下の武将の領地を入れればようやく秀吉の勢力に拮抗する勢力となります。
琵琶湖の北に位置する勝家の玄蕃尾城・・・ここから秀吉に対抗する勝家の並々ならぬ思いが読み取れます。
玄蕃尾城の本丸は、堀がすごく、これほど巨大な堀をめぐらし、大規模な土塁をめぐらしている城は他にはありません。
その土塁も、物凄い高さで囲っていました。
注目されるのは、柱を支えていた建物の基礎の礎石が残っています。
砦と言うよりは、居城・・・常に置いておくような城・・・念入りな工事をしていたことがよくわかります。
玄蕃尾城は、北陸から近江に向かう玄関口・・・
そこは秀吉に対する勝家の攻めの拠点でもありました。
清須会議以降、秀吉をいかに撃退するか、勝家にとっては非常に大きな課題でした。
この玄蕃尾城を築くことで、北国街道の難所である峠を押さえて、いつでも近江へ進出できるルートを確保しておく・・・これが、秀吉に対して強い圧力をかけることとなるのです。
この後、二人の対立は、全国の大名を巻き込んで拡大していきます。

勝家は信長の妹・お市の方と婚姻関係を結びます。
織田家の一門衆に名を連ねたのです。
それに対し、秀吉が仕掛けます。
10月15日、京・大徳寺で信長の葬儀を挙行します。
参列者は3000人、見物する人は貴賤雲霞の如し!!
織田家の家臣としては、主君の葬儀に参列しないわけにはいかない・・・
これにより秀吉は丹羽長秀、池田恒興ら織田家の有力武将たちを味方につけることに成功します。
勝家を大きく上回る勢力圏を形成します。
秀吉はさらに勢力拡大を図り、周辺の大名たちに書状を送り、信長の次男・信雄を織田家の後継者と為します。
勝家の背後の上杉や、一向一揆の総本山・本願寺を引き込むことに成功します。
本願寺に宛てた秀吉の手紙にこうあります。

”勝家の加賀で一揆を起こし目覚ましい働きをすれば、加賀一国を本願寺に与えるであろう”と。

一方勝家は、信長の三男・信孝をはじめ、織田家重臣・滝川一益や周辺大名に書状を送り、反秀吉勢力の結集を画策します。
勝家は、将軍・足利義昭にも接触を図ります。
もともと義昭は、主君・信長が追放した宿敵でした。
毛利に宛てた義昭の書状には・・・

”勝家と手を結び、秀吉軍を挟み撃ちにすることを急ぐべきである”

そして12月初旬・・・
近江への道は雪に閉ざされ、北ノ庄城にいる勝家は、兵を動かすことができなくなります。
秀吉に好機が到来したのです。
秀吉は、5万の大軍勢で勝家方の城・長浜城を包囲、続いて信長の三男・信孝の岐阜城も包囲、どちらも秀吉の前にあっけなく降伏・・・。
さらに秀吉は、勝家に組する滝川一益の北伊勢に侵攻・・・

いよいよ雪解けの季節が到来しました。
それは勝家軍の襲来を意味していました。
決戦の地は琵琶湖の北の賤ケ岳周辺・・・いよいよ天下分け目の戦いが始まろうとしていました。

sizugatake















滋賀県長浜市・・・長浜城歴史博物館には秀吉の書状が残されています。
天正11年4月3日付の弟・羽柴秀長に宛てた書状です。
賤ケ岳合戦の前にどのように戦うべきか、柴田軍と対峙すべきかを命令した文書です。
秀吉の指示が事細かく書かれています。
普通は細かいことは紙には書きません。
敵に情報が洩れるとまずいからです。

3月9日、勝家、北ノ庄城を出陣。
急ぎ南下し、近江に進出します。
総勢2万と言われています。
勝家は頑張尾城に本陣を構え、別所山などに部隊を展開。
前線の拠点となる行市山には勝家の甥・佐久間盛政が陣を構え秀吉に対峙します。
一方秀吉が前線に到着したのが、勝家から遅れること5日後の3月17日・・・木之本に到着。
秀吉軍、およそ5万と言われています。
北の勝家軍に対し、南の秀吉軍の布陣は、東の山・堂木山を先頭に周辺の山々に砦を築きました。秀吉は木之本に本陣をおきました。
勝家の配下・前田利家が布陣した別所山砦・・・勝家側の戦略が顕著に読み解ける砦跡です。
秀吉の軍勢のいる南の方角には堀をめぐらしていません。
土塁の高まりも非常に低いのです。
別所山砦は、四角形に築かれた曲輪に、周囲に堀を築いただけのシンプルな構造です。
一体どうして・・・??
別所山砦は、実際にここで戦うという者ではなく、非常に簡素な造りでした。
ここで戦うよりは、一時の陣・・・相手に見せかければいいというものでした。

