日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:聖徳太子

大阪高槻市に、今、注目の古墳があります。
今城塚古墳・・・二重の堀を含めた全長350mという巨大な前方後円墳です。
堀の外には、長さ50メートルにわたって、様々な埴輪が並びます。
武人、力士、巫女などおよそ200体・・・葬られた人物の権力の大きさを物語っています。
この古墳の主を多くの研究者は継体天皇と考えています。
6世紀初めの天皇で、聖徳太子の曽祖父に当たります。
継体天皇は、極めて異色の天皇でした。
出身は、権力の中心・大和からほど遠い北陸・・・先代天皇との血縁も薄かったのに、大和の豪族たちに即位を求められたのです。
一体どうして地方の王族が天皇になれたのか??
いかなる人物だったのでしょうか??

まだ日本が倭国と呼ばれていた506年・・・大和政権は、大きな危機の中にありました。
日本書紀にはこう記されています。

”武烈天皇が崩御した
 ところが、天皇には息子も身近な親類もおらず、後継者候補がいなくなってしまった”

政権の中枢である天皇になる人がいない・・・まさに、大和政権崩壊の危機でした。
そんな危機が起きた理由は、武烈天皇の4代前、雄略天皇の時代にありました。

日本書紀には・・・

”雄略天皇は、誤って人を殺すことが多かった
 人々は、大悪の天皇であるといった”

雄略天皇は、自らが天皇になるためにライバルを次々と殺していきました。
その為、後継者候補は極端に少なくなり、武烈天皇の代で遂に跡継ぎがいなくなってしまったのです。
大和政権を支える有力豪族・・・大伴金村、物部麁鹿火は、後継者探しに奔走します。
そこで、ある人物の名前が上がります。
2人が白羽の矢を立てたのは男大迹王・・・亡くなった武烈天皇とははるかに遠縁の人物でした。
武烈天皇の5世代前の応神天皇の代に別れた家系の五代目・・・
さらに、男大迹王は、そのプロフィールも異色でした。
生れたのは、大和から離れた近江の北部、父の死後、母の故郷・越前に移り、その地を治めていました。
年齢は57歳、当時としては高齢でした。
どうしてこんな異例の男大迹王が後継者に選ばれたのでしょうか?

琵琶湖の西岸に位置する滋賀県高島市・・・男大迹王の故郷に当たるこの地の調査では、男大迹王の父・彦主人王の墓(田中王塚古墳)が発見されています。
5世紀後半の築造とされています。
大きさは直径58m・・・この地域で最大級の大きさで、高島の中で突出して規模が大きいのです。
高島では100年間に70基もの古墳が相次いで造られました。
その中で、田中王塚古墳は最大で、長年にわたって地域を治める、近江の有力豪族だったことが分かります。

日本書紀によると、近江で生まれた男大迹王は、その後、母親の故郷・越前を治めたといいます。
近江と越前の豪族を従える王に成長していたことが伺えます。
さらに、男大迹王を支えていたとされるのが、尾張の大豪族・尾張連です。
当時、尾張では東海地域最大級の断夫山古墳を始め、巨大な古墳が数多く作られていました。
その尾張の大豪族の娘を男大迹王は妃にしていたのです。
近江、越前、尾張・・・広大な地域の豪族たちに支えられていたことこそ、男大迹王が大和政権の新たな主に選ばれた理由でした。
男大迹王の力の源はそれだけではありませんでした。
故郷高島にある鴨稲荷山古墳には、男大迹王の親族が葬られた石の棺の中から金で出来た靴や冠が出土しています。
これらは朝鮮半島からもたらされたものと思われます。
伽耶、百済の王墓から出てくる物に非常に近いのです。
この朝鮮半島とのつながりも、後継者に選ばれた要因の一つではないかと思われます。
5世紀以降、越前、近江、若狭といった日本側沿岸地域は、朝鮮半島との交流が非常に活発でした。
継体天皇の基盤には「対外交渉」朝鮮半島とのつながりがあったのではないか?と思われます。

朝鮮半島には、男大迹王と密接な関係を持った人物がいました。
朝鮮半島西側の国・百済の武寧王です。
武寧王は、北の強国・高句麗の攻撃を撃退し、20年以上にわたって王として君臨した古代朝鮮の実力者です。
その武寧王が、男大迹王に送ったとされる品が残っています。
和歌山県・墨田八幡神社に伝わる国宝・人物画像鏡です。
この鏡の背面に、興味深い銘文が刻まれています。
送り主の名は斯麻=武寧王、男大迹王の長寿を祝ってこの銅鏡を送るとあります。
送った年は503年・・・男大迹王が後継者に選ばれる前です。
つまり、男大迹王は即位前から百済の武寧王とつながりを持っていたと考えれます。
日本書紀には、地方にいた王族とだけ記されている男大迹王・・・しかし、その実像は、各地の豪族と朝鮮半島の百済に支えられる大実力者だったのです。

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遠く離れた越前の地から武烈天皇の後継者に選ばれた継体天皇・・・
507年に即位します。
しかしなぜか、政権の本拠地に入ることはありませんでした。
最初に宮を築いたのは・・・507年樟葉宮・・・琵琶湖から流れる淀川のほとりでした。
継体天皇はここで即位し、およそ5年過ごすことになります。
その後も・・・511年筒城宮、518年弟国宮・・・と相次いで宮を築きますが、いずれも大和ではありませんでした。

日本書紀にはこう書かれています。

”継体天皇は、内心、自分が選ばれたことに疑いを持っていた”

これは、即位に反対する勢力がいると考えていたと読み取れます。
この頃、大和の豪族たちは大きく東西の二つの勢力に分かれていました。
継体天皇を推挙した大伴・物部など大和盆地の東に基盤を持っていました。
西側には、彼らと一線を画す葛城氏の拠点となっていました。
全長200m近い大型の古墳が連なる馬見古墳群・・・これらは、葛城氏が築いたものとされています。
継体天皇の10代前、仁徳天皇の頃から天皇の后を出し続けており、彼らが新参者の即位に反対し、継体天皇の大和入りを阻んでいたとも考えられます。

それとも、敢えて大和に入らなかった・・・??
大阪府交野市には森遺跡があります。
そこからは、継体天皇が即位したころの鍛冶工房跡が見つかっています。鉄を加工する鍛冶炉・・・炉に風を送る鞴の一部も見つかっています。
この辺りは、古墳時代の鉄器を加工していた遺跡が東西2キロ、南北500mの範囲で見つかっています。
6世紀に入って、鉄器加工を集中的に行っていた場所です。
当時、倭国に製鉄技術はなく、朝鮮半島から輸入した鉄の地金を加工して使っていました。
戦略物資である鉄器生産の中心地が、継体天皇最初の地・樟葉宮の近くにあったのです。
その後、継体天皇は拠点を移し二つの宮を築きましたが、いずれも淀川水系にありました。
淀川は、大阪湾にそそいでおり、そこから瀬戸内海を通じ九州から朝鮮半島につながる・・・
南部の伽耶は、倭国が輸入する鉄の産地でした。
継体天皇は、戦略物資である鉄の輸入ルートと加工の場を共に手中に収めていたのです。

