日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:羽柴秀吉

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戦国最強の武将とはだれか??
織田信長・・・??
しかし、江戸時代初期の軍記物「北条五代記」には・・・
最強の武将とは・・・北条氏康・武田信玄・上杉謙信と書かれています。
3人の名称のうち、一人でも長命であったならば、信長は滅亡していたはず・・・??

信長と対峙したことがあるのが上杉謙信・・・軍神毘沙門天の化身と恐れられた武将です。

決戦の場は、石川県を流れる手取川流域・・・
謙信対信長・・・氏康、信玄亡き後、戦国最強を決定づける手取川の戦いです。

謙信の猛攻の前に織田軍はなすすべなく敗れ去った・・・??
闘いの後謙信はこう豪語しました。
「織田軍は案外弱く、この分では今後天下までの道は容易であろう。」と。
しかし、織田側に記録は残っておらず、実像は明らかになっていません。
勝敗を決めたものは・・・??

”国宝 上杉本洛中洛外屏風”・・・戦国時代の京都を描いた屏風です。
これは、信長が謙信に贈ったと言われています。

屏風絵の中でひときわ目立つのは、将軍の御所へ向かう武家の行列・・・
この人物こそ、若き日の謙信だと言われています。
どうしてこのような屏風を贈ったのでしょうか?
謙信と信長・・・二人の関係は古く、最初の交わりは、この屏風を贈った日から10年前です。
この時謙信は35歳、川中島の戦いで武田信玄との争いを繰り返していました。
31歳の信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破り、隣国美濃攻略に力を注いでいました。
謙信に宛てた信長の書状には・・・
”我が息子を養子に迎えても構わないとの由、まことに光栄の至り、今後もご指導を仰ぎたい。”
この養子縁組は実現していません。しかし、謙信に対する信長の低姿勢は何を意味するのでしょうか?

この時、信長は尾張を治めて、謙信は越後を治めていました。
関東管領上杉家の名跡を、謙信はそれ以前に継いでいました。
室町時代の家の格としては、圧倒的に上杉の方が上だったのです。
当時のルールとしては、信長が謙信に対して丁寧に手紙を書くのは当然のことでした。
謙信が就任した関東管領とは、関東諸国の政務長官で、将軍が直接任命する室町幕府の要職でした。
二人の関係は、1568年に信長が足利義昭を奉じて上洛した後も、変わっていません。
信長は謙信にこう報告しています。

”将軍様ご上洛の件、信長はお供することを請け負っただけです。”

信長の謙信に対する気遣いが伺えます。
しかし、やがて軋轢が生じ始めます。
契機となったのは、戦国時代最強と言われた武田信玄の死でした。
当時信玄は、信長と謙信共通の敵・・・信長の同盟者徳川家康は、三方ヶ原の戦いで信玄に大敗を喫していました。
武田軍は、徳川領に侵攻・・・そのさなか、信玄が病没したのです。

英雄信玄の死で、武田の領国は揺らいでいました。
謙信と信長に好機が・・・!!
この機を逃すまいと、謙信は信長に申し入れます。

「畿内のことより、武田に対する軍事行動に精を出すべきである。」

互いに協力して武田領に侵攻することを提案したのです。
1574年武田勝頼が、信長の領国・東美濃へ侵攻。
信長軍は武田軍を迎え討ちます。
その時謙信は、越後から雪の峠を越え、武田領の西上野に侵攻しました。
これによって武田軍は織田領から撤退・・・謙信・信長の共同戦線は成功したかに見えました。
しかし・・・謙信は信長を救援する為に苦労して出兵したにもかかわらず、何の例もないことに腹を立て、これを遺恨としました。
洛中洛外図屏風は、謙信の怒りを収めるために、信長が贈ったものと考えられています。

翌1575年、信長が武田領にへの共同戦線を謙信に持ちかけます。
が、謙信は武田領でなく、越中へ出兵!!
これには信長も黙っていません。

「約束を違えるのは世間体が悪く、無念です。」

謙信に恨み言を述べ、批難しています。
謙信と信長・・・二人の行き違いは、やがて決定的なものとなっていきます。

1575年8月、信長は大軍勢を率いて越前に侵攻。
長年信長と対立していた一向一揆を滅ぼすためです。
一向一揆とは、本願寺門徒宗を中心とした民衆の連合で、その勢力は、戦国大名に匹敵していました。
この時信長は、驚くべき手段に打って出ます。

山林までわけ入り、男女問わずことごとく切り捨てよと命じました。
結果、生け捕られ斬首された人は併せて3、4万にももぼったと言われています。
一方謙信は、それまで敵対関係にあった加賀一向一揆と和睦。
謙信と和睦した加賀一向一揆の拠点だった鳥越城・・・。
鳥越城は、加賀一向一揆が織田軍の侵攻に抵抗する為に築かれたと考えられ、後に壮絶な攻防戦を行うこととなります。
最新鋭の武器・武具を備えていて、戦国大名の軍勢に全く劣らない強い軍事力を持つ加賀一向一揆・・・。
江戸時代の一揆と、戦国時代の一向一揆は全く異なっていました。
越前一向一揆を力で殲滅した信長・・・。
信長と相反するように、手を結んで加賀へ進出した謙信・・・。
両者の勢力のさかいを接したことで、二人の対立は避けられないものとなっていきます。

信長がしかけます。
越前を平定した後、信長は朝廷から権大納言・右近衛大将を授かります。
これは、武官の中で最高位と見なされる官職で、朝廷は信長を武家のTOPと認めたのです。
謙信の関東管領を凌ぐ信長の官位・・・
朝廷権威を背景に信長が謙信より優位に立とうとした現れです。
謙信は外交政策に力を注ぎます。
信長に追放された足利義昭の妖精に応え、毛利や武田、本願寺と組んで信長包囲網を形成します。

対する信長は経済封鎖を行います。
三国湊に謙信の勢力圏から船が入ることを禁じています。
これは、荷留と言われる信長の経済戦略でした。
謙信は3万の兵を率いて能登へ侵攻。
能登を支配していたのは名門畠山氏・・・
謙信は畠山氏が信長と手を組むことで背後が危うくなることを避けようとしたのです。
畠山氏の居城・七尾城・・・いくつもの尾根に郭が築かれた山城です。
標高およそ300mに築かれた七尾城・・・
東西1キロ、南北2.5キロ・・・日本屈指の巨大城郭です。
城内から出土した天目茶碗・・・都の華やかな文化が日本海経由で持ち込まれていました。
城の麓に総構えが・・・。
総構えとは、城下町も含め、城の外郭を囲んだ堀のことです。

謙信には、城攻めに失敗した苦い経験がありました。
1561年小田原城の戦いで、謙信は力攻めするも、落とせなかったのです。
七尾城も、力づくで落とせるような城ではない・・・七尾城の周囲を守る畠山氏の城を攻略!!
能登の港を押さえることで、制海権をとることで、七尾城の孤立を図ります。
七尾城の大きさが、謙信の戦法を変えさせたのです。
謙信にその戦法までも変えさせた七尾城・・・
信長と決戦が近づく中、どうしてもこの城を落とさなくては・・・!!
同じころ、信長は謙信との戦いに向けて、配下の武将たちを集めていました。
柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家・・・
そうそうたる顔ぶれで、兵力は4万8000!!
ここに、戦国最強をかけた戦いが始まろうとしていました。

1577年7月、謙信は3万ともいわれる軍勢で、七尾城へ向けて出陣!!
その頃、七尾城では重臣たちが上杉派・織田派に分かれ、対立していました。
織田派の重臣は信長に援軍を求めます。
出兵の大義名分を得た信長は、謙信討伐を決意!!
謙信VS信長・・・月に直接対決の時が・・・!!
しかし、出陣の直前・・・突然、信長に従っていた松永久秀が大和で挙兵!!
この謀叛には、謙信が関わっていたという資料も・・・!!
こうした不穏な状況により、信長は出陣せず、総大将・柴田勝家のもと織田軍の大軍勢が七尾城に向けて出陣!!
まもなく七尾城を攻めあぐねる謙信のもとへ織田軍侵攻の報せが届きます。
このまま七尾城を落とせないと、織田と畠山に挟み撃ちにされる・・・!!
織田の大軍勢が迫る中、普段することのない謀略を試みています。
七尾城内の上杉派に送られた謙信の書状には・・・

信長派の一族親類を討ち取って城をとれば七尾城主にする・・・!!