一方秀吉軍は、勝家軍とは全く異なる戦略の砦を作っていました。
東野山城は・・・至る所で城壁を屈曲させています。
敵が攻めてきても絶対にやっつける気満々です。
横矢掛けもあります。
勝家軍の砦とは違い、秀吉軍の築いた砦軍は、いくつもの曲輪に守られた堅固な軍事要塞でした。
この違いは何を意味しているのでしょうか?
秀吉軍は、強固に作り、最先端の築城技術を惜しみなく注いで造っています。
非常に守りの強い砦群でした。
秀吉の戦略は、専守防衛・・・いかにして敵の進撃を食い止めるか?防衛に徹した戦い方をしていました。
勝家は、周囲を秀吉に組した大名たちに囲まれています。
勝家が近江に進出するためには、琵琶湖の東側を南下せざるを得ません。
一方秀吉軍は、その南下を食い止めるのがこの合戦における両軍の基本戦略と考えられます。
さらに、秀吉の書状には、勝敗を左右する重要な言葉が記されていました。
”惣構え”の文字です。

”惣構えの堀から外へ鉄砲を放つことは言うに及ばず、草刈りの者に至るまで、一人も惣構えの外へ出してはならない”

この”惣構え”とは、何を意味しているのでしょうか?
高さ1mほどの土塁は、昭和30年代までこの地に残されていました。
東山砦から堂木山まで尾根伝いにずっと続いていたのです。
秀吉が築いた惣構えとは、東の山から堂木山を縦断し、街道を遮断した東西500mに及ぶ大規模な土塁の長城であったと考えられます。
惣構えを設けてシャットアウトし、柴田軍を南下させないことが目的でした。
惣構えも、賤ケ岳合戦の中で重要な意味を持っていたのです。
惣構えで、鉄壁の防御ラインを築いた秀吉軍・・・勝家軍は、その突破を試みるも果たせず・・・およそ1か月にわたるにらみ合いが続きました。
ところが、思わぬ方向から敵が出現しました。
北伊勢の滝川一益が、秀吉軍の背後・美濃に進出!!
すでに、降伏したはずの信孝もこれに呼応します。
このままでは、秀吉軍は、連合軍に挟撃されてしまう・・・!!
秀吉に危機が迫っていました。

①防御に徹する・・・??
秀吉の書状にもこう書いています。
”惣構えから先へ、一人の足軽も出さず、守りに徹しさえすれば、敵は動きが取れなくなるであろう”
秀吉軍にとって、防御に徹することが最善の策ではないか?
下手に動くと両軍の均衡は崩れ、惣構えを突破される可能性もあります。

”もし敵が、5日、10日と攻めかけてきたとしても、相手の様子を伺いながら、ゆうゆうと合戦に及ぶべきである”

防御に徹していれば、勝家軍も攻めあぐね、長期の対陣となり兵糧も枯渇・・・
いずれ勝家軍は、北陸に撤退せざるを得なくなる・・・!!

②軍を二手に分け、敵を各個撃破する!!
秀吉の書状には・・・
”秀吉自ら兵を率いて播州へ向かう 
 その間、前線の秀長より注進が来れば、姫路から引き返そうと思うが、日数がかかるであろう
 だが、秀吉が姫路に滞在する間は、決して出撃してはならぬ”

4月3日の段階で、姫路の方に出るといっているのは、毛利が攻めてくるのでは??
毛利軍の県政のために、中国地方に出陣するという意図があったのです。
秀吉は、勝家だけでなく、周囲を敵(毛利・長宗我部・雑賀衆・徳川)に囲まれていました。
敵の動向に気を配り、それに対応しなければならなかったのです。
あくまでも防御に徹するべきか、それとも軍を二手に分けてそれぞれの軍を討伐すべきなのか・・・??
秀吉に選択の時が近づいていました。