526年、継体天皇はようやく奈良に入り、奈良盆地南東部に磐余玉穂宮を置いて、名実ともに大和の大王となりました。
即位から20年近くも後のことです。

ようやく大和入りした継体天皇・・・
倭国の王として混乱する国の立て直しを行うこととなります。
しかし、その前には大きな問題が立ちはだかっていました。
舞台は九州・・・!!
北部九州最大の岩戸山古墳・・・墳丘の長さは138m、高さ20m・・・6世紀前半の古墳としては、全国有数の規模を誇ります。
この古墳の主は筑紫君磐井・・・継体天皇と同じ時代、北部九州一帯に勢力を誇ったとされる豪族です。
磐井の本拠地は、現在の福岡県八女市・・・八女古墳群と呼ばれる300もの古墳が点在し、岩戸山古墳はその中心に位置しています。
磐井の力を示すのは古墳の大きさだけではなく・・・古墳の周りの埴輪・・・岩戸山古墳は埴輪ではなく石で作られた”石人石馬”と呼ばれるもので、古墳の周りに配置されていました。
岩戸山古墳からは、石製品が100点以上も見つかっています。
石工・・・石製品を作る職人集団を九州中から集めていました。
北部九州を掌握していた磐井は、大量の石人石馬を並べ、自らの威厳を誇示するようになっていました。
そんな磐井の勢力は、九州だけにとどまりませんでした。
朝鮮半島とも結びついていたのです。
岩戸山古墳にほど近い古墳では伽耶系の耳飾りが、磐井と関係の深かった久留米の古墳では新羅系の土器が見つかっています。
百済、新羅、伽耶・・・様々な社会と複数のパイプを持つ有力者・・・
衰えた大和政権の立て直しを図る継体天皇・・・
九州で自立の動きをする磐井にどう向き合うべきか・・・??

磐井と手を組む・・・??
それとも、見せしめとして磐井を滅ぼす・・・??
どうする・・・??

継体天皇が葬られたとみられる今城塚古墳・・・
墳丘の長さは、磐井の墓の1.4倍、当時最大級の古墳です。
ここで彼の選択にまつわるものが発見されました。
それは、今城塚古墳から大量に出土した円筒埴輪・・・船の絵が意識的に書かれています。
三日月形の船体に2本マストが立っています。
これは、大型輸送船をモチーフに書いていると思われます。
古代最大の兵員輸送・・・6万人の兵を送り届ける!!
継体天皇の選択は、磐井を滅ぼすでした。

527年~528年、磐井の乱。
6万人もの兵を導入して、磐井との戦いに乗り出しました。
大将軍・物部麁鹿火率いる軍勢が、磐井の軍と筑紫三井郡で激突!!
結果は大和軍の圧勝でした。

”天皇の命に従わず、無礼であった磐井を物部らは殺した
 官軍の怒りは収まらず、石人の手を打ち折り、石馬の頭を打ち落とした”

今城塚古墳からは、戦いの後、継体天皇の力が全国に及んでいたことを示すものが発見されています。
阿蘇ピンク石は九州で採掘され・・・赤い顔料(水銀朱)がついていて、神聖な色でしばしば石棺に塗布されています。
はるか遠くにある石をどうして使ったのか・・・??
阿蘇ピンク石の産地である熊本県宇土市・・・馬門石と呼ばれています。
自分の権力や財力を、いかにして見せつけるのか・・・??

「我々は、あんな遠い勢力とつながりがある
 重いものを運んでくれる
 それほど自分達には力がある」

と、誇示したかったのです。

運ぶことによって、40~50カ所の豪族が受け入れる・・・王権の一翼を担っていると認識できます。
九州全体が自分になびいていくきっかけにもなります。
継体天皇にとって、大事な契機となりました。

磐井を倒し、大和政権の立て直しに成功した継体天皇・・・
日本書紀では磐井を倒して3年後の531年に崩御。

今城塚古墳では、発掘の結果200体もの埴輪が50mにわたって並んでいたことが分かっています。
強大な権力を手にした大王を送る厳かな儀式のありさまを伝えています。

地方からスカウトされ、衰えた大和の力を復活させた継体天皇・・・
今、その実像に新たな光が当てられています。


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歴史の人物たちの肖像画・・・あの偉人の肖像画な別人だった??

聖徳太子・・・

syoutokuこちらは法隆寺が持っていたもので、長年、最古の聖徳太子像だとされてきました。
しかし、近年では、疑問が持たれています。

この絵の最古の文献は、平安時代後期の学者・大江親通の「七大寺巡礼私記」によると・・・
この肖像画に描かれているのは聖徳太子で、古代中国・唐の人によって描かれたものだ、とあります。
しかし、現代になって検証してみると様々なことがわかってきました。
冠と衣装・・・これらは、飛鳥時代のものではなく奈良時代のものです。
これにより、描かれているのは奈良時代の人物では??
さらに、この肖像画に装丁されていた絹地に川原寺とあったので、もともとは奈良県明日香村にあった川原寺のものだったという説が浮上・・・!!
川原寺とは、第38代天智天皇が建立したといわれる寺院です。
そのため、この肖像画は、聖徳太子ではなく天智天皇に関わりの深い藤原氏の誰かでは・・・??といわれています。

聖徳太子と確証がないため、「伝聖徳太子像」と書かれています。



takaujiこの肖像画は、足利尊氏??
かつて教科書では、室町幕府初代将軍足利尊氏とされていました。
しかし、現在は尊氏としては乗っていません。
どうして肖像画ではないとされたのでしょうか?

問題となったのは、花押です。
この花押は、尊氏の嫡男・2代将軍足利義詮のもので、子が父親の頭上に花押を据えることはありえません。

さらに、ざんばら髪で刀を抜き、折れた矢を背負う姿が征夷大将軍に相応しくない・・・この肖像画は尊氏ではないとされました。

では誰なのか・・・??