一方七尾城に進軍する織田軍にも問題が生じていました。
総大将・柴田勝家といさかいを起こした羽柴秀吉が、勝手に手勢を率いて帰国してしまいました。
一枚岩ではなかったのです。

9月15日、七尾城に内紛が勃発!!
謙信の謀略が功を奏したのです。
これを機に、上杉派の重臣が上杉軍を城内に引き入れ織田派をことごとく討ち果たしました。
ついに謙信は、七尾城を手に入れたのです。
七尾城に進軍を続ける織田軍は、まだそれを知らない・・・。

七尾城を手に入れた謙信・・・織田の大軍勢をどうするのか・・・??
平地決戦をするか??それとも籠城か・・・??

1577年9月10日、加賀に侵攻した柴田勝家から興味深い報告がされています。

今日まで七尾城からの使者が一人も来ない・・・
地元の百姓が、ことごとく謙信に味方するため、七尾への通路がふさがっているようである・・・

謙信は、七尾城周辺の街道を封鎖!!これによって、織田軍には情報が一切入っていなかったのです。
謙信が七尾城を落とした3日後の9月18日、織田軍は加賀・手取川近辺に到着!!
手取川・・・日本の中でも特に急流な川の一つです。

手取川は、歴史上何度も氾濫を起こし、人々に甚大な被害を与えてきました。
島集落は、避難場所の名残です。
9月23日、織田軍に七尾落城の報せが届きました。
総大将・柴田勝家は、謙信の襲来を恐れ全軍に撤退を命じます。
しかし、織田軍は、まだ気づいていませんでした。
謙信は手取川に向かって軍を進めていたのです。
謙信は、平地決戦を選びました。

謙信は織田軍に攻めかけます。そして1000人余りを討ち取ります。
撤退しようとする織田軍を手取川に追い込んで、大雨続きで溢れんばかり川が行く手を阻み、人馬もろとも流されました。
戦いのあった日は11月上旬に当たります。その頃、それほど水量があったとは思えません。
しかし、膝まで水があったとしたら、それだけで足がとられてしまうような流れでした。
その上、大きめの石がごろごろしており、駆け抜けることは不可能でした。
撤退のために川を渡ろうとする織田軍は、急流に足をとられ行軍は進みません。
そこに上杉軍が背後から攻撃を仕掛け、織田軍の多くが討ち取られたのが真相では・・・??
勝利した謙信は、家臣にこう送っています。

「信長は案外弱く、この分では今後天下までの道のりは容易であろう。」

他の資料でも・・・
「謙信が加賀へ攻め入り、一向宗徒もこれに加勢した。
 この時、敵800人ばかり討ち取った。」
戦いの後、両軍は手取川を挟んで睨み合います。
しかし、互いに攻め込むことはありませんでした。

この時、謙信にも誤算が・・・

謙信は手取川の戦いに信長が出陣していると思い込んでいました。
謙信は12月まで七尾城に留まります。
その間3か月・・・謙信にとって手取川の戦いは信長との決戦を意味していました。
しかし、そこに信長の姿はなかったのです。
謙信が七尾城に留まり続けたのは、信長の出陣を待っていたのかもしれません。

しかし、信長は畿内周辺に留まり、謙信が待つ七尾城に向かうことはありませんでした。
12月18日、謙信はようやく越後に帰国。
謙信の家臣が謀反を起こしたためです。
上杉家の内紛を狙った信長の謀略ともいわれています。
謙信は織田軍との戦いを睨んで軍を編制・・・翌年を予定していましたが・・・
1578年3月13日、謙信死去・・・享年49歳でした。
謙信対信長・・・戦国最強の直接対決は実現せず、幻に終わったのです。

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<上杉謙信と戦国時代>蜜月の終わり 織田軍を圧倒!手取川の戦い (歴史群像デジタルアーカイブス)

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金ヶ崎の四人 信長、秀吉、光秀、家康 (毎日新聞出版)



戦国時代、天下統一を目指し破竹の勢いで快進撃を続ける織田信長が重用した二人の家臣がいました。
明智光秀と羽柴秀吉です。
新参者・・・ライバル二人の熾烈な出世争い・・・より信長に評価されていたのはどちらだったのでしょうか?

天下統一を目指す尾張の織田信長には、譜代の家臣・・・柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛・・・優秀な家臣たちがいました。
そんな古参たちを差し置いて、重用されたのが新参者の外様の家臣、明智光秀と羽柴秀吉でした。

信長との出会い・・・羽柴秀吉の場合。
信長との出会いが早かったのは秀吉の方でした。
秀吉は、尾張国中村の貧しい農家に生まれました。
幼くして父親を亡くして諸国を放浪、職を転々としながら生活していました。
18歳の時、尾張に戻ってきた秀吉は、織田家家臣の推薦で小者として3歳年上の信長に仕えました。

小者は雑用係・・・
秀吉は信長の草履を懐で温めたという逸話があるぐらい忠勤を尽くし、戦の時の歩兵である足軽に・・・
そんな秀吉に出世のチャンスが訪れたのは、1566年。
この時信長は、隣国美濃を攻略する為に、木曽川・長良川・揖斐川の接近している墨俣に城を必要としていました。
柴田勝家や佐久間信盛らが築城に当たるも・・・途中で敵の攻撃を受け失敗!!
その様子を見ていた秀吉は・・・
「私にやらせて下せえ・・・ええ考えがあります。」
こうして築城を任された秀吉は土地のことを良く知る土豪など1000人を集め、川の上流で城を築くための木材を調達し、いかだで運搬、木材は木組みを組んでいたので、墨俣では組み立てるだけ・・・敵の攻撃を受ける前に素早く完成させました。
”墨俣一夜城”ととも言われる秀吉の功績です。
成功したのは、秀吉の人柄も大いに関係していました。
土豪を一流の人懐っこさで動かしたのでは??と言われています。
秀吉のおかげで信長の美濃攻略は成功します。
これ以後、重用されるようになっていく秀吉・・・侍大将まで出世します。
1569年に京都奉行に就任します。
それまでは、譜代門閥主義で、代々使える家柄を重用していました。
能力本位で人材を抜擢する信長・・・中途採用でも能力さえあれば、出世できました。
信長の人材登用術が秀吉を出世させたのです。

信長との出会い・・・明智光秀の場合。

明智光秀の出自ははっきりとはわかっていません。
が・・・1528年土岐氏の支族「土岐明智氏」の家に生まれたともいわれています。
しかし、斎藤道三と義龍の戦いで、道三側についていた光秀の一族は道三が破れると離散・・・
美濃の国を出た光秀は各地を放浪したのち、越前・朝倉義景に仕えます。
秀吉よりも9歳年上の光秀は、信長に会うのは40歳の頃でした。
きっかけは・・・
1565年畿内で力を持っていた松永久秀らが室町幕府13代将軍足利義輝を殺害!!
その弟義昭も奈良に幽閉されますが・・・越前に逃げてきます。
義昭は、上洛の助けを求めてやってきたのですが・・・朝倉氏は動こうとしません。
義昭の世話をし、親密になっていた光秀は、業を煮やして・・・光秀の脳裏に浮かんだのは信長でした。
この時、光秀35歳!!尾張から光秀のふるさと美濃に進出し、治めていました。
信長を味方につけることができれば・・・
1568年、光秀は美濃国に赴いて、義昭を上洛させてくれないか?と、交渉します。
この時、信長は上洛の機会をうかがっていたので・・・交渉はすぐに成立!!
これが、二人の出会いでした。
光秀と濃姫が従兄妹の関係にあったから・・・とも言われています。
信長は義昭を奉じて上洛!!光秀も付き従います。
1568年義昭が15代将軍に就任。
信長は後見人となり、実質的に京を支配していきます。
二人の橋渡しをした光秀は、信長に仕えるようになり・・・出会いから1年で・・・
1569年京都奉行に就任しました。

秀吉と光秀は、同時期に京都奉行となっています。
そして・・・金ヶ崎の退き口で決まる・・・??