4月の中頃・・・秀吉は軍を二手に分けます。
信孝・一馬氏連合軍を討つために岐阜へ向かいました。
秀吉不在の前線は、弟・秀長が担いました。
ところが・・・大雨によって揖斐川が氾濫、岐阜城への道は閉ざされていたのです。
秀吉は、岐阜城からおよそ20キロ離れた大垣城にとどまり、敵の出方を伺いました。
その4日後の4月20日・・・秀吉の不在を知った勝家軍が、突如動き始めました。
勝家方の猛将・佐久間盛政が、惣構えを避け、密かに尾根伝いを伝い、秀吉軍の中ほどにある大岩山砦に突如攻撃を開始、中入りという戦術でした。
思わぬ敵の奇襲攻撃に、奮戦する秀吉軍・・・しかし、この時、秀吉方の有力大名・中川清秀が討ち死に・・・記録には、清秀の外に六百余人が戦死とあります。
秀吉軍にとって大打撃でした。
勢いに乗った盛政軍は、岩崎山砦も陥落させます。
勝家本隊は前進、惣構えに一気に猛攻をかけます。
惣構えを突破しようと攻めたてる勝家、秀吉軍が崩れるのは、もはや時間の問題でした。
しかし、秀吉は、この不測の事態に備えていました。
前線の秀長より注進が来れば、すぐに引き返す・・・秀吉が戻るまでは、勝手に出撃してはならない・・・
揖斐川の氾濫により、岐阜城の敵もまた秀吉軍を追撃することは不可能です。
秀長から注進を受けた秀吉は、作戦通り、すぐさま兵をまとめ前線の木之本を目指します。
大垣からおよそ52キロ・・・その道のりをわずか5時間で駆け抜けたといいます。
木之本へたどり着いた秀吉・・・勝家軍は、未だ惣構えを突破できずにいました。
秀吉は、敵襲で孤立した盛政軍を追撃、その時・・・勝家方の武将・前田利家が、突然陣地を放棄したのです。
秀吉に諜落されていた武将たちが、勝家に見切りをつけた瞬間でした。
これによって、勝家全軍は崩壊・・・戦いは、秀吉の大勝利となりました。

4月23日、秀吉軍、北ノ庄城を包囲。
4月24日、勝家は、お市の方と共に自刃!!
勝敗は決したのです。

戦い直後に書かれた毛利宛の書状で、秀吉はこう豪語しています。

「東は北条、北は上杉まですでに秀吉に従っている
 毛利が秀吉に従うことになれば、日本は源頼朝公以来、一つにまとまる事であろう」

猛将・柴田勝家を下したことで、天下人の後継者となった秀吉・・・賤ケ岳の戦いこそ、まさに秀吉にとっての天下分け目の決戦でした。

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天正10年6月2日・・・この日、歴史が変わりました。
天下統一目前だった織田信長が、家臣・明智光秀の謀反により非業の死を遂げる・・・本能寺の変です。
光秀はどうして謀反を起こしたのか?
今なお多くの謎に包まれた本能寺の変ですが・・・
今回の視点は”どうして信長は本能寺に泊まったのか?”です。
この時、信長には京都において定宿が三カ所ありました。
その中で、信長が本能寺を選んだのはなぜか??

戦国最大の事件本能寺の変・・・この時明智光秀は、主君・織田信長だけでなく信長の跡継ぎ・信忠をも討ち果たしました。
この信忠の死により、織田政権は実質的に崩壊したのです。
信忠とは・・・??
26歳で亡くなっていますが、非常に活躍した有能な息子でした。
偉大な父・信長の影に隠れ、歴史に埋もれてしまった信忠・・・。
1557年、信長の長男として誕生します。
信長のもうけた息子は、信忠・信雄・信孝など11人・・・。
しかし、信忠以外は幼くして養子に出されています。
攻めようとしている伊勢などに、養子に送ったりしています。
しかし、それは織田家に限らず、戦国大名のいろんな家がしてきている事・・・。
嫡男以外の男子を戦略的に周辺の領主に養子に入れるので、余程能力に問題がない限りは、後継者は嫡男でした。
生れながらにして信長の後継者として育った信忠・・・
その帝王学は厳しく・・・織田家の家臣が信忠を褒めると・・・信長は、
「家臣に手の内を読まれるなど、信忠は大将の器ではない
 そうであれば、信忠を我が後継者とするわけにはいかない」と。
他にも、信忠が自ら能を舞うのが好きな能数寄だとわかると、それに対し、
「武将たるものが能にうつつを抜かすなど何事か」と怒り、能に使う道具を取り上げたといいます。

信長から後継者としての資質を疑われた信忠・・・いかにして信頼を勝ち得たのでしょうか?