武具に書かれた家紋は、高氏の家紋です。
このことから、子肖像画は、高師直かその息子の師詮といわれています。

では実際の尊氏は・・・??

takauji2

神奈川県立歴史博物館に尊氏の肖像画があります。

頭には兜をかぶり、背負う矢も折れていません。
これは、江戸時代の模写本で、原本は残っていません。
室町時代にこの絵の原本となった絵のことについて書いた記述が残っています。

そこには、尊氏が紺色の”おどし”を着ていたという記録が残っています。
そしてこれがそれにあたるのではないか?といわれています。
さらに、この絵の左上に”尊氏”の文字があります。
これによって尊氏像であることがわかります。


では原本はいつごろ製作されたのか・・・??
延文三年とあるので、その頃・・・1358年頃かと思われます。
延文三年は、尊氏が亡くなった年に当たります。
追善供養のために、2代将軍義詮が製作を企画したものかと思われます。

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昭和の時代はお札の顔として親しまれ、”和を以て貴しとなす”で知られる憲法十七条、そして色で役人の身分を区別した冠位十二階など、日本の礎となる功績を数々残した聖徳太子・・・まさに、古代史最大の英雄です。
しかし、近年その聖徳太子を巡って様々な議論が巻き起こりました。
2017年、中学校では聖徳太子ではなく厩戸皇子の表記が優先されるとなりました。
聖徳太子がいなかったという虚構説まで・・・!!
私たちのよく知っている聖徳太子とは一体何だったのでしょうか?

飛鳥時代、古代日本の最大の転換点を生きた聖徳太子・・・その実像とは・・・??
聖徳太子に新しい光を当てる研究とは・・・??

太子について書かれている書物は、奈良時代に編纂された日本書紀など少ししか残っていません。
太子について書かれた書物・・・資料が極めて少ないために、謎に包まれています。
近年話題となったのが、聖徳太子虚構説です。
ひとりの有力な王族「厩戸王」はいたが、聖徳太子の功績は後世に作られたものだという説です。

憲法十七条も、奈良時代に日本書紀が編纂されたときに創作されつけ加えられたとされます。
しかし、それはありえない・・・??

第一条の和を以て貴しと為し・・・”以和爲貴、無忤爲宗”の無忤は、聖徳太子が生きた時代に近い中国南北朝時代の伝記が多いことがわかります。この文献を参考にして作られたものではないか??
南北朝時代の成実諭師・・・当時流行した「成実論」を勉強した人が良く使う単語なのです。
成実論は、中国の南北朝時代(5~6世紀)に流行した仏教書で・・・しかし、7世紀、唐の時代になった頃には否定され、重視されなくなっていました。
つまり、その後、奈良時代になって否定された文献を用いて憲法十七条を作ったとは考えにくいのです。
唐の時代には、批判されて、使われなくなった表現を使うというということは、虚構説の根拠の一部が崩れるのではないか・・・??

奈良県明日香村・・・
飛鳥時代に建立された日本最古の寺院・飛鳥寺があります。
南北300m、東西200mの敷地に立ち並ぶ、壮麗な伽藍・・・
当時は朝鮮半島から最先端の技術を持つ工人を招いて作られた巨大な寺院でした。
飛鳥寺を建てたのは、蘇我馬子。
大臣として50年以上、4代の天皇に仕え、蘇我氏の黄金時代を築いた大豪族です。
馬子は聖徳太子と共に、仏教で国を治めることを目指しました。
その足掛かりとして飛鳥寺を建立したのです。
昭和32年、飛鳥寺の軒丸瓦が発見されました。
中央に5つの点があり、その周りには花伝が九つあるという特徴を持つ・・・これは、百済から来日した瓦職人のデザインです。
これと同じ文様の瓦は、聖徳太子が607年に建立したとされる斑鳩寺でも使われていたことがわかっています。
この二つの瓦は、同じ木型を使ったもので、文様が一致しています。
この文様が一致しているお云うことは、飛鳥寺と斑鳩寺が同じ職人たちの手によって作られていることを意味しています。
火災で一度消失し、今の法隆寺となった斑鳩寺・・・
建立された当時も、飛鳥寺に匹敵する寺院であったと推測できます。
斑鳩寺を造営した聖徳太子の非常に強い権力が表れています。
記録は、権力者の意向で改ざんされる余地がありますが、瓦は単なる建築材なので、権力者が改ざんする余地がないのです。
その時代の真実を証明する資料でした。

飛鳥時代、聖徳太子が政治の表舞台に立ったのは、二十歳を迎えようとしている頃でした。
592年、聖徳太子の叔母である推古天皇が即位。
その翌年、聖徳太子は推古天皇のもとで実務を行う皇太子となっています。
太子は、蘇我馬子と共に大和朝廷の中核を担い、新たな国づくりに着手することとなりました。

594年仏教興隆の詔・・・三宝(仏・法・僧)の功徳を広めようとしました。
飛鳥寺に倣い、大阪の難波に、自ら寺を・・・四天王寺を建立します。
聖徳太子の出発点は、馬子と協調して当時倭国と呼ばれた日本を仏教の力で治めようという新しい政治でした。
しかし、ちょうどその頃大陸では動乱の時代が始まろうとしていました。
581年、隋という王朝が誕生・・・
589年には南朝の陳を制圧し、中国に300年ぶりの統一王朝を樹立します。
隋の初代皇帝となったのは文帝でした。
文帝は律令を整備するなど統一王朝に相応しい中央集権化を推し進めていきます。
現在の中国の西安に大興城を築き、東西10キロ、南北9キロに及ぶ巨大な登城は、城内に54に区画された街並みが整然と広がり、かつてない威容を誇っていました。

文帝は、都の中に、国立寺院・大興善寺を築き、ここを仏教興隆の中心とし、多くの僧侶を集めました。
さらに、国内100カ所以上に釈迦の遺骨を納めたといわれる舎利塔を建立。
仏教の精神を隋全土に広めようとしたのです。
巨大帝国隋の存在に脅威を抱いた百済、新羅などの周辺諸国は、使節を送って外交関係を築こうとしました。
倭国は、中国と100年近く交流が途絶えていたので、この様子を静観していました。
こうした中、598年、高句麗が動き出します。
隋と高句麗は、国境線を巡って衝突!!
文帝は、陸海30万の軍勢で高句麗を反撃を開始。
この出来事が、倭国に大きな影響を与えました。
隋と高句麗の戦いのような「外圧」を感じる事件は、5世紀、6世紀にはなかったことでした。
外圧・・・それに押されるように、ついに600年、およそ100年ぶりとなる使者を送りました。
第1回遣隋使派遣!!
こうして巨大王朝隋との外交が始まることとなりました。

隋書によれば・・・
大興城に赴いた大使は、皇帝・文帝に謁見し、倭国の風習をこのように述べたといいます。

”天を以て兄と為し 日を以て弟と為す
 天未だ明けざる時 出でて政を聴き 跏趺して坐す”

倭国では、政を行うのは夜・・・そして日が上がれば政をせず休むというものでした。

”此れ太だ義理無し 是に於いて訓へて之を改め令む”