外様の良きライバルとして並ぶ二人に、あるミッションが・・・
1570年4月・・・勢力拡大を目論む信長は、越前の朝倉義景討伐の兵を挙げ、光秀と秀吉も参戦・・・!!
手柄をあげる絶好のチャンスです!!
織田軍は若狭方面から越前に進み、朝倉側の天筒山城、金ヶ崎城を難なく落とし、一乗谷城へ・・・!!
しかし、予期せぬ出来事が起こります。
妹のお市を嫁がせ、同盟を組んでいた北近江の戦国大名・浅井長政が裏切り、朝倉側についたのです。
その上、六角氏も挙兵!!
これによって、織田軍は敵中で完全に孤立してしまいました。
金ヶ崎にいた信長は、すぐさま撤退を決め、退路を断たれる前に京都へ退くことに・・・
金ヶ崎の退き口です。
この撤退戦では、最後まで織田軍の陣に残り、敵を足止めする殿を自ら買って出たのが秀吉で、当時の秀吉の名を取って”藤吉郎金ヶ崎の退き口”と言われ、語り継がれていますが・・・
5月4日付の波多野秀治宛の一色藤長の書状によると・・・
金ヶ崎城に
木下=木下藤吉郎(羽柴秀吉)
明十=明智十兵衛尉光秀
池筑=池田筑後守勝正
その他残し置かれ・・・とあります。

つまり、殿を務めたのは、秀吉だけではなく光秀も、池田勝正もいたのです。
この時、殿を務めたのは新参者で、身を挺して敵の追撃を阻む・・・捨て駒なのです。
しかし、上手くいけば、たいそうな手柄になる!!
3人は、金ヶ崎城で殿の順番を決めます。
①池田勝正
②明智光秀
③羽柴秀吉

この順番で食い止めることとなります。

まずは、勝正の軍が、信長の軍を逃がすために戦います。
次に代わって光秀軍が・・・峠で待ち受けて食い止めては逃げるという戦法を・・・
三番手の秀吉軍も奮戦します。
そして、京に戻れた信長・・・。
殿の役目は手柄となる・・・??

最後を務め、帰ってきた秀吉を見て不安に駆られる光秀・・・。
秀吉は、朝倉勢に追いすがられ、落武者狩りにも遭い・・・命からがら逃げかえってきました。
光秀は、山崎の戦いで秀吉に敗れ死んでしまっているので、功績は秀吉のものになってしまった・・・。
後世、秀吉の武功となってしまったのです。
朝倉攻めでは、二人とも貢献したことを認めていた信長です。

先に一国一城の主となったのは・・・??

織田信長は、兵を一度岐阜に戻し、徳川家康の協力を得て北近江に出陣!!
浅井朝倉との戦いに邁進します。
比叡山延暦寺が逃げ出した浅井朝倉の兵を匿っていることを知った信長は・・・
「味方になるか、中立を保ってもらいたい。
 受け入れられなければ、全山ことごとく焼き払う。」
これに対し、延暦寺は拒否!!
比叡山を焼き討ちしようとします。
家臣たちの中にも反対意見のある中、主導したのは比叡山攻略最前線を任されていた明智光秀でした。
1571年9月12日、比叡山の僧侶、信者、老若男女構わず皆殺し・・・焼き討ちします。
誰もやりたがらないことをやった光秀は、1571年信長から近江志賀郡5万石を与えられます。
比叡山の麓、琵琶湖のに面した坂本に自らの城を築きました。
一国一城の主となったのは、家臣団の中で光秀が第一号でした。
信長に出会ってから3年・・・出世争いで秀吉を大きく引き離します。
ちなみに、この時秀吉は、裏切った浅井攻略を任されていましたが、大苦戦!!
浅井氏の居城・小谷城を攻め落とし、浅井氏を滅ぼすのに3年の月日を費やしてしまいます。
その後、1573年信長から落とした小谷城と北近江3郡13万石を与えられます。
一国一城の主に・・・家臣団の中では第2号・・・光秀からおよそ2年遅れてのことでした。

城攻めが上手かったのは・・・??

1573年7月、信長が足利義昭を追放したことで、室町幕府が滅亡!!
信長は、更なる勢力拡大に向け、新しい軍事態勢を構築します。
信長自身が総大将となっていたものを・・・侵攻する地域を6つに分け、それぞれを信頼できる武将に任せます。
北陸方面郡・柴田勝家、関東方面軍・滝川一益、本願寺方面軍・佐久間信盛、四国方面軍・神戸信孝、近畿方面軍・明智光秀、中国方面軍・羽柴秀吉です。
二人もそれぞれ軍司令官に任じられました。
困難な地域を任された光秀と秀吉、その城攻めとは・・・??

明智光秀の場合・・・
1575年9月・・・光秀は丹波平定を開始。
花冠に攻め入るも・・・最初でつまづきます。
狙いを定めた黒井城が要害堅固な山城だったためにてこずってしまいます。
長引く中・・・織田方についていた丹波八上城主・波多野秀治が裏切ったため、光秀は坂本城にいったん退却!!
体制を立て直して攻め込もうとした矢先・・・
・・・光秀は、信長から石山本願寺攻め、紀州雑賀攻めに駆り出され、転戦を余儀なくされます。
結局、光秀が丹波攻めに戻れたのは1577年10月。
まずは丹波亀山城を攻略し、拠点とします。
翌年には、黒井城攻めの時に裏切った波多野秀治の八上城を攻めます。
信長公記によると・・・
「堀をほり塀・柵幾重もつけさせ、堀際に諸卒町家作に小屋をかけさせ、廻番を丈夫に警固をもう質kwられ、誠に獣の通ひもなく、在陣候なり」とあります。
光秀の城攻めは、戦わずして降伏させるというのが大前提・・・丹波の土豪たちに・・・
「味方をすれば本領安堵。忠節次第では増加なある。」
無駄に戦うことなく、交渉によって敵方を味方にしていきます。

その後も、次々と城を攻め落としていった光秀・・・最後に残ったのは、一度攻略に失敗した黒井城でした。
ところが、城主が変わっていたこともあって、光秀にあっさりと白旗を揚げるのです。
1579年、およそ4年をかけて、丹波を平定。
その翌年、信長から新たに近江(一部)と丹波を与えられ、合わせて34万石の大大名に・・・織田家家臣として確固たる地位を築いたのです。