1575年5月、織田・徳川連合軍が戦国最強とうたわれた武田軍と激突!!
世に言う長篠の戦いです。
結果、織田・徳川連合軍は、武田軍に完勝!!
この機に乗じ、織田軍は武田領の東美濃を攻略。
その総大将に抜擢されたのが、わずか19歳の信忠でした。

岐阜県恵那市岩村町・・・武田の東美濃の拠点となった岩村城は、標高717メートルの巨大な山城です。
信忠軍が包囲する岩村城は、自然の地形を利用した難攻不落の要塞でした。
その秘密が井戸にあります。
兵糧攻めでは、水の手をたつということが行われます。
しかし、この城は、豊富な水が城内に湧いているので、城を落とすことができませんでした。
信忠が攻めたときも、半年間ここに籠っていました。

事実、信忠は5か月間岩村城を落とせず・・・

そこに、長篠の戦いの敗戦から息を吹き返した援軍が迫ってきます。
岩村城に籠城していた武田勢は、援軍を待たずして出撃!!
信忠の陣を逆に攻めたてます。
この時信忠は、自ら先陣として出陣!!
敵を返り討ちにしたばかりか、大将格21人を討ち取りました。
これによって岩村城は落城!!
11月、信長は信忠に茶器などの名物を褒美として与えたばかりか、尾張・美濃の二国を与ます。
さらに織田家の家督を譲りました。
信忠は、自らの武勇を示すことで織田家当主の座を勝ち取ったのです。
そして、天下人の後継者としての地位を盤石にしたのが・・・1582年2月武田征伐!!
総大将・信忠率いる織田軍は、怒涛のように武田領を席巻!!
最大の激戦となった高遠城攻めでは、自ら前線に赴き、采配を振るいました。
信忠は武田が誇る高遠城を、わずか1日で落城させたのです。

戦国最強の武田軍を相手に、自ら先陣を切る信忠に、信長は苦言を呈しています。
武田を弱敵と侮ってはならぬ・・・
しかし、そんな信長の心配を余所に、信忠は快進撃を続け、遂に武田家は滅亡!!
信忠が武田領に侵攻してわずか1月でした。
武田滅亡によって東の憂いは無くなりました。
信長は宣言します。

「信忠に天下を譲る!!」

織田家の家督だけでなく、天下人の座も継ぐことになった信忠・・・
本能寺の変3か月前の出来事でした。

本能寺の変2日前・・・1582年5月29日。
信長は安土を出立!!
二、三十人のお供を連れて上洛。
信長が少人数で上洛したのはなぜか?
「信長公記」によると・・・

直ちに中国へ出陣しなければならないので、安土に残るものは戦の準備をして待機させ、命令次第出陣するというので、この度小姓衆以外は随行しなかった。

当時織田軍は、関東・北陸・中国・四国と各地に展開。
中国方面軍羽柴秀吉は、備中高松城で中国の覇者・毛利と対峙。
信長に援軍の要請をしていたのです。
大規模な軍事遠征を間近に控え、上洛した信長・・・
その宿所となったのが本能寺でした。

戦国時代の京は、応仁の乱の被害があって、かなり荒廃した様子でした。
現在の本能寺は、豊臣秀吉の時代に移されたもので、元の本能寺は別のところにあります。
信長が宿所とした本能寺は、南西におよそ1キロ離れたところ。
戦国時代の京都を克明に記しているのが「国宝 上杉本洛中洛外屏風」です。
本能寺の周辺には、水堀などの防御施設が描かれています。
本能寺周辺で行われた発掘調査では、寺の周囲に幅およそ4メートル以上、深さ1メートル以上の堀などが設けられていたことがわかっています。
戦国時代の京都は、応仁の乱で焼け野原になって以降も戦乱で・・・その結果・・・上京と下京に分断され・・・それぞれの町は、総構えと呼ばれる濠などの防御施設に守られていました。
しかし、本能寺はその総構えの外に位置していました。
市街地のいちばんの外側・・・攻めやすかったのです。
信長自身は、本能寺はそれほどたくさん泊まっていません。
当時、信長が上洛した際に宿としていたのは、主に本能寺・二条御新造・妙覚寺でした。
記録によれば、二条御新造には14回、妙覚寺には20回、本能寺には4回・・・。
本能寺の北東に位置した妙覚寺は、一番多く泊まった宿です。
寺の周りに土塀や堀を巡らせた防御機能のある寺です。
本能寺の変の時には、信長の嫡男・信忠がここにいました。