大変道理に合わないやりかただ
 こんなやり方は改めるべきだ

どの程度文明化されているのか?で、中国は諸国をランク分けしていました。
倭国は隋にかなり低いランクにされ・・・屈辱的、大きな間違いをしてしまったのです。

屈辱的な結果に終わった遣隋使外交・・・しかし、これが倭国の改革の原動力となっていくのです。

中国には「華夷秩序」という考え方があります。
中国を世界の中心=「中華」とし、他国を野蛮国=「夷狄」とする考え方です。
7世紀初めの時点で、隋は世界最強の国家でした。
そんな国と「何らかの関係を結ばなければ・・・」と、倭国も感じていました。

その後の倭国は・・・??
奈良時代の小墾田宮と考えられる遺跡で見つかった墨書土器には、墨で小墾(治)田宮と書かれています。
小墾田宮とは、推古天皇の603年、聖徳太子と蘇我馬子の政の拠点でした。
奈良時代には離宮として使われました。
小墾田宮の復元図によると、天皇の住居だけでなく、朝庭という庭が設けられていました。
これは、外国からの使節を迎える場として利用されました。

当時中国でも多く採用された構造で、それを意識して造られたと考えられます。
それまでの宮殿は、天皇の住まいとしての要素だけでした。
政治・儀式の場を兼ね備えた場所に変わって行ったのです。
都市計画のスタートラインに立った瞬間でした。
これを契機に聖徳太子は新しい政策を打ち出していきます。
603年12月 冠位十二階を制定
役人の服や冠を色分けし、十二の位階で区別したものです。
家柄重視から能力重視の身分制度へと変化したのです。
冠位十二階は、外交政策にも深くかかわっていました。
外交の場は一番の見せ場です。
どう中国に認知されているのか・・・??最重要事項でした。
中国の道徳律を理解しているという表明を削なければならなかったのです。
それが冠位十二階なのです。

色だけではなく、服装に着目すると・・・
この時取り入れられたのは、スカート型です。
これは、昔の中国の役人が朝廷に出仕する時の正装でした。
朝鮮半島ではズボン式が主流でした。
外構の場で倭国はスカートを着用することで、中国の文化を理解しているとアピールできたのです。
完璧な形で中国に対しなければいけない・・・朝鮮半島にも完璧な形で優越する立場でなければならない・・・!!
冠位十二階は、その目的が非常に大きかったのです。

605年斑鳩宮に移住
607年斑鳩寺を建立
斑鳩宮は、飛鳥の中心部から20キロ離れており、大和川流域付近で陸路だけでなく、船でも行きかうことができました。
どうして続けて宮を建てたのでしょうか?
交通の要衝に、二つの都をおき、使節に対する供応・滞留を目的とした・・・中国における洛陽や長安を意識したのではないか・・・??
聖徳太子は、二つの都を大河で結んだ中国に倣って土地開発をしたのでは・・・??と思われるのです。
更に太子は、二つの宮を結ぶ道を整備しました。
それは、太子道として現在も残されています。
この太子道にも聖徳太子のち密な計算が合ったと思われます。
太子道には正方位に対し22度西に傾くという特徴があります。
22度の傾斜とは、小墾田宮と斑鳩宮を最短距離の直線で結んだ角度でした。
他にも、22度に傾いた遺構がたくさんあります。
このことから、斑鳩宮を中心に、整然とした土地整備が行われていたのではないかと考えられます。
太子道によって最短距離で結ばれた二つの宮・・・
斑鳩宮は、難波まで大和川や陸路でつながり、港と飛鳥の中継地点にありました。
聖徳太子の土地開発に狙いは・・・外国からの使節、物資、情報をいち早く都へ届けるという外交政策だったのです。
1回目の遣隋使の時からこの計画はスタートし、中国の先進的なものに倣い、二つの都城を結ぶ道を作っているのです。
中国を意識した改革を、次々と推し進めた聖徳太子・・・
いよいよ満を持して2度目の遣隋使派遣に臨むこととなります。

第1回遣隋使の失敗から改革を進めた聖徳太子は、607年、2度目の遣唐使派遣に踏み切ります。
隋へ向かったのは、小野妹子を筆頭にし、僧侶数十人を伴った使節団でした。
妹子らは、文帝の跡を継いだ隋・第2代皇帝・煬帝と対面することになります。

隋書にその時の様子が詳しく書かれています。
煬帝に謁見した妹子らは、一つの書簡を手渡しました。
それはあの有名な一節から始まります。

”日亥出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す”

その文言を見た煬帝は・・・

「蛮夷の書 無礼なる有らば 復た以て聞する勿れ」

煬帝は、役人に対し、野蛮国が書いた書いたこんな無礼な書簡を二度と私に奏上するなといったのです。

煬帝は中国皇帝を表す”天子”を小国の倭国が用いたことに不快感を示したとされます。
この書簡から第2回遣隋使が倭国が隋に対等の関係を迫る対等外交・・・挑戦的な外交として知られてきました。

しかし、隋書をよく読むと、違う読み方が見えてきます。
「日出づる処の天子」の部分だけが注目されてきましたが、「隋書」には、使者の発言も記録されています。
使者が煬帝に向けた発言には・・・

「海西の菩薩天子 重ねて仏法を興すと聞く」・・・これは、妹子らが書簡を渡すときに煬帝に語った言葉です。
菩薩とは・・・釈迦の智慧を広め、悟りに向かい努力する聖人のことです。
妹子らは、煬帝を菩薩天子と称賛したのです。

「中国皇帝 煬帝は、菩薩のように素晴らしい天子であり、重ねて仏教を復興させている素晴らしい君主だ。
 そのために倭国は、その君主を拝むために使者を派遣して参りました。」と。

それから対等に・・・というのはかなり無理があるように感じられます。

使者が語った「重ねて仏法を興す」という言葉は、煬帝の父・文帝の時代に編纂された中国の書物に数多く書かれています。
倭国の使者の発言には、都に大寺院を建立し、隋全土に舎利塔を作り、仏教を国の礎にしようとした皇帝への畏敬の念が伺えます。

書簡の文言では不快にさせたものの、隋の国柄をきちんと学んできたことを倭国は最大限にアピールしました。
それが功を奏したのか・・・倭国に関心を示しました。
翌608年、隋が裴世清を倭国へ送ります。
倭国は大国隋からの使節を歓迎しました。
裴世清たちは、倭国の玄関口・難波の港に入り、太鼓、笛の演奏でもてなされました。
その後、斑鳩宮を通り、小墾田宮まで至ったと考えられます。
そして、煬帝からの国書が手渡されました。

「遠くの国から朝貢しに来たその真心をうれしく思い 裴世清を送る
 そして贈り物を授ける」

煬帝は遠路はるばるやってきた遣隋使の忠誠心を褒め称えました。
倭国が大国・隋から認められた時でした。
屈辱の第1回遣隋使から8年・・・聖徳太子の努力はようやくここに結んだのです。
その後も遣隋使は続き、618年、隋から唐に王朝が変わった後も、遣唐使へと引き継がれました。
飛鳥時代から奈良時代へ・・・
古代日本の礎となった中国との交流・・・遣隋使は、その扉を開いたのです。

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日本の紙幣に7度も肖像画を使われた人物・・・偉人中の偉人聖徳太子です。
遣隋使を送るなど、日本の仏教の礎を築いた重要人物として知られていますが・・・近年その存在が疑問視されています。
虚構か?実在か??