羽柴秀吉の場合・・・
信長から中国法明軍司令官に任じられた秀吉は、中国地方の毛利輝元を攻めようとして味方を増やそうとしていました。
その手始めとなったのが、播磨の中で大きな勢力だった御着城主・小寺政職の家臣・黒田官兵衛でした。
味方につけた官兵衛が、後に秀吉を天下人へと引き上げる名軍師となるのはご存じの通ります。
さらに秀吉は、三木城主・別所長治を味方につけることに成功!!
隣国但馬に攻め入り周囲を固めたことで、中国平定は容易に成し遂げられると思われました。
ところが・・・三木城主別所長治が裏切り、毛利方についたのです。
これによって秀吉は、播磨・三木城攻めを開始します。

城攻めの際は、長期戦となるので、自軍の損害を最小限に抑え、消耗させないというのが基本です。
秀吉は、様々な城攻めの中で、兵糧攻めを好みました。
三木城攻略もその一つ・・・三木の干殺しです。
毛利方が兵糧米を送り込んだことで苦戦し、2年に及ぶ長期戦となるも、1580年1月開城させ播磨と但馬を平定。
秀吉は攻撃目標を因幡に・・・!!
秀吉の中でも残忍な鳥取の渇え殺しです。
1581年6月、秀吉は2万の軍勢を率いて但馬口から因幡に入り、吉川経家の立て籠もる鳥取城を囲みます。
秀吉は三木城攻めの際に、毛利方が兵糧米を送り込んだことで苦戦した苦い経験から、今回は城を包囲する前から計画を練っていました。
城に運び込む兵糧を少しでも少なくするために、因幡中の米を時価の数倍で買い占めたといいます。
また、村々を焼き払い、城の中に村人を逃げ込ませ、籠城する人数を増やし、食料を1日でも早く食いつぶさせようとしたのです。
やがて城の中の食料が底をつくと、飢えに苦しみ、柵に取りつくものが現れました。
秀吉軍はそれを狙い撃ちに・・・!!
その瞬間、城内の者たちは撃たれた者の体に飛びつきむさぼりついたとか・・・
それほどの飢餓状態にあったというのです。
吉川経家は兵たちの助命を条件に切腹。
城を明け渡しました。
この後、備前も攻略した秀吉は、4か国を平定したのです。

数々の城を攻め落としていった光秀と秀吉・・・
どちらが凄かったのでしょうか?
城攻めだけで見ると・・・光秀は当時の常套手段でした。
秀吉は独自の戦法を編み出しています。
なので、独自の戦法を持っていた秀吉の方が凄かったのです。
光秀と秀吉に、難しい地方の攻略を任せた信長は、この時二人をどう評価していたのでしょうか??
1580年8月8日付の佐久間信盛・信栄親子あての手紙によると・・・
「光秀の働き、天下の面目をほどこし候
 次に羽柴藤吉郎数か国比類なし」
としています。
つまり・・・光秀の方が評価が高かったのでは??
この時点での織田家の働き頭は光秀であると信長は考えていました。
光秀の評価が高かった点として・・・京都に近い国ほど、室町幕府ゆかりの勢力が多く、統治が難しかったことが挙げられます。
そして、丹波の地形は、大和盆地が入り組んでいて、統治が難しかったと思われます。
1581年2月、京都で織田軍5万ともいわれる「馬揃え」が行われます。
正親町天皇を始め、公家、女官、町人たちが見物しました。
この時、統括責任者とされたのが、信長から一番の信頼を得ていた明智光秀でした。

この時、あまりに嬉しかったのか、光秀は・・・
「瓦礫のように落ちぶれていた自分を召しだし、その上莫大な人数を預けられた。
 一族家臣は子孫に至るまで、信長様への御奉公を忘れてはならない。」と書いています。
しかし・・・その一年後、光秀が謀反を・・・!!

1582年5月、光秀は織田信長から中国毛利攻めを行っている羽柴秀吉の援軍として出陣するように命じられます。
そして6月1日・・・光秀は信長の命令通りに秀吉軍に加勢する為に、居城である丹波亀山城を後にしました。
ところが・・・老の坂で進路を変えるのです。

「敵は本能寺にあり!!」

向ったのは、信長が宿泊していた京都の本能寺でした。
6月2日未明・・・京都・本能寺。
けたたましい物音に目を覚ました信長・・・
光秀の謀反を知った信長はこう言ったと言われています。

「是非に及ばず」

天下取りを目前に・・・信長自刃。

信長に評価されていたにもかかわらず、どうして謀反に至ったのでしょうか?
怨恨説??これは江戸時代に書かれたものです。
近年有力視されているのは長宗我部問題説です。
信長は、四国に勢力を広がるために、土佐国などを治めていた長曾我部元親を取り込み、手柄を立てたら四国を与えると約束していました。
しかし、元親の力が大きくなると恐れた信長はその約束を反古にし、元親を怒らせたのです。
この元親と信長を取り持ったのが光秀でした。
面目を潰された・・・そう思った光秀。
本能寺の変は、信長が元親放伐を予定した日でした。
それを阻止する為に謀反を起こしたのでは?と考えられています。
最も信頼していた光秀によって命を落とすこととなった信長。

最終的な二人の評価は・・・??
甲乙つけがたいと思っていたようです。
その後、光秀は出世争いをしていた秀吉と戦い最期を遂げるのです。
良きライバル・・・信長にとって欠かせない二人でした。
この二人の存在が、戦国の歴史を大きく変えたことだけは、確かなようです。


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1582年・・・6月2日早朝・・・
京都で戦国の歴史を大きく変えた本能寺の変が起こります。
天下取りを目前にしていた織田信長が、明智光秀の謀反に会い自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存じ、豊臣秀吉です。

織田信長の死を一番最初に知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの準備中だった信長の三男・信孝と丹羽長秀でした。
信孝と丹羽長秀が信長の死を知ったのは、本能寺の変の当日6月2日でした。
どうして京都に向かえなかったのか??
彼等はかん口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こし、逃げ出してしまったので、仇討どころか守りを固めることで精いっぱいだったのです。

柴田勝家は京都から300キロのところにある越後で上杉攻めをしていました。
勝家が信長の死を知ったのは、数日たった6月5日~7日の間のことでした。
勝家はすぐに越前の北ノ庄城に戻り、明智光秀等夏の準備をしますが、出かけられません・・・
京都に戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったからです。
明智光秀は、上杉景勝に、本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころでなくなる・・・と、追撃態勢を整えていたので、勝家は動くに動けなくなっていたのです。

滝川一益は、北条の治めていた関東をほぼ制圧しつつありましたが・・・変を知ったのは、6月7日~9日の間と言われています。
しかし、時を同じくして北条氏政も、信長死亡を知り、反撃してきたのです。
そのため、一益は、京都に行くことができませんでした。

羽柴秀吉の場合・・・
中国地方を制圧する為に、備中高松城を攻めていた秀吉は・・・。
信長の死を知ったのは、変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロ離れた土地で、どうしてそんなに早く知ることができたのでしょうか?
明智光秀は、この時、「信長を討ったので、和平交渉に応じるな」と、毛利に密書を送っていました。
その使いが、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
この時、秀吉は、毛利方清水宗治の居城・備中松山城を水攻めにし、落城寸前まで追い込んでいました。
城の周りを全長3キロ、高さ7メートルの堤で囲んで、近くの川を引き入れ、水滅させようとしていました。
警備も厳重・・・そこへ、光秀の密使が捕まってしまったのです。
城攻めの奇策のおかげで、信長の死をいち早く知ることができた秀吉ですが、草履取りから自分を取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、泣き崩れるばかり・・・。

そんな秀吉の目を覚まさせたのは・・・軍師・黒田官兵衛の・・・

「これは天のご加護 天下取りの好機でございます。」

の一言でした。

その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵を討ち、天下とるという野望をたぎらせるのです。
そして、かん口令を敷きました。
当然、」毛利方にも、漏れないように、密使を斬ったうえで備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉が始まっていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩めます。
備中・美作・伯耆を割譲するように求めていたのを、美作だけで備中・伯耆は折半にします。
さらに、備中高松城主が切腹すれば、城に残っている5000人の兵士たちの命は保証するとしたのです。

こうして、毛利とのスピード講和が実現します。
秀吉が信長の死を知ってから数時間のことでした。
その日のうちに、清水宗治は備中高松城に浮かぶ船の上で自刃・・・
その見事な最期に「武士の鑑」と言ってほめたたえました。
その直後・・・毛利が信長の死を知ってしまいました。
毛利の追撃は・・・??
この時、毛利方の吉川元春と小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に駆け付けていました。
どうなる??

吉川は・・・「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ。」
小早川は・・・「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ。」

結局、小早川の主張が通り、毛利方が追撃することはありませんでした。
そして・・・和睦の1か月前・・・毛利輝元が家臣に宛てた手紙には・・・??

「こちらは、鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている。」

武器弾薬を使い果たしていたのなら、追撃どころではありません。
しかし、これもまた秀吉の策によるもので・・・瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していたので、毛利伸樹の補給路をあらかじめ絶っていたのです。
もともと村上水軍は、因島村上家・村上吉充、来島村上家・来島通総、能島村上家・能島武吉・・・毛利方の水軍でした。
そのうちの来島村上家は毛利を裏切り信長についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略し手中に治めていました。

6月5日、吉川と小早川の軍勢は撤退を開始・・・  
それを見届けた秀吉は、翌日・・・京都への怒涛の行軍を始めるのでした。
秀吉は2万の軍勢を率い、備中高松城から京都を目指し、200キロの大移動を開始しました。
神業ともいわれる秀吉の中国大返しが始まりました。

6月6日(1日目)午後2時
備中高松城を後にした秀吉軍は、西国街道を通り、22キロ離れた備前・沼城へ・・・。
西国街道は、援軍として信長が来ることになっていたので、秀吉によって整備されていました。
向う沼上は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城でした。
待ち受ける宇喜多もぬかりありません。
秀吉たちが夜でも動きやすいようにとたいまつを焚き、城についたときに食事が出来るようにしていました。
順調なスタートを切りましたが・・・

6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発し、70キロ先に姫路城を目指します。
その途中には、西国街道最大の難関・船坂峠がありました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万の軍勢が重装備で多くの武器弾薬を運びながら進むのは困難を極めます。
姫路城までの行軍では、暴風雨にも見舞われていました。
道筋の河川が増水し・・・農民を雇って、人間の柵を作らせ、その方にすがって川を渡らせたといいます。

当時の甲冑などの装備は30kg~50kg・・・。
秀吉は大軍を率いてどうやって早く移動したのでしょうか?
秀吉は兵士の負担を減らすために・・・
海路を利用したのではないか?という説があります。
騎馬隊や足軽隊は走ったでしょうが、物資を運ぶ輜重部隊は海路を行ったと言われています。
言い伝えによると、牛窓から佐古志、片上津から赤穂岬・・・と言われています。
兵士たちを身軽にし、大軍勢の移動のスピードをあげた秀吉・・・

もう一つの説は・・・??
秀吉の書いた一通の手紙に秘密がありました。
本能寺の変を知った中川清秀の手紙に対する秀吉の返書です。
その文面の日付と内容・・・
6月5日に「今、野殿まできている」と書いています。
野殿は備中高松城から7キロのところです。
この書状が正しければ、出発日の定説が覆ることに・・・??
6日出発という説は小瀬甫庵の「太閤記」によるものです。
太閤記は、秀吉の活躍を書いたものなので、誇張表現なのではないのか?とも言われています。
中川清秀宛ての書状の6月5日に野殿にいるが注目され、6月5日の時点で備中高松城から野殿に向かって・・・という策が注目されています。
5日と言えば、毛利が撤退した日です。
この日に追撃の余裕がないと知って・・・しかし、追撃の可能性がゼロということではなく・・・この秀吉の判断はあっぱれでした。
この6月5日出発説・・・本体は微衷高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのではないか??
今後さらに検討が加えられることでしょう。

1582年6月2日本能寺の変・・・主君・織田信長の敵を討つために、備中高松城から京都まで200キロの道程を8日間で走破した羽柴秀吉の中国大返し、その成功のうらには秀吉の知略が・・・。

人心掌握術・・・
備中高松城を出発し姫路城まで2日で92キロを走ってきましたが、まだ道半ば・・・
京都まで100キロ以上残っていました。
疲弊している・・・逃げ出す者も出て来るのでは・・・??
そこで、姫路城につくと皆に信長の死を教えます。
この行軍は、信長の仇・明智光秀を討ち取るためであると皆の士気を上げます。
城にあった兵糧米・8万5000石と金・800枚、銀750貫文・・・現在の価値にして66億円相当を兵士たちに分け与えたのです。
そして、仲間・小者たちにも5斗・・・半年分の米を与えたのです。
翌日からの行軍に備え、一日ゆっくり休ませます。
そこへ一人の僧侶がやってきて・・・
「明日は、二度と帰ることができない悪日にございます。
 それゆえ、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」
それを聞いた秀吉は、
「二度と帰ることができないには、むしろ吉日じゃ!!」
そう言って取り合わなかったといいます。
秀吉は、光秀を見事討ち取ることができれば、その先には天下人の道がある・・・
そうすれば、姫路城に戻ってくる必要はない!!
城などどこにでも作れる!!
だから、帰って来れないのはむしろ吉日!!
自分が勝って天下をっとるということだ!!と。

中国大返し成功のため、他にも策を講じていました。
姫路を出た秀吉軍は、100キロ先の富田を目指します。
しかし、その途中には摂津国が・・・!!
そこに居るのは茨木城主・中川清秀と高槻城主・高山右近でした。
かつて・・・織田信長に謀反した荒木村重の重臣たちでした。
秀吉は、「奴らが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」と、書状を送っています。

「上様は難を逃れ・・・」

信長派生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしたのです。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、首を晒すことができていれば・・・でも、出来なかったので、その嘘を信じてしまったのです。
情報を操作することで、裏切りの目を摘んだ秀吉は、安心して行軍することができたのです。
秀吉は家臣たちにも恵まれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時、後方支援を担当!!
食糧や武器、人出の手配・・・迅速かつ的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・!!
黒田官兵衛は、軍師としての才能を発揮!!
隊列の先頭に毛利家の旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせます。
この旗は、備中高松城で和議が成立し、秀吉軍が撤退する際に、小早川隆景の元を訪ね、毛利軍の旗を20本ほど借りています。
隆景はある程度察しがついていて・・・秀吉に協力しておいた方が、毛利家のためになると考えたのです。
旗を見て、毛利が味方に付いたと勘違いした武将たちが次々と秀吉軍に加わります。

6月11日、秀吉軍は尼崎に到着!!
秀吉は大坂城にいた織田信孝と丹羽長秀に尼崎まで来たことを伝えますが・・・信孝を光秀討伐の総大将とすることはありませんでした。
本来ならば信孝でしょうか・・・信孝にすれば、自分は駒になってしまう・・・おまけに信孝には当時、兵が4000人しかおらず、父・兄を殺されてしまっていました。
の舞台兄は、光秀を討つ気迫がなかったので、秀吉の上には立てなかったのです。
6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと共に、軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!

その頃光秀は・・・
6月2日から4日までの間に坂本城に戻り、近江を平定。
6月5日には安土城と秀吉の長浜城を占拠、丹羽長秀の佐和山城も押さえていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城主細川忠興や、大和郡山城の筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
その一方で、朝廷工作を行って・・・
朝廷から京都の経営を任せると言われ、信長の後継者は自分であると思っていたようですが・・・??
8日、大返しの知らせを受けました。
しかし・・・光秀は、京都に献金するなどの朝廷工作に勤しんでいました。

秀吉軍は4万のふくらみ・・・しかし、明智光秀は、織田信長の謀反に成功するも、味方に付けようとしてた武将たちが味方に付かないという誤算に・・・。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく正室に迎えていた娘・ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉してしまいました。
筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5000!!秀吉の半分にも及びません。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎でした。

6月13日・・・
劣勢で迎え撃つことになった光秀には策がありました。
天王山の地の利を生かします。
当時、川が迫る天王山には、馬がやっとすれ違えるだけの細い道しかなく、そこで秀吉の大軍をおびき寄せ、天王山に配置した兵に吸収させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、もし秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。

「先に天王山を押さえねば!!」by光秀

しかし、秀吉もそこのところはよくわかっていて・・・
そこで、地の利に明るい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は、敵に気付かれぬよう、松明なしに前日夜に天王山に分け入り、光秀軍より先に天王山を占拠したのです。
これで光秀軍は、勝機を失います。
そして遂に両軍が激突!!
僅か数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は命からがら逃げだすも、落武者狩りの竹やりで重傷を負い・・・6月13日、明智光秀自害!!

三日天下と揶揄されることとなった光秀、一方、主君の敵討ちを見事に成し遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
中国大返し・・・その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして、大胆な行動力と決断力・・・そのスピードの速さでした。

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<織田信長と本能寺の変>本能寺の変勃発! 織田家臣団が下した決断 (歴史群像デジタルアーカイブス)

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1582年6月13日、天下分け目の決戦が行われました。
明智光秀VS羽柴秀吉・・・山崎の戦いです。
合戦は僅か数時間・・・圧倒的な秀吉に、光秀は敗北しました。
本能寺の変で天下人・織田信長を討ちながら、10日余りで秀吉に敗北・・・。
後世、三日天下と揶揄されることに・・・
しかし、光秀の動きは緻密な作戦に基づいていた・・・??

戦国史上最大の事件・・・本能寺の変!!
この変は、光秀の緻密な作戦のもとに遂行されました。
1582年5月29日、織田信長は、僅かな供周りと共に安土城から本能寺に宿泊・・・
6月1日午後5時ごろ・・・光秀は1万3000の兵と共に、居城である亀山城を出陣!!
毛利攻めを行う中国方面軍・羽柴秀吉の加勢を命じられたためです。

当時、信長の家臣団は5つの方面軍に分けられており・・・
関東方面軍・・・滝川一益
北陸方面軍・・・柴田勝家
四国討伐軍・・・織田信孝
中国方面軍・・・羽柴秀吉
近畿方面軍・・・明智光秀
信長の傍で大軍を擁しているのは光秀ただ一人でした。

午後9時ごろ・・・光秀は重臣を集め、謀反の決意を語ったと言います。
光秀は信長襲撃に当たり、緻密な作戦を立てていました。
戦国時代の京都攻略は容易なものではなく・・・
というのも、町のあちこちには堀があり、櫓門、木戸門もありました。
応仁の乱以降、戦乱の巷となった京都は、要塞都市と化していたのです。
そのため光秀は、先陣にあらかじめ木戸門を開けさせておいて、軍勢が通りやすいようにしていました。
そして・・・
6月2日・・・午前4時ごろ!!信長に気付かれることなく、本能寺を取り囲んだ光秀は、一斉攻撃をかけます。
ルイス・フロイスによると・・・

”明智の兵たちは、門に達するとすぐに中に突入した。
 こうした裏切りを予想していなかったため、抵抗する者はなかった。
 信長は切腹したと言う者もあれば、邸に火を放ち死んだと言う者もあった”

戦いは僅かな時間で終わったものの・・・光秀の作戦は続きます。
次の標的は・・・本能寺の近くにいた信長の嫡男・信忠です。
織田家の家督は、既に信忠に譲られており、持ぶただが織田家の代表であり、信長の正統な後継者でした。
光秀は僅か1時間ほどの戦闘で、信忠を討ち取ることに成功!!
電光石火の早業でした。
信長が滅び、後継者もいない・・・そんな状態を作り出した光秀とは・・・??

光秀の出自は定かではなく、早くから後に室町幕府15代将軍となる足利義昭に仕えていました。
その後、信長に能力を見出され、比叡山焼き討ちを指揮し、様々な戦場で手柄を上げ、近江の要衝・坂本錠を任されるほどになります。

1575年光秀は、丹波攻めの総指揮官に抜擢されます。
都のある山城と接する国・丹波・・・山と盆地が入り組んだその土地は、統治が極めて難しく・・・
丹波平定は、中国の覇者・毛利攻略の足掛かりでした。

武将・光秀はどんな人・・・??
標高356m、周囲8キロに及ぶ巨大な山城・黒井城は、重臣・斎藤利光に命じて大土木工事を行った城です。
この城は、外枡形が2つ重なっていて、まさに光秀は築城名人です。
ルイス・フロイスも・・・光秀は勇猛な武将で、築城技術に精通していたと書いています。
羽柴秀吉やほかの武将と競い合っていたので、光秀もほかの有力武将に負けないお城を造る・・・そんな思いはありました。
緻密な作戦で成功した本能寺の変・・・光秀にとってそれは、天下をとるための一歩にすぎませんでした。

本能寺の変の後の光秀は素早く・・・
6月2日午後1時ごろ・・・光秀は今日を出立し、近江に向かって進軍します。

光秀の戦略
①近江平定
軍事的な地盤を固めます。
中国方面軍の秀吉に対抗する備えは、中川清秀をはじめとする摂津の武将達。
もともと光秀配下のために、味方に付く可能性が高いのですが、問題は近江。
北には柴田勝家、南には徳川家康が・・・近江を抑えることは光秀にとって生命線でした。
光秀は、居城・坂本城に入るとすぐに攻略を開始・・・
秀吉の長浜城や、美和長秀の佐和山城を攻略し、近江を平定し終えたのが6月4日。
6月5日・・・安土城に入城!!
近江を抑えることは、織田政権の継承者である証拠だったからです。
この光秀の軍事行動は、近江近辺の大名たちの若狭・武田元明や大和・筒井順慶を味方に付けます。

②朝廷工作
6月7日、光秀は朝廷の勅使を、安土城に迎えます。
光秀にとって朝廷を味方につけることは最重要課題でした。
主君・信長を討った光秀には大義名分がありません。
そこで光秀は朝廷に、治罰の綸旨を求めたのです。
朝敵追討という大義名分を得ることによって、光秀は官軍となるのです。

③外交(調略)
さらに光秀は、上杉、北条、毛利、長宗我部などに敵対する大名たちに密使を派遣、連携を依頼しました。

④庶民対策
光秀は今日の人々の税を免除するなど、人心収攬に努めました。
2017年、愛知県で発見された記録には・・・
「信長親子が死亡して、人々はそれに拍手し、天下が定まったと喜んだ」とあります。
光秀は勇士。
光秀は、天下人の地位を盤石にするための期間を50日、100日と見積もり、そのうちに、近国を平定しようとしていたのです。

完ぺきと思われた光秀の戦略・・・しかし、落とし穴が・・・!!
毛利との和睦交渉を成立させた秀吉が、光秀を討つべく進軍開始・・・!!
世に言う中国大返しです。

本能寺の変以降、天下取りに向けて次々と手を打ってきた光秀・・・
そんな光秀にほころびが生じます。
光秀の配下であり姻戚関係でもある丹後の大名・細川藤孝が協力を拒否。
藤孝は信長の死を知ると、髷を切り謹慎を表明していました。
摂津の武将たちも去就を明らかにしておらず、光秀は書状で説得をしています。

6月9日・・・
安土から京に戻った光秀に驚愕の知らせが・・・!!
秀吉軍がすでに姫路まで戻ってきている・・・!!
光秀と同じく、秀吉も諸国の武将に書状を送っています。
中川清秀宛ての手紙によると・・・
「今日から知らせをもたらした者が、確かに言っています。
 信長さま、信忠さまは窮地を脱したとの事・・・」と。
つまり、信長は生きているとニセ情報を流し、味方に付けようとしたのです。
秀吉を迎え討つべくどのように戦略を立てるべきか・・・??

山崎で戦う・・・??
京の玄関口・山崎は、天王山と淀川に挟まれた狭隘な場所・・・
西から来る軍勢は、体勢を崩し細長くならざるを得ない。。。
山崎の周辺の光秀本陣は・・・恵解山古墳。
巨大な前方後円墳でした。
発掘された戦国時代の堀跡は・・・
幅4メートル、深さ2メートルの堀は、長さ400mに及ぶと考えられています。
戦国時代には、古墳は陣になったり、お城に造り替えたりされることが多かったのですが・・・
周辺一帯を陣地として構築し、秀吉軍を迎え撃った様子が伺えます。
こうした堅固な陣地を構築することで、秀吉に一歩先んじることができる・・・。

それとも大坂の織田信孝を討つべきか??
秀吉が信孝を担ぐと、弔い合戦の大義名分となってしまう・・・!!
信孝を討つと、秀吉の大義名分がなくなり、摂津の大名たちも味方になってくれるかも・・・??

信長と信忠を討ち果たした光秀・・・しかし、信長の次男・信雄は伊勢、三男・信孝は大坂に・・・信雄は、四国の長宗我部討伐のために1万5000の兵を率いていました。
しかし、本能寺の変が起きると、各地から集められた兵が逃走、信雄は大坂に取り残されていたのです。
光秀は信雄討伐を考えていた??
秀吉の書状には・・・
「大坂に信孝さまがいるため、光秀は河内へ兵を乱入させ、早くも大坂を取り巻いて、信孝さまを切腹させようという風聞がある・・・」とあります。

信孝討伐のために、大坂に兵を向わせるのなら兵力が分散される・・・
更に、秀吉とそこで野戦となれば、勝敗はどちらに転ぶかわからない・・・
陣地を構築し、山崎で秀吉を迎え討つべきか、大坂に向かい信孝を討つべきか・・・??
光秀に選択の時が近づいていました。

6月9日、光秀、下鳥羽に出陣!!
信孝を討つために、大坂に向かおうとしていました。
しかし、この時光秀の作戦に破たんが生じました。
光秀に加勢したはずの筒井順慶が参陣を拒否・・・すでに、順慶は秀吉と通じていたのです。
一方秀吉は、姫路城を出陣し、東へ・・・!!
秀吉の動きを察知した光秀軍は、急いで山崎に向かいました。
交通の要衝として栄えていた山崎は、街道沿いに栄えた自治都市でした。
しかし・・・ここで不利な情報が光秀を待っていました。
光秀があてにしていた摂津の武将たちが秀吉に味方したというのです。
光秀軍1万余り・・・対して秀吉軍は3万数千となってしまいました。
大軍に対して三成はどういう作戦を立てたのでしょうか??
西は天王山と淀川に挟まれた狭隘地・・・南は3つの川が集まる湿地帯・・・。
秀吉軍より先に山崎に入った光秀軍は、小泉川を防衛ラインとし、大山崎の出口に陣を構えました。
これによって、天王山は無力化されたことになります。
また光秀は、淀城や勝竜寺城を後詰とし、防御を固めます。
秀吉軍は陣形が取れず、細長くならざるを得ない・・・
光秀は、大軍の利を封じたのです。
この時点での光秀の迎撃作戦は、秀吉を上回っていたと考えられます。

一方、秀吉の陣営は、歓喜に包まれています。
大坂の信孝が合流したのです。
秀吉は信孝を迎え、顔を合わせると涙し、いつまでも大声で泣き続けました。
信孝を味方に迎えることで、秀吉は弔い合戦という大義名分を得たのです。

光秀VS秀吉・・・決戦開始は、6月13日午後4時ごろ・・・
光秀の予想通り、大山崎の狭い隘路で秀吉軍は長くならざるを得ません。
光秀軍の猛攻で、秀吉軍の先陣は後退・・・狭い道に兵が溢れ大混乱に・・・!!
光秀軍は攻勢を強め、戦いは光秀の思い通りに展開していました。
このまま戦っていけば、秀吉軍は崩れ、勝利を手にすることができる・・・??
ところが、秀吉軍の別動隊が湿地帯を抜け、光秀軍の側面をついたのです。
子の奇襲によって、光秀軍の左翼が崩れ、勢いに乗った秀吉軍が、光秀本陣に迫ります。
この時、光秀は前線に向かおうとしますが・・・家臣に制せられます。
激闘は数時間で終了・・・。
再起を図るべく、近江の坂本城を目指した光秀。
しかしその途中、落武者狩りに襲われて、命を落としたと伝えられています。
光秀の天下取りは、ここに終わったのです。

京都の北にある慈眼寺には、光秀の木像が伝わっています。
力強い武将の姿は、これまでの光秀のイメージを覆すものでした。
敗者となり、謀反人の烙印を押された光秀・・・その真実は、歴史の深い闇に葬られたのです。



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英傑の日本史 激闘織田軍団編 浅井長政 (カドカワ・ミニッツブック)


高野山・持明院には戦国一の美女・お市の方の肖像画が伝えられています。

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この絵は、娘の茶々が奉納したと言われています。
お市は、36年という短い生涯の中で、3度の大きな選択に迫られました。


一度目・・・夫・浅井長政が兄・織田信長を裏切った時。
二度目・・・浅井氏が滅びる時。
三度目・・・再婚した柴田勝家が羽柴秀吉によって攻め滅ぼされる時・・・死か生か・・・??


1547年、お市は織田信秀の娘として生まれました。
兄・信長の13歳年下で、母は信長と同じ土田御前とされています。
お市が生れた当時、信秀は着々と勢力を伸ばし、尾張の守護や守護代をしのぐ勢力を持っていました。
1551年に信長が家督を継ぐと、尾張の統一に成功!!
桶狭間の戦いで今川義元を破ると、美濃に勢力を広げていきます。
家督を継いで17年・・・信長に飛躍のチャンスが・・・!!
1568年、第13代将軍足利義輝の弟・義昭が上洛の助けを求めてきました。
義昭を奉じて上洛すれば、天下に号令することができる!!
しかし、その前には六角氏が行く手を阻んでいました。
そこで信長が目を付けたのが、北近江に勢力を持っていた浅井氏。
この長政と同盟を結び六角氏を打倒!!そのまま上洛を目論みました。
そして、その同盟を確固とするために白羽の矢が立ったのが妹・お市の方でした。
当時22歳で絶世の美女!!
この時代に他家に嫁いだ女性の役割は・・・??
嫁ぎ先の情報を掴んで実家に伝える??両家の平和の使者の役割でした。
1568年4月、お市、小谷城へ輿入れ。
お市と長政は、勢力結婚ながら仲睦まじく、結婚の翌年長女・茶々、次の年次女・初をもうけます。
お市の輿入れからわずか5か月後・・・信長は上洛のために岐阜城を出発、長政の参陣もあって六角氏との戦に勝利!!
見事京に入ることに成功!!
お市の結婚が、信長の野望を支えたのです。

しかし・・・2年後の1570年4月・・・長政と信長が敵対!!
その背景には新将軍・足利義昭の策謀がありました。
信長に操られることを嫌った義昭は、秘密裏に各地の大名に信長打倒を命じていたのです。
これに応じたのが、越前の朝倉義景!!
信長はこの動きを知ると3万の兵を率いて京を出発!!
信長は朝倉氏の城を次々と落とし、本拠地・一乗谷を目指します。
しかし、その途中で・・・衝撃的な一報が!!
浅井長政離反!!
同盟者だった長政の裏切り・・・!!
始め信長は、その裏切りを信じようとはしませんでした。
しかしそれは事実!!
長政は、信長よりも、三代にわたって深い結びつきのあった朝倉を選んだのです。
浅井が軍を出せば、朝倉と挟み撃ちにされる・・・!!
信長は這う這うの体で京に帰りました。
この織田家の危機に対し、お市の行動は・・・??

夫の裏切りを知ったお市は、密かに両端を縛った小豆袋を陣中の信長に送り・・・
信長はその小豆袋を見て”袋のネズミ”だということを知ったという有名なエピソード・・・
しかし、これは後世の創作と考えられています。
実際のお市はどう振る舞ったのでしょうか??
お市は長政と一緒に・・・織田家とは縁が切れてもいいと思っていたようです。
実家と嫁ぎ先が敵対関係になった場合、妻は離縁され国元に送り返される習わしでした。
しかし、お市はその後も浅井家に残り続けます。
完全に浅井の人間となっていたのです。

1570年6月、浅井・朝倉連合軍は、織田軍と激突!!姉川の戦いです。
この一大合戦に長政は敗北!!
信長は、そのまま小谷城近くの横山城に秀吉を入れ、長政をけん制。
秀吉は浅井の家臣に裏切りを勧めるなど切り崩しにかかります。

1573年8月、越前の朝倉氏を滅ぼした信長は、その勢いで小谷城を包囲!!
長政だけでなくお市や娘たちまで閉じ込められてしまいました。
落城間際の小谷城・・・長政は死を覚悟し・・・
「生きながらえて自分の菩提を弔ってほしい。」
「自分だけ生き残って、浅井の女房と後ろ指をさされるのも口惜しい事です。
 一緒に死なせてください!!」

一緒に死ぬ??夫の菩提を弔う??

しかし、まだ小さい子供たちのために生きてほしいと長政に説得され・・・
お市と三人の娘たちは信長のもとに戻ったのです。
その直後、小谷城は信長の命を受けた秀吉によって落城されます。
長政は自害しました。

更にその1か月後・・・城から逃がされていた長政の嫡男・万福丸が捉えられ・・・秀吉によって処刑され、10歳という短い生涯を閉じたのです。

実家に戻ったお市と娘たちは信長によって岐阜城に迎えられたと思われます。
ほどなくして信包の城・伊勢上野城に移されます。
ここで娘たちと平穏な日々を送ったとされますが・・・お市の気持ちが晴れることはありませんでした。
というのも、信長がお市の出家を許さなかったのです。
まだ政略結婚の駒として仕えるのではないか??
しかし、お市は首を立てには振りません。
10年間誰とも結婚することはありませんでした。

長政の死からおよそ10年・・・1582年6月2日本能寺の変!!
この事件によって信長の野望は潰えました。
代わって織田家で主導権を握ったのは羽柴秀吉。
ここで36歳になっていたお市に結婚話が持ち上がります。
相手は織田家の重臣・柴田勝家。
当時、秀吉は信長の孫である三法師を織田家の後継者とし、実権を握ろうとしていました。
信長の百箇日法要も自らが中心となって行っています。
これに信長の後継を狙う三男・信孝が反発!!
信孝は、お市を勝家に嫁がせて、秀吉に対抗する勢力にしようとしたのです。
柴田勝家は、信長の若いころから仕えていた家臣・・・
1582年8月、勝家と再婚。越前・北庄城に三人の娘と共に移り住みます。
しかし、安住の地ではなく1年もたたずに危機が・・・
1583年4月、賤ヶ岳の戦い!!
秀吉との決戦に敗れた勝家・・・北庄城は秀吉軍に包囲されてしまいました。
城内には僅か200の兵・・・城が落ちるのも時間の問題でした。
勝家は娘たちを連れて城を出るようにお市に言います。
小谷城の悲劇再び・・・!!

娘たちと城を出る??
しかし、信長が戦国の習わしを変えてしまっていました。
1578年、荒木村重を討伐した際・・・村重は城に女子供を置いて城を脱出!!
これに怒った信長は、その見せしめに城に残った女子供を皆殺しにしていたのです。
その犠牲者は120人余りに上りました。
これは、落城の際に女子供の命は助けるという戦国の習わしを破る前代未聞のことでした。
もはや女性だからと言って命の補償はありません。

勝家と自害する??
しかし娘たちを犠牲にするのは・・・!!

北庄城に籠城した勝家は、僅かの兵で7度も秀吉軍に斬り込みます。
やがて落城を覚悟し・・・宴を催します。
その後お市は勝家と共に命を絶ちました。
勝家は用意していた火薬に火をつけさせ、天守もろとも爆破。
遺体は残らなかったと言われています。
お市は勝家と共に自害する道を選んだのです。

死の直前、お市は秀吉に書状を送っていました。
三人の娘たちの保護を頼んでいました。
三人の娘たちは秀吉の元へ・・・。
お市の死の翌年、秀吉は早速三女・小督を佐治家に嫁がせます。信長の次男・信雄を味方につけるために・・・

次女・初は近江の名門・京極家に嫁がせます。
そして長女の茶々は秀吉の側室に・・・。
茶々は秀吉との間に二人の男子を産んでいますが・・・
最初の子が生まれたときに、お願いをしています。
高野山・持明院・・・ここに茶々は発案したお市の肖像画が伝えられています。
この時もう一つの肖像画が・・・それは亡き父・浅井長政の肖像画です。
ここで供養をしたものです。
茶々が秀吉に望んだのは、父と母の菩提を弔う法要だったのです。
茶々はこの後も、二人目の子を産んだ後、京都に父・長政の菩提寺・養源院を建てています。
ここには一体の仏像が・・・
浅井氏が信仰した弁財天です。
これは、お市が長政と別れる際に持ち出し、茶々に託したものです。

茶々は秀吉の子を産むことで、母の成し得なかった父・長政の菩提を弔うことに成功。
1615年大坂夏の陣で大坂城は落城・・・茶々は豊臣家と運命を共にします。

茶々の死後、初と小督もしたたかに生きます。
家康の後継者・秀忠と再婚していた小督、彼女が産んだ家光が三代将軍となります。彼は浅井家の孫。
京極家に嫁いでいた初・・・菩提寺・常高寺には驚くべきものが残っていました。
初が死の間際に京極家当主に書いた遺言状です。
そこには・・・
”さくあんの事、迷惑かと思いますが、今更捨てるわけにも参りません故・・・
 私の死後も、私にくれてやるのだと思ってさくあんに知行を与え、目をかけてやってほしい”

さくあん・・・作庵は、長政のもう一人の息子です。
小谷城落城の際に、生き残った腹違いの弟だったのです。
初は京極家の中に、作庵を匿い続けていました。
生涯をかけて、浅井の血を絶やさぬように動いていたのです。
乱世の渦に巻き込まれ、三者三様の生涯を送ったお市の娘たち・・・
彼女たちは乱世の女性に課せられた役割を演じつつ、母・お市の想いを果たそうとしたのかもしれません。



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