日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:羽柴秀吉

戦国の世に革命をもたらし、天下統一を目指した武将・織田信長・・・

その冷酷な言動ゆえに、魔王と呼ばれて畏れられた信長に、刃向かった男たちがいました。
ひとりは、本能寺の変を起こした明智光秀。
信長が光秀の謀反により命を落としたのは有名です。
しかし、信長が信頼する重臣に裏切られたのはこれが初めてではありませんでした。
本能寺の4年前・・・光秀より先に信長に反旗を翻したのが、摂津国を治めていた荒木村重でした。

荒木村重史料研究 信長公記が村重をおとしめた

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大阪市北西部に位置する池田市・・・ここにはかつて摂津国の有力国人であった池田氏の城がありました。
1535年、池田氏に仕える荒木家に生まれた村重は、優れた武将に成長し、当主になると主君である池田勝正に信頼され、重臣の一人となりました。
村重が仕えていた池田氏は、摂津国北部を支配、畿内や四国で力を有し、室町幕府足利将軍家と対立していた三好勢の傘下にありました。
そんな池田氏や村重たちの運命は、ある男の登場で翻弄されることになります。
尾張の織田信長です。

1568年、天下を狙う信長は、室町幕府再興を目指す足利義昭と手を組み上洛・・・
信長が、三好勢を京都から追い出したことで、義昭が15代将軍に就任します。
この時、池田氏当主の勝正は、京都を追われた三好勢を見限り、将軍となった義昭に寝返りました。
これに、池田氏内の三好派の重臣たちが猛反発!!
謀反を起こし勝正を追放、新たな当主として勝正の弟・知正を据えたのです。
村重は・・・??
三好派側にいたため、池田氏の重臣として残りました。
しかし、義昭が将軍となったことで、摂津国の情勢は大きく変わります。
将軍義昭が、側近だった和田惟政に摂津北東部の支配を任せたことで、北東部の和田氏、北部の池田氏、西部の伊丹氏らが鎬を削る状況となったのです。

1571年、池田知正と和田惟政が、領地争いにより激突!!
この時、敵将の惟政を討ち取ったのが、村重でした。
フロイスの”日本史”によると、発端は和田惟政が荒木村重の領地の境に城を築いていきました。
これによって、村重が激怒、惟政を討ち取って武功をあげることになります。
この戦いで、池田家臣団のその他大勢ではなく、池田家臣団を率いていく代表の地位を固めていきます。
しかし、惟雅の息子惟長が党首を継いだことで、池田氏と和田氏の対立が続くこととなります。

一方、信長もまた敵対する勢力に苦しんでいました。
1573年、三方ヶ原の戦い・・・信長は、徳川家康と手を組み、武田信玄と戦うも完敗・・・
これを知った将軍義昭が、信長を見限り、反信長勢力と手を組んだのです。
信長は、足利将軍家、三好勢、大坂本願寺、浅井長政、朝倉義景、武田信玄にまで包囲される形となり、窮地に追い込まれました。
そこで、将軍義昭に人質を差し出し、和睦を申し出るも、義昭はこれを拒否。
これで戦となれば、信長の敗北は決定的であろうと畿内の武将たちの誰もが思っていました。
そんな中、村重は敗色濃厚な信長方につくことを決意します。

この時、池田氏内で村重と対立関係にあった重臣たちが、反信長勢力となった将軍・義昭方につきました。
そこで、村重は、対立する重臣たちに対抗するため、信長に味方することにしたのです。
池田氏内の勢力争いに勝つため、信長にかけた村重・・・
同じく、将軍・義昭の家臣から織田方についた細川藤孝を通じ織田家に忠節を誓う旨を伝えました。
そんな中、村重は、池田氏と対立していた摂津北東部を支配していた和田惟長を追放。
北摂津最大の実力者となったのです。

荒木村重研究序説?戦国の将村重の軌跡とその時代

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そして1573年3月29日・・・村重は、近江で初めて信長に対面します。

”村重が信長の前に進み出ると、信長は自らの刀を引き抜き、そこにあった大きなまんじゅうを突き刺し、村重の前に差し出した
 すると、村重はひるむことなく、大口を開けてそのまんじゅうを口にくわえた
 これを見た信長は大喜びしたといい、名刀を与え、摂津方面は任せたと、村重が摂津国を支配下に置くことを許した”by陰徳太平記

信長は、将軍・義昭と和睦するため、その交渉役に荒木村重と細川藤孝を起用。
そこには、将軍・義昭に圧力をかけるという狙いがありました。
その思惑通り、将軍・義昭は、疑念を抱きます。
京都に近い摂津の実力者である村重や、それまで自分に仕えていた細川藤孝まで信長についたことで、このまま信長と対立を深めると、都の周りの他の武将たちも寝返るのではないか・・・
そんな、好戦意識の薄れた将軍・義昭を、信長はすかさず攻め、京都から追い出しました。
こうして、室町幕府が滅亡へと追い詰められていきました。
村重の決断は、信長の危機を救っただけでなく、室町幕府滅亡という日本の大きな歴史を変えるきっかけとなったのです。

そうした功績から、村重は、信長の厚い信頼を得て、柴田勝家や丹羽長秀らとならび織田家の奉行を任されます。
さらに、摂津一国を支配する権限を与えられたのです。
これによって、池田氏との立場は逆転!!
池田知正が村重の臣下となりました。
摂津を治める権限を与えられたとはいえ、摂津には、まだ西部を支配する伊丹氏などの武将がいました。
切り取り次第・・・自力で支配領域を広げていかなくてはなりませんでした。

1574年、村重は、西摂津への侵攻を開始。
物流の要所だった尼崎を押さえたことで力を増し、伊丹氏などを滅ぼすことに成功!!
摂津国の統一を成し遂げました。
そんな中、村重は、明智光秀の娘を嫡男・村次の正室に迎えていました。
信長のもとでともに活躍していた外様の光秀との関係を強化することで、新参者である自らを守り、その地位を確かなものにしようとしました。
さらに、村重は織田軍の主力として各地を転戦!!
常に最前線で戦い続けることで、自らの存在を信長にアピールしていきました。

1575年、活躍目覚ましい村重に、信長は播磨国の浦上宗景の救援を命じます。
信長は、備前国の実力者だった宗景を味方にするため、備前・美作・播磨三国の支配権を与えたのですが、宗景には三カ国を治める実力がなく、毛利方の武将・宇喜多直家に次々と城を奪われていました。
信長が宗景の実力を見誤った尻拭いをすることになりましたが・・・
播磨に向かうと、信長の期待に見事にこたえ、小寺氏、別所氏など、播磨の武将たちを説得し、信長への忠誠を誓わせます。
その村重の能力を、信長は高く評価、ますます信頼を置くようになります。
こうして村重は、播磨方面の武将と信長を仲介する取次役として、信長の西国政策に欠かせない存在となりました。

ところが・・・1578年10月21日。
安土城にいた織田信長のもとに、荒木村重が背いたという知らせが届きます。
信長は信じませんでした。
というのも、村重は、織田家代々の家臣ではないものの信長に忠誠を誓い、何度のも窮地を救った功労者だったからです。

謀反のきっかけ①大坂本願寺攻め
1576年、信長と敵対していた仏教勢力・本願寺が、法主の顕如を中心に大坂で挙兵!!
村重は、信長から明智光秀らと共に大坂本願寺攻めを命ぜられます。
村重ら信長軍は本願寺を包囲、何度も攻撃するも落とすことができず、とうとう信長自ら援軍に駆けつけました。
どこまでも力攻めにこだわった信長は、次に行う総攻撃で村重に先鋒を命じます。

「それは、お受けできませぬ!!」

この時、本願寺は、信長と敵対している毛利輝元に援軍を要請しています。
これにたいして、輝元は、兵糧や弾薬を、水軍を使って大坂本願寺に届けようとしていました。
これを見越していた村重は、海からの補給を断つために木津川口を遮断、無益な力攻めではなく、兵糧攻めを行う準備をしていました。
村重が先鋒を断ったのは、もはや力攻めではできないと考え、兵糧攻めの準備をしていたからでした。
しかし、村重が兵糧攻めに変えるよう進言するも、信長は総攻撃を決行したのです。

結果は、またしても失敗!!
結局、兵糧攻めに戦法を変えることになります。

村重の意見を無視し、いたずらに力攻めを行って失敗・・・
兵糧攻めの際も、村重ではなく尾張出身の佐久間信盛を本願寺攻めの司令官に登用。
こうしたことから、信長の人材登用の不公平さを村重は不満に思い始めていました。
おまけに、佐久間信盛は、結局、本願寺を攻め落とすことができませんでした。

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謀反のきっかけ②羽柴秀吉の行動

1577年、信長は、毛利輝元の勢力圏内である山陰、山陽道の侵攻を決断。
その中国方面軍総司令官・総大将に羽柴秀吉を指名します。
これを聞いた村重は・・・怒ります。
播磨方面の武将と、信長の取次役として、信長の西国政策に欠かせない存在となっていた村重が、総司令官になってもおかしくはなかったからです。
さらに、秀吉の行動が村重を怒らせます。
中国方面軍の総司令官として播磨に入った秀吉は、播磨の実力者小寺政職の家臣・黒田官兵衛を参謀役に起用、官兵衛の居城・姫路城を毛利攻めの拠点にしたのです。

これが、信長を見限る決め手となりました。
もともと小寺などを味方につけたのは村重でした。
その功績を無視して、秀吉が小寺氏の家臣である黒田官兵衛と繋がっていく・・・
これは、村重の権益を侵すものでした。
そうして、村重の取次役としての面目をつぶすことになりました。
本来ならば、播磨方面の取次役である村重が、小寺政職に話がいき、その小寺から黒田官兵衛に話がいくのが筋でした。
それを、秀吉は無視して、直接官兵衛を起用してしまったのです。
権益を侵され、メンツをつぶされることは、当時の武将にとってその地域の支配力を失うのと同じことでした。
周囲の武将たちからも、見限られかねません。
そして、なにより村重は、自分を無視した秀吉の行動を、信長が容認したことに腹を立てたのです。
つまり、村重が信長に叛いたのは、尾張出身の家臣を優遇し、功労者の村重を蔑ろにした信長への不信感によるものでした。