6世紀末から7世紀初頭にかけての飛鳥時代、奈良地方にあった大和政権が日本を動かしていました。
その政権の中心人物として数々の業績を残した偉人が聖徳太子ですが・・・
その聖徳太子にはたくさんの疑惑があります。

①架空の人物ではないか??
聖徳太子の記述が初めて登場するのは100年後の720年の日本書紀と言われています。
そこには、憲法十七条や、冠位十二階を制定したと書かれています。
が、その内容は、当時の政権の中枢にいた藤原不比等、長屋王、道慈たちが創作したもので、聖徳太子も彼らが作った架空の人物だったという虚構説です。

聖徳太子の名ではよばれていなかったものの、モデルになった人物はいました。
そのモデルとは、日本初の推古天皇を補佐した人物だと言われています。
その補佐役を務めていたのは、当時の状況から・・・推古天皇の甥にあたる用明天皇の第二皇子ではないか?と言われています。
しかし、第二皇子の正式名は解っていません。
どうして聖徳太子と呼ばれるようになったのでしょうか?

日本書紀にも聖徳太子という記述はなく、厩戸皇子・東宮正徳・上宮太子・皇太子・上宮厩戸豊聡耳太子などと呼ばれています。
聖徳太子という名が登場するのは、日本書紀から30年後の漢詩集「懐風藻」(751)が最初です。
聖徳とは、日本書紀にある玄なる聖(ひじり)の徳(いきほい)という言葉から来たと考えられ、王位につかなかったが王と同じ徳を持つことを示しています。
このことと、皇太子であることが結びついてできた名が一番ふさわしい・・・と、聖徳太子となったのです。

②有名な肖像画は、聖徳太子ではなく全く別の人物では??
かつての1万円札など紙幣の肖像画の元となったのは、聖徳太子を描いた最古の絵として法隆寺に伝えられてきた人物像ですが・・・作者、制作年代は不明で、日本風ではないその服装から、唐人ではないか?百済の阿佐太子ではないか?と言われてきました。
ところが1980年代後半、奈良市の遺跡から木棺が発見!!
奈良時代、8世紀ごろのものとされるこの木棺には、役人の姿が描かれていました。
この姿と法隆寺の人物画と比較したところ、極めて似ていることから・・・この絵は8世紀ごろに書かれたもので、モデルとなったのは、日本人であることが分かってきました。
つまり、この肖像画は、聖徳太子の飛鳥時代に書かれたものではなく、8世紀に侵攻のための描かれた「聖徳太子」を推測して書かれたものとされています。

③超人伝説は本当なのか?
聖徳太子と言えば・・・日本書紀に書かれているエピソードの中に・・・
馬屋の戸の前で生まれる
生後すぐに言葉をしゃべった
一度に10人の訴えを聞き分けた
未来を予言した
こうした聖徳太子の超人伝説はどうして生まれたのでしょうか?
聖徳太子の名前に・・・「上宮厩戸豊聡耳」という名があります。
この意味を考え・・・聖徳太子の様々なことが考えられたようです。
すべては名前からなのです。
聖徳太子の超人伝説は、皇太子の理想像として作られたのではないか?と思われます。
皇太子はどうあるべきか??日本書紀に書かれているので、聖武天皇にとってのお手本、マニュアルの存在だったようです。

日本が倭国と呼ばれていた6世紀末・・・
奈良地方では、有力豪族たちによる連合政権が作られ、その盟主として後の天皇としての大王が存在していました。
当時はまだ明文化された法律も、本格的な官僚制度もなく、政治は皇族、豪族たちによる話し合いで行われていました。
そんな中、聖徳太子は推古天皇の補佐役となり、当時の有力豪族・蘇我馬子と協力し合いながら、政務に励んでいたと言われています。
しかし、その頃の日本は外交において難題を抱えていました。
当時の朝鮮半島には、4つの国と地域(高句麗・百済・新羅・任那)があり、高句麗、百済、新羅の争いが続いていました。
その結果、鉄の産地として日本と縁の深かった任那が新羅によって併合されてしまいました。
このままでは、鉄の供給が絶えてしまう・・・そこで、倭国は3度にわたって朝鮮半島に遠征をしますが、芳しくなく・・・成果をあげることができませんでした。
そこで、外交戦略を変えます。
統一したばかりの大国・隋に使者を送ることを決断します。
そこには、聖徳太子の狙いがありました。
新羅に対して、倭国自らが圧力をかけるよりも、新羅が従属している隋に直接働きかけるのが一番ではないか?
当時の朝鮮半島の国々は、隋の属国としてありました。
支配者の隋に働きかけて、新羅を任那から撤退させようとしたのです。
600年、遣隋使を派遣!!
しかし、この目論見は大失敗!!

「隋書」倭国伝によれば・・・
隋の役人が日本の国情を尋ねたところ、日本の使者はこう答えました。
「倭王は、天をもって兄となし、日をもって弟となす。
 夜明け前に政務を執り、日が昇ると政務を停止し、後は弟に任せる。」
国家として体を為さない意味不明な説明で、隋の皇帝は「道理ではない」と、あきれてしまったのです。

帰国した使者から報告を受けた聖徳太子は、反省します。
「我が国は、国の制度も整っていない後進国だ。
 これではまともに、隋と外交交渉することもできない。」と。
この最初の遣隋使の失敗がもたらした危機感が、聖徳太子を大胆な国づくりに駆り立てたのでした。