1582年5月21日・・・信長が上洛する8日前・・・
信忠は兵500を率いて上洛!!妙覚寺に宿泊していたのです。
本来、妙覚寺は信長が京都へ上洛した時、頻繁に寄宿していた場所です。
信忠も妙覚寺へ泊るようになり・・・信長は本能寺に移り、信忠が妙覚寺にいるようになったのです。
妙覚寺と向かい合っていたのは、二条御新造。
信長の宿所として築いた屋敷です。
しかし、2年後には、時の皇太子に当たる誠仁親王に渡しています。
信長は、一旦妙覚寺に来て、その後、本能寺に移っていくのです。
妙覚寺には長男・信忠、二条御新造には皇太子・誠仁親王が・・・信長は本能寺に宿泊せざるを得なかったのです。

では、信長と信忠はどうして同時に上洛していたのか?
朝廷に対し、信長はこう申し立てています。
「我が顕職は信忠に譲与したい」と。
当時、信長の官位は右大臣・右大将(右近衛大将)・・・武士の頭領を意味します。
信長は、朝廷の許しを得て、自分の官位を信忠に譲ろうとしていたのです。
戦国武将は、いずれも成り上がりの者が多く、公家・帰属に比べると家柄も悪い・・・
権威付けという意味で、官職は重要な意味を持っていました。
これは、明治維新まで官職が人の序列を定める一番の根幹部分でした。
当時信忠の官位は従三位・左中将(右近衛中将)・・・信長は信忠の官位を武家の頭領である右大将に引き上げようとしていたのです。
今回の上洛で、信長は普段と異なる行動をとっています。
それまで信長は公家宗徒の対面を断ることが多かったのです。
その理由は「くたびれ云々」・・・面倒くさいということです。
しかし、今回の上洛では、信長は公家衆40人と数刻にわたり雑談に応じ、自慢の茶道具まで披露。

当時、信長が京都に来るときは、なにか京都に用事がある時・・・
信忠がいるということは、信長は官職を辞めた後、息子・信忠に高い位をつけてほしいと朝廷に働きかけていたのです。
その答えを聞くため・・・信忠が妙覚寺にいて、信長が本能寺にという可能性が高いのです。

後継者の豚だの地位を盤石にするために、本能寺に泊まった信長・・・
しかし、この時、明智光秀の大軍勢が本能寺を目指して進軍していました。

1582年6月2日早朝・・・
明智軍1万3000が信長のいる本能寺を襲撃!!
記録には、この時信長はこう叫んだといいます。
「信忠の別心(謀反)か!!」と。
近くにいる軍勢は信忠の身と思い込んでいた信長・・・それほど明智軍の襲撃は想定外だったのです。
本能寺から信忠の妙覚寺まで600m・・・明智軍の時の声は信忠の宿所にも届いていました。
信長のいる本能寺が明智軍に攻められている・・・信忠はどうするべきなのか・・・??

①信長の救援に向かう・・・??
②それとも、安土へ撤退する・・・??

ルイス・フロイスの記録によると・・・
信長は、安土から宮子までの陸路におよそ6mの道幅の道路を作らせたとあります。
道は平たんで真っすぐであった。
およそ50キロ・・・整備された道・・・
伊勢には次男信雄、大坂には三男・信孝集結・・・京都脱出に成功すれば、弟たちと合流することもできる・・・。
信長の弟・織田長益など、名のある武将も脱出しています。
信忠なきあと、後継者候補は信雄と信孝・・・二人はそれぞれ信雄=北畠・信孝=神戸に養子に出ています。
家督相続をめぐり、骨肉の争いは必至!!

③光秀を迎え討つ??
戦わずに退くなど、武士の一分が立たん!!

明智軍の本能寺への攻撃はわずか1時間余り・・・光秀の次なる標的は、妙覚寺にいる信忠・・・!!
その頃信忠は、妙覚寺を後にしていました。
向かった先は、隣の「二条御新造」
妙覚寺より守りが堅かったからです。
この時、信忠の側近は、「安土に移り、光秀を退治しては?」と進言します。
信忠は・・・
「これほどの謀反を企てた光秀が、洛中のあらゆる退き口に手をまわしていないはずがなかろう。
 途中で相果てることこそ、無念である。
 いたずらにここをひくべきではない!!」
信忠は、二条御新造に籠り、光秀と戦う道を選びました。
信忠は追手門を開門させ、敵をそこへ集中させます。
敵が怯むと打って出て、押し寄せる大軍勢を3度にわたって押し返したといいます。
信忠は、新陰流の免許皆伝で、剣の達人でした。
自ら剣をふるい、敵17人を切り伏せたといいます。
しかし・・・多勢に無勢・・・獅子奮迅の働きをしたのち、家臣にこう命じました。

「縁側の板をはがし、遺体を床下へ入れて隠せ!!」と。

そして、燃え盛る炎の中、信忠は切腹!!
壮絶な最期を遂げたのでした。
信忠死去・・・享年26歳でした。

明智軍は、信長同様、信忠の首も見つけることができませんでした。
この時、光秀は都の出入り口を押さえていたわけではありませんでした。
もし、この時信忠が逃げていれば、生き残れる可能性は十分にあったのです。

信忠亡き後の織田家は、弟達の家督争いで力を失い、天下は秀吉・家康のものとなっていくのです。

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かつて忍びの国と言われた伊賀の国は、現在の三重県伊賀市と名張市にわたってありました。
このあたりには、そのその忍びの者が暮らした屋敷が今も残っています。
伊賀の国には、合戦の際に籠る山城や砦もいたるところにありました。
その数、600カ所以上!!

伊賀忍者はどのようにして生まれたのでしょうか?
伊賀国には、平安時代から東大寺や興福寺などの強力な寺社兵力が支配する荘園がたくさんありました。
そうした荘園の管理を地元の豪族に任せていましたが・・・
その豪族が力を持ち始めると、地元豪族と寺社勢力との争いが起こり出します。

南北朝時代は・・・支配に刃向かうものが現れ、家々が焼き払われた。
余所者が勝手に村に入り、年貢や物を奪うなど、乱暴狼藉が絶えない・・・とあります。

支配者たちの影響力が弱くなると、伊賀に国は乱れ、それぞれが対立する緊張状態に・・・
農民とて自営の手段を持たなければ・・・!!
と、農作業の間に武術を学び、住まいには敵の襲来に向けて様々な仕掛けを・・・!!
刀隠し、どんでん返し、隠し戸・・・争いの絶えない土地柄が、伊賀忍者を生み出したのです。

修験道とは、日本古来の山岳信仰と密教が合わさったもので、伊賀の国には、開祖の役小角が創建したといわれる延寿院があり、山中では山伏が厳しい修行を行っていました。
そんな修験者と接することで、彼らの会得した武術や呪術を会得することができたのです。
さらに、修験者と同じように修行を行うことで、強靭な身体能力を得ていきます。
争いが絶えなかった場所&修験道の修行地・・・この条件で、伊賀の国は忍びの国となったのです。

1478年・・・ついに忍びの存在が世に知られることに・・・
室町幕府9代将軍・足利義尚が近江の守護大名・六角高頼を討伐する為に、鈎(まがり)に布陣します。
戦いが始まると、観音寺城にいた六角氏は城を捨て、伊賀・甲賀のの忍者とともに山中でゲリラ戦を展開!!
その時使った戦法が、亀六の法です。
亀六の法とは・・・
亀が甲羅の中に手足を入れることに例えて、山中に身を隠し、敵が油断したところで奇襲をかける戦法です。
将軍の本陣に夜襲をかけたり・・・幕府軍の武将たちも震え上がったといいます。
これをきっかけに、忍者は各地で傭兵として雇われるようになっていきます。

忍者はいつもあの黒装束ではなく・・・
忍者には、決まった装束があるわけではなく、時と場所によって使い分けていました。
草むらへは藍色の羽織を・・・他国に出かける際には、商人や大道芸人に・・・不自然ではない職業に変身します。
忍者使用の武器も、後世の創作が多く・・・
忍び刀は明治時代になってから作られたもの・・・??
忍者の武器はごくありふれたものが多く、よく使われていたのは、農作業に持っていても不自然ではない鎌!!
縫い針・・・一つの物をいくつもにも使える物・・・それが道具に対する考え方でした。

超人的と思われる忍者の身体能力とは・・・??
一説には6尺(1.8m)の障壁を越え、一日40里(約160㎞)走ったと言われていますが・・・
もっとも必要とされたのは、運動能力ではなく、忍耐力・・・強靭な精神力でした。
いかに過酷な状況でも任務を遂行する為に・・・!!

印を使った祈りは九字護進法で、臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前・・・と結びながら神仏に身の安全を祈りました。
鍛錬された肉体と、不屈の精神力が忍者の生活を支えていました。

分身の術、火遁の術・・・忍術は本当にあったのでしょうか??
本当に分身の術ができるわけではなく、瞬間催眠で相手に幻覚を起こさせたり、薬を飲ませて幻覚症状を起こさせたりすることはありました。
伊賀や甲賀の山中は、沢山野草が生えていて、知恵も持っていました。
火遁の術は・・・火薬の知識に長けていたものが火薬でビックリさせてその間に逃げることもありました。
それが、後の読本や歌舞伎へと繋がっていきます。

忍者には、陽忍と陰忍があります。

陽忍は、姿を現して堂々と活動します。
諜報活動で多用され、最もよく使われ陽忍は、敵の中で不満を持つ者に好条件を持ちかけて協力者にするというものでした。
情報を得ていたのです。
陰忍は、人に見つからないように忍び込む方法です。
様々な策を労じて、敵に侵入し、情報収集や破壊行動を行いました。
この二つを臨機応変に使いこなす・・・どちらにしても重要なのは、生きて情報を持ち帰ることでした。
もし、囚われて拷問にあった時は、決して白状せず、しかし、自害もしてはいけないのです。

見知らぬ土地での情報収集は・・・
何回かその土地を訪ねて協力者を見つけます。
そして、その人物の家の前で、仮病を使って白湯を・・・そして、後日謝礼を送ることで、ターゲットの家に取り入ります。
さらに・・・潜入がばれたときは・・・恋文を渡し・・・恋するあまり忍び込んだとその場を取り繕いました。

自治を守るために発展していった伊賀忍者の前に立ちはだかるのは・・・戦国の覇者・織田信長です。
1568年、尾張国から上洛した織田信長は、近畿地方の制圧を始めます。
この時、信長の軍門に下っていなかった勢力が、伊賀でした。
名ばかりの領主しかいなかった伊賀では、惣国一揆と呼ばれる自治組織を作り、外敵の侵入に備えていました。
その掟書きには・・・
他国の勢力が侵入した場合、一味同心して戦わなければならない
国境に敵が現れた際には、17歳から50歳までの男は所定の陣地に着くこと
など、合戦の決まりごとが細かく決められていました。
惣国一揆は、忍者集団を中心とした伊賀十二人衆が統率していたので、容易に攻略することはできませんでした。
1578年、信長の次男で隣国の伊勢を治めていた信雄が、伊賀を支配下に置こうと行動を起こしました。
信雄は、侵攻の拠点にするために、丸山城の修築に着手。
当初、伊賀衆は、向かいの天童山無量寿福寺から様子をうかがっていましたが・・・
城の改修は、事の他大規模で、放っておけば織田軍の侵攻を許しかねないと判断・・・
先手を打って攻撃を仕掛けることに・・・!!
第一次天正伊賀の乱です。
10月25日、忍者を中心とする伊賀衆が、丸山城を攻撃!!
不意を突かれた織田軍は大混乱に・・・敗走してしまいました。
しかし、巻き返しを図る信雄は、翌年、父・信長に無断で再び8000の兵を率いて、伊賀侵攻を企てます。
これを察知した伊賀衆は、万全の態勢で織田軍を迎え討ち、奇襲攻撃で撃退!!

織田軍は、僅か2日で3000の兵を失い、伊賀衆が勝利したのでした。
敗戦の知らせを受けた信長は大激怒!!
自らの軍勢で伊賀に攻め入る決断をします。
1581年、織田軍は、大軍で伊賀に侵攻!!
これが第二次天正伊賀の乱です。
織田軍は四方から取り囲むように攻め、伊賀衆を分断する作戦に出ます。
追いつめられた伊賀衆は・・・ただでさえ少ない兵を分散させざるを得なくなり、各地の山城へ籠城。
ゲリラ戦を封じられた今、勝ち目はありません。

落ち延びた伊賀衆の最後の砦が柏原城です。
女子供も含め、1,600人が逃げ込みました。
2週間に及ぶ抵抗もむなしく、遂に伊賀衆は、屈服したのでした。
信長はそれでも手をゆるめません。
伊賀の人々を片っ端からとらえて殺していきます。
当時の記録には・・・
毎日300~500人の首が刎ねられ、言葉では言い表せないほど悲惨な状況だ。
柏原城に近い名張川の河原にはおびただしい遺体が討ち捨てられました。

そして、寺社を焼き払い、道端の地蔵までも破壊!!
地獄絵図さながらでした。
この時壊された地蔵の一部は残っており、伊賀の惨劇を今に伝えています。

ほぼ殲滅されてしまった伊賀衆・・・しかし、中には山中に潜んでいたもの、周辺に逃れたものもいました。
彼らに目をつけたのは・・・織田軍に関わっていた武将たちでした。
忍者の能力の高さに驚かされ・・・徳川家康もその一人でした。
1582年6月2日・・・
京の本能寺に宿泊していた織田信長は、家臣の明智光秀に襲われ自害します。
本能寺の変です。
この時、徳川家康は境見物を終え、信長の招待で京に向かっている最中でした。
飯盛山付近でこのことを聞き、信長の敵討ちを決意しますが・・・
供周りは30人ほど・・・1万を越える明智軍を討つためには、自国・三河に戻って兵をあげる必要がありました。
主要街道は、明智勢に封鎖されている可能性が・・・。
そこで、山深い伊賀を越えることに・・・神君伊賀越えです。
最短にして最も明智勢に見つかりにくいルートです。
飯盛山→宇治田原→三河へ・・・。
しかし、この伊賀越えは、道の険しさに加え、落武者狩りにあう危険性がありました。
そこで活躍したのが・・・地元・甲賀、伊賀の忍者でした。
家康一行は、甲賀・多羅尾氏の治める小川城で1泊し、山中を東へ・・・
この時、同行した中には、先祖が伊賀の出の服部半蔵正成もいました。
半蔵自身は忍者ではなく武将でしたが、江戸時代の資料によると・・・半蔵は御斎峠に先回りし、のろしを上げて伊賀忍者200人を呼び寄せて、一行の警護をさせたと言われています。
彼らの協力のおかげで、本能寺の変のわずか2日後に岡崎城へ到着!!
家康が生涯最大の危機を乗り越えた背景には、忍者たちの活躍があったのです。
家康はこれを機に、伊賀者200人ほどを召し抱え、半蔵の配下に起きました。
そして彼らに重要な任務を与えます。

1590年、秀吉の命により家康は江戸入府。
その際、服部半蔵配下の伊賀忍者たちも移り住みました。
江戸城の西側・・・半蔵門・・・一説には、家康がこの門の警護を服部半蔵正成に任せたことからそういわれたといいます。
この半蔵門には、特別な役目があり・・・江戸城有事の際には、脱出口となる・・・将軍は半蔵門を出て、甲州街道に出、徳川一門の治める甲府に入れるようにと言います。
そこで、半蔵門から四谷にかけての街道沿いには、将軍の警護をする伊賀忍者の屋敷が配置されていたと言います。
家康のもとで、如何なくその力を発揮する伊賀者・・・
1600年、天下を狙う家康は、敵対していた上杉景勝を討つために、諸大名と共に会津征伐に出陣!!
しかし、上杉の前線基地・白河小峰城の守りは固く、内部の情報が全くわかりません。
そこで家康は三人の伊賀忍者を放ちます。
すると彼らは・・・城の構造、兵力、武器弾薬・・・事細かく調べてきました。
やがて家康が江戸幕府を築いて平和な時代となると、伊賀忍者たちは大奥の警護、江戸城の門番などの警備員として雇われるようになります。
伊賀組は、江戸城内にある百人番所に控え、甲賀組などと交代で警備にあたりました。
しかし、それはすべての忍者にとって憂うべき事でした。
江戸時代中期の書物には・・・
”七十歳前後の者は、実際に見聞きした忍術を伝えていくことができるが、若い者はそれができない。
 忍びの未来が、心配だ。”
と書かれています。
江戸時代、忍者たちは徳川家だけでなく、伊賀上野、桑名、彦根など、多くの大名に仕えました。
彼らは参勤交代のための警護や情報収集をこなしたといいます。

しかし・・・戦のない平和な時代・・・忍びの活躍の場は無くなっていきます。
歌舞伎や物語の中に登場する伝説となっていくのです。



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