>東京大空襲 [ 井上有一 ]

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「昭和の選択」です。

天才ピカソは、祖国スペインの町が受けた無差別爆撃を「ゲルニカ」で、戦争暴力の大罪を世界に訴えました。
その傑作に匹敵するといわれているのが・・・
東京大空襲の惨劇を現した書・「噫横川国民学校」です。
作者は前衛書道の草分け・井上有一。
感情をそのまま吐き出したような井上の書は、日本ばかりでなく外国でも高い評価を受けています。

昭和20年3月10日、東京の下町を焼き尽くしたアメリカ軍の攻撃・・・東京大空襲。
その死者は、10万ともいわれる未曽有の被害を出した無差別爆撃でした。
小学校の教員としてその場に居合わせた井上。
目の当たりにしたのは、火炎が生み出す焦熱地獄でした。

九死に一生を得た井上・・・しかし、教え子を救えなかったことが大きな悔恨となりました。
書家として世界的に名声を得ても、東京大空襲の記憶は30年書けませんでした。

東京下町の横川国民学校訓導・井上有一は、6年生男子35人を引き連れて、昭和19年8月から千葉県君津郡富岡村に疎開していました。
井上と子供たちの一日は、生気歌・・・愛国歌の吟唱から始まりました。
村人たちにの新設に支えられ、健気で質素な毎日を送っていました。

既に首都圏は、アメリカ軍の襲撃を受けていました。
日本は太平洋戦争開戦から2年足らずで、南方の拠点を失い、戦況は著しく悪化。
日本の都市部では本格化する本土空襲に備え、縁故疎開を促進しました。
加えて、空襲での火災を最小限に抑えるために、建物疎開と称して家屋の撤去を進めました。
昭和19年7月、サイパン島を奪われた日本は、学童疎開促進要綱を発表。
子供たちの疎開が始まりました。
子供達を守る事・・・それは、将来の戦力を守る事・・・。
東京からは23万5000人の子供たちが地方へ移り住みました。
井上たちも、多くの人に見送られながら疎開しました。

かつて画家を志していた井上は、教師との両立に限界を感じ、書道に楽しみを見出していました。
井上は、疎開先の宿舎を「群龍蟠棲寮」と名付け、気落ちする子供たちを鼓舞しました。

「午前の仕事は野菜とり、米とり、まきとりなど、自ら食うための仕事が先決で、勉強どころではない。
 子供にとっては重労働だが、野菜とりは先方の部落で、いもなどふかして待っていてくれる。
 まきとりは、ついでに山の中で遊んでくる。
 それぞれ、楽しみが付いているからみんないそいそと出かける。」

子供達は親元を離れたものの、戦争の暗い空気に覆われた東京を出、生気を取り戻していきました。
厳しい富岡村の冬を、井上と子供たちは肩を寄せ合いながら切り抜けました。

昭和20年1月・・・
井上と子供たちの元年は、書初めで始まりました。
”生気歌”を寄せ書きしました。
寄せ書きをさせた井上の狙いとは・・・??
この書初めから2か月後・・・大きな選択を迫られることとなります。

アメリカ軍は、サイパン島を占領し、日本本土のほとんどを爆撃圏内に入れました。
最新鋭の長距離爆撃機B29は、日本の都市部に容赦ない爆撃を繰り返しました。
東京は・・・11月から翌2月にかけて、30回以上の空襲に晒されました。
銀座なども被害に遭い、死者は2000人に達していました。

昭和20年2月26日、井上は、疎開先の千葉から東京に向かいました。
受け持っていた6年生の卒業と進学の打ち合わせのためでした。
東京についた井上は・・・その変わり果てた姿に呆然自失。。。

「こんなところへ帰ってくるなら、何のために疎開しているのかわからない。。。」

変える必要がないと抗議・・・!!