「なぜ我が国は、隋に認めてもらえなかったのか??」

聖徳太子は、その原因が日本の政治制度が整っていなかったことと痛感・・・。
国内体制の整備に取り掛かります。
大和政権内に、外交使節を招く格式高い場所がなかったことから、603年小墾田宮に遷宮。
宮の中心に、政務や祭礼が行われる朝庭を配する建物は、中国の建築物に倣ったもので、外国からの使節を招くにふさわしい場所となりました。
これが、後の御所の原型となります。
次に聖徳太子が行ったのが、豪族たちを序列化するための官位制度の制定です。
当時の氏姓制度は・・・大君から与えられた姓によってきめられていました。
君・臣・連・直・・・姓によって細かくランク分けされた世襲制でした。
そのため、どんなに優秀な人物であっても、姓が低ければ、上の炊く職に就くことができませんでした。
そんな日本の序列制度を、隋はこう蔑んでいました。
「頭には冠はなく、ただ髪を両耳の上に垂らしている」
隋では、役職に応じた冠位が定められ、冠をつけた正装で職務を行っていました。
もちろん、出世は実力次第・・・聖徳太子は、日本もこれを見習うべきだと新しく12段階の官位を定め、色分けした冠を作り、さらにそれらの官位は姓に関係なく実力によって与えられるように改革。
冠位十二階の制定には、日本を隋に認めさせたいという聖徳太子の思いが込められていました。

604年・・・憲法十七条の制定。
そこには、聖徳太子が理想とした国づくりの理念がありました。
当時生まれたばかりの官人(官吏・役人)達への批判が記されていました。
さらに、儒教の教え・・・社会秩序を作り出す礼の重要性を説きました。
常に、礼の心を持ちなさい。
民を治める基本は必ず礼にあります。
十七条の憲法には、儒教・法家など、外来思想を取り入れました。
なかでも聖徳太子が国の中心として位置付けたのは仏教でした。
仏教には、実学的な要素が高く、農業や建築を発展させるうえで、欠かすことができなかったのです。
こうして、国内の制度を整えた聖徳太子は、再び隋との交渉に臨むのです。

実際の聖徳太子は、どんな人物だったのでしょうか?
将来を嘱望されていた聖徳太子でしたが、その家庭環境は複雑でした。
父・用明天皇と母・穴穂部間人皇女は欽明天皇の子という異母兄弟・・・
さらに、用明天皇が587年に崩御すると、母親が用明天皇の第一皇子・多米王と再婚。
母親が兄の妻となってしまったのです。
この母親の近親結婚に悩んでいたと言われていますが・・・??
この時代は当たり前で・・・近親結婚することで、天皇家の財産の拡散を防ぐと考えていました。

用明天皇が亡くなると、後継者争いを巡って蘇我馬子と物部守屋が対立!!
馬子は物部氏が擁立していら聖徳太子のおじ・穴穂部皇子を殺害!!
さらに、物部守屋を追討、滅ぼしてしまいました。
実権を握った馬子が、猛威につかせたのが、聖徳太子のもうひとりのおじ・崇峻天皇でした。
しかし、この崇峻天皇も、馬子によって暗殺!!
次々と起きる血生臭い豪族の死に、多感な青年期の聖徳太子は悩んでいた??

聖徳太子は道後温泉で湯治をしています。
結婚もしており、妃は4人(菟道貝蛸皇女・橘大郎女・刀自古郎女・菩岐々美郎女)、子供は14人いました。

日本書紀には、601年聖徳太子が28歳の時の動向が書かれています。
それまで推古天皇の右腕として辣腕を振るっていた聖徳太子が、飛鳥から20キロ離れた斑鳩に宮殿を建設し、拠点を移すというのです。
聖徳太子が斑鳩に移住して以降、日本書紀には聖徳太子に関する記述が少なくなります。
そのことから、蘇我馬子との権力争いに敗れた聖徳太子が、飛鳥から斑鳩に追いやられてしまったのか??
ではなく、新しく与えられた大きな課題があったからです。
聖徳太子の新しい職務とは、斑鳩の地理的条件からわかります。
斑鳩は、当時港のあった難波津と飛鳥の中間に当たり、近くには大和から河内の最短ルート・龍田道があり、大和川が流れる交通の要所でした。
飛鳥よりも難波津に近い斑鳩に拠点を置けば、一早く外国の情報を入手することができます。
斑鳩への移住は、聖徳太子にとって外交に専念するためだったのです。
最初の遣隋使から7年後の607年、聖徳太子は小野妹子を隋に派遣します。
その頃の隋の皇帝は、1回目の遣隋使を迎えた文帝から二代皇帝煬帝に代わっていました。
煬帝は100万人を動員して運河を建設するなど、権力をほしいままにしていた暴君でした。
その煬帝に宛てて、小野妹子に国書を託します。
「隋書」倭国伝によると・・・
仏教復興に勤めている天子様にご挨拶するとともに、我国の僧侶たちに仏法を学ばせたい。
煬帝は、この国書の一文に目を留めます。
”日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。 つつがなきや”
煬帝はこの一文を見て、「蛮夷の書は礼儀をわきまえていない」と、あきれ返ったといいます。

当時、隋は高句麗と戦いを始めようとしていました。
高句麗と倭国が連携することは避けたかったので、無礼な日本と手を組んでくれたのです。
隋からの使者は大和に滞在し、当時で来たばかりの飛鳥寺や建造物を見学したと言われています。
後進国ではないことを証明することができたのです。
聖徳太子は、政務に邁進しながら、仏教研究にも情熱を注いでいました。
聖徳太子建立七大寺は・・・四天王寺・法隆寺・法起寺・広隆寺・中宮寺・橘寺・葛木寺(現存せず)。
622年に斑鳩で聖徳太子は亡くなったとされています。
2月21日に妃の膳部菩岐々美郎女が死去、翌日の22日に聖徳太子が亡くなったと言われています。
流行り病の可能性もあるとされています。
亡骸は磯長陵(しながのみささぎ)に埋葬されたといわれています。
それは、叡福寺北古墳と推定され、そこには、母・妃・聖徳太子の3つの棺が眠っているといわれています。

世界最古の木造建築とされる法隆寺。
現在は東院伽藍と西院伽藍からなっていますが、法隆寺が再建されている・・・??
607年聖徳太子が病に伏せっていた父・用明天皇のために推古天皇と創建したとされ・・・長い間、当時の姿のままと思われてきました。
しかし、日本書紀の670年の記述では、法隆寺は落雷によって全焼したといわれています。
1939年、法隆寺の南側から全く違う遺構の伽藍が発見されました。
この若草伽藍が、聖徳太子の作った法隆寺で、再建されたのが西院伽藍だと考えられるようになりました。
一度焼けてしまった法隆寺の再建理由は・・・??
娘の片岡女王や周辺豪族が聖徳太子を祀るためだったのではと考えられています。

聖徳太子は、その死後、色々な時代で人間を超える存在としてあがめられ、時の政権に利用されることとなります。
それは、聖徳太子が、日本の礎を築き、周辺諸国と渡り合える国にした偉大な功績があるからなのです。