村重の謀反が事実だと知った信長は、すぐに説得に乗り出します。

「不満があるなら聞くとつたえよ!!」

そう言って、明智光秀や羽柴秀吉など、錚々たるメンバーを説得に当たらせますが・・・村重は応じませんでした。
すると、信長自ら筆を執り、こう認めたのです。

「天下の面目を失った
 早く出頭せよ
 待っている」

それまで自分に歯向かう者は、実の弟でも殺害してきた信長が、村重を許し、説得して呼び戻そうとします。
それだけ、村重を評価し、天下取りに欠かせない存在と思っていたからです。
しかし、信長の書状にも村重の気持ちは揺るがず・・・
秀吉の参謀役となっていた黒田官兵衛が説得に有岡城にやってくると、村重は官兵衛を有岡城内に幽閉してしまいました。

当時の常識では、外交官・使者は、敵に捕まったら殺されてもおかしくない時代でした。
しかし、官兵衛を殺してしまうと、官兵衛の主君である小寺政職が離反しかねない・・・
そこで、村重は、あえて官兵衛を殺さず、軟禁することで小寺に対し恩を売りつけたのです。

村重は、信長に反するにあたり、味方を増やすための様々な工作を行っていました。
事前に安芸・毛利輝元に同盟を要請、その証として人質を送っています。
さらに、本願寺の顕如とは、同盟を結ぶ際の細かい条件を決めた起請文を作成。
村重は、反信長勢力と結ぶなどして、謀反の準備を進めていました。

1578年10月、織田信長に反旗を翻した荒木村重は、軍勢を有岡城・尼崎城・花熊城などに分け、籠城戦に打って出ます。
対する織田軍は、村重が籠城する有岡城に攻撃を仕掛けると苦戦!!
有岡城が難攻不落!!
村重は、もともと伊丹氏の本拠地であった有岡城を奪った後、大改修を行っていました。
城下町を土塁と堀で囲い込んだ惣構の城とし、周囲に3つの砦を配置するなど、防御機能を最大限に強化していました。
その為、織田軍は城攻めにてこずり、逆に反撃にあって2000もの死傷者を出してしまいました。
力攻めが通用しないと悟った信長は、兵糧攻めに変更します。
しかし、荒木軍は、2年近くも織田軍に抵抗します。
それは、有岡城が難攻不落の城だっただけでなく、援軍があったからでした。
安芸・毛利輝元は、軍勢を摂津に派遣、本願寺も紀伊の傭兵集団である雑賀衆などを送ってきました。
援軍が、海路を通り、尼崎などから上陸、兵糧はもちろん、武器や兵力の補充がなされたことで、荒木軍は長期の籠城戦に耐えることができました。

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そして、もうひとつ、村重の籠城を支えたものは・・・
地元・摂津の領民たちでした。
花熊城には近隣の村々から1000人余りが加勢して立てこもり、六甲山地周辺の農民たちは、海から有岡城への補給路を守るため立ち上がります。
全ては、領主である村重の為・・・
村重は、有事の際、周辺の領民が逃げ込める場所を作るなど、領民思いの領主でした。
その為、領民は信長が主になることを断固阻止したかったのです。

信長は、戦の際に領民たちを総動員させる体制を作らせました。
このような体制が、摂津の領民たちに不信感を抱かせていました。
信長に駒として扱われることを避けたい領民たちは、自分たちを守ってくれる村重に協力することを選びます。
村重と共に戦う・・・となっていったのです。
領民たちが協力したことで、長期の籠城戦に耐えることができたのです。

織田信長に反旗を翻した荒木村重は、居城である有岡城で籠城・・・
対する信長は、織田信忠・羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益など織田軍の精鋭たちを送り込みます。
しかし、そんな織田軍に対し、村重は果敢に猛攻を跳ね返していきます。
ところが、1579年9月2日、村重は突如有岡城を出て、嫡男が守っていた尼崎城へと移ってしまいます。
信長公記によれば、村重は夜陰に乗じて数人の家臣を連れて城を出ます。
妻子や家臣を見捨てて逃亡したと言われています。
この時、備前に宇喜多直家が毛利方から織田方に寝返ったことで、毛利軍は尼崎城、花熊城から撤退し始めていました。
おまけに、拠点の尼崎城が落城することがあれば、村重の有岡城だけではなく、大坂本願寺への補給もたたれてしまう・・・!!
村重は、危機的状況にあった尼崎を守ろうとしたのです。
有岡城を見捨てたわけではありませんでした。

村重は、尼崎城に移ってからも毛利や雑賀に援軍を・・・戦線を立て直そうとしていました。
ところが、村重が家臣・荒木久左衛門や妻のだしに任せた有岡城で誤算が生じます。
村重不在の有岡城で、城兵たちの士気が低下・・・
結束力が弱まったとみた織田軍の武将・滝川一益が、内通社を通じ、有岡城の足軽大将たちを寝返らせます。
そして、惣構えの中に侵入すると、城下町に放火して、本丸だけの裸城にしてしまいました。
もはや、落城寸前・・・!!
すると、村重と姻戚関係にあった織田方の明智光秀がやってきて説得します。

「村重殿、有岡城は間もなく落ちる・・・
 潔く、この尼崎城も明け渡しなされ
 そうすれば、上様は城内の女子供や家臣たちの命を助けると仰せですぞ!!」by光秀

有岡城内の女子供や家臣の命と引き換えに、尼崎城の開城を要求します。

「白を開け渡すことは、出来ぬ!!」by村重

これを聞いた信長は、
「己ひとりの命を惜しみ、開城を拒むとは前代未聞!!」
そう言って、有岡城を落城させると、見せしめのために尼崎城の近くで有岡城にいた家臣やその妻子ら500人余りを処刑!!

”女たちの悲しみ泣き叫ぶ声が天まで響いていた”by信長公記

さらに、信長は村重の妻・だしをはじめとする荒木一族ら30人を京都の六条河原で処刑したのです。
その為、村重は妻子を見殺しにした卑怯者と言われますが・・・
本当に村重は卑怯者だったのでしょうか??

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信長公記によると、開城を拒否したのは荒木村重一人だけの責任のようにしていますが、尼崎城と花熊城には荒木村重の軍勢だけではなく、毛利氏からの援軍や本願寺からの援軍(雑賀衆)がいました。
彼等も籠城していたため、ひとりでは決断できなかったのです。
ひとりの決断で城を明け渡せる状態ではありませんでした。
開城すれば女子供は殺さない・・・というのは、信長の方便だったと思われ、それを知っていた村重は、信長を信用して城を明け渡すことはできなかったのです。

結局、有岡城の女子供は処刑された後、8か月も村重は籠城戦を続けます。

信長公記では、村重のことを恩知らず、卑怯者と書かれました。
わざと村重を悪く書いています。
これは、作者の太田牛一が、信長の家臣であったこと、主君の信長を美化した結果なのです。

1579年11月、有岡城落城。
しかし、荒木村重がこもる尼崎城や花熊城での籠城戦は依然続いていました。
ところが、1580年4月、本願寺・顕如が織田信長と和睦して大坂を退去・・・。
村重が同盟する顕如は、大坂城を開城したことで、織田軍は大坂に張り付けていた軍勢を、尼崎城と花熊城に集中させることができました。
つまり、荒木軍の敗北は決定的となっていきます。
7月2日、花熊城落城・・・すると、村重は、「もはや・・・これまで・・・!!」
村重は、嫡男・村次らと共に尼崎城を出ると、信長の追撃を避けるため、毛利氏の領国へと逃れ生き延びます。
荒木家再興のために・・・!!
こうして2年近くに及んだ籠城戦・・・信長に反旗を翻した村重の戦いは、終わりを告げました。
この時、46歳・・・!!
その後の村重は、表立った行動ははっきりとわかっていません。
しかし、道薫と名乗り、茶人として堺での茶会に参加したことが記録に残っていることから、堺に移り住み、毛利方の交渉役として活動していたと考えられています。

信長に果敢に刃向かった荒木村重は生き延び、1586年5月4日、52歳で死去・・・
荒木家の再興を息子たちに託して・・・!!
しぶとく戦い抜き、生き残ることで再起をかけた荒木村重・・・民を思う優しさと、先を読む鋭さを兼ね備えた武将でした。

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1575年5月21日、その後の戦国の世を左右する合戦が起きました。
織田信長・羽柴秀吉・徳川家康・・・後の天下人3人がそろって甲斐の虎・武田信玄の跡取りの勝頼と相対した長篠の戦いです。

愛知県新城市にある設楽原・・・今から440年前、長篠の戦いが繰り広げられた場所です。
これを長篠の戦いと呼ぶのは、4キロほど離れた長篠城でも戦いが行われたためです。
3000丁もの鉄砲を有する織田・徳川軍が、当時最強だった武田騎馬軍団を撃破したことから、最新戦法が旧式戦法を打ち破ったとして教科書にも書かれています。
しかし、この戦いには、多くの謎が残されています。
果たして長篠の戦いとは、どのようなものだったのでしょうか?

当時、甲斐国を中心に強大な力を誇っていた武田・・・
これに脅威を感じていた徳川家康と織田信長は同盟を結んでいました。
勝頼は、父・信玄の死後、大きな戦いを控えていましたが・・・3回忌を済ませた1575年4月・・・満を持して隣国・三河を攻めます。
この時、勝頼には勝算がありました。
信長が、強力な勢力で敵対する石山本願寺を攻撃する為に大坂に進軍すると情報が入ったのです。
それならば、三河に援軍を送ることはできないだろうと考えたのです。
勝頼は、三河の本拠地である岡崎城に狙いを定めます。
綿密な計画で、岡崎場内に裏切り者を作り内部から崩そうとしましたが・・・情報が洩れ、失敗!!
次に、家康が入城していた吉田城に狙いを変えます。
勝頼は、場外での野戦を望んでいましたが、家康本体に籠城されてしまいます。
戦が長期化し、兵力の消耗が予想されたため、吉田城攻略も断念!!

そこで、兵を向けたのが、三河国の東の守りの要・長篠城です。
城主は、武田方から徳川方に寝返った奥平信昌でした。
長篠城を守る兵の数は、わずか500でしたが、城は二本の川の合流地点にあり、50mもある断崖にある天然の要害で、攻めるには難しく確実に落とせるか??勝頼は考えます。
5月1日、1万5000の兵で長篠城を包囲!!
城攻めは、攻撃側にとってはリスクの大きな戦法で、孫子の兵法にも城兵の5倍の兵力が必要と書かれています。
勝頼は、それを上回る30倍の兵を集め、圧倒的に有利な状況で長篠城攻略に挑みました。

武田軍は、長篠城を見下ろす医王寺山に本陣を置き、敵の周囲に軍勢を展開させました。
さらに、長篠城への援軍を食い止めるべく、小さな城・付城を築きます。
武田の兵たちは、この付城を拠点にし、竹束や大楯などで敵の攻撃から身を守りながら攻め寄せていきました。
5月13日、武田軍は長篠城の一部である瓢丸に強襲を仕掛けて占拠し、城攻め用の井楼を組み上げ、堀や兵を越えて城内に突撃しようとします。
しかし、城から放たれた大鉄砲により、井楼は大破し、完成を阻止されてしまいます。
そこで武田軍は、狙いを食糧を保管する兵糧村のある二の丸に変えました。

長篠の戦い 信長が打ち砕いた勝頼の“覇権” (シリーズ〈実像に迫る〉) [ 金子拓 ]
長篠の戦い 信長が打ち砕いた勝頼の“覇権” (シリーズ〈実像に迫る〉) [ 金子拓 ]

長篠城の必死の抵抗は、2週間以上に及び、その間、城の兵たちは陣太鼓を打ち鳴らして士気を鼓舞し続けたといいます。
しかし・・・5月14日、武田軍の猛攻に耐え切れず、二の丸・弾正曲輪を放棄し、本丸のみを残すまでに追い詰められてしまいます。
陥落寸前!!
本当に後詰は来るのか・・・??
不安に駆られた奥平信昌は、城の外に使者を出すことにします。
しかし、城は武田軍に完全に包囲されて、一歩でも外に出れば命がない!!
使者になろうというものはいません。
そんな中、名乗りを上げたのは、奥平家に仕えていた下級武士・鳥居強右衛門でした。
長篠城から50キロ離れた岡崎城へ行き、織田・徳川軍の後詰が来るかどうかを確かめること!!

5月14日深夜・・・夜の闇に紛れて下水溝から長篠城を脱出!!
そのまま、川を泳いでくだり、4キロほど下流で陸にあがりました。
そして、そこから一気に雁峰山を駆け上がると、のろしを上げ、まずは長篠城に脱出成功を知らせました。
強右衛門は、険しい山道を敵に見つからないように、西へ西へとひたすら走りました。
半日経って、ようやく目的地の岡崎城にたどり着きます。
強右衛門が到着した時、岡崎城には、家康だけでなく信長もいました。
長期に及ぶと予想された石山本願寺との戦いを終えていて、家康の要請に応じて入城していたのです。
強右衛門は、早速状況を報告しました。
すると、信長と家康は、長篠城を救援するために出陣することを快諾します。
そして、強右衛門にしばらく休息をするように勧めたのですが・・・
一刻も早く知らせるために、岡崎城を後にし、来た道を急ぎ引き返していきました。
再び50キロの山道を駆け抜け、長篠城の近くまでたどり着いた強右衛門でしたが、城は武田軍に包囲されていて、忍び込むことなど到底出来そうにありません。
周囲で様子をうかがっていた時、武田軍に見張りにつかまってしまいました。

勝頼は、強右衛門を尋問し、織田・徳川軍が長篠にやってくるのを知ります。
そこで、武田家の家臣として降伏することを条件に、援軍は来ないとウソの情報を城に向かって叫ぶように命じます。
強右衛門は、従わざるを得ませんでした。
しかし、援軍が来ないと聞けば、長篠城は抵抗をやめ、武田軍に城を明け渡すことになり、自分のせいで城が落ちてしまう・・・!!
本丸のすぐそばまで連れてこられた強右衛門は、覚悟を決めました。

「信長公・家康公はすでに御出馬された!!
 あと3日、城を持ちこたえよ!!」

この声を聞いた長篠城内の兵からは、歓声が上がったといいます。
これを知った勝頼は激怒し、強右衛門を長篠城から見える場所に磔にして処刑させました。

まさに、命がけで城を救った下級武士・鳥居強右衛門・・・その激走と覚悟によって、長篠城の士気は上がり、援軍到着まで無事に城を守ることができました。


1575年5月15日、信長と家康は、三河・岡崎城を出発し、長篠城へと向かいます。
そして、長篠城の手前4キロのところにある設楽原に布陣しました。
どうして、設楽原だったのでしょうか?
そこには、戦に長けた信長と家康の巧妙な戦術が隠されていました。
この先は、一騎打ちの節所と呼ばれた細い道になっていて、さらに、城に近づいても川を渡る橋が一カ所しかなく、このまま進めば武田軍から狙い撃ちされることは目に見えていました。
もう一つの理由は・・・「信長公記」に書かれています。

”志多羅の郷は、一段地形くぼき所に候
 敵方へみえざる様に段々に 御人数三万ばかり立て置かる”

信長は、岡と岡との間に大軍を隠したかったのです。
実際に織田徳川軍が布陣した場所を、勝頼軍から見て見れば弾正山という丘が邪魔になって、その背後を見通すことはできません。
信長は、山の後ろに大軍を隠して、武田軍をおびき寄せ、急襲をかけようと設楽原に布陣したとされていますが・・・
雁峰山からは見通せます。
雁峰山の裏に、武田軍の見張りが登ったのは、容易に考えられるので、大軍を隠す以外の目的があったのでは??
それは、武田軍に対して自分たちの兵力が倍以上あるということを見せつけて、戦わずに勝利しようと考えたかもしれません。
この時、織田・徳川連合軍は3万8000・・・
これに対し、武田軍は1万5000で、その兵力の差は、武田軍を動揺させるには十分でした。

設楽原に布陣した織田・徳川軍は、着々と戦の準備をしていきます。
先端をとがらせた木の枝を打ち込んだ逆茂木や土塁を作り、戦国最強と呼ばれた武田騎馬隊の突撃から守るために長さ2キロにわたる馬防柵を設置しました。
これは、3000ともいわれる織田・徳川軍の鉄砲隊の攻撃を活かす狙いがあったためです。

布陣にも、信長の周到な作戦がありました。
連合軍最大の兵力を有していた徳川軍が武田軍を迎え撃ちます。
さらに、信長は、徳川軍の右側には徳川家とゆかりの深い佐久間・水野隊で援護をさせ、左に織田軍鉄砲隊を配置することで鉄壁の布陣を敷いたのです。
長篠城から北に800mほどの場所にある医王寺山に本陣を置いていた武田勝頼は・・・3万8000もの織田・徳川軍の接近を知り、軍議を開いて対応を検討していました。
甲陽軍鑑には、この時、家臣の中から3つの案が出たといいます。

①一時撤退・・・山県昌景
②長篠城攻略の続行・・・馬場信春
③決戦・・・長坂光堅

まさに、三者三様・・・勝頼はどのように考えていたのでしょうか?
手紙には・・・
「敵、手立てのすべを失い、一段逼迫の体に候の条」・・・
織田・徳川軍が設楽原に布陣したのは、手立てを失い行き詰っているからだと考えていたようです。
さらに・・・
「無二に彼の陣へ乗り懸り、信長・家康両敵共、この度本意を達すべき儀、案の内に候」・・・
勝頼が、織田・徳川軍を積極的に攻める意思を持っていたことが分かります。

しかし、長篠城を攻め落とさずに設楽原に向かえば、前後から挟まれる形となって戦況はますます不利となります。
勝頼は決断します。

「設楽原に討って出て、決戦に挑む!!」

どうして戦いに挑んだのでしょうか??
そこには、勝頼の出自が関係していました。
勝頼は、信玄の4男として生まれ、諏訪四郎勝頼と名乗っていました。
母が、諏訪頼重の娘で、生まれた勝頼は、諏訪家の当主として育てられていました。
もともと武田家の正当な跡取りではなかったのです。
自分が信玄の正統な後継者であることを示すために・・・認めてもらいたいという願望があったのです。
戦での実績を、家中や周辺大名に誇示するため・・・
勝頼にとって、倒すべき敵は、信長・家康以外に家中にも会ったのです。

1575年5月20日・・・勝頼は、長篠城包囲の軍勢を残して、1万2000の兵を率いて設楽原へと向かいました。
連吾川を挟んで、織田・徳川軍と対峙した武田軍は、信玄台地と呼ばれる丘の上に、13カ所に分かれ陣を敷きました。
翌日・・・21日、午前6時過ぎ・・・
けたたましい太鼓の音を合図に、武田軍は攻撃を仕掛けます。
設楽原を横切って、織田・徳川軍の築いた馬防柵に突撃!!
甲陽軍鑑には、城攻めの如くにして・・・とあり、織田・徳川軍の築いた野戦陣地の堅固さに苦しめられたようです。
鉄壁の守りで挑む織田・徳川軍でしたが、合戦前日にもこの合戦を有利にするための作戦を遂行していました。
徳川家の重臣・酒井忠次に命じて、別動隊を戦場の南から迂回させ、長篠城を囲む武田方の付城を襲撃させていたのです。
これによって、開戦から2時間たった午前8時ごろには、長篠城の包囲網を崩すことに成功!!
退路を断たれた武田軍は、正面の織田・徳川軍への攻撃を強めました。
これを待ち構えていたのが、一説に3000丁ともいわれる鉄砲三段撃ちです。
強力な殺傷能力を持つ鉄砲ですが、当時の火縄銃は、弾込めに時間がかかり連射できませんでした。
弾込めには30秒ほどかかり、その30秒ほどは、騎馬なら時速40キロで340m走ることができました。
弾を込めている間に攻め込まれてしまいます。
そこで、弾込めのロスタイムを無くすために行ったのが三段撃ちです。
そして、鉄砲以外にも弓矢で応戦します。
織田・徳川軍が防御態勢を固める中、武田軍が5回波状攻撃を仕掛けていきますが・・・
そのほとんどが馬防柵を越えることができず、多くの死者が出たといいます。
優勢に立った徳川軍は、時には策の外に出て攻撃を仕掛け、戦は6時間以上に及びました。
次第に、死傷者が増えていく様子を見た勝頼は、遂に撤退を決めます。

朝6時に始まった設楽原の戦いは、8時間後の午後2時、武田軍の敗走により幕を閉じました。
武田軍の敗因は、騎馬による突撃にこだわり、当時最強兵器だった鉄砲を軽視したからだといわれていましたが・・・
信玄の存命中から、武田軍も鉄砲の配備には熱心で、決して軽視していたわけではありませんでした。
さらに、設楽原から発見された弾から、武田軍も織田・徳川軍も性能に差はありませんでした。
では、勝敗を分けたものは・・・??

織田・徳川軍は、鉄砲の弾に使う鉛、火薬を大量に準備することができました。
しかし、武田軍にはそれができなかったのです。
当時、鉄砲の弾の原料となる鉛、塩硝は貴重品で、山国・武田ではなかなか手に入れることができませんでした。
常々、慢性的な不足に悩まされていたのです。
織田信長は、瀬戸内海交易、南蛮貿易の拠点となっている堺を自分の領土にしていました。
堺の商人を通じて、豊富に入手することができました。

通常、戦国の合戦では、鉄砲の撃ち合いから始まり、そこに弓矢が加わってお互いに射撃の展開が行われます。
弾を打ち尽くしたので、騎馬や足軽などを早くに投入しなければならなかったと推測されます。

日本の歴史 長篠の戦い  織田信長と武田騎馬軍団 戦国の合戦 ペーパークラフト ジオラマ 紙模型 家康、秀吉、光秀、風林火山 城郭模型
日本の歴史 長篠の戦い  織田信長と武田騎馬軍団 戦国の合戦 ペーパークラフト ジオラマ 紙模型 家康、秀吉、光秀、風林火山 城郭模型

武田軍が撤退しなかった理由・・・それは、合戦での手柄の戦功基準にあったといわれています。
戦国時代の合戦では、戦場での働きによって褒美や恩賞が定められていました。
一般的には、敵陣に最初に突撃し手柄をあげる一番槍が最も評価が高いのですが・・・
武田家では、”場中の高名”というものが高く評価される習わしがありました。
場中とは、合戦中、敵味方が接近し、激しい矢玉が飛びかう危険な場所のことで、長篠の戦いでは馬防柵のあたりがそうです。
勇猛果敢な武士・・・だからこそ価値があると思われていました。
その結果、武田軍は戦功基準ゆえに前に前に出るものが多くなり、退却することせず、それが、皮肉にも武田軍の戦闘能力を奪うこととなりました。
兵力の消耗が早い戦い方・・・兵の数が相手より多い場合は効果がありますが、設楽原の戦いは、織田・徳川軍3万8000に対し、武田軍は1万2000・・・
三倍以上の開きがあり、場中に飛び込むことは無謀でした。
それでも、手柄を立てるために武将たちは飛び込み、彼等が討ち死にすると戦力は弱まり、武田軍は退却せざるを得なかったのです。

信長・家康軍に果敢に攻め込んだ勝頼軍・・・
そこには、引くに引けない甲州武士としてのプライドがしっかりとありました。
この長篠の戦いで、織田・徳川連合軍に大敗した武田軍は、多くの重臣たちを失いました。
そして、この戦から7年後・・・勝頼は、再び織田・徳川連合軍に敗れ、自害・・・
武田家は滅亡・・・
そして、天下は信長・家康の手に・・・!!

一説には、長篠の戦いで数千の兵を失ったといわれている武田軍・・・
戦ののち、避難先から帰った村人たちが目にしたのは、そこかしこに横たわる無数の亡骸でした。
勇猛果敢に戦い、散った、遠く甲州の武将たちを、村人たちは丁重に葬ったといいます。
そして、その勇壮な戦いぶりは、時を経て今に至るまで語り継がれています。

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群雄割拠の戦国時代、一人の男が乱世を制し、やがて時代の覇権を握りました。
戦国の革命児・織田信長です。
天下統一を目指した信長・・・しかし、その前には、数々の大きな壁が立ちはだかりました。
僅かな兵力で、10倍以上の大軍に挑んだ桶狭間の戦い・・・
周囲を多くの敵に囲まれる中で断行した上洛作戦!!
そして、不意の奇襲攻撃を受け窮地に立たされた姉川の戦い!!
信長は、3つの逆境をいかにして克服したのか・・・??

戦国の覇者・織田信長・・・しかし、若き日々は、苦悩と不安に満ちていました。
それは信長19歳の時に始まります。
1552年、信長の父、死去。
急死した父親の葬儀に駆け付けた信長・・・突然仏前に抹香を投げつけました。
どうしてそんなことをしたのか??
定かではありませんが、父の死が信長の方に重くのしかかっていたことは確かでした。
信長の父・織田信秀は、守護代の一家臣という低い身分でしたが、尾張一国を担う立場にありました。
力の源泉は、海運の要・津島湊と熱田湊を支配下に置いたことでした。

信秀は、海運を通じて商業を活性化・・・莫大な富を得ることに成功しました。
ところが、晩年は美濃・斎藤氏との戦いに敗れるなど信秀の求心力は徐々に低下・・・。
尾張統一も危ぶまれる情勢にありました。
そんな中、父の跡を継いだ信長・・・
しかし、周囲から大うつけ・・・非常識、愚か者として疎まれていました。

一族が敵対する事への恐れ、不安感がないまぜになっていた信長・・・不安は的中します。
ほどなくして一族の離反が始まります。
織田信友の謀反!!
それに対し信長は、信友を切腹に追い込んでいます。
そして実の弟・信勝・・・その謀反の計画を察知した信長は、仮病を使って見舞いに来させ家臣に命じて殺害しました(1558年)。
激しさを増す信長の一族討伐!!
造反勢力を抑えるのは容易ではありませんでした。
さらに、信長に巨大な外敵が迫っていました。
東海一の弓取りと畏れられた今川義元・・・義元は、一族の内紛に苦しむ信長に対して攻略の準備を進めていました。
まず義元は、尾張領内にあった鳴海城・大高城・沓掛城を手中に収めます。
それは信長にとって大きな痛手でした。
伊勢湾沿いに建てられた鳴海城と大高城・・・義元は、尾張の海運の要である津島と熱田に狙いを定めたのです。
信長は、父から受け継いだ経済基盤を失う危機に直面していました。
義元の領国は、駿河・遠江・三河の三か国・・・離反した織田方の家臣も組み入れ、石高にするとおよそ100万石!!
対する信長は、美濃・斎藤氏とも対立しており、まさに四面楚歌!!
援軍を望むべくもなかったのです。
しかし、信長はあくまでも義元に対抗!!
寝返った城の周辺に善照寺砦など3との砦を、そして鷲津砦・丸根砦を築いてけん制しました。

信長のこの動きをきっかけに・・・1560年今川義元、尾張に進軍・その数2万5000!!
信長軍の10倍以上でした。
尾張に侵攻した義元・・・信長にとってこれまでに兵力を持つ外敵でした。
5月18日夕刻・・・清須城にいる信長に、今川の動きを偵察していた家臣から報告が入りました。

「今川軍が明朝に攻撃開始!!」

いよいよ決戦の時!!
集まった家臣たちは、信長の言葉を待っていました。
ところが信長は・・・

「さあ・・・夜も更けた
 皆、帰宅して良いぞ」

そういって、軍議もせずに家臣たちを帰らせました。

「運の尽きる時は知恵の鏡も曇るというが、今がまさにその時なのか・・・!!」

そう失望する家臣もいました。
今川軍襲来の報を受けても動かない信長・・・果たして信長に勝機はあるのか・・・??

1560年5月19日、清須城の信長に、今川軍が鷲津砦と丸根砦が攻撃され始めたと連絡が入りました。
義元はまず、自分に寝返った大高城をすくうため、その周囲の鷲津・丸根砦を攻略し始めたのです。
すると信長は、僅か5騎を引き連れ、砦方面へと駆け出しました。
これまでの今川迫るの知らせには、微動だにしなかった信長が、どうして突然清洲城を飛び出したのか・・・??
それは、具体的な今川の攻撃場所を知る必要があったからです。
信長が、僅かな手勢で飛び出したのは、あくまで状況確認のため・・・もっと情報が必要だったと考えられます。
途中、善照寺砦に到着した信長は、一旦ここで馬を止めます。
ここには、遠くを見渡す物見櫓がありました。
この砦こそ、戦況を知るための前線基地だったのです。
高いところから今川軍の方向を見ると、鷲津砦・丸根砦の当た場所が遠望できます。
当時の信長が見た景色・・・立ち上る煙を目の当たりにして、信長は二つの砦が陥落したことを確信しました。
当時の戦術の常として、義元は鷲津・丸根攻略のためにまず、軍の主力・・・まず先陣を送ったはず・・・一方、大将・義元のいる本陣は、そのはるか後方で待機!!
今川軍が二つに分かれているこの状況を信長は図っていました。
今川本陣がむき出しになっている瞬間・・・その瞬間にかけて・・・!!
しかし、信長はまだ今川本陣がどこにあるのか具体的な場所をつかみかねていました。
そして正午ごろ・・・決定的な報告が、家臣からもたらされます。
鷲津砦と丸根砦陥落の知らせを聞いた信長が、桶狭間山で人馬を休憩させ、謡を歌わせているというのです。
桶狭間山は、先陣から3キロほど離れた場所でした。
地元の地理を熟知していた信長・・・今川軍が二手に分かれる構図に勝機を見出します。
この時、義元の本陣はおよそ5000、対する信長軍は2000足らず!!

今しかない!!

信長は、ここで最終決断をします。
そして檄を飛ばします。

「今川軍はすでに疲れている 大軍を恐れるな!!
 この戦に参加する者は、すべて名誉を得て功名は永遠に語り継がれるであろう!」

午後2時ごろ、今川本陣に突進!!
その途中で豪雨が降り出しました。
一方、今川本陣は、散り散りになって雨宿りの場所を求めました。
迫りくる信長軍に注意を向けるものはいませんでした。
豪雨が治まった時、信長軍は今川軍の本陣のすぐ目の前に接近していました。

「旗本これなり これへかかれ!!」

信長の号令で一斉攻撃!!
不意を突かれ浮足立つ今川軍、信長軍の一人が義元に一番槍を突き刺し、もう一人が首を刎ねる!!
いずれも、信長が育てた精鋭部隊でした。
一方、本陣から離れて休憩していた2万の軍勢は、”義元討たる”の報を聞くと、戦意を失って退却!!
信長軍の奇跡的大勝利!!
そこには、敵の情勢を見極め、勝機を逃さない信長の優れた判断力がありました。
戦国の覇者へ、その一歩を踏み出したのです。


2014年10月、新発見の資料が公開されました。
それは、新発見であり、未紹介であり、内容が非常に重要でした。
発見されたのは、信長の上洛に関する書状です。

”将軍上洛の供として 織田信長が参陣する”

1568年、信長が足利義昭の要請に応じて上洛したのは、桶狭間の戦いから8年後のことでした。
発見された書状の年号は永禄9年・・・信長は、実際の上洛の2年も前から義昭を奉じ、今日を目指す計画を立てていました。
どうして信長はそこまでして上洛にこだわったのか・・・??
室町時代、京の都で始まった権力争いは、全国を巻き込み大乱に発展!!
室町幕府は衰退の一途をたどっていきます。
戦国時代になると、将軍はしばしば都を離れ、地方の有力大名に庇護を求めました。
しかし、近年の研究によれば、戦国時代でも将軍の権威は保たれていたといいます。
信長が、将軍の権威を重んじていたことを示す資料が残されています。
幕府の家臣の名簿の中に信長の名前・・・権威を蔑ろにするイメージの信長も、将軍を支える大名の一人でした。
信長が上洛を目指したのは、衰退した室町幕府の細網を図ったからか・・・??
従来の室町幕府の秩序を、もう1回再構築するのが信長の目的なので、将軍は必要な存在でした。
そして、一有力大名として支えていくというのが信長の考え方でした。
尾張守護代の家臣という信長の出自は低い・・・
義昭の要請に応えることは、大名としての正当性を獲得する絶好の機会となったのです。
しかし、桶狭間の戦いで今川義元を討ち、尾張統一を果たしたとはいえ、永禄9年の時点では、信長の周囲は強敵に囲まれていました。
上洛など夢のまた夢・・・
さらに、上洛は、京に義昭を送り届けるだけではありませんでした。
将軍を守り、都の治安維持を図る・・・それには兵を常駐させておかなければなりません。
圧倒的な軍事力を求められました。
当時、信長が居城としていた小牧山城・・・
この城から信長の上洛に対する並々ならぬ決意が伺えます。
近年の発掘調査によって、当時の最新技術を使った巨大な石垣が次々と出土しました。
石垣の先端技術は、畿内で古くから発達しました。
信長は、畿内のいろんな技術、情報を押さえていたのです。
その中で、最先端の技術を築くことが出来るノウハウを持っていたのです。
また、小牧山城には、城下町が整備されていました。
上洛を睨んで、兵農分離が行われていたと考えられます。
兵農分離は、武士を農民から切り離す軍制改革です。
戦国大名の軍団を成す兵は農民たち・・・普段は村で農業をし、いざ戦いとなると兵隊として駆り集められました。
一方信長は、一早く専業の武士団を作り、城下町に集めて生活させていたことが小牧山城の発掘からわかりました。
兵農分離したことで、農繁期・農閑期に関わらず、いつでも遠征できる・・・!!
尾張をいかに治めるかということだけでなく、京都を目指していた意図が隠されていました。
上洛を果たすために、畿内の先進技術を取り入れ軍制改革を推し進めた信長・・・周到な準備を重ね、ようやく上洛が実現したのは最初の計画から2年後のことでした。

永禄11年(1568年)9月26日、およそ4万の大軍を率いて上洛!!
立ちはだかる敵を一蹴します。
ついに、足利義昭を奉じて上洛を果たしました。
10月18日、信長の軍事力を背景に、足利義昭将軍に就任!!
一方、新将軍誕生の立役者となった信長・・・信長の名は畿内一円に広がり、周辺の武将たちが次々と馳せ参じて忠誠を誓ったといいます。
信長が目指した国のありようを表した言葉・・・”天下静謐”・・・天下を平和にするという意味です。
将軍が中心となった畿内の政情を安定させる・・・そういう状況こそ、信長が考えた天下静謐でした。

ところが、上洛からわずか2年・・・怖れていたことが起こります。
越前の大名・朝倉の叛逆を皮切りに、畿内周辺の有力大名や、寺社勢力が次々と信長に反旗を翻したのです。
信長は、天下静謐を目指し、戦を重ね支配地域を拡張していきました。
一方、義昭は信長の凄まじい勢いに恐怖を抱き始めます。
2人の亀裂があらわになったのが、信長が義昭に宛てた「十七条の意見書」です。
義昭の怠慢や不正を十七ヶ条にまとめ、諫めたものです。

忠勤の部下を大切にせよ
えこひいきがあってはならない
世間から悪しき御所と陰口をたたかれている

などと、義昭を注意しています。
以後、信長と義昭の関係は、悪化の一途をたどります。
そして遂に1573年2月、義昭・・・挙兵!!
しかし、信長の圧倒的な軍勢を前に、降参する以外に術はありませんでした。
7月・・・義昭、京から追放・・・ここに室町幕府は崩壊したといわれます。
義昭を殺さず追放に止めたのは、将軍の権威を恐れ、謀反人と見なされることを避けたからだともいわれています。
以後、信長は、将軍の権威に寄らず、天下の静謐を目指しました。
それは、新しい天下人の姿でした。

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足利義昭を奉じ、上洛を果たした信長・・・
将軍の権威を背景に、信長は畿内周辺の諸大名に上洛を命じる書状を出しました。
これをはねつけたのが、朝倉義景です。
かつて、足利義昭の後ろ盾となっていた越前の雄です。
信長の上洛勧告に朝倉側はこう答えました。

「これは上意にはあらず
 信長の謀略である!!」

1570年4月、信長は3万の大軍勢を引き連れて朝倉討伐へ!!
目指したのは、今の福井県敦賀市。
陸上交通と、北国海運の要です。
朝倉氏にとっては、畿内への玄関口でした。
1570年4月26日、金ヶ崎城の戦い!!
信長は力攻めで、敦賀にある金ヶ崎城を攻略します。
ところが、この時信長のもとに驚愕の知らせが・・・!!
妹婿で北近江を治める浅井長政が裏切ったのです。
長政裏切りの報に接した信長は、こう答えました。

「虚説たるべき!!」

裏切りを嘘だと報告を信じようとはしませんでした。
当時の資料には、こうあります。
”浅井は近年信長の家来となり、心の隔たりなく付き合ってきた”
長政には、十分な所領・北近江半分を与えています。
しかも、信長の妹・お市の方を嫁にしているのに・・・!!
別格の待遇をしていると、信長は長政に恩を着せています。
しかし、長政は、信長の家臣ではないと思っていました。
家臣扱いされることに対する自尊心があったのです。
朝倉攻めを優勢に進めている信長・・・
しかし、長政の裏切りが事実ならば、形勢は一気に逆転します。
長政が南から敦賀に攻め入れば、朝倉との挟撃は免れない!!
西には敵対する若狭の武将たち・・・さらに、南の琵琶湖を支配しているのは長政!!
四方を囲まれ、信長は袋の鼠!!
この時、信長は即断即決します。
南西に向かい、即座に駆け出します。
京までおよそ100キロの道程・・・信長の撤退戦・金ヶ崎の退き口の始まりでした。
信長を京まで逃がすために、困難な殿を受け持った家臣たち・・・
木下藤吉郎(豊臣秀吉)・明智光秀・徳川家康があその任に当たったといいます。
若桜街道を南下し、京に無事たどり着いた信長・・・長政の裏切り発覚から3日後のことでした。
この時、信長に付き従ったものは、僅か10人ばかりと記されています。

フロイスの「日本史」によると・・・
”信長は自らに加えられた屈辱に対しては懲罰せずにはおかなかった”
とあります。

いよいよ、姉川の戦いの幕が切って落とされようとしていました。

1570年6月、信長は長政討伐のために北近江に侵攻。
同じ頃、朝倉の援軍8000が到着、小谷城近くの大依山に陣を構えました。
対する信長の本陣は龍ヶ鼻!!
左手には徳川家康が陣を構えました。
姉川を挟んで浅井・朝倉の連合軍と信長の本陣とが睨み合う形となりました。

6月27日、大依山の浅井・朝倉勢が動きます。
大依山の軍勢が、山向こうに異動したため、信長の目の前から浅井・朝倉勢が見えなくなってしまったのです。
この時信長は、敵の動きを小谷城への撤退行動だと読んでいました。
しかし、長政は撤退したと見せかけて信長本陣に奇襲攻撃をかけようとしていました。

6月28日午前5時ごろ・・・浅井勢、姉川に到着。
信長の本陣に密かに迫っていました。
そして・・・姉川の戦い開戦!!
信長の虚をつくまさに乾坤一擲の奇襲攻撃でした。
浅井軍の猛攻に押される信長の軍勢・・・崩れるのは、もはや時間の問題でした。
この時、信長の本陣は、陣杭の柳と呼ばれる場所にありました。
本陣の奥深くまで攻め込まれ、信長が窮地に立たされたことを物語るものがありました。
浅井家家臣・遠藤直経の墓です。
信長に迫り、あと一歩のところで討ち取られた武士として記録されていました。
本陣から墓までの距離・わずか300m!!
これこそ、浅井長政の奇襲攻撃で、信長本陣が大混乱した証です。
浅井勢に攻め込まれた織田軍・・・
しかし、信長は戦場を離脱することなく本陣に踏みとどまりました。
この時、信長を支えたのが家康の援軍でした。
これにより、信長は反撃を開始!!
結果、浅井軍は退却し、信長は辛くも勝利を得たのです。
この戦い以降、信長は大きく戦法を変えます。
時間をかけて浅井方の城を包囲し、小谷城の包囲網を築いて行きました。
さらに、浅井に組する武将に調略を持ちかけ寝返りを図ったのが、後の豊臣秀吉です。

1571年9月、比叡山焼き打ち!!
信長は、浅井長政に味方した比叡山を焼き打ちにしました。
その2年後の1571年8月、5万の大軍勢で朝倉滅亡!!
返す刀で小谷城を包囲!!
信長軍の猛攻についに浅井長政は切腹・・・享年29の若さでした。
浅井・朝倉滅亡の後、畿内周辺から信長に敵対する大勢力は途絶えました。
最大の逆境を乗り切った信長は、領土を拡大、天下統一に邁進していきます。

浅井・朝倉滅亡の2年後・・・信長は、当時最強と畏れられた武田軍を撃破することに成功!!
その後信長は、巨大な安土城を築き、天下統一事業に邁進!!
敵対する勢力には周到な準備と圧倒的な兵力で臨み、勝利を重ねていきます。
新しい時代の扉は数多の逆境を克服した男によって開かれたのです。

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天正10年6月2日早朝・京都・・・
戦国の歴史を大きく変えた本能寺の変が起こりました。
天下取りを目前にしていた織田信長が、家臣・明智光秀の謀反にあい自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存知豊臣秀吉!!
しかし、神業ともいわれる中国大返しには、今なお多くの謎が・・・!!

織田信長の死を一番早く知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの戦の準備中だった織田信孝と丹羽永時ででした。
本能寺の変が起こったその日に信長の死を伝え聞いていました。
にも関わらず、京都に向かわなかったのは何故なのか・・・?
この時、織田信孝、丹羽長秀は、箝口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こしました。
信長の死を知った兵士たちがパニックを起こして逃げ出したのです。
2人は、仇討に向かうところではなくて、守りを固めるのが精いっぱいだったのです。

柴田勝家は、京都からおよそ300キロ離れた越後で上杉攻めを行っていました。
勝家が信長の死を知ったのは6月5日から7日の間です。
勝家はすぐに北ノ庄城に戻り、明智光秀討伐の準備を始めますが、出陣できずにいました。
京都の戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったためです。
明智光秀は、上杉景勝に本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころではなくなるとわかっていたのか、上杉軍が追撃の体勢を整えていたため、勝家は動けずにいました。

北条氏が治める関東をほぼ制圧しつつあった滝川一益が、本能寺の変を知ったのは、6月7日から9日の間です。
しかし、時を同じくして北条氏も信長が死んだという情報を入手、反撃してきたのです。
そのため一益は、京都に敵討ちに行くことが出来ませんでした。

中国地方を制圧するため毛利方の備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は・・・??
信長の死を知ったのは、本能寺の変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロも離れた場所で、どうしてそんなに早く知ることが出来たのでしょうか?
本能寺の変が起こることを知っていたのでは??とも言われていますが、それはないでしょう。
明智光秀はこの時、織田信長を討ったから和平交渉に応じるなという内容の密書を毛利に送っていました。
その密書を持った使いの物が、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
つまり、毛利より、秀吉の方に情報が早くっ伝わってしまったのです。
この時秀吉は、毛利方の清水宗治の居城・備中高松城を水攻めにし、落城寸前にまで追い込んでいました。
作戦は、城の周りに全長3キロ、高さ7キロの堤を築きました。
その中に、近くの川の水を引き入れ、城を水没してしまおうというものです。
さらに、城を完全に孤立させるために、周辺の警備も厳重に警備します。
すると、光秀が毛利方に送った密使が祖の警備網に引っかかってしまったのです。
城攻めの秘策のおかげで思いもよらず、信長の死を早く知った秀吉ですが、草履取りから取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、我も忘れて只々泣くばかり・・・
そんな秀吉の目を覚まさせたのは、軍師官兵衛の一言でした。

「これは天の御加護・・・天下取りの好機でございます」

その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵・明智光秀を討ち、天下を取るという野望を滾らせるのです。
そして、すぐさま箝口令を敷きます。
事件を知った一部の家臣たちに口止めをし、信長の死は極秘事項に・・・
当然、毛利方にも情報が漏れないように密使を斬ったうえで、備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉がまとまりかけていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩める旨を伝えます。

①備中・美作・伯耆の三国の割譲を求めていましたが、割譲するのは美作、備中・伯耆は領土折半と譲歩
②備中高松城主・清水宗治が切腹すれば、城に籠っている5000人の兵士たちの命は保証

暗礁に乗り上げていた講和、秀吉からの譲歩で毛利側は喜んで応じてきました。
清水宗治の死もやむなし!!
こうして、毛利との講和が実現!!
秀吉が信長の死を知ってから数時間後のことでした。

その日のうちに、水上の船の上で、備中高松城主・清水宗治自刃。
その見事な最期に秀吉は”武士の鑑”と褒め称えたといいます。
しかし、その直後・・・秀吉のウソがばれ、毛利側が信長の死を知ってしまいました。
秀吉が恐れたのは、毛利方の追撃でした。
この時、毛利方の吉川元春・小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に向かっていました。

「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ」by吉川元春

しかし・・・
「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ」by小早川隆景

結局、小早川の主張が通り、軍勢は秀吉を追撃することはありませんでした。
さらに、毛利軍が追撃しなかった理由には・・・
和睦の1か月ほど前の事、毛利輝元が家臣に宛てた書状には・・・
「こちらは鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている」
武器弾薬を使い果たしていたのでは、追撃などできません。
ところが、これも秀吉の策によるものでした。

秀吉は、瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していました。
つまり、毛利の補給路を断っていたのです。
もともと村上水軍は毛利方の水軍で、因島、来島、能島の三家に分かれていました。
そのうちの来島村上家は、既に毛利を裏切り信長側についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略・・・手中に収めていたのです。

6月5日、吉川元春と小早川隆景の軍勢は撤退を開始、それを見届けた秀吉は、翌6日、2万の軍勢を率い京都へ・・・8日間、200キロの怒涛の行軍が始まりました。
秀吉の神業ともいわれる中国大返しが始まりました。

1日目・6月6日午後2時・・・
備中高松城を後にした秀吉軍は西国街道を通り、22キロ離れた沼城へ。
西国街道は、援軍として来るはずだった信長のために、秀吉が事前に整備していたため行軍は比較的楽でした。
向かう備前・沼城は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城・・・待ち受けていた宇喜多もまた抜かりなく。
秀吉たちが夜でも移動しやすいように、街道沿いに松明をたき、城についたときにすぐに食事ができる用に整えておきました。
こうして順調なスタートを切った秀吉軍でしたが、この先が大変でした。

2日目・6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発します。
向かうは、およそ70キロ先にある姫路城です。
その途中には、西国街道最大の難所・船坂峠が待ち受けていました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万もの軍勢が重装備でしかも、多くの武器弾薬、食料を運びながら超えるのは、かなりの困難を極めました。
さらに、姫路城の行軍では、暴風雨に見舞われてしまいます。
道筋の川も増水し、農民を雇って人間の鎖を作らせ、その肩にすがって川を渡らせたといいます。
姫路城に着いたのは、翌日8日の早朝・・・24時間で70キロの行軍でした。
鎧などの装備の重さは30~50kg・・・本当にそんなことが出来たのでしょうか?

秀吉は、兵士の負担を少しでも軽くするため、ある策を講じていました。
海路を利用したのでは??という説があります。
秀吉は、村上水軍を味方につけていました。
騎馬隊・足軽隊は、陸路を駆け抜けたと思われますが、物資を運ぶ輜重部隊(小荷駄隊)は海路を使ったといわれています。
言い伝えによると、牛窓からから佐古志、あるいは片上津から赤穂御崎まで海路で行ったという資料が残っています。
重い武具や物資を船で運ぶことで、兵士たちを身軽にし、大軍勢のスピードを上げた秀吉・・・。
さらに、近年中国大返し成功の謎を解く新しい説が浮上しています。
注目されたのは、秀吉が書いた一通の手紙でした。
本能寺の変を知った織田家家臣・中川清秀への返書です。
問題は日付と内容・・・
秀吉は、6月5日に野殿まで来ていると書いています。
野殿とは、備中高松城から7キロの場所・・・
これが正しければ、出発日の定説が覆されることに・・・!!
6日出発という通説は、小瀬甫庵が書いた「太閤記」という豊臣秀吉の生涯を綴った伝記によるものです。
しかし、太閤記の内容は誇張表現では・・・??と考える人もいました。
近年、中川清秀宛ての書状が注目され、5日に野殿まで退却し、沼城へ向かったのでは・・・??という新説が出てきています。
毛利の追撃の可能性はゼロではない・・・天晴な秀吉です。
この6月5日出発説は、本隊は備中高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのでは・・・??という可能性もあります。

中国大返し・・・この成功の裏には、秀吉のこんな知略が・・・!!
①人心掌握術
備中高松城を出発し姫路城まで・・・2日で92キロを走破した兵士たちでしたが、まだ道半ば・・・京都までは100キロ以上残っていました。
秀吉に、ある懸念がよぎります。

「こやつらも、随分疲弊している・・・
 そろそろ逃げ出す者も現れるのではないか・・・??」

そこで秀吉は、姫路城に着くと皆に信長の死を知らせ、この行軍は、信長の仇である明智光秀を討ち取るためであると兵士たちの士気をあげたのです。
さらに、城にあった兵糧米8万5000石と金800枚、銀750貫文・・・現在の価値にしておよそ66億円相当をすべて兵士たちに分け与えたのです。
また、現存する秀吉の書状によると、”163人いる中間や小者らに一人五斗あたえよ””とあります。
中間、小者は、武器や荷物を運ぶ者です。
そうした者たちにまで、一人五斗・・・つまり、半年分の米に当たる高い報酬を与えたのです。
そして、翌日からの行軍に備えて、ここで1日ゆっくりと休ませることに・・・。
すると、そこへ一人の僧侶がやってきてこう言うのです。

「明日は二度と帰ることが出来ない悪日にあたります
 それゆえに、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」

それを聞いた秀吉は・・・

「そうか、二度と帰ることが出来ないのはむしろ吉日じゃ」

そういって取り合わなかったといいます。

その意味は・・・??
秀吉は、光秀を見事討つことが出来れば、天下人の道がある・・・そうなれば、姫路城に帰ってくる必要はない・・・城などどこにでも作れる!!だから、帰って来られないのはむしろ吉日!!
自分が勝って、天下を取るということだというのです。

みなぎる自信と天下取りの野望・・・

秀吉は富田に向かいます。その際、摂津国を通ることとなります。
そこにいるのは、茨城城主・中川清秀、高槻城主・高山右近でした。
かつて織田信長に対して、謀反を興した武将・荒木村重の重臣でした。

「やつらが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」

そこで秀吉は、彼らにこんな書状を送ります。

”上様は難を逃れ、無事である” 

信長が生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしました。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、信長の首を晒すことが出来ていれば、嘘がすぐにばれていました。
情報を操作することで、裏切りの芽を摘んだ秀吉は、安心して進軍することが出来たのです。

②家臣の働き
秀吉は、家臣にも家ぐまれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時後方支援を担当。
食糧や武器などの物資を調達、人の手配を迅速に的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・。
また、黒田官兵衛は、軍師として優れた才能を発揮。
それが・・・毛利家の旗。
兵庫を過ぎたあたりから、隊列の先頭にこの旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせたのです。
官兵衛は、備中高松城での和議が成立し撤退する際に、小早川隆景の素をたずね、毛利軍の旗を20本ほど借りたいと申し出ていました。
隆景は、ある程度の察しはついており、秀吉に協力しておいた方が毛利家のためになると考えました。
幡を見て、毛利が味方に着いたと勘違いした武将たちが、次々と秀吉方に加わったといいます。

こうした家臣たちの働きもあり、6月11日、秀吉軍は尼崎に到着。
秀吉は、大坂城にいた信長の三男・信孝と丹羽長秀に、尼崎まで来たと伝えますが、信孝を光秀討伐の総大将には立てませんでした。
本来なら、息子の信孝が総大将となって仇を討つのですが、信孝を総大将にすれば自分はその下の駒でしかない・・・
こでまでと何ら変わりないと考えました。
当時、信孝には兵が4000ほどしかいませんでした。
おまけに光秀は、本能寺の変で信長の嫡男・信忠も討っていました。
どうしたらいいのかわからない信孝は、光秀を討つ気迫が無かったので秀吉の上には立てなかったのです。

6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!

一方の光秀は・・・??
本能寺の変を起こした6月2日から4日までの間に居城の坂本城に入って近江を平定。
6月5日には信長の居城・安土城と秀吉の居城・長浜城を占拠。
さらに、丹羽長秀の佐和山城も押さえています。
光秀も、味方の結束を強めていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城の細川忠興や、大和郡山城・筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
一方、朝廷を味方に付けようと調停工作も行います。
朝廷から京都の経営を任せるといわれ、信長の後継者は自分に認められたと思っていたようですが・・・
8日、秀吉の大返しの知らせを受けるのです。
しかし、光秀は、調停工作に励みます。
調停工作を第一に考えていたのか?
秀吉はまだ帰ってこないと思っていたのか・・・??

秀吉の軍勢は、4万に膨らんでいました。
一方、明智光秀は織田信長の謀反に成功するも、細川忠興や筒井順慶らが参戦しないという誤算に見舞われます。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく、娘の細川ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉、筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5千!!
秀吉の軍勢の半分にも及びませんでした。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎!!

6月13日

劣勢で迎え撃つこととなった光秀には策がりました。
それは、天王山の地の利を生かす作戦です。
川が迫る天王山の麓には、当時、馬がやっとすれ違えるほどの細い道しかなく、光秀はそこに秀吉の大軍をおびき寄せて、天王山に配置した兵に急襲させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、逆に秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。

「先に天王山を押さえねば!!」

しかし、秀吉もまた天王山が勝負の分かれ目になるとわかっていました。
そこで、このあたりの地理に詳しい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は敵に気付かれぬように松明をつけづに前日の夜に山に分け入り、光秀軍より先に天王山を押さえたのです。
これで、光秀軍は勝機を失いました。
そして遂に、両軍が激突!!
山崎の合戦です。
わずか数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は、命からがら逃げだすも、落ち武者狩りの竹やりで重傷を負い、その後・・・自刃。

3日天下と揶揄されることとなった明智光秀。
その一方、主君・信長の敵討ちを見事遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
全ては、中国大返しという神業をやってのけたことにありました。
その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして大胆な行動力と決断力、何をするにもスピードに驚かされました。
秀吉、天下取りとなるべき人物だったというのがよくわかります。


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本能寺の変に謎はあるのか?: 史料から読み解く、光秀・謀反の真相

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学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康天下統一の謎

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かつての丹波国・・・京都市右京区にある慈眼寺・・・
ここには、とある戦国武将が祀られていますが・・・墨で塗りつぶされて真っ黒です。

mituhide
















その武将とは・・・??

本能寺の変で主君である織田信長を討った天下の謀反人・明智光秀です。
この木像は、光秀が創建した寺に安置されていました。
肩には明智の家紋、桔梗紋があります。
どうして黒く塗りつぶされたのか??それは、光秀が逆賊とされたからでした。
しかし、最近の研究では・・・??
本能寺の変は、明智光秀が織田信長という鬼を倒しただけ??
天下の謀反人ではなかったのか・・・??

残された資料が非常に少ない明智光秀・・・
信長に仕えるまでの前半生は、ほとんど解らず多くの謎に包まれています。
通説では、美濃国の源氏の名門・土岐氏の一族・・・明智の家に生れたといいます。
室町時代の明智氏は、京都に常駐し、将軍の直臣として高い地位にありましたが、光秀の父に関しては、”光綱・光隆・光国”などの名が上がり、特定に至っていません。
出生地もはっきりせず、現在の岐阜県可児市・恵那市・大垣市・山県市・・・など諸説ありますが、近年では明智城のあった可児市を有力とする声が多くなっています。
生年も謎・・・
光秀を主人公とする軍記物「明智軍記」には、光秀の辞世の句があり、そこに”五十五年の夢”とあることから、亡くなった1582年に数えで55歳・・・それから逆算すると1528年生まれとされてきました。
つまり、光秀は1534年生まれの信長より6歳上。
しかし、明智軍記は光秀の死後100年以上たっている、作者も不明のために信憑性が低いとされてきました。

そして近年別の説が・・・??
本能寺の変の時、55歳・・・それは絶妙な年齢です。
しかし、17世紀成立の歴史書「当代記」には、光秀は羽柴秀吉との山崎合戦に敗れた後、落ち武者狩りで殺された・・・この時の年齢が齢六十七と書かれています。
最近では、1516年生まれという研究者もいます。
1516年生まれならば、信長より18歳年上・・・本能寺の変の際は67歳ということになります。

当時の美濃国は、守護である土岐氏が京都に滞在することが多く、それを美濃に持ち帰っていたため文化風流に富んでいました。
また、学問を重んじる寺も多く、そこには兵法書などが豊富にありました。
美濃国に生れた光秀は、幼少のころから様々な文化に触れ、多くの知識と素養を身に着けたのだと思われます。
そんな文武両道の光秀の前に、大きな試練の日々が待っていました。

1552年頃、油売りから身を起こしたともいわれる斎藤道三が、守護の土岐頼芸を追放し、美濃国を掌握。
明智氏はこの道三に仕えることとなりましたが、1556年4月、道三とその長男・義龍による長良川の戦いが勃発し、道三が討死・・・すると義龍は、道三に仕えていた明智氏を敵とみなし、その年の9月、3000の兵で明智城に攻め入りました。
対する明智方の兵は870人・・・城代を務めていた光秀の叔父・明智光安は勝ち目はない・・・と、光秀に明智の家の再興を頼みます。
明智城を脱出した光秀・・・。

妻・熙子と共に美濃を後にした光秀は、明智軍記によると諸国を放浪・・・極貧の暮らしの中、各地で禅寺を間借りしながら伊達氏、毛利氏、宇喜多氏などの所領を転々とします。
そして、1557年頃・・・越前国へと流れつきます。
福井県にある称念寺・・・光秀はこちらの門前に小屋を建てて住むことを許され、間もなくして朝倉義景に仕官。
この後、出世を果たしたといわれていますが、その理由は・・・??

ある日のこと、義景の前で鉄砲の腕前を披露することとなった光秀は、45mほど離れた的を、次々と打ち抜き、100発中99発命中・・・その褒美として鉄砲隊100人を預けられたといわれています。
これが本当に出世の理由・・・??
諸芸に通じた光秀ならば、鉄砲も上手かったと思われます。
鉄砲の話は作り話の可能性が高く、そもそも光秀がすぐに朝倉義景に仕えたという話そのものが疑わしいと思われます。
越前国に身を置いた光秀が、寺子屋の師匠をしていたという伝承もあります。
お医者さんをしていたという説もあり・・・その素養の高さが目に留まったのではないかと思われます。

1566年9月、光秀が身を寄せていた越前国に、足利義昭が逃げてきました。
前年に兄である室町幕府13代将軍・足利義輝が暗殺され、義昭にも危険が迫っていたため、幕臣の細川藤孝と共に逃亡・・・足利家と関係の深かった朝倉義景を頼って、越前までやってきたのです。
その時・・・明智の名を見つけた細川は、
「将軍の直臣だった明智氏の者か??」と、声をかけたのでは・・・??
光秀の人生が、大きく動き始めた瞬間でした。

そんな中、義昭は朝倉義景に声をかけ、足利将軍家を復興する為に共に上洛してくれるように要請します。
しかし、長男の急死などで気落ちしていた義景は、なかなか腰を上げようとしませんでした。
業を煮やした義昭は、義景を見限り一人の武将に希望を託します。
それが尾張の織田信長でした。
当時の織田信長は、美濃を制圧、その名をとどろかせていました。
思案する義昭に光秀は・・・??
光秀は、細川藤孝に「信長の妻に縁がある」と告げます。
信長の妻とは、正室・帰蝶のことで、帰蝶は美濃の斎藤道三の娘で、一説では母・小見の方は光秀の叔母・・・つまり、帰蝶と光秀は従兄妹になります。
光秀は、その縁を頼りに橋渡し役を買って出たのですが・・・
それによって信長とも運命の出会いを果たすのです。
この頃、信長が細川藤孝に贈った書状にも、

「詳細は明智に申し含めました
 義昭さまによろしくお伝えください」

とあります。

織田信長は、天下布武というだけあって、上洛の機会をうかがっていました。
信長にとって義昭の護衛は渡りに船だったのです。

1568年9月7日、信長は足利義昭を奉じて上洛。
光秀も幕臣として同行したといわれています。
こうして光秀は、放浪の身から歴史の表舞台に出たのです。
この時、通説なら41歳、当代記説なら53歳・・・。
9月26日に京都に到着した信長は、義昭の兄・義輝を殺害した勢力を京都から追い払い、平定。
翌10月、義昭は室町幕府第15代将軍に就任するのです。
光秀の橋渡しによってすべてはうまく行きましたが、光秀自身は複雑な状況になります。
この頃は、幕臣として義昭に仕える一方、信長からも扶持を受けていました。
光秀は二人の主君に仕える両属だったのです。
当時は武士たちは有能な主君を自由に選ぶことができたのです。

1569年、信長は直臣である丹羽長秀、木下秀吉、中川重政らと共に、新参者の光秀を京都奉行に任命します。
そうすれば、足利義昭の監視役とき、教養のある光秀は使えると思われていたようです。
光秀は、信長の期待に見事応え、京都の治安維持や税の徴収などで辣腕を発揮!!
和歌や茶の湯を通じて朝廷との交渉役となり、武骨ものの多い織田家臣団の中でなくてはならない存在となっていきます。
そんな中、光秀のもう一人の主君である足利義昭は、将軍とは名ばかりで実権を信長に握られていることに腹を立て、諸国の戦国大名に信長に圧力をかけるように命じます。
すると・・・光秀は、義昭の監視役としてその動きを逐一信長に報告していました。

1570年1月・・・信長は義昭に対して五か条の条書を突き付けます。
そこには・・・”重要な政治や軍事は信長が執行する 将軍は口出しするな”と記されていて、信長の印と共に光秀の署名がありました。
中立的な立場にいた光秀が、信長側に立ったのです。
どうして信長を選んだのか??
将軍・義昭よりも、天下統一に邁進する信長の将来性に賭けたのです。

織田家臣団の中にあって知略に富んだ交渉人として貢献する明智光秀・・・
さらに武将としてもその力を見せつけていくこととなります。

信長から政治に口出しするなと言われた将軍・義昭は、それに従うことはなく水面下で動きます。
朝倉義景を味方に付けようと画策します。
義景がこれに応じたため、1570年4月20日、大軍を率いて朝倉攻めに出発します。
光秀もこれに参戦・・・光秀にとって義景は、根無し草だった自分を拾い上げてくれた恩人・・・しかし、主君と決めた信長のために迷いはありませんでした。

4月25日、越前国に入った織田軍は、圧倒的戦力で金ヶ崎城と天筒山城を落とします。
織田軍が取った朝倉郡の首は1300以上だったともいわれています。
勢いそのままに朝倉義景のもとに攻め入ろうとした信長に・・・とんでもない情報が・・・!!
信長と同盟を結んでいた北近江の浅井長政が突然反旗を翻したのです。
長政の正室は、信長の妹のお市の方でした。
浅井氏に絶対の信頼を寄せていた信長は、言葉を失うほど狼狽したと言われています。
このまま残れば朝倉軍と浅井軍に挟みうちされるのは必死!!
家臣たちに説得された信長は、止む無く撤退を決意します。
戦において最も難しいのが退却戦・・・
本体を無事に退却させるためには、最後尾の殿が身を盾にして敵の追撃を食い止めなければなりません。
この難役に名乗りを上げたのが木下秀吉でした。
秀吉は金ヶ崎城に残って朝倉軍の追撃を必死に食い止め、兵の大半を失ったものの時間を稼ぎ、無事に帰還しました。
金ヶ崎の退き口と呼ばれるこの退却は、秀吉の武功として広く知られていますが・・・??

資料には「金ヶ崎城に 木藤 明十 池筑 その外残し置かれ・・・」とあります。

木藤=木下秀吉
明十=明智光秀
池筑=池田勝正

のことです。

つまり、この三人の共同作戦でした。
しかも、勝正は、多くの鉄砲を用意して参陣しています。
つまり、池田勝正と明智光秀が主力だった可能性が高いのです。
にもかかわらず、秀吉一人の武功とされているのは、太閤記に秀吉の武功ばかりが書かれています。
謀反人となった光秀の武功など、無用だと意図的に書き残さなかった可能性があります。
秀吉やその家臣によってかき消された光秀の功績は他にもあったと思われます。

信長の危機を命がけで救い、益々信長の信頼を得た光秀ですが、その一方で・・・
ルイス・フロイスは・・・
「織田家にあって、光秀は余所者・・・
 ほとんどすべての者から快く思われていなかった節がある
 また、光秀は裏切りや、密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的。
 己を偽装するのに抜け目なく、戦においては謀略の達人であった」と言っています。
浮いた存在だったようです。

フロイスは、キリスト教の受け入れに批判的だった光秀を、快く思っていなかったようですが・・・。
しかし、主君のためならば、残忍なことも、汚いこともするという一面が、光秀にはあったようです。

織田信長と対立していた石山本願寺法主の顕如が、浅井長政や朝倉義景に反信長連合を呼びかけます。
これに呼応した浅井・朝倉連合軍は、京都へ向けて進軍を開始し、比叡山延暦寺に布陣します。
すると信長は延暦時に対し・・・
「我が方に味方するなら山門領を安堵しよう
 それが無理ならばせめて中立を守って欲しい」
と、申し入れ、さらに
「味方もしない、中立を守らないというのであれば、敵とみなして焼き払う」
と脅しをかけました。
しかし、延暦寺はこれを聞き入れずに、無視・・・!!

翌年・・・1571年9月・・・ついに信長は、比叡山焼き払うように光秀に命じます。
比叡山延暦寺は、平安時代から朝廷の鎮護の役目を担ってきた由緒ある寺院です。
焼き打ちなどすれば、朝廷、更には京都の人々からの非難を免れることはできません。
通説では、光秀はこれに強く反対した!!

光秀の反対を押し切って、信長が比叡山の焼き打ちを決行!!
執拗な焼き打ちは4日間にわたって行われ・・・男女合わせて3000人以上が落命しました。
しかし、その真相は・・・??

近年の研究によると、光秀は比叡山焼き打ちには反対していないようです。
むしろ、忠実に比叡山の焼き打ちを実行しました。
その大きな根拠は、比叡山山麓の土豪に宛てた光秀の書状です。
そこには・・・

・弾薬の補給
・抵抗する集落の皆殺し

焼き打ちを実行するための細かな指示が書かれていました。
つまり、比叡山の焼き打ちに反対せず、入念な下工作をして信長の命令通りに実行したのです。
やはり謀略の達人なのか・・・??

しかし、この焼き打ちは、近年の発掘調査によってちょっとした山火事程度だったという説も出てきています。

光秀は、信長に反対せずに焼き打ちを実行したものの・・・それは脅し程度のもので、虐殺ではなかった可能性が高いのです。
1571年12月、光秀は比叡山焼き打ちの褒美として近江国志賀郡5万石を与えられ、さらに琵琶湖の湖畔に城(坂本城)を築くことを許されました。
これによって、光秀は延暦寺の監視と、琵琶湖水運の権利獲得を任されたのです。
これは、一国一城の主になったということ・・・
この時点では、まだ織田家臣団で一国一城の主になったものはおらず、新参者の光秀が第一号だったのです。

光秀は築城の名人で・・・ルイス・フロイスも、
「築城について造詣が深く、優れた築城手腕の持ち主」と評し・・・坂本城については、
「安土城に次いで豪壮絢爛な城」と絶賛しいます。
坂本城は、特殊な構造で、城から直接琵琶湖に船で出ることのできる攻めの拠点の城でもありました。
天下統一に突き進む信長・・・光秀は、何を見て付き従っていたのでしょうか?

1573年、室町幕府15代将軍・足利義昭は、再び信長討伐を掲げますが、全く歯が立たずに降伏・・・
7月、義昭は信長によって京都から追われ、室町幕府は事実上滅亡しました。
これによって信長は畿内をほぼ制圧!!
残るのは丹波国のみとなります。
京都に近い丹波国には、朝廷や将軍の領地が多く、義昭を蔑ろにする信長に良い感情を持っていない土豪が多く、なかなか手が出せずにいました。
しかし、丹波国を攻略し、畿内全土を掌握しなければ、天下布武は実現できない!!
そこで、1575年信長は丹波国を攻めるべく兵を起こし、その総大将に光秀を任命しました。
光秀は、期待に応えるべく奮戦し、4年の月日を費やして、丹波の城を次々と制圧・・・
1579年丹波国平定。

信長は大いに喜び・・・
「丹波国での光秀の働きは、天下の面目を施した」と光秀を絶賛しました。
そして、その丹波一国が光秀に与えられるのです。
丹波一国は29万石に相当し、近江国の志賀郡と合わせると光秀の所領は34万石・・・まさに、大出世でした。
丹波国の領主となった光秀は、福知山城などを築き領地経営に着手。
自らが考える理想の国づくりをしていきます。

長引く戦で疲弊した農民のために年貢の引き下げ、商業地では地場産業を奨励、水害から町を守るために福地山城下を流れる由良川の堤防を造成しました。
ケガを負った家臣には手紙を書いたり薬を渡し心配りをし、敵対した相手でも降伏後は自分の家臣に組み込むことが多かったといいます。
光秀の優しさは志賀郡でも変わらず・・・
西教寺には・・・戦で命を落とした明智軍18名の供養米を供えた際の寄進場状が残されています。

本来は、温厚、温和な人物であったと思われます。
誰もが幸せに暮らせる国を築きたかったのです。
信長の天下統一は、この国を豊かにするに違いない・・・そのために、自分の粉骨砕身お仕えしなければ・・・と思っていた光秀は、本能寺の変の1年前、家中軍法を作っています。
戦場での雑談や抜け駆けを禁止するなど細かな規定が18か条にわたって記されていますが、その結びには光秀のこんな言葉が・・・

「落ちぶれた身から信長様に拾ってもらった私が、莫大な軍勢を任されたからには、明智家の法度が乱れていると
”武功がない人間だ”とか”国家の穀潰しで公務を怠っている”と嘲笑され迷惑をかけてしまう
 抜群の働きを見せれば、速やかに信長様のお耳に入ることだろう」

信長への感謝と兵を預かる責任感を家臣たちに表明したものです。
しかし、その一方で、天下の謀反人となる変を起こすのです。
明智光秀は謀反人なのか?名将なのか?
光秀は、名将になった故に謀反人になったのでは・・・??
天下統一を目前にした信長は、天皇を超える存在になろうとしていました。
信長が、社会を乱す鬼となってしまったと感じた光秀は、自分の最後の大仕事として鬼を退治しようとしたのでは・・・??
信長の最後の城・安土城は、天皇を迎え入れる際の御幸の御間より、信長の暮らす天守の方が高い位置にありました。
自分は天皇を超える存在であるという強烈な意思を示したのです。
また、晩年の信長は、敵将の生首を蹴飛ばしたり、それまで以上に傍若無人な振る舞いが目立つようになってきていました。
その鬼を退治したのが本能寺の変・・・
謀反の後、もし光秀の天下が続いていれば、どんな理想の国を築いていたのでしょうか?

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