①疎開を続ける
この先、また東京が空襲に遭うのは間違いない・・・こんな時に東京に帰すのは危険だ・・・
卒業式よりも子供たちの命を守る事こそ教師の使命だ。。。

②東京へ引き上げる
しかし、国や自治体の方針が変わるわけでもない・・・おまけに6年生を帰さなければ新しい学童も受け入れられない・・・。
卒業後の進路も・・・。

戦争を遂行する国家の方針と子供の命・・・。
一介の教員に過ぎない井上は引き裂かれる思いでした。

国民学校初等科を卒業するということは、一人前の日本国民。
国民たるものは、空襲があれば消火に努めなければならない。
働いて、戦争を支えなければいけない・・・。


昭和20年3月3日、子供たちは富岡村に別れを告げて東京へ。。。
2月以降、学童たちは各地から続々と帰郷していました。
井上は、実家が罹災していたので、その夜は学校に宿直していました。
3月10日午前0時8分・・・
深川に最初の一発が落とされたのを合図に、大空襲が始まりました。
続々と学校へ押し寄せる避難民・・・烈風でまともに立っていられない・・・
一面の日の海・・・火炎は校門前に迫っていました。
校内は真昼のような明るさで、とにかく消化を・・・!!
すべては無駄・・・死の直感・・・死が近づいている・・・。

B29の爆撃は、2時間以上続き、東京の下町を焼き尽くしたのです。
一夜にしておよそ10万人が命を落としたのです。
焼夷弾は、日本の木造家屋を焼くために、アメリカが開発したものでした。
3月10日の朝日は、下町を埋め尽くした死体を照らしました。
そのほとんどは一般市民でした。
仮死状態だった井上は、校庭に出され、人工呼吸で奇跡的に息を吹き返しました。
しかし、横川国民学校では、1000人もの人が命を落としていました。
その中には、井上と一緒に富岡村から帰ってきた6年生・8人がいました。

当時は「防空法」という法律で、年の住民は空襲があったら消火に専念すべきである。
退避というのは、事実上法律によって禁じられていました。
がんばって国民は火を消すべきだ・・・!!

教員として何もできなかったという無念・・・。
たまたま生き残ってしまった悔い・・・。
自分の体験を語れない苦しみ・・・。

空襲で住まいを失った井上は、親戚を頼って神奈川県に・・・。
井上はそこでも教壇に立ち続けました。
教職の傍ら、書にのめり込みます。
敗戦から目覚ましい復興を見せる日本・・・。
井上も、新しい時代の新しい書を確立させるために、文字を書くことを辞め、気持ちのままに筆を走らせるという型破りな作品を書きます。
しかし、それに限界を感じ、再び文字を書くことを決意します。
そんな時、「第4回サンパウロ・ビエンナーレ展」の日本代表に選ばれました。
欧米の画家に匹敵する作家として書家の井上に白羽の矢が立ったのです。


gutetu「愚徹」

サンパウロで展示されたこの作品は、西洋人に衝撃を与えます。
国際的な評価を得ることに・・・


ところが・・・

書こうとしてもかけなかった言葉・・・「瓦礫」でした。


瓦礫・・・瓦礫・・・瓦礫・・・


瓦礫カク・・・ダメ也
瓦礫カク・・・結局ダメ也

東京大空襲の時の・・・目覚めたときの瓦礫・・・
人間も瓦礫になって・・・

瓦礫を想うだけで、何もかも壊れて無くなっている様が浮かんでしまう・・・。

井上は個性的な教員として定年まで勤め、昭和51年校長として退職しました。
いよいよ制作活動に専念する時が・・・!!

退職から2年・・・東京大空襲から33年間しまい込んできたあの夜のことを噴出させます。

井上有一晩年の傑作・・・「噫横川国民学校」

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井上の魂に刻み込まれた、あの夜の声、匂い、不条理が姿を現しました。
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芸術作品というよりも供養のようなもの・・・
生き残ってしまった事、死ねなかった事の絶叫・・・。

横川小学校校長室から1冊のガリ版の文集が見つかりました。
タイトルは「とみをか」発行は敗戦の翌年、昭和21年でした。
表紙の裏には、東京大空襲で亡くなった井上の教え子たちの名がありました。
共に富岡村に疎開していた同級生たちが文章を書き寄せています。

井上は、空襲で亡くなった教え子への想いを、春の富岡村の景色に詠んでいました。

亡き子らの 碑建てんと思ふ 櫻花

井上有一渾身の一作「噫横川国民学校」・・・
それは、失われた命を永遠に慈しむ痛恨の碑でした。




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