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2017年3月、衝撃的な発表が奈良県明日香村でありました。
飛鳥地方最大級の古墳の存在が明らかになりました。

2014年からの発掘調査で・・・
新しく古墳の石室への通路の一部が見つかりました。
これらから、古墳の全体像が現れたのです。
小山田古墳と名付けられたこの古墳は、一遍が70mの方墳でした。
7世紀に築造され、完成後すぐに破壊されました。

これだけの巨大古墳を作れたのは・・・舒明天皇??
しかし、その一方で、この古墳が蘇我氏の拠点である甘樫丘の南の端にあることから、蘇我蝦夷の墓??
蘇我氏は、稲目・馬子・蝦夷・入鹿と、100年以上にわたって君臨していました。
仏教や、新しい制度を次々と導入し、倭国を先進国へと生まれ変わらせた最大の功労者でした。
ところが・・・645年6月、古代史史上最大のクーデターが発生!!
乙巳の変!!です。

日本書紀によると、この時中大兄は皇極天皇から入鹿殺害の理由を聞かれ・・・

「入鹿は大王の位を脅かした。
 故に征伐した。」by中大兄

しかし、そこには、緊迫した大陸情勢があったようです。
そして一族の場内部抗争も大きく関係していました。
彼らが殺された本当の理由とは・・・??
蘇我氏失脚の謎は・・・??

奈良盆地の南・・・飛鳥・・・
ここは、100年にわたる蘇我氏の権力の舞台です。
無数の遺跡に彩られた地です。
中心には大和政権の宮殿跡・飛鳥宮跡。
7世紀前半、蘇我蝦夷・入鹿親子は権力の絶頂にあり、まさにここで入鹿が殺されました。
そして、南東には蘇我氏の強大な権力を誇示する石舞台古墳が・・・!!
高さ4.7m、高さ19.1m、の巨大な石室は、もとは土に覆われた一辺50m四方の方墳でした。
蘇我馬子の墓と考えられています。
どうして蘇我氏は強大な権力を得ることができたのでしょうか。

それまで無名だった蘇我氏を、一躍大和政権の中枢を担う大豪族に育て上げたのは、蘇我稲目でした。
稲目の墓とされる都塚古墳・・・
2014年の発掘調査で・・・その姿は6段以上のピラミッド型でした。
この古墳の形状から、稲目と朝鮮半島の強いつながりが感じられます。
将軍塚は、朝鮮半島北部の王朝・高句麗の王墓、都塚古墳と同じ石積みのピラミッド型古墳です。
稲目は、新しい精神文化を取り入れ、多くの渡来人のリーダーとなっていたようです。
渡来人たちを掌握し、彼らの最新の知識・技術を使って、大和政権に奉仕していました。
やがて・・・大臣という最高位まで上り詰めます。
さらに稲目は娘たちを大王の妃とし、娘たちの子が次々と大王となっていくのです。

稲目の死後、蘇我氏の最盛期を支えたのが、二代・馬子です。
馬子は、父から譲り受けた地位をさらに確固たるものとしていきます。
当時の大和政権は、大臣主催で有力氏族の代表者たちによる合議が行われていました。
これに対し、馬子は弟たちを蘇我氏から独立させ、新しい氏族とし、蘇我一族で多数派を形成できるようにします。
代表者会議を押さえた馬子は、推古天皇の元、厩戸王(後の聖徳太子)と協力し、大和政権の改革に努めるのでした。
その業績を代表するのが、日本初の本格的寺院・飛鳥寺の建立です。
当時、仏教は東アジア諸国で信仰され、文明のグローバル・スタンダードとなっていました。
馬子は、この仏教を積極的に導入。
さらに従来の世襲に代わって、実力主義を取り入れた官位制度を導入した冠位十二階などの数々の政策を推進し、日本を先進的な国に変わらせようとしました。

626年馬子が死去すると、後を継いだのは息子の蝦夷でした。
しかし、馬子の時代と打って変わって次々と内紛が起きます。
628年、馬子と共に、数々の改革を行ってきた推古天皇が崩御。
この後継者選びが難航します。
有力候補は・・・聖徳太子の子・山背大兄王と、田村皇子です。
蝦夷は、田村皇子を推していました。
しかし、蝦夷の方針に、蘇我一族から反対する者が出てきました。
蝦夷の叔父・境部摩理勢です。
馬子の代に、蘇我氏から独立し、境部氏を名乗っていました。
摩理勢は蝦夷に対抗し、山背大兄王を支持します。
次の天皇を擁した者が、次の大臣になれる・・・
そこには、蘇我氏内部の族長権争いが含まれていたのです。
馬子の代には結束して多数派を築いていた本家と分家・・・
しかし、蝦夷の代から一族間の不和の原因となっていきました。
蘇我一族の分裂によって、大王を選ぶ代表者会議は紛糾・・・
蘇我氏は強硬手段に・・・兵をもって摩理勢を攻め滅ぼしたのです。
629年蝦夷の推す田村皇子が即位し、舒明天皇に・・・。
ひとまず大和政権の安泰は保たれました。

7世紀・・・中国大陸では、世界史のターニングポイントとなる出来事が発生していました。
618年、世界帝国・唐王朝の成立・・・唐は、強大な国力を背景に、領土の拡大を推し進めます。
唐の二代皇帝・太宗は東に目を向け、朝鮮半島の三国への圧力を強めていました。
唐建国の直前、隋王朝によって大陸を南北に貫く大運河が建設されていました。
唐はそのインフラを最大限に活用し、国力、軍事力を増進していました。
倭国としても、強力な王権を作りあげて、東アジアの情勢に退所する国家づくりが課題となっていました。
朝鮮半島の状況は対岸の火事ではなく、どう対処するのか?大和政権の最重要課題となっていました。

642年皇極天皇即位・・・
643年、病気がちだった蝦夷は、「大臣」を入鹿に譲ります。
入鹿は若い頃、留学僧の元で学び、唐への造詣が深いといわれ、唐の脅威を誰よりも感じていました。
唐との戦いに備えるためには、国内の体制を変える必要がある・・・
入鹿の耳に飛び込んできたのは、一早く政治改革を断行した高句麗情報でした。
唐の圧力を受けていた高句麗では、有力貴族の淵蓋蘇文がクーデターを起こし、王を殺害、新しい王を擁立し、独裁体制を築きました。
有力な貴族が権力を握り、唐との全面対決に臨もうとしたのです。

入鹿は、中国の脅威にいかに立ち向かうのか・・・??
そして国内の問題とは・・・??
部民正があって、それぞれの部族はそれぞれの主人に奉仕する縦割りな仕組みでした。
朝廷が必要な物、人間、兵力は、主人の豪族、王族の許可を得たうえで初めて朝廷に集まってくるというシステムでした。
戦争が可能なシステムを作るということは、中央集権的な仕組みを作るという事でした。
縦割り的な部民正を一元化する仕組みを入鹿は考えていたのです。

国内外の危機に直面した入鹿はどうする・・・??

積極策・・・改革を急ぎ断行する。
邪魔者を除き、わが手に権力を集中させなければ!!
高句麗では、権力集中に成功した。
この時、自分の脅威となるのは、王位継承候補となる山背大兄王・・・
他の豪族に担ぎ出され、いつ対立するかもわからない・・・!!
山背大兄王は、父・厩戸王から交通の要所・斑鳩と莫大な財を継承していました。
入鹿が大王を傀儡とし、権力を集中するためには、排除しなければならない人物でした。

慎重派・・・多数派を形成
権力の集中化を進めれば、豪族たちからの反発も大きいかも・・・。
自分の考え方に賛同する者を増やし、多数派を占めるべきではないか??

大和政権内で、蝦夷、入鹿は孤立しつつありました。
蘇我氏の強大な権力に反発する豪族たちが増えていたのです。
その原因となったのが、40年前に馬子が厩戸王と作り上げた冠位十二階でした。
大王に仕えるものを12段階の等級に分け、色違いの冠で分けるという人事制度です。
官位は大和政権への貢献度に対して一代限りで与えられました。
世襲から離れ、実力主義という画期的なものでした。
しかし、この制度の導入によって、蘇我氏への反発が生れたのです。

遣隋使で2度隋に渡った小野妹子は最後は徳冠という最高の地位につきました。
そうすると、豪族たちの政治的立場が相対的に下がっていったのです。
一方で、蘇我氏だけの独り勝ち・・・その不平不満が募っていっていたのです。


反発を恐れず改革か?多数派を形成するべきか・・・??

643年、入鹿の決断を促す緊急事態が新羅で起こっていました。
当時、高句麗と百済の侵攻に悩んでいた新羅は、唐に救援を求めました。
唐は新羅に対し・・・
「汝の国 婦人をもって 主となし 隣国に軽侮せらる」と言いました。
唐は救援の見返りに、新羅の女王を退位させ、新しく唐の王族を即位させることを要求しました。
国の根幹を揺るがす事態に、新羅は内乱状態に・・・!!

新羅の状況は、女帝を頂く当時の日本にとって無視できない存在でした。
皇極天皇は女帝・・・。
入鹿は権力集中を目指し、早急に決断します。
643年11月、山背大兄王を攻め滅ぼします。
他の豪族の反発を顧みない性急な行動に蝦夷は・・・
「ああ・・・入鹿、なんて愚かなことをした。 お前の命も危ないぞ。。。」と言ったとか。
2年後、蝦夷の恐れは現実のものに・・・

645年6月12日・・・乙巳の変。
ついにクーデターが・・・!!
宮中での儀式の際に、中大兄皇子らによって入鹿は殺されたのです。
中大兄たちは、すぐに飛鳥寺に軍を集結し、甘樫丘の邸宅に籠る蝦夷と対峙!!
飛鳥寺の中大兄の元には、王族や豪族が次々と集まったといいます。
反蘇我氏で多数派が形成されていたのです。
13日・・・命運が尽きたと思った蝦夷は、自宅に火をつけ自害・・・!!

ここに蝦夷、入鹿は滅びたのです。
蝦夷が自害した甘樫丘の南の端には小山田古墳。
蝦夷の墓の可能性がある古墳です。
日本書紀には蝦夷と入鹿の墓について・・・
二人は生前、全国の人を使って、大陵、小陵という自分たちの墓を作らせていました。
一遍70mの巨大な小山田古墳、これこそ、日本書紀にある大陵ではないか??と言われています。
これは、一遍50mの馬子の墓石舞台古墳や一遍60mの推古天皇陵をしのぐ規模です。
この大王をも越える巨大な墓を築いたことが、蘇我氏滅亡の引き金になったのではないか??
同時期の大王墓よりも大きな墓を・・・

古代史上最大のクーデターと言われる乙巳の変・・・
その首謀者の一人は、長らく蘇我氏の後塵を拝していた中臣鎌足でした。
鎌足は強大な蘇我氏を打倒する為に、周到な計画を練ります。
中大兄皇子ら有力な王族を立てることに成功!!
さらに・・・蘇我一族を分断!!
目を付けたのは、入鹿から権力奪還を狙う倉山田石川麻呂。
彼を暗殺計画に引き込みます。
その結果、石川麻呂は、入鹿、蝦夷亡き後の新政権で乙巳の変への功績を認められ上り詰めます。
しかし、その石川麻呂も僅か4年で失脚!!
残された蘇我一族も、歴史の表舞台から消えていきます。
しかし、後の時代に入ってもその権力を握るための手法は、ある一族に受け継がれました。
鎌足に始まる藤原氏です。
8世紀、藤原氏が次々と一族の娘を天皇に嫁がせ、外戚として権力を確固たるものとさせていきます。

蘇我氏が権力を掌握した要因の一つが群臣合議を掌握すること、もう一つが天皇家・大王家と外戚関係になることでした。
100年にわたりキングメーカーであり続けた蘇我氏・・・彼らが僅か2日で権力を失った理由とは・・・??
そして、その後の日本の権力構造に与えたものとは・・・??

権力への反感が渦巻いて、軍や警察などが参加や無視・放置、玉や大義名分などの正当性が反乱軍にあること・・・が、クーデターを成功させる要因となります。
入鹿、蝦夷は、反感があるのに放置し、抑え込むだけの力もなかったこと・・・
同族を配置し、権力を高めようと思っていたものの、世代交代で敵となってしまった・・・。

舒明天皇以降、天変地異がたくさんありました。
皇極が即位してからさらに増えたと書かれています。
そこには蘇我氏・・・蝦夷、入鹿の横暴ぶりを批判する意図がありました。
蘇我氏は・・・族長は、明日かを基盤とした入鹿、蝦夷から河内を基盤とした石川麻呂に・・・
蘇我氏の同族の多くは生き残り、高い地位に・・・。

蘇我氏の役割は・・・牧歌的な豪族の寄り合いを、近代国家に作り替えようとしたこと。
蘇我氏は先駆的・・・時代に先駆けて改革を目指したがゆえに、周りから浮き上がって潰されてしまった悲劇なのです。
国づくりをどうするかを考えて、突っ走って滅んでしまったのです。

日本の外交安全保障は、朝鮮半島情勢とその時々の大国が非常に大きなファクターであって、それは今も変わりありません。
性急な中央集権的国家を作り上げようとすると、失敗する可能性が高い・・・
日本史を貫く法則かもしれません。